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2018年1月24日水曜日

エイリアンよりも恐ろしい事

 英国の雑誌が2009年に行った「最高の続編映画ランキング」で、SFホラーシリーズの金字塔である「エイリアン2」がトップに選ばれていたそうです。

エイリアン2(Wikipedia)

 エイリアンシリーズは私も一通り見ていますが、確かにこのシリーズは2が最高傑作だと思います。ストーリーはもとより映像表現や演出が見事で、娯楽作品ではあるもののテーマ性などでも劣っておらず今見ても十分見ごたえある作品だと考えています。


 そんなエイリアン2で登場人物の中でひときわ目を引いたのは、エイリアンが跋扈する植民地で多々一人生き残っていた少女、ニュート(上記画像)だと思います。そのストーリー上の立ち位置はもとより演じた子役がかわいい上に演技も上手で、特にいっちょ前にヘルメットを被って並み居る屈強な海兵隊員たちの前で、「この子だって一人で生き残ってきたのよ」とシガニー・ウィーバーに言われて無言で敬礼してのけるシーンなど、覚えている方も多いのではないかと思います。実際この子役の演技は高く評価され、この作品で演技賞も受賞しています。

 ただこの子役、キャリー・ヘン氏はその後は演技を続けずに芸能界から引退してしまったため、その他の作品に出演することはありませんでした。しかしエイリアン2の愛らしい姿を覚えている人も多いためか、「あの子役はどうなっているの?」とネット上で尋ねる人は現在も少なからずいるようです。

エイリアン2で惑星LV-426の生き残りの女の子……(Yahoo知恵袋)

 上記リンクの知恵袋はまさにこのキャリー・ヘン氏のその後を尋ねたものですが、回答者が書いているように現在は小学校教師をしているようです。また上にリンクを付けた本人のWikipediaページには比較的現在の彼女の写真も載せられているのですが、先の知恵袋で質問した方はこの現在の姿について、「歳をとる方がエイリアンよりも恐ろしい事が分かりました(笑)」という感想を洩らしています。
 よく「ハリウッド映画に出演した子役の成人後の姿(悪い意味での)」と名の付く特集が各所で組まれており、「ターミネーター2」のエドワード・ファーロング氏とか「ホーム・アローン」のマコーレ・カルキン氏なんかはもはや常連ですが、自分にとっては上記の二人よりもさっきのキャリー・ヘン氏の方がインパクトがありました。人って、こんなに変われるんだな。

 それにしても先ほどの知恵袋の、「歳をとる方がエイリアンよりも恐ろしい事が分かりました(笑)」は本当に名言だと思います。少し言い方を変えて、「時の流れはエイリアンよりも恐ろしい」というセリフを私もどっかで言ってみたいと思って機会を探って入るのですが、なかなかこんなことを言う機会はなく、今に至ってもこのセリフを口に出すことが出来ずにいます。
 あと応用として「○○はプレデターよりも恐ろしい」という言い回しも作れないかと考えましたが、あまり具体的な内容が浮かばず○○に入れる語句を作ることが出来ずにいます。国語の問題とかに使えないだろうかこれ。

『エイリアン2』ナイフシーンはガチだった!キャメロン&キャストが30周年で同窓会(シネマトゥデイ)

 上の記事はエイリアン2の30周年同窓会を報じたもので、時の流れがエイリアンよりも恐ろしいことを証明したキャリー・ヘンも出席してます。それ以上に驚きなのは、アンドロイドのビショップがテーブルに広げた海兵隊員の指と指の間にナイフを高速で突くシーンは特撮ではなく、一切の編集無しで撮影したものだったという事実です。怖がる海兵隊員のあの顔は演技じゃなかったんだな。

  おまけ
 他ではあまり言及されていませんが、こちらはホラーゲームの金字塔である「バイオハザード2」は改めてみると、「エイリアン2」を相当参考にして作られたのではないかと思う節があります。どちらも第1作目は「恐怖からの脱出」に重きが置かれていたのに対し第2作目では「恐怖への打倒」こと、戦闘をメインとして置くようになりました。そしてバイオハザード2のクレア編では、エイリアン2のニュートのように、ゾンビがうろつく街を逃げ回って生き残っていた少女を保護して一緒に脱出する展開となっており、偶然ではないよなぁと思う場面が多いです。まぁ特に何か問題あるわけじゃないですが。
 むしろ注目すべきは最初に挙げた「脱出」から「打倒」へのテーマ変更で、両シリーズともにその後も続く大ヒットを遂げたことからも、ホラー物で第2作目を出すならこうしたテーマ変更の仕方がヒットの要因かもしれません。

  おまけ2
 エイリアンシリーズは4で一旦途切れた後、最近になって第1作目の監督をしたリドリー・スコット氏が「プロメテウス」、そしてその後の「エイリアン・コヴェナント」という続編作品を作られましたが、結果から言えばこけてしまい、計画されていたこの次の作品は打ち切りになったそうです。
 私も「プロメテウス」は見ましたが、見た理由というのもマーゴット・ロビー氏に並んで贔屓にしている女優のシャーリーズ・セロン氏が出ているからでした。見た感想としては、エイリアンは出てこないし、寝ていた所を無理やり起こしたムキムキの青い色したオッサンが大暴れする映画でしかない気がして、あかんなこりゃって感じでした。そのため、シャーリーズ・セロンも出てないので「エイリアン・コヴェナント」は見ていません。

2018年1月22日月曜日

我は求め訴えたり……

 コメント欄で猫娘がかわいくなった第6期「ゲゲゲの鬼太郎」に言及するコメントが来ましたが、この新しい鬼太郎については時代的に、かわいい女性キャラ出さないとどうにもならないから仕方ないかなと私は見ています。その一方、どうせリバイバル作るなら平成も終わりを迎えようとしている時代なだけに、「悪魔くん」の方がいいんじゃないかなという妙な感想も覚えました。

 悪魔くんの詳細についてはWikipediaなどで見ればわかるので省略しますが、私は1989年に放映されたアニメ版の悪魔くんを見ていました。こちらの悪魔くんは社会風刺的意味合いの強かった初代原作とは違って勧善懲悪な如何にもな少年ヒーローものでしたが、悪魔くんとそれに付き従う十二使徒が妖怪だったり西洋の悪魔だったり南米っぽい妖精だったりと和洋折衷バラバラであったのが印象的で、キャラ的にもみんな立っていたと思えて何故かこのところ再評価しています。

 ちょうどこのアニメが放映されたほぼ同時期に当たると思いますが、現在では「ペルソナシリーズ」に系譜がつながる「女神転生」というゲームとその原作となった小説もこの時期に出ていたと思います。この女神転生の特徴はグールやベヒモスと言った悪魔も、エンジェルやスサノオといった神々もすべてひっくるめて「悪魔」と総称しているのが特徴的なのですが、この概念は悪魔くんでも共通しており、世界で有名な悪魔のメフィスト・フェレスも、妖怪の百目も、ぶっちゃけUMAなこうもり男に鳥乙女もまとめて「悪魔」と総称しています。
 作者の水木しげるがそこまで意識していたのかまではわかりかねますがある意味これは、味方となれば「神」であり、敵対すれば「悪魔」だが、本質的にこの両者はどちらも同じような神霊的存在であることを暗喩しているようにも見えます。さっきの女神転生なんかはまさにこれがテーマです。

 現実に「悪魔学」という神話を辿ることで民族の盛衰や歴史の変化を追う民族学では、神霊がどのようにその言い伝えが変わっていくかという変化を捉える学問です。一例を挙げると、バビロニアの豊穣をもたらす神の「バアル」は、バビロニアと対立していたイスラエル地方のキリスト教やユダヤ教では邪心と扱われ、名前も「ベルゼブブ(バアルゼブブ)」に変えられ、「蠅の王」という立場に変えられています。元は同じ存在ですが、味方であるか敵であるかで姿を変えており、そう考えると神と悪魔は相反するものというより同じ存在を言い分けてるだけで、本質的にはやはり「悪魔」と総称する方が適切な気がします。
 こうした価値観から私はよく「神は信じないが悪魔と妖怪はいると信じている」と公言しています。また年齢が下の者に対しても、「この世に自分を助けてくれる神様はいないが、不幸へ引き込もうとする悪魔はたくさんいる」などと教訓めいた説法も繰り返したりしています。もっとも、そんな悪魔を従えるような悪魔くんなら別かもしれませんが。ああ、もっかいみてみたいな悪魔くん。

 最後に本題から外れますが、友人の嫁がやっている「陰陽師」というゲームで茨木童子という鬼が出てくるのですがこれについて、「最近は女性として描かれることの多い鬼」だと説明しました。実際に今昔物語で女性に化けて源頼光四天王の渡辺綱に復讐を仕掛ける話はあるのですが、これに限らなくても私は日本の鬼の性別はすべて女性なのではないかと思う時があります。大江山の酒呑童子もこの例にもれず、こちらは元はプレイボーイの男性であったと書かれていますがむしろ逆で、プレイボーイに恋文送っていた女性の怨念、もしくは送っていた女性そのものではないかと疑っています。
 こう思うのも楠圭氏の「鬼切丸」(続編がクソ過ぎる)の影響かもしれませんが、なんとなく日本の伝承に出てくる鬼の話を見ていて、鬼は女性性が強い存在のように感じられます。

  おまけ
 「太鼓の達人」の「おに」は難しすぎる。

2018年1月21日日曜日

気の長い猫



 特に書くことないのでこの前見た動画を貼っておきます。
 見てみればわかりますが、この画面の鳥は実にいやらしく寝ている猫の耳元で鳴き続け、それに対して猫はいくらかひっぱたくものの手加減をしています。もし自分が同じ立場なら全力で殴り倒しかねず、そう考えると自分よりこの猫の方が気が長そうです。

2018年1月18日木曜日

煽り見出しの裏テーマ

 最近思うけどどうして自分はこうも無駄に働き続けるのか不思議です。わかる人にはわかるでしょうがこのところこのブログは2日刻みで更新をしており、もちろんこれには理由があります。っていうか今週週末は友人と音楽ライブにも行くし、調査も進めなきゃいけないし、何より次のJBpress記事書かないといけないしで気が狂いそうです。

どこがおもてなしだ!中国に完敗の日本のサービス(JBpress)

 ハイそんなわけで昨日配信したのが上の記事です。当初は中国の自動車メーカー紹介記事でも書こうと実際に前取材も進めていたのですが、実際に執筆へ移る直前のある夜、もしかしたら夢だったかもしれませんが寝る直前に、「せや、中国のサービス事情を日本以上と書いたら反発する人多くてアクセス稼げそうやー。前にブログでも同じネタ書いとるし、取材なしでぱっぱと書けるわこんなもん」と思いつき、予定変更でこっちの記事が仕上がったわけです。やっぱこういうのは締め切りギリギリになるほど閃くものです。
 今回のこの記事はその内容から大きく反発されるだろうということは初めから想定してはいましたが、配信当初からヤフコメはどんどん伸びていって500件超えたあたりからちょっとビビりました。その後も伸び続けて現時点で1300件を超えていますが、ここまでの反応があるとは全く想定してはいませんでした。どうせどう書いても反発されるんだからアクセス数を稼ぐために煽り系にしましたが、やっぱWeb記事は見出しが何より大事です。

 それにしても毎回そうですが、頑張って取材した記事より全く何も取材せずにその場の勢いで書いた記事の方が注目されてしまうのは非常に複雑です。まぁ業界関係者の間では、取材した記事の方が良く褒めてもらえるのですが……。

 記事内容については読んでもらえばいいので割愛しますが、ヤフコメを見る限り最も批判がなされている見出し、特に「見出しと内容が一致しない」という指摘について少し解説しようと思います。結論から言うとこれは意図的なもので、反発されたらOK、何か意図を疑われたら二重丸、「もしかして」という想定までされていたらパーフェクトで、逆に何も感じさせられなかったら大失敗という評価区分で臨みました。

 当初この記事の見出しは、「中国の方がマシ?日本の劣悪なサービス分野」でした。こちらも煽るような見出しですが最終版に比べればまだ抑えてあり、尚且つ「おもてなし」という言葉も入っていません。最終版の見出しは編集部から提案されたもので、「おもてなし」という単語を入れるべきかで少し悩んだものの、記事自体の内容と「おもてなし」は直接関係しないものの、裏テーマにはむしろ直結する言葉となるため、これで行くことにしました。
 ちなみにこれはブログの方で顕著ですが、私が挑発的な言葉を用いる際はほぼ確実に相手に特定のキーワードなりを言わせて言質を取ることを目的としています。そういう意味では今回は目論み通りの結果に至ったと考えています。

 もったいぶらずに書くとこの記事の裏テーマとは、「日本語における『サービス』という言葉の定義と範囲」でした。この裏テーマは見出しと、記事内容を見た後の反応で確かめ、これから書く記事の根拠とする目的でこの見出しにしました。

 今回の記事へのコメントで最も多かった内容として、「書かれているのはサービスというより営業形態、商習慣だ」、「おもてなしとは意味が違う」、「中国人店員の態度の話かと思ったら全く違った」等ですが、こうした反応を敢えて持たせるために今回このような見出しに私はしたわけです。そもそも何故見出しと内容に齟齬を感じる人が多かったのかというと、それもこれも日本語における「サービス」の定義範囲が極端に狭いからです。

あまり体力が残されていないためちゃっちゃと書くと、日本人が「サービス」という単語を聞いて思い浮かべるのは十中八九「接客態度」で間違いないでしょう。店員、従業員、営業担当の態度や言葉遣い、礼儀、お辞儀の仕方で、今回の記事で取り上げたような契約サービスや保守・アフターサービス、カスタムオーダーを思い浮かべる人はまずおらず、そもそもこれらが「サービス」という言葉に含まれるとは考えない、それどころか否定する人もいるのではないかと思います。その上で、サービスの単価は無料であるという意識も強く、お金を取ったらもはやそれはサービスではないと考えるケースも少なくない気がします。
 そのため「サービスが悪い」というとこれも意味は「従業員の態度や応対が悪い」と取ってよく、実際これ以外の使われ方をするのは極稀でしょう。同時に「サービス競争」というのもどっちかっていうと従業員をどこまでへりくださせるかの競争になることが多い気がします。

 今回、私がサービスが劣悪だと考える日本の業種として銀行、不動産、携帯電話を挙げましたが、唯一不動産に関してはサービスというよりかは指摘の通りに商習慣の差という方が適切だと考えますが、他二つに関してはやはり「サービス」というくくりで語るべきだと考えます。そう考えるのも、サービスというのは対人接客だけでなく、今回の記事で槍玉に挙げた契約関連サービスや先ほど挙げた例、そして業務システムも含まれると私は考え、少なくとも英語や中国語の「サービス」にはこうした意味が含まれています。というよりむしろ、英語や中国語のサービスにおける「対人接客」の割合はむしろ低く、業務全体の効率性や合理性、バランスを言い表すことの方が多い気がします。
 いくつか例を出すと、「価格は安いがアフターサポートが少ない」は「価格は高いが並のサービス」を上回るとか、飛行機のチケットのように追加料金でキャンセル権利が得られるなどの複数の選択肢が設けられているとか、こうした値段と内容の一致性、そして各ニーズに応えられる選択肢の量などがサービスの評価基準であると私は考えます。

 いったんまとめると、日本人の「サービス」という言葉が示す内容は「接客態度」に異常に集約されており、その定義と範囲が極端に狭すぎる傾向があると言いたいわけです。これがどんな弊害をもたらすのかというと、本来サービスというくくりで見たり評価したりする各業者の業務、特に効率性についてあまり目がいかず、「あそこの店員の態度は……」などと接客態度しか評価基準とせず、明らかに消費者にとって不合理な対応や業務形態については誰も批判せず、野放しとなっているのではと、私には日本社会がこのように見えます。
 それこそPCデポの解約騒動のように大きな事件になれば批判されますが、普段の生活で業務形態をとって「サービスが悪い」と対応改善を求める声が上がることは日本ではほとんどないし、メディアも「サービスの劣悪な業界ランキング」みたいにして取り上げることはありません(中国はよくやっている)。
 特に強く言いたいのは、今回私が取り上げた3つの業界についてこうして正面からそのサービス形態を批判するメディアはこれまでほとんどいなかったことです。何故あまり批判されてこなかったかというと比較対象がなかったからで、同じ業界の企業同士ならばともかく、業界全体ともなるとその良し悪しを図ろうにも比較対象がないからそのサービスの悪さが認知できない上、「同業他社もそうなのだから」で片づけられていたからです。だからこそ比較対象として私は中国の事情を持ってきたわけです。

 仮に日本語の「サービス」の定義がもっと広く、「接客態度」だけでなく先ほど挙げた経済合理性、ニーズへの柔軟な対応、手続きの簡便さも含まれていれば、「サービス競争」というのはもっと多角的に分析されていたような気がします。しかし何度も言う通り、サービスの定義があまりにも狭すぎるため、業務全般の良し悪しを多角的に評価、認知することが日本では極端に少ない気がします。言ってしまえば、「日本人はサービスの視野が狭い」と私は言いたいのです。

 実際、ヤフコメを見る限り私が今回の記事で挙げた3つの業界の「悪いサービス例」を多くの日本人は「慣習」や「営業形態」と受け取ったわけですが、サービスというのは価格、人員、システム、効率性、合理性、一致性、即応性、柔軟性などの多くの要素を総合的に考慮して評価すべきだと私には思え、少なくとも「接客態度」だけで評価を決めるべきものではありません。さらに言えば、中国を含め世界はこうした価値観でサービス競争を繰り広げて研鑽を深めており、接客態度だけに注力したまま他の面がおざなりとなっている日本のサービスはどんどん置いていかれ始めているのが現状なんじゃないかと、誇張ではなく私はそう考えています。
 その上で、「接客態度だけよくて他はゴミみたいなサービス」にお金を払う人間はいるのか、国際競争力の観点から見てどうなのと言いたかったわけです。だからこそああいう見出しにして、私が認識する「サービス」と日本人の抱く「サービス」には大きな距離があることを端的に示し、証明するため、日本がその「手厚い」と自称するサービスの代表的キーワードとしている「おもてなし」をそのまま残したというわけです。

 なお私の中では、本当に「おもてなし」するというのであれば顧客に不利なアドバイスや説明なんかすることはなく、またカスタムオーダーにも柔軟に対応するだろうと考えるため、今回の記事の見出しに据えても特に問題はないとも考えています。もっとも読んだ人を最初に「おもてなし=接客態度&サービス」というイメージへ誘導させるというのが主眼でしたが。

 こうした今回の裏テーマ、意図については自分でいうのもなんですが非常に高いハードルを掲げていると自覚しており、それとなく無意識でもいいから、「なんかこの書いてる人とサービスの定義が違うな」とだけでも意識してくれればいいかと当初考えていました。ただコメント欄を見ていると、極数人ではありましたが私の意図していた内容をきちんと受け取っているかのような、具体的には「日本のサービスは接客態度に非常に偏っている」というようなコメントを書いている人がおり、これは想定外で且つ素直にうれしく感じました。
 結論を書くと、日本人のサービスの定義は接客態度に偏り過ぎており、そしてそれは、今日の記事では省略しますが多方面で競争力を落とす要因となっており、日本の生産効率を下げる原因の一つにもなっています。この日本人のサービス観を証明する上では、まぁうまくいったなというのが今回の記事の収穫です。

  おまけ
 NewsPicksのコメントを見ていると記事末尾に書いた、「これら業種のサービス改善には外資参入が必要」という記述に賛同する人がそこそこいて、見る人は見るなぁと感じるとともに、「中途半端に文字数余ったから適当に書いて埋めた記述なんだけどなぁ(;・∀・)」ということを言うべきか悩みました。

  おまけ2
 ヤフコメの中で、「比較対象を中国とせず、欧米にしておけば病的な人たちの反発を買わなかったのにね」というコメントがあり、「やさしいこと言ってくれるじゃん(・∀・ )」とか思いました。まぁ事実その通りでしょうがその一方、比較対象が中国じゃなければここまで反発を買えない、もといアクセスを稼げないという事情もあるのでなかなか難しいところです。

  追記
 改めてヤフコメ見てると「だったら中国に移住しろよ」とか「住めよ」って書く人多いけど、「いや、ずっと中国住んどるからこんなん書いとるんやろ」と返信したくなります。っていうか日本に年間半月も帰らんし。
 自分の記事のヤフコメには自画自賛にならないよう一切コメントも、「そう思う」ボタンも押していませんが、一回全部に返信したろかな。

2018年1月16日火曜日

GANTZと狩りゲー

 先月書いた「漫画業界のデジタル化」という記事で漫画業界でもIT化(これももう死語?)が進み切っててデジタル作画はもはや一般化しているという現況を紹介するとともに、デジタル作画のパイオニアでありながら、恐らく現時点においてもこの分野で最高級の技術とクオリティを有し、一漫画作品としてみても稀にみる傑作として奥浩哉氏の「GANTZ」を称賛しました。
 この「GANTZ」ですが、先週にAmazonのKindleでまとめ買い20%オフセールやっていることに気が付き、37巻もあるから非常に悩んだけど、「いつも頑張っている自分へのご褒美オィース(笑)」として思い切って買っちゃいました。なおこのセールは私が買った直後に終了したので、マルクス主義的に社会主義革命が成就したくらいのレベルでうれしくなるというおまけもついていました。

 私は「GANTZ」を漫画喫茶で読んでおり、通し読みは複数回しているものの全巻揃えてじっくり読むのはこれが初めてになりますが、改めてその作画のクオリティの高さと、戦闘シーンの迫力が桁違いな作品だと読んでて思います。この感動を伝えるために買ってから毎日友人にチャットで「GANTZめちゃ面白い」と書いているのですが、うざいと思われているのかこのツィート(笑)に対して友人は何も返事してくれません(´;ω;`)ウッ…
 今回改めて読み返して感じたこととしては、やはり中盤の新宿編、大阪編が盛り上がりとしては最高潮であるように思えます。新宿編ではオニ星人が出てきますが、ラスボスを目の前にして登場キャラクタが涙を流しながらガタガタ震えるシーンがありますが、読んでるこっちも震えそうなくらい絶望的な状況で、その後に続く激しい展開と相まって激しくテンション上がります。

 そんなオニ星人編を読み終わった後、特に意図せず普段から遊んでいる「討鬼伝2」というゲームをある日プレイしたのですが、その際にふと、「あれ、このゲームの世界もGANTZと一緒じゃね?」という考えが頭をよぎりました。

 「GANTZ」を知らない人向けに説明すると、この漫画では一度事故死した主人公らが何の説明もなく甦らせられ、見知らぬ場所に転送されてそこで正体不明の化物たちと戦わせられるというのが大まかなあらすじです。そこで化物に殺されてしまうと今度は本当に死にますが、見事化物を撃退すると集合場所の部屋へと戻され、倒した化物の数に応じて得点がもらえ、100点になると解放されるというシステムが骨子になっています。
 この戦闘のシステムは後半で明らかにされますがゲームを模したもので、化物との戦いは賭けの対象にもなっています。そしてこのシステムは、「モンスターハンターシリーズ」や先ほど挙げた「討鬼伝シリーズ」といったいわゆる「狩りゲー」と呼ばれるゲームジャンルに酷似している、というかまんまそのままです。

 狩りゲーでは通常、プレイヤーは挑戦するミッションを選び、そのミッション内でターゲットとなる敵キャラを倒せばミッションクリアとなって報酬がもらえます。この報酬はゲーム内の通貨だけでなく化物から剥ぎ取った部位こと素材も含まれ、こうして集めたお金と素材を使ってキャラクターのより強力な装備を作っていくことでより難しいミッションにチャレンジできるようになります。
 なお漫画の「GANTZ」でも、100点を取れば解放を選ぶこともできる一方、「より強い武器」を要求して手に入れることが出来ます。 

 私が今遊んでいる「討鬼伝2」なんかまさにこういったシステムのゲームで、何気に敵キャラもオニ星人、ではなく「鬼」で、相手の腕とか足とか切断して(スパーンと切れる)素材をガリガリ剥ぎ取っていく典型的な狩りゲーです。だからこそ今回気が付いたのだと思いますが、ある意味このゲーム内でやっていることは「GANTZ」における戦闘とほぼ同じで、負けるとキャラクターが死亡ならぬロストすることすらないものの、流れや報酬やシステムは酷似しています。
 元々「GANTZ」自体が先ほどにも述べたようにその戦闘はゲーム性を付けて作られたものなので当然と言えば当然なのですが、今回この点に気が付いた際、狩りゲーのシステムは「GANTZ」と同じだというのであれば、ゲーム内のキャラクターも「GANTZ」と同じなのかな、という妙な考えが浮かんできました。具体的に言うと、ゲーム内のキャラクターは本人らの意思に反して無理やり殺し合いをさせられているのでは、と思ったわけです。

 「GANTZ」の中で各キャラクターは例外こそいるものの、大半が早く化物との殺し合いから解放されたいと願っており、自分が死ぬかもしれない戦闘から逃れたいと願っていながらも意思に反して戦闘に参加させられています(拒否すると殺される)。これと同じように、狩りゲーでキャラクターを操るプレイヤーは何とも思っていませんが、ゲーム内で操られるキャラクターたちはもしかしたら、自分より遥かに巨大な化物たちとの戦いをそもそも望んでいない、というより戦いたくないと思っているかもしれません
 実際にゲーム内では馬鹿でかい鬼たちに殴られたり蹴られたり、燃やされたり凍らされたりして、喰われたり切断されたりってのはありませんが、それでもプレイヤーの意思に従って戦わせられます。もし自分が同じ立場だったら、はっきり言ってまっぴらごめんで、自分がされたら嫌なことをゲームの中では呵責なくキャラクターにはさせられるものだなという風に思えてきました。

 また狩りゲーでは体力が尽きてミッションに失敗したとしても「GANTZ」みたいにキャラクターが死ぬということはありませんが、失敗したミッションには「再チャレンジ」することができ、敵を打ち倒してミッションを成功させるまで何度でも戦わせられます。また欲しい素材が手に入らなければ手に入るまで何度でも戦わせられ、「アフリカの密猟者ってこんな感じなのかな」って気分にも浸らせられます。
 そもそもこのミッション失敗ですが、これもどこか「GANTZ」と被るというか、死んだ人間を何度も甦らせてプレイヤーが飽きるまで戦わせ続けるとも見えるこの行為は、改めて考えるとすごい残酷なことやらせているような気がします。もっともゲームのキャラクターがプレイヤーの意思に反し、「俺はもう戦わない!戦いたくない!」なんていうことはなく好戦的にプレイヤーの操作に従ってくれますが、そういう風に考えるのはもしかしたらプレイヤーだけだったりとかという想像も膨らみます。

 果たしてここで使うのは適切かというとそうではないと思いますが、シミュレーテッドリアリティな世界がもしこういう狩りゲーの世界の中にもあるならば、狩りゲーのキャラクターたちは「GANTZ」のキャラクター達同様に非常に過酷な運命を背負わされていると言えるでしょう。
 まぁそんなの気にせず今日もこの後で鬼を狩るつもりですが、ゲームの中にも現実の世界が広がっていると考えたら、狩りゲーのプレイヤーは多くのキャラの運命を弄ぶ実に残酷な神として君臨することになるでしょう。そしてこれはある意味で漫画の「GANTZ」のラストシーンにも通じると思え、だからこそ作者の奥氏は終盤で主人公らに何度も、「それでも人間の運命には、感情には価値がある!」と叫ばせたのかもしれません。

2018年1月14日日曜日

中日新聞主筆の失言とその過去について

中日新聞主筆、大村知事の政治姿勢を「性同一性障害」(朝日新聞)

 既に各所で報じられているのですでにニュースを見ている人もいるかもしれませんが、中日新聞の小出宣昭主筆が愛知県の大村知事について、保守なのかリベラルなのかどっちとも取れそうな政治思想の持ち主であるという表現として「性同一性障害のようだ」という発言をしたそうです。先のダウンタウンの黒塗り問題についてあれは差別とは思わないと主張した私ですが、こっちの発言に関しては明確な差別だと考えます。

大村知事の政治姿勢、性同一性障害と表現 シンポで本社主筆、撤回(中日新聞)

 一応、身内の中日新聞も事実関係をきちんと報じており、この点についてはダンマリこくるのに比べて評価できます。ただ、私は今回のこの報道を見て、一目でピンときたものがあります。

中日新聞編集担当常務小出宜昭への公開質問状(日本禁煙学会)

 今から遡ること11年前、今回問題を起こした小出主筆は社説にて、昨今(当時)の禁煙ファシズムで行き場をなくした喫煙者のことを、米国のネイティブアメリカンの一部族である「スー族(吸う族)」と表現して少数民族として弾圧されているともいうような主張を展開しました。主張や思想自体は個人の勝手だし禁煙学会のように喫煙による影響とかについては何も言うつもりはありませんが、喫煙者をスー族とする比喩表現についてはやはり今回の件といい、社説で書くには不謹慎だなという印象を覚えます。そして何よりも、先ほどの性同一性障害ともどもこの比喩表現は見ていてパッとしないというか単純につまらなく見え、こうした表現を多用するレベルなのに主筆ってどうよと、実力面に感じる疑問の方が多いです。
 その程度のレベルのライターを主筆に据える中日新聞の人事評価自体がいろいろとアレだと思うのですが、この小出主筆については恐らく探せば他にも大して面白くもなく、無理して使う必要もないのにきわどい比喩表現した文章や発言が見えてくるかもしれません。

 私はこのブログならば個人意見の発信箇所としてややきわどい表現、それこそ「あの人は須らく死ぬべきだ。生きてても害を撒くことしかない」などとはっきり言うこともありますが、それこそJBpressのような公の媒体でこうした表現を使うことはありません。理由は無駄な議論を抑えるとともに、多くの人間が読む媒体においては過激な表現は控え、差し障りなく安全な発信を重視するからです。表現方法がどうとか言われ、内容を顧みられなくなるというのは無駄以外の何物でもありません。
 今回、そして過去の発言を見る限り小出主筆にはこうしたリスク管理意識が確実に欠けているとしか思えません。そんな危なっかしい人間を主筆に据える辺り中日新聞のリスク意識もどうかと思いますが、そもそもここは意図的に誤報を流した記者を解雇もせず、停職程度の処分にとどめるような新聞社ですし、期待するだけ無駄かもしれません。それこそ先ほどの表現、早く会社丸ごと死ねばいいのにとすら私は思います。

  おまけ
 前の会社で「この『すらく』ってのは書き間違えだろ?」と、「須らく」について言われ、ああ早くこの会社辞めなきゃと思いました。なおその会社の先輩によると過去に営業資料配ったら、「この『そり』ってなんだ?」と「粗利」という単語の意味について聞かれたそうです。

2018年1月13日土曜日

日本のビジネスホテルのベッドサイズについて

 日本の報道を見ていると寒波でセンター試験日にもかかわらず交通遅延が相次いだと報じられていますが、ここ上海も多分今年一番なくらいに寒く、寒さに対して圧倒的な強さを誇る自分ですら参っているほどです。電気カーペット入りの布団に入ったらリアルに出れなくなったし、先ほど晩飯を食べるために出た際もユニクロのフリースの上にパーカーを着込むなど、一体どれくらいぶりだろうと思うくらいの厚着を久しぶりにやりました。
 なお先日友人の上海人とお好み焼きを食べに行ったら、「これからユニクロ行こう。もう僕が君のコート買ってあげるから」とガチで説得されました。

 そんなわけで本題に入りますが、去年に日本へ一時帰国した際にマッドシティ(松戸)のビジネスホテルを利用したのですが、部屋に入るなり、「え、こんな子供用ベッドに寝かせられるの?」と強く不満を感じました。そしてしばらくしてから、「あ、日本ではこれが標準のサイズなのか」と思い直しました。
 一体どういうことかというと、シングルサイズのベッドが自分にはとてつもなく小さく見えたからでした。何故そんな風に見えたのかというと、中国ではシングルサイズのベッドは比較的レアで、ダブルサイズのベッドが一般的だからです。これは一般住宅に限らず、ビジネスホテルにおいても同様です。

 実際に私が借りている部屋もベッドはダブルで、敷布団とシーツはダブるようなのに掛け布団はシングルサイズを使う妙なハイブリッド仕様のためシーツのセットはダブル用をまとめて買えないのですが、通常泊まるビジネスホテルも基本ダブルです。二人用の部屋であってもダブルが基本で、むしろ一人用の部屋では割増料金を払うとキングサイズのベッドがある部屋が宛がわれます。
 日本では恐らく一般住宅はおろか、ビジネスホテルにダブルのベッドが置かれていることなんてほぼないのではないかと思います。しかし中国の生活に慣れた自分からしたらシングルベッドはとんでもなく小さいサイズに見え、決して誇張ではなく子供用ベッドかと最初本気で勘違いしました。

 中国人ではない自分ですらこんなこと思うくらいなのだから、恐らくモノホン(死語)の中国人も同じように感じるのではないかと思います。実際にその時に寝た感触としては割と窮屈感を感じただけに、訪日旅行中国人も同じ思いを抱いているかもしれません。
 何が言いたいのかというと、日本が中国人客をもっと誘致しようというのであれば、こうしたベッド方面においても対策が必要なのではないかと言いたいわけです。欧米からの観光客についてははっきりとは言えませんが、恐らく感覚としては中国人に近いのではないかと思えるだけに、一般外国人客はシングルだときついのかもしれません。

 なにも全部屋のベッドをダブルに変えろというのは負担も大きく現実的ではありませんが、中国人客を見据えてダブルの部屋の割合をもう少し増やしてみるのはどうかと提案したいです。もっともそれ言ったら日本のビジネスホテルの部屋の狭さへの対策の方がもっと先になるかもしれませんが、一意見として中国人はベッドサイズに違和感を持つのではと言いたいのがこの記事です。

  おまけ
 冒頭の上海人の友人との会話の後で一緒にお好み焼きを食べに行きましたが、「あれ、青のり出てきいひん……」と不思議そうに自分の皿へ小瓶を振っていた友人が私の皿にも試しに小瓶を振ってみたところ、小瓶からはつまようじが出てきました。今まで生きてて、お好み焼きにつまようじ振りかけられたのは初めての夜でした。