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2023年1月24日火曜日

日本にあったと思うエリート校

 一蘭が作ったソーセージは一蘭製ソーセージと呼ぶのかなどと考えながらJBpress用の記事を書き上げほっとしていますが、上海も今日は強風が吹き荒れる寒い日で、家の中に閉じこもって「アイドルマネージャー」で遊んでました。作ったインタビュー番組の名前は「ごぼうでいいとも」。

 話は本題ですが前の記事で私は、東大はエリート育成校というよりかは官僚養成校であり、実務家しか育てないという風に書きました。官僚だってエリートじゃんと言われるかもしれませんが、この一連の記事における私のエリートに対する定義は、まず高い実務能力は備わっているのは基本前提というか足切り条件で、その上で書きの能力に富む人物だと考えています。

・自己判断力
・統率力
・責任感

 では上記のような能力を備えたエリート育成学校は日本にあるのかと言えば、はっきり言えばありません。特に最後の責任感については、日本人は本能的に責任から逃げることを主目的としており、多分エリート育成の上で最大の障害になるでしょう。
 その上で、かつて上記要素を備えたエリートを輩出した学校が日本にあったかというと、それに関してはあったんじゃないかと内心考えています。単純なエリート輩出率でいえば、幕末の松下村塾がぶっちぎりトップですが、松下村塾だと期間が短くて時代的要素も大きいので敢えて省きます。ではこれ以外となると上がってくるのは、意外や意外に戦前の学習院じゃないかと考えています。

 戦前の学習院は皇室と家族の子弟の教育を目的として作られました。でもって伝え聞くところによると全寮制で、通う子弟たちはみんな寮に住まわされて、教員らの指導を授業以外でも受けていたとされます。
 こうした教育システムは、恐らく学習院自体がモデルとしたのでしょうが英国におけるエリート校と非常によく似ています。階級によって入学をあらかじめ制限するという障害こそあるものの、日常生活から指導するとともに、皇室の藩屏という意識を叩き込むという上では、国家を背負って立つエリートの育成においては適したシステムであったのではないかと思うわけです。

 もっとも現代においてはこんなシステムはもはやなく、ただの一私大になり下がっており、皇室、っていうか秋篠宮家もなんとなく距離を置き始めているように見えます。コムケイを誕生させたICUよりかはいいんじゃないかと思うんですが。

 さらっと書いていますが、エリート教育で模範とすべきはやはり英国だと思います。英国のエリート教育の特徴は「エリート生徒を特別視する」ということで、優秀な生徒には式でサーベルを帯剣させたりするなどいろいろな特典を付けさせるそうです。なんでそんなのするのかっていうと、「自分が特別」だと思わせるとともに、「特別であるだけに変なことしたら学校のブランドなどを傷つける」という責任感を負わせると言われます。
 これは奨学金をもらう生徒にも同じことをしているそうで、掲示板とかで「奨学金被授与者」みたいに公開するそうです。これにより、うかつな行動を取ろうものなら剥奪されるというプレッシャーを与えるとともに、努力すればこうした特典や栄誉に預かれるという競争心に火をつけさせるというわけです。

 この辺で恐らく、「日本とは逆だ」と考える人が多いと思います。奨学金をもらっていることを公開したらプライバシーの侵害だという人もいるし、特定の生徒を特別扱いする何て平等に反するという風に感じる人もいるでしょう。結構テクニカルに今この記事を書いていますが、そう考える人がいるという時点で、日本はエリート教育と対極的な教育が支配的であることを証明している気がします。
 そういう風に言えば、極端な平等主義こそがエリートの芽を摘んでいるのかもしれません。

 私自身は何もすべての学校とは言わず、一部の特定学校で英国式の教育を取り入れ、エリートを少量生産することが日本にとってプラスだと考えます。一部でそういう取り組みを目指そうとする動きもみられるものの、少なくともまだ結実しているようには見えませんし、上記のように抵抗する勢力も存在するでしょう。

 最後に余談ですが、一連の記事で自己判断力がエリートにとって大事だと何度も書いていますが、自己判断力があるだけでエリートとは考えていません。やはり統率力ことカリスマ性や責任感、そして高い実務能力を兼ね備えてこそエリートであり、自己判断力一本ではエリートとは呼べません。
 とはいえ、そんな自己判断力がある人間はそれはそれで貴重です。手探りのような状況を打開する上ではもってこいな人材であり、社会においては一般的な人より価値があると思います。それこそ以前に例えたようにエリートを指揮官、一般人を兵士だとすると、自己判断力がある人はさしずめ敵地に潜入して自分で考え行動をする特殊工作員的な役割の人間だと思います。

 このエリートの育成に関してかつて佐藤優氏は、戦前に工作員を養成していた陸軍中野学校こそが理想の学校だと主張していました。この意見に関して私は否定的で、というのも陸軍中野学校は確かに自己判断力を育成していただろうけど、エリートに必要な統率力や責任感は置き去りにしていたと考えるからです。そういう意味でも、自己判断力だけに特化しているのは工作員に過ぎずエリートではないという見方を持ちます。

4 件のコメント:

片倉(焼くとタイプ さんのコメント...

20年くらい前に バカについて語る本を読みました。その本では 東大生はバカになるように教育されたと書かれていました。 ここでいうバカとは 知識がないという意味ではない。教育を「現行の制度を批判し、改善し、時には制度を破壊し新しい価値観を作る人材を育てる事である」と定義します。 そして東大生がバカなのは 「制度を破壊し新しい制度や価値観を作る人材」になれなかったという意味でバカなのである と書かれていました。 当時は東大生の知り合いがいなかったのでそんなものかなと 思っていました。

花園祐 さんのコメント...

 自分はそんなに周りに東大出身者がおらず(慶応がやたら多い(;゚Д゚))、実際の東大生がどんな感じかはあまり掴めてないのですが、東大に限らず日本の教育は自己判断力を鍛える教育をしているようには見えず、この方面に関しては東大生を含め五十歩百歩なんじゃないかなと考えています。
 逆にこの辺、あまり実務能力が高くない、悪い言い方すると学歴のない人ほど自分の勘に頼って判断や行動を取る人が多い傾向があり、そういう人からしたら実務能力が高い連中は「自分の頭で考えない」と捉えているのかもしれないとみています。まぁこれも、論語的には「過ぎたるは猶及ばざるがごとし」、っていうか五十歩百歩みたいなものだとも考えていますが。

ルロイ さんのコメント...

日本人は責任感に乏しく自己判断力が低いのは間違いなく、そう育てる風潮が文化的に昔から根強いことが大きな要因だと思います。
もう一つ特徴的なのが、責任が権威に化けてしまうことで、権威ある者は人間的に優れていてどんなわがままも許されるみたいな風潮があり、これが一定以上の権威に達するとそれ以上の努力や研鑽をしなくなることを助長しています。
優れた者ほどより努力が必要という価値観が薄く、優れた者ほど堕落が許されることがエリート教育の障害になっている気がしますね。

ちなみに自分が知る東大卒の同年代以上の人は、能力以上にプライドが高く、自分に相応しいと思う仕事しかしない、自分の成果を棚において他人の仕事を見下す、細かい説明を他人にするのが苦手という印象です。
コンピュータに例えた場合の処理速度や保存容量に関しては、常人ではないと感じるほど優れている人が多いですけどね。そういう意味では優れた素材は集まりやすいのだと思うのですが、それを活かせていないのが残念なところです。

花園祐 さんのコメント...

 まさにそこがこの記事の一番言いたかった点です。日本は役職や階級に対し全く責任が伴わない、言い換えると、エリートと呼ばれる層ほど無責任で且つ帰任から放免される傾向が強く、その点で欧米における「エリート」と一線を画していると考えています。
 この点、戦前の陸軍で特に顕著でしたが、この責任感に対する意識をどうにかしないと、ギリシャ風に言えば僭主を生みやすい環境に陥ると思うだけに、自分の勝手な考えかもしれませんが一連の記事内容を最近布教しています。