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2015年8月15日土曜日

鎮魂の日

 二次大戦の終戦日は日本では8月15日ですが世界的には9月2日とすることが一般的です。何故異なるのかというと戦争というのは降伏を宣言した瞬間に即終了するのではなく交戦国同士がしっかりと終戦を行うと文書で調印した瞬間に終了するもので、二次大戦の場合は9月2日に米軍艦ミズーリ上で重光葵が調印したことによって完全なる終戦を迎えました。ただこれらは法的な定義によるもので、実際の終戦日を一とするかはやはり各国がそれぞれで決めるべきものであり、日本では8月15日とするのであればそれはそれで間違いありません。

 しかしこの点で本当に考えるべき点は、一体何故日本では世界の潮流に逆らって未だに8月15日を終戦日としているのかです。その理由は大きく分けて二つあると私は考えており、一つは降伏の決断が昭和天皇の玉音放送という象徴的な手段によって伝えられたため印象が一際強く残ったためで、もう一つは日本独特の「お盆」の風習と結びついたためと推測します。

 あまり取り上げられることはありませんが8月15日前後に祖先の霊を祀るという行為は日本独特の風習です。中国では4月の「清明節」という日が日本の「お盆」に当たりお墓参りなどを行うのですが、同じ東アジアの仏教文化圏同士でもこのように日程が大きく異なっている点を考慮すると8月に祖先の霊を祀ることに明確な根拠はなく、これまでの日本の歴史からたまたまこのようなスケジュールに落ち着いて風習化したと思われます。
 この8月に祖先の霊を祀るという風習が先の玉音放送、というより戦争の犠牲者に対する慰霊と結びついたことによって終戦日は8月15日とする意識が日本人の中で強まったのではないかと思え、実際にお盆と合わせて戦争犠牲者に対する慰霊行為やイベントが行われているのが現状です。そのような成立の経緯を踏まえると日本における8月15日の終戦日は心安らかに戦争犠牲者に対し慰霊の祈りを捧げる鎮魂の日であるように思え、またそうであるべきだと私は考えています。

 しかし今年の終戦日はそのような鎮魂の日と言うには程遠く、非常にくだらない議論で実に騒々しく不快なことこの上ありません。過日、安倍首相は終戦70周年に合わせて政府の談話を発表しましたが、この談話内容について産経を除くほぼすべてのメディアは一言一句を細かくあげつらっては中国や韓国に対する配慮に欠けるなどと言って批判する論調を取りました。
 はっきり言って私は終戦についての談話というのでであれば、戦争犠牲者を悼み二度と過ちを起こさないというような文言さえ入っていればそれでもう十分であると思います。確かに国外に向けても発信される以上は侵略を正当化したり、日本は運が悪くて米国に負けただけだというような負け惜しみのような言葉が入っていたらさすがに問題ですが、真に優先して伝えなければならない内容というのは犠牲者に対する悼みであって、外交的配慮ではないでしょう

 ならば侵略した国には何の謝罪も補償もする気がないのかという方もおられるかもしれませんが、それらは何もこの「鎮魂の日」に議論しなければならない話題なのかといえば私はそれは違うと思います。それらは普段の外交において伝えていくなり、内容について議論すべき話題であり、この「鎮魂の日」に当たっての談話であれば戦争犠牲者に対してただ静かに悼むことを何よりも優先すべきでしょう。
 そんな「鎮魂の日」において揚げ足取りかのように言葉の端々をあげつらってしようもない批判を繰り返すという行為は、この日を政治利用して政権批判に使っているとしか見えず、本来静かに祈りを捧げるべき日とは程遠い行為を行う大手マスコミに対して内心強い憤りを私は覚えます。

 そもそも日本は二次大戦で韓国とは交戦しておらず、終戦を記念した談話であれこれケチ付けてくるというのは正直納得がいきません。従軍慰安婦問題だって、この祈りの日にわざわざ議論しなくてはならない話題なはずないでしょう。

 繰り返しとなりますが日本における8月15日は終戦の日であって鎮魂の日でもあり、死者に対し静かに悼みと祈りを捧げるべき日であるべきです。そんな日にかこつけて政権批判を、しかも言いがかりに近い主張で繰り返すなどナンセンスもいい所で、強い言葉で言えばくだらない政権批判を行っているマスコミこそあの戦争の犠牲者を冒涜しているとしか思えません。

 最後に、今年は終戦から70周年だとみんな言いますが、日清戦争終戦から120周年、日露戦争終戦から110周年、普通選挙法成立から90周年、足利尊氏の挙兵から780周年、大坂夏の陣から400周年でもあったりします。何が言いたいのかというと、これらの周年記念はほっといていいのと思いつつ、何周年だからってあれこれ騒ぐのは実はあんまり好きじゃなかったりします。
 もっとも、2012年は菅原道真の大宰府左遷(901年)から1111周年だったことから、一人でテンション上げながら何故か雷に対して念仏唱えていましたが。しかも中国で。

2015年8月14日金曜日

アニメはあくまで子供向け

 昨日書いた「すべてのジャンルはマニアが潰す」という記事に早速このブログのサブカル方面で定評のある読者2人がコメントを書いてくれました。自分としてもこの記事はなかなか面白い言葉を引用できたなと納得する記事だったのでコメントが来てくれてまずは何よりと思ったのですが、片方のコメントに、「最近のアニメはライト層向けに偏っている」との意見があり、元々もっと掘り下げて書いてみたい記事でもあったので今日はちょっと好き勝手書こうかと思います。結論から述べると見出しに掲げた通り、アニメはあくまで子供向けで、マニアックに作ってはならないというのが私の持論です。

 先に昨今の日本のアニメ事情について述べると、やはり全体的に大人向け、言うなればマニアック向けな作品が増えているように私には感じます。なんでこうなっているのかというと一番大きいのは制作費の回収方法が昔と今とで大きく変わっており、昔はアニメ放映と共におもちゃを始めとした子供向けキャラクター関連商品を売ることで制作費を回収しましたが、最近ではアニメそのものを収録したDVDの販売で回収するパターンがほぼすべてとなっており、DVDを販売するということからターゲットとなる視聴者層は購買力のある大人がメインとなり、こうした影響から子供向けから大人向けに作られるようになったと考えています。

 また単純に子供向けアニメの本数が私が子供だった頃と比べても減っています。私が子供だった頃は毎日夕方5時半からかつて放送したアニメの再放送が流れ、また土日はどちらもも6時半から8時の間は3本程度のアニメがほぼ必ず放送されていました。現在だとこの時間帯はバラエティがメインですし。

 こうした子供向けから大人向けアニメが増えている現状について最初に述べたように私は快く思っておらず、やはりアニメはあくまで子供向けに作られるべきで、子供をメインターゲットとしたライト層向けな作品をもっと増やすべきだと思います。理由は昨日の記事でも書いたようにコアユーザーの層が増えすぎるとライトユーザーの拡大が止まり、そしてコアユーザー自身も減っていって最終的にはユーザー総数が減少していく傾向があるからです。
 数学的にこうした現象を分析するなら、コア層とライト層の割合比で一つの壁となる数値があるのだと思います。たとえばこの割合が2:8を保っている間は全体のユーザー層は拡大を続けますが、コア層が徐々に拡大して3:7で拡大が止まり、4:6にまで至ると逆に縮小し始めるというように適頃な数値というのがあるのではというのが私の意見です。

 そうしたことを踏まえて日本のアニメ界の現状はコア層がやっぱり多くなりつつあり、将来コア層を形成するライト層の拡大に今のうちに力を入れてかないとよくないのではないかと勝手に懸念しています。何も大人がアニメを見るなということを言うつもりはさらさらなく、ただベースは子供向けアニメでこっちを中心にというのが私の主張です。

 ちょっと主旨が違うかもしれませんが、どんな作品が質が高いのかを突き詰めるなら私は時代や年齢を問わずに視聴される作品がやはり質が高いと思います。たとえば宇宙戦艦ヤマトなどは子供から大人まで幅広い層に支持されたため今でも人気がありますが、それ以外でも現在において古典的とされるほど支持される作品は子供向けに作られながら大人も巻き込んでおり、いい作品というのは客を選ばないからいい作品である気がします。


 ちなみに上記の動画は私が子供の頃に放映されていた水木しげる氏原作の「悪魔くん」のアニメOPです。懐かしさ補正もありますが、なんか今のアニメとは異なる不思議なパワーを持っているとこのOPを見る度に思うので、このところやたらと繰り返してみながら、「エロイムエッサイム、我は求め訴えたり」なんて呟いてます。
 あとどうでもいいですが昔にデーモン小暮閣下は自身のエッセイ本として「我は求め訴えたり」というタイトルで出版しましたが、悪魔なんだからお前が求め訴えられる側じゃねってこの頃よく腹の中でツッコんでいます。

2015年8月13日木曜日

すべてのジャンルはマニアが潰す

 このブログでよく毎日新聞の記事と記者を馬鹿にすることが多いですが、以下の記事は読んでて非常に面白かったです。取り立てて大きく注目するほどでもない内容のニュースをうまい文章で紹介してあり、非常に読み応えのある記事です。

<弘前市提唱>現存12天守同盟に「待った」 犬山城、壁に(毎日新聞)

 それで話は本題ですが、先日お笑いコンビ「ピース」の又吉氏が執筆した「火花」という小説が芥川賞を受賞し、現在進行形で大いに注目されております。この件について私も記事を書こうかなと思ったのですがそもそも「火花」は読んでないし、この本が芥川賞の候補に入った時点で受賞することは目に見えるほど当然でごく当たり前な出来事のように思えたので無視しました。なお昨夜友人とはこんな会話を交わしています。

「芸能人が受賞したんだから、次は有名声優辺りが書いた小説が受賞すんじゃね( ゚Д゚)」
「じゃね(゚Д゚ )」

 この受賞劇について言いたいことが全くなかったわけではないのですがそうした経緯もあって書かなかったところ、下記の山本一郎氏のコラムを今日読み、まさに私が言いたかったことを全部言ってくれていると思わずうならされる内容でした。

ピース又吉『火花』売れて良かったね

 基本的に考え方としてはまさに上記コラムの通りなのですが、このコラムを読んでてもう一つ気になった点として、今日の見出しに掲げた「すべてのジャンルはマニアが潰す」という一言です。

買収後売り上げが激増 プロレス人気再燃を新日オーナー語る(NEWSポストセブン)

 なんか今日はやたら記事紹介が多いですがそれは置いといて話を進めると、この言葉はトレーディングカードを製造・販売をしている「ブシロード」という会社の木谷高明社長が述べた言葉です。今まで自分は知らなかったのですが木谷社長は新日本プロレスを2012年に買収し、数年で売上げを倍増させるなどプロレス人気を立て直す見事な経営手腕を見せているそうです。
 そんな木谷社長が上記のインタビュー記事の中でプロレス人気が何故衰退していたのかという理由について述べた言葉が、「すべてのジャンルはマニアが潰す」なのですが、この言葉の意味はコアなユーザーはライトユーザーを拒絶し、弾く傾向があり、コアユーザーが増えすぎると逆に人気は衰退していくという内容です。

 この言葉はなかなかもって見事な指摘だと思え、実際に90年代の2D格闘ゲームブームや往年のスキーブームなど、なんとなくあてはまるような事例がポンポンと浮かんできます。政治においてもコアな支持者の囲い込みを続けたことによって日本の社民党は明らかに衰退し、逆にライトな支持層を取り込んで急激に拡大してトニー・ブレアのイギリス労働党は政権を取るなど、この言葉がそのまま当てはまる気がします。
 私自身も本当に市場を拡大するならコアなユーザーを切り捨ててでもライトユーザーの取り込みに従事するべきだと、おぼろげながら考えていましたが、こうもはっきりとした言葉でこの意味を表現する人物がいたとは非常に驚くと共に、やはり業界の最前線にいる人はただ者じゃないと、中国語で言うなら「了不起」と言いたくなる人物です。
ヽ(*゚д゚)ノ<カイバー

天津大爆発事故について

 一体どんな書き出しから書けばいいのか戸惑うくらい、昨夜起こった天津大爆発事故は衝撃的でした。

 既に各種の報道で皆さんも見聞きしておられるかと思いますが、昨夜中国天津市にある浜海新区という経済開発区の倉庫で大爆発が起こり、現在もなお被害の全容がわからないほどの大惨事となっております。今回の事故規模については百聞は一見の如かずというか、現場近くで爆発を撮影した写真や動画が既にメディアやサイトなどで公開されており、その映像の迫力たるや下手なハリウッドの映画を大きく上回ると思えるもので見ていて心底ぞっとさせられます。

 爆発原因については倉庫内に保管されていた化学薬品やガスなどだという推測が出ているもののまだはっきりしませんが、少なくともこれほど大規模な爆発を起こす物質があったことと、それらを引火させてしまう管理体制であったというのは事実でしかありません。今日も同僚らと少しこの事件について話しましたが、恐らくこの地区の防災担当者は今頃監禁させられた上で遠くへ左遷させられるか牢獄に入れられるでしょう。幸いというか、労働教育は数年前に廃止されてますが。
 それとこれは当局への苦言ですが、やはり未だに情報を小出しにするというのはいい加減無理があるでしょう。かつて事故を起こした新幹線を埋めるなどと言う暴挙を中国当局は犯しておりますが、今回の爆発事故については有害な物質が空気中に広がっている可能性もあるだけに、被害情報と共に確かな情報を可能な限り早く発表するべきでしょう。いい加減昔と違うんだし。

 少し個人的な印象を書いていくと、報道では最初の爆発が起こった後にもう一回爆発があった、つまり二回の爆発が起こったと伝えられています。実際に爆発当時を映した動画をみるとその通りなのですが、最初の爆発も確かに随分と大きく夜空が一瞬で明るくなるほどであるものの、二回目の爆発の大きさは一回目を遥かに凌駕しており、空どころか辺り前面が紅く染まった上に周囲の建物や木々が爆風で大きく揺れたりひん曲がったりするのが見受けられます。爆心地には恐らくもう何も残ってないため原因の特定は難しいでしょうが最初の爆発によよって二回目にどんなものが引火したのか、この点が非常に気になります。

 最後に被害状況についてですが、現時点の報道では死者は約50人、負傷者は数百人と報じられていますが、こんな情報ははっきり言って当てになりません。昨年8月に私の地元の昆山で起こった爆発事故も当局の発表では60人強が死亡したことになっていますが、私の横のつながりから得た情報によると実際には110人程度が死亡しており、負傷者はその数倍にも上る大惨事だったそうです。
 今回の天津大爆発は夜間帯だったとはいえその爆発規模は桁違いに大きく、断言してもいいですが死者は100人を確実に越えるでしょうし、負傷者を含めると四桁にも上る可能性があるでしょう。逆を言えば爆発時が夜間だったのはまだ幸いで、仮に昼間であれば死者数が四桁に昇る恐れもあったでしょう。

 それにしてもこれほどの爆発事故、少なくとも自分がこれまで映像で見てきた中ではかつてないほどの大きさです。ちょっと気が早いかもしれませんが悲惨な爆発事故の例として、今回の天津大爆発は歴史に残るんじゃないかなとすら思います。

2015年8月12日水曜日

人民元の切り下げについて

 土日に大雨が降ってからこちらは随分と涼しくなって過ごしやすいのですが、なんか逆に暑さがなくなったことによって気が抜けちゃったのか、このところは家帰ってパワプロで延々とバッティングし続ける日々が続いています。ちなみに打率は5割4分くらいです。
 なわけで今日はブログ休もうかなとも思ってましたがさすがにほっとけないニュースというか、中国が昨日に引き続き今日も人民元の強引な切り下げをやってきたので、いくらか解説文を載せます。

 まず人民元の切り下げとはどういう事か。これは簡単に言えば通貨としての価値を安くするという方法で日本円と比べるなら仮に以前は1元=20円だったとすると、この二日間で3%程度下がったということから「20×0.03=0.6」となるため、現在は1元=19.4円になる計算です。
 こうなるとどうなるかですが、国外に製品を輸出すると以前は20円で売っていたものが19.4円に値下げしても中国側は同じ利益を受け取れるようになるので、輸出競争力が増します。まぁこの辺はほかの解説でも読んで納得してください。

 それで話は人民元に移りますが、そもそも人民元の為替相場はどのように運営しているのか。私がざっとこの二日間で切り下げ関連のニュースを見ている限りだとどこも人民元レートの決定システムを理解していない人間が記事書いてるなという印象を覚えましたが、これに関しては内心しょうがない気がします。実際、人民元レートは日本円や米ドルの変動相場制と違って「管理フロート制」という妙なシステムで、私も十分に理解している状態だとは言えません。

 理解が間違っているかもしれないという前提で簡単にこの管理フロート制システムを私なりに説明すると、これは人民元の変動幅を前日の終値を基準値として上下2%に固定するというシステムで、たとえば前日終値が1元=20円だったとすると、翌日の変動幅は20×0.02=0.4となるので、19.6~20.4円の間でしか変動しないということとなります。この方法だったら終値付近で中国の政府系金融機関が介入すればいくらでも為替レートをコントロールできるので、まぁ中国にとっては都合のいい手段でしょう。

 では今回の切り下げはどういう風に行われたのでしょうか。通常、人民元の為替レートは前日の終値を基準としてそこから上下2%を変動幅とするのですが、今回の切り下げは前日の終値に対して11日は1.9%、12日は1.6%切り下げた値を基準値として、そこからいつものように2%の変動幅で取引させました。
 要するに今回のは中国政府が前日の終値なんて関係なくいきなり人民元のレートを変更したようなもので、誰の目から見てもかなり強引な手段を採ったと言える行動でしょう。仮にこれがまかり通るなら、人民元のレートはいつでも自由に中国政府が決められると言っても過言ではありません。

 では何故中国政府は今回このような強引な手法に打って出たのでしょうか。理由はほかの記事などでも言われている通りに各種の経済統計で景気の衰えを示すような悪い数値が相次いでおり、景気後退を懸念した中国政府が輸出のテコ入れとして為替に手をかけたというのが実情だと私も思います。今日発表された統計でも不動産投資の伸びに明らかな鈍化が見られ、一番最後の砦ともいうべき不動産業界すら振るわない状態になって当局も危機感を持ったのかもしれません。

 ただ今回の為替操作についてもう少し深く述べると、中国としても苦渋の決断だったのではと思う節があります。というのも中国はかねてから人民元を国際通貨として世界に認めてもらうために様々な努力を続けてきましたが、今回のこの為替操作によって明らかに世界通貨への道は後退しました。逆を言えば世界通貨化を一時諦めなければならないほど景気に対して危機感を持っているとの証左でもあり、今後発表される他の経済指標を注意深く見ていく必要があるでしょう。

2015年8月11日火曜日

SEALDsに対する印象

 今日女子サッカーの澤選手が結婚したというニュースが流れたのを見て一瞬、「あれ、今日ってエイプリルフールだったっけ?」と思ってしまいました。もちろんこれは冗談で、澤選手結婚おめでとうございます。

 そんな前振りとはまた全く脈絡のない本題ですが、あまりにも時事ネタで解説するものがないのでSEALDsについて私の印象を語ろうと思います。ちなみに「シールズ」って発音を聞くと私の中で思い浮かぶのは米国海軍特殊部隊のネイビー・シールズです。なお「エイリアン2」にも出演したマイケル・ビーンという俳優は何故かこのシールズの隊長役を演じることが多い俳優だったりします。

SEALDs(ニコニコ大百科)

 SEALDs(以下、シールズ)とは正式名称が「自由と民主主義のための学生緊急行動」という学生団体で、やってることは安倍政権の批判です。最初に書きますが私はこの団体と構成員に対して率直に言っていい感情を持っておらず、そもそも話題にあげる価値すらもないと内心では思っています。

 彼らの活動についてはネットなどでいくつか報じられているので知っている方も多いでしょうが、主な主張としては現在安倍内閣が進めている安保関連法案の否定、そして安倍首相の退陣で、逆を言えばこれ以外だと目につく主張なんて皆無でしょう。
 長く語るほどでもない連中なので何故私がこれほど見下しているのかというと彼らの主張をどんなに聞いても、安保関連法案のどこが問題なのか、この法案の可決によって現行とどう変わるのかという解説なり展望が全くありません。むしろ彼らは安保関連法案の中身自体をまともに理解していないのでは、にもかかわらず安倍内閣を批判しているのではと思う節すらあり、政治思想的な動機で行動しているようには見えません。

 では何故彼らは妙な徒党組んで活動しているのか。はっきり言いますが政治とは全く関係のない所、日々の生活なり人間関係なりでストレスや不満を抱えて、それを「政治活動」と称して安倍内閣にうっぷん晴らしの八つ当たりをしていると私は思います。そう思う根拠として彼らの発する主張の大半が法案の中身や日本の将来というよりも、安倍首相個人への人格批判ばかりで、しかもその罵倒の仕方が幼稚極まりないからです。もっともこれは朝日新聞の社説にも言えますが。
 偉そうな口をききますが政治議論で人格批判をするということは、もうその時点で相手を論理的に攻撃する材料を持っていないと自ら明かしてしまうもので、普通の人間ならやりません。しかしシールズはむしろこの人格批判それ自体を目的とするかのように安倍首相の批判を繰り返しており、政治的な動機というよりただ単に憂さ晴らししたいだけの人間が集まっただけではないかというのが私の見立てです。言ってしまえば、反日デモの際のどさくさに紛れて商店破壊した中国の日雇い労働者とどっこいどっこいでしょう。

 ハナからまともに法案の中身を理解できるほどの知恵がないというのはわかってますが、せめて理解しようという努力を見せるならまだ批判活動をしていてもかわいげがありますが、シールズに関してはむしろ理解を拒むような行動も見られます。何故なら何がどう変わるのかが正確になると大袈裟に「これから徴兵制が始まる」なんていう突飛過ぎる意見が主張できなくなる恐れがあり、逆を言えばきちんとした理解が進むと彼らは主張せんとする島を失うことになるのではないかと思います。こういう連中でも大学生になれるあたり、この前の小学四年生に扮した変な慶應の学生といい、ちょっと私も心配になってきます。

 最後にこれは蛇足かもしれませんが、そもそも「SEALDs」という団体名からして私の癇に障ります。なんで無駄に横文字使おうとするのか、普通に日本語でいいじゃんと思うと同時に、最初に述べたように「シールズっつったらネイビー・シールズだろ!」と思え、どうして軍事化を否定しながら軍の特殊部隊と音の被る団体名にするのか理解できません。

  おまけ
 冒頭にあげたマイケル・ビーンは「ターミネーター」で未来からやってくる青年、カイル役も演じていますが、以前に芸能人の眞鍋かをり氏が芸能記者に、「妊娠したのではという噂が出ていますが?」と聞かれた際、

「身に覚えがある。未来からやってきたという男とアメリカのモーテルで一夜の過ちを……。生まれてくる子供にはジョンと名付けよう」

 と、とっさに答えたことがあり、この一件で眞鍋氏は凄い人だということがよくわかりました。

2015年8月9日日曜日

日本式経営の「婿養子」という世襲方法

 今年5月に私は「書評『会社が消えた日 三洋電機10万人のそれから』」という記事を書き、かつて存在した日系大手家電メーカー三洋について取り上げました。この記事の中で三洋の二代目社長であった井植敏氏の言葉として、

「日本は相続税率が高いため、会社を興して成功した創業一家は自己の財産を所有し続けるため経営能力が無くても会社を経営し続けなければならなくなる。米国の様にオーナーが会社を所有し、プロの経営者を雇って会社を経営させるという方法が採れない」

 といった内容の言葉を引用しました。この言葉の意味をもう一回かいつまんで説明すると、日本だと会社起ち上げて大成功して財産作っても、いざ子供に相続させようとしても税金で大方取られてしまいます。ではどうすれば円滑に資産を相続できるかというと、起ち上げた会社をそのまま子供に社長職を継がせられれば家族として「会社」という資産を保持できるわけです。
 しかしこれには一つ問題があります。その問題というのも会社を継ぐ子供が必ずしも経営的才能に恵まれているかどうかわからないということです。恵まれていれば別に問題ありませんがいわゆる二代目のボンボンバカ社長だった場合、会社の経営は混乱して破綻し、折角の資産も失ってしまうことになってしまいます。

 こうした日本の現況に対して欧米はどうかというと実は事情が異なります。会社を起ち上げた創業者はそのまま子供に経営を引き継ぐ例もありますが、大方の大企業では株式だけを保有し続け、経営は外部から招へいしたプロ経営者に任せてオーナー一家は配当金を受け取り続ける道を選びます。こうした方法が採れるのも井植氏の言う通りに相続税の税率が低いからやれる方法で、いわゆるセレブと言われる米国の資産家一家はこのようなパターンで使いきれない金を使い続けていることが多いです。

 先ほどの井植氏はこの日本と欧米における相続の違いについて、「日本では会社の所有と経営が分離していない」と述べております。実際に欧米は上記の通りに「所有(株式の保有)」と「経営(社長になる)」がはっきり分かれており、所有するオーナー一家の役割は外部からまともな経営者を持ってくることと、株式を持ち続け独立性を守ることの二点に集約されます。

 こと会社の継続という観点だけで見るならば、この所有と経営は分かれている方が良いに決まっています。既に述べた通りに日本のような相続の仕方では経営センスのないオーナー一家の跡取りが社長になってしまう可能性が高く、どんなに立派な企業でもバカ社長の指先一つでお釈迦になってしまう可能性がなくなりません。
 ではオーナー一家以外から社長を取ってくればいいのかとなると必ずしもそうは言いきれません。というのも日本の場合はオーナー一家以外だと社内から昇進して社長に就くいわゆる「サラリーマン社長」が多いのですが、果たしてそういう内部出身者が優秀かどうかとなるとこちらも必ずしもそうだと言いきれません。少なくとも、会社の内外から広く捜してくる例と比べるなら社内からの昇進だと比較対象数が圧倒的に小さいと言わざるを得ません。

 こうした会社の相続という課題について、実はかつての日本式経営にはちょうどいい解決方法があり、実際に多くの企業で採用されていました。その解決方法というのも、「婿養子」を取るという方法です。

 現代の日系企業でこれを実践して成功している代表格は自動車会社のスズキで、ここは現在の鈴木修会長と先代の会長はどちらも次代の経営者と見込まれたことによって婿養子として創業者一家に入り、実際に同社の事業拡大を見事果たしております。鈴木修会長に至っては、元々銀行屋だったのに先代(二代目)に見込まれて自動車会社に移ってこれだけ会社大きくしたんだから、やっぱ大したもんだと私も評価しています。

 日本式経営、というより日本式家族は江戸時代からこのように「優秀な人材を外部から婿養子として入れる」という手段を採っており、あのトヨタも豊田佐吉に続く二代目は婿養子の豊田利三郎であったなど、以前はそれほど珍しくもない手法でした。この婿養子に迎え入れるという手法であればある程度実績なりを収めた優秀な人材を外部から招聘するため経営者のセンスとしては問題なく、また家族にも入ることから会社という資産をオーナー一家は所有し続けられます。
 この「婿養子」という制度は所有と経営を両立できる優れた手段であり、あまり大きく取り上げられたりしませんが私は日本式経営の大きな特徴の一つだったのではないかと考えております。しかしたった今「だった」と述べた通りに、この手法は過去のものとなりつつあり今後も採用するオーナー一家が現れるかとなると疑問符を打たざる得ません。

 第一の理由はイエ意識の変化で、自由な恋愛結婚が一般的となっている今の世の中で、「こいつは経営センスがあるから将来お前はこいつと結婚しろ」と親から言われたって、はいそうですかと素直に従う社長令嬢がいるかとなると……まぁいないでしょう。第二の理由は少子化と晩婚化で、曹操婿養子を取れるほど女の子があまってないという家庭が多いかと思えます。

 私自身は先ほどにも述べた通りに「婿養子」というのは非常に優れた相続手段であると同時に優れた企業の経営手段だと思うのですが、一般的な日本人はカビ臭いやり方だと恐らく否定するでしょう。しかし大塚家具の問題にしろ相続と経営の問題は現代においても頻発しており、実際に実行するかどうかは置いておいてこのような手段もあるということを再認識した方が良いのではと思いこうして記事をしたためました。

  おまけ
 昨夜この記事内容について友人打ち合わせをした際、「スズキの会長以外に代表的な婿養子っているか?」という話になり、結局出てきたのは「マスオさん」だけでした。実際、日本で最も有名な婿養子といったらこの人しかいないでしょうヽ(*゚д゚)ノ<カイバー