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2010年7月22日木曜日

法人税と消費税の関連性

 もう結構前の放送ですが、「TVタックル」においてキョウデンの橋本会長が面白い事を話しておりました。一体どんな事を言ってたのかというと、赤字が続く日本の国家予算を回復させるために政府は消費税を上げるのではなく、法人税を上げるべきだと主張したのです。

 正直な話、企業経営者の方から「法人税を上げるべきだ」という意見が聞かれるとはそれまで私は夢にも思いませんでした。一体どういう理由でそんな事を言い出すのかと続けて聞いていると、まず橋本会長は現在の消費税が昔と違って外税ではなく内税になっていることが企業にとって大きな負担になっていると言いました。

 内税の現制度ですと、書籍などといったものを除いて基本的に商品の値札には消費税を含んだ金額を書かなければなりません。そのため仮に消費税が現行の5%から10%に上げられた場合、販売者側はこれまで通りの利益を確保するためには上がった消費税分だけ商品の値札価格をそれまでより上乗せしなければなりませんが商品を買っている消費者側からするとこれではただ単に物が値上がりしたようにしか見えず、橋本会長によると恐らく消費者の消費する意識が薄れて物が余計に売れなくなって販売者側もそれまで以前の利益を確保できなくなることが予想されるそうです。
 そうなると販売者側は消費税が外税から内税に切り替わった2004年時のように値札の価格はそのまま、消費税の分だけ利益を減らすという方法を取らざるを得なくなるそうです。

 この橋本会長の意見ですが、私も聞いてて大いにありうると感じました。実際に内税に切り替わった2004年時に私はほぼ毎日のようにスーパーに行って買い物していましたが、実際に物を買っていて消費税分だけ値札の値段が上がったと感じる事は殆んどありませんでした。

 その上で橋本会長は、国は税収を増やしたいのであれば敢えて消費税をもっと減税し、その分法人税を上げるべきだと主張しました。消費税を下げる事で消費者は商品の値段が安くなったと感じてより消費意識が上がり、物を売る企業の側も余計な消費税の負担も受けずに経営がやりやすくなります。その上で企業が利益を出せるようになれば法人税が少し増えた所で、元々赤字の企業に法人税は課されないのだからさほど経営に影響があるとは思えず、むしろ利益を出せる企業が増える事で社会全体が明るくなるのではと意見をまとめていました。

 私は元々消費税増税論者ではありますが、こうして実際に企業経営者側からの視点での意見を聞かされてみると改めて考えさせられました。橋本会長の言っている事は非常に筋が通っている上、どっかの死にぞこないの会長と違って企業経営者自身が法人税を上げるべきだという意見を出すその姿勢には正直頭が下がりました。

 私が消費税を推進する理由は第一に徴税コスト(税金を徴収するのにかかる費用。マルサの雇用費も含む)が安い事、第二に脱税抜け道が少ない事、第三に比較的平等に徴税できるからで、仮に今後の日本で消費税率を上げるのであればその代わりに徴税コストが非常にかかる所得税を大きく見直し、それこそ所得の低い世帯を救済する為に年収400万円以下にはこの際所得税は一切かけないという案を持っていたのですが、聞いててこの橋本会長の案の方が案外いいんじゃないかと思いなおすようになってきました。

 何気に「法人税」という言葉はこの陽月秘話とは縁のある言葉ですが、私は基本的に税金というのは単体で考えるのではなく、他の税金、その用途などを合わせた幅広い視野で考えなければいけないものだと思っています。
 そういえば酒税についてまだ書いていなかったので、次回辺りにちょこっとこの辺を書いて見ます。

2010年7月21日水曜日

時間が有限だと意識する事

  夏休み お盆過ぎから 本番に

 これは大分昔に作った私の俳句ですが、言わんとする事は夏休みは終盤に入って宿題に追われるという状況になればなるほど遊んでて楽しくなるという意味です。人間不思議な物で、何かに追われている状況であればあるほどやらなきゃいけない事を放って関係ない行為、それこそゲームとか掃除とかをすると強い快感を覚える物ではないかと常日頃から私は考えています。

 まぁそういった現実放棄の快感は放っといて、それこそ今日から小学生らは夏休みに入ったそうですが、私の子供時代を思うにつけて夏休みが始まったばかりの七月だとどうにも休みという実感がないのですが、終わりが見えてくる八月の後半になるにつけ一日一日がそれまでよりずっと重く、価値があるように感じられた気がします。
 これはなにも夏休みに限る事じゃなく期間の定めた時間一般にも当てはまるように思え、例えば先ほどの夏休みの宿題のような作業一つとっても日程に余裕のある間はどうせ後で出来てしまうからなどと思ってはそれほど切迫感を感じられませんが、日にちが段々と狭まっていくと徐々に切迫感が増して嫌が応にも作業への集中力が増していきます。

 もうここで結論を出してしまいますが、人間というのは基本的に終わりが見えない間は現在自分がいる時間の価値を測ることが出来ないのではないかと私は言いたいわけです。
 先ほどの小学生時代の夏休み然り、学生時代然り、若者でいる間然り、現役世代でいる間然りと、人間には人生において様々な時間の期間が存在しますが、それぞれの期間で満足に時間を使用したかと問われるならば恐らく殆んどの方が無駄な時間の方が多かったと答えると思います。その上でそれら期間の前半と後半でどちらが充実した時間を過ごしたかと問うならば、多分こちらも後半の方が濃密であったと大半の方が答えるかと思います。

 何故このようになるかというと最初に言った通りで、それぞれの期間が終わりに近づかない限りはその期間における時間の価値、言い換えるならその間にしかできない事、やれない事を上手く認識できないからで、そのために人間が時間をフルに有効に使う事は至難の業ではないかと私は思うわけです。

 で、ここで極論を突然出してしまいますが、一体何が人間にとって最後の時間かというならば、それは間違いなく死以外の何物でもありません。
 私が何故この様なことを思いついたのかと言うと、ガン宣告を受けた患者らのインタビュー記事を見ていると、自分の死を意識するようになってから世界観が変わった、一日一日に価値を見出せるようになったという話を多く見かけたからです。

 言われて見て仮に私自身がもし来週、下手すりゃ明日に死ぬとしたら、一体今自分は何を優先して行うべきなのだろうかをその時少し考えてみました。遺書を書くべきか、それとも誰かと話しているほうがいいのか、それともいっそ何もせずに外だけをじっと眺めているべきなのかといろいろ考えてみたのですが、時間が有限だと意識すると何か物の見方が変わった気がしました。

 何も常に死を意識しろとまで言うつもりはありませんが、今あるこの時間は有限であって無限でないと考えるだけでも、人間知らず知らずのうちにもっと充実した時間を送れるんじゃないかと思うわけです。
 ちなみに常に死を意識するという考え方ですが、長岡出身の河合継之介と山本五十六の二人はよく、「常在戦場」という言葉を使っていたそうです。私はここまで極端ではないものの、論語の「朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり」をよく使っています。

2010年7月20日火曜日

大手生保四社、不払い問題対処に政界工作

 今を遡ること五年前、日本の各大手生命保険会社できちんとした契約があるにもかかわらず、本来支払うべき保険金を敢えて受取人に告知しなかったり、間違った情報を教えるなどして払わないという不払い問題が続出しました。

保険金不払い事件(Wikipedia)

 詳しくは上記のWikipediaのページを見てもらえば分かりますが、私はこの事件を知った際に保険会社はなんてクズの集まりなんだ、絶対にこんな所には就職しないぞと北斗七星に誓ったもんです。しかも北京で。
 この保険金不払い事件ですが、先日思わぬ所からまたこの名が持ち上がってきました。

大手4生保、自民・民主に接待攻勢 不払い処分めぐり(朝日新聞)

 上記記事は7/18日付けの朝日新聞朝刊一面に載ったニュースですが、これを朝六時から群馬榛名山へ向けて出発しようとする私と広島に左遷されたままの家の親父が見つけると互いに、これで朝日新聞から生命保険の広告が消えるなと言い合いました。

 記事の内容を簡単に説明すると、五年前の不払い事件が発覚した年、日本生命、第一生命、明治安田生命、住友生命の生命保険大手四社が自民、民主両党の金融関係の委員となっている議員やその秘書らに対して接待攻勢をかけていたという事実が報じられています。しかも第一生命に至っては07年に政治家のパーティ券を1000万円超も購入するなど、不払い問題の処理を巡って政界工作を行っていたと朝日は断じています。

 実際に当時、明るみになった不払いだった生命保険料の支払いのために各生命保険会社の経営は悪化しており、2005年以降に急激に増加したこれら接待費、献金は国政側に寛大な処置を求めるという意図あっての行為と見て間違いないでしょう。
 しかも今回朝日新聞が報じたこの記事を見ていて呆れてくるのは、一連の接待の中でなんと15回もこの大手四社の幹部が顔を合わせる接待を行っており、その接待における費用負担もそれぞれで決めていたようです。これが何を意味するかと言うと、この大手四社は不払い問題が起こるや互いに連絡を取り合って、手を取り合って政界工作を行っていたという事です。

 以前に朝日新聞はキャノンと松下の人件費の偽装請負を報じた事により未だにこの二社から広告を一切出してもらえていませんが、恐らく今回のこの記事でも生命保険会社から広告が引き上げられる事となることが予想され、いわば朝日は大口の収入源を失う覚悟でもって今回の記事を報じたと思います。
 ネット上で朝日新聞はよく赤新聞などと叩かれる対象であり、実際に私も過去にしょうもない記事を何度かこのブログで批判しましたが、今回のこのニュースは文句なしによく書いたと思わせられる記事です。惜しむらくはこうしたよい報道に限ってあまり別メディアに取り上げられず、ざっと見回した所、まだ東京新聞紙しか追随していません。

 こんな小さなブログですが、何かしらこの記事がもっと注目されればと思い、こうして私は取り上げる事にしました。

2010年7月16日金曜日

かつて呼ばれた私の異名

 最近濃い内容の記事を連発していていささか食あたり気味となっているので、今日はなにか緩いネタを書こうと思います。

 前に一度、これまでにあった野球選手のニックネームをまとめた記事を書いた事がありますが、ニックネームことあだ名というものはないよりもあった方が世の中いいと思います。具体的に何がいいとかそういった細かい理由まで詳しく書きませんが、やっぱり人となりや大まかな性格を理解する上で通しがいいし、初めて会った人に覚えてもらうのにもいい気がします。

 かくいう私はこれまで何か特定のあだ名をもらった事はこれまでにないですが、その代わりに異名というか、「○○した人」というようなニックネームは何度か友人らからもらった事があります。せっかくの機会ですので、幾つかここでそれを紹介しようと思います。

1、花園~変態と呼ばれた漢
 これは当時マガジンで連載していた「哲也~雀聖と呼ばれた漢」という漫画のタイトルからもじられたあだ名です。ごく一部の友人の間で、しかも使われた期間も少なかった異名ですが、もじりかたがうまいなぁといわれた本人が感心する名前でした。

2、Tシャツをハーフパンツに入れている人
 これは言われている本人が全く知らない所で、同じ学科内では相当知れ渡っていた異名です。この異名の由来は今でもこの時期はそうですが、夏となると私は毎日ハーフパンツにTシャツ、しかもTシャツを外に出しているのが嫌だから絶対にハーフパンツの中に入れて平気で外出しています。あんまりにも私がこの格好であちこち歩き回るもんだから、たまたまTシャツがハーフパンツから出ているとそれだけでニュースになっていたそうです。

3、洗濯物を取り込む男
 在学中のある日、今にもやばいくらいの夕立が降ってきそうな天気なのに同じアパートに住んでいる後輩が外に布団を干していたので取りこむように言おうと尋ねた所、その後輩は当時外出していました。後輩と言ったって赤の他人、しかし布団が夕立に晒されてずぶ濡れになるなんて本当に最悪もいい所です。そうやって悩んだ結果、その後輩の隣の部屋に住んでいる別の後輩の部屋に行き、その部屋からベランダを移って勝手ながら布団を部屋に放り込んでおきました。
 その後布団を放り込んでおいた後輩からは勝手な事をしてきながらもお礼を言ってもらえたのですが、取り込む際に部屋に入らせてもらった別の後輩がまたも学科内でこの話をばらしまくって、私と友人になると洗濯物を取り込んでくれると噂になってました。

4、ミスターHard Rock
 別に私は音楽バンドとかをやっているわけじゃないのですが、うちの旅行狂いのお袋が世界中にある「Hard Rock Cafe」というレストランに各地で訪れて、私へのお土産に胸にでっかく「Hard Rock Cafe」と書かれたTシャツやらセーターを買ってくるので、夏場なんか毎日それを着ているもんだからいつの間にか「Hard Rock Cafe」が私の代名詞になっていました。今度何着持っているかをこのブログで数えてもいいけど、恐らく20着は超えているだろうな。

 緩いネタをと思って書いたものの、想像以上にまた濃い内容になった気がします。

2010年7月15日木曜日

児玉源太郎の政治観

 前からよく、日露戦争について日本は乃木稀典よりも今日取り上げる児玉源太郎をもっと取り上げるべきじゃなんじゃないかと私は思っていました。

児玉源太郎

 知っている人には説明無用ですが、この児玉源太郎という人物は日露戦争において陸軍を実質的に切り盛りしていた人物で、戦費の調達から海軍との折衝、米国への和平仲介依頼から戦争指揮まで、どんだけ万能なんだよと言いたくなるほどの八面六臂の活躍を見せました。
 特に有名なのは乃木と共に参加した二〇三高地での戦いで、現在もその評価を巡る議論が激しく行われていますが、日本軍で最も多くの戦死者を出したこの戦いはどう見たって乃木が無謀な突撃を繰り返して徒に損害を大きくしたのに対し、援護砲撃を加えての攻撃で見事陥落させたのは児玉の力による所が大きい気がします。

 そんな児玉ですが、あくまで私の見方ですが、どうもこの人は自分のことを軍人というよりは政治家と見ていたような節がある気がします。実際に彼の経歴を調べると西南戦争中に熊本城で防衛を見事に果たすなど軍人らしい活躍も多いのですが、台湾総督として現地で施政を行ったりしているなど政治家としての働きも非常に多い事が分かります。
 極め付けが彼自身の発言で、これは昔に「その時、歴史が動いた」で見た話ですが、政治ということについて以下のように述べたそうです

「政治というのは大鉈を振るうような仕事で、細々とは決して行ってはならない」

 この児玉の発言を私なりに解釈すると、何もかもを見通せて万事問題なく政治を運ぶ事など不可能であり、またそうした細かいことにいちいち対応していては課題が山積みとなって行く一方。それであれば細かい事に逡巡して方向性を間違えないよう、対極観を持って大きく政策を動かしていくべきだ、という風に受け取りました。

 思うに近年の日本の政治はこのような大原則というものがなく、言ってしまえば非常に小さな話題に必死こいて多くの時間だけが割かれているようにしか見えません。そういうどうでもいいような国会議論を見るたびにこの児玉の言葉が思い出され、村山富一氏もちょっと前に言っていましたが今の政治家は本当にちっちゃい連中ばかりになったんだなぁという気がします。

 そんな政治家としての児玉ですが、彼の政治的功績でいえばなんと言っても台湾総督時代の施政でしょう。熱帯地域に属する台湾では現在もデング熱など様々な疫病がありますが、当時は今以上にインフラも衛生も整っていなかったために結構ひどい状況だったそうです。そんな台湾に乗り込んできた児玉は自らがヘッドハンティングして来た、こちらも後の日本に大きな影響を残す後藤新平と見事なコンビネーションを見せて台湾の衛生環境を劇的に改善する事に成功しました。
 この後に後藤は児玉から日露戦争後に日本が得た満州地域の開発のために満鉄総裁就任を依頼されますが、最初はこの依頼を断ったそうです。しかしその直後に児玉が突然死したため、運命だと自分に言い聞かせて初代満鉄総裁に就任して辣腕を振るう事になります。

 その後藤の格言ですが、折角なのでこれも引用しておきます。

「金を残して死ぬ者は下。仕事を残して死ぬ者は中。人を残して死ぬ者は上だ」


 なんとなく、児玉と後藤の関係を見ていると感慨深い言葉に私は聞こえます。

 おまけ
 Wikipediaの児玉のページにてこんな面白い逸話がありました。
 日露戦争後に東京で日露戦争にまつわる展示会があり、その場で若い陸軍将校二人が児玉のことを褒め称えていると、
「児玉はそれほどたいした男ではありませんよ(‐ω‐)」
 と、ボソリとした声がしたので何を言うかと将校らが振り返ると、なんとそこには児玉本人が立っていたので大いに驚いたそうで。

  おまけ2
 本当にどうでもいいですが、二〇三高地は私も去年に登ってきました。日露戦争の写真で見るとはげ山ですが、現在では結構緑も茂っており、夏に行ったので無性に熱かったです。

2010年7月14日水曜日

口蹄疫、韓国人研修生原因説について

 ちょっと批判が来そうな内容ですが、前から気になっていたのもあるので思い切って書いちゃいます。

 一時期よりは大分落ち着いたものの現在も完全に終結しきっていない宮崎県の口蹄疫問題ですが、この口蹄疫が発生した当初から妙な噂がネットで飛び交っていました。その噂というのも、今回の宮崎県の口蹄疫は発症一例目の水牛が出た農場が口蹄疫発生前に同じく口蹄疫が発生していた韓国から研修生を受け入れ、その研修生に付着していたウィルスから感染が広がったのだという説です。しかも最初その農場は韓国人研修生の受け入れを拒否したものの民主党の道休議員が強権を持って無理矢理ねじ込ませたとして、いわば口蹄疫発生の原因は民主党と韓国にあった、もしくは意図的に感染が広げられたというような内容があちこちで見受けられました。

 この噂を初めて見た時に私は、口蹄疫が確認されてすぐに何が原因だったかどうかはっきり分かるはずもなく、ある程度騒動が落ち着いた段階でなければこの噂の真偽も確かめられないだろうと考えてきちんと検証が行われるまでは静観の立場をとる事にしました。特に外国人が原因だという説はいつどの国でも過熱する傾向があるのでなおさら慎重さが必要だと感じ、ブログには一切取り上げませんでしたが注視をし続けておりました。

 ここからが本題ですが、この口蹄疫が発生した当時の宮崎県について今月の文芸春秋にて作家の高山文彦氏が「宮崎口蹄疫禍現地ルポ」という記事を寄稿しております。私も今日この記事を読んだのですが、口蹄疫発症一例目の水牛が出た農場について詳しく時系列にまとめられています。

 まずこの記事で重要なのは、発症一例目の水牛を見ていた獣医師である池亀康夫氏が名前入りでインタビューに答えている点です。ただでさえあらぬ風評被害を受けかねない取材にもかかわらず取材に応じた池亀医師には頭が下がる思いがするのですが、発症一例目の水牛が出た農場というのはこの池亀医師がかかりつけの臨床医をしていた農場だったそうです。
 さてあんまり細かく内容を書いてもしょうがないので、時系列ごとに口蹄疫確認までの推移を簡単にまとめます。

3/26 牧場主から牛の調子が良くないと連絡があり、池亀医師が二頭の水牛を診察。口蹄疫の症状と言われるよだれや泡は確認されず、熱があった事から風邪と診断し治療。

3/29 最初に調子の悪かった牛とは別の九頭も発熱をしたので、同じように風邪の治療を行う。翌日にはどれも熱は下がったが便の状態は悪いままだった。

3/31 中毒症状を疑った池亀医師が家畜保健衛生所から別の獣医師三人にも来てもらって診断。牛が暴れるため蹄の裏(口蹄疫なら発疹が出る)を確認できなかったものの、三頭から検体(血液)を採取。なお口周りの泡は確認されず。

4/5 牛の熱は平熱に戻ったが、保健衛生所からは診断結果がこないため問い合わせた所、問題症状は特にない「陰性」と言われる。この時保健衛生所は口蹄疫かどうかを日本で唯一調べられる東京の動物衛生研究所に検体を送っていなかった。

4/14 依然と牛の乳の質と量が悪いため、牧場主が再度池亀医師と保健衛生所に診断を依頼。またも牛が暴れるため二頭だけから検体を採取。またも診断結果が保健衛生所からなかなか送られてこない。

4/20 この牧場の近くの和牛農家で牛三頭が初めて口蹄疫と確認される。14日の診断結果を再度保健衛生所に尋ねるとまたも「陰性」の返事。

4/21 保健衛生所がこの牧場に聞き取りに訪れ、水牛五頭から検体を採取して動物衛生研究所に送る。

4/22 研究所から水牛に「陽性」反応が出たと連絡が来る。口蹄疫が確認された順番ではこの牧場は六例目であったが、何故か3/31に採取した検体から口蹄疫が確認されたこととなって発症一例目に繰り上げられて認定される。

 ざっとまとめるとこんな具合です。
 この口蹄疫韓国人研修生陰謀説を唱えるサイトなどではこの発症一例目とされた牧場は水牛が口蹄疫に罹っていると早い段階でわかったものの当初事実を隠蔽し、口蹄疫の感染拡大を招いた等と批判する意見も載せている所もありますが、少なくとも上記の池亀医師の証言を見る限りですと何度も外部の保健衛生所の医師を呼ぶなど隠蔽しているようにはとても思えません。むしろ4/14、4/21にも検体を採取しておきながらも、どうして口蹄疫確認に3/31の検体が採用されたのかが不可解です。

 そして記事では肝心の韓国人研修生の噂についても触れていますが、池亀医師の証言によるとそもそもこの牧場主は韓国人研修性に見学を許した事などないそうです。この記事を書いた高山氏は当初この牧場主にも会う予定だったそうなのですが、ちょうど取材する予定だった日に週刊誌記者に「一例目を出したのだから世間に説明する義務がある」と押しかけられてしまい、結局取材を取る事が出来なかったそうです。

 高山氏によるとこの牧場主の方は単身でイタリアに農場経営を学びに行き、東京都出身にもかかわらず宮崎県にて牧場を開いたそうです。それが今回の口蹄疫で事実上財産をすべて失ったばかりかその上一部マスコミから謂れのない非難に晒されてしまうなど、高山氏もそのようなマスコミに対して記事中で逆非難を行っています。

 最後に、私は高山氏の記事を信用して韓国人研修生陰謀説は間違っているのではないか、根も葉もないデマではないかと主張しているわけですが、私が直接取材しているわけではないのでこの高山氏の記事の方が逆に偽者という可能性もゼロではありません。それにもかかわらず何故私が高山氏の記事を取るかと言うと、

・現地で取材がなされている。
・発症一例目とされる牧場の獣医師が実名で取材に応じている。
・保健衛生所の診断など、追跡取材できる材料がある。
・一例目認定の不可解な経緯について書かれている。


 逆に韓国人研修生陰謀説について私が疑問に思う点として、

・何人研修に来たのか、人数がどこにも書かれていない。
・議員を通して牧場研修に来るというルートが不可解。
→JICAとか言われているが、議員が介入するメリットが見当たらない。
・宮崎と韓国で発生した口蹄疫ウィルスの型が一致したと言うが、韓国ではA型とかO型とか、複数ある。


 あくまでこれは私個人という素人の意見です。ただ前にも書きましたが、日本人は割と陰謀好きな所があるように思えますが、現実にはそんなに世の中陰謀に溢れているわけじゃないような気がします。

2010年7月13日火曜日

猛将列伝~信陵君

 中国戦国時代において軍事、内政それぞれの分野で並々ならぬ才能を持つ人物は数多くおりますが、その中でも屈指の人材ともなると私の中でまず挙がってくるのはこの信陵君です。

信陵君(Wikipedia)

 信陵君というのは通称で本名は魏無忌ですが、彼はかつて私が書いた「孟嘗君と馮驩」の記事にて取り上げた孟嘗君と同じく、戦国時代後期において高い評価を受けたことから並び称された「戦国四公子」と呼ばれた四人の一人です。この信陵君は魏王の弟でしたがかねてからその優秀さは群を抜いており、それゆえに王位を奪いかねない人物だとして実の兄からは警戒されておりました。

 そんな魏王を恐れさせた信陵君のエピソードに、信陵君が魏王と碁を打っていると隣国から軍団が近づいているとの報告があり、すわ戦争かと魏王が慌てたのに対して信陵君は隣国が狩りに出かけているだけなので慌てる必要はないと全く動じませんでした。果たしてしばらくするとまた新たな報告があり、信陵君の言う通りにその隣国の軍団は獲物の狩りのために出撃していたことがわかり、どうしてわかったのだと魏王が尋ねると信陵君は、自分は独自の情報網を持っており今日隣国が狩りに出かけるとすでに報告を受けていたからだとこともなげに答えました。

 終始こんな感じなので王である兄は信陵君を常に警戒していたのですが、ある年に魏の隣国の趙が秦に攻めこまれて首都を包囲されたため救援を求めてきました。趙には信陵君の姉が嫁いでいたために信陵君は王に救援を志願しますが、勢いのある秦に真っ向からぶつかるのは危険だとして魏王はこれを却下しました。
 やむを得ず信陵君は自分のわずかな手勢のみで救援に向おうとした所、門番の身分ゆえに誰も相手にしなかったものの信陵君だけが賢者だとして慕っていた侯嬴という老人から助言を受け、その助言に従って信陵君は魏の正規兵を指揮下に納める事に成功しました。そしてその兵を率いて趙を訪れるやあっという間に秦を撃退し、趙の救援に成功したわけです。

 ただ信陵君が正規兵を率いるに当たり兄である魏王の命令に逆らって行動したため、信陵君は兵だけを魏に帰すと自分は帰国せずにそのまま趙に止まりました。信陵君はその趙でもあまり身分がよくないものの賢者と呼び声の高い毛公と薛公という二人の人物とまた親しく交際するようになり、信陵君は身分を問わずにその才能で相手を見てくれるとますます人気が高まりました。

 しかしその一方、信陵君の去った魏では恐れていた信陵君がいなくなった事から逆に秦に何度も攻め込まれるようになり、年々その勢力を弱体化させていました。この危機的な事態に魏王は信陵君に何度も帰国を促しますが、暗殺が横行していた時代ゆえ、信陵君は謀殺されるのを恐れてその要請になかなか応じませんでした。
 そんな信陵君を見て、先程の毛公と薛公がこのように諭しました。

「あなた(信陵君)は魏あっての人物なのです。今諸国があなたを評価して競って求めるのは魏という母国があってのもので、仮に母国が滅亡しましたらあなたの正義はなくなり、誰もついてこなくなるでしょう」

 この言葉を受け信陵君はついに魏に帰国し、救援に来た他国の軍勢をすべてまとめ上げるやまたも一人で強国秦を見事に撃退して見せました。この恐ろしいまでの信陵君の活躍に恐れをなした秦は信陵君の存命中は二度と魏に攻め込まなくなったのですが、その代わりに信陵君を政治的に抹殺しようと、魏国内で信陵君が謀反を企てているなどといった噂を流布させて元々警戒していた魏王をさらに警戒させるという手段に出ました。この秦の策にはまった魏王は信陵君を暗殺こそしなかったものの政治からなるべく遠ざけるようにしたため、失意ゆえに信陵君はその後すぐに病気で死んでしまいました。

 この信陵君のエピソードを昔に読んで私が強く印象に覚えたのは、括弧書きで書いた毛公と薛公の、「如何に能力のある人物であっても、寄って立つものがなければ誰も信用しなくなる」という説法です。要するに背中に何を背負っているかという事ですが、なんでこんなエピソードを今日ここで引っ張ってきたのかと言うと、今の枡添要一氏と与謝野馨氏を見ているとつくづくこれがよくわかるなぁ思ったからです。

 この二人はどちらも選挙前に自民党から離脱して新たな党に入り、今回の参議院選挙にてそれぞれの党を実質取り仕切りましたが、自民党時代の名声や人気はどこいったのかと思うくらいに選挙中はおろか選挙の終わった今でも全くメディアに取り上げられませんし、人の噂にも上ってきません。特に桝添氏なんて自民党時代は総理にしたい候補ナンバー1だったのに、多分今このアンケートを取ったらランク外になる可能性すらあるんじゃないかと思うくらいの低落ぶりです。
 私は桝添氏が自民党離脱を発表した際にこのブログで、自民党あっての桝添要一であって、ただの桝添要一に有権者は反応しないだろうと書きましたが、この評論はまさにこの信陵君のこのエピソードから引用したものでした。多分先ほどの総理にしたい候補アンケートなんかあったもんだから、桝添氏は自分という個人が人気があると勘違いしちゃったのかな。