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2010年4月10日土曜日

私立大学における入学試験の問題性について

 このところ友人からよく、「国立大出身の奴らは信用が置ける」という話をよく聞きます。一見するとまるで私大出身の自分を揶揄するような発言(その友人も同門だけど)ですが、聞いてる私としてもこの友人の意見には納得する部分もあり、この前こんな風に応答しました。

「俺が進学の際に関東から関西に来た時、周りの学生の優秀さに目を見張ったよ。ほんのちょっと前まで同じ高校生だった人間でも、関東時代の俺の周りにいたのと比べて関西の学生らは会話をしていても明らかに知識や反応が良く、どうしてこんな差があるのかと考えてみたのだが、やっぱり五教科をしっかりやっているかどうかの違いじゃないかと思うんだ」
「五教科っつっても、うちらの大学は試験が三教科の私大やん」
「でも関西って、大坂、神戸、京都大学などと国立大学が多いだけあってうちの大学に来る学生っていったらみんなこのどれかの落第組で、大学受験時にみんな五教科を学んできているじゃん。俺も君も、その口だろ」
「まぁ、そやろな」
「それが関東だと慶應、早稲田を筆頭として私大が多いせいか、高三になった時点で私大専願とばかりに三教科しか勉強しない奴が多いんだ。やっぱ受験時に五教科か三教科って違いはその人の適応力に大きく影響を及ぼすと思うし、国立の連中は必然的に五教科をやっているから君も国立出身の奴らにそう思うんじゃないかな」

 上記の会話で私が語った内容はあくまで私個人の実感ですが、やっぱり文系だと数学、理系だと国語をやっているかやっていないかの違いというのは人間性や能力にも出てくるような気がします。関連するといえば、文系出身者で受験時に数学をやっているかやっていないかでその後の年収に大きく差がつくというデータがあり、これを聞いた時には心底数学を勉強しといてよかったとほっとしました。

 そんな私立大学の試験ですが、近年、私から見ていて看過できない事態が起こり始めています。上記の三教科試験ならまだともかく、近年は自分の得意な科目でだけ受験できる一科目入試などというものも増えており、さらには以前にも取り上げた事がありますがAO入試など選抜方法として如何なものかと思う試験が非常に増えてきました。実際に教育関係の報道を見ていると、上記のような特別な入試形態で入学してきた学生はやはり学力が追いつかず留年や退学する割合が普通受験者より明らかに多いらしく、AO入試については廃止する大学がこのところ増えてきております。

 しかし最近だと、というより以前からでもありますが、近年の私立大学は試験云々以前に内部校からの無試験での進学者割合があまりにも多くなってきつつあります。
 有名私立大ほどこの傾向は以前から高かったのですが、近年は少子化に伴い、定員割れなど起こさぬように学生数をあらかじめ確保せんと中堅私大もそれまで縁もゆかりもなかった高校と提携を結ぶことが増えてきております。実際に私も近くにある高校がある日突然、「○○大学付属××高等学校」という風に看板が変わったのを目撃しています。

 こうした無試験で大学に入学する内部進学者の問題は教育界というより就職業界においてこのところ問題視され始め、同じ大学出身者でも大学受験を経て入学してきた学生と内部進学者とでは明らかに能力に差があり、今後就職希望者の履歴書には入学方法も書かかせるべきだという意見が出始めてきています。
 実際に私が通った大学も系列高校の多い学校で、しかも進学先が文学部と来たもんだから周りは内部生ばかりでその割合は四割五分程度にも上りました。

 こうした事態について大学時代の恩師に直接話を聞いてみたのですが、大学としては確実に学生を確保するという目的とともに、受験での入試偏差値を下げたくないという目的からこうした行為を行っているという返事を聞きました。内部進学者と入試偏差値がどう関係するのかというと、単純に志望者の少ない学部や学科に内部進学者を振り分ける事でそこの定員を減らし、外部から受験を経て入学してくる学生数を調節することで入試の難易度を上げることが出来、名門校としての地位を守りつつ受験者を集めて受験料をかき集められるという魂胆です。

 具体的に私のいた学科で説明すると、その学科の学生数は180人でしたが実質この中の約半分こと90人は内部進学者で、残り90人の枠を外部受験者が入試で争ったというわけです。もちろん外には180人募集と言ってはいるのですが実際にはその半分で、入試には合格したものの別の大学に進学する学生を考慮して試験では大体200人程度に合格通知を出すそうです。
 なおその恩師によるとこうした偏差値の水増しは心理学科ほどよく行われており、どの大学でも心理学部や心理学科は偏差値が比較的に高いのですが、それは人気があるからというより内部生の割合が高いせいだそうです。実際にうちの大学ではそうだったし。

 こういう風に見てみると、現代の大学入試というものが如何に形骸化しているか色々と思い悩まされます。入試の難易度が志望者の多さとかレベルに関係なく大学側の意図的な操作によって決められ、またその大学の学生の半分近くが無試験で入学してきているなどと、なんでもかんでも試験が重要だというつもりはありませんがこれだと外から試験で入ろうとする人間だけが馬鹿を見ているような気がします。
 逆に国立出身者は特別な事情がない限りはきちんと入学試験を経てきているため、最初に友人が述べたようにその人材性に信頼がおけるというのもあながち五教科というだけとじゃないのでしょう。

 この前どこかが発表したデータによると、系列校からの内部進学者と指定校推薦での推薦入学者の割合が全大学生の半分以上にも登ってきているといい、私の実感でもそれくらいの割合と見ており、今や時代はどこの大学に進学できるのかは系列校に入る中学、高校入試にかかってきていると言っても過言じゃないでしょう。
 多少偏見もありますが小学生や中学生の時点で、その後の学力や能力が分るかといったらやっぱり疑問です。大学までついていると自由に勉強できるだの、勉強以外の活動もできるなどといいますが、勉強する機会くらいはせめて平等に与えてもらいたいと逆に私は私大関係者に問いたいものです。

  補足
 文系についてはこの記事で書いたように内部進学者による偏差値の改変が行われているのですが、理系だとやっぱり一定度の学力がないと進学してもすぐに落第してしまうので、あまりこういった行為は行われないそうです。逆を言えば落第し辛い、させ辛いような文系学部、それこそ文学部や経済学部ほどこの行為が行われる傾向が高いそうです。
 にもかかわらず内部進学者であった知り合いの女の子は卒業単位が危うかった上、卒業論文も私に半分以上も書かせました。まぁ文章書くのは好きだからいいんだけどさ……。

2010年4月9日金曜日

マンガ表現における女性の立ち位置の変化

 昔、暇だから取ったジェンダー論の授業(何気に音信の取れなくなった先輩と感動の再会を果たしたけど)にてこんな事がありました。
その授業は各時代ごとのテレビドラマを取り上げては女性の社会的地位の変化を問うという授業で、「初代 白い巨塔」と「現代版 白い巨塔」、そして「東京ラヴストーリー」から「アットホームダディ」などのドラマを取り上げては時代が下るごとに向上していった女性の社会的地位がこうした娯楽作品にも現れて来ていると解説し、その一方、よく見てみると男性陣らより一段下に置かれていて未だ立場を完全に逆転するにまでは至っていないという具合でまとめていました。

 この授業のテスト方式は講師がゆるいということもあってドラマでもマンガでもいいから何かしら題材を取ってその中の男女の描かれ方をまとめよという内容だったのですが、私はちょっと試しに「夜王」という、一応ホストマンガなんだけどいろんな所に突っ込みどころが満載な素晴らしいギャグマンガを取り上げ(詳細は「夜王 用語辞典」を参照)、このマンガに出てくる男性キャラは基本的に学歴も何もないホスト達ばかりで客としてやってくる女性キャラ達よりも明らかに社会的地位が低いものの、ホスト達は自分より地位も名誉もついでにお金もある女性を固定客にすることでホスト界での地位向上を図ろうとしており、いわば女性を手段としてみなしている節があると書いたところ、なんと92点もの高得点をいただけました。

 こういったジェンダーの描かれ方というのは案外意識しないとその変化というか変遷というものは分り辛く、私もこの授業を受けてからいろいろと過去と現代の男女の描かれ方に注意してみるようになったのですが、結論から言えばやはり年代が下るごとにこうしたサブカルチャーにおいて描かれる女性の地位は明らかに向上していると思います。特に近年、私が強く感じるのはマンガやゲームにおけるヒロインの立ち位置で、これなんか私が子供だった頃と比べると明らかに女性はパワフルになっております。

 具体的にどのようなところが変化しているのかというと、恋愛マンガや推理マンガならまだともかく、バトルマンガや冒険マンガにおいては現代のヒロインはほぼ確実といっていいほど男性主人公と同じく戦うなり前に出るなりしており、ただ守られたり見守っているだけのヒロインというのはもはや皆無に近くなっております。それこそゲームだとドラクエ1におけるローラ姫や、さらわれるだけのピーチ姫みたいなキャラを今の作品で挙げろと言われてもすぐにはピンと来ません。まぁピーチ姫はスマブラで戦ったり、マリオカートではキノコも投げつけてはきますけど。

 この言うなれば戦う女性ヒロインの存在ですが、過去の作品においても全くいなかったわけではありません。私くらいの年齢の男の子なら子供の頃に「ダイの大冒険」とか読んでいると思いますが、この作品においては基本的に女性キャラもみんな前線で平気で戦ったりしていますが、やっぱり思い起こすとこういうのは当時はまだ例外扱いで、一時的な参戦やサポート役としての出撃、このほかサブキャラクターの女性が戦うのならまだしもメインヒロインは前に出て戦うというよりも主人公を見守るというケースのが多かったという気がします。古いのを挙げると、戦闘力こそ高かったものの「CITY HUNTER」の槇村香や「乱馬1/2」の天道茜など。

 ではいつから現代の戦うヒロイン像が現れるようになったのかというと、私が思うにターニングポイントとなったのはやっぱり「セーラームーン」、そしてこちらは小説ですが「スレイヤーズ」じゃないかと思います。前者は少女漫画ながら少年漫画の要素だと捉えられていたバトル的要素を取り込んだところ女性読者の中で思わぬ大ヒットを引き起こし、後者は好戦的な女性キャラがヒロインどころか主人公となってアニメ化までして大ヒットした作品です。

 当時としてはまだ女性キャラがメインとなって戦うというのが物珍しく、そのギャップを物語の面白さとして売り出すためにこの様な作品が出て行ったのかと思われます。然るに現代においては先にも述べたとおりにこの様な戦うヒロイン像、下手すりゃ男性主人公より戦闘力のある女性ヒロインも珍しくなく、守られたり見守るだけのヒロインの方が珍しくなるというほど見事に逆転しているように私には思え、かえってそのような弱々しいヒロインを出したりした方が売れる作品が出来るんじゃないかなとこの頃考えているわけであります。

 このようなヒロイン像の変化について友人と話をしたところ、やはり実社会における女性の社会進出が進んだ結果だからではないかという結論に落ち着きました。私としては女性が強くなったとというよりも、それまでも見栄だけだったかもしれませんが男性が弱くなり過ぎたということの方が大きいと思え、体育会系のノリは大嫌いですが一応はもう少し男らしさというものを定義しなおして責任感ある強い男が日本でも増えていってくれればいいなと思います。


  おまけ
 なお今連載中のマンガで私が一番好きなヒロインを挙げるとしたら、ヤングジャンプで連載中の「GANTZ」に出てくるレイカが一番お気に入りです。このキャラも一応戦ったりするけど。

  おまけ2
 戦う女性ヒロインは昔は少なかったと書いたものの、昔から今にいたらるまで「攻殻機動隊」の士郎正宗氏は延々とそういった強い女性をメインに書き続けております。SFやサイバーパンクの世界では昔から女性キャラが強かったけど、それってやっぱり未来を暗示しているのだろうか……。

2010年4月8日木曜日

食糧自給率100%は不可能という仮説

 昨日に引き続き友人から借り受けた本の話になりますが、今日は堺屋太一氏の「東大講義録 ―文明を解く―」という本とその中で述べられているある考えを紹介します。

 はっきり言って、これまで私は堺屋太一氏のことをあまり評価しておりませんでした。堺屋氏の小説は何度か読んだのですがお世辞にもあまり面白いとは思えず、またどこかの雑誌で読んだ論評にて、「現代のアメリカとモンゴル帝国はどちらも女性の権威が高くて似通っている」という、ちょっと共感し難い意見などを述べられていてどんなものかと思っていました。

 それが今回友人が貸してくれたこの本は、確か2002年の出版ですが八年も前の本とは思えないほどに示唆に富んだ内容で、その後の世相を見事に言い当てていることに驚きを感じずにはいられませんでした。この本はその題の通りに堺屋氏が東大で講義した際の内容を編集しなおしたものなのですが、歴史に沿って文明の成り立ち、そして変遷をわかりやすく且つ知見に富んだ目線で説明されております。

 その文明の成り立ちについてここで簡単に抜粋して説明すると、堺屋氏は文明の発展とともに人間の交友範囲が変化していったと唱え、大まかに表にすると下記の通りになるとしています。

始代:採集社会=血縁社会
古代:農耕社会=地縁社会
近代:産業社会=職縁社会
現代:知価社会=知縁社会

 読んだのが一ヶ月くらい前なのでちょっと記憶が曖昧ですが、大体この様な具合で文明の発展とともに人々の交友範囲、いわゆる縁の持ち方が変わってきたというわけです。なお最後の知縁社会というのは堺屋氏の造語で、共通した目的を持つもの同士で交友を持っていくという社会を意味しており、簡単な例だとこういうブログが縁で連絡を取り合う中のようなものです。

 この文明論だけでも十分におなか一杯の内容なのですが、短いながら日本の食糧政策についてもドキリとすることを堺屋氏はこの本の中で述べており、それはどのような内容かというとこのようなものでした。

「現在、農水省の官僚は日本の自給率を100%にしようなどと言っていますが、私が子供だった戦後直後は山の斜面からの石の多い河原に至るまで、日本中の土地という土地にサツマイモを植えたにもかかわらず当時の日本の人口7000万人を食べさせる事が出来なかったのですから、根本的に日本で食糧を自給する事は不可能なのです。
 だからこそ私は質の低い作物を日本で植えて作るよりも海外で高く取引される作物を栽培し、それを売って得たお金で海外の安い作物を輸入すべきだと考えるのです」(この会話文内容は私の解釈によるもので、原書からの抜粋にあらず)

 言われてみる事まさにその通りで、今よりも人口が低く、国会議事堂前ですら作付けが行われたほど耕地も多かった戦後直後で支えきれなかった食糧自給が、一億二千万にも膨れ上がった現代においてどうして支えられるものかとまさに頭をがんと殴られたような気がした一言でした。

 さらに私のほうからこの堺屋氏の主張に付け加えると、現代は戦後直後よりも農業技術から作物の品種改良も飛躍的に向上しており一概に60年以上前のデータと比較するべきでないという意見も十分理解できるのですが、その一方で現代農業には近い将来に大きなリスクが予想されております。そのリスクというのは環境問題の欺瞞性を指摘して一躍名を轟かせた中部大学の武田邦彦教授がこれまた指摘しているもので、現代農業に必須とも言える農薬原料の有機リンが確実に枯渇し始めてきているというものです。武田氏が言うにはこの有機リンが完全に枯渇しないでも現在よりも産出量が減れば価格は高騰し、農薬に頼りきった現代農業では直にコストに跳ね返ってくると予想しております。

 もちろんエコロジスト張りに、「有機リンがないなら、自然肥料に頼ればいいじゃない」などと主張するのは簡単ですが、私も伝え聞く限りでは化学肥料なしでは日本の農業、下手すりゃ世界中の農業は立ち行かないとまでされており、とてもじゃないですが自然肥料で代替出来るとは信じられません。
 この様に考えると、堺屋氏の言うとおりに下手に数字上の自給率の達成ばかりを追い求めるのではなく、いかに日本人の食糧を繋ぎとめるかという視点から少数精鋭とばかりに高級作物をより支援していくという方針の方が正しいのかもしれません。なんか真に受けすぎな気が、自分でもするけど。

2010年4月7日水曜日

書評「無理」

 先日友人より、「これ、長いけど」といってまた一冊の本を借り受けました。特に特定の本を当時読み進めていたわけでもないものの、4/10になると文芸春秋の最新号が発売されてそっちに忙殺される事から、小説とはいえ543ページもの厚さもあることだし読み終わるのは恐らく一ヶ月くらい先だろうと受け取った際に私は想定しました。
 しかしそれが、わずか三日で読み終わってしまうとは夢想だにもしませんでした。

 そんな借り受けた本というのは、直木賞作家でもある奥田英朗氏著の「無理」(原題「ゆめの」)という小説です。元々この奥田氏の本は出世作ともなった精神科医シリーズの「空中ブランコ」は買って読んだ事はあり、この作品は私も贔屓にしている堺雅人氏も出演してのドラマ化までされましたが、読んだ当時は確かにつまらなくはない小説であったものの果たして直木賞受賞作品と言えるほど面白いかとなると首を傾げる内容でした。なんていうか、話の締まり方がワンパターンだったし。

 それが今回の「無理」では文字通り、貪りつくくらいの面白さで読み始めると一気にページが進んでわずか三日、一日平均180ページのペースで読了まであっという間に持っていかれました。
 この小説のあらすじを簡単に説明すると、市町村合併によって新たに出来た地方都市の「ゆめの市」を舞台に、年齢も職業も性別も全く異なる五人の男女がそれぞれの生活の中でお互いに全く接点を持ち合わずにそれぞれの事件に遭遇していくという内容です。

 読み始めてすぐの頃、この小説の形式はかつてチュンソフトから発売された「街」という、これまた全然接点のない八人の男女の渋谷における五日間を読み進めるというゲームに近いなという印象を覚えました。この「無理」を貸してくれた友人も「街」が好きだったからわざわざ私にも貸してきたのだろうと考えたのですが、確かに「街」のように各主人公らが微妙に接点を持つというなどは共通してはいるものの、それ以上に「ゆめの市」という、架空の地方都市における生活の描写がまさに絶妙でした。

 地方公務員の主人公は後を絶たない生活補助申請の処理に手をあぐね、女子高生の主人公はなんとしても東京の大学に進学して田舎だと考える故郷を脱出しようと画策し、詐欺商品のセールス販売員である主人公は仕事のないその地域ゆえに自らの行為を正当化し、孤独な主婦の主人公は新興宗教にすがり、市議会議員の主人公はより大きな県政へ打って出るため地元ヤクザとつるむなど、それぞれの生活者の視点がやや誇張した話の中とはいえ実に生活観に溢れて生き生きと書かれております。

 しかしそうした描写の良さもさることながら、この作品で私が最も惹きつけられたのは地方都市特有の閉塞感です。私は人生の大半を現在も住んでいる関東のベッドタウンにて東京圏の文化を受けながら過ごしており、お世辞にもあまり地方の現状や生活に触れてきたとは言えない人間ではあります。しかし大学生になった当初、キャンパスの設置地の関係で一応行政区分は市ではあるものの田舎の間隔が抜け切れないようなある地方都市に数年の間生活しましたが、その際に覚えた閉塞感というのはそれまでの自分が如何に恵まれた場所、文化圏で生活してきたのかを思い知らされるには十分なものでした。

 まず何が一番辛かったといえば、自分が情報に取り残されていくという様な感覚です。それこそ関東圏で東京キー局のテレビ番組を毎日見ていたころは意識せずとも現在の流行や注目を集める情報が入ってきていたのが、地方に行くとNHKを除いてローカル局のテレビ放送となってしまってこうした情報も意識してもなかなか手に入らなくなりました。しかもその地での生活を始めた当初はインターネットも繋いでいなかったので二次媒体で補完する事も出来ず、時たま電話で話す関東圏の友人の情報を聞く度に自分が置いていかれていくように感じて心細さを日々感じていました。
 ついでに書くと、年齢がばれるかもしれませんが当時すでに関東では一般的となっていたICカード式定期券が関西では誰も知らなかったというのも激しくショックを受けました。

 更に言えば、当時はなにぶんお金がなかったもので進学に合わせてすぐにでもとアルバイト先を探したものの、関東であればそれこそちょこっと歩けばどこの店頭にもアルバイト募集の看板があるのに対し、その地域ではアルバイト情報誌をいくらひっくり返しても電車で30分くらいかけなければ募集先などなく、交通費だってあまり持ちたくないのにどないすればええねんと言いたくなるような状況でした。結局見つけたのは電車で40分の場所だったし……。

 そのときに感じた感傷というか閉塞感が、今回この「無理」を読んで一度にまとめて呼び起こされたわけです。ちょこっと地方に住んでいただけでえらそうに言うべきではないと分ってはいますが、近年の日本の地方都市には東京や大坂近辺にずっと住んでいる人間にはとてもじゃないですが理解のしようのない、絶望感にも近い閉塞間は確かにあると私は思います。それら閉塞感が何故生まれるのかといえばネットを初めとした情報通信の発達や、不況による失業者の増加、地方格差などいくらでも理由をあげる事は出来ますが、実際にはどのような閉塞感があるのかとなるとこれまで納得させられるような表現や説明は今まで見てきませんでした。

 それが今回、多少持ち上げすぎな気もしますが「無理」の中では各主人公を通して彼らの抱える閉塞感が如何なく書かれており、徐々に地方都市に適応していった自分に対して最後まで閉塞感と戦い続けた別の友人には是非読んでもらいたい作品です。

  おまけ
 今回「無理」を貸してくれた友人は類稀な読書家で、「少年H」は嘘八百ばかりだということも教えてくれた友人でした。会う度にいろいろと本を貸してくれるので、恐らく去年に私が読んだ本の八割は彼からの提供によるものです。

2010年4月6日火曜日

続・平沼、与謝野新党について

 友人からこの件について質問のメールが来たので、今日はそれに答える形でまた新党について解説します。

今回作られる新党には現代の爆弾男といってよい鳩山邦夫氏が参加しないとすでに報じられており、本人もそう語っている事から少なくとも設立メンバーには加わらない事は確実でしょう。今日来た友人からの質問は邦夫氏が自民党を離党する際に与謝野氏と何らかの打ち合わせをしていなかったのかという質問だったのですが、恐らく彼の性格と行動振りを考えるとそういうものは一切なく、離党してはみたものの与謝野氏からはやっぱり相手にされなかったのが実情だと思います。

 それで与謝野氏と平沼氏が何故邦夫氏を相手にしなかったかというと、まず第一に邦夫氏も兄の由紀夫氏同様に実母から献金を受けるという問題のある行動を取っていたことと、邦夫氏の破天荒な性格による行動によって新党の規律が緩んだりするのを恐れたのかと思います。ただこうした邦夫氏への処遇はまったく理解できないわけではないのですが、今回こうして明確に拒絶したことで新たに賛同者、特に自民党からの離党者を受け入れるに当たって「人を選ぶ」という印象が付きまとってしまい、参院選までの組織拡大においてしこりとなっていく可能性があります。もっとも、後述する理由からそんなことをあまり考える必要はないのかもしれませんが。

 実はこの平沼、与謝野新党について日曜日の朝日新聞にて、面白い論評が書かれてありました。
 概要を簡単に説明すると、現在民主党を不支持とする層が増加しているものの現在の自民党ではそのような反民主層の受け皿にはなりきれず、このままだとそうした票が丸々「みんなの党」といった第三局の政党へ票が流れていく事が予想されます。そこで自民党としては敢えて与謝野氏を平沼氏とも打ち合わせをした上で自民党の外に新党を作らせ、みんなの党へと流れる票を新党で吸収し、票の確保に努めるという作戦に出たという論評です。いわば、参院選に向けて自民党は自身の支部政党を与謝野氏と平沼氏に作らせたというわけです。

 あまり持ち上げるのもなんですが、これが全く根拠のない説だとは私は思いません。というのも新党立ち上げに至る過程で与謝野氏が何故自民党を離れる必要があるのか、これまで通りに頼りない執行部の刷新を求めていくだけじゃ何で駄目なのかがはっきりしません。また新党がどのような政策を訴えていくのかも全く見えてこず、むしろ与謝野氏や平沼氏のかねてからの主張を考えると今の自民党が主張する政策と全く同じことを主張する可能性が非常に高いです。

 そして新党の構成メンバーを見ても、どう見ても古い自民党を捨てて新しい船出を乗り出していこうという風には全く見えない高齢の、しかもかなりずぶずぶに古い自民党に染まりきった政治家ばかりです。まだ河野太郎氏や塩崎恭久氏のような人が離党して新党を作るのなら理解できるにしろ、どうしてこのメンバーが新党をわざわざ作るのか、藤井孝雄氏なんて私があまり知らないせいかも知れないけど考えれば考えるほど分らなくなってくる人物です。

 こうした疑問も、上記に上げた自民の支部政党として票を集める、議員を受からせるだけの見せ掛けの組織だというのであればある程度納得できます。無論確証は未だありませんが、政局を判断していくのに参考にはなる考え方だと思います。

2010年4月5日月曜日

私が高校進学を拒否しようとしたわけ

 またちょっと時間がないのと頭痛があるため短くまとめられる自分の近況についてですが、先日、実に七年ぶりに母校の中学、高校に友人とともに尋ねて行きました。中高一貫校のその学校はこのブログでも何度か書いておりますが私にとってはあまりいい場所ではなく、はっきり言って中学高校時代はもう一度過ごせと言われても心からお断りしたいような嫌な時代でしたが、教えてもらった教師らに対しては親身に相談に乗ってもらっていたので人並みに敬意を持っていたことから今回友人にくっついて訪問する事にしました。
 具体的にその恩師らに何をどうこう話したかまでは書きませんでしたが、恐らく一番厄介な問題を吹っかけた恩師と久々に会った際に、私が中学三年の頃に言い出したとんでもない発言をお互い振り返っていました。

 具体的にどんな事を過去の私は言い出したのかというと、なんと付属の高校には進学せず、高校生にはならないと言い出したのです。というのもすでに当時から文章で身を立てる作家になろうと目標を持っており、その目標に対して高校は時間の制約も大きい上に何のプラスにもならないと判断し、作家となれるよう文章力を磨きつついろんなことを経験していく上では高校に行かない方が自分にはいいだろうと考えたからです。当時から私は学校の授業を受けるより自分で勉強した方が効率がよくなっており、大学には専門的な知識や活動を行う上で進学する必要はあると考えていたので高校は行かずに大検を取得する道のほうがいいと思ったわけです。

 もちろんこんなの両親は許さないだろうし自分がいくら願った所で叶うまいということは分っていたのですが、時の担任には一応念のためにこういう風に考えていると相談し、案の定というか高校くらいは行っとけと言われたわけです。結局私は高校にそのまま進級してきちんと卒業するまで変にぐれることなく通い続けたわけですが、今思いなおしても多分行っても行かなくってもそんなに大きな人生の変化はなかったんじゃないかと思います。あんまりこういうことは大きな声で言うべきだとは思いませんが、本人にやりたいことがはっきりと定まっているのであれば変に世間体を気にせずその道に進んだ方がずっといいんじゃないかと思います。見つからない人は見つからない人でどう知れば一番まだ妥協できるか、割がいいのかを考えればいいのだし、すくなくとも人生を後ろ向きに考えるよりリスクテイクをしてでも前向きに見ていった方が何事も楽しいんじゃないでしょうか。
 少なくとも私にとっては、あの高校時代は無意味以外の何者でもなかったしなぁ。

2010年4月4日日曜日

コヴェントリーのゴディバのエピソード

 先日に地元の友人と会って話しをしてきたのですが、その友人は私と同じくイギリスに行った経験がある友人だったのでふとしたことからイギリスの話になりました。イギリスというと一般にはイギリス紳士ばかりが浮かんできますが、なんだかんだいって個性が強い国なのでイギリス紳士に限らず知っている物同士では話題にするネタが次から次へと湧いて来る国です。恐らく最も話題になるのは、「メシがまずい」、「それなのに物価が高い」ことでしょうが。

 それでその友人とのイギリス会話の際、一番盛り上がったのは今日取り上げる「ピーピング・トム」の話でした。このピーピング・トムというのは今も高級チョコとして名高い「ゴディバ」のブランド名に使われたエピソードに出てくる男の話で、概要をWikipediaからそのまま引用すると下記のようになります。

 領主レオフリックとゴダイヴァ夫人については有名な伝説がある。重税に苦しむ領民を気の毒に思ったゴダイヴァが、夫レオフリックに税を軽くするように申し述べたところ、レオフリックはゴダイヴァが慎み深い女性であることを知りながら「お前が全裸で馬に乗って町を一周したら考えてやろう」と言った。悩んだ末にゴダイヴァは決意し、町中の民に外を見ないように命じた上、長い髪だけを身にまとって馬で町を一周したのである。町民はみな、このゴダイヴァのふるまいに心を打たれ、窓を閉めて閉じこもった。これにより、レオフリックはやむを得ず税を軽くしたという(なお、このときにただ1人外を覗いた男がおり、これがピーピング・トム(Peeping Tom)という言葉の由来になったという)。

 このエピソードから例のチョコレート会社は「ゴディバ(ゴダイヴァ)」という名前をとったわけなのですが、最後に書かれている不心得者の「Peeping Tom」を直訳すると「覗き屋トム」といったところで、和訳として私はよく、「英語版の田代という意味だ」と周りには説明しております。
 実は私はイギリスに旅行に行った際、何故かこのゴディバのエピソードの舞台となったコヴェントリーで一泊しました。当初はバーミンガムで宿を取ろうと思っていたところ、たまたまその日は当地でイベントがあって宿がすべて埋まっておりコヴェントリーに行き着いたわけなのですが、元々ゴディバのエピソードも知っていたので着いた場所があの話の舞台と聞いていろいろと思う事がありながら街中にあるゴディバ像とかも見て周りました。

 それにしてもこのエピソードは裸の女性が馬に乗るという暴れん坊将軍も真っ青なエピソードぶりといい、ピーピング・トムというお約束なキャラといいすこぶる面白い内容です。なお伝説によるピーピング・トムは神の天罰によってゴディバを見るや失明したそうなのですが、このエピソードを私がよく訪れるイラストサイトの方も引用しておりましたので紹介しておきます。

レディ・ゴディバでぐぐれギャングスター

 一番トップには裸のゴディバ婦人の絵が描かれていますが、ページ下部ではピーピング・トムの想像図として素晴らしいキャラを紹介してくれております。
 結構いろいろとイラストサイトのブックマークを私は持っているのですが、ここのサイト管理人、腹八分味之介氏ほどキワモノ系の悪役を書ける人は未だにお目にかかれておりません。普通に美少女イラストも十分に上手なのですが、腹八分氏曰く「モヒカン系」を書かせたら恐らくこの人の右に出てくるのは北斗の拳の原哲夫氏くらいなものでしょう。このほかホラー映画系にもやけに詳しいので、興味がある方は是非別ページもピーピング・トムばりに覗いていってください。

  おまけ
 京都の嵐山にて、「ピーピング・トム」というカフェレストランがありました。通る度に気になっていたのですが、なにぶんお金のない頃でしたので結局ここも「中国料理 ほあんほあん」同様に一度も訪れず終いでした。今度京都に行ったらちゃんと行って見ようかな。

2010年4月3日土曜日

平沼、与謝野新党について

 先日、参議院にて自民党の若林元農水大臣(最初、「元の薄い大臣」と変換されたよ)が、採決の際に退席していた青木参議院議員の投票ボタンを勝手に押すというとんでもない行動の責任を取って辞任しました。はっきり言って現在の政局は与党民主党が一向に普天間問題の決着案を見出せないばかりか早くも子供手当ての外国人への配布を巡って問題が起き始めており、野党自民党としてはこれ以上ないくらい与党を攻撃できる材料が揃っているにもかかわらずこの始末なのだからしばらく政権を取り返す事は出来ないでしょう。よく自民党と民主党を比較していろいろ話す方がおりますが、私に言わせるなら今は自民も民主もあまりにも情けない状況で、民主党の若手を中心とした政界再編を期待する意味ではまだ民主党が与党の方が自民党よりかはよかったかなと思います。

 そんな空中分解気味の自民党で今日ようやく動きがあり、元自民党議員で郵政民営化論争の際に袂を分った平沼赳夫氏が新党を結成する事を昨日発表し、それに続く形でこちらも新党結成をかねてより公言してはばからなかった与謝野馨氏も、自民党を正式に離党して本日平沼氏の新党に合流すると発表しました。

与謝野・平沼氏が共同代表…新党合意(読売新聞)

 このニュースについて私の感想を述べるなら、この平沼新党は恐らく次の選挙時に大きな勢力とはなりきれずに終わるかと思います。

 その理由を一つ一つ説明していくと、まず構成議員の問題があります。
 今回与謝野氏は現在の自民党には問題が多いということで離党をしましたが、今度新しく出来る平沼新党も基本的には元自民党の重鎮議員、しかも高齢者ばかりで占められる可能性が非常に高いです。たとえ本人らにその気はなくとも有権者からは昔の自民党への回帰のように受け取られて、よっぽど面白い提言をしない限りは支持者を広げる事は出来ずにただ間口を狭くするだけに終わる可能性が高いでしょう。第一、掲げる政策自体が恐らく古い自民、今の民主と同じバラマキと郵政復古しかないでしょうし。

 第二の理由として、多少ネガキャンが入ってしまいますが平沼氏の人間性があります。まだ与謝野氏は病気持ちで高齢であることを除けば私も高く評価しており申し分もないのですが、平沼氏については私はかねてよりその人格を疑っております。具体的にどのようなところに問題があるのかというとどうもこの人は自分の考えは公の考えに適っていると亀井静香のように信じきっている節があり、平気でとんでもない発言を行ってきております。

 いくつか例を出すと、自らが自民党を離脱する事になった2005年の郵政選挙においては小泉元首相は民意を無視して郵政民営化を推し進めようとしていると言いながらも自民党が大勝するや、国民は何も分っていないと国民の無能をあげつらいました。政治家であればそういう風に思いたくなるのも分らないわけではないのですが、それを公然と言い放つのとそうでないのでは大きな差があるでしょう
 ただ平沼氏はその後、安倍政権において郵政造反組みの復党処分が行われた際には一人だけ今後は執行部に従うという誓約書を提出せずに筋は通した事は私も評価しております。

 もう一つ平沼氏に対して私が不信感を覚えずにいられない発言として、かつて自民党の山本一太議員に対して面と向って、「お前、抹殺するぞ!」と言い放った発言があります。詳しい詳細はWikipediaにも書いてあり、本人も発言後にあれは言い過ぎたと確か述べていたと思いますが、このような不穏当な発言をテレビカメラが回っている前で行うというのは政治家というより人間としてもどうかと疑わずにはおれません。恐らく今後新党を作って平沼氏が代表となれば報道される回数も増加し、このような暴言癖が度々出てくるであろうことを予想すれば今度できる新党も軌道には乗らないかと考えるわけです。

 そういうわけで結論としては、この平沼新党は第二の国民新党のように古い自民党議員の集合で終わる可能性が高いというのが私の意見です。仮に可能性があるとしたら未だ国民の人気が根強い自民党の桝添要一氏を党首に迎えた上で、彼を参議院から衆議院議員へと鞍替えさせて首班指名を行うという方法くらいなものでしょう。ただ桝添氏としては死に体の自民党をそっくりそのまま引き受けるというほうに心が動いているようにも見え、そうのように持って行くのは難しいでしょう。

2010年4月2日金曜日

中国がどうしても先進国になれない理由

 世の中、考えればすぐわかる事でもはっきり言われるまで誤解しているということがよくあります。今の地球が温暖化することで海水面が上昇する事なんてありえないということ然り、若者は車離れしてるというが今の若者はそもそも車に興味を持った事がないということ然り。
その中でも中国関係の仕事なり研究なりをしている人にとっては当たり前でもそうでない人には意外と知られていない事実として、たとえ中国がどんなに、何十年努力したとしても絶対に先進国にはなれないという事実があります。

 先月、モナコの提案で地中海産マグロを絶滅危惧種を保護するワシントン条約によって禁輸すべしという決議が行われましたが、結果は日本国内の下馬評を大きく覆して大差で否決となりました。日本人は世界で最もマグロを食べているというだけあってこのニュースは国際ニュースの割には会議前から連日大きく取り上げられており、その注目も高かっただけに結果が出るや、まるで戦争にでも勝ったかのような会議否決を歓迎する報道があちこちで見られました。

 そのようなニュースでは一体何故予想を覆して否決が賛成票を大きく上回ったのかというと、会議直前まで続けられた日本による他の会議参加国へのロビー活動が実を結んだと大きく報道されていましたが、私はというとこの報道は実は怪しいと考えていました。というのも日本はこれまでの国際会議では空気を一切読まずに地雷禁止条約に反対するなどほとんどアメリカに追従しているだけで自国の思惑に他国を引っ張るというロビー活動など出来るものかと甚だ疑わしい外交しかしておらず、また会議前の国内報道では否決させるのは難しいなどと弱気な意見ばかりが出ていたなどロビー活動が功を奏していたというのならやや矛盾している状況があったからです。

 ではどうして否決国が多くなったのかとなると、もちろん証拠なんてどこにもありませんが、私はあのマグロ禁輸の会議で否決に持ち込んだのは他でもなく中国だったと思います。そう思う理由をいくつか挙げるとあの会議で否決票を投じた国には日本にはあまり縁がないけれどもこのところ中国が援助をバンバンと行って影響力を強めているアフリカ諸国が多く、当の中国自身もこのところマグロの消費量が増えてきている事から日本や韓国とともに提案がなされてから一貫として反対を続けてきていました。
 一部週刊誌のみがこうした見方を呈して赤松農水大臣は中国の手柄を自分のものとして喧伝していると指摘していましたが、私もこの週刊誌の報道を見る前から同じ見方を持っていました。

 ちょっと話が大きく外れましたが、このように国際会議の場においても日増しに発言力を増してもはや自ら先進国の域に達したとまで自称する中国(都合のいいところでは発展途上国と自称するけど)がどうして先進国にはなれないのかというと、先ほどのマグロの話とも関係があります。結論を言ってしまうと、中国は人口があまりにも多過ぎるために先進国並の生活を行うと地球の資源が持たないからです。

 最近はちょっと落ち着きましたが、三年前頃から中国のあまりの経済成長によって日本からくず鉄と古紙が急激に不足するようになりました。これらくず鉄と古紙はほぼすべて北京オリンピックを控えて活発な生産活動が行われていた中国へ持っていかれたために日本で不足したのですが、これら二つの資源に限らずこのところ中国人が手を出すようになった資源はどれも世界中で一挙に不足するという事態がこのところ頻発しております。前にはワインを飲むようになってつまみのチーズが急に不足したというし。

 我々日本人からするとイメージしにくいですが、資源というものは基本的には有限で、需要が低い資源ならともかく需要が高い資源は文字通り奪い合いになります。これまで中国を初めとした発展途上国の指導者らは先進国が富を独占するから発展途上国は豊かになれないと批判してきましたがこれはまさにその通りで、経済力の強い上位数パーセントの先進国が世界の過半数以上の資源を独占してきたのがこれまでの世界です。

 しかしこうした体制も、近年の中国やインドといった急速に経済成長を果たした急成長国らの登場によってほころびが生じ、石油から鉄、そして今回槍玉に挙がったマグロを含む食料といった資源が徐々に戦国サバイバル的な様相を見せ始めております。特に中国やインドはそれぞれの人口が半端でないために、その影響力も生半可なものではありません。

 ここまで言えばもう大体察しが着くと思いますが、少なくとも現時点において、中国人全員が先進国並の生活を行うに足る資源が地球にないため、一部の富裕層ならともかく中国は国全体としては絶対に先進国になれないのです。たとえどんなに中国が努力して経済成長を果たしたとしても。
 もちろんこの事実は中国政府も十分に理解しているでしょうが、今の中国の貧困層を支えているのは、「頑張れば、みんな裕福になれる」という希望であるために、絶対にこんな事は口にせずむしろ希望があるかのように宣伝しております。幾ら頑張っても一部の人しか裕福にならないなんて言ったら、多分暴動起こるだろうし。

 これは逆に言えば、そろそろ資源の枯渇などについて日本人もいろいろと考えるべき時期に来ていることになります。経済力が低下して他国から資源が買えなくなるのは言うまでもありませんが、たとえ現状の経済力を維持したとしても中国のような国が一定度の成長を果たすだけで資源は確実に世界からなくなります。そのような時代にはどうなるか、私がわざわざ言うまでもないのでここでは書きませんが、せめて自分が生きている間くらいは資源も持って欲しいなと思います。

2010年3月31日水曜日

郵政民営化の逆行について

 昨日の閣議にて、先週より各所を騒がせていた郵便貯金の保障限度枠を現行の1000万円から2000万円にまで引き上げられる事が決められました。この件について私の意見を言えば、率直に残念だといわざるを得ません。

 この限度枠の拡大に限らず郵政大臣の亀井静香は一度民営化した郵政をこのまま国営化に戻すつもりのようで、かねて私も頑張って書いた「郵政民営化の是非を問う」の記事にて問題性が高いと指摘した「財政投融資」についても、今朝のテレビ番組で限度枠の拡大で集めた資金をどうするかと聞かれ、「道路建設などに使う」と発言するあたり事実上復活させるつもりなのでしょう。「郵政民営化の是非を問う」の記事の繰り返しになりますが、無駄遣いのまさに根本とも言える財政投融資を折角潰したのに、またも復活するなんて聞いてて本当にバカらしくなります。

 ちょっと今回の民営化逆行には私自身が利害に関わる立場ではないものの納得行かない点が多いので亀井静香のネガティブキャンペーンを張るとすると、彼自身は俗に言う郵政票を多く持つという立場であるがゆえに郵政民営化に反対しているだけで、具体的にどのように民営化に反対しているのかという方向性には乏しいと言わざるを得ません。また彼に限らず一部の政治家は政治を行う事を本業とするのではなく選挙に受かる事が本業となっており、亀井静香についてはホリエモンこと堀江貴文氏も著書にてその点を厳しく批判しております。

 堀江氏はかつての郵政選挙の際に自らも自民党の推薦候補として亀井氏の選挙区にて立候補しましたが、新人候補でありながらその抜群の知名度ゆえに落選こそしたまでも相当数の票を獲得するに至りました。この選挙の際、亀井は堀江氏を格差論者だなどと口汚く批判していたのですが、堀江氏が例の事件で一時収監されて出獄後、なんと堀江氏に対して国民新党に入って選挙に出馬しないかと打診してきたそうです。

 堀江氏によると、恐らく亀井としては今後選挙で自分を脅かす前に自分のところで囲っておこうとして打診してきたのだろうと推測していましたが、私もこの堀江氏の意見に同感です。この一件について堀江氏は政治家というよりも選挙屋とも言うべきそのあくなき根性に呆れたと述べていましたが、そんな選挙屋が大臣やっているということに私もいろんな意味で疲れてきます。今度また一本記事を独立して書いてもいいのですが、私は基本的に政治家という職業はこうした選挙屋を生み出さないためにも副業でやるべき仕事と捉えるべきだと考えております。

2010年3月30日火曜日

明治天皇と戦争

 このところ書いていないけど恐らく一番の人気コンテンツであろう歴史物をまた一本投下しておこうと思います。

 現代の日本において最大のタブーと来ればそれは言うまでもなく天皇家で、そのためか明治以前ならともかく以後の天皇となると国内で歴史的評価や検証を行う事もやや難しく、今日取り上げる明治天皇のように日本国内以上に中国を初めとした外国の方が知名度や評価が高かったりすることも少なくありません。その明治天皇ですが、日本人であれば恐らく君主らしくひげを生やした軍服姿の天皇の写真を思い浮かべる事は可能でしょうが、具体的にどのような人物でどんな性格であったかとなるとあまり答えられない方が多いかと思います。私自身がそうだし。

 では明治天皇はどんな人物だったのか、そのわずかな人となりを知る上で私がよく参考にしているエピソードに、明治時代の日清、日露の戦争に対する明治天皇の反応があります。

 日清、日露ともに明治維新後の日本の運命を決める重要な戦争であった事に間違いはありません。この戦争に対して権威という神輿に担ぎ上げられた存在とはいえ憲法上の主権者であった明治天皇は開戦当初にどのような反応をしたのかというと、まず日清戦争については実は開戦に反対だったそうです。

 明治天皇がどのような意図を持っていたかまでは私も把握していないのですが、開戦時において周囲に対し、「この戦争は朕の戦争にあらず」と発言していた事は間違いないようで、同じく開戦に反対していた時の首相の伊藤博文らを呼んでは何度も愚痴を述べていたそうです。とはいえ明治天皇は公私というか自分の役割はきちんと認識できる方だったようで、開戦後は重臣の意見に従って大本営の置かれた広島に自ら赴きそこでしばらく執務を取ったそうです。

 一体何故明治天皇は日清戦争に反対していたのかというと、いくつかある意見の中でもやはり勝算を見込んでいなかったというのが一番有力です。当時は列強にやられっぱなしとはいえ「眠れる獅子」とまで呼ばれた清に対し、幾ら日本が明治維新で頑張ったとはいえ勝てると考えていた人間は少数だったそうです。
 それにもかかわらず、というより何で主権者である天皇が反対しているにもかかわらず開戦となったのかと思われる方もおられるでしょうが、まだ明治の時代は天皇の神格化がそれほど進んでおらず、また伊藤博文や山県有朋といった維新の元勲らも多数生きてて政治の実権は彼らが持っていたために現実的には明治天皇はそれほど決定権がなかったというのが実情です。

 ついでに書いておくと昭和の時代において軍部が暴走した際に彼らが錦の御旗として使った「統帥権の干犯」という概念ですが、これは主権者である天皇の意思を無視して軍事の決定を行ってはならないという考え方であるものの、天皇の意見なんて大日本帝国憲法制定当初から最後までほぼ一貫して無視されていたということになります。さらに付け加えると、この「統帥権の干犯」という表現はロンドン海軍軍縮条約を結んだ与党を攻撃するために当時野党議員の鳩山一郎が使ったのが最初です。恐らく横で聞いてた軍部は、「こんな便利なものがあったんだ!」と思ったに違いないでしょう。はっきり言いますが鳩山一郎という政治家は決してハト派ではなく、孫同様にその時々において平気で意見をひっくり返す癖のある政治家でその評価は肯定的な部分と否定的な部分の両面共に大きいといえます。

 話は明治天皇に戻りますが、当初は反対こそしていたもののなんとか日清戦争は勝利を得る事が出来ました。それにしても日清戦争の日本側死者の八割以上が病死というのは凄いものですが。
 その日清の後の日露戦争では開戦前、相手が強国ロシアということもあって日清戦争以上に重臣達も開戦には慎重でした。そこで明治天皇はどんな風に考えていたのかですが、ちょっと記憶が曖昧ですが確か昔出ていた「週間日本史」で書かかれていた記事では、明治天皇は開戦に反対だった伊藤博文を呼ぶとこう尋ねたそうです。

「この戦争、もし負けたら朕はどうなるのだろうか?」
「さすがに殺されるということはないでしょうが、フランスのナポレオン三世(敗戦によって退位し、亡命した)の例もあります。ただでは済まないでしょう」
「もしその時、おぬし達はどうする」
「もちろん陛下と運命をともにします」

 このやり取りを受けて、最終的に明治天皇は日露戦争に対して腹を括ったと聞いております。
 さっきの日清戦争のエピソードはあちこちで言われてはいますが、こっちの日露戦争については何度も言いますが記憶は曖昧です。ただ実際にも、こんな感じのやり取りがあったんじゃないかと私は思います。

 別に私に限るわけじゃないですが明治天皇の資質や性格はともかくとして、実際に切り盛りする維新の元勲らとその旗頭となった天皇の連携はこの時代において非常に上手く機能しており、それが明治維新の大成功につながったというのは間違いないでしょう。それだけに維新の元勲が去って東大、陸海大学校出身者が切り盛りするようになった昭和前期の日本が勝算のない戦争を始めて国土が灰燼に帰すまで戦争を続けてしまったというのは、明治時代に元勲と天皇の連携に過分に頼ってしまっていたということも一因であると私は思います。

2010年3月29日月曜日

鳩山政権、デノミ検討の真偽

 ちょっと当たり障りのないリンクが見つからないのでこのまま内容を書いてしまいますが、日経新聞が3/19日付の朝刊にて鳩山由紀夫首相がデノミ、つまり通貨兌換を去年から検討していたもののその先導役となる藤井前財務相が退任した事から立ち消えになったというニュースを報じました。なかなかに驚きなニュースなので早速私もネット上で、「鳩山 デノミ」と検索ワードをかけて調べてみた所、やはりというかこのニュースを取り上げては鳩山首相を批判するブログがいくつもヒットしたのですが、結論から言うと私はこのニュースの真偽は結構怪しいんじゃないかという気がします。

 デノミというと最近ではジンバブエや北朝鮮が経済改革の切り札として使ったところ見事に大失敗をしてしまい、更なる経済悪化を自ら招いてしまった例が記憶にも新しいかと思います。通貨兌換といってこれまでの1000円を十分の一にして100円にするにしてもその過程では様々な経済的な混乱、システム的な問題が発生されることが予想され、ましてや国際取引市場でも使われる円通貨を不用意に変動させようものなら国際的にもいろいろ問題であり、私としても現時点でデノミをするなんて以ての外だと考えております。

 そんなデノミを鳩山首相は実は画策していたと日経新聞は報じているのですが、ニュース発表から十日が経った現在、このニュースを報じている日経以外のメディアが未だ見当たらないのが私はやけに気になります。もし内容が本当であればそれこそ鳩山政権の運営姿勢を疑いかねない政策ゆえに私は普通ならば他のメディアが追加取材をやっているものだと思うのですが、このニュースを取り上げたブログをいちいち見ても最初に報じた日経以外のソースはないばかりか、民主党寄りの朝日新聞ならともかく普段から鳩山政権にこれでもかというくらいにいちゃもんをつけ続けている産経ですらこのデノミについては全く触れていません。更に言えば、一応毎日テレビニュースで首相会見を確認していますがこのデノミ検討があったのかについて質問する記者も見当たりません。

 また本来、皮肉な話ですがこういったニュースというのは日本だと外国メディアの報道から始まるのが常です。というのも日本には各紙が情報を抜かないための記者クラブ制度がよく整備されており、デノミのような証券市場にも影響を与えかねないニュースだと各社一斉に報じるか外国メディアが報じてからようやく報じるかのほぼ二択です。そういった事例と比べると、今回の日経だけが報じているという浮き方が妙に感じられます。

 で、そもそもの日経の報道記事も読んでみるとネタ元についてはいつも通りに、「周辺によると……」と書いてあるだけで、首相周辺なのか日経周辺なのかすら区別がつかない書き方をしております。
 日経は先日にもサントリーとキリンの合併交渉の終盤において他紙が恐らく破談になるだろうと報じていた中で、一番最初に合併交渉を始めたことをスクープした立場ゆえか破談が正式に発表されるまで強気に合意間近と報じ続けておりました。今回の件と関係ないといえば関係ないですが、ちょっとこのところの日経の報道について疑問を感じたので合わせて取り上げる事にしました。それにしても、日経さんは続報をくれないのかな。

2010年3月28日日曜日

時間の止まった風景について

 私が京都にいた頃、大部分の期間を昔から京都駅前でやっていた喫茶店にてアルバイトをしていました。最初は京都市から離れた場所に下宿を借りていたので電車通勤でしたが、市内に下宿を移してからは自転車でいけるようになり京都市北区から鴨川沿いを朝早くから自転車で駆け下って通っていた事を割と今でも懐かしく感じます。

 この店は京都駅前にあるとはいえ競合する店が数多く、また近年はスターバックスなどのファーストフード店も数多く増えたためにやってくる客と来れば決まって常連の客ばかりだったのですが、ある冬の日、見慣れない初老の男性客が午後に一人で入ってきた事がありました。なんか珍しい客だなと私が水とお絞りを持っていくと、その男性客は店内をしげしげと眺め回しながらこんな言葉を言いました。

「ここだけは、変わってないなぁ」

 話をしてみると、なんでもその男性客は十年位前にも私のバイト先の喫茶店を訪れた事のある方だったそうで、京都駅前が十年前と比べるといろんな建物が出来たりしてすっかり様変わりしているのに対してこの喫茶店だけは十年前と何も変わっていないことに驚いていたそうです。その方が感慨深げにコーヒーを一杯飲んで帰ると店主は自慢げに、「どや、うちは昔からずっと同じでやねん」と話した上で、あの客が言った様にその喫茶店の周囲である京都駅前は駐車場が出来たりでかいビルが建ったりするなど、その変容振りはずっとここに住んでいても驚くほどだと話しました。

 私は時間というものは基本的に、視覚的にも聴覚的にも、なにか変化を感じ取る事で初めて時間の経過を認知できると考えております。逆を言えば目に見える風景、耳に入る音がなんの変化もなければ時間というものは感じ辛く、何も聞こえない部屋にずっと閉じ込められたりしたらすぐに時間の感覚は狂うんじゃないかと考えております。
 そこで今回のバイト先の喫茶店の話です。店主も言うとおりにその喫茶店は昔からずっと同じ佇まいで同じ内容の商品を提供し続けており、周囲が大きく様変わりしていることに比べるとなにか一人だけ時間から置いていかれたような、十年ぶりにやってきたその客にとってすれば時間が止まった様な空間であったのかと思います。

 この時間が止まったような空間、言い換えるならば変化が見られない空間というものは、目立たないけど個人々々の時間感覚に大きく影響を与えるものなんじゃないかと私は考えております。

 誰にでもある経験でたとえると、かつて卒業した小学校の前などを久しぶりに通ると、「ああ、ここを卒業してもう○○年だなぁ」などと感じる事は皆さんにもあるかと思います。もっともその小学校が取り壊されていたり改築されていたらちょっとしおらしくなっちゃいますが。
 私は時間の止まった空間というのものは、その空間にかつて触れた事のある時間と現在までの時間の経過をその人に強く認識させる格好の材料なのではないかと思います。ただ漠然と五年前、十年前と抽象的に考えるより、先ほどの小学校との例を出せば卒業してから現在までの時間が○○年だなどというように、抽象的な時間の概念と具体的な時間の概念を結ぶ大きな材料になるような気がします。

 またそのように時間概念を結ぶだけでなく、これは私見ですが時間の止まった空間というものは見た者にぐっと往年の心象を呼び起こす材料にもなるかと思います。これまた誰にでもありそうな例でたとえると、学生時代によく行った飲食店に立ち寄る事ですっかりサラリーマン化してしまった思考が一時的に学生時代に戻り、あの頃は若かったなと振り返りつつもしばらくは学生っぽい考え方をするのが続いたりするなどと。
 もちろんこの様になるのは時間の止まった空間だけでなく昔に聞いた音楽や食べた料理、なんだったら懐かしい知人に会っても十分に起こり得るでしょう。ただ知人の場合、その人が以前とすっかり変わってしまっていたら逆の意味で時間の経過を実感する事になるかもしれませんが。

 友人の言によると私は昔から全くキャラクターが変わらない人間らしく、なんかこのところ会う度にいろんな人間から、「花園君は変わらないなぁ」と言われたりします。ただこれは全く意識していないわけでなく、見かけはともかく私は意図的に思考の根っこのところは自分を変えないように日々努力しております。何故そうしているのかという理由はひとまず置いといて、その自分を変えないための一つの手段として用いているのがまさに今回紹介した時間の止まった空間で、別に大した儀式めいた事をしているわけではないのですが自分の人生の節目節目において、その当時の自分を強く想起させるような風景や場所を心中で設定し、記憶に留めるようにしております。

 目下の所、今の自分にとって一番思い入れが深い「時間の止まった空間」に当たるのは京都市伏見区にある伏見稲荷神社で、京都に立ち寄った際には必ずここを一回は通るようにしております。何故伏見稲荷がそのような場所に設定されたのかといえば、まず第一には神社ゆえにこれ以後もめったな変化が起こらないことが予想されることと、割と自分が野心満々だったころに初めて訪れたということからです。

 人間、肉体が老いるということは今の技術ではどうにも抗えません。しかし精神については心がけ次第ではまだどうとでもなる余地があり、自分の精神性がピークに近づいたと感じたのであればゲームのセーブじゃありませんが、時間の止まった空間になにかしらその痕跡を残しておくというのは悪い事じゃないと思います。仮にそれ以後に自分の精神が更なる成長を遂げたとしても、過去のセーブ記録と比較する事で成長を実感したり、その時点で必要なものがわかってくるかもしれません。
 こういうところに妙にこだわるあたり、いつまでも子供っぽいと言われる所以なのでしょうが……。

2010年3月26日金曜日

京都の道の特殊事情について

 先日リンクを結んでいるアングラ王子さんのブログにてコメントしたところ、下記のようなコメントをアングラ王子さんからいただきました。

「京都の人たちに道を尋ねると、ここから北へ~とか西へ○○、っていう感じで方角で言われることが多かったのですが、たまたまだったのでしょうか?」

 この返答を受け取った時に私は不覚ながら思わず笑ってしまいました。恐らく京都に住んだ経験のある方なら私と、同じような印象を覚えるかと思います。

 この京都人の道案内のやり方ですが、本人達は至って悪気はない……とも言い切れないのですが、昔から京都に住んでいる方にとってすればごく自然な教え方なのです。というのも京都市はきれいに東西南北に沿って道路が走っており、しかもすべての通りに一つ一つ名前がついているので道案内をする際には通り名と東西南北の方角を使って説明をします。そのためちょっとした道案内でも、

「ここは二条通りで、向こうに大きな通りがあってそこが今出川通りなんですけど、今出川通りに沿って東に行き続けると京阪の出町柳駅がありますよ」

 という感じで、京都の地理がないとわからんやないけと言いたくなるような説明をみんな平気で言ってしまうところがあります。向こうにとってすると、京都の地理もわからんくせに旅行にようお越しはったなぁ、みたいに思っているのかもしれませんが。

 しかしそんな京都人からすると逆に東京の地理は曲がりくねった道が多く、通りの名前もてんでんばらばら、こんな場所でどうやって暮らせばいいのかと言いたくなるような地理だそうです。実際に東京は徳川幕府が外的の侵入を防ぐという目的や日本の雑多性を好む宗教性が色濃く反映された都市で、世界的にもこれ程複雑な都市構造をした首都は少ないでしょう。そのため東京では必然的になにかしら目的地を辿って歩くという方法にならざるを得ず、

「向こうのパチンコ屋の前まで行ったら左に曲がって、そこから歩き続けるとスーパーがあるのでそこを右に曲がると駅がありますよ」

 みたいな説明の仕方になってきます。京都でも全くないというわけではないのですが。

 ただ関東関西の両方に住んだ事のある私の意見を言うと、やはり地図を見ながら練り歩くという意味では京都の方が圧倒的にわかりやすかったです。東京は地図を見ても現在地がなかなか掴み辛く、また歩いているうちに地図上のどの位置にいるのかがわからなくなって来たりして、いわゆる歩きなれた経験がなければおちおち散歩できないのが辛いです。

 ちなみに京都人は外からやってくる旅行者に対してどのように思っているのかというと、一番参考になるのはここのサイトの情報だと思います。割と京都人というのは物事をビジネスライクに切って分けて考える事の出来る人が多く、旅行者に対して表面上はお客様として対応しますが内心では金づるのように思いっきり見下す方も少なくありません。私としてはそれがはっきりと表に出ないのであればもてなされる旅行者も気分が悪くなる事もないんだし、そういう意味で最も世渡りに長けている人達だと考えています。

 最後に私が京都に住んでいた際、毎回そこを通るたびに気になっていたお店を紹介します。

中国料理 ほあんほあん

 このお店の何が気になっていたかというと、トップページにも入っていますが、「京の名物、皿うどん」という文字とともにパンダが皿に顔を突っ込んで何か食べている絵の看板です。
 皿うどんって京都名物だっけ? それよりもなんで中国料理で皿うどん?
 などと突っ込みどころが多すぎてどこから突っ込んでいいかわからないほどで、嵯峨嵐山店のある確か北大路通りを広沢池に行く途中で見るたびにあれこれ頭を悩ませていました。一回くらい、食べに行っとけばよかったなぁ(・ω・`)

2010年3月25日木曜日

地下鉄サリン事件、医療現場での奮闘と奇跡

 以前に昭和から平成にかけての猟奇的事件や大量殺人事件を話題とした掲示板を覗いた際、地下鉄サリン事件についてこんな言及をしている方がおりました。

「地下鉄サリン事件での死者は13人って、大きく報道された割にはあまり多くないよなぁ」

 恐らく書き込んだ方は別に悪意があるわけではなく死者数を見ただけの印象を語ったのだとは思いますが、見ている私からすると知らないにしてもやはり憤りを覚えずにはいられない書き込みでした。

 あの1995年に起きたオウム真理教による地下鉄サリン事件は世界史上初のバイオテロ事件でその手口も複数の路線で猛毒のサリンをばら撒くという手段といい、事件の規模は疑いようもなく戦後史上最大の犯罪事件でありその被害に遭われた方も生半可な人数ではありませんでした。それにもかかわらず死者数が13人、それこそ上記の書き込みをした方のように一見すると規模が少ないようにも見えるこの数字の裏には事件発生現場にて治療や救出活動を行った方たちの最大限の努力があり、事件規模の小ささを表すものでは決してありません。はっきり言ってあれだけの大事件にもかかわらず被害をここまでに食い止めたのは奇跡といってもよい偉業で、僭越ながらここで私もあの現場の方たちの努力をここで紹介しようと思います。

 早朝の地下鉄内で突然発生したこの地下鉄サリン事件は、発生当初から関係各所に大きな混乱を引き起こしました。各路線の電車が停止しただけでなくサリンを吸って症状を引き起こす方が続々と倒れ、しかも地下鉄という立地条件ゆえにすでに倒れた方を救助しようと近寄るそばからその救助者も次々と倒れていく始末でわずかな時間の間に膨大な数の要救助者を生みました。実際にテレビのインタビューにて応えた被害者によると、他の要救助者を駅内から地上へ運んでいる途中、自分と一緒に要救助者を抱えている人が突然ひざを落とすのを見たところで記憶が途切れ、次に気がついたときは自分も病院に運ばれていたそうです。

 この突然現れた膨大な数の被害者の治療においてまず真っ先に持ち上がった問題は、収容先の病院をどこにするかでした。今も陣痛を引き起こした妊婦の搬送先がなかなか見つからないなどこの問題は現在進行形で続いておりますが、数千人単位の急患が突然東京のど真ん中に現れてもどこの病院に運べばよいのか、また運んだとしてもすでにその病院が満杯になっていればたらいまわしになり、被害者の運搬において混乱に拍車がかかることも大いに予想されました。

 そんな最中、聖路加国際病院の日野原重明院長(当時)は事件を知るやその日の外来受付をすべて中止させ、被害者を無制限に受け入れる事をいち早く宣言しました。現在も各方面で活躍なされているこの日野原氏は周囲から老人の心配性から来る無駄遣いだなどと批判されながらも、大量に負傷者が現れながらも受け入れすらできなかったという戦前の体験からかねてより病院内の至る所に治療に必要な設備を設置、導入をし続け、その建物規模に比して膨大な人数の急患を受け入れられるように聖路加国際病院の改装を行っておりました。その日野原氏の徹底振りには私も驚かされたのですが、なんと病院内のチャペル内ですら酸素吸入口を設置するなどしていたそうです。
 この日野原氏の決断により聖路加国際病院は拠点病院として機能し、事件当日には数百人の患者を一手に引き受けて治療を行いました。

 しかしこうして被害者の収容は行えたものの、肝心の治療においてはサリンという未曾有の凶器ゆえに当初、現場は大きく混乱しました。始めはそれこそ何が原因でこれほどの負傷者が現れたのかすら定かではなく爆発や列車事故が起こったなどと情報が錯綜し、負傷者の対応に当たった医師らも爆発というには負傷者に外傷はなく、それでいてどうして心肺停止や呼吸不全などという症状が現れるのかと大いに戸惑ったそうです。

 こうした混乱する医療現場に対し、これまたいち早く原因はサリンだと気がついたのは信州大医学部教授の柳沢信夫氏でした。柳沢氏はテレビでの報道を受けこの事件の前年に起きた、こちらも同じくオウム真理教が引き起こした松本サリン事件での被害者を担当した経験から報道される負傷者の症状が酷似している事に気がつき、聖路加国際病院を始めとして東京の各病院へサリンによる毒ガス負傷の可能性を伝えるとともにその治療法をFAXにて伝達しました。
 また時期をほぼ同じくして、かねてより戦争放棄を謳っている国にどうして必要なのかと社会党などから厳しく批判されていた自衛隊内の第101化学防護隊を始めとした化学兵器対策部隊の隊員らが負傷者の症状からこちらもサリンが原因だと特定し、各病院に対して自衛隊中央病院から医師らを派遣して治療法や対応の助言を行いました。

 バイオテロにおいて何が一番怖いかといえば、その凶器の特定がなかなかできずに治療ができないという事態です。その点でこの地下鉄サリン事件は前年に松本サリン事件がすでに起きていた事が大きく影響していますが、かなり早い段階で凶器の特定ができて適切な治療を行えたということが負傷者の拡大を食い止める事に大きく貢献したといえます。特に信州大の柳沢教授の判断とその行動は真に賞賛に値する行為で、如何に人間一人の行動が重要な価値を持つのかということを示す好例だと言えるでしょう。

 しかしこうして負傷原因がサリンだと特定できて治療法がわかったものの、肝心の治療に必要な薬品はその負傷者のあまりの多さからあっという間のストックを切らす事になりました。そのサリンを中和する薬剤は「PAM」という薬品なのですが、これは非常に特殊な条件にて用いられる薬品でそれほど在庫数がもたれない薬品でした。そもそもPAMは商業ベースでは完全な赤字商品で、住友製薬が販売している有機リン系農薬から中毒を起こす可能性があるため社会的責任から会社トップが決断して製造を続けていたという解毒剤でした。
 この緊急事態に対し、住友製薬や薬品卸会社は首都圏以外の営業所からそれこそ持てる限りのPAMを社員手ずから運ぶという措置を行い、新幹線から飛行機、タクシーといったありとあらゆる交通手段を使って東京へと運送を行ったようです。

 上記のように、あの地下鉄サリン事件の裏では様々な人間が負傷者の救助や治療に当たり、その結果が死者13人なのです。確かに13人もの方が亡くなったというのは痛ましい事この上ありませんが、私はあの事件は下手すれば、というよりも通常想定されるケースでは三桁の死亡者が出てもおかしくなかった事件だったと見ております。
 また死者数ばかりに目を囚われがちですが全体の負傷者数は約6300人にも上り、その中には重い後遺症に今も悩まされ続けている方も沢山おられます。またこちらもあまり日の目を浴びておりませんが、政府はこのサリン事件の被害者へはほとんどと言っていいほど治療費などの援助を行って来ず、高い治療費負担からその後の人生を狂わされた方もまた数多くおります。政府が事件の被害者へ援助を行うようになったのは、つい最近です。

 本当はもっとサリン事件を始めとしてこのオウム事件について二十代である自分だからこそまとめておきたいのですが、さすがに準備不足なのでまだやめておきます。ただこの地下鉄サリン事件での治療現場についてはプロジェクトXでもすでに取り上げられているものの、如何に各方面の従事者が努力して被害を奇跡的といっていいほどに小さくしたという偉業とともに、一人一人の人間の行動の価値がどれだけ崇高であるかを伝えたいために、フライング気味に書くことにしました。

2010年3月24日水曜日

派遣法の改正によって予想される雇用推移

 すっかり時事ネタがこのところ遅れてしまっているわけなのですが、先週に閣議にて派遣前面接の禁止など紆余曲折があったもののかねてより貧富の格差を生んだ最大原因として批判されてきた派遣法の改正案が閣議を通過しました。今後は国会での審議を経て法案が通過することでこの改正派遣法が公布、施行される事になるのですが、結論から申せばこの改正派遣法は現時点ではより貧富の格差を生む法律になりかねないと私は考えております。

 労働者派遣が一体何故貧富の格差を生んだのかはもはやいちいち説明してられないので省きますが、この派遣法を拡大したとして小泉政権、ひいては当時の経済産業相の竹中平蔵氏はよくこの問題で批判されるのですが、確かにこの派遣法は問題が多くあることは認めつつも世間一般で言われているほど竹中氏は批判されるべくではないと私は考えております。そもそも工場派遣を認めるまで派遣法を拡大したのは小渕政権で、また派遣以下と言われる待遇の偽装請負という手法はかねてから横行しており、むしろ小泉政権時の派遣法拡大によってそうした偽装請負の身分で働かされてきた方たちも派遣労働者扱いとすることで労災保険などが適用できるようにもなり、お墨付きといえばお墨付きですが時代背景もあって私はあの判断が一概にすべて間違っていたとは考えておりません。またこれはどこかで聞いた意見ですが、仮に派遣法がなく直接雇用が厳しく義務付けられていたらリーマンショック以降の倒産件数は現在とは比べ物にならないほど多くなっただろうという意見もあり、都合がいいといわれるかもしれませんが私はこの意見にも一理あると見ております。

 それで話は戻って今回の派遣法改正ですが、派遣業者のマージン率(ピンハネ率)の公開を義務付けるなど評価できる点も確かにあるのですが、工場への派遣禁止や一定期間の雇用後に直接雇用を義務付けるなどという案も盛り込まれており、私が思うにこの法案は通過したとしても現在派遣労働者を雇っている企業は派遣を打ち切ってそれ以前からいる正社員にその分の労働を担わせるか、また以前みたいに偽装請負に切り替える事にしかならないと考えております。
 なぜそうなるのかというと、内部留保を増やしてきた大企業は除いて、そもそも雇う側の企業が近年従業員を雇用するだけの体力がなくなってきており、新たに正社員を増やす余裕がないからです。だからといって現行の派遣法を擁護するわけではないのですが、討論番組などで一般のパネリストから、「派遣でもいいからなにか仕事を得て給料を得たい」、「家族を抱えているため時給600円でもいいから仕事が欲しい」などという意見を耳にする事があり、制限を加えて派遣労働者を減らす事が今現在で最もいい選択なのかと考させられてしまいます。

 すでに何度かこのブログで主張していますが、今各政党が主張している雇用対策はすでに正社員となっている方への政策であって、正社員ではない労働者たちには逆に負担を増やしかねない政策となっております。何故そうなるのかというと一言で言えば賃金というパイが限られていることに尽き、社会全体で最低限の生活水準や雇用を維持するためには私は正社員全体の給料を減らしてその分を現在派遣労働に就いている方や失業している方へと回して、仕事を分散させる以外ないと考えております。

 そもそも社民党は口では弱者である労働者の味方などとうそぶいていますが現実には彼らは正社員(それも労働組合のあるような大企業の)の味方でしかなく、主張や政策論などを見ている限りではむしろ派遣労働者の方たちとは利益面で対立する組織にしか見えません。今に始まったことじゃないけど。

 なら派遣法はどのように変えるべきかですが、まずはなんといっても派遣業者のマージン率の完全公開です。その上で派遣労働者たちも自分達で全国的な組合を作り、違法な労働を課す企業などに自らの手で攻撃していくことが何よりも必要になってくるかと思います。
 ただ根本的な解決を目指すというのであれば、私が以前に書いた「日本でのオランダモデルワークシェアリングの必要性」の記事で主張しているように、日本社会全体でワークシェアリングを推し進める以外ないと私は思っております。みんながみんな正社員で当たり前という時代は特別な時代だったバブル期以前の話でもはやあの時代を再現する事は出来ないと踏ん切りをつけ、その上でどう社会を適用させていくかをもっと日本は考えなければならないでしょう。

2010年3月22日月曜日

移民議論の道標~その十七、まとめ

 本当はすぐにまとめる予定でしたのですが、ちょっと日が伸びてとうとう今日にまでなってしまいました。一昨日はテレビを見ていたせいで、昨日は京都からの友人の相手を夜中までしていたせいで、まぁ毎日長い記事を書いているんだからたまにはこうやって日を空けることもありかとは思いますが。
 そんなわけで先月から書き綴ってきたこの移民に関する連載も今日で最後です。最後の今日はこれまでの記事を振り返って簡単な感想をまとめておこうかと思います。

 今回こうして移民について私の考えを紹介しつつ様々なデータを比較してきましたが、在日外国人登録者数の中で中国国籍者の割合が最も高いなど必ずしも世の中の認識とは一致しないデータが数多くあったことに私自身が驚かされてきました。その逆に連載を始める前から怪しいとは思っていた外国人犯罪のデータについては、やはり調べている過程でそれが正式な手続きを踏んで入国したものの犯罪とそうでない密入国者の犯罪とで区別されているかはわからず、今後移民議論をする上でデータ解剖の必要性を再認識させられたものも多くありました。

 私はてっきり、この外国人犯罪についてや外国人地方参政権付与の記事を書いたりすれば、以前にも一回変なコメントをもらったことがあったのでそこそこ批判コメントが来るだろうと覚悟をしていたのですが、今回の連載では閲覧者数も以前より確かに増えているはずなのにあまりそのようなコメントは来ませんでした。長すぎて読みきれなかったのだろうか。

 この連載を通して私が強く訴えたかった事は移民をする事が日本のためになるという肯定論ではなく、移民を議論する上でどのような材料があるかということでした。一応は全体を通して肯定論を強く書いてはおりますが反対論もなるべく併記して、読者にどのような意見や議論、問題点があるのかをこの連載を通して訴えていこうと考えて連載していきました。書き終えた現在の段階ではもうすこし反対論を多く書いたほうが良かったのではないかと思う一方、前回の地方参政権付与についての記事にて対馬市など外交防衛上での重要拠点においては外国人地方参政権を認めないとする案などオリジナルな提案も盛り込めたのである程度は補填できたのではと思っております。

 ちょっとブラウザの調子が悪いのでここまでにしておきますが、この移民議論というのは現在進行形の問題であって今後も議論が必要な課題であります。それゆえまた何か事態が動く事があれば記事にしていきたいと思っており、今後も書き綴っていく話題だと考えております。

2010年3月20日土曜日

地下鉄サリン事件から15年経って

 今日本店の方のアクセスを見てみるとやけに昨日にアクセスが集まっていたのでちょっと調べてみた所、以前に書いた「広瀬健一氏の手紙について」の記事にアクセスが集まっている事がわかりました。恐らくこの原因は本日、つい先ほどまで放送されていたフジテレビの地下鉄サリン事件から15年後ということで作られた特集番組が影響してだと思いますが、内心これでアクセスが伸びるかもと予想はしていましたが本当に伸びててやや面食らいました。

 すでにこの地下鉄サリン事件は発生から15年も経ち、事件を起こしたオウム真理教のことも今の中高校生の方々にとってすれば遠い存在に見えてくるかもしれません。そうした事が影響してかつい最近に、このところオウム真理教を知らない世代のオウムへの入信者が増えているとの報道がありましたが、そういう意味であの事件を今になっていろいろと振り返ってみる価値はあるかもしれません。

 あまり目処のついていないことをぺらぺらと喋るべきではないとはわかっているのですが、私はかねてよりこのオウム事件を自らの手でまとめなおした上で評論を行いたいと考えております。地下鉄サリン事件当時に私はまだ小学生でしたが、かえってそのような世代だからこそこの事件について書ける内容もあるのではないかと思っております。

2010年3月19日金曜日

移民議論の道標~その十六、地方参政権付与について②

 前回に引き続き、外国人地方参政権付与案に対して私が何故賛成なのかという理由について述べます。

 まず一つ目の理由として前回の記事で私は、そもそも参政権付与の対象となる永住権資格を持つ外国人の数が日本では絶対的に少ないという理由を挙げました。この地方参政権付与に対して反対をしている方は外国人に選挙権を与えることで日本は内から行政が乗っ取られるという発言をよくしていますが、この人数からしてさすがにそこまで考えるのは現実離れしすぎじゃないかというかと私は思います。仮にこの参政権付与を認めると調子に乗った外国人が大量にやってくるといいますが、少なくとも韓国は日本よりも人口が少ない上に、永住権を得られるまで最低十年はかかる事からそれもそんな簡単にはいかないでしょう。

 ただこの外国人人数の面からの意見は私が地方参政権付与に「反対をしない理由」であって、「賛成をする理由」ではありません。ならば賛成する理由は何かという話ですが、これはこの連載の六回目で書いた「外国人研修生」の問題ゆえです。
 詳しくはリンクに貼った該当記事を読んでもらいたいのですが、まさに現代の奴隷制度と言ってもよいこの外国人研修制度の元に少なくない外国人が日本で半ばだまされる形で働かされております。もちろん現代は外国人に限らず数多くの日本人も派遣労働などで厳しい労働を強いられておりますが、この外国人研修生の待遇改善についてはやはりその立場ゆえか派遣問題と違って日本ではなかなか大きな声になりません。

 私はこの外国人研修生の問題は長引けば長引くほど、将来の日本の国益に損なう問題になるとかねてから考えております。というのもかつて日本人も戦前戦後の混乱期に南米諸国を中心に移民として渡りましたが、着いた移民先の国では約束された待遇とは程遠い厳しい状況に置かれただけでなく、北朝鮮へ渡った日本人妻の問題などのように政治的な騒動に巻き込まれたケースもあります。このような事例に対して私は同じ日本人として、やはりそのように日本人移民者を間接的に騙してその人生を損なわせた日本政府と当該国によい感情を持つ事が出来ません。

 このような事が現在外国人研修生として働いている方々と彼らの母国ににも将来起こるのではないかと私は懸念しているのですが、だとすればどうすればこの外国人研修生問題を解決できるのかといえば、やはり彼らが何かしら声を持つ事、投票権を得る事が一つの方法ではないかと思えます。無論外国人研修生として来ている方は永住資格を持たない方ばかりでこの議論での投票権授権者には当たりませんが、外国人に投票権を与える事、もしくはそれを議論する事でこの問題も取り上げるきっかけになるのではという願いから、私は賛成の立場に回る事にしました。

 そしてもう一つ、これなんて私らしいなぁと思う理由なのですが、そもそも問題となっている今の日本の地方選挙自体にいろいろと疑問に感じる所が多いからです。
 宮崎県で東国原現知事が当選し、続いて大坂では橋本現知事が当選した事から首長(しつこいようですが「しゅちょう」です)を決める選挙はこのところ全国区のニュースでも大きく報じられるようになりましたが、その陰に隠れて地方議会の選挙や議員の問題は未だに注目を集めておりません。

 現在の日本の自治体はどこも財政が多かれ少なかれ債務超過に陥っており、すでに財政破綻宣言を行った夕張市のような状態にいつなってもおかしくない自治体も少なくありません。何故この様な状態になったのかといえば長引く不況が原因と言い切れば簡単ですが、それ以上に私は本来このような事態を避けるべく自治体行政を監視する地方議会が、その本来の役目を果たさなかった事の方が大きな原因だと見ております。しかもその地方議員自体が近年明らかになってきた政務調査費の問題のある使途への使い込みに始まり、その活動時間に対してあまりにも法外ともいえる報酬額など自らが財政悪化原因となっている現実もあります。
 この辺については下記サイトで詳しく比較されていますが、日本の地方議員は人数で言えば他の国と比べて極端に多いわけでないものの、報酬額については異常としか思えないほどの金額となっております。

日本の地方議員の給料は世界の非常識?(JB PRESS)

 そして極め付けがそもそもの地方選挙です。今に始まったわけではありませんが日本の地方選挙の投票率は地域差もありますが他国と比べてやはり低い傾向にあります。そして選挙の中身をよくよく調べてみると、さすがに都議会選挙とかなら違うとは思いますが、ざっと見た感じだとどこも当選率は50%を上回っており、全体的には八割くらいの確率で日本の地方議員は当選をしております。ひどいところなんて18人の地方議員を選ぶ選挙で候補者が18人だけだったから無投票なんていう所もあり、こんな選挙だから議員の質も低いんじゃないかと言いたくなるような選挙ばかりです。なんていうか、宝くじを当てるより簡単そうに見えてくる。

 それゆえに私は、絶対数的に議会を乗っ取る事は不可能なのがわかっているのだし、逆説的にこの際外国人に地方参政権を与える事で日本人に危機感を煽ってもっと地方選挙に目を向けさせるべきなんじゃないかと考えたわけです。かつて橋本知事も知事になる前にテレビで言っていましたが、財政破綻した夕張市は住民も全く責任が無いわけではなく無駄な支出を続ける議員を止めなかったと指摘していましたが、私もこれに同感です。そうした意識を換気させる意味で、この外国人参政権議論なんてうってつけだと思うのですがあまりここまで議論が及ぶ事は今のところありません。

 最後にこの外国人地方参政権について私は全く懸念を持っていないわけではなく、大都市ならともかくそれこそ人口の低い地域に選挙前になって突然住民票を移動してきたら議会で多数派を握られる可能性もあると認識しております。特にこの関係で最も重要になってくるのは人口約34,000人の長崎県対馬市で、現在韓国があの手この手と対馬は韓国領であるという主張を強めてきており、下手すりゃ本当に住民票の大量移動という強引な手段を使ってくるんじゃないかという懸念があります。

 そこで妥協案として私は、防衛や資源保護といった国益上で重要となってくる地域に限ってはこの外国人地方参政権の認定を除外するという処置が必要になるかと思います。平等に反するなどと言われるかもしれませんが、国益の前では昔も今も平等なんてあってないものだと私は割り切っているので、言わせたいだけ言わせておけばよいでしょう。もししつこいようなら、本国でも外国人に地方参政権を認めろと逆に言い返せばいいのだし。

 ざっとこんな具合が、私が外国人地方参政権議論に対して言いたい事のすべてです。この手の議論は感情論ばかりで具体的なデータや論証があまりなく互いに批判を繰り返す議論ばかり見受けるのですが、もっといろんな人間がまざって議論して、ここで挙げた問題が世間に認知されていければいいなと思います。
 そういうわけで次回はこの連載のまとめを行う、最後の記事になります。

2010年3月18日木曜日

移民議論の道標~その十五、地方参政権付与について①

 すでに一ヶ月もこの連載記事をちょこちょこ書いていますが、ようやく終わりが見えてきました。そんなオーラス直前の今日は何を取り上げるかと言うとこの連載を始める大きなきっかけとなった、民主党が今国会に法案を提出する予定であった外国人の地方参政権付与議論についてです。

 この外国人地方参政権付与というのは読んで字の如く、衆議院選挙などの国政選挙ならいざ知らず地方議会議員や首長(最近「くびちょう」という読み方が広まっていますが私は「しゅちょう」という読みで通します)を決める地方選挙であるならば、外国人であってもその地域に住んで税金をきちんと納めているのであれば与えても良いのではないかという考えのことです。この参政権付与を最初に主張したのは他でもなく権利を得る事になる在日韓国人の団体で、近年この団体を後押しして参政権付与に肯定的だった民主党が与党を取り、また非常に熱心だった鳩山由紀夫氏が首相となって法案準備を進めた事から、この参政権付与は俄然現実味を帯びて盛んに議論される材料となってきました。

 まず肯定派の主張をいくつかまとめると、

・他の日本人同様に地方税を納めているのに地方政治に参加できないのは不公平だ
・外国人が地方に愛着を持てなくなる
・優秀な外国人が日本にやってこなくなる


 といったところでしょうか。これに対して反対派の意見はというと、

・選挙権は国籍に基づくもので納税とは関係ない
・地方参政権を欲しがっているのは在日韓国人だけ
・外国人に参政権を渡すと日本が内から乗っ取られる


 かなり大雑把にまとめると以上のような感じになります。っというか、みんないろいろと理屈をこねてるけど突き詰めると上記の意見にほぼ集約されるような……。

 では民主党が準備していた外国人地方参政権付与法案というのはどういうものだったのかですが、ひとまずは日本に永住権を持つ外国人が対象としていましたが、その準備段階では住民票を登録した外国人すべてにも付与するという意見もあったそうです。この両者の違いを比べると、うろ覚えですが確か永住外国人数は約91万人でそのうちの約半数は在日韓国、朝鮮人という戦前戦後の経緯から永住権を持った特別永住外国人です。それに対して住民票をほぼ持っている外国人登録者数はというと約220万人で、実に二倍以上もの差があります。
 何故民主党がこの外国人参政権付与に熱心なのかと言うと、いろいろ陰謀説とかありますがあくまで私の推量で予想すると、単純に自分達の票田につながると考えているからだと思います。もっとも鳩山首相は本気で友愛だからと信じきっているのかもしれませんが。

 それでこの地方参政権付与について私がどう思っているのかと言うと、これまたいろいろ火を噴きそうですが実は賛成派です。その理由は何故なのかと言うと、以下に一つ一つ説明していきます。

 まず第一に、与えたとしてもそれほど大きな影響力を持たないだろうという目算があるからです。現在の日本の人口は約1億2000万人で、仮に外国人永住者全員に地方参政権を付与したとしても得られる人数は日本国籍者の1%にも満ちません。そうは言っても地方ごとに人口割合は異なるだろうという意見もあるでしょうが、この連載の二回目で取り上げたデータでは外国人比率が高い地域で多数派になるのはどこもブラジル人で、またその割合も取り上げられている中では最高で16%強です。さらにこの議論で槍玉に挙がっている韓国人は近年日本国内での人口がこのところ減少傾向にあり、参政権を得たとしてもよくて地方議会に代表を一人送れる程度で国を乗っ取るなんていうのはあまり現実的な数字ではありません。

 しかしこれなんか私も直接友人に言われたのですが、確かに今は問題が無くても一度参政権を与えてしまったら後々取り返しのつかない事になってしまうという意見もあちこちで見受けられます。私はこの辺が今の日本人の非常に悪い所だと思うのですが、なんでもかんでも一回実施したらもう撤回したり修正する事ができないと言ってはどの政策も否定的に取る傾向が見受けられます。確かに予想しうる事態を憂うことは大事ですが、一回決めたことは改正する事が出来ないわけではなく、まずくなったらまずくなったで事情が変わったと言ってどんどん改正していく事も私は大事だと思います。今の独立行政法人の問題なんて、そういう環境だから問題性が認識されつつも残っているようなものだし。
 この地方参政権付与についても同様で、日本という国の不利益を起こす事態となればその時点ですぐに廃止してしまえばいいと私は思います。人権がどうとかこうとかいう人がいても、国政選挙は日本人が切り盛りするのですから押しつぶせばいいだけです。政治で何が一番悪いかといえば、あーだこーだ言い続けて何もしない事です。

 案の定長くなったので、続きは次回に回します。もう少し切りのいい所で終えとけばよかったなぁ。

2010年3月17日水曜日

朝鮮学校授業料無償化除外について

朝鮮学校の無償化除外に懸念…国連(読売新聞)

 昨日衆議院にて今国会の目玉となっていた子供手当てと高校の授業料無償化法案が通過しましたが、後者の高校授業料無償化法案についてかねてより問題性があるのではと指摘されていた、北朝鮮とつながりの深い朝鮮総連系団体によって運営される朝鮮学校に対しても無償化対象とするかどうかはひとまず判断は先送りになりました。恐らくいろいろと批判があるかも知れませんが、一考に進まぬ拉致事件の対応といい度重なる危険なミサイル実験を行う北朝鮮に対して私は日本は断固とした態度を取るべきだと考えており、この高校無償化に対して朝鮮学校を対象から外すべきだと考えております。

 何故私が朝鮮学校を対象から外すべきだと考えるのかと言うといくつか理由があり、まず北朝鮮政府よりこの無償化法案が出た当初より各朝鮮総連支部に対し、必ず対象となるよう働きかけろと言う支持がいつもの将軍様からの命令として出ていたからです。これは言うなれば無償化がそのまま北朝鮮という国全体の利益につながるという事をはっきりと言明しており、無償化が諸問題で対立している北朝鮮を利する行為だということを北朝鮮自ら証明しているようなものです。

 そして第二に、いくつかの報道されている範囲で見る限り、現在も朝鮮学校では偏向的な教育がなされていると感じるからです。各教室には今でも金日成、金正日親子の顔写真が掲げられているそうで、さすがに授業内容まではわかりませんがあれ程自分の国の国民を殺している独裁者を崇拝の対象としておいている事一点をとっても偏向的な印象はぬぐえません。
 中には朝鮮学校に通う子供達には何の責任も無いのだから、このような教育に対しては平等にするべきだという主張をされる方も見受けられますが、普通の国ならともかく北朝鮮という国に対してはそうは額面通りには受け取れず、恐らく国から支給されるお金も生徒の教育にはほとんど使われずそのまま北朝鮮へ送金される可能性が高いでしょう。それを言ったら子供手当ても、そのようなきらいがあるのですが。

 私は今の北朝鮮という国に対して何をするのが一番いいのかといったら、金王朝を叩き潰す事こそが最も北朝鮮国民の幸福に適うと考えております。かつて北朝鮮を訪問してその独裁手法を自国に持ち込んだチャウシェスクがいたルーマニアもチャウシェスク時代は非常に貧しく現在も決して国事情が良いわけではありませんが、それでも今の北朝鮮よりはずっとマシな環境にあります。北朝鮮をルーマニアのように持っていくために何が必要かというと、やはり独裁者であったチャウシェスクを革命時に処刑したように金親子を断頭台に送ることが何よりも一番でしょう。
 なおちょっと本題から外れてしまいますが、現在北朝鮮がミサイルを発射してまでアメリカに最も要求したい内容は何かと言うと、終戦直前の日本同様、金王朝の存続であると私は見ております。

 ただ今回の無償化対象から朝鮮学校を外す事に対して、一番最初に貼ったニュース記事のように国連が人種差別に当たるのではないかと懸念する旨を表明しました。国連主義の強い民主党小沢幹事長がどのようにこれを受け取るかやや見物ですが、私はこの国連の反応を奇貨として使い、広く国際社会に北朝鮮の事情と拉致問題を強く訴えるチャンスに日本は使うべきだと考えております。ちょうど日本人がイラン問題に対してあまり気にしないように、欧米先進国は全くと言っていいほど北朝鮮の問題について知識を持ち合わせておりません。そのため横田さん親子らが訪米してブッシュ元大統領に会ったりするなど様々な活動をなされているわけですが、今回の一件も災い転じて福となすくらいに最大限に活用して北朝鮮を追い詰めていく事が出来ればと願っております。

移民議論の道標~その十四、移民の受け入れ方式

 これまでのこの連載で私は長期的視野に立つのであれば日本は期間を定めて移民の受け入れを行うべきだと主張してきましたが、今日はその移民を受け入れるとしてどのように受け入れればどのような制度がいいのかについて私の考えを紹介します。

 まず結論から述べると、移民を受け入れるとしてその受け入れ方式は大きく分けて二種類になる、二元方式が一番望ましいかと思います。一つ目の受け入れ方法はこれまで私が主張してきたような、労働者が不足している医療や農業といった比較的単純労働分野における移民で、これらの分野の移民については募集期間や人数をあらかじめ定めて受け入れるべきだと思います。また募集をする際、あらかじめ人数や職種を限定するために募集をかける地域などを限定すればもっと良いかもしれません。

 このような通常の移民の受け入れ方式に対し、もう一つ目の受け入れ方式は恒久的な、地域を限定せず広く優秀な人材を集める方式です。現在でも日本の各大学では留学生や研修生として外国人技術者や学者を受け入れる事はありますが、今後はこの受け入れ枠を拡大するとともに将来の日本永住も含めた待遇を用意した上で幅広く人材を求めていく事が必要だと私は考えております。なんだったら日本側から世界各地にスカウトを派遣した上でそういった優秀な人材、目の出そうな人材を片っ端から日本に呼び込むというのもありかもしれません。もちろんお金はかかってきますし、現在のポストドクターの問題に始まるように研究職の枠が限られているという現実もありますが、ただ手をこまねいていても日本はアメリカの大学や研究所に優秀な人材が取られていくだけで、もっと積極的に移民受け入れとともに日本は人材を集める事が必要になるでしょう。

 実はかつて私は大学の授業にてこの移民についてグループで調べた事があったのですが、確か2000年頃の経済産業省の白書を見ると、IT分野に明るいインド人技術者に就労ビザを発行してたくさん集めようと書いてあったのですが、当時はおろか十年立った今でも日本ではIT技術者よりカレー職人のインド人のが多いような状況です。私としてはそれはそれで構わないんだけど。
 政府としてはいちおうは技術者や学者といった優秀な人材の移民募集を行っているぞと掛け声こそ出しているものの実態的には何にも行動に起こさないばかりか、日本から出て行く人材に対してすらもなんの引き留める努力をしておりません。

 いくつか日本から人材が流出した代表的な例を紹介すると、まず一番大きかったのは90年代後期に韓国企業へ半導体技術者が引き抜かれた例が最も好例でしょう。この時流出した日本人技術者によって韓国企業が開発したメモリによって日本は一挙に半導体業界におけるイニシアチブを失いました。
 よくこの半導体のケースと一緒に日亜化学と中村修二氏の裁判が引き合いに出されますが、こちらについては逆に日亜化学のが分があるんじゃないかと私は思います。

 よく移民と言うと非常にマクロなレベルでの移民ばかりが議論されますが、ここで取り上げたミクロなレベルの議論も同様に必要なのではないかと言う事を常々感じており、やや内容にまとまりがありませんがこうして取り上げた次第です。
 さて次回は最後の難関、外国人地方参政権付与についてです。

2010年3月16日火曜日

鳩山邦夫氏の自民党離党について

 すでにあちこちで報じられていますが、かつて総務大臣時代にいろいろと煙を吹く発言を繰り返した自民党の鳩山邦夫氏が昨日自民党を離党しました。離党の理由について邦夫氏は、「坂本龍馬になるんだ!」と、いつもどおりやや意味のわからない発言をしているものの、結論から書けば自民党に見切りをつけたのが本音でしょう。本人は今後与謝野氏や桝添氏を引き込んで政界再編の起爆剤になると主張していますが、党の与謝野氏や桝添氏どちらも新党結成や離党をかねてから匂わせ、与謝野氏なんて文芸春秋の今月号でかなり激しく現執行部を批判してもう出て行くぞなんて言っていたほどなのに、両者とも今回の邦夫氏の行動に対しては淡白な態度をとっております。

 ただ今回の邦夫氏の離党によって久々に自民党が民主党を押さえてニュースの中心に躍り出た事を思うと、今後の政界の動きに一石を投じる行動にはなるかと思います。しかし民主、自民に対する第三勢力としては前回衆議院選にて社民党を上回る比例表を獲得した渡辺喜美氏率いる「みんなの党」が依然と最有力候補で、仮に邦夫氏が新党を結成したとしても集まる議員は限られてくるでしょう。
 その一方で自民党としてはすでに何人か離党者を出していて、今回のように大きく邦夫氏の離党が報じられることによってますます執行部への批判は強まり、ジリ貧の様相をなしてくる可能性が高いです。恐らく今のところ与謝野氏は本気で離党する意思はまだ少なく、現執行部の退陣、そして桝添氏らを中心とした新たな執行部の成立が本当の狙いかと思いますが、今回の邦夫氏の行動で邦夫氏の下ではなく民主党へ移籍する議員がまた出始めたらそうした与謝野氏の狙いも変わってくるかもしれません。

 あと今回の騒動で少し気になるのが、現自民党総裁の谷垣氏と総裁選で争った河野太郎氏のコメントがまだ見受けられません。この人なんてかねてより矢面に立って現執行部を批判していた一人で、今回の離党騒動なんかおころうものならそれ見た事かといわんばかりの経歴なのですが、何故かまだ反応が見えてきません。確率的には河野氏が一番「みんなの党」に合流する可能性が高いと見ているだけに、今後注視していこうかと思います。

 最後に今回の騒動についてコメントした方々の中で、一番面白かった前原誠司国交相のコメントを紹介しておきます。

「私は坂本龍馬が好きな人間なので、(邦夫氏が龍馬になると言っている事を)不快に感じます」

2010年3月14日日曜日

日中韓東アジア三国志

 昨日に引き続き、このところというかめっきり書かなくなっている私の専門である国際政治についてまた一本記事を投下しておこうと思います。今回投下するネタは私に限らず様々な方がやっている、「日中韓東アジア三国志」についてです。

 物事を何かの構図に当てはめると他人に対して非常に説明がしやすくなるのですが、その一方で取ってつけた構図のバイアスがかかって細部の理解が及ばなかったり、場合によっては余計な誤解を与えたりするので私は極力この様な説明法は避けております。しかし日中韓の政治状況についてはその当事者同士がほとんど理解できていないという事もあるので、今回についてはちょこっとおふざけも兼ねて現代のこの三国を三国志の構図に当てはめながら簡単に解説を行います。

 それではまず日中韓が三国志の魏呉蜀のどれにそれぞれ当てはまるかですが、私の見立てでは以下の通りです。

魏=中国
呉=日本
蜀=韓国


 日本人である私としてもやはり蜀=日本と来てもらいたいものですが、総合的な立ち位置やデータを比べるならこれがやはり適当かと思います。
 それではこの構図からどういった比較ができるか一つ一つポイントを上げて説明してきますが、まず国力の面では人口比がちょうど三国時代とみごとに被ります。如何に比較すると、

中国:約13億4000万人
日本:約1億2000万人
韓国:約4800万人


 見ての通り、日本と韓国を合わせても中国の半分にも届きません。もちろん現代は人口=国力ではありませんが、GDPも去年にはとうとう日本が中国に世界第2位の座を譲り渡し3位に転落し(韓国は15位)、一人当たりGDPで見るならばまだ日中には大きな差がありますが国という単位のデータで見る分には三国志の図式はそのまま当てはまるかと思います。

 では人材面についてはどうか。三国志において蜀の諸葛亮は人材豊富な魏に対して何度も蜀の人材不足を嘆いていましたが、実態的には当時は呉の方が人材不足が深刻だったといわれております。これなんかゲームの三国志をやれば歴然としますが、後半のシナリオにおいて呉は陸遜を除くとまともな人材なんて皆無に近くてゲームを進めるだけでも大変になってきます。史実においてもそのような傾向はあり、呉は孫権の死後だとその後継者争いからただでさえ少ない人材がさらに削り落とされ、晋の侵攻時にはまともな戦いにすらならなかったほどです。なおこれは豆知識ですが、その際の侵攻速度があまりに速かったことから「破竹の勢い」という言葉が生まれています。

 これを現在の日中韓に当てはめると、多少自虐的な見方もありますが今の日本は政界、官界、財界、文化界のどこを見回してもこれだといえる人材がおりません。まだ世界的にも評価の高い人物を挙げるとしたらこの前もフランスからコマンドールをもらった北野武監督にIPS細胞発見の京大の山中伸弥教授くらいなもので、政界に至ってはどうしてこの程度の人間らが選挙に受かるのか疑問に思う政治家ばかりで、財界においても前までちょっと評価していたけど伊藤忠商事の丹羽宇一郎会長についても未だに公共事業を行えと提言しているる人物が大物として祭り上げられていて、経団連のキャノン御手洗会長なんて言語道断なのまでいる辺り人材不足を感じてしまいます。なんていうか、目先の対策ばかりでグランドデザインが全然この人らからは見えてこないし……。

 では他の二国はどうかということですが、韓国についてはちょっと私も詳しくないのでわかりませんが中国については景気がいいというのもありますが、やはりその人材の底堅さは見ていてうらやましくなるくらいです。特に注目すべきは中国の政治家や官僚たちで、現在の著しく不安定な中国を共産党の強権があるとしてしもその切り盛り振りにはつくづく感心させられます。まだなんどか日本のメディアにて取り上げられた中国官僚のレポートを読みましたが、その分析といい表現といい的確この上ないもので、こんな連中をどうやって相手すりゃいいのかと思わせられたほどの完成度でした。
 ついでにいうと中国は世界各地にチャイナコミュニティを持っており、日本なんかよりも米国などの世論に影響を与える人物も数多くいます。「ザ・レイプ・オブ・ナンキン」のアイリス・チャンなんて、日本からすれば煙たかったことこの上ないのでしたが。

 ただあんまり中国を誉めるのもなんなのですこしケチをつけておくと、史実の魏国同様に今の中国は反乱によって国がひっくり返される可能性が他の二国と比べてずば抜けて高い国です。先ほども不安定な国事情と書きましたが普通に農民の反乱がこのところ頻発しており、また共産党に不満を持つ軍人も確実に増えてきております。今は景気がいいからみんな従っているものの、なにかで躓いたらえらい事になるのではというのが俗に言う「チャイナリスク」です。

 こうした各国の事情の比較をする上で三国志の構図は割と役に立つのですが、それ以上に日本人に説明する上で一番いいのは、日中韓それぞれの対外関係です。
 史実では魏と蜀が延々といがみ合い、呉はそれに対して日和見的な態度をとっていることが多いのですが、現代の日本人からすると呉であると定義した日本が他の二国と仲が悪く、中には中国と韓国は宗主国関係で仲がいいという意見を述べる方を見受ける事すらあります(主に2ちゃんねるで)。

 しかし実態的には、過去に私も「中国と韓国の仲が悪い件について」の記事で書いたように、明らかに中韓の関係の方が日中、日韓の関係以上に険悪です。私が話を聞く中国人はみんなそろって韓国のことを悪くいい、また韓国の方も政府発表で主に領土問題について中国を批判する事が珍しくありません。この温度差はやはり国境が近いかどうかが影響していると思われ、日本も竹島、東シナ海ガス田問題などそれぞれに領土問題を抱えていますが、それでも中国と韓国ほど険悪なものではないと断言できます。

 ここから少し話を発展させると、日本は中国と韓国、どちらかに肩入れができるという選択権を持っている状態だといえます。韓国と組んで脅威となる中国に対抗するか、中国と組んでひとまずの権益(竹島や対馬ななど)を確保するか、はたまた中韓の関係をよりこじらせるように仕向けるかなど考えれば考えるほど夢が広がります。
 ただ現在においては北朝鮮という、日中韓(+アメリカ)が共同して当たって取り組まねばならない大きな緩衝材があるため、日本は急いで外交方針を決める必要はないでしょう。問題は北朝鮮が崩壊して犬猿の仲の中韓が直に国境が接触し、対立がエスカレートしてからです。その際には周辺勢力のアメリカやロシアの動きを見つつ対応を取らねばならないのですが、日清戦争前みたいな関係になるのかな。

 差し当たって上記の分析から私が今の日本に求める事は、なによりもまず人材問題の解決です。呉はまさに最後の希望ともいえる陸遜の息子の陸抗を司令官職から解任した事が亡国につながりましたが、今の日本でもまだ探せば幾らでも有意の人材がいるにもかかわらず世に出てきません。問題は何かといえば有意な人材が世に出辛いという社会環境で、この社会環境を少しでも改善し、日本に見切りをつけて出て行ってしまうような人材流出を防ぐ事が肝要なのではないかと思います。

 今の日本には中国を遥かに凌ぐ経済環境にインフラ、技術力がありますが、いかんせんそれを生かし切る人材においては不足するって言うレベルじゃねーぞといいたい状況です。何気に今日調べものの作業をしていて知ったのですが、明治維新期に活躍した高杉晋作は27歳で死去しており、伊藤博文は44歳で初代総理大臣に就任しております。
 ちょっと本題と趣旨がずれますが、このところの日本社会を見るにつけ高齢層は幼稚化し、逆に若年層は老成化しすぎなんじゃないかと思います。もっとこの辺のバランスをただす事が、呉=日本の大逆転のシナリオじゃないかと考えるわけです。

2010年3月13日土曜日

核兵器持込み密約問題について

 このところ連載記事やどうでもいい記事にかまけて時事系解説が遅れているので、発表当日は各紙一面を飾った日米の核兵器密約問題について私の見方を今日は解説します。

 まずこの問題は何に始まったのかというと、今を遡る事50年前の日米安保条約時にまで戻ります。日米はこの条約の締結によって有事の際はお互いに共同して問題の解決に当たると確約し、また平時においても米軍艦隊の日本への寄港や日本国内の米軍基地の活用なども日本側は許可しました。
 しかしこの条約の締結時、日本側は米軍に対して広島や長崎の経験から核兵器を日本国内に持ち込まないように条件をつけたと当時には発表されましたが、実際には核ミサイルを搭載した艦が寄港し、通過する事を日本側はとがめないと相互に確認されていたというのが、今回明らかになった密約の中身です。

 さらに38年前の沖縄返還時においても、それまで沖縄に配置されていた核兵器は日本への返還時にすべて撤去される事となっていましたが、この際ももし朝鮮半島などで有事が起こった際には米軍は再配備を行うという事を時の首相の佐藤栄作は暗黙のうちに認めていたとされています。これは佐藤氏が当時に提唱した非核三原則こと「核兵器を造らず持たず持ち込ませず」に明確に反する内容であり、佐藤栄作自身も下記のニュースによるとはっきりと認識をしていたそうです。

日米密約:佐藤栄作元首相「非核三原則は誤り」(毎日新聞)

 まずこれら日米の密約自体について私の評価を述べると、当時米ソで核競争が行われていたという時代状況を考慮に入れるならば、時の政治家が判断したというのであればやむをえないかと考えております。現在でこそ核兵器が米露で削減が進んでいますが当時はそれこそ一触即発ともいえる時代で、何が判断として正しかったのかとなると結果論ではどうとでもいえますが、私はこうした決断を佐藤栄作が行ったというのもやむをえなかったところもあると考えております。

 しかし、だからといってこの密約問題はもう過ぎた事だとして忘れていいものではなく、けじめをつけておかねばならない人物や組織がいくつか存在します。
 では何がこの密約問題で一番問題なのかというと、条約の締結を行ったアメリカ側は外交文書を公開してこの様な密約、ひいては西山事件で明らかになった日本側の費用の肩代わりを認めているにもかかわらず、時の政権であった自民党が一切この件を認めないどころか、調査も全く行わなかった事です。

 考えてみればこれほどおかしなことはなく、約束をした片側が事実を認めて外交文書という何者にも勝る証拠まで出しているにもかかわらず、もう片側の日本は延々とそんな事実はないといいながら当時の文書について、「紛失してしまった」と言い逃れをし続けてきました。実際にはこの時の日本側外交文書は外務省が隠蔽目的で意図的に破棄した可能性が高く、佐藤栄作の親族が保管していた文書があったからこそよかったものの、おちおち天安門事件を隠蔽しようとする中国を笑えない事態が日本でも起こっていました。

 今回の件は民主党が政権を取り調査したことによって判明したから良かったものの、民主主義に明らかにそむく愚行を自民党は重ねていた事になります。幸いにして現在はソ連が崩壊して核戦争の危険性が薄れて核兵器の削減が進み、核兵器を搭載した艦船が日本に寄港する可能性はほぼゼロに近いです。そのため当時のこの密約が明らかになったとしても日米の関係に大きな影響を与える要素は少なく、当事者の一人である米側が認めているのだから日本としてももはや隠す必要などほとんどありませんでした。それならばむしろ、密約を行ったとはいえ時代、歴史の評価や洗礼を受けるべきであるのに、自民党はこの事実をひた隠しにし続けてきました。

 特に今回の件で一番呆れたのは自民党の総理経験者である安倍氏、麻生氏の発言です。

【密約】麻生前首相、「自分は承知していない」とコメント(産経新聞)

 今回の報道を受けて両氏はこの様な事実を知らなかったとした上で、今更昔の事を掘り返してあれこれ批判したりするべきではないといった旨の発言をしております。後半の言い分なら全く理解できないわけでもないのですが、前半部の発言については私はやはり如何なものかとその神経を疑いました。というのもそもそもの発端となった米側の文書公開は彼らが政権に就いていた頃に行われており、何故その当時にすぐ調査を行わなかったばかりか、みすみす外務省が文書を破棄するのを黙って見過ごしていたのかという気がするからです。理由は単純に、彼らがむしろ事実が明らかになってほしくない側の立場だったからという事に尽きるでしょう。

 何度も言いますが、私は佐藤栄作の決断はまだ理解できます。しかし事実がほぼ発覚しているにも関わらず隠蔽を行おうとした自民党の歴代政権はやはり批判は免れ得ないかと思います。そういう意味で今回の核密約問題はその事実よりも、自民党と外務省の隠蔽体質の問題性を浮かび上がらせた事件だったと私の中でまとめております。

2010年3月11日木曜日

移民議論の道標~その十三、どこから移民を迎えるか

 大分この連載も終盤に差し掛かってきましたが、そろそろ具体的な議論に入ってくるのでコメント等があれば是非寄せてください。

 これまで散々に移民についてあれこれ言いたい事を書き綴ってきましたが、私はやらずにすむというのであれば移民は行わないに越した事はないと考えてはいますが、これからの日本を考える上、世界的な潮流を考えていく上ではある程度の受け入れはやはり必要となって来るかと思います。ただこの場合、受け入れるといってもいきなり無制限にどこの国からも一気に受け入れるというわけでなく、やはり各条件等を細かく精査した上で、また一体どれだけの人数をどれだけの期間に受け入れるかをきちんと定めた上で実施するべきだと考えています。

 具体的な人数については私も専門家でないことからはっきりと出す事は適いませんが、期間について私は試験的に始めて受け入れの施設や体制を整えつつ年々増やし、大体2015年から2020年、もしくは2025年までとはじめから終了期間まで定めて行うのが良いと考えています。
 そして移民を募集する国の限定についてですが、これについては受け入れ体制とも関わるのである程度限定した方が良いと思います。というのも受け入れる国が複数多岐に渡れば渡るほど対応しなければならない言語や文化が増えてしまい、費用も余計にかかっていきます。それならば一体どこの国から移民を迎えればいいのかですが、移民募集のやり方や制度設計によって変わってはますが、今現在で見るならば意外と狙い目なのは中国なのではないかと私は見ています。

 もちろん私自身が過去に中国に留学したことがあるという経歴ゆえに贔屓目に見てしまうという指摘は免れませんが、それを推しても私は今の中国からなるべく多くの優秀な人材を日本へ招聘していく価値があると見ております。
 それで何故中国からなのかですが、まず中国は移民募集を行う上で最低条件である余剰人口が多い国であるからです。たとえばお隣の韓国では失業者が多いものの日本と同じく労働者人口は少なく、さらに全体人口も日本より下です。このような環境では移民募集を行おうにも政府間で対立するのは目に見えていますし、また余剰人口が少ないために前回の記事で書いたように日本で一山当てようというような犯罪者予備軍しか募集に応じてこない可能性があります。

 次に文化面ですが、日中で文化の違いは確かに大きいものの、インドネシアやフィリピン、そしてインドといった国と決定的に違うある条件が中国人にはあります。その条件というのも、特定の宗教を強く持っていないということです。
 これも例えばインドネシアであればイスラム教徒人口が多く、昨今の情勢から宗教ネットワークを介して、日本では可能性が低いものの、移民者がイスラム系テロリストとつながってくる可能性があります。またそれだけに止まらず宗教間の文化の違いは生活面でも様々な影響を与える可能性があり、受け入れしてから予想だにしない問題が起きてしまうこともあるでしょう。
 それに対して中国は日本人より儒教思想は強いものの韓国人ほど長幼の礼は厳しくなく、あと結構意外ですが恐らく日本人以上に中国人男性は女性に対してレディーファーストを心がけています。この辺も面白いから今度記事にして紹介します。

 しかしそうは言っても中国人は日本で犯罪を犯す者も多く、また反日思想が強いから無理のではないかと一般の日本人からしたら思われるでしょう。犯罪については確かに犯罪率は日本人より高いものの、これまでの連載の記事で書いたようにもう少し精査して見る必要があり、現実に思われているほど高くはないのかと私は考えています。そして反日思想についてですが、確かに中国人大学生の中には突拍子もなく日本の過去の歴史を批判する人間もおりますが、実際に会って話した中国人に聞いてみると日本に来て見たら拍子抜けしたという方が多いです。

 その中国人の話によると、今でも懸案となっている靖国神社などは軍事色丸出しのおどろおどろしい場所だと想像していたようなのですが、実際に見てみるとただの神社で何をあんなに怒っていたのだろうかとさえ思えたそうです。また実際に中国現地で会った中国人に私が反日暴動を日本人は気にしていると話をしたところ、あんなのは政府がやらせている暴動だからきにするな、と言っていましたし、私もいろいろ情報を見比べているとどうもそのような気がします。

 そもそもの話、今の中国を見る上で決して見落としてならないのは、日本以上に中国共産党を憎悪している中国人(漢民族を含む)が大量にいるということです。この傾向はトップにはなりきれない準エリート層に実は多く、私が以前に書いた、「中国の不公平な大学入試制度について」の記事でも紹介しているように、出身地や戸籍によって優秀な成績にもかかわらず希望する大学に入学できなかった人を始め、各地方政府の腐敗によって不遇をかこっている人などまさに目白押しです。そういった中国人準エリートらに対し、日本からアプローチをかけて移民として受け入れるという事は対中戦略上でも効果的な手段になりうるのではないかと思います。

 2000年以降よく中国脅威論が語られるものの、具体的にどのように中国を押さえていくかという案となるとアメリカに頼るという意見ばかりでそれ以外となると軍事費の増大などを主張者は批判しているばかりです。私としたらただ中国人は汚いなどと揶揄するだけでなく、敵の中にいる敵を如何にして日本に引き込むかということをもっと考え、実行に移していくべきではないかと考える次第です。
 ただこれは逆に言えば、おそらくあまりないでしょうが中国側から日本へもこのようなアプローチが行われる可能性があるということです。少なくとも日韓の間では冷遇されていた技術者を韓国企業が引き抜いた事から半導体業界の主導権を握られた過去があり、今に始まった事ではありませんが引き抜くだけでなくこれからの日本は如何に人材の流出を防ぐかも考えていかねばなりません。

 じゃあ人材の流出を防ぐにはどうすればいいかですが、やっぱりまず呆れた労働環境の改善に尽きるんじゃないかと思います。どうでもいいですけど、過去にこの様なネタで爆笑した掲示板があるので紹介しておきます。

ランボー怒りの休日出勤(ワラノート)

2010年3月10日水曜日

移民議論の道標~その十二、犯罪者は増えるのか

 ちょっと間をおいての連載再開。「ハンターハンター」ほどじゃないけど。
 さて前回の記事では移民を行うにあたり真っ先に行わなければならないのは入管こと入国管理局の強化であると私は主張しましたが、今日もその辺に関わる内容として犯罪の問題についてまた少し語ろうと思います。

 この移民議論において移民に反対している方々の反対理由を尋ねるのであれば、まず間違いなく外国人犯罪者が増加するという理由が第一位に挙がる事でしょう。日本と通貨格差がある中国や東南アジア諸国の人間からすれば日本はまさに一攫千金が狙える場所で多少のリスクを張ったとしても犯罪に手を染めて大金を稼ごうという人間も少なくなく、移民の受け入れを行おうものならば労働者のふりしてやってくる犯罪者を自ら招き入れてしまう、という意見はかなり以前から現在に至るまで存在しています。

 結論から言えば、私も移民の受け入れを行えば外国人犯罪者は増加すると確信しています。しかしその増加率ともなれば入国者数が二倍になれば流入する犯罪者の数も二倍にと単純比例で増えていくのではなく、実際には二倍に対してそれを下回る倍率で増加していくのではないかと思います。
 一体何故私がそのように考えるのかというと、移民についての議論で以前からこのような意見があるからです。

「日本で大金が得られると知って犯罪目当てにやってくる外国人らは入国規制が厳しいか緩いかといった事を始めから考えず、なんとしてでも入国しようとするものばかりである。そのため正式ではあるものの煩雑な手続きを敢えて行って入国する者もいれば、入国審査が通らないとわかれば密入国をしてでも入国しようとする者もいる。如何に入国に当たって規制や審査をかけようとしても彼ら外国人犯罪者を防ぐ有効な手段とはなりえず、そのような規制や煩雑な審査はむしろ真っ当な外国人の来日を倦厭させるだけにしかなりえない」

 恐らくそんなものなどないでしょうが、私がかねてより気になっているのは日本で犯罪を犯した外国人の入国手段は一体どんなものか、正式な手続きを経て入国してきた外国人と密入国者との犯罪率を比較するような統計はないものかと前から探していますが未だに見つかりません。よく中国人などは犯罪をするためだけに日本にやってくるなどという極端な意見を言う方もおりますが、現行でとっ捕まっている外国人犯罪者のうち密入国者の割合はいったいどんなものかというのがなかなか見えてきません。

 仮に外国人犯罪者の来歴のうち密入国者の割合が高いのであれば、正式な手続きや審査を経て日本に入国してくる外国人については現在ほど懸念されるような犯罪者である確率は低いのではないかと思います。もちろんそれを見越しても移民のように大量の外国人を受け入れる事となれば審査漏れなどが発生して犯罪者が混じってくる可能性は高まるでしょうが、その辺の問題というのは移民をやるかどうかというより、前回で話した入管の問題なのではないかと私は思います。

 そしてさっきの意見で書いたように、犯罪者というのは儲け話があればどんな苦労も気にせずやってくるのに対し、日本に興味があったり留学を考えてやってこようとする真っ当な外国人からすれば煩雑な手続きや審査は気だるいものにしか過ぎず、緩めろとまでは言いませんがあまりにも厳しすぎれば返って人材の交流を妨げて犯罪者だけしかやってこないような体制にしかねません。

 何度も繰り返しになりますが、外国人犯罪について本来議論すべき場所は入管や警察、海上保安庁だと私は思います。如何に相手国と犯罪者情報を交換し合って共有するか、密入国ルートをどれだけ潰すか、入国前の審査でどれだけ阻めるかであって、移民の議論でも無関係ではありませんがもっと議論のポイントを広げて語るべきでしょう。そして移民を議論するのであれば、外国人犯罪者が増えるからという理由で即座に否定するのではなく、どうやって外国人犯罪者を招かずに受け入れていくかを考えていくことも移民議論に限らず必要です。

 そんなわけで次回は、多分この連載で一番私の加工が入った情報の詰まっている、中国からの移民の価値について解説します。

2010年3月9日火曜日

秋葉原連続通り魔事件裁判の証言

 今日はそろそろ腹を括って移民の連載記事の続きを書こうかと思っていたのですが、さすがに捨て置けないニュースが入ってきたのでこちらを取り上げます。

【秋葉原17人殺傷 第4回(1)】(産経新聞)

 本日午後、一昨年に起きた秋葉原連続通り魔事件の裁判が東京地裁にて行われました。上記ニュースは今日の裁判において行われた証人による証言をまとめた記事ですが、前もって言っておくと心臓の弱い方や残虐な描写に耐えられないという方は証言に生々しい描写があるために絶対に見ないようにしてください。逆にある程度の不快感に耐えられる自信があるのであれば、やや長いですがこの一連の証言記事は是非読んでもらいたいと思います。

 この裁判は今日で四回目ですが、前回では主に事件現場に居合わせた目撃者による証言がなされたのに対し、この四回目では実際に被害に遭われた方が証言台に立ちました。本日証言台にたったのは二人で、一人目の方は加藤被告の運転する車によって自身もはねられ、また一緒に秋葉原を訪れていた友人を亡くされた方で、二人目の方は加藤被告に直接ナイフで刺された方です。

 今日の証言内容を私の方で簡単にまとめると、まず一人目の方は大学での友人と四人でその日に秋葉原に訪れたことから事件に巻き込まれた方です。事件当時、証言者らは前に二人、後ろに二人でそれぞれ連れ立って横断歩道を渡っていた所へ加藤被告が運転する車が迫り、証言者と、彼と並んで前を歩いていた友人は咄嗟に前へと飛んだことから車体が直撃するのを避けられ腰の打撲で済みましたが、後ろの友人二人は避けきれず、そのまま車にはねられて亡くなってしまいました。この時の状況について証言者は、「死線をぎりぎりすり抜けたと思いました」と証言し、また一歩間違えば確実に死んでいたと述べています。

 証言者ははねられた直後は腰の痛みからしばらく立ち上がれなかったものの、すぐにほかの友人らはどうなったのかと見回したところ、亡くなられた友人二人が血を流して倒れていたそうです。証言者は友人に駆け寄って何度も声をかけたもののどちらからも返事は返って来ず、その無念さや悲しさは証言を聞いているだけでも胸が詰まる思いがします。

 そして二人目の証言者は、事件当日は後方でなにやら騒ぎが起きていると感じた直後から一時記憶がなく、気が付いたら路上に血を流しながら倒れていたそうです。この時証言者は加藤被告によってナイフで背中を刺されていたのですが自分に何が起きたのかわからず、その場に居合わせた周囲の方から止血や励ましを受けながら救急車が来るまで途方もなく長く感じたと述べております。
 しかし証言者は病院へ搬送後、一命こそ取り留めたものの医師からは一生車椅子生活になると告げられ、その際には絶望感よりも「勝手に決めつけるなよ」という気持ちを覚えたそうです。現在も証言者は懸命にリハビリを続け一部の機能回復こそ果たしたものの左足は未だに全く動かず、事件以前より不自由な生活を余儀なくされております。

 どちらの証言も、読んでいる私ですら犯人に対しとてつもない悔しさを感じるとともに、もしこれが自分の身であればと思うとあまりにも運命は残酷すぎると言いたくなる内容です。二人目の証言者など事件前には仕事もあってそこそこ不自由のない生活であったのが一瞬で壊されてしまい、その不遇を思うにつけ目頭が熱くなります。

 蛇足になるかもしれませんが、実はこの事件が起きたすぐ後、生前私がお世話になった人へ線香を手向けようと近所の仏具屋に行った所、お店のおばさんから、「もしかして、秋葉原の事件で亡くなられた子のご友人ですか?」と尋ねられたことがありました。なんでもこの事件に巻き込まれて亡くなられた方は生前に近所に住んでいたらしく、その仏具屋にも何人か線香を買い求めにその方の友人が訪れていたそうなのです。
 そのお店のおばさんは比較的年齢の若い私を見て大学生だと思ったことからそのように尋ねたそうなのですが、今日のこの記事を見て、一人目の証言者の亡くなられた友人は大学生だったという事からもしかしたらあのおばさんの言っていた方というのはこの人のことではないかとすぐに浮かんできました。

 もちろん本当にそうなのかどうか確かめようがありませんし、仮にそうであったとしても何かが変わるというわけでもありません。しかしもしかしたら近所に住んでいて、仏具屋でのあの会話を考えながら証言者の語る事件当時の状況を読むにつけ、他人の分際でこんなことを言うのはおこがましいかもしれませんが、他の殺人事件などとは異なりまるで身近で起きた事件であるかのような感覚を覚えます。

 昔大学での倫理の授業にて講師が、戦争は鳥瞰的に見るのではなく匍匐的に見よ、戦闘で何人が死んだとかを見るのではなく一体どんな人がどのように殺されていくかを見なくてはならない。そうでなければ戦争の現実などなにも理解できないのだと語っていましたが、全く理解していないつもりはなかったのですが今回のこの裁判の証言を読むにつけ、やっぱり自分はあの講師の言葉をきちんと理解していなかったのだと痛感させられました。

 やはり内容が内容だけに、文字量に比べて今日は書き上げるのに時間がかかりました。あまりにも堅い内容なので最後に一息つける内容を入れておくと、上記の倫理の講師の授業はとても面白かったのですが、ある日の授業では始まるやいなや、お前ら京都にいるんだったらもっと奈良に行け、奈良はたくさんいいところがあると延々と授業時間の大半が奈良の宣伝に使われた事もありました。これはこれで面白かったけど。

2010年3月8日月曜日

森鴎外の苛烈さについて

 明治の文豪でその実力、名声ともに最高の評価を受けている人物となればまず間違いなく夏目漱石の名が挙がってくるかと思いますが、私はというと漱石を評価しないわけではないですが森鴎外の小説の方が面白いように感じました。もっともこの両者は甲乙のつけがたいところがあり、トップ2であるのは間違いないのですがどちらが上かとなれば評者の好み、または評価するポイントによって変わってきたりします。
 ただ大正の文豪で私が一番高く評価している芥川龍之介はその小説のテーマを事実上の師である漱石から受け継いだものの、小説のスタイルは今昔物語などの歴史物を題材にして表現するなど鴎外の影響も強く受けており、それゆえに芥川は両文豪のハイブリッド的作家とも言われており、明治大正を包括する最後の小説家としての評価はゆるぎないものと見られています。

 私としてはあまり漱石の小説にはなじまない所があるので芥川と鴎外を日ごろから贔屓にしているのですが、小説家としては芥川の方が上だと感じつつも、人間的には鴎外の方に親近感を覚えてしまいます。鴎外というとやはり「舞姫」で有名なドイツ人女性との関係ばかりが注目されがちですが、彼のドイツ留学中のエピソードではこれに負けるとも劣らない、ナウマンとの論争があります。

 ナウマンというのはナウマン像を発見してその名の由来となった、明治初期にお雇い外国人として日本に来ていたドイツ人学者、ハインリッヒ・エドムント・ナウマンのことですが、彼はドイツに帰国後、日本について自らが見聞してきたことをある会合にて講演を催したのですが、その場には留学中の鴎外も来ていました。
 鴎外の目の前でナウマンは、日本は明治維新を経て列強に必死で追いつこうと改革を続けているが所詮は真似をしているに過ぎず、列強と肩を並べる事など到底不可能だと主張しました。

 するとそこで聞いていた鴎外はやおら立ち上がると流暢なドイツ語にてナウマンに対し、日本人として今の発言は黙って聞き流す事は出来ない。もし発言を撤回しないのであれば日時と場所を指定するので決闘を申し込むと言い放ってきたのです。もちろん周りはドイツ人ばかりで、唯一鴎外にくっついてきた同じく留学中の乃木稀典はドイツ語が理解できなかったまでも周囲の剣呑な雰囲気を読み取り、「も、森君、どうしちゃったの?(゚Д゚;)」と慌ててたそうです。
 この思わぬ鴎外の反論に対してナウマンは侮蔑するつもりではなかったと弁解するも鴎外は一向に譲らず、最終的にはナウマンが引いて発言を撤回したことで場が収まった、とされています。

 この論争は鴎外の研究者らによって伝わった逸話ですが詳細についてははっきりしないところがあり、上記の私の記述も敢えて一番ドラマ仕立てな物を紹介しております。ただナウマンに対して鴎外が何らかの形で反論を行ったというのは事実で、写真で見る温和そうな顔の裏では非常に闘争心の強い性格をしていたのではないかと窺わせるエピソードです。

 別に鴎外に重ねるわけじゃないですが、私もどうも周りから、特に初対面だと大人しそうな人間に見られる事が多いのですが、こんなブログをやっているあたり自分より過激な性格をした人間なんてそんなにいないような気がするのですが、どうも危険人物のようにはなかなか受け取られないようです。それはそれでいいんだけど。

2010年3月7日日曜日

日本でのオランダモデルワークシェアリングの必要性

 なんか昨日今日とブログを書く気力が湧かず、昨日に引き続きまた今日も二日続けてサボろうとしていました。急に寒くなったのが原因かな、まぁひとまず今日は頑張って書くけど。

 そんな絶不調下で書く今日の話題はというと、先日に移民の連載記事の方にいただいたコメントにてオランダでの移民の状況について言及されるものがあったのですが、それを見てふと思い出したオランダ型ワークシェアリングについてです。

ワークシェアリング(ウィキペディア)

 ワークシェアリングという英単語をそのまま直訳すると「仕事を分ける」という意味で、この意味通りにそれまで一人の人間が行ってきた仕事をを数人に分けて行っていく制度や考え方の事を指しております。ただ一概にワークシェアリングといっても各国によって持たれている考え方、またすでに実施されている制度の意味合いは異なってはいるのですが、最も進んだ形として実施されているのはオランダの制度であるというのは衆目の一致する所であります。

 ではオランダでのワークシェアリング、通常オランダモデルと呼ばれている制度というのは具体的にどのようなものかというと、オランダでは1980年代に襲った大不況時において景気打開策として、「フルタイマーもパートタイマーも、時間当たり賃金を同一のものにする」という法律を作りました。この法律の概要を一言で言い表すのなら同一賃金同一労働の徹底化ということで、例えば同じオフィスで事務作業をするにしても現在の日本では正社員と派遣社員とアルバイターとでそれぞれ給与に差があり、問題があるとはいいつつも是正の動きは全くありません。

 これに対してオランダでは正社員だろうと派遣社員だろうとアルバイターだろうと同じ仕事をしているのなら時間当たり賃金、要するに時給換算した賃金に差をつけてはならないという制限をかけたわけです。そんなこと言ったってうまいこと賃金格差が埋まるはずないと思われがちで、実際に当時の周辺国からはまたオランダが変な事をやっているよと言われていたそうなのですが、この制度を導入してからオランダではフルタイマーとパートタイマーの賃金格差はぐんぐんと縮まり、どっかでみた資料の比較では日本のパートタイマーの時給換算賃金はフルタイマーの0.4倍であるのに対し、オランダではなんと0.9倍にまで詰めているそうです。

オランダのワークシェアリング(Youtube)

 上記リンク先のテレビ番組の動画ではそのようなオランダの現状について取材、報道されており、特に冒頭のインタビューに答える男性の答えはかねてよりこのオランダモデルを知っていた私にとっても非常に意外なものでした。そのインタビューはどのような仕事をしているかという質問なのですが、その質問に対し男性はこう応えています。

「弁護士の助手と飛行機の客室乗務員の2つの仕事をしています」

 弁護士の助手と客室乗務員なんて一見すると全く縁もつながりのない仕事に見えるのですが、オランダではそれでも両方掛け持ちする事が出来るそうです。

 このオランダモデルのワークシェアリングの最大の強みは何かといえば、個人がそれぞれの都合に合わせて仕事を行い、また休日もそれぞれの都合によって決められるという点です。したがって周三日働いて残りの四日を休むこともできますし、周三日ずつ二つの仕事を掛け持ちして一日休日を取る事も出来ます。それにしても、警察官の三分の二までがパートタイマーというのだから本当に末恐ろしい国だ……。

 現在の日本はこの様なオランダの現状とは程遠く、フルタイマーとパートタイマーの賃金格差が大きいだけでなく月曜から金曜の五日間は必ず出勤しなければ安定した雇用を得辛い状況にあります。私はかつてこのオランダモデルが学校の授業で取り上げられた際は確かにこの様な働き方が出来る制度は理想的だけど、日本だと文化的な違いや制度的な面、また人口規模(オランダの人口は16,592,00人)の違いから実現は難しいだろうと発言し、周りの授業参加者もみんな似たような意見でした。

 しかし私は近年の日本の状況を見るにつけ、このオランダモデルの日本への導入はやれる、やれないの話をしている場合ではなく、もはややらなければいけない状況にまで来ているのではないかと考えを改めるようになりました。

 まず第一の理由としてニート、フリーター、ひいては若年失業者の増加問題の対策としてです。未だに正社員でなければ真っ当な人間にあらずという極端な概念の強い日本では就職氷河期に就職できなかった若者は延々と就職する機会が得られず、賃金格差の激しいパートタイマーの仕事で食いつないでいる方が数多くおります。このような若者の追い込まれた状況を支援するために同一労働同一賃金の必要性はかねてから主張されているものの、一向に改善の兆しは見えてきません。

 次に労働力配分の問題です。現在の日本は失業者が大量に増加している一方で介護や医療、農業といった分野では労働力が不足している状況にあります。もちろんそれらの事業を運営している団体や個人が人を雇う余裕がないというのも大きな理由ですが、ワークシェアリングの導入によって雇用の流動化を進め、安定した賃金が得られる仕事を行う一方でこれらの分野の仕事を週一で手伝ったり、ボランティアとして活動したりする事で補完が得られる可能性があります。

 そして最後にして最大の理由として、二番目の理由とも多少重なりますがこれから予想される介護問題への対策としてです。目下の少子高齢化は言わずもがな、しかるに現状の日本の介護体制は人員も揃っていないばかりか今後ますます要介護者は増えていく一方です。つい先日にも介護疲れから心中が行われた事件が報じられましたが、介護態勢が整っていないゆえに今後の日本は各地でこのような殺人が頻発していくとみてほぼ間違いないと言っていいでしょう。

 今の介護の問題で何が大きな問題かといえば、要介護者を施設やヘルパーに介護を委託しようにもお金がかかり、かといって自分で介護をしようとしたら四六時中付き添わなくてはならないので仕事を辞めざるを得なくて自らも生活に困窮していくという、いわゆる介護倒れという負のスパイラルが起こるという現状です。特に日本の場合だと先ほども言ったとおりに月から金まで毎日出勤する正社員でなければ真っ当な給与は得辛く、二日に一回の割合でヘルパーに来てもらい残りの日は自分で介護することで費用を軽減しようとしても、二日に一回の出勤など認められるわけなく必然的に仕事は辞めざるを得ません。

 仮にオランダモデルがうまく導入できるとしたらこの仕事をしつつ自分で介護を一部行うという選択肢が選べるようになり、介護に必要な労働力を要介護者の家族らに一部担ってもらう事が可能になります。現状においても家族による介護補助がなければ介護は成り立たないといわれており、介護倒れを防ぐためにも私はオランダモデルこそが最善の選択肢なのではないかと思うに至ったわけです。

 このほかにもまだ書くべきことはあるのですが、あまり長くなるのもなんなのでここまでにしておきます。やる気が低い割にはそこそこ書けたなぁ。
(´Д`) =3 ハゥー

2010年3月5日金曜日

いじめや虐待をどう捉えるか

 先日私の母校の歳行っていた独身の先生が結婚したという仰天するニュースを友人に話した所、乱世なんだからそういうことが起こっても仕方がないと切り返されてしまいました。確かに現在は百年に一度とも言われる大不況とも言われる時代、佐野眞一氏も不況不況と嘆いているだけじゃなくてかえってこのような時代の節目に立ち会えることができたと前向きに考えるべきだとも言っていましたし、そんな時代にあっては何が起きてもおかしくないのかもしれません。
 そういうわけでこれからは何が起きても驚かないように心して生きていこうと思った矢先、こんなことが本当に起こるものなのかとまた驚かされるニュースが今日報道されました。

愛子さまが「乱暴」で学校お休みに(産経新聞)

 記事の内容はリンク先に書かれている通り、現皇太子の息女である愛子様が通っている学習院初等科にて同学年の男子生徒の行為が原因でここ最近学校を休みがちだそうです。情報自体は宮内庁の発表のため事実である事に間違いなく、一体その問題の男子生徒の「乱暴」という行動が何かという詳細までは報じられていませんが、ついには皇族にまでイジメ問題が広がったのかと一部で騒がれ、私自身も第一印象はそのように感じました。
 戦前に比べれば大いに開かれるようになった皇室こと菊のカーテンですが、それでも現代日本において明確な禁忌性とともに畏怖され続けている存在に変わりなく、子供とはいえそんな皇族の愛子様にこのような報道がなされる時代が来るなぞいくら乱世ったってなんでもあり過ぎなんじゃないかと、改めてすごい時代になったもんだと感じさせられたニュースでした。

 ただ今日はこの愛子様のニュースに隠れてもう一つ、子供に関するある痛ましい事件も報じられていました。

<4歳児衰弱死>市が対応協議中に死亡 埼玉・蕨(毎日新聞)

 こちらも詳細はリンク先にある通りで、2008年にわずか四歳の男児が実の両親から食事を与えてもらえず餓死した事件で、男児の両親が保護責任者遺棄の容疑で本日逮捕された事が報道されています。私はわずか一ヶ月強前に「児童虐待は何故防げないのか」という記事で当時に起こった児童虐待死事件を取り上げましたが、それからそれほど日も経たぬうちにまたもこの様な事件が報じられるなど、深い悲しみを感じるとともにどうして日本社会はこんなことを繰り返しているのかとやるせない気持ちになってしまいます。

 特に今回の事件で何よりも許せないのは、先に取り上げた虐待事件同様に周辺住民や警察が虐待ではと所轄の児童相談所に情報を寄せていたにもかかわらず、相談所職員は男児宅に訪問するだけで有効な対策手段を打たないまま最悪の結末を招いてしまっている事です。報じられている記事では相談所は男児の対応を協議している最中に事件が起こったと説明していますが、正直に言って私はこの弁解は聞いてて疑わしく感じ、実際にはサボタージュをかましていた言い訳ではないのかと、言葉は悪いですが見えてしまいます。

 今日取り上げたこの二つのニュース、いじめと虐待ですがこれらは言葉こそ違えど、「強者が弱者を必要以上、過剰にいたぶる」という意味では同じ行為を指しております。
 この頃私はよく思うのですが、

・いじめは学校内の問題
・虐待は親子間の問題
・しごきは部活内の問題
・パワハラは社内の問題
・アカハラは学内の問題・
・下請けいじめは業界の問題

 などと個別別々に語られますが、全部ひっくるめるとこの様な「イジメ」の問題というのは日本社会全体に当てはまる問題じゃないかという気がしてきました。だからこそとでも言うべきか、部分々々を取り上げて学校内のいじめや虐待はやめようとか防ごうといくら叫ばれようとも、それらを覆っている日本社会全体にゆるぎなくイジメの構造が行き渡っているためにいつまで経ってもいじめや虐待が減らならないのかもしれません。

 言うなればいじめや虐待はごく限られた範囲で起きている問題ではなく、日本社会全体で起きている社会問題なのではないかというのが私の意見です。私の目から見ても学校内のいじめをやめようといっている大人たちがそもそもイジメを是認している節があり、少なくとも日本では多少の理不尽な事であれば言われても我慢しろといい、年上には許されるどうでも良さそうな発言や行動も年下が年上に対して行う事は許されません。
 いじめや虐待をどの範囲の問題と捉えるのか、社会学をやるからにはこの様なややピントのずれた問題視点が重要になるのですがいい好例なので力を入れて書いてみました。

2010年3月4日木曜日

採用のミスマッチについて

 以前に友人が、こんな面白い皮肉を言っていました。

「日本の企業は採用時にコミュニケーション力を一番重視しているのですが、日本人の退職理由の大半は人間関係が原因なんですよね」

 さっきちょこちょこ調べた所、どうもリクナビ系のアンケートではその友人の言うとおりに退職、転職理由の一位は人間関係なのですが、その他の転職掲載とのアンケートでは必ずしもそうではなくそれぞれの転職希望者を扱う専門分野(事務系や技術系といった)によって理由は変わってくるのかもしれません。しかし私も傍目から見ていて、実際に中途採用の面接をやっていた人の話を聞いているとやはり人間関係に起因する退職者というのは多いようで、先ほどの友人の言葉も大きく事実から外れていないように思えます。

 仮に友人の言葉通りだとすると、今の日本の企業はコミュニケーション力が高いとされる人材を選んで採用しているつもりでも彼らの期待通りの人材を得られていないということになります。特にここ数年は不況にもかかわらず新卒者のうち約半数が三年以内に転職、もしくは退職するとも言われており、このミスマッチとも言うべき現象は深刻化していると言っていいでしょう。

 あまり長く引っ張るのもなんなので短くまとめると、そもそもこのコミュニケーション力という言葉の定義がはっきりしないということがこのミスマッチを生む最大の原因かと思います。コミュニケーションと一口で言っても何かを説明するのに上手に手早く行える表現力の事なのか、幅広い人間間と話を合わせられる話題の豊富さなのか、無茶な事や理不尽な事をされても我慢できる我慢強さなのかいまいちはっきりしません。恐らく大半の日本企業は最後の我慢強さを求めていると思うのですが、露骨に就職説明会などで、「無理難題言われても、殴られてもじっと我慢ができる人大歓迎です!(^o^)/」なんて言ったら誰も応募に来るわけないんで、体よくコミュニケーション力って言いつくろってんじゃないかという気がしてなりません。

 就職希望者としてはこうした企業側が求める人材像がよくわからず、恐らく前に「日本辺境論」の書評で書いたようになんとなくといった空気で企業側の求める人材像になりきろうとして、企業側も我慢強さを求めているのになんとなくなりきろうとしている姿に流されて採用し……こんな具合のミスマッチが日本のあちこちで起こっている気がします。

 そもそも文字書いてなんぼ、少ない文字数で一体どれだけの意味を読者に自分の意図を伝えられるかを常に問い、自らの文章表現力を磨き続けてきた(つもりの)私に言わせると、人材募集に際してコミュニケーション力などという定義の曖昧な言葉を使用する人間自体に疑問を感じます。採用したもののすぐに辞められては困るのであれば、優秀な人材を囲いたいものならもっとはっきりと、直接的な言葉を使って人を集めた方が手間も随分と少ないんじゃないかという気がします。そういう意味で日本の各企業の人事採用者に対し、すくなくとも表現力という意味ではコミュニケーション力は低いのではないかとやや批判的に私は思っているわけです。

2010年3月3日水曜日

移民議論の道標~その十一、入管について

 仮に移民を受け入れるとして何が必要になってくるかといったら、移民を受け入れる施設や職、果てには生活のアドバイスを行うネットワークはもとより何より必要になってくるのは入管こと、入国管理局の整備と強化だと私は考えております。

 どこの国でもそうですが入管というのはその国にやってくる外国人に問題がないか、ビザやパスポートなどを確認したり麻薬や拳銃といった持ち込み禁止品の摘発などを一括して行っている部局です。もちろんこんな重大な仕事を民間に任すわけないので基本的に公務員職なのですが、どうも話で聞いている限りだと同じ公務員は公務員でも、役所などにいる公務員等と比べて入管の職員は非常な激務だそうで、前にテレビで報じられた成田空港の入国審査官などは文字通り昼食も取れないほどの忙しさだそうです。

 あくまでそうやって私が見ている範囲ですが、仮に移民を受け入れるとなると今以上に大量の外国人が出入国を行うということから、私は早急に入管職員の増員と強化が必要になるかと考えております。もちろんこれだけなら誰だって言えることなのですが、こういった量的な強化はもとより、これは現在においても言えることですが質的な強化も早急に必要だと日々感じております。その質的な強化というのはどういうことかというと、やや入管の範囲を超えてしまいますが犯罪者、テロリストの入国に対する規制強化のことです。

 現在でも爆弾発言連発ですでにおなじみの鳩山邦夫議員がかつて、「私の友達の友達にアルカイダがおり、そいつは過去に何度も日本に入国している」という発言をして大顰蹙を買った事がありましたが、後に彼自身が説明する所によると、なにもすごい友人がいるということを自慢したかったわけでなく、アルカイダのような国際テロ組織のメンバーを日本は捕まえるどころか国内で自由に闊歩させている現状の問題性を訴えたかったそうです。発言の問題性はともかくとして、鳩山議員の言が本当だとしたら彼のいわんとしている懸念も理解でき、こうした外国よりやってくる犯罪者の取締りなどに現状の日本は問題があるという事になります

 これ以前からも日本はスパイを取り締まる法律がないために各国の工作員に好き放題にさせられているといわれてきましたが、移民を受け入れるのならなおさら、受け入れないにしてもこの様な状況はグローバル化が進む現在において望ましいはずがありません。さすがにこの様な範囲ともなれば入管を超えて警察や海上保安庁など管理範囲になってきますが、犯罪者らの入国の最前線に立ちふさがる入管の強化は何よりも先に必要になってくるかと思います。

 では具体的にどのようなことをすれば入管の強化が図れるのでしょうか。はっきりいってこの方面だと私は全くの素人であまり余計な発言はするべきではないのかとも思うのですが、それを認識した上で敢えて一つ提言をさせてらえば、各国の犯罪者情報を事前に共有化することだけでも全然状況が変わるのではないかと考えております。
 この犯罪者情報の共有化というのはそれぞれの国で指名手配となっていたり、海外逃亡の可能性のある人物の情報を中国や韓国、ブラジルなど現在日本への入国者数の多い国とで交換し合うことを指しております。恐らく現在だと韓国やアメリカとは犯罪人引渡し条約もある事からこれら情報交換は行われているかと思いますが、他の二カ国についてははっきり言ってあまりなされていないのではないかと思います。

 私がこの様に犯罪者情報の交換の必要性を強く訴える理由というのも、かつて起きた広島女児殺害事件の例があるからです。
 この事件は日系ブラジル人と偽って(実際は違う)日本に出稼ぎに来たペルー人が猥褻目的で女児を誘拐、殺害したという痛ましい事件なのですが、元々この事件の犯人であるペルー人は本国ペルーでも複数の猥褻事件を起こしており、しかも出国時も指名手配中だったようです。

 もちろんこんな人間、普通にしたって日本に入国できないために本名を偽って就労ビザを得たようなのですが、過大な期待をしているのかもしれませんがビザを発行する前、日本に入国する前にその前科を確認して入国を防ぐ事は出来なかったのかと考えてなりません。この連載の日系人移民を取り扱った記事にて私は現行の制度には問題があると指摘しましたが、その問題性のある箇所とはまさにここで、現行の日系人の受け入れは日系人であるかどうかも詳しく確認せず、しかも日系人と認めてしまえば緩い審査で入国を認めているのではないかという不信が私にはあります。

 この連載は移民という政策を実行するかしないかはおいといて、今のうちに移民関係で議論すべき議題や問題を挙げることを主眼にしております。今回取り上げた入管の強化、日系人移民についても全く同じで、移民に対して賛成派も反対派も、変に批判しあったりせずこういった共通に考えることが出来るについて問題について歩み寄って議論するべきではないでしょうか。

2010年3月2日火曜日

ラングリッサーシリーズについて

 なんか今日は不具合が起こっていろいろ大変だったそうですが、このところ私はPS3のダウンロード販売にいろいろとはまっております。このダウンロード販売の何がいいのかって言うと昔遊んだゲームを非常に安い値段で、しかもお気軽にクレジットカード払いで購入する事が出来、しかも購入後はハードディスクにダウンロードして遊べるという点です。最初はおっかなびっくりなまま試してみたい気持ちだけで「ファイナルファンタジータクティクス」を購入してみたのですが、あまりにもあっさりと出来てその手軽さには本当に驚かされました。

 そんなもんだからこの「ファイナルファンタジータクティクス」をクリアもしないうちに他にも買っておきたい商品はないのかといろいろと探してみた所、「ラングリッサー」というソフトがまず真っ先に私の目に入ってきました。
 恐らくこのゲームの名を聞いても私の関東在住の友人一人、関西在住の友人一人くらいしか知らないと思いますが、今ではゲーム製作から撤退してしまったメサイヤがかつて作って販売していたシミュレーションRPGのシリーズがこの「ラングリッサー」です。

 具体的にこのゲームがどんな内容かというと、中世ヨーロッパ(百年戦争頃)を意識したファンタジーの世界を舞台にした、他社の「ファイアーエンブレム」や「タクティクスオウガ」などといったゲームと同様のターン制シミュレーションRPGです。自ターンに味方キャラを選択して相手キャラに攻撃などの指示を出すという点ではオーソドックスなゲームシステムなのですが、この「ラングリッサー」において特筆すべきなのはこの手のシミュレーションRPGが出始めたごく初期の段階で各部隊に属性を与え、戦略性を高めている点です。

 具体的にどのような属性かというとこれは説明は簡単で、

・歩兵は騎兵に弱いが槍兵に強い
・騎兵は槍兵に弱いが歩兵に強い
・槍兵は歩兵に弱いが騎兵に強い

 という、みたまんまの三すくみになっているため、どのキャラにどの部隊を率いさせてどのように敵にぶつけていくかがこのゲームの醍醐味になっております。また部隊を率いるキャラクターはそれぞれが独立した能力を持っていて、回復魔法を使うのも入ればやけに動きが早いのもいたりなどと、またそうしたキャラクター達も魔法使いにするか戦士にするかなどとその成長もプレイヤーはかなり自由に選ぶ事が出来ます。

 そしてこのラングリッサーを語る上で外せないのが、キャラクター原画を担当しているうるし原さとし氏です。この人も知っている人なら知っていますが、書いているマンガは女性キャラは服を着ているシーンのが少ないんじゃないかと思うくらい脱がせっぱなしで、しかもかなり光沢をつけたような陰影で肉感的に描くという特徴的な絵を書く人で、そのせいでこの「ラングリッサー」に登場するキャラクター達も多分一回見たらなかなか忘れられないような造形をみんなしてます。

 女性キャラに至ってはこれでもかという巨乳ぞろいで、しかも戦闘に出て斬り合いまでするというのにやけに露出の高い鎧やコスチューム、もしくはピチピチのスーツを着ており、「おどりゃ、死にさらす気かっΣ(゚Д゚;)」って、突然広島弁で突っ込みたくなる格好をみんなしています。それに対して男性キャラはやけにごつい格好した連中ばかりで、特におっさん系キャラはいぶし銀とはこういうものだと感じさせる名キャラぞろいです。

 私はこのゲームを中学生の頃に今でも友達だと勝手に信じている友人に紹介されてから遊ぶようになったのですが、その頃に遊んだのはセガサターン版で、このシリーズは1から5までありますが4が一番難しい上にFFのアクティブタイムバトルのようなシステムがまだ不完全で(5で完成に至る)、えらく難儀しながらも非常に楽しく遊んだのを今でも憶えています。なお今回ダウンロードした「ラングリッサー4&5」では4のシステムが5のシステムに改められているので、戦いが非常にさくさく進みます。

 現在このシリーズを作っていたスタッフ(キャリアソフト)はメサイヤからアトラスに移籍し、現在では「グローランサーシリーズ」を製作しております。こちらもまた名作ぞろいのシリーズ(2を除けば)で、声優陣も非常に豪華なので興味のある方は中古でもいいから是非手にとって見てもらいたい代物です。

 なお私が一番お気に入りなのは、「ラングリッサー5」で声優の満仲由紀子氏が演じたエミリエルです。あのありえない強さと肌の露出ぶりが未だに鮮烈に残っております。ついでに書いておくとグローランサーでは3のモニカでした。

2010年3月1日月曜日

松下とトヨタの違い

 このところビジネス系雑誌や新聞のあちこちで一連のトヨタのリコール問題に触れてはかつての松下(ゲンパナソニック)のファンヒーター回収問題と比較する論評をよく見ますが、かなりうがった意見を言わせてもらえば両者の違いは特殊部隊の差じゃないだろうかと考えてしまいます。

 あくまで伝聞の情報ですので本当かどうかまでは私もここでは保障しかねますが、松下には商品事故が起きた際に真っ先にそれをもみ消す専門の部隊がかねてからいたそうで、あのファンヒーターの問題も大分以前から把握していたもののあの手この手でそれが表に出ないようにし続け、とうとう最後にこのままでは隠しきれないということから平謝りに出たのだという話を聞いたことがあります。実際にファンヒーターの事故は回収騒動の時期に集中して起きていたわけでなく長期間に渡って起きていたのが突如回収を行う発表がテレビCMなどで公開されるなど、時期的にちょっと怪しい部分も少なからずありました。

 今回のトヨタのプリウス騒動も日本国内ではかねてよりブレーキの電子制御が弱いという声があったもののあまり大きな声にはならず、アメリカでの騒動の広まりによって初めて一般にも認知されてきた感じがします。恐らくトヨタにもクレームや事故(主なのは労災だろうけど)をもみ消す部隊みたいなのはあるかと思いますが、なまじっか市場が広すぎて松下みたいにいかなかったんじゃないかと、今日電車に乗りながら思いました。

2010年2月28日日曜日

移民議論の道標~その十、何故移民は必要?②

 昨日はスペシャルで放映された「トリビアの泉」を見るために途中でブログ書くのを打ち切っちゃいましたが、あんなにつまらないのであれば無視して最後まで書いとけばよかったとちょっと後悔してます。
 それはさておき昨日からの続きで、そもそも何故移民の受け入れが必要かという賛成派の主張について、前回のように労働力の需給バランスを整えるという経団連からの主張に加え現在の日本ではもう一つ、人口減問題に対する少子高齢化対策としてその必要性が各所で主張されております。

 この少子化対策としての移民受け入れは先の労働力の需給問題とも関わってきますが、現在の日本で起こっている歪んだ人口ピラミッド構造の是正がその目的となってきます。現在の日本は勤労を終えた高齢層(61歳以上)の人口に対して引退した高齢者を支えるべき青年層(19~60歳)の人口が相対的に低く、その上今後高齢層の人口はしばらく増えていく一方に対して出生率の低下から青年層の人口は減少していくことが見込まれ、このままでは年金や社会保険といった社会保障制度を保てなくなると言われております。日本の社会保障制度がこのままでは本当に崩壊するのかどうかについては私は内心怪しいとは思ってはいるものの、少なくとも現状より青年層にかかる負担は大きくなっていくのは間違いないとみております。

 こうした少子高齢化問題にどのように移民が関わってくるのかというと、現在の日本はあの手この手と少子化対策を行いながら出生率を高める事でこの問題に対応しようとしておりますが、この際無理に少子化をどうにかしようとするのではなく、今すぐ働いて税金を納める事が出来る青年層の人間を外国から呼んでしまおうというのがこの移民政策の目的です。
 いわば日本人の出生率を高めようとするのが少子高齢化問題の根治治療策であるのに対し、この移民の受け入れは対症療法とも言うべき、ショックアブソーバー的な案というわけです。

 結論から言うと私は、この少子高齢化対策という観点からこの移民の受け入れに対して賛成的な立場にあります。というのも今現在の日本で最も世代別人口が高いのは団塊の世代といわれる1946~1948年生まれの層で、この層が社会保障の対象から抜けるまでなんとか頑張りぬけば、その後社会保障対象人口は減少していく事が見込まれます。私はその期間を日本人の平均寿命をやや低めに見積もって80歳と想定して2028年までと考えておりますが(実際にはもうすこし後でしょうが)、2028年まで制度を維持する事が出来ればその後は社会保障支出は減少が見込まれ、要はそれまでの期間をどうやりくりするかに日本の年金、社会保障制度はかかっているのではないかと単純に考えております。
 然るに現在の日本の少子化対策ですと、仮に今年に子供を大量に生んだとしても2028年にその子供達は18歳にしか達しておらず、税金を納める年齢どころか税金を与えて育てねばならない年齢なので社会保障の維持にはあまり貢献する事はできません。

 そうであるのであれば、むしろ現時点で勤労年齢に達しており来日してすぐに働いて税金を納める事の出来る移民を一定度受け入れることで青年層の人口を直接増やし、人口ピラミッドの歪みを是正しながら2028年までなんとかこらえる方法を選択した方が良いのではというのが私の考えです。また受け入れた移民がそのまま日本での生活に定着して永住を決断し、日本国内で子供を生んで増やしてくれるのであれば移民を受け入れない場合に比べて出生数は多くなり、2028年以後の人口バランスの是正にも貢献する可能性があります。

 確かに移民を受け入れるに当たって社会整備や日本語教育などある程度費用がかかる事が見込まれますが、仮に20歳の移民者を受け入れるに当たって来日後3年間は教育費用がかかるとしても、その後10年、20年と日本で働いて税金を納めてくれるのであれば最終的には費用対効果はプラスに転じるのではないかと思います。もちろんこんなの私の都合のいい当て推量の計算なのでそんなうまくいくわけないという意見ももっともなのですが、それならば費用対効果がプラスに転じる可能性の高い優秀な人材を如何に呼び集めるかという案を考えるべきで、できればすぐに議論を打ち切らずにもっと内容を深めてもらいたいところです。

 もちろんこの様な案は言うは易しで行なうは難し、予想し得る問題を考えるだけでも目が回ってきますが、私はこのまま座して何もしないよりは実験的に小規模でもいいからなにかしら行動を行うべきではないかと常々思います。またこの案を実行するに当たって最低限必要となってくる条件は移民者が日本に長期に滞在してくれるということで、移民者が五年程度の出稼ぎと考えて出て行ってしまえばかけた教育費用の分だけ無駄になるので、十年以上の在住で永住権の付与など思い切った決断も必要となってくるかもしれません。日本人はそれだけの決心を持って行うか、このまま座して待つか、どちらが正しい決断なのかどうかを決めるのは早いに越した事はありませんが今すぐ出さなくても良いのですから、このような議論だけは活発に行っておくべきなのではないかと思い、この連載を行うことにしたわけです。

 最後にやや蛇足ですが、私は今後世界的に食糧が不足する時代が来ると見越して今後の日本は緩やかに人口が減少していく事が望ましいと考えております。しかし現在の人口構造ではあまりにも急激に人口が減少する構造ゆえにブレイクスルー的に上記の移民受け入れ案が一時一定度必要となると考えているわけですが、私が見る限り政府としては人口が今より減ってGDPを始めとした国力が落ちることは望ましく、子供をなかなか生まない日本人より多産の移民を恒久的に受け入れることでなんとか今の水準の人口を維持しようとしている節が感じられます。私の案も私が睨んでいる政府の案もどちらも少子高齢化対策という意味では同じですが、内容となるとちょっと方向性が異なっております。前者は高齢化対策に重きを置いているのに対し、後者は少子化対策に重きを置いている、という具合に。
 ちょっとややこしいですが、この辺の立場の違いも理解していただければ非常に助かります。

 恐らくここで書いたところがこの連載の一番ややこしいところなので、どうにか終わってほっとしました。
ε=( ̄。 ̄;)フゥ

2010年2月27日土曜日

移民議論の道標~その九、何故移民は必要?①

 まず最初に訂正です。この連載の「その七、フィリピン人看護師」で散々日本が受け入れたフィリピン人看護師のことを書きましたが、実際に日本にやってきているの看護師の国籍はフィリピンではなくインドネシアの方が大半だという指摘を受けました。その指摘によるとフィリピンとはETAの整備が遅れているため、インドネシアの方が先に入ってきているそうです。訂正してお詫びします。

 そういうわけで本題に入りますが、今日はそもそもの議論として一体何故移民が必要とされるのかという根本的な議題について触れておきます。
 まずこの移民の受け入れを最も強く主張しているのは経団連こと財界で彼らの主張を大まかに私の理解でまとめると、日本は少子高齢化が進んでいて労働力となる青年人口がこのままでは不足する事が目に見えており、そのような事態に備えて日本の生産力を落とさないように労働力を確保しなければならず移民が必要だ、といったところでしょうか。はっきり言いますがこれは詭弁です。

 そもそもの話として今現在の日本で労働力が不足しているのは介護や医療といった分野で、現在の経団連の中で大きな発言力を持っている自動車、家電産業といった分野の各企業はリーマンショック移行は労働者の雇い止めを相次いで行っており、むしろ働けるなら働きたい人が数多くいるというほど労働力が飽和状態となっております。わざわざ私が言うまでもないことですが、彼らの本音としては人件費の削減のために安い給料で働かせることが出来る移民の募集であって、現に行われている日系ブラジル人の受け入れも彼らの要求によって実現しました。

 しかし前回の記事でも書いたようにただ安い労働力を求めて移民を受け入れるとその分野で働く日本人の賃金も比例して下がるため、国内の消費力がより低下してグローバル企業にとっては利益に適っても、日本国全体では返って不利益となる事態になりかねず、まさに国敗れて企業在りとも言うような亡国の策となってしまう可能性があります。

 そのため、私は現在の経団連の主張のような移民の受け入れには基本的に反対です。逆に介護や医療といった真に労働力が不足している分野については、技術も必要とされる分野なだけにあらかじめ訓練を受けてきた者に限って必要とされる人数の上限を設けて受け入れる必要はあると考えております。もっとも、現在のインドネシア人看護師については受け入れ態勢、いやそれ以前に日本人の中で就職希望者が増えないという待遇の改善が図られないということが問題だと思うのですが。

 ちょっと今日は時間がないためここで中断しますが、今現在の日本の移民議論で重要な焦点となるのはこの労働力ともう一つ、人口減社会への対応という目的があります。これについてはまた次回にて。

2010年2月26日金曜日

私の考える無双シリーズ

 以前に私がよく遊んでいたゲームの中に無双シリーズでおなじみの「三国無双」がありました。このゲームについては過去にもいろいろと書いておりますがそのゲーム上の自由度の高さゆえにそれこそ気が狂わんばかりに遊んでおり、三国無双3で裏切られるまではこの世で最も面白いゲームだと本気で考えた時期もありました。
 そんな無双シリーズですが近年は三国志や日本の戦国時代に限らず様々なジャンルにそのゲームシステムが応用され、ガンダム無双や北斗無双などすでに発売されているタイトルもあります。それゆえに次は一体何を題材にして無双シリーズが作られるのかということが議論されてたりもしており、中にはガンダムも出てくるけどスパロボ無双なんかいいのではないかという意見をよく見ますが。

 しかしそうした意見を差し置いて私が敢えてどんなものを作ればいいのかというのなら、断然にお勧めするのが「大江戸無双」です。時代は江戸時代の中期に限定して迫り来る野党や役人をばったばったと斬り殺す、ここまで言えば勘のいい人ならもう感づいているでしょうが着想の元は徳川吉宗こと「暴れん坊将軍」です。
 では実際にやるとしたら、どんなキャラがどんな武器持って戦うのか、ひとまず私が思いついたのは下記の通りです。

・徳川吉宗(柳生新陰流の刀)
・大岡忠相(縄)
・鼠小僧(小判)
・八百屋お七(口から火を噴く)
・柳生十兵衛 (柳生新陰流の刀)
・長谷川平蔵(十手)
・遠山景元(桜吹雪を見せながらのプロレス技)
・由比正雪(杓丈)
・田沼意次(千両箱)
・磔茂左衛門(竹槍)
・華岡青洲(メス)
・紀伊国屋文左衛門(みかん)
・二宮尊徳(鉄の本で殴る)
・平賀源内(電気)
・伊能忠敬(ハイキック)
・お岩さん(皿)

※括弧内は使用武器

 我ながら、マニアックな面々を取り揃えたもんだと思います。
 この面子で無双シリーズのゲームを作るとしたらやっぱりラスボスはペリーになってくるのでしょうかね。ペリーと来たら今日見た下のサイトの企画が非常に面白かったです。

ペリーがパワポで提案書を持ってきたら(デイリーポータルZ)

2010年2月24日水曜日

移民議論の道標~その八、全体賃金の低下

 前回の記事では現在進行形のフィリピン人看護師の問題を取り上げましたが、その際に引用させていただいたサイトの(「看護・安全・守る」)記事にてなかなか興味深い内容が取り上げられていたので、管理人様より許可をいただけたので今日はこの点について私の考えを紹介します。

 その気になる内容というのは「外国人看護師問題」の記事内の「3.3賃金について」のところにて触れられている箇所で、簡単に概要を説明するとフィリピン人看護師の受け入れ要件の中には日本で支払われる賃金は日本人と同等の額と規定されているのですが、この要件が後々ネックになってくるのではないかという指摘です。

 一体この賃金についての用件が何が問題なのかというと、日本とフィリピンでは物価が違うために日本では低い賃金とされる金額でも本国フィリピンでは高額なものと映り、フィリピン人看護師らがわざわざ日本に仕事を求めてきてくれるのもこの賃金の差が大きく影響しているのは予想に難くありません。しかし今の日本国内の派遣労働と似ていますが、もし一般の日本人看護師の人件費より低い賃金でフィリピン人看護師が雇えるのであればどの病院も日本人を雇わなくなり、下手をすれば日本人看護師はみんな職を失うことになりかねません。
 こうした懸念や全国各地で不足している看護師の人数を増やすために上記の「賃金は日本人と同等」という要件がつけられたのでしょうが、引用させていただいた記事でこの要件は下手をすれば、

フィリピン人の賃金を低く設定する→フィリピン人の低く設定された賃金に日本人も合わせられる

 という風に働かないかと、実にうまい指摘をしております。はっきり言ってしまえば、派遣労働でもそうだったのだから私もこうなると思います。

 私の従兄弟(♂)も看護師をしていますが、今の日本の医療は制度が崩壊している中を現場の医師や看護師の熱意や努力によって必死に支えられているとよく聞きます。ただでさえ薄給激務といわれる看護師という職がもしフィリピン人看護師の流入によって賃金が更に低下してしまえば今後ますます看護師を目指す日本人は減少し、最悪のシナリオだと食糧のみならず医療や介護も外国に依存しなければならなくなる可能性すらあります。

 私はよく「水は低きに流れる」という言葉を日常でも使うのですが、このように移民の受け入れによって賃金低下が予想されるのはすべての業界に当てはまります。経営者としては優秀な人材を高い賃金で雇うよりも質は低くとも安い賃金で雇える人材を欲しがるに決まっており、日本と物価に差のある国から来る移民を受け入れた場合は日本人を含む日本人全体の賃金は基本的には低下していくことになるでしょう。
 しかし今の時期だったら説得力もてますが、この様な移民の受け入れを行った場合はまさに亡国の道です。賃金が下がるとともに国内の消費力が低下することでデフレが加速し、また低賃金の移民によって職を奪われた日本人は職業訓練が進まず、国内の技術力や生産性も合わせて低下していくでしょう。

 そのためフィリピン人看護師の受け入れ要件としてあった日本人と同等の賃金保障というのは非常に重要な条件で、これがしっかりと守られなければ移民政策はただ国内の産業を空洞化させるための手段に成り下がることになります。
 ですので極論を言ってしまえば、財界が主張しているようなすでに行われている日系人移民などの低賃金の移民受け入れというのは日本国内だけを市場としないグローバル企業の利益には適っても、国家の利益には適わないという風に考えられます。みんな自分だけが大切なのですから財界がこの様な主張するのも勝手でしょうが、財界人でない自分とするとやはりこのような主張をする人間らとは相容れられません。

 だからといって私は移民政策を否定するつもりはなく、むしろこの様な障害をどのようにして取り除いて受け入れていくかを今後考えるべきだとこの連載を通して主張したいわけであります。
 言ってしまえば移民を低賃金労働者の確保と捉えるのではなく、労働力の不足している産業の補充者として捉えねばならず、賃金は決して日本人へのものと差をつけてはならないというわけです。賃金が日本人と一緒では移民を行う意味がないじゃないかと言われるかも知れませんが、国家が移民を行うのは企業の利益率を高めることではなく労働力を補充するという目的であって、その目的にあった手段をしっかりと実行しなくてはなりません。

 と、ここで私は企業と国家では移民に対して目的が異なってくると書きましたが、そもそも一体何故移民を行おうというのか、その目的を明確に持っておくことは言うまでもなく大切なことです。そういうわけで次回は何故今の日本にとって移民が必要なのかということを解説します。

2010年2月23日火曜日

移民議論の道標~その七、フィリピン人看護師

 これまで移民を巡る各問題について日本の現況の説明ばかりしてきましたが、そろそろ私の個人的な意見とかが盛り込まれる内容に移って来ました。そうは言いながらもまず始めに行うのは、去年より本格的に受け入れが始まったフィリピン人看護師についての紹介です。

 このフィリピン人看護師の受け入れというのは、ニュースでも報道されている日本の各病院にて起こっている医師、看護師の不足問題を解決するため、フィリピンとのEPA(経済連携協定)の一環として看護師資格を保有しているフィリピン人女性の日本での就労支援、受け入れのことを指しております。この受け入れに当たってフィリピン人看護師に与えられた条件として主なものだと、下記のものが上げられております。


1、日本の国家資格取得
 フィリピンの看護師資格保有者であって3年間の実務経験を保有していること。日本での看護師国家資格の取得前に国内の病院での就労・研修を行う。
2、日本語研修の実施
 入国後六ヶ月の日本語研修を受けること。
3、日本人と同等以上の報酬
4、看護師の受け入れ枠は当初二年間で400人を上限
 資格取得後の在留期間の上限は三年だが、更新回数の制限無し

 上記条件を簡単にまとめると、まず本国フィリピンで看護師としての資格と実務経験を持っている上で、来日後は日本の病院で研修を受けつつ最終的には日本での看護師資格試験の合格が義務付けられているということです。

 このフィリピン人看護師の受け入れは受け取り方によって定義は変わってきますが、私はこれも一種の移民として捉えているのでこの連載で取り上げることにしました。まずこの政策について私の評価を説明すると、確かに看護師の不足はすぐにでも解決せねばならない問題でその目的や方向性には理解できるものの、残念ながら現時点では早計に行いすぎて失敗に至るのではないかと見ております。

 何故この様な評価をしたのかというと、このフィリピン人看護師を受け入れた各病院からの報告が徐々に報道されるようになってきておりますが、それらの報道で私がよく耳にするのは彼女らの日本語教育が思っていた以上に進まないという報告です。現在来日してきたフィリピン人看護師は日本の各受け入れ先病院で研修を受けつつ日本語を学んでいるのですが、よくドラマかなんかでは働きながら日本語は自然に覚えるように映しますが、そんな簡単に習得できたらどんだけいいものかと私は思います。やはり言語の習得というのは相当にセンスのある人間ならともかく集中的に勉強しなければなかなか身につかないもので、看護師という大変な職業をしながら学ぶというのはやはり難しいのではないかと思います。そしてこのように日本語教育が進まないゆえ、将来的に日本で働き続けるために必要な日本の看護師資格試験の合格も現状では難しいのではないかと見られています。

 このフィリピン人看護師の受け入れ政策で何が一番問題なのかというと、日本の受け入れ態勢が全然整っていなかった、甘い想定をしていたのではないかと私は考えています。これは世界的にどの国にも言えますが移民という政策を実行に移す際に何が一番重要なのかといえば受け入れ後にどう定着させるかという受け入れ態勢にあって、もしこれに失敗してしまうと移民で移って来た人達は人生を狂わされて本国に帰国してしまったり、極端な例だと移民先の国に止まって犯罪集団化する危険性もあります。そのため移民を受け入れるに当たって生活面でのサポート、言語面での教育というのは何にもまして重要な要素となります。

 それが今回のフィリピン人看護師の受け入れを見ていると、やはり外国人慣れしていないゆえか日本はこの受け入れ態勢をしっかりと整備しておらず、きちんとした計画を持っていなかったということが露呈してしまいました。もちろん看護師という厳しい職のために異国である日本に来てくれたフィリピン人の方々に私は深く感謝していますが、残念ながら彼女らの熱意と努力に応える態勢を日本が整え切れなかったのは認めざるをえません。受け入れを行った病院に対するアンケートでも、今後も受け入れを続けるかという問いにNoと答えた病院が多かったそうですし。

 では具体的にどうすればよかったのか。この辺は素人ゆえにあまり大したことは言えないのですが、やっぱりフィリピン本国でもっとしっかりと日本語教育を行った上で受け入れをする必要があったのではないかと思います。その上であまり言語に影響されない病院内の職場の整理など、来日後に問題が起こった後にすぐさま対処できるサポート体制の準備など、やれることはまだまだいろいろあったと思います。
 一例を挙げると、青森県の病院に派遣されたフィリピン人看護師の方が現地の寒さに慣れることが出来ずに一番最初に帰国することとなったのですが、同じ日本人でも寒さに慣れないような場所なんだから、もっと南の病院に移れなかったのかと個人的に思いました。

 ただその一方、やっぱりフィリピンの方々らは根っから明るい方ということで介護の現場などでは入所者らから非常に親しまれているという報告も聞きます。こうしてやってきてくれる方のためにも、もっとお金をかけてでも日本は彼女らをサポートして定着を図るべきなのではないかという気がします。
 そう思う一方、あくまで彼女らが出稼ぎのような日本で数年間という一時的に働くという目的で来ているのであれば、私はこの受け入れ自体を考え直す必要があるのではないかとも思います。その辺についてはこの記事で合わせて書くつもりでしたが、すでに大分長くなっているのでまた明日に回すことにします。

 最後に今回の記事を書くにあたり非常に参考にさせてもらったサイトをご紹介しておきます。

看護・安全・守る

 この記事よりも上記サイトの中の「外国人看護師問題」のページのがこの問題についてよくまとめられているので、興味のない方も是非読んでいただきたく思います。
 それにしても、あまり何も考えずに書いたからあんまりまとまりがないなぁこの記事……。

  追記
 この記事の中で日本が受け入れている海外からの看護師の国籍をフィリピンと書いておりましたが、実際にはインドネシア国籍の方が大半だそうです。私の勝手な印象でフィリピンの方が大半だと誤解しておりました。訂正してお詫びします。

2010年2月22日月曜日

自民党の審議拒否について

小沢氏らの国会招致など申し入れ 衆院議長に野党(産経新聞)

 またも素晴らしく頭痛に悩まされているので、今日も短めの記事を一本書いておきます。
 昨日の長崎県知事選、東京都町田市長選にて自民党の擁立候補が民主党の擁立候補に勝ち、鳩山首相と小沢幹事長の政治資金問題が選挙に影響したものかと各所で大きく報じられています。今回の選挙結果を見て私が感じたのは、一昔前と比べて近年の選挙は政治動向にすぐ反応し、政党支持率などの各世論調査の結果に則した結果が出やすくなったように感じました。

 90年代の選挙では主に地方の農家や土木事業者を自民党ががっちり固めていたのもあって世論調査では圧倒的に低い支持率ながらも議会では自民党が多数派を維持し続けていましたが、2005年の郵政選挙以降は固定支持層というものが瓦解して浮動票と呼ばれる層が増加し、割と政治の動きがストレートに選挙結果に反映するようになったように見えます。
 皮肉にもこの様な形態は二大政党制を90年代から強く主張してきた民主党の理想形であり、前回総選挙ではこの形の選挙に乗ることで民主党は大勝利を得ましたが、その大勝利の直後にもかかわらず今回の地方選挙で敗北したということは次回の参議院選挙も十分にこの様な事態が起こりうるということを示唆しているでしょう。

 逆に野党に転落して一方、全然いいところのなかった自民党は今回の選挙結果で一矢報いる形となり、ようやく反撃の糸口を掴めたと言ってもいいと思います。先月まで前回総選挙後に総裁に就任した谷垣氏ははっきり言って頼りなく、就任直後に趣味のサイクリングでこけて顔を縫ったというどうでもいいことしかニュースにならなかったなど私もあまり評価していなかったのですが、少し前の与謝野馨氏から鳩山首相への「総理は平成の脱税王だ」という代表質問以降は波に乗り、この前あった党首討論でも谷垣氏はなかなかいい質問を見せておりました。

 そして今日、自民党は地方選挙勝利の余勢をかって小沢幹事長の国会招致を条件に予算委員会の審議拒否に入りました。実はこの審議拒否という手段は諸刃の剣となりやすい戦術で、昔ある新聞が書いたように「天の時、地の利、人の和」の三条件が揃わないと効果を発するどころか逆に批判の的となってしまいます。
 一つ一つ説明すると、まず天の時というのは国会で審議の必要な案件がまだ残っていること、地の利というのは他の野党も同調しているか、そして人の和というのは国民は審議拒否を了承するかということです。

 今回の例ですとまず天の時は予算議論の真っ只中ということで当てはまりますが、地の利では他の野党はまだ呼応していないため足りておらず、そして最後の一番肝心な人の和についてですがこれはもう少し様子を見ないといけません。しかし今回谷垣氏が、「今をおいて他はない」と言った通り、直接民意の出る選挙直後にすぐ行動に移したというのはもっともな判断かと思います。またこの審議拒否についてまだマスコミは批判的に報道しておらず、私自身の実感でも国民は小沢幹事長の更なる説明を求めているように見えるので少なくとも大きく批判されることにはならないのではないかと見ております。

 過去に民主党がこの審議拒否をした際には国会を無駄に中断させていると激しい逆批判を受けていましたが、今回の自民党の行動がどう評価されるか、今夏の参議院選挙を占う上で一つの指標になるかと思います。

2010年2月21日日曜日

移民議論の道標~その六、外国人研修生

 現在の外国人参政権問題の議論において移民についてもよく議論がなされますが、その中の意見の多くに日本はずっと単一民族国家でやってきたのに移民など受け入れたら大混乱になるという意見が見受けられます。この意見について私は賛成半分、反対半分といったところで、まず外国人の受け入れや生活面の保障といったところでは確かに今の日本は経験不足で、これは今度やるフィリピン人看護婦問題でも書きますがかなり致命的な間違いや失敗を犯すなど移民を受け入れるというには程遠い所があります。しかしその一方、日本の経済はすでに部分的ではありますが移民労働力に頼らなければ産業が成り立たないところまで来ており、今更移民の受け入れを拒否しようにも現実離れしているのではないかと思います。

外国人研修制度

 日本に来ている移民の中で重要な役割を果たしているのは前回にて取り上げた主にブラジルなどからやってくる日系人移民ですが、その影でもう一つ大きな移民集団となっているのが上記リンクにある外国人研修制度によってやってくる外国人研修生達です。
 この外国人研修制度というのは日本の優れた職業技術などを発展途上国の人間に労働現場で伝授、講習させるというODA的な目的で始まった制度なのですが、現時点でこの制度は元の目的から大きく逸脱して利用されているよりほかなりせん。具体的にどう逸脱しているのかというと、外国から研修生という待遇で呼び寄せればその研修生は労働法の適用範囲外に置かれるため、職場で技能講習を兼ねて働かせる場合は賃金を支払わなければないけないのですがその賃金は最低賃金を下回っても違法にならなくなるのです。

 そのため現時点で日本人労働者より劣悪な労働条件で働かされているといわれれる日系人移民よりも賃金は下回っており、私がテレビの特集で目にした例だと時給200円という例もありました。しかもそうやって働く現場は現実には何の技能講習にもなっておらず、繊維工場に来ているある中国人のインタビューではその工場で使われている機械は現在の中国ではどこも使わないような古い機械で、扱い方を憶えて本国に戻った所で何の役にも立たないと語っていました。

 ではそんな劣悪な条件にもかかわらず何故彼らは外国人研修生の募集に応募するのかというと、やはり本国との通貨格差が大きく影響していますが、現在の外国人研修生の過半数を占めるのが中国人だということを考える中国の貧しい農村にターゲットを絞って日本の企業が募集をかけているからだと私は見ています。現在の状況を見るにつけより安価な労働力を求めて日本の企業がこの制度を悪用しているようにしか見えず(2005年時点で83,319人が入国)、すでにこの制度に頼りきっている企業が実際に存在していることを考えると、日本人は望むと望まざるを得ずにすでに移民社会へと歩を進めており、もっとどうすれば移民に対応できるかを考える時期日本は来ているのではないかと私は考えています。

 また繊維産業のみならず、この外国人研修生は産業は産業でも、日本の農業現場にも中国人の外国人研修生がたくさんきております。わたしがテレビの特集で見た例だと長野県の高原野菜畑でたくさんの人数が来ており、雇用主の日本人農業経営者によると以前は夏休み中の農繁期に大学生などがたくさん来てくれたが今ではどこも募集に応じてくれず、賃金面などを含めて彼らなしではもうこの農業は成り立たないとまで述べていました。また彼ら中国人は出来るだけお金を稼いで帰りたいと思っているものの、残業代を払う余裕もないため双方我慢が続いているとも申していました。

 皮肉にもすでに日本人の中では農業経験者は少なくなっており、下手な人間を雇うよりは農村出身の彼ら中国人研修生を雇用した方が都合がいいという現状です。私みたいに一年間中国で生活してきた人間ならともかく、よく日本人は中国産野菜というと農薬など敬遠する節がありますが、こちらもまた皮肉ですがすでに日本は国産野菜についても中国に依存しつつあるわけです。

 最後にこの外国人研修生にまつわる、ある事件の紹介をしてまとめておきます。

<在日中国人のブログ>熊本県で中国人研修生が農家夫婦殺害後に自殺、背後に何が?(レコードチャイナ)

 上記リンクに貼ったニュースの内容はというと、外国人研修生として熊本県の農家で働いていた22歳の中国人男性が首を吊って自殺しており、彼を雇用していた農家夫婦も他殺体で発見されたというニュースです。わざわざ説明するまでもなく状況からこの研修生の中国人男性が夫婦を殺害した上で自殺したと伺わせるニュースですが、このニュースについて誰がどう思おうがそれは個人の勝手です。
 私は勝手に思うに、こういうことをいつまでも続けていたら外国から日本が敵視されたり恨まれても仕方がないのではないかと思います。またこの事件に限らず、私もかつて記事を書きましたがこの外国人研修生の過労死もあまり大きく取り上げられませんが下記リンクにまとめられているように実際に起きております。

外国人研修生に強いられる過労死、発生率は日本人の2倍 - 現代日本に横行する奴隷労働・人身売買(すくらむ)

 よく犯罪率が高いことを理由に中国人みんなが犯罪者かのような言い方をする人間がいますが、この様な外国人研修生の現状を見てまだそんなことを言えるというのなら、青臭いかもしれませんが自分は日本人として恥ずかしく感じます。私は真に努力して苦労している人は日本人だろうと中国人だろうと変わらず評価するべきで、この様な厳しい環境下で働いている研修生らの待遇改善を訴えることが日本のワーキングプア問題の改善にもつながると考えており、この問題を他人事と取ってはならないという意見を今日の結論とさせてもらいます。

2010年2月20日土曜日

煮え湯を飲むとどうなるか

 最近本当に硬い記事ばかり書いていて婚後一年過ぎた夫婦のような倦怠感を感じているので、久しぶりに砕けた記事でも書こうかと思います。例によって過去の私の体験談なのですが、この話は私が高校生の頃の話です。

 その日は学校で期末テストがあり、テスト前に私は水筒に入れて持ってきておいたお茶を飲みつつ教科書をめくりながら復習をしているとある友人が、
「おいお前ばっかり飲んでないで、俺にも一口飲ませろよ( ゚Д゚)」
 と、私の飲んでいるお茶を求めてきたので、私は一計を持ってこう答えました。

「いいよ(・ω・)」
「えっ、本当にいいのかよ?(゚Д゚;)」
「いいけど、口つけて飲むなよ(・ω・)」
「わかってるって(・∀・)」
 
 実はこの時魔法瓶に入れて持ってきていたお茶というのは自分でもびっくりするくらい熱いお茶で、最後の友人の「わかってる」という言葉を聞ききながら心中、「いや、わかってないのはお前だって(゚Д゚;」と、突っ込みそうでした。なおこの場にはもう一人別の友人がいたのですが、その友人は私が何をしようとしているのかをすぐに察して敢えてこのやり取りには加わらず、横を向きながら黙ってててくれました。
 それにしてもこの友人があまりにもうまいこと引っかかってくれたので水筒を渡す際に噴出してしまうのを我慢するのに必死でしたが、何とかこらえて水筒を手渡すと、その友人は真上に大きく口を開けるとゆっくりと水筒を持ち上げて行き、真っ赤に燃えるほど熱いお茶を直接喉へと降り注ぎました。

 この時の光景を、先ほど黙っててくれた友人は後に、「スローモーションのように見えた(;´Д)」と評しております。
 見事に私の術中にはまった友人はお茶を注ぎ込むやすぐに噴出し、その後猛烈にむせかえっていましたが、横で見ていた私達はというと今か今かと必死でこらえていた分を発散するかのように爆笑していました。よく苦しい思いをさせることを「煮え湯を飲ます」といいますが、文字通り煮え湯を、しかも喉に直接飲ませたのは私くらいなものでしょう。

 もちろんこの後友人にはこっぴどく怒られましたが、運悪くその日の晩の友人宅の夕食はキムチ鍋で、火傷した喉では満足に食べられなかったそうです。我ながらひどい事をしたとは思いますが、あれほど見事に引っかかってくれるともうなんていったらいいかわからないもんで、今でもこの時のことを思い出しては噴出してしまうことがあります。

2010年2月19日金曜日

高橋大輔選手、銅メダル獲得!

 不況のニュースばかりで依然と国全体で根暗ムード満開の日本ですが、本日は本当に明るいニュースが入ってきたということで私も一筆したためておこうかと思います。

「喜怒哀楽」の思い込め=高橋、たどった4年間の道(時事通信)

 すでに各所で報道されているように現在開催中のバンクーバーオリンピックの男子フィギュアスケート競技にて、日本の高橋大輔選手が見事三位に選ばれて日本男子フィギュアスケート史上初の銅メダルを獲得しました。
 このバンクーバーオリンピックではすでにメダルを獲得している選手がほかにも何人かいる中でどうして私がこの高橋選手のみを取り上げようと思ったのかというと、彼のこのオリンピックに至るまでの苦難の道のりを考えるとその努力を称えずにはいられないと感じたからです。

「高橋選手らしい演技を」 京で病院関係者 声弾ませ応援(京都新聞)

 高橋選手は上記のニュースでも報道されているように、今回のオリンピックの前にひざの靭帯断裂というスケート選手としては選手生命を脅かしかねない大怪我を負っていました。しかしこの不幸というより他のない大怪我をリハビリにて見事克服し、その後長い怪我の間のブランクを乗り越えて今日の表彰台にまでどれだけ苦難と努力の道を歩んできたのかというと胸が熱くなってきます。実際にテレビで放送された彼の演技を見ていて、私も思わず涙をこぼしてしまっていました。

 私は以前、しかもこのブログをしていて一番文章が荒れていた頃に書いた「私の好きな野球選手」の記事にて書いたように、メジャー昇格を直前にして大怪我を負ってしまいながらも諦めずにその後本当にメジャーのマウンドに立った桑田真澄選手を尊敬していると書きましたが、今回の高橋大輔選手も桑田選手同様に一個人としてその努力、その不屈の精神に心から尊敬するとともに今回の銅メダル獲得を祝福したいと思います。高橋選手、おめでとうございました。

外国人参政権裁判談話の問題

 今連載中の「移民議論の道標」とも内容が密接に関わるので、さすがにこのニュースは見逃すことが出来ません。

「政治的配慮あった」外国人参政権判決の園部元最高裁判事が衝撃告白(産経新聞)

 記事の内容を要約すると、平成7年にて永住外国人に地方参政権が付与されないのは憲法上の平等に反するという在日韓国人から国への訴えに対し、判決では必ずしも違反ではないとした上で判決後の談話(傍論)にて園部元最高裁判事が、「(地方参政権が永住外国人に付与されることは)憲法上禁止されていない」という発言をしたことに対し、発言主の園部氏自身があの発言をしたことについて、

「(在日韓国・朝鮮人を)なだめる意味があった。政治的配慮があった」

 と振り返り、法の最高監視者でありながらかなり無責任な行動を取っていたということを報じています。このニュースを見た私の第一印象は、こんな無責任な人間が最高裁判事をやっていたという時点でいろいろと思いやられました。

 まず当時のこの発言の余波について説明しておくと、かねてから永住外国人に参政権付与を主張してきた在日韓国、朝鮮系団体が俄然勢いづき、従来の主張をさらに強めて現在に至るまで請求の大きな根拠の一つになっております。

 私がこの園部氏の発言に呆れている点はどこかというと、法に対して厳格であって政治的中立を保たなければならない裁判官ともあろう人間がまさか、「なだめるために政治的配慮をした」という、裁判官として決してあってはならない理由で以って、いくら法的拘束力がないとしても社会に大きく影響を与えかねない迂闊な発言を法廷で言ったというところです。しかもそんな重大な発言をしておきながら、「裁判官は言い訳をしてはならない」という鉄則を再び破って、「在日韓国、朝鮮人のような特別永住者にならともかく一般永住者にも参政権を与えようとする民主党の政策はありえない」などと、引退したからといって元裁判官がここまでペラペラしゃべっていいのかと感じてしまいます。まぁ個人がどう考えるかを規制してもいけないのですが。

 この地方参政権についての議論は本筋の連載の後半にて行いますが、自分も含めて冷静に問題点を整理して議論する必要のある問題だと考えております。それゆえ、「なだめるため」という理由で発言するなどは持ってのほかということを今日のまとめとさせていただきます。

2010年2月18日木曜日

移民議論の道標~その五、犯罪人引渡し条約

 前回の記事にて私は現在の日系人の移民(=出稼ぎ)受け入れには大きな問題があるとして、すぐにでも現法体制を改正するべきだと主張しましたが、その最大の要因ともいえるのが今回の主題となる「犯罪人引渡し条約」です。

犯罪人引渡し条約

 この条約は読んで字の如く、それぞれの国同士で国外逃亡犯を捕縛して引き渡すという条約のことです。何故この犯罪引渡し条約が問題なのかというと、現在の日本の外国人登録者数で第三位の人口を誇るまでに至ったブラジルとの間に日本はこの条約を結んでおらず、目下の所、日系ブラジル人が日本で犯罪を犯したとしても日本の警察に捕まる前にブラジル本国に帰国したら刑罰を課せない状態にあります。

ブラジル人「以前から盗み」…名古屋ひき逃げ(読売新聞)

 上記のニュースは先月に三人もの人間が亡くなった名古屋市で起きたひき逃げ事件のニュースですが、リンク先に書かれているようにこの事件の犯人は出稼ぎに来ていた日系ブラジル人でした。彼らはこの事件が起こる以前から常習的にカーナビなどを窃盗しており今回ひき逃げ事件を起こしたことでようやく捕まったわけですが、仮に警察に捕まる前に本国に高飛びされていればカーナビの窃盗容疑はもとより、ひき逃げの容疑についても追求できなかったでしょう。

 実際にそのように高飛びされたという例はこれまでにも報告されており、日系ブラジル人によるとされるひき逃げによって実際に人が亡くなっているものの、その容疑者がすでにブラジルに帰国しているために罪に問えないという、亡くなった方の親類によるドキュメンタリー番組を私も見たことがあります。

 そもそもこの犯罪人引渡し条約、今回調べてみて私も驚愕したのですがなんと日本は世界的にもこの条約を交わしている国数が非常に少ない国で、現在韓国とアメリカのたったの二ヶ国とだけしか結んでおりません。参考までに他国の条約締結国数をここで紹介すると、

・フランス:96ヶ国
・イギリス:115ヶ国
・アメリカ:69ヶ国
・韓国:25ヶ国


 日本が条約を結んでいるアメリカと韓国はいろんな国と結んでいるのに、日本だけがここまで極端に少ないというのは素人が見たって明らかに異常でしょう。逆を言えば日本人は海外で犯罪を犯したとしても日本に逃げ帰れさえすれば罪に問われないということになり、そういった事情があるからこそ国連から東南アジアにおける日本人による(主に暴力団)人身売買に対して取締りがなされていないと注意されているのかもしれません。

 私は移民を受け入れるに当たって、引き受け元の国とこの犯罪人引渡し条約を結んでいるということが最低条件として必要だと考えております。大半の移民がそうでないにしろ、やはり一人や二人は犯罪を犯す可能性のある人間も混ざって入ってくるのを防ぐことは出来ず、仮にそうした人間が国内で犯罪を犯して本国に逃げ帰ったとしても刑罰を課せる体制でなければ日本人との間に不要な不信感を作りかねません。

 ただこの犯罪人引渡し条約を結ぶにあたり一つだけ厄介な国があり、それはどこかというと何を隠そう中国です。現在の日本における外国人登録者人口で中国人は韓国、北朝鮮人を追い抜き一位にもなりましたが、移民を受け入れるに当たって犯罪人引渡し条約が最低限必要だと説いておきながら、自他共に新中派と認める私でも中国とはこの条約を結ぶべきではないと考えております。

 というのも現中国共産党政府は外交において日本だろうとアメリカだろうとどこにでも強気に自国のルールを迫る性格があり、仮にこの犯罪人引渡し条約を結ぼうものなら、本来この条約では政治犯は例外として引渡し対象とされないのですが、恐らく中国は中国にとって煙たい要人が来日するたびにこの条約を盾に引渡しを要求してくる可能性が高いでしょう。それこそ今日オバマ大統領と会談したダライラマ十四世氏などはその筆頭で、下手すれば台湾元総統の李登輝氏にすら引渡しを要求するかもしれません。
 また中国は日本以上に刑罰に厳しい国で、麻薬の所持だけでも死刑で執行も判決が下りてすぐに為されるため、この点についても注意、検討する必要があります。

 ただ日中に跨る窃盗団などの摘発協力であれば中国政府、警察としても願ってもない話でしょうし、これはこの連載の後の方で解説しますが中国には日本が移民として受け入れるのに魅力的な人材が数多くいるため、麻薬、窃盗、殺人といった犯罪に限って日中警察で捜査協力、情報の共有化を進めた上で移民の一部受け入れを実施するべきだと私は考えております。

 最後にこの犯罪人引渡し条約についてですが、仮に日本が締結を求めても相手国がそれを受け入れないのではないかという懸念があります。まず欧米諸国からしたら死刑制度のある日本は敬遠されるでしょうし、また日本の警察や検察は足利事件の菅谷さんの例で明らかになったように強引な取調べをする傾向があり、その上代用刑事施設、通称「代用監獄」の存在など本当に法治国家かと疑うような制度や施設が盛りだくさんです。仮にこのような国から引渡し条約を結んでくれと言われても、私だったら遠慮してしまいます。

 よく中国の裁判や取調べには問題が多いと日本のメディアは報じていますが、確かに中国の制度よりは幾分マシなものの、日本の司法制度もいろいろと問題が多いということを認識しておくべきかと思います。


  おまけ
 この前上海に行った時に友人に、中国には暴走族はいないのかと尋ねた所、
「いないよ。そんなことしたらみんな警察に殺されるもん」
 といわれて、改めて中国警察の強さを認識させられました。実際に旅行するに当たって、中国は非常に治安がいいところです。

2010年2月17日水曜日

移民議論の道標~その四、日系人移民について

 この連載の二回目、「日本の現状」で移民にまつわる現在の日本の様々なデータを紹介しましたが、その中の特筆すべき存在として私はブラジル人の増加を挙げていました。このブラジル人、というより正しくは日系ブラジル人たちですが、彼らは経済界からの強い要望によって1990年に改正された入国管理法によって従来と比べ就労ビザが取得しやすくなったことから年々増加し、現在の日本において外国人人口の第三位につけるまで来ております。

 そもそも何故日系人が就労ビザが取りやすくなるよう入管法が改正されたかですが、当時の時代背景と前回「国籍の決定条件」の記事にて解説した血統主義と出生地主義の概念が深く影響しております。
 1990年当時の日本は言わずもがなのバブル景気真っ只中ということから経済も絶好調の頃で、企業はどこも人手不足で年々人件費も高騰を続けておりました。そのため経済界は政府に対して人件費が安価な外国人労働者の受け入れを当時に強く迫っていたのですが、政府としては不用意に移民を受け入れを始めて一挙に大量の外国人労働者が流入する警戒感を持っており、妥協策として日本人の子孫である日系人に限って就労ビザの発行を認めることにしたのです。

 何故日系人に限って政府は受け入れを始めたのかというと、私の見方だとまず第一に総受け入れ人数の規制があった上で、日系人であれば日本の文化や生活に慣れやすいだろうという目算があったのだと思います。もっともこれはあちこちの社会学の論文にて報告されていますが、両親がその国の出身者である移民二世であっても成人後に来日するのであれば適応するのは非常に難しいそうです。逆に成人前の14、5歳までに来れば適応する可能性は高いそうですが。

 この日系人に限るという条件は言うまでもなく血統主義に基づく政策ですが、こういった手法は何も日本に限らず遠くドイツでも同じようなことをしていると以前に聞いた事があります。ちょっと耳に挟んだ程度ですが、ドイツでも近年に移民の一部受け入れを始めた際、その条件としてかつて多くのドイツ人が移民として渡ったどっかの国の一部地域出身者に限って受け入れたそうで、日本と同じく血統主義に基づいているそうです。

 話は戻って日本の日系人移民の話ですが、この受け入れを始めたことから戦前戦後にかけてたくさんの日本人が移民したブラジルやペルーの日系二世、三世らが日本に移民、国籍が得られず就労ビザだけなので正確には出稼ぎにやってくるようになり、受け入れ開始から二十年経った今に至ると群馬県や静岡県、愛知県の一部地域で大きなコミュニティを構えるほど一般化して行きました。

 何気にこの辺が非常に重要なのですが、確かに日本全国の人口で比べると中国人、韓国人より日系ブラジル人の人口は一段低くなりますが、日系ブラジル人は自動車や繊維産業の工場がある地域に固まって居住する傾向があるため、地域ごとの人口割合で見ると前回に紹介した図録にあるように多くの都市で他の外国人を抑えてトップに立っているだけでなく、中には全住人の10%以上を占めている都市もあります。そのため現在民主党が国会に提出しようとしている外国人の地方参政権付与案に含まれているかまではわかりませんが(多分含まれない)、仮に日系ブラジル人にも付与されるとしたら一番力を持つ集団となる可能性が高いです。それがいいかどうかはまだわかりませんが、すでに大きなコミュニティを抱える集団ということもあってまるきりのけ者にするのはするで問題があり、地方参政権議論で彼らを無視するべきではないというのが私のかねてからの持論です。

 さてそんな日系人移民ですが、いきなりですが私は早期に現在彼らを受け入れている制度を改正する必要があるかと思います。それは何故かというと彼らを受け入れるに当たってあまりにも現在の制度には穴が多く、そうした問題点を改善していった上で受け入れを行わねばやってくる日系人、そして日本人にとってもよくないからだと思うからです。
 これは日系人に限らず他の外国人にも当てはまりますが、特にそれを強く感じるのは犯罪についてです。そういうわけで次回は、恐らくこの連載でも一、二を争う鬼門になるであろう外国人犯罪についていろいろ書いていこうと思います。

2010年2月16日火曜日

鳩山、小沢資金疑惑の残したもの

 ちょっと息抜きとばかりに政治系の短い記事を一本書いておきます。

 さて民主党は去年から続く鳩山首相の故人献金疑惑(脱税)、小沢幹事長の裏金疑惑と、事実上の民主党2トップの金にまつわる疑惑の紛糾から今年は始まりましたが、各世論調査からも明らかな通りに国民が彼らの疑惑に対する説明に納得していないもののこれらの問題は段々とうやむやになってきて、小沢氏の問題については検察も起訴を見送るなど投げ出す結果となりました。
 彼らの疑惑について各メディアは検察発表を鵜呑みにして余計なものも含めて逐一報道しておりましたが、この問題、というよりこの問題の結末についてきちんと掘り下げたメディアはほとんどいなかった気がします。

 あまり長々前置きするものでもないのでもう結論を書くと、今回のこの鳩山、小沢両氏の政治団体における資金疑惑が残した負の遺産とも言うべきものは、問題が発覚したとしても秘書の行ったこととすれば政治家本人は責任を免れるということにあるのではないかと私は思います。
 両氏とも報道や捜査によって明らかとなった疑惑に対し、チンパンジー(何故か福田元首相の顔がよぎった)が見たって筋の通っていない説明をした上で、「秘書が勝手にやったことだ」とまとめており、しかもそのわけのわからない説明によって実際にこれらの疑惑はうやむやになりつつあります。

 言ってしまえば仮に政治家本人が脱税なり裏金収賄なりを率先して行っていたとしても、これからはそれらの問題が発覚しても秘書のせいにすればどうとでも言い逃れが出来るということを今回証明してしまったようなものです。もし今回のようなことがまかり通るのであれば、かねてからザル法と言われてきた政治資金規正法はザル法を通り越して有名無実と化しかねません。
 私も以前はあまりに細かすぎてもと思ってそれほど賛成ではなかったのですが、やはりかつて鳩山首相が国会にて主張していたように、「秘書の責任は政治家本人の責任だ」とばかりに、今後は秘書が勝手にやっていたとしても政治家本人にも無条件で監督責任が課されるように政治資金規正法を改正する必要があるかと思います。

2010年2月15日月曜日

移民議論の道標~その三、国籍の決定条件

 なかなか前置きから抜け出せずにいますが、このあたりは移民を考える上で決して外してはならない非常に重要なところなので前もって解説をしておきます。
 さて一口に「移民」という言葉の定義を出すとしたら単純に、「国籍の違う人間が外国で定住する、もしくは働く」といったところでしょう。この定義の中に出てくる「国籍」という条件が移民を考える上で非常に大きな要素になることは疑いもないのですが、この国籍がどのように決まるか、またそれがどのように世界で扱われているかという点について意外と知らない人が多いのではないかと思います。

 まず日本人が見落としやすい事実として、グローバル化の中で海外ではすでに二重国籍がそれほど珍しくなくなってきております。二重国籍とはその言葉の通りに異なる複数の国の国籍を同時に持つということで、これを認めている代表的な国は言わずと知れたアメリカです。
 現在の日本では両親が日本人であるもののアメリカで生まれた人間については日米の二重国籍を認めていますが、成人後には日本、もしくはアメリカのどちらかを自分の国籍として選ばせており、基本的には日本単独の戸籍は日本人にしか認めておりません。

 ここで早速出てきましたが国籍は出生時に決まるのですが決め方には主に二種類あり、それぞれを「血統主義」、「出生地主義」と呼んでおります。
 前者の血統主義は両親、もしくは父親か母親のどちらかがその該当する国の国籍を有している場合、その子供にも国籍が認められるという考え方で、現在の日本の制度はこの血統主義に基づいております。それに対して後者の出生地主義は両親がどこぞの誰であれ、その国の領土で生まれた子はその国の国籍が認められるという考え方で、これなんかは先ほどの例に出てきたアメリカやブラジルといった国々です。

 そのため一時期流行っていて多分今でも続いているでしょうが、日本人の両親がハワイで子供を出産すると先ほどの二重国籍扱いとなり、将来的に日本国籍を維持するのであればアメリカ国籍を放棄しなければならないのですが、それまでであれば両国の国民が持つ権利を自由に行使できる立場になるのです。まぁうまい話には必ず落とし穴があるのが決まりで、権利を得られる代わりに義務も課されることとなるのでアメリカで徴兵が行われたら従わなくちゃいけなくなるというわけですが。

 この国籍の決定条件がどのように移民に影響を与えるのかですが、仮に出生地主義を採用している国で移民が行われた場合、その国に乗り込んできた移民一世は外国籍のままですが日本で働きながら子供(移民二世)を生むとその子供は移民先の国籍が得られることとなります。またこの場合、子供がその国の国籍が得られるのに親が外国籍のままというのはあんまりだということで、子供を生んだ場合は親にも国籍が認められる国もあります。
 しかしこれが血統主義である場合、たとえどれだけ長い期間移民先の国で働いたとしても移民一世はおろか、移民先の国で生まれ育って両親の母国に一度も行ったことがない移民二世も国籍が得られるわけでなく、母国が出生地主義を採用している場合には下手すりゃ無国籍扱いになってしまう可能性すらあります。

 そのため現在の日本なんかが典型的ですが、血統主義国では移民というよりも出稼ぎの受け入れという形で外国人労働者を雇い入れることが多くなります。もちろんどの方式を採用するかはそれぞれの国の自由ですが、フランスのように条件付で出生地主義を採用している国と比べると現状の日本は少子化に対応した移民政策ではないということがわかってきます。
 こういったところが移民議論の大きなキーポイントとなるのですが、単純に短期の出稼ぎ外国人を大量に受け入れるか、少子化の是正も踏まえてそのまま日本に根付いてくれるような外国人を受け入れるのか、その目的によってこの国籍条件は再考する必要が出てきます。

 ただ面白いことに、日本とドイツは血統主義を採用しつつ移民を受け入れるという政策を続けております。ここまで言えばわかるかと思いますが日本の場合それは日系ブラジル人移民のことで、明日にはこの件についてあれこれ解説します。

2010年2月14日日曜日

移民議論の道標~その二、日本の現状

 昨日はなにかに疲れていたのか文字通り半日も寝ていてブログもサボってしまいました。確かに金曜日は夜更かしして「囚人へのペルエムフル」を夜中の三時までやってましたけど、昼食、夕食後にそれぞれ二時間近く寝ているのに夜十時に布団に入るなんて自分で「小学生かよ……」と突っ込むほど終始眠かったです。

 それはさておき早速始めたこの移民についての連載ですが、まずは手始めに現在の日本における外国人を取り巻く現状について各データをおさらいしておこうと思います。最近こういう愚痴が増えてきましたが、こういうデータを取り扱う面倒な記事は週末や休日など時間のある日しか出来ないので、出来る限り二度調べせずにすむ位に片付けておきたいです。
 そんな紹介するデータの一発目はなんといっても国籍別外国人登録者数のデータで、早速リンクを貼ることにします。

国籍(出身地)別外国人登録者数の推移(法務省)

 できれば上記サイトで貼られている図表を直接貼り付けられればいいのですが、PDFファイルのためうまくいかないので国籍別外国人登録者数の多い上位三ヶ国のデータのみ抜粋します。

  国籍別外国人登録者数の増減
        1998年    →  2008年
総数   :1,512,116(100.0%)→2,217,426(100.0%)
中国   :272,230(18.0%)→655,377(29.6%)
韓国・朝鮮:638,828(42.2%)→589,239(26.6%)
ブラジル :222,217(14.7%)→312,582(14.1%)
注:括弧の中は全外国人登録者数の中での割合


 ここで取り上げている「外国人登録者」の定義というのは、日本に90日以上滞在する外国人には居住している自治体に在留を届け出る必要があり、その届出されている登録でもって測った外国人の人数のことを指しております。

 それでこのデータについてですが、見てもらえばわかるとおりにこの十年で日本に居留する外国人の数は実数にして約70万人、率にして約147%の増加をしております。そしてその内訳を見ると、これは調べた私も結構驚いたのですが、かつては全外国人登録者数の半数近くを占めていた韓国や朝鮮国籍者人口が減っているばかりか割合でも大きく減少を見せ、その代わりに増加した中国国籍者は2倍以上の増加を見せております。また同様に三位のブラジル国籍、というよりは日系ブラジル人人口も約1.5倍の大きな伸び率を見せており、こちらも今後の移民議論において見逃せない数字となっております。

 先に簡単に分析しておくと、外国人登録者数は2009年のデータでは中国人を除けばどこも減少している可能性が高いと私は見ております。というのもこの手のデータは景気の影響に左右されやすく、特に韓国やブラジル国籍者はリーマンショック以降に本国に帰った人間が多いと聞いており、韓国に至ってはこの世界的不況が彼らにとって追い風となっている所もあるのでその幅も大きい気がします。

 ではそんな外国人登録者の在留目的はというと、あんまりあてにならないですが一応法務省から下記のようなデータがあるので紹介しておきます。

在留資格別外国人登録者数の推移(法務省)

 あまりデータのいじくりようのないデータですが、このデータの中の永住者の内訳が「一般永住者」、「特別永住者」の二種に分かれております。この特別永住者というのは戦前に韓国と北朝鮮から日本から渡ってきた人達やその子孫に与えられる資格該当者のことで、他の外国人と比べて日本の出入国や居住条件などが大幅に認められています。現国会で議論されいている外国人参政権付与において重要な位置づけにある集団ですので、これはまた後ほど解説します。

 そしてこの議論において左右両方から一番批判が来そうな外国人犯罪のデータですが、ちょっと古いデータですがそこそこまとめているサイトがあるので一応紹介しておきます。

奈良大学社会学部2001年度「社会学特殊講義」(関西大学社会学部助教授 間淵領吾)

 結論から言いますが、この外国人犯罪において正確なデータを求めることは限りなく難しいと言わざるを得ません。
 というのも上記リンク先のデータにも当てはまりますが、基本的に犯罪率というのは、「犯罪検挙数÷該当集団母数」の割合で、10万人当たり何人が犯罪を犯したかという数字にまとめたものです。しかし日本人だけならともかく外国人の場合だと何を以って母数を求めるかによって大きく変動してしまいます。

 いくつか例を出すと、例えば在留90日以下の短期滞在者と長期滞在者とで分けると圧倒的に短期滞在者の中で犯罪率が高くなる傾向があり、この両者を一緒くたにすると長期滞在者が実態にそぐわず犯罪を犯しやすいと見られるデータになってしまいます。そしてあまり話題にする人がいないものの前から疑問に感じていたのですが、この手のデータで密入国者の犯罪がどのように処理しているのかが全く見えてきません。

 密入国それ自体が違法なのですから日本でやることも当然犯罪に関わることが多い密入国者ですが、仮に彼らが犯罪を犯した場合はその犯罪は外国人犯罪件数に数えられるのか、またその場合かれら密入国者は犯罪率を出す際の分母に加えられるのかが出回っているデータにはどれも明示されておりません。
 もしこれら密入国してきた犯罪者がきちんと統計処理されていないのであれば、正式な手続きを経て日本に入国している外国人登録者たちは他人の犯罪も自分達の犯罪として計算されているということになり、実態にそぐわないデータとなっている可能性が非常に高いです。
 この辺が前から疑問なのですが、ちゃんと外国人犯罪率データはその辺も考慮して外国人登録者の犯罪だけを分子として計算しているのかが全く見えてこず、そういった事情もあるのであまり世の中に出回っているこういうデータを私は信用しておりません。
 ただ外国人犯罪の件数増加や犯罪率の高さについては刑務所の定員問題などを聞く限り確かに事実で、「外国人には犯罪を起こす人間が多い」ということは私も認めております。しかしどれほど多いのか、またどのような人種、国籍、滞在型に多いのかについてはまだまだ検討する余地があるでしょう。

 最後に外国人地方参政権問題に一番深く関わるであろうデータとして、各自治体別外国人登録者人口割合のデータで面白いのをひとつ紹介しておきます。

都道府県別外国人数(社会実情データ図録)

 上記のリンク先のページを見てもらえばわかりますが、外国人居住者の多い各自治体でその国籍別割合を求めた所、なんと紹介されているすべての自治体においてブラジル人がトップだったということがわかりました。
 よくこの外国人地方参政権問題の話題が出るたびに、「韓国や中国に国を売り渡すのか!」という意見が飛んできますが、実態的には規模はともかくとして、地方参政権付与によって地方政治に大きく力を持つのはブラジル人ということになります。もちろん反論としてブラジル人は在日韓国人や朝鮮人のようにまとまった組織がないと言えますが、韓国籍や中国籍の人を危険視している人達はこのブラジル国籍の人のこともちゃんと眼中に入っているかといえば甚だ疑問です。そういった様々な事情を含めて、幅広くこの連載で議論していければ幸いです。