以前に昭和から平成にかけての猟奇的事件や大量殺人事件を話題とした掲示板を覗いた際、地下鉄サリン事件についてこんな言及をしている方がおりました。
「地下鉄サリン事件での死者は13人って、大きく報道された割にはあまり多くないよなぁ」
恐らく書き込んだ方は別に悪意があるわけではなく死者数を見ただけの印象を語ったのだとは思いますが、見ている私からすると知らないにしてもやはり憤りを覚えずにはいられない書き込みでした。
あの1995年に起きたオウム真理教による地下鉄サリン事件は世界史上初のバイオテロ事件でその手口も複数の路線で猛毒のサリンをばら撒くという手段といい、事件の規模は疑いようもなく戦後史上最大の犯罪事件でありその被害に遭われた方も生半可な人数ではありませんでした。それにもかかわらず死者数が13人、それこそ上記の書き込みをした方のように一見すると規模が少ないようにも見えるこの数字の裏には事件発生現場にて治療や救出活動を行った方たちの最大限の努力があり、事件規模の小ささを表すものでは決してありません。はっきり言ってあれだけの大事件にもかかわらず被害をここまでに食い止めたのは奇跡といってもよい偉業で、僭越ながらここで私もあの現場の方たちの努力をここで紹介しようと思います。
早朝の地下鉄内で突然発生したこの地下鉄サリン事件は、発生当初から関係各所に大きな混乱を引き起こしました。各路線の電車が停止しただけでなくサリンを吸って症状を引き起こす方が続々と倒れ、しかも地下鉄という立地条件ゆえにすでに倒れた方を救助しようと近寄るそばからその救助者も次々と倒れていく始末でわずかな時間の間に膨大な数の要救助者を生みました。実際にテレビのインタビューにて応えた被害者によると、他の要救助者を駅内から地上へ運んでいる途中、自分と一緒に要救助者を抱えている人が突然ひざを落とすのを見たところで記憶が途切れ、次に気がついたときは自分も病院に運ばれていたそうです。
この突然現れた膨大な数の被害者の治療においてまず真っ先に持ち上がった問題は、収容先の病院をどこにするかでした。今も陣痛を引き起こした妊婦の搬送先がなかなか見つからないなどこの問題は現在進行形で続いておりますが、数千人単位の急患が突然東京のど真ん中に現れてもどこの病院に運べばよいのか、また運んだとしてもすでにその病院が満杯になっていればたらいまわしになり、被害者の運搬において混乱に拍車がかかることも大いに予想されました。
そんな最中、聖路加国際病院の日野原重明院長(当時)は事件を知るやその日の外来受付をすべて中止させ、被害者を無制限に受け入れる事をいち早く宣言しました。現在も各方面で活躍なされているこの日野原氏は周囲から老人の心配性から来る無駄遣いだなどと批判されながらも、大量に負傷者が現れながらも受け入れすらできなかったという戦前の体験からかねてより病院内の至る所に治療に必要な設備を設置、導入をし続け、その建物規模に比して膨大な人数の急患を受け入れられるように聖路加国際病院の改装を行っておりました。その日野原氏の徹底振りには私も驚かされたのですが、なんと病院内のチャペル内ですら酸素吸入口を設置するなどしていたそうです。
この日野原氏の決断により聖路加国際病院は拠点病院として機能し、事件当日には数百人の患者を一手に引き受けて治療を行いました。
しかしこうして被害者の収容は行えたものの、肝心の治療においてはサリンという未曾有の凶器ゆえに当初、現場は大きく混乱しました。始めはそれこそ何が原因でこれほどの負傷者が現れたのかすら定かではなく爆発や列車事故が起こったなどと情報が錯綜し、負傷者の対応に当たった医師らも爆発というには負傷者に外傷はなく、それでいてどうして心肺停止や呼吸不全などという症状が現れるのかと大いに戸惑ったそうです。
こうした混乱する医療現場に対し、これまたいち早く原因はサリンだと気がついたのは信州大医学部教授の柳沢信夫氏でした。柳沢氏はテレビでの報道を受けこの事件の前年に起きた、こちらも同じくオウム真理教が引き起こした松本サリン事件での被害者を担当した経験から報道される負傷者の症状が酷似している事に気がつき、聖路加国際病院を始めとして東京の各病院へサリンによる毒ガス負傷の可能性を伝えるとともにその治療法をFAXにて伝達しました。
また時期をほぼ同じくして、かねてより戦争放棄を謳っている国にどうして必要なのかと社会党などから厳しく批判されていた自衛隊内の第101化学防護隊を始めとした化学兵器対策部隊の隊員らが負傷者の症状からこちらもサリンが原因だと特定し、各病院に対して自衛隊中央病院から医師らを派遣して治療法や対応の助言を行いました。
バイオテロにおいて何が一番怖いかといえば、その凶器の特定がなかなかできずに治療ができないという事態です。その点でこの地下鉄サリン事件は前年に松本サリン事件がすでに起きていた事が大きく影響していますが、かなり早い段階で凶器の特定ができて適切な治療を行えたということが負傷者の拡大を食い止める事に大きく貢献したといえます。特に信州大の柳沢教授の判断とその行動は真に賞賛に値する行為で、如何に人間一人の行動が重要な価値を持つのかということを示す好例だと言えるでしょう。
しかしこうして負傷原因がサリンだと特定できて治療法がわかったものの、肝心の治療に必要な薬品はその負傷者のあまりの多さからあっという間のストックを切らす事になりました。そのサリンを中和する薬剤は「PAM」という薬品なのですが、これは非常に特殊な条件にて用いられる薬品でそれほど在庫数がもたれない薬品でした。そもそもPAMは商業ベースでは完全な赤字商品で、住友製薬が販売している有機リン系農薬から中毒を起こす可能性があるため社会的責任から会社トップが決断して製造を続けていたという解毒剤でした。
この緊急事態に対し、住友製薬や薬品卸会社は首都圏以外の営業所からそれこそ持てる限りのPAMを社員手ずから運ぶという措置を行い、新幹線から飛行機、タクシーといったありとあらゆる交通手段を使って東京へと運送を行ったようです。
上記のように、あの地下鉄サリン事件の裏では様々な人間が負傷者の救助や治療に当たり、その結果が死者13人なのです。確かに13人もの方が亡くなったというのは痛ましい事この上ありませんが、私はあの事件は下手すれば、というよりも通常想定されるケースでは三桁の死亡者が出てもおかしくなかった事件だったと見ております。
また死者数ばかりに目を囚われがちですが全体の負傷者数は約6300人にも上り、その中には重い後遺症に今も悩まされ続けている方も沢山おられます。またこちらもあまり日の目を浴びておりませんが、政府はこのサリン事件の被害者へはほとんどと言っていいほど治療費などの援助を行って来ず、高い治療費負担からその後の人生を狂わされた方もまた数多くおります。政府が事件の被害者へ援助を行うようになったのは、つい最近です。
本当はもっとサリン事件を始めとしてこのオウム事件について二十代である自分だからこそまとめておきたいのですが、さすがに準備不足なのでまだやめておきます。ただこの地下鉄サリン事件での治療現場についてはプロジェクトXでもすでに取り上げられているものの、如何に各方面の従事者が努力して被害を奇跡的といっていいほどに小さくしたという偉業とともに、一人一人の人間の行動の価値がどれだけ崇高であるかを伝えたいために、フライング気味に書くことにしました。
ここは日々のニュースや事件に対して、解説なり私の意見を紹介するブログです。主に扱うのは政治ニュースや社会問題などで、私の意見に対して思うことがあれば、コメント欄にそれを残していただければ幸いです。
2010年3月25日木曜日
2009年1月23日金曜日
失われた十年とは~最終回、この時代に変化したもの~
とうとうこの連載も最終回です。本当は一ヶ月以内に終わらせるつもりだったのに途中で中だるみして、気がついたら三ヶ月も長々と書く羽目となりました。
自分で言うのもなんですが、連載全体で見るとあまりないようにまとまりがなくあまりいい連載記事だとは思いませんが、元々この連載自体この失われた十年について「言われてみると思い出すけど、ぱっと出てこない記憶」を呼び覚まし、あの時代は具体的になんだったのかを読者の方に考えてもらう機会を作る思いで書いてあり、そのため記事の内容も個々のトピックに絞ったものになったためにまとまりがなくなったというのはまぁ自然の成り行きかと思います。
なおこの時代に起きた大きな変化でありながら敢えて取り上げなかった項目に、「インターネットの発達」があります。何故取り上げなかったかというと、一つにこのIT革命による社会変化については解説本が数多く出ていること、二つにもしこれをやろうとしたら膨大な量の記事をこの項目に割かなければいけないことが予想されたため、やるんだったらあまり他の人が取り上げないことを取り上げようとして敬遠することにしました。書き終わった現在の段階で、やっぱりその判断は正しかった気がします。
それでこの記事は前々回にボーナスステージと書いただけあり、この時代で変化したものを思いつく限りリストアップしようと思います。案外こういうリストって見ないので、そこそこいいものになる自信はあります。なおあらかじめ断っておきますが、個々でリストするものは私の主観で当てはまるもので、決して絶対的なものではありません。
それではまず、前回の記事で書いた権威が変化したものを挙げると、
権威が失墜したもの
・護憲派 ・左翼政党 ・医師 ・警察 ・教師 ・官僚 ・マスコミ ・自動車 ・初等教育 ・大学生 ・銀行 ・松下
権威が向上したもの
・自衛隊 ・改憲派 ・地方公務員 ・独身 ・メーカー ・ソニー
少し解説しておくと、自衛隊が阪神大震災によって大きく見方が変わったことにより憲法意識が球九条維持ではありながらも自衛隊の存在認定に国民の多数派が賛同するようになったのは非常に大きな変化でしょう。あと教育問題で初等教育が大きく信用を損ない、大学生も遊んでばかりと言われるようになり、自動車については「持っているとモテる」から「持っていると金がかかる」に変わったことを反映させました。最後の松下とソニーについては当時の家電業界の勢いです。90年代末期は本当にソニーの時代だったし。
さてこうした権威関係に対し、今度は各項目ごとに失われた十年の以前と以後で変化したものをリストアップして見ます。
・社会指標:学歴社会→職歴社会
・雇用制度:終身雇用→中途半端な流動化
・アニメの対象視聴者層:子供→大人
・日本人は:集団主義(フェミニズム)→個人主義(自己責任)
・小売業:ダイエー→イオン
・治安:安全→危険
・死刑は今後:廃立→維持
・経済学の潮流:ケインズ(介入主義)→フリードマン(自由主義)
若者は……
・政治姿勢:左翼的→右翼的
・物事に:情熱的→しらけ気味
・会社では:出世したい→責任忌避
・雇用は:正社員→フリーターが増加
・娯楽は:スキー→インターネット
・女性は:おとなしい→たくましい
最後のはちょっと冗談入ってます。ただ女性の社会進出は以前と以後で全然変わってきており、なおかつ私の目から見ても最近の女性はとてもたくましく見えます。
とまぁ、ちょっと考えて思いつくものは大体こんなもんです。十年という長い間とはいえ、やっぱりいろいろ変わっているんだなぁと思います。
最後に対象とした失われた十年の期間から現在でもう五年以上経っていますが、あの時に日本人が必死で投げ捨てた「経済大国」や「安全と平和」といった概念のかわりに何が入ってきたか、どんなものが概念として確立されているのかというと、実はまだ全然確立できていないのではないかと私は思います。まずそれまでの終身雇用制にかわって入ってきた成果主義ですが、これについては現在反動が強く起きており、日本人にはやはり合わないといった反発が生まれてきていますし、また国際社会に対しても今後日本はどのような国としてやっていこうかという意識が生まれていませんし、個人の生き方に対しても家族を大事にするのか会社を大事にするのか、はたまた自分自身を大事にしていくのかどうもまだ中途半端で足を引っ張り合っている状態のような気がします。
こうした動きに対して藤原正彦氏のように、武士道を復活させて日本人としての文化と教養を誇りにするべきという新たな概念を提唱するものもいますが、こうした動きはどうにもまだ確立できていません。
しかし逆転した発想で言うと、この時代を貫いても変わらなかった日本人の概念は何かといったら、一つの例として天皇制への意識が挙がってきます。かつてマッカーサーらGHQも日本人は天皇制において不動だと分析しており、他の概念ががたがたになっておきながら天皇は象徴でいいという意識だけはビクともしませんでした。
別に今しばらくは天皇制を軸にせよというわけじゃありませんが、もし天皇制がなかったらあの時どうなっていたのかと思うあたり、自分も日本人なんだなぁと思います。
この失った概念のかわりに何を柱に立てるかですが、友人などはこの際徹底的に日本人は個人主義に走るべきだと主張していますが、私としてはちょっと古い人間ということもありかつて程ではないにしろもうすこし集団主義を強化するべきなのではないかと思います。まぁこの手の議論はやりだすと長くなるのでまた別の記事でやりますが、とにもかくにもようやくこれで連載終了です。また補足があれば追加しますが、ひとまずこの時代については書きたいことは書ききることが出来てほっとします。
自分で言うのもなんですが、連載全体で見るとあまりないようにまとまりがなくあまりいい連載記事だとは思いませんが、元々この連載自体この失われた十年について「言われてみると思い出すけど、ぱっと出てこない記憶」を呼び覚まし、あの時代は具体的になんだったのかを読者の方に考えてもらう機会を作る思いで書いてあり、そのため記事の内容も個々のトピックに絞ったものになったためにまとまりがなくなったというのはまぁ自然の成り行きかと思います。
なおこの時代に起きた大きな変化でありながら敢えて取り上げなかった項目に、「インターネットの発達」があります。何故取り上げなかったかというと、一つにこのIT革命による社会変化については解説本が数多く出ていること、二つにもしこれをやろうとしたら膨大な量の記事をこの項目に割かなければいけないことが予想されたため、やるんだったらあまり他の人が取り上げないことを取り上げようとして敬遠することにしました。書き終わった現在の段階で、やっぱりその判断は正しかった気がします。
それでこの記事は前々回にボーナスステージと書いただけあり、この時代で変化したものを思いつく限りリストアップしようと思います。案外こういうリストって見ないので、そこそこいいものになる自信はあります。なおあらかじめ断っておきますが、個々でリストするものは私の主観で当てはまるもので、決して絶対的なものではありません。
それではまず、前回の記事で書いた権威が変化したものを挙げると、
権威が失墜したもの
・護憲派 ・左翼政党 ・医師 ・警察 ・教師 ・官僚 ・マスコミ ・自動車 ・初等教育 ・大学生 ・銀行 ・松下
権威が向上したもの
・自衛隊 ・改憲派 ・地方公務員 ・独身 ・メーカー ・ソニー
少し解説しておくと、自衛隊が阪神大震災によって大きく見方が変わったことにより憲法意識が球九条維持ではありながらも自衛隊の存在認定に国民の多数派が賛同するようになったのは非常に大きな変化でしょう。あと教育問題で初等教育が大きく信用を損ない、大学生も遊んでばかりと言われるようになり、自動車については「持っているとモテる」から「持っていると金がかかる」に変わったことを反映させました。最後の松下とソニーについては当時の家電業界の勢いです。90年代末期は本当にソニーの時代だったし。
さてこうした権威関係に対し、今度は各項目ごとに失われた十年の以前と以後で変化したものをリストアップして見ます。
・社会指標:学歴社会→職歴社会
・雇用制度:終身雇用→中途半端な流動化
・アニメの対象視聴者層:子供→大人
・日本人は:集団主義(フェミニズム)→個人主義(自己責任)
・小売業:ダイエー→イオン
・治安:安全→危険
・死刑は今後:廃立→維持
・経済学の潮流:ケインズ(介入主義)→フリードマン(自由主義)
若者は……
・政治姿勢:左翼的→右翼的
・物事に:情熱的→しらけ気味
・会社では:出世したい→責任忌避
・雇用は:正社員→フリーターが増加
・娯楽は:スキー→インターネット
・女性は:おとなしい→たくましい
最後のはちょっと冗談入ってます。ただ女性の社会進出は以前と以後で全然変わってきており、なおかつ私の目から見ても最近の女性はとてもたくましく見えます。
とまぁ、ちょっと考えて思いつくものは大体こんなもんです。十年という長い間とはいえ、やっぱりいろいろ変わっているんだなぁと思います。
最後に対象とした失われた十年の期間から現在でもう五年以上経っていますが、あの時に日本人が必死で投げ捨てた「経済大国」や「安全と平和」といった概念のかわりに何が入ってきたか、どんなものが概念として確立されているのかというと、実はまだ全然確立できていないのではないかと私は思います。まずそれまでの終身雇用制にかわって入ってきた成果主義ですが、これについては現在反動が強く起きており、日本人にはやはり合わないといった反発が生まれてきていますし、また国際社会に対しても今後日本はどのような国としてやっていこうかという意識が生まれていませんし、個人の生き方に対しても家族を大事にするのか会社を大事にするのか、はたまた自分自身を大事にしていくのかどうもまだ中途半端で足を引っ張り合っている状態のような気がします。
こうした動きに対して藤原正彦氏のように、武士道を復活させて日本人としての文化と教養を誇りにするべきという新たな概念を提唱するものもいますが、こうした動きはどうにもまだ確立できていません。
しかし逆転した発想で言うと、この時代を貫いても変わらなかった日本人の概念は何かといったら、一つの例として天皇制への意識が挙がってきます。かつてマッカーサーらGHQも日本人は天皇制において不動だと分析しており、他の概念ががたがたになっておきながら天皇は象徴でいいという意識だけはビクともしませんでした。
別に今しばらくは天皇制を軸にせよというわけじゃありませんが、もし天皇制がなかったらあの時どうなっていたのかと思うあたり、自分も日本人なんだなぁと思います。
この失った概念のかわりに何を柱に立てるかですが、友人などはこの際徹底的に日本人は個人主義に走るべきだと主張していますが、私としてはちょっと古い人間ということもありかつて程ではないにしろもうすこし集団主義を強化するべきなのではないかと思います。まぁこの手の議論はやりだすと長くなるのでまた別の記事でやりますが、とにもかくにもようやくこれで連載終了です。また補足があれば追加しますが、ひとまずこの時代については書きたいことは書ききることが出来てほっとします。
失われた十年とは~その二三、権威の失墜~
次で終わりと言って結論まで書いておきながら、書きそびれていた内容があったのでぱぱっと書いちゃいます。
まず前回に書いた結論ですが、私はあの失われた十年は前提としてノストラダムスの予言から来る漠然とした終末思想のようなものが薄く広く日本人の中にあり、そして実際に阪神大震災やオウム事件といった社会を震撼させる事件が起きただけでなくこれまで上昇一辺倒だった日本経済が大きく傾いたことにより、今までの概念を捨てなければこれからについていけない、今のままじゃ駄目だという意識が強まったために、とにかく以前の意識や概念とみなされるものを片っ端から捨てていき、さらにそれら以前の概念を否定するものほど新たな概念として迎え入れようと躍起になるという、一種のモラルパニックが起きていたのではないかというのが私の結論です。
私がこの結論にたどり着くためにまず最初に「経済大国」という自負のあった経済力の崩壊の過程から書き始め、そのあとなんだかわけのわからないものが流行りだしたということを紹介し、社会を震撼させる大事件が起きるに至ってそれまでの概念が崩壊するに至ったという風にこの連載を進めてきました。実はこの過程で一つ抜けていたのが、今回の題となっている「権威の失墜」に当たる箇所です。具体的にどの箇所になるかと言うと、「社会を震撼させる大事件」とほぼ同時期にこれが来て、年代的には大体97~99年くらいの間です。
では具体的にどんな権威が失墜したのかと言うと、十二回目に「左翼の失墜」で説明したように左翼政党を始めとして、警察、医師、教師、官僚、マスコミなどと、それまで強い権威を持っていた集団がこの時期に一挙にその権威を落としてしまっています。
一つ一つ説明していくとまず警察ですが、これは新潟県警や神奈川県警で起きた警察内部の不祥事に始まり、桶川ストーカー殺人事件や栃木リンチ殺人事件、そしてこれは私も過去に取り上げた松本サリン事件での河野義行氏の例などと、ありありとわかるほどの警察の捜査怠慢が次々と明るみに出たことによります。我ながら、よくもこんなに細かい例を覚えているもんだ。
次に医師ですが、先ほどの警察と比べてこれは本当に極一部で行われてしまった問題行動がマスコミによって過大に取り上げられ過ぎていわば無理やりに権威を落とされてしまっただけで、前の警察については確かに問題があるもののこちらの医師については私は非常に同情します。で、そのきっかけとなったのは東京女子医科大学で起きた医療事故で、この事件を皮切りに、現場で頑張っている医師はおざなりにされてマスコミから激しい取材バッシングが行われてしまいました。
でもって今度は教師。これは教育問題が表面化していくとともに一時期流行った(?)教師の盗撮事件がきっかけだと思います。まぁ教師についてはそれまで問題のある教師をほっといたのが最大の原因だろうけど。
そして官僚ですが、こちらは決定的に権威を失墜させたのがあの厚生省の「薬害エイズ事件」と大蔵省で起きた「ノーパンしゃぶしゃぶ」で有名な「官官接待事件」が原因で、社会保険庁の問題などでこちらは現在進行で駄目になっていってます。
最後が、これまた結構皮肉ですが散々よその権威を落としていったマスコミも、決定的に権威が駄目になるのは失われた十年の後からですがこの間ではオウム真理教による「坂本弁護士一家殺人事件」のきっかけとなった「TBSビデオ問題」が明らかになり、その後も私が先ほどの河野義行氏のリンクに張った自分の記事でも書いているように報道被害について世間の理解が進んだことにより、徐々に権威を落としていきました。
あとこれは蛇足かもしれませんが、それまで嘘八百並び立てても売れれば許された芸能関係のゴシップ記事も、この時期くらいから段々と報道される芸能人らに損害賠償請求が行われて敗訴するようになり、徐々に勢いをなくしていきました。なおそういった動きが起きた初期に元巨人のプロ野球選手である清原選手が根拠のない記事を書かれたとして週刊誌を訴え見事に勝訴しましたが、その際に提訴される記事を書いたのはあの永田の偽メールを書いた人物だと以前に聞いたことがあります。問題のある人間はいつまでたっても問題があり続けますね。
一気にまくし立てて書きましたがここで私が何を言いたいのかと言うと、こうしたそれまで尊敬と羨望のまなざしをもたれていた職業や集団が次々と不祥事を起こした挙句に権威を落としたことが、「このままじゃ駄目なんだ」というようなモラルパニックを助長させた一因になっているのではないかということです。
この時期に権威を失った集団は医師を除けば未だにその権威を回復しているとはとても言い切れない状態で、中には官僚のように余計に信用を落としているのまでいます。そのせいか以前に後輩から、「今の時代、何を信じていけばいいんでしょうか」と聞かれたことがありましたが、その後輩の気持ちもわからないでもありません。なおその際には、「難しいかもしれないけど、自分で考えて行動するしかない。そのせいで不利益を被ることとなってもね」と、ちょっと厳しいことを言ってあげたのをよく覚えています。実際、今権威ある集団や職業って何なのかといったらピンと来ないですね。
そういうことで、今度こそ最終回です。それにしても、この記事はウィキペディアのリンクのオンパレードですね。とてもウィキには足を向いて眠れない。
まず前回に書いた結論ですが、私はあの失われた十年は前提としてノストラダムスの予言から来る漠然とした終末思想のようなものが薄く広く日本人の中にあり、そして実際に阪神大震災やオウム事件といった社会を震撼させる事件が起きただけでなくこれまで上昇一辺倒だった日本経済が大きく傾いたことにより、今までの概念を捨てなければこれからについていけない、今のままじゃ駄目だという意識が強まったために、とにかく以前の意識や概念とみなされるものを片っ端から捨てていき、さらにそれら以前の概念を否定するものほど新たな概念として迎え入れようと躍起になるという、一種のモラルパニックが起きていたのではないかというのが私の結論です。
私がこの結論にたどり着くためにまず最初に「経済大国」という自負のあった経済力の崩壊の過程から書き始め、そのあとなんだかわけのわからないものが流行りだしたということを紹介し、社会を震撼させる大事件が起きるに至ってそれまでの概念が崩壊するに至ったという風にこの連載を進めてきました。実はこの過程で一つ抜けていたのが、今回の題となっている「権威の失墜」に当たる箇所です。具体的にどの箇所になるかと言うと、「社会を震撼させる大事件」とほぼ同時期にこれが来て、年代的には大体97~99年くらいの間です。
では具体的にどんな権威が失墜したのかと言うと、十二回目に「左翼の失墜」で説明したように左翼政党を始めとして、警察、医師、教師、官僚、マスコミなどと、それまで強い権威を持っていた集団がこの時期に一挙にその権威を落としてしまっています。
一つ一つ説明していくとまず警察ですが、これは新潟県警や神奈川県警で起きた警察内部の不祥事に始まり、桶川ストーカー殺人事件や栃木リンチ殺人事件、そしてこれは私も過去に取り上げた松本サリン事件での河野義行氏の例などと、ありありとわかるほどの警察の捜査怠慢が次々と明るみに出たことによります。我ながら、よくもこんなに細かい例を覚えているもんだ。
次に医師ですが、先ほどの警察と比べてこれは本当に極一部で行われてしまった問題行動がマスコミによって過大に取り上げられ過ぎていわば無理やりに権威を落とされてしまっただけで、前の警察については確かに問題があるもののこちらの医師については私は非常に同情します。で、そのきっかけとなったのは東京女子医科大学で起きた医療事故で、この事件を皮切りに、現場で頑張っている医師はおざなりにされてマスコミから激しい取材バッシングが行われてしまいました。
でもって今度は教師。これは教育問題が表面化していくとともに一時期流行った(?)教師の盗撮事件がきっかけだと思います。まぁ教師についてはそれまで問題のある教師をほっといたのが最大の原因だろうけど。
そして官僚ですが、こちらは決定的に権威を失墜させたのがあの厚生省の「薬害エイズ事件」と大蔵省で起きた「ノーパンしゃぶしゃぶ」で有名な「官官接待事件」が原因で、社会保険庁の問題などでこちらは現在進行で駄目になっていってます。
最後が、これまた結構皮肉ですが散々よその権威を落としていったマスコミも、決定的に権威が駄目になるのは失われた十年の後からですがこの間ではオウム真理教による「坂本弁護士一家殺人事件」のきっかけとなった「TBSビデオ問題」が明らかになり、その後も私が先ほどの河野義行氏のリンクに張った自分の記事でも書いているように報道被害について世間の理解が進んだことにより、徐々に権威を落としていきました。
あとこれは蛇足かもしれませんが、それまで嘘八百並び立てても売れれば許された芸能関係のゴシップ記事も、この時期くらいから段々と報道される芸能人らに損害賠償請求が行われて敗訴するようになり、徐々に勢いをなくしていきました。なおそういった動きが起きた初期に元巨人のプロ野球選手である清原選手が根拠のない記事を書かれたとして週刊誌を訴え見事に勝訴しましたが、その際に提訴される記事を書いたのはあの永田の偽メールを書いた人物だと以前に聞いたことがあります。問題のある人間はいつまでたっても問題があり続けますね。
一気にまくし立てて書きましたがここで私が何を言いたいのかと言うと、こうしたそれまで尊敬と羨望のまなざしをもたれていた職業や集団が次々と不祥事を起こした挙句に権威を落としたことが、「このままじゃ駄目なんだ」というようなモラルパニックを助長させた一因になっているのではないかということです。
この時期に権威を失った集団は医師を除けば未だにその権威を回復しているとはとても言い切れない状態で、中には官僚のように余計に信用を落としているのまでいます。そのせいか以前に後輩から、「今の時代、何を信じていけばいいんでしょうか」と聞かれたことがありましたが、その後輩の気持ちもわからないでもありません。なおその際には、「難しいかもしれないけど、自分で考えて行動するしかない。そのせいで不利益を被ることとなってもね」と、ちょっと厳しいことを言ってあげたのをよく覚えています。実際、今権威ある集団や職業って何なのかといったらピンと来ないですね。
そういうことで、今度こそ最終回です。それにしても、この記事はウィキペディアのリンクのオンパレードですね。とてもウィキには足を向いて眠れない。
2009年1月22日木曜日
失われた十年とは~その二二、モラルパニック~
とうとう結論部です。思えばここまで長かったもんだ。
それでいきなり結論ですが、私がこの連載の最初の記事にて、「私はこの失われた十年とはモラルパニックの十年と言い換えられる」と言ったように、この時代に日本は一種のモラルパニックが起こっていたのではないかと言いたいのです。そもそもこの「モラルパニック」というのは一体どういう意味の語なのかですが、リンクに貼ったウィキペディアの記事に書いてあるのがきちんとした定義だと、どうも私の言いたい意味とは少し違うような気がします。実を言うとこのモラルパニックという言葉自体を私はあんまりよくわかっていないのに、何故だかこの失われた十年を考えた際にひょいと私の頭に浮かんできたから使っているだけで、実際の意味とは少し隔たりがあるのも当然かもしれません。なんで浮かんできたのかって言うと、そりゃやっぱ「私のゴーストが囁くのよ」としか言えないのですが。
それで具体的な私の定義こと失われた十年についての見解を述べると、それまで戦後一貫して歩んできた高度経済成長の下で作られた、出来上がった日本人の概念というものが一挙に崩壊、または否定されて、根本からとまでは言いませんが様々な概念が引っくり返された時代なのではないかと思います。
まずこの時期にひっくり返った概念で最も代表的なのは、日本は経済大国だという自信と誇りです。バブル崩壊以後の長期不況と就職氷河期によって、「一生懸命働けば必ず報われる」というような、もっと言うなら残業した分だけ報酬がもらえる、期待できるというような概念が崩壊したため、今もなお労働の意義や価値については迷走を続けております。更には就職氷河期の影響を受けて、それまでの「いい大学からいい就職先で定年まで一直線に一安心」という規定されたエリートコースも大きく変わって雇用の流動化が起こっています。
そしてもう一つの大きな概念の変化がちょっと前まで書いていた治安への意識です。「水と安全はタダの国」と言われてきた日本ですが、度重なる大規模災害や犯罪事件によってすっかりこの意識は低下し、ひいては「日本は国際平和のためにある」というような意識にも影響を及ぼしたのではないかと思います。
なにもこれらの基本的な概念に限らず、細かいところでも十年の間とはいえいろいろ変わっており、その中には戦後一貫して持たれてきて発言することすら許されなかった改憲についての意識などもあり、こういった点から私は失われた十年は戦後初めて起きた大きな曲がり角に当たるのではないかと考えるのです。
では何故このような意識の変化が起きたかですが、一つの契機はバブル崩壊です。しかしこれ自体はまだそれほど日本人の意識に強い影響を与えませんでしたが、その後延々と不況が続いただけでなく、阪神大震災やオウム事件など社会を揺るがす大事件が連続しておき、97年の山一證券破綻によってこれまでの日本はもう別物なのだという風に強く意識されたのではないかと思います。
その結果何が起きたかと言うと、ここからが一番私が伝えたい内容ですが、私が思うに当時の日本はそれこそ明治の頃の廃仏毀釈のように、以前から持っていた概念をとにかく捨てなければ、という風に社会全体で躍起になっていたのではないかと思います。
過程はこうです。それまで日本は戦後一貫として固定した概念を持って成長し続けそれに対して強い自信と自負がありましたが、長引く不況や社会不安によって今起きている問題の原因はそれらの固定した概念だと考え、それらはもう古い、使えないといったように意識するようになり、本当にそれまでの概念が正しいのか間違っているのか、効率的なのか非効率なのかというようなことを考えずただ単に、「それまで持っていた概念だから」という理由でひたすら投げ捨てようとしたばかりか、それらの以前からの概念と対極を為す概念、それこそ経済概念だと欧米を中途半端に真似た成果主義のようなものを好んで取り入れるようになっていったのではないかという具合です。逆を言えば、それまでの概念を否定するものなら何も考えずにどんどんと取り入れようとした節すらあるのではないかと思います。
この例で一番代表的なものは今挙げた成果主義で、そのほかには憲法意識、そして一番大きいものはそれまでの概念をすべて覆して破壊して見せると主張して誕生した小泉政権でしょう。このように過去を断絶させるものにこそ未来があると日本人は考えたのではないかと思い、その一方でそれまでの概念を捨てたものの代わりの概念が今しばらくないため、よくわからないオカルトや文物がヒットしたりしたのではないかとも考えられます。
そしてもう一つ大きく変化したものとして、先が見えない、わからないと強く認識することによって、人生とか生き方に対して刹那的になっていったようにも思えます。未来をどうするかよりも現在をどうするかに強く意識が向かうようになり、女子高生の援助交際が大きく取り上げられたり変な小説が芥川賞に選ばれたりとしたのではないかと思います。更に言えばこれは「カーニヴァル化する社会」の作者の鈴木謙介氏が言っていたことですが、現代に至ると「以前までの自分とはもう関係がない」というように、過去と現在にも意識の断絶が起きているのではないかという主張もあります。
あまり自分でもまとめていないのでわかりにくい記事となっていますが、改めて要約して述べると、要するに失われた十年によって日本人は社会不安を感じ、なんだかよくわからないけど今のままじゃ駄目なんだとばかりに自己否定をやりだした、というのが私の意見で、その自己否定こそがモラルパニックなのではないかということです。
もう何度も変わった変わったと言っていますが、この失われた十年における日本人の意識変化は戦後としては大きな変化ではあるものの、60年前の戦前から戦後への変化に比べればちっぽけなものだと私は思います。それでも一つの歴史の曲がり角としては捉えてもよいのではないかということで、このようなわけのわからない考えを連載記事にまとめたというわけです。
これにてこの連載の主要な解説は終えますが、明日はボーナスステージとばかりにじゃあ一体どんなものが変化したのかを一覧にしてみようと思います。ゲームの「サイレン」も終わっているので後顧の憂いはないし……何気にここ二週間は「サイレン」がやりたくてしょうがなくてブログを書く時間とどう区切るかでやきもきしてました。
それでいきなり結論ですが、私がこの連載の最初の記事にて、「私はこの失われた十年とはモラルパニックの十年と言い換えられる」と言ったように、この時代に日本は一種のモラルパニックが起こっていたのではないかと言いたいのです。そもそもこの「モラルパニック」というのは一体どういう意味の語なのかですが、リンクに貼ったウィキペディアの記事に書いてあるのがきちんとした定義だと、どうも私の言いたい意味とは少し違うような気がします。実を言うとこのモラルパニックという言葉自体を私はあんまりよくわかっていないのに、何故だかこの失われた十年を考えた際にひょいと私の頭に浮かんできたから使っているだけで、実際の意味とは少し隔たりがあるのも当然かもしれません。なんで浮かんできたのかって言うと、そりゃやっぱ「私のゴーストが囁くのよ」としか言えないのですが。
それで具体的な私の定義こと失われた十年についての見解を述べると、それまで戦後一貫して歩んできた高度経済成長の下で作られた、出来上がった日本人の概念というものが一挙に崩壊、または否定されて、根本からとまでは言いませんが様々な概念が引っくり返された時代なのではないかと思います。
まずこの時期にひっくり返った概念で最も代表的なのは、日本は経済大国だという自信と誇りです。バブル崩壊以後の長期不況と就職氷河期によって、「一生懸命働けば必ず報われる」というような、もっと言うなら残業した分だけ報酬がもらえる、期待できるというような概念が崩壊したため、今もなお労働の意義や価値については迷走を続けております。更には就職氷河期の影響を受けて、それまでの「いい大学からいい就職先で定年まで一直線に一安心」という規定されたエリートコースも大きく変わって雇用の流動化が起こっています。
そしてもう一つの大きな概念の変化がちょっと前まで書いていた治安への意識です。「水と安全はタダの国」と言われてきた日本ですが、度重なる大規模災害や犯罪事件によってすっかりこの意識は低下し、ひいては「日本は国際平和のためにある」というような意識にも影響を及ぼしたのではないかと思います。
なにもこれらの基本的な概念に限らず、細かいところでも十年の間とはいえいろいろ変わっており、その中には戦後一貫して持たれてきて発言することすら許されなかった改憲についての意識などもあり、こういった点から私は失われた十年は戦後初めて起きた大きな曲がり角に当たるのではないかと考えるのです。
では何故このような意識の変化が起きたかですが、一つの契機はバブル崩壊です。しかしこれ自体はまだそれほど日本人の意識に強い影響を与えませんでしたが、その後延々と不況が続いただけでなく、阪神大震災やオウム事件など社会を揺るがす大事件が連続しておき、97年の山一證券破綻によってこれまでの日本はもう別物なのだという風に強く意識されたのではないかと思います。
その結果何が起きたかと言うと、ここからが一番私が伝えたい内容ですが、私が思うに当時の日本はそれこそ明治の頃の廃仏毀釈のように、以前から持っていた概念をとにかく捨てなければ、という風に社会全体で躍起になっていたのではないかと思います。
過程はこうです。それまで日本は戦後一貫として固定した概念を持って成長し続けそれに対して強い自信と自負がありましたが、長引く不況や社会不安によって今起きている問題の原因はそれらの固定した概念だと考え、それらはもう古い、使えないといったように意識するようになり、本当にそれまでの概念が正しいのか間違っているのか、効率的なのか非効率なのかというようなことを考えずただ単に、「それまで持っていた概念だから」という理由でひたすら投げ捨てようとしたばかりか、それらの以前からの概念と対極を為す概念、それこそ経済概念だと欧米を中途半端に真似た成果主義のようなものを好んで取り入れるようになっていったのではないかという具合です。逆を言えば、それまでの概念を否定するものなら何も考えずにどんどんと取り入れようとした節すらあるのではないかと思います。
この例で一番代表的なものは今挙げた成果主義で、そのほかには憲法意識、そして一番大きいものはそれまでの概念をすべて覆して破壊して見せると主張して誕生した小泉政権でしょう。このように過去を断絶させるものにこそ未来があると日本人は考えたのではないかと思い、その一方でそれまでの概念を捨てたものの代わりの概念が今しばらくないため、よくわからないオカルトや文物がヒットしたりしたのではないかとも考えられます。
そしてもう一つ大きく変化したものとして、先が見えない、わからないと強く認識することによって、人生とか生き方に対して刹那的になっていったようにも思えます。未来をどうするかよりも現在をどうするかに強く意識が向かうようになり、女子高生の援助交際が大きく取り上げられたり変な小説が芥川賞に選ばれたりとしたのではないかと思います。更に言えばこれは「カーニヴァル化する社会」の作者の鈴木謙介氏が言っていたことですが、現代に至ると「以前までの自分とはもう関係がない」というように、過去と現在にも意識の断絶が起きているのではないかという主張もあります。
あまり自分でもまとめていないのでわかりにくい記事となっていますが、改めて要約して述べると、要するに失われた十年によって日本人は社会不安を感じ、なんだかよくわからないけど今のままじゃ駄目なんだとばかりに自己否定をやりだした、というのが私の意見で、その自己否定こそがモラルパニックなのではないかということです。
もう何度も変わった変わったと言っていますが、この失われた十年における日本人の意識変化は戦後としては大きな変化ではあるものの、60年前の戦前から戦後への変化に比べればちっぽけなものだと私は思います。それでも一つの歴史の曲がり角としては捉えてもよいのではないかということで、このようなわけのわからない考えを連載記事にまとめたというわけです。
これにてこの連載の主要な解説は終えますが、明日はボーナスステージとばかりにじゃあ一体どんなものが変化したのかを一覧にしてみようと思います。ゲームの「サイレン」も終わっているので後顧の憂いはないし……何気にここ二週間は「サイレン」がやりたくてしょうがなくてブログを書く時間とどう区切るかでやきもきしてました。
2009年1月20日火曜日
失われた十年とは~その二一、酒鬼薔薇事件~
今回の題材とする事件は本来なら「神戸連続自動殺傷事件」とするべきでしょうが、私の仲間内で使っている呼び方から「酒鬼薔薇事件」と表することにします。事件の詳細についてはここでは特に解説せず、この連載の本来の目的の社会に与えた影響についてのみ考察しようと思います。
結論から言えば私は、この事件こそが当時の日本社会が持っていた概念を最終的に崩壊させるに至らせた、言わば止めのような役割を果たした事件だと考えております。まず時期こそこの事件の後ではあるものの、同じ97年に山一證券が破綻したことによってそれまで日本人の自尊心の拠り所であった「経済大国」という意識が崩れたということはこの連載の最初の方で述べました。ではこの酒鬼薔薇事件で何が崩れたかというと、それは「平和」こと「安全神話」です。
やっぱり2009年になった今に考えてみると昔はよく日本は「水と安全はタダの国」と言われていましたが、どうもここ数年はこのフレーズは全く聞かなくなったように思えます。では一体いつくらいから聞かなくなったかと言うと、95年のオウム事件でもすでに相当この概念は揺るがされてはいましたが、やはり徹底的に覆されたのではこの酒鬼薔薇事件からではないかという気がします。
この事件はその猟奇性もさることながら犯人が中学生だったこともあり、事件解決後には少年法の厳罰化など様々な方面に大きな影響とショックを与えました。特にその後の無差別殺傷犯罪については専門家や評論家は多かれ少なかれこの事件から影響を受けていると指摘しており、確か奥野秀司氏だったと思いますが去年に起きた秋葉原での通り魔事件はこの酒鬼薔薇事件を明らかに意識していると主張し、私もその説になんとなく納得してしまいます。97年からの直近でいえば翌年に起きた西鉄バスジャック事件などは私も明確に酒鬼薔薇事件が影響しているとしか思えないほど犯人の手段や行動に似ている点が多くあると思い、奥野氏が言うようにその後の犯罪者は皆酒鬼薔薇の背中を見ているという言葉には考えさせられてしまいます。
なお当の酒鬼薔薇事件の犯人はオウム事件を見て、あれだけのことをしても犯人らはすぐに死刑にならないのかと思ったそうで、このように目立つ犯罪事件というのは悲しいことですが後の犯罪者に影響を与えてしまう傾向があるようです。
話は戻りますがそれだけ社会に大きな影響を与え、それこそ事件発生当初は激しい報道合戦が繰り広げられ、以前に私が「犯罪被害者への報道被害について」の記事で書いたように事件に巻き込まれたがゆえに事件後にもさい悩まされる被害者を出してしまい、この問題が大きく取り上げられるきっかけにもなっています。
そのほか犯人が中学生ということから教育についても当時あれこれ議論されましたが、思い返すとその時の議論はあまり価値あるものではなく、どちらかと言うとくだらないものだったように思えます。多分、その時に出た意見で実際に反映されたものも少ないでしょう。
だがそれ以上にくだらなかったのは当時の評論家による犯人分析です。何故本来こんな犯罪を起こさないとされる中学生がこんな事件を起こしたのかという前提の元に、少年を殺人に駆り立てた原因を何かしら作ろうと躍起になっていました。これは現在の結論ですが事件を起こす以前から動物をやたらと殺していたように、犯人の少年は単純に殺害行為に対して喜びを感じる特殊な性癖があったゆえに起こした、言わば犯人自身の特殊性ゆえの事件という説が最も強くなっております。
しかし中にはとんでもない主張をするものが多く特に社会学者の宮台真司に至っては、犯人が住んでいた街が整備され過ぎているがゆえにストレスなど吐き出す箇所がなかったことが原因だったという、あまりにもふざけた主張をしたことは未だに私は許すことが出来ません。普通に考えて、もし宮台の言う通りならば整備された街ではこの事件と類似した事件が起こっているはずですし。
なおこの話を私の中学の国語教師が授業中に取り上げた際、宮台真司を知っているかという質問を教師がしたら私の友人一人だけが手を挙げてしまい、「あなたはちゃんと見ているのね」と誉められたそうですが、中途半端にクラスのさらし者になってしまったと友人は言ってました。
正直、ここまで書いて非常に疲労しました。内容が内容だけに書いている側としてもどのように話をつなげればいいかでいろいろ戸惑いがあります。結論は先にも述べた通りにこの事件によって本格的に日本の安全神話が崩れたということで、これによって「経済」、「平和」、「安全」という戦後日本人の自尊心の拠り所であった三本柱のうち二本がみんな崩れてしまったのが97年だというのが私の主張です。ついでに言うと残った最後の「平和」も、98年の北朝鮮のテポドン発射事件によって崩れたとまでは行かないまでも大きく揺らいだように思えます。
何度もいいますが、先ほどの三本柱は日本人の概念の中核をなすものでした。それらが揺らいだ、なくなったことによって日本人に何が起こったかと言うと、私がこの連載の第一回目に述べた「モラルパニック」が起きたのだと私は言いたいのです。次回はその辺の現象としてのモラルパニックを例を挙げつつ解説します。
もうすぐこの連載も終われるなぁ(´Д`)フゥ
補足
コメントにて猟奇的な少年犯罪自体はこれ以前から数多くあり、この事件がマスコミに大きく騒がれたことによって日本人の概念が揺らいだのではないのかという指摘を受けましたが、まさにその通りだと私も考えています。統計上でも60年代や70年代の方が明らかに少年犯罪の発生件数は多かったにも関わらず、この事件が象徴的に扱われているのは当時のマスコミの過剰な報道によるものでしょう。結果的に治安に対する概念が揺らいだことに変わりはありませんが、主犯はマスコミだと言うことを改めて補足させていただきます。
結論から言えば私は、この事件こそが当時の日本社会が持っていた概念を最終的に崩壊させるに至らせた、言わば止めのような役割を果たした事件だと考えております。まず時期こそこの事件の後ではあるものの、同じ97年に山一證券が破綻したことによってそれまで日本人の自尊心の拠り所であった「経済大国」という意識が崩れたということはこの連載の最初の方で述べました。ではこの酒鬼薔薇事件で何が崩れたかというと、それは「平和」こと「安全神話」です。
やっぱり2009年になった今に考えてみると昔はよく日本は「水と安全はタダの国」と言われていましたが、どうもここ数年はこのフレーズは全く聞かなくなったように思えます。では一体いつくらいから聞かなくなったかと言うと、95年のオウム事件でもすでに相当この概念は揺るがされてはいましたが、やはり徹底的に覆されたのではこの酒鬼薔薇事件からではないかという気がします。
この事件はその猟奇性もさることながら犯人が中学生だったこともあり、事件解決後には少年法の厳罰化など様々な方面に大きな影響とショックを与えました。特にその後の無差別殺傷犯罪については専門家や評論家は多かれ少なかれこの事件から影響を受けていると指摘しており、確か奥野秀司氏だったと思いますが去年に起きた秋葉原での通り魔事件はこの酒鬼薔薇事件を明らかに意識していると主張し、私もその説になんとなく納得してしまいます。97年からの直近でいえば翌年に起きた西鉄バスジャック事件などは私も明確に酒鬼薔薇事件が影響しているとしか思えないほど犯人の手段や行動に似ている点が多くあると思い、奥野氏が言うようにその後の犯罪者は皆酒鬼薔薇の背中を見ているという言葉には考えさせられてしまいます。
なお当の酒鬼薔薇事件の犯人はオウム事件を見て、あれだけのことをしても犯人らはすぐに死刑にならないのかと思ったそうで、このように目立つ犯罪事件というのは悲しいことですが後の犯罪者に影響を与えてしまう傾向があるようです。
話は戻りますがそれだけ社会に大きな影響を与え、それこそ事件発生当初は激しい報道合戦が繰り広げられ、以前に私が「犯罪被害者への報道被害について」の記事で書いたように事件に巻き込まれたがゆえに事件後にもさい悩まされる被害者を出してしまい、この問題が大きく取り上げられるきっかけにもなっています。
そのほか犯人が中学生ということから教育についても当時あれこれ議論されましたが、思い返すとその時の議論はあまり価値あるものではなく、どちらかと言うとくだらないものだったように思えます。多分、その時に出た意見で実際に反映されたものも少ないでしょう。
だがそれ以上にくだらなかったのは当時の評論家による犯人分析です。何故本来こんな犯罪を起こさないとされる中学生がこんな事件を起こしたのかという前提の元に、少年を殺人に駆り立てた原因を何かしら作ろうと躍起になっていました。これは現在の結論ですが事件を起こす以前から動物をやたらと殺していたように、犯人の少年は単純に殺害行為に対して喜びを感じる特殊な性癖があったゆえに起こした、言わば犯人自身の特殊性ゆえの事件という説が最も強くなっております。
しかし中にはとんでもない主張をするものが多く特に社会学者の宮台真司に至っては、犯人が住んでいた街が整備され過ぎているがゆえにストレスなど吐き出す箇所がなかったことが原因だったという、あまりにもふざけた主張をしたことは未だに私は許すことが出来ません。普通に考えて、もし宮台の言う通りならば整備された街ではこの事件と類似した事件が起こっているはずですし。
なおこの話を私の中学の国語教師が授業中に取り上げた際、宮台真司を知っているかという質問を教師がしたら私の友人一人だけが手を挙げてしまい、「あなたはちゃんと見ているのね」と誉められたそうですが、中途半端にクラスのさらし者になってしまったと友人は言ってました。
正直、ここまで書いて非常に疲労しました。内容が内容だけに書いている側としてもどのように話をつなげればいいかでいろいろ戸惑いがあります。結論は先にも述べた通りにこの事件によって本格的に日本の安全神話が崩れたということで、これによって「経済」、「平和」、「安全」という戦後日本人の自尊心の拠り所であった三本柱のうち二本がみんな崩れてしまったのが97年だというのが私の主張です。ついでに言うと残った最後の「平和」も、98年の北朝鮮のテポドン発射事件によって崩れたとまでは行かないまでも大きく揺らいだように思えます。
何度もいいますが、先ほどの三本柱は日本人の概念の中核をなすものでした。それらが揺らいだ、なくなったことによって日本人に何が起こったかと言うと、私がこの連載の第一回目に述べた「モラルパニック」が起きたのだと私は言いたいのです。次回はその辺の現象としてのモラルパニックを例を挙げつつ解説します。
もうすぐこの連載も終われるなぁ(´Д`)フゥ
補足
コメントにて猟奇的な少年犯罪自体はこれ以前から数多くあり、この事件がマスコミに大きく騒がれたことによって日本人の概念が揺らいだのではないのかという指摘を受けましたが、まさにその通りだと私も考えています。統計上でも60年代や70年代の方が明らかに少年犯罪の発生件数は多かったにも関わらず、この事件が象徴的に扱われているのは当時のマスコミの過剰な報道によるものでしょう。結果的に治安に対する概念が揺らいだことに変わりはありませんが、主犯はマスコミだと言うことを改めて補足させていただきます。
2009年1月17日土曜日
失われた十年とは~その二十、エヴァブーム~
確か99年の月刊アスキーの記事だったと思いますが、秋葉原が今のようなオタクの街に変わっていったことについてある記者が、
「それまでは大人のホビー街という雰囲気の秋葉原であったが、大体96年頃の新世紀エヴァンゲリオンのヒットからこのようなオタクとアニメの街へと変わっていった」
と記述していました。
この意見に対して私も同意見で、元々秋葉原は転身の早い街で戦後は問屋街だったのがアマチュア無線ブームの頃に電気街となり、その後エヴァのブーム以降からアニメ、マンガ、ゲームの三大柱を掲げるようになって現在のようなオタクの街へと変貌を遂げています。言うなれば今の秋葉原があるのはエヴァのおかげなのかもしれません。そう考えると、アニメが街を動かしたってことになるのか。
それでもはや語るまでもないほど有名なこのアニメ作品の「新世紀エヴァンゲリオン」はテレビ放映当時の95年は視聴率も振るわず、お世辞にも成功したとは言えない作品でした。しかし最終回の意味不明さが評論家の間で議論されたことから俄かに注目を浴び、再放送された96年に大ヒットしてその後97年の映画公開によって十年後の今にも続く人気を不動にしました。
それこそ当時から一体何故エヴァは成功したのかという議論が行われており、いくつかそこで出たヒットの要素を挙げると単純にキャラクターのデザインとか、世界観、シナリオなどとある中で、今思うと違うなと思う要素には当時に流行していた「癒し系」という言葉とかけて作品のテーマ性に「癒し」が込められているという意見も当時は結構強かった気がします。エヴァの中に「癒し」があるかといったら、ちょっと私にはわかりませんが。
ここまでの「失われた十年」の連載を見てきた方ならここで私が何を言いたいのかというのもわかると思いますが、要するに私はこのエヴァンゲリオンのブームは、この作品の内容が難解であったからではないかと考えています。
このくだりは「その十八、終末思想」で書いていますが、失われた十年の間は何故か「よくわからない」ものほど流行し、作品もヒットしています。確かにこのエヴァンゲリオンはキャラデザから演出効果などでも当時としては画期的に優れた作品ではありましたが、やっぱり大ヒットの最大功労者となると「難解なストーリー」にあったのではないかと思います。
またこの作品の大ヒットは他の作品にも広く影響を与え、前にも書きましたが当時はメンヘラ(自己があまり確立されていないよう)なキャラクターがいろんな作品で量産されていき、そうやってメンヘラなキャラが流行したことによりこれまた私の私見ですが、どうもその後からなにかと刹那的な生き方というものが実社会でももてはやされるようになった気がします。具体的な現象名を挙げると女子高生の援助交際がゴールデンのテレビ番組でも大きく平然と取り上げられるなど、今から考えると随分と滅茶苦茶な時代が展開されていました。なお女子高生の援助交際について私は結構前からあって多分今も全くないということはないでしょうが、少なくとも表立ってあれだけ話題に出来たのは90年代後半から2000年初頭の間だけだった気がします。
とまぁそういうことでエヴァンゲリオンのブームがが社会心理に与えた影響というのは以上までですが、折角なのでエヴァがアニメ業界へ与えた影響についても列記すると、まずアニメ業界の販売業態がこの時期に大きく変わりました。それまではアニメの放送と共に関連する玩具の販売で生計を立てていたアニメ業界ですが、エヴァンゲリオンでは作品内容を納めたビデオの販売が大きな収入源となり、以後のアニメ作品でもそれまでの玩具からビデオ販売をメインの収入源へと変更していきました。凄いのになると、最終回は放送せずに見たければビデオを買えという詐欺のような作品も前にありましたね。
またこのブームと同時期の97年に放送された「剣風伝奇ベルセルク」が深夜時間枠の放送をすることによって、当初懸念されていた放送に当たる残酷描写の問題をパスしたことによりそれ以後深夜時間枠に主だったアニメ作品が放送されるようになりました。
この二つの変動によって何が大きく影響されたかというと、アニメ作品の対象年齢です。それまでは玩具販売がメインであったために小学生くらいの子供が主な対象であったアニメ作品は玩具より比較的高額なビデオの販売を収入源とすることによって対象年齢は上乗せされ、現在に至っては中高生、というよりもう成人を相手に商売やっているようなもんです。まぁちゃんと小学生対象のアニメもワンピースなどを中心に行われているので、むしろ成人対象のアニメも作られるようになったと言うべきでしょうか。
ただこうした対象年齢の変動にはもちろん先ほどのエヴァとベルセルクの影響も大きいのですが、それ以上に少子化という現実こそが主原因でしょう。少子化によって対象の小学生が減ることにより収入が減り、新たに成人を対象に商売をするようになったのがアニメ業界の実情でしょう。
「それまでは大人のホビー街という雰囲気の秋葉原であったが、大体96年頃の新世紀エヴァンゲリオンのヒットからこのようなオタクとアニメの街へと変わっていった」
と記述していました。
この意見に対して私も同意見で、元々秋葉原は転身の早い街で戦後は問屋街だったのがアマチュア無線ブームの頃に電気街となり、その後エヴァのブーム以降からアニメ、マンガ、ゲームの三大柱を掲げるようになって現在のようなオタクの街へと変貌を遂げています。言うなれば今の秋葉原があるのはエヴァのおかげなのかもしれません。そう考えると、アニメが街を動かしたってことになるのか。
それでもはや語るまでもないほど有名なこのアニメ作品の「新世紀エヴァンゲリオン」はテレビ放映当時の95年は視聴率も振るわず、お世辞にも成功したとは言えない作品でした。しかし最終回の意味不明さが評論家の間で議論されたことから俄かに注目を浴び、再放送された96年に大ヒットしてその後97年の映画公開によって十年後の今にも続く人気を不動にしました。
それこそ当時から一体何故エヴァは成功したのかという議論が行われており、いくつかそこで出たヒットの要素を挙げると単純にキャラクターのデザインとか、世界観、シナリオなどとある中で、今思うと違うなと思う要素には当時に流行していた「癒し系」という言葉とかけて作品のテーマ性に「癒し」が込められているという意見も当時は結構強かった気がします。エヴァの中に「癒し」があるかといったら、ちょっと私にはわかりませんが。
ここまでの「失われた十年」の連載を見てきた方ならここで私が何を言いたいのかというのもわかると思いますが、要するに私はこのエヴァンゲリオンのブームは、この作品の内容が難解であったからではないかと考えています。
このくだりは「その十八、終末思想」で書いていますが、失われた十年の間は何故か「よくわからない」ものほど流行し、作品もヒットしています。確かにこのエヴァンゲリオンはキャラデザから演出効果などでも当時としては画期的に優れた作品ではありましたが、やっぱり大ヒットの最大功労者となると「難解なストーリー」にあったのではないかと思います。
またこの作品の大ヒットは他の作品にも広く影響を与え、前にも書きましたが当時はメンヘラ(自己があまり確立されていないよう)なキャラクターがいろんな作品で量産されていき、そうやってメンヘラなキャラが流行したことによりこれまた私の私見ですが、どうもその後からなにかと刹那的な生き方というものが実社会でももてはやされるようになった気がします。具体的な現象名を挙げると女子高生の援助交際がゴールデンのテレビ番組でも大きく平然と取り上げられるなど、今から考えると随分と滅茶苦茶な時代が展開されていました。なお女子高生の援助交際について私は結構前からあって多分今も全くないということはないでしょうが、少なくとも表立ってあれだけ話題に出来たのは90年代後半から2000年初頭の間だけだった気がします。
とまぁそういうことでエヴァンゲリオンのブームがが社会心理に与えた影響というのは以上までですが、折角なのでエヴァがアニメ業界へ与えた影響についても列記すると、まずアニメ業界の販売業態がこの時期に大きく変わりました。それまではアニメの放送と共に関連する玩具の販売で生計を立てていたアニメ業界ですが、エヴァンゲリオンでは作品内容を納めたビデオの販売が大きな収入源となり、以後のアニメ作品でもそれまでの玩具からビデオ販売をメインの収入源へと変更していきました。凄いのになると、最終回は放送せずに見たければビデオを買えという詐欺のような作品も前にありましたね。
またこのブームと同時期の97年に放送された「剣風伝奇ベルセルク」が深夜時間枠の放送をすることによって、当初懸念されていた放送に当たる残酷描写の問題をパスしたことによりそれ以後深夜時間枠に主だったアニメ作品が放送されるようになりました。
この二つの変動によって何が大きく影響されたかというと、アニメ作品の対象年齢です。それまでは玩具販売がメインであったために小学生くらいの子供が主な対象であったアニメ作品は玩具より比較的高額なビデオの販売を収入源とすることによって対象年齢は上乗せされ、現在に至っては中高生、というよりもう成人を相手に商売やっているようなもんです。まぁちゃんと小学生対象のアニメもワンピースなどを中心に行われているので、むしろ成人対象のアニメも作られるようになったと言うべきでしょうか。
ただこうした対象年齢の変動にはもちろん先ほどのエヴァとベルセルクの影響も大きいのですが、それ以上に少子化という現実こそが主原因でしょう。少子化によって対象の小学生が減ることにより収入が減り、新たに成人を対象に商売をするようになったのがアニメ業界の実情でしょう。
2009年1月14日水曜日
失われた十年~その十九、心理学ブーム~
前回の終末思想についての記事で私がこの連載の後半でもって行きたい話の筋道をあらかた書きましたが、今回はこの失われた十年の間で流行った妙なものの中から一つ、心理学のブームについて解説します。
まずこの心理学が一躍社会に注目されるようになったきっかけは前回にも書いたように、映画「羊たちの沈黙」による影響が大きいです。この映画は原作となったストーリーの面白味に加えハンニバル・レクター役を演じたアンソニー・ホプキンスの名演技が光り大ヒットしましたが、映画を見たことがわかる人なら言わずもがなですがこの映画の主役とも言うべきハンニバルの職業は犯罪心理学博士で、映画中にも使われている犯行時の状況から犯人像を絞るという捜査手法の「プロファイリング」が映画同様に大ブレイクしました。
特にこの心理学ブームが最も顕著に現れたのは大学における心理学部、学科の偏差値の向上においてです。今日調べてみたらどうも以前ほどではなくなってはいますが、それこそ95年くらいの大学入試において心理学関係の入試は他の文系学部より頭一つ抜ける高さで、有名私立大学の心理学部などはそれこそ狭き門となっていきました。この傾向はしばらく続き、私が大学入試をした年も依然として高いままで周りにも心理学を勉強したいというブームに流された友人が数多くいました。
ちなみに私の知っているある大学は、付属高校の学生を心理学科にどんどんと入れることによって外部生の倍率が高まるために偏差値が高いだけで、教師も認めていましたがそこの学科の学生はあまり勉強のできる奴はいないと言っていました。
こうした大学の倍率とともに、すでに完璧に死語と化していますが前述の「プロファイリング」も大いに当時は流行りました。そのためか一時はブームに乗っかってテレビではこのプロファイリング特集がよく組まれたり、ジャンプでもこれを主題にしたマンガを連載させてはこけて、97年に起こる酒鬼薔薇事件ではワイドショーなどが自称プロファイリング捜査官を出演させては何の根拠もない実際の犯人とは大きく異なる予想が立てられたりしていました。
さらにこれも前回の記事でも言いましたが、恐らくこういった背景があったことからミステリーやオカルト分野への社会の関心が高まり、「金田一少年の事件簿」といった推理マンガこの時代に数多くヒットしたのではないかと見ています。「名探偵コナン」はずっとヒットし続けているけど、我が心のふるさと鳥取県出身の漫画家と来たら私の中では未だ水木しげるしかいません。
それでこの心理学のブームですが、きっかけこそ先ほどの「羊たちの沈黙」でしょうが、ブームが持続したのはこの心理学が利用しやすかったことが原因だと私は考えています。というのも、これなんか私の専門の社会学でもそういう一面もあるのですが、どんな滅茶苦茶な理論でも精神的障害(トラウマ)と統計操作を行うことで、パオロ・マッツァリーノ氏の言う通りに心理学と社会学は思いのままに立証できてしまうからです。
先に言っておきますが、真剣に研究している心理学者の方々たちには非常に申し訳ありませんが、私はこの心理学を全学問分野の中で蛇蝎の如く一番嫌っています。もちろん真面目に研究している方たちには非常に尊敬もしていて臨床心理学など研究的価値のある分野だと考えていますが、それを推しても現状では以前ほどではないにしろ心理学を錦の御旗に明らかに実証性のないとんでもない理論を振りかざしては流行らす輩が多いため、私はこの心理学に対して常日頃から批判的な立場にあります。
それこそ心理学がブームだった90年代後半はなんにでも理由付けや根拠に心理学が利用されて、「心理学的には~」とか「トラウマによる影響で」といってはエセ科学や偽情報が片っ端から作られていきました。よくあったのは「こうすることによって心理学的には相手に対してこのような感情を持たせる」というフレーズで、今も数多い恋愛交渉術のやり方が紹介するなどの万能振りを見せ、更にはよくある質問本で、「Aと回答する人はこんな性格」といったようなものまで出てきて、もはや心理学と言えば誰でもなんでも信じ込んだ時代でありました。
こういう具合にメディアから商業主義にまでなんにでも利用され続けたため、この心理学は失われた十年の間に一貫としてブームを保ち続けたのでしょう。しかし冷静に今見渡してみると、大分この時と比べて心理学の威力というものは弱まった気がします。ちなみに私が一番好きな心理学の話は、前に私も書いた「パブロフの犬の逆説」です。
まずこの心理学が一躍社会に注目されるようになったきっかけは前回にも書いたように、映画「羊たちの沈黙」による影響が大きいです。この映画は原作となったストーリーの面白味に加えハンニバル・レクター役を演じたアンソニー・ホプキンスの名演技が光り大ヒットしましたが、映画を見たことがわかる人なら言わずもがなですがこの映画の主役とも言うべきハンニバルの職業は犯罪心理学博士で、映画中にも使われている犯行時の状況から犯人像を絞るという捜査手法の「プロファイリング」が映画同様に大ブレイクしました。
特にこの心理学ブームが最も顕著に現れたのは大学における心理学部、学科の偏差値の向上においてです。今日調べてみたらどうも以前ほどではなくなってはいますが、それこそ95年くらいの大学入試において心理学関係の入試は他の文系学部より頭一つ抜ける高さで、有名私立大学の心理学部などはそれこそ狭き門となっていきました。この傾向はしばらく続き、私が大学入試をした年も依然として高いままで周りにも心理学を勉強したいというブームに流された友人が数多くいました。
ちなみに私の知っているある大学は、付属高校の学生を心理学科にどんどんと入れることによって外部生の倍率が高まるために偏差値が高いだけで、教師も認めていましたがそこの学科の学生はあまり勉強のできる奴はいないと言っていました。
こうした大学の倍率とともに、すでに完璧に死語と化していますが前述の「プロファイリング」も大いに当時は流行りました。そのためか一時はブームに乗っかってテレビではこのプロファイリング特集がよく組まれたり、ジャンプでもこれを主題にしたマンガを連載させてはこけて、97年に起こる酒鬼薔薇事件ではワイドショーなどが自称プロファイリング捜査官を出演させては何の根拠もない実際の犯人とは大きく異なる予想が立てられたりしていました。
さらにこれも前回の記事でも言いましたが、恐らくこういった背景があったことからミステリーやオカルト分野への社会の関心が高まり、「金田一少年の事件簿」といった推理マンガこの時代に数多くヒットしたのではないかと見ています。「名探偵コナン」はずっとヒットし続けているけど、我が心のふるさと鳥取県出身の漫画家と来たら私の中では未だ水木しげるしかいません。
それでこの心理学のブームですが、きっかけこそ先ほどの「羊たちの沈黙」でしょうが、ブームが持続したのはこの心理学が利用しやすかったことが原因だと私は考えています。というのも、これなんか私の専門の社会学でもそういう一面もあるのですが、どんな滅茶苦茶な理論でも精神的障害(トラウマ)と統計操作を行うことで、パオロ・マッツァリーノ氏の言う通りに心理学と社会学は思いのままに立証できてしまうからです。
先に言っておきますが、真剣に研究している心理学者の方々たちには非常に申し訳ありませんが、私はこの心理学を全学問分野の中で蛇蝎の如く一番嫌っています。もちろん真面目に研究している方たちには非常に尊敬もしていて臨床心理学など研究的価値のある分野だと考えていますが、それを推しても現状では以前ほどではないにしろ心理学を錦の御旗に明らかに実証性のないとんでもない理論を振りかざしては流行らす輩が多いため、私はこの心理学に対して常日頃から批判的な立場にあります。
それこそ心理学がブームだった90年代後半はなんにでも理由付けや根拠に心理学が利用されて、「心理学的には~」とか「トラウマによる影響で」といってはエセ科学や偽情報が片っ端から作られていきました。よくあったのは「こうすることによって心理学的には相手に対してこのような感情を持たせる」というフレーズで、今も数多い恋愛交渉術のやり方が紹介するなどの万能振りを見せ、更にはよくある質問本で、「Aと回答する人はこんな性格」といったようなものまで出てきて、もはや心理学と言えば誰でもなんでも信じ込んだ時代でありました。
こういう具合にメディアから商業主義にまでなんにでも利用され続けたため、この心理学は失われた十年の間に一貫としてブームを保ち続けたのでしょう。しかし冷静に今見渡してみると、大分この時と比べて心理学の威力というものは弱まった気がします。ちなみに私が一番好きな心理学の話は、前に私も書いた「パブロフの犬の逆説」です。
2009年1月9日金曜日
失われた十年とは~その十九、終末思想~
失われた十年における事実整理とそれに対する私の見方だけだったこれまでの記事に対し、今回は後半のポイントとなる社会心理の話を完全私独自の考えで披露します。結論から言えば私は90年代には薄く、幅広い終末思想のようなものが存在し、それがいろいろなものと結びついて当時の独特な社会空気を作ったのではないかと考えています。
さて終末思想とくれば恐らくもう読んでいる方は察しがついているでしょうが、あの「ノストラダムスの大予言」です。これ自体については本の著者の五島勉氏の眉唾本ですが、本が出た当初は売れに売れて私が子供だった90年代初頭でも1999年には世界が滅亡するという話には相当な影響力がありました。さすがに99年を過ぎた現在ではノストラダムス自体が死語になりつつあるのですが、私がこのところ失われた十年の大部分に当たる90年代を思い起こすにつけ、このノストラダムスの予言が幅広く浸透し、意識してかしてないか当時の人たちの行動や思想に少なからず影響を与えていたのではないかと思うようになりました。
まず実際にノストラダムスの与太話が大きな行動、事件に繋がった例として、前回に解説したオウム真理教による地下鉄サリン事件です。というのもこのオウム真理教は教団内で終末思想を持っており、それに向けてあれこれ準備すると言う名目でいろんな武器や化学兵器の開発といった非合法な活動を行っており、このオウムの終末思想に影響を与えたのが前述のノストラダムスの予言だと言われております。
現実に当時、一部(大槻教授とか)から批判されだしてきた五島勉氏が1999年の世界滅亡について、「目には見えない何かによって人類は滅亡する」等と言い出し、オウムの起こしたサリン事件によって化学兵器などが俄かに一部(オカルトマニア)で注目されました。
またこのオウム事件に限らなくとも、前々回に解説した阪神大震災やバブル崩壊による戦後初めての長期不況によって日本人全体で言いようのない不安を持ち合っていたと思います。こうしたバックグラウンドの元で、日本人は「見えない不安」というものを全体で薄いながらも抱えだし、その結果改めて思うと当時限定の独特な文化が生まれていったというのが大まかな概略です。
そうして生まれた当時独特の文化、風習の一例として、私がにらんでいる一つの候補は心理学です。それまで哲学とかと並んでマイナーな学問だった心理学が俄かに脚光を浴びて、現在はどうだか知りませんが当時は絶大な偏差値を誇るほど入学希望者が殺到したブームのきっかけはハリウッド映画の「羊たちの沈黙」からですが、その映画だけでなく先ほどの終末思想に端を発するオカルト分野の盛り上がりもこのブームを後押ししていたのではないかと私は考えます。なおこの心理学ブームと並んで90年代初頭より勃興したものとして、今も続く「名探偵コナン」を代表とする推理マンガも、こうした背景の元だからこそ成立したのではないかと思います。
勘のいい人ならわかるでしょうが、心理学と推理マンガ、つまり人の心理などといった曖昧でよくわからなく、理解しづらいものが不思議と当時に流行っています。今度はこの「よくわからない」と言うものがキーワードになりますが、やっぱこっちも改めて考え直してみるとよくわからない、わかりづらい、曖昧模糊としたものほど当時は何故かいろいろ流行ってる気がします。
その方面での代表格はアニメの「エヴァンゲリオン」ですが、これなんかユング心理学、聖書(オカルト方面の)、難解なストーリーと、今私が挙げた三拍子を全部備えている優等生で、案の定90年代後半には爆発的なヒットを博して現在に至るまで製作したアニメ会社が関連商品で儲けていられるという大傑作となりました。なおこのエヴァンゲリオンがヒットした当時に発売したファイナルファンタジー7の主人公のクラウドがややメンヘラなキャラクターとなったのは、このエヴァンゲリオンのストーリーが影響したと言われています。まぁ当時はクラウドに限らなくとも、メンヘラなゲームやアニメのキャラクターが非常に多く、恥ずかしい話だけど当時の私の小説もそんなんばっかだったし。
このようにはっきりと意識しないながらも終末思想を日本人は全体で広く抱え、その影響で終末思想とやや系統の近いオカルトや心理学が人気になり、現実でも阪神大震災やオウム事件など社会を揺るがし不安に陥れる事件が連続したために、日本人の行動や思想が刹那的、自暴自棄なもの(クラウドっぽい?)へとなっていった……といったところでしょうか。この辺は後でもっと詳しく解説します。
そんでもってこうした傾向に最後の一手を入れたのが、私は97年に起きた酒鬼薔薇事件だと考えています。この事件が発生した当初、そして犯人が中学生だったということがわかった際の社会の混乱振りは私もはっきりと覚えているほどで、この混乱がどのようにその後に繋がったか一言で言うとすれば、私はやっぱりこの事件によって日本社会がそれまで持ってきた様々な規定概念のようなものすべてが崩れ落ちたのではないかと考えています。折も折で私が経済的に転換点だと述べた97年で、長らくエリートコースとされてきたいい大学に入っていい企業に就職すれば将来安泰とか、子供は社会の宝だとか、親父狩り事件に代表される子供から大人への尊敬意識といった、それまでは社会上で当たり前とされてきた規範や規定のほとんどが否定されるかなくなっていったように思えます。
その結果は、その後続く私から見れば退廃的な文化の勃興や刹那的な意識を持つ若者の増加、延々と続く自分探しといった現象の発生に繋がったのではないかと思います。今の後ろ向きな世の中も、言うなればこの97年から始まったのではないかと、私なりの提言です。次回からはこの記事で展開した話を個々に分けて解説して行き、この失われた十年の以前と以後で転換した日本の社会意識や風習を紹介していきます。
それにしても、今日は思いっきり飛ばして書いたなぁ(ノ∀`) アチャー
さて終末思想とくれば恐らくもう読んでいる方は察しがついているでしょうが、あの「ノストラダムスの大予言」です。これ自体については本の著者の五島勉氏の眉唾本ですが、本が出た当初は売れに売れて私が子供だった90年代初頭でも1999年には世界が滅亡するという話には相当な影響力がありました。さすがに99年を過ぎた現在ではノストラダムス自体が死語になりつつあるのですが、私がこのところ失われた十年の大部分に当たる90年代を思い起こすにつけ、このノストラダムスの予言が幅広く浸透し、意識してかしてないか当時の人たちの行動や思想に少なからず影響を与えていたのではないかと思うようになりました。
まず実際にノストラダムスの与太話が大きな行動、事件に繋がった例として、前回に解説したオウム真理教による地下鉄サリン事件です。というのもこのオウム真理教は教団内で終末思想を持っており、それに向けてあれこれ準備すると言う名目でいろんな武器や化学兵器の開発といった非合法な活動を行っており、このオウムの終末思想に影響を与えたのが前述のノストラダムスの予言だと言われております。
現実に当時、一部(大槻教授とか)から批判されだしてきた五島勉氏が1999年の世界滅亡について、「目には見えない何かによって人類は滅亡する」等と言い出し、オウムの起こしたサリン事件によって化学兵器などが俄かに一部(オカルトマニア)で注目されました。
またこのオウム事件に限らなくとも、前々回に解説した阪神大震災やバブル崩壊による戦後初めての長期不況によって日本人全体で言いようのない不安を持ち合っていたと思います。こうしたバックグラウンドの元で、日本人は「見えない不安」というものを全体で薄いながらも抱えだし、その結果改めて思うと当時限定の独特な文化が生まれていったというのが大まかな概略です。
そうして生まれた当時独特の文化、風習の一例として、私がにらんでいる一つの候補は心理学です。それまで哲学とかと並んでマイナーな学問だった心理学が俄かに脚光を浴びて、現在はどうだか知りませんが当時は絶大な偏差値を誇るほど入学希望者が殺到したブームのきっかけはハリウッド映画の「羊たちの沈黙」からですが、その映画だけでなく先ほどの終末思想に端を発するオカルト分野の盛り上がりもこのブームを後押ししていたのではないかと私は考えます。なおこの心理学ブームと並んで90年代初頭より勃興したものとして、今も続く「名探偵コナン」を代表とする推理マンガも、こうした背景の元だからこそ成立したのではないかと思います。
勘のいい人ならわかるでしょうが、心理学と推理マンガ、つまり人の心理などといった曖昧でよくわからなく、理解しづらいものが不思議と当時に流行っています。今度はこの「よくわからない」と言うものがキーワードになりますが、やっぱこっちも改めて考え直してみるとよくわからない、わかりづらい、曖昧模糊としたものほど当時は何故かいろいろ流行ってる気がします。
その方面での代表格はアニメの「エヴァンゲリオン」ですが、これなんかユング心理学、聖書(オカルト方面の)、難解なストーリーと、今私が挙げた三拍子を全部備えている優等生で、案の定90年代後半には爆発的なヒットを博して現在に至るまで製作したアニメ会社が関連商品で儲けていられるという大傑作となりました。なおこのエヴァンゲリオンがヒットした当時に発売したファイナルファンタジー7の主人公のクラウドがややメンヘラなキャラクターとなったのは、このエヴァンゲリオンのストーリーが影響したと言われています。まぁ当時はクラウドに限らなくとも、メンヘラなゲームやアニメのキャラクターが非常に多く、恥ずかしい話だけど当時の私の小説もそんなんばっかだったし。
このようにはっきりと意識しないながらも終末思想を日本人は全体で広く抱え、その影響で終末思想とやや系統の近いオカルトや心理学が人気になり、現実でも阪神大震災やオウム事件など社会を揺るがし不安に陥れる事件が連続したために、日本人の行動や思想が刹那的、自暴自棄なもの(クラウドっぽい?)へとなっていった……といったところでしょうか。この辺は後でもっと詳しく解説します。
そんでもってこうした傾向に最後の一手を入れたのが、私は97年に起きた酒鬼薔薇事件だと考えています。この事件が発生した当初、そして犯人が中学生だったということがわかった際の社会の混乱振りは私もはっきりと覚えているほどで、この混乱がどのようにその後に繋がったか一言で言うとすれば、私はやっぱりこの事件によって日本社会がそれまで持ってきた様々な規定概念のようなものすべてが崩れ落ちたのではないかと考えています。折も折で私が経済的に転換点だと述べた97年で、長らくエリートコースとされてきたいい大学に入っていい企業に就職すれば将来安泰とか、子供は社会の宝だとか、親父狩り事件に代表される子供から大人への尊敬意識といった、それまでは社会上で当たり前とされてきた規範や規定のほとんどが否定されるかなくなっていったように思えます。
その結果は、その後続く私から見れば退廃的な文化の勃興や刹那的な意識を持つ若者の増加、延々と続く自分探しといった現象の発生に繋がったのではないかと思います。今の後ろ向きな世の中も、言うなればこの97年から始まったのではないかと、私なりの提言です。次回からはこの記事で展開した話を個々に分けて解説して行き、この失われた十年の以前と以後で転換した日本の社会意識や風習を紹介していきます。
それにしても、今日は思いっきり飛ばして書いたなぁ(ノ∀`) アチャー
2009年1月8日木曜日
失われた十年とは~その十八、地下鉄サリン事件~
前回では95年に起きた阪神大震災について解説しましたが、今回は同年に起こった日本史上最大の犯罪事件であり世界初のバイオテロ事件である地下鉄サリン事件についていろいろ書きます。書く前から武者震いがしてきますが、以前に書いた紅衛兵の記事以来で久しぶりな感覚です。
95年3月、都内の各地下鉄路線上にてオウム真理教の教徒たちによって有機リン系猛毒ガスのサリンがばら撒かれました。この事件をオウムが起こした原因として現在挙げられているのは、この事件の直前に別の事件によって警察の教団への強制捜査が行われることが予定されており、その捜査に抵抗する形で警察や権力層の混乱をはかろうとしたのが動機だったそうです。事実、この事件の十日後には当時の警察庁長官の国松氏が狙撃され、これもオウムによる犯行と近年断定されたことから警察機関のかく乱という先ほどの動機には私も非常に納得できます。
そうして行われたこの地下鉄サリン事件ですが、実行方法は液状のサリンが入った袋を電車を脱出する直前に傘でつついて穴を空けて脱出するという方法が取られ、各路線内でお茶の水や霞ヶ関といった主要駅で実行されました。この方法の特徴として、走る電車内で毒ガスをばら撒くといった手法がまず目に付きます。この方法だとサリンが放出された当初は何も知らないまま電車は走り続けることにより、サリンの毒が駅から駅へと運搬されていくだけでなく車内に残された人たちも満員電車の中で脱出することも出来なく、更にはどこでサリンが封切られたのか実行犯の特定を難しくさせるという特徴もあり、非常によく練られた計画だと言わざるを得ません。
最終的にこの事件での被害者は12人が死亡し、5510人の方が重軽傷を負われたとのことで、生き残った方も今でも様々な障害に悩まされる方が数多くおられるそうです。これはつい最近になって法案が通った話ですが、こうしたオウム事件での被害者に対してオウム(現アレフ)が弁済額を支払う資金がないために事実上放置されてきた被害者救済に国の資金を充てるように、確か先月になって本当にやっと決まりました。逆を言うとこれまでは障害をおって入院しててもその費用は自己負担で、この点について国は事件の重大さや深刻さからもっと早くに救済に動くべきだったでしょう。定額給付金も、こうした犯罪被害者にもっと使えばいいのに。
さてこの地下鉄サリン事件ですが、冒頭でも述べたようにこの事件は世界で初の化学兵器が使用されたバイオテロ事件で、しかも都市部の中枢部、更に言えば地下鉄といった公共機関で使用されるというこれ以上ない程の最悪の条件で起きております。そのためこの事件は世界各国でテロ対策における重要な事実例として使われ、恐らくどの国でもこの地下鉄サリン事件を材料にしてテロ対策を作っているでしょう。なおこの後に確認されているバイオテロの実例というと9.11後にアメリカで起こった炭素菌事件が挙げられますが、実はオウムもこれ以前に炭素菌の生成、使用を試みていますがこれには失敗に終わっております。それにしても炭素菌の生成を行おうとしていたという点を鑑みれば、当時のオウムがどれだけ効力のある毒物に熟知していたかが窺えてきます。ついでに書くと、この炭素菌については事件後に世間を騒がせた上祐現ひかりの輪代表も関わっていたそうです。
話は戻りそんな最悪の状況下かつ、よく練られた計画の上で行われたこの地下鉄サリン事件ですが、その被害は最初に挙げた膨大な数の被害者を出すなど非常に甚大でありました。しかしこの被害者数は事件の実態と比べると驚くべきほど小さい被害で済んでいると言われており、その陰には現場の方々の様々な努力があったとされています。この辺はウィキペディアの項目を私の言葉でなぞるだけなので、興味がおありの方は是非そちらもご参照ください。
まず特筆すべきは医療機関の聖路加国際病院で、事件が発生するや直ちに外来の診察を取りやめて当時医院長で今もなお現役の日野原重明氏の指示により無制限の被害者受け入れを行い、医療救助活動の拠点となりました。ちなみにこの聖路加国際病院が何故あれほど大量の被害者を受け入れられたかというと、日野原氏が戦前の東京大空襲時の経験からいつでも大量の急患を受け入れられるよう常日頃から対策を行っており、果てにはチャペルまで状況に応じて病棟に変えられる設計を行っていたそうで、一部では老人の心配性とまで揶揄されていたそうですがこの事件時には日野原氏のそれらの対策が大いに生きました。
また治療に使うPAMという薬品は常備数が当時は非常に少ない薬品であったため、使用ガスがサリンと特定されるや製薬会社の方たちが他地域で直ちに集め、新幹線にて片っ端から運んでは駅で同じ会社員が待ちうけどんどんと病院へ運んでいったそうです。さらに使用ガスの特定については、信州大学の柳沢信夫教授がテレビの報道を見て松本サリン事件の被害者の症状が酷似していることから治療法や対策を直ちに東京の各病院にファックスしたことにより、先ほどの薬品の確保、輸送へとつながったそうです。
そして汚染された現場に対しては、先の阪神大震災でも活躍した自衛隊の、それも一番不必要だといわれ続けた化学系の専門部隊がなんと事件発生から29分後という素早さで出動し、現場の除染と被害者の救助活動を行っております。
しかし救助面で唯一悲劇だったのは、こうした毒物への対策のない最も現場に近い警察官や駅員の方たちの犠牲です。彼らは防護服はもちろん対策すら知らない中で被害者の救助活動を勤め、幾人かの被害者は彼ら救助活動者の中から出ております。彼らの勇気と行動に私は今でも敬意の念を忘れてはいません。
こうした各分野の方々の努力もあり、実際の現場では数多くの人たちが命を救われていったそうです。それでもこの事件の傷跡は深く、障害の残った方やPTSDを発症した方たちが今も残り、十年以上たった今でも私自身がこの事件を鮮明に記憶に残しております。
この事件の帰結としてはかねてより関与の疑いのあったオウムへの強制捜査が事件二日後に行われ、関係者の自供などもあって詳細が明らかになり、教祖の麻原死刑確定囚の逮捕へとつながっていきます。また捜査が始まって以降は猛烈な報道合戦が行われ、これ以前の松本サリン事件と合わせて様々な問題が明らかにされていきました。特にこうしたカルト宗教に何故サリンの製造が行えるまでのトップクラスな秀才らが集まったのかが当時の若者の思想や生き方と合わせて様々に議論されましたが、私はこの点について今だからこそ再び議論を始めるべきだと思っております。ちょっとこの次の記事でその辺について書きますが。
この事件が与えた日本全体への影響はすさまじく、刑法や死刑問題などこれ以前と以後で一気にひっくり返ったのではないかと私は思い、事実これ以降刑法は厳罰化の一途を辿っております。
私としては社会全体の意識に与えた影響を大きく捉えており、前回の阪神大震災といい、次回にて解説する「90年代の終末思想」に強く影響を与えた事件だと考えております。この連載の最初の方に書いたように経済や政治的には97年が大きな転換点に当たる年だとすると、社会面ではこの95年が一つの転換点にあたる年に当たると思います。何が具体的に転換したかというと、それはやっぱり「平和」でしょうか。
95年3月、都内の各地下鉄路線上にてオウム真理教の教徒たちによって有機リン系猛毒ガスのサリンがばら撒かれました。この事件をオウムが起こした原因として現在挙げられているのは、この事件の直前に別の事件によって警察の教団への強制捜査が行われることが予定されており、その捜査に抵抗する形で警察や権力層の混乱をはかろうとしたのが動機だったそうです。事実、この事件の十日後には当時の警察庁長官の国松氏が狙撃され、これもオウムによる犯行と近年断定されたことから警察機関のかく乱という先ほどの動機には私も非常に納得できます。
そうして行われたこの地下鉄サリン事件ですが、実行方法は液状のサリンが入った袋を電車を脱出する直前に傘でつついて穴を空けて脱出するという方法が取られ、各路線内でお茶の水や霞ヶ関といった主要駅で実行されました。この方法の特徴として、走る電車内で毒ガスをばら撒くといった手法がまず目に付きます。この方法だとサリンが放出された当初は何も知らないまま電車は走り続けることにより、サリンの毒が駅から駅へと運搬されていくだけでなく車内に残された人たちも満員電車の中で脱出することも出来なく、更にはどこでサリンが封切られたのか実行犯の特定を難しくさせるという特徴もあり、非常によく練られた計画だと言わざるを得ません。
最終的にこの事件での被害者は12人が死亡し、5510人の方が重軽傷を負われたとのことで、生き残った方も今でも様々な障害に悩まされる方が数多くおられるそうです。これはつい最近になって法案が通った話ですが、こうしたオウム事件での被害者に対してオウム(現アレフ)が弁済額を支払う資金がないために事実上放置されてきた被害者救済に国の資金を充てるように、確か先月になって本当にやっと決まりました。逆を言うとこれまでは障害をおって入院しててもその費用は自己負担で、この点について国は事件の重大さや深刻さからもっと早くに救済に動くべきだったでしょう。定額給付金も、こうした犯罪被害者にもっと使えばいいのに。
さてこの地下鉄サリン事件ですが、冒頭でも述べたようにこの事件は世界で初の化学兵器が使用されたバイオテロ事件で、しかも都市部の中枢部、更に言えば地下鉄といった公共機関で使用されるというこれ以上ない程の最悪の条件で起きております。そのためこの事件は世界各国でテロ対策における重要な事実例として使われ、恐らくどの国でもこの地下鉄サリン事件を材料にしてテロ対策を作っているでしょう。なおこの後に確認されているバイオテロの実例というと9.11後にアメリカで起こった炭素菌事件が挙げられますが、実はオウムもこれ以前に炭素菌の生成、使用を試みていますがこれには失敗に終わっております。それにしても炭素菌の生成を行おうとしていたという点を鑑みれば、当時のオウムがどれだけ効力のある毒物に熟知していたかが窺えてきます。ついでに書くと、この炭素菌については事件後に世間を騒がせた上祐現ひかりの輪代表も関わっていたそうです。
話は戻りそんな最悪の状況下かつ、よく練られた計画の上で行われたこの地下鉄サリン事件ですが、その被害は最初に挙げた膨大な数の被害者を出すなど非常に甚大でありました。しかしこの被害者数は事件の実態と比べると驚くべきほど小さい被害で済んでいると言われており、その陰には現場の方々の様々な努力があったとされています。この辺はウィキペディアの項目を私の言葉でなぞるだけなので、興味がおありの方は是非そちらもご参照ください。
まず特筆すべきは医療機関の聖路加国際病院で、事件が発生するや直ちに外来の診察を取りやめて当時医院長で今もなお現役の日野原重明氏の指示により無制限の被害者受け入れを行い、医療救助活動の拠点となりました。ちなみにこの聖路加国際病院が何故あれほど大量の被害者を受け入れられたかというと、日野原氏が戦前の東京大空襲時の経験からいつでも大量の急患を受け入れられるよう常日頃から対策を行っており、果てにはチャペルまで状況に応じて病棟に変えられる設計を行っていたそうで、一部では老人の心配性とまで揶揄されていたそうですがこの事件時には日野原氏のそれらの対策が大いに生きました。
また治療に使うPAMという薬品は常備数が当時は非常に少ない薬品であったため、使用ガスがサリンと特定されるや製薬会社の方たちが他地域で直ちに集め、新幹線にて片っ端から運んでは駅で同じ会社員が待ちうけどんどんと病院へ運んでいったそうです。さらに使用ガスの特定については、信州大学の柳沢信夫教授がテレビの報道を見て松本サリン事件の被害者の症状が酷似していることから治療法や対策を直ちに東京の各病院にファックスしたことにより、先ほどの薬品の確保、輸送へとつながったそうです。
そして汚染された現場に対しては、先の阪神大震災でも活躍した自衛隊の、それも一番不必要だといわれ続けた化学系の専門部隊がなんと事件発生から29分後という素早さで出動し、現場の除染と被害者の救助活動を行っております。
しかし救助面で唯一悲劇だったのは、こうした毒物への対策のない最も現場に近い警察官や駅員の方たちの犠牲です。彼らは防護服はもちろん対策すら知らない中で被害者の救助活動を勤め、幾人かの被害者は彼ら救助活動者の中から出ております。彼らの勇気と行動に私は今でも敬意の念を忘れてはいません。
こうした各分野の方々の努力もあり、実際の現場では数多くの人たちが命を救われていったそうです。それでもこの事件の傷跡は深く、障害の残った方やPTSDを発症した方たちが今も残り、十年以上たった今でも私自身がこの事件を鮮明に記憶に残しております。
この事件の帰結としてはかねてより関与の疑いのあったオウムへの強制捜査が事件二日後に行われ、関係者の自供などもあって詳細が明らかになり、教祖の麻原死刑確定囚の逮捕へとつながっていきます。また捜査が始まって以降は猛烈な報道合戦が行われ、これ以前の松本サリン事件と合わせて様々な問題が明らかにされていきました。特にこうしたカルト宗教に何故サリンの製造が行えるまでのトップクラスな秀才らが集まったのかが当時の若者の思想や生き方と合わせて様々に議論されましたが、私はこの点について今だからこそ再び議論を始めるべきだと思っております。ちょっとこの次の記事でその辺について書きますが。
この事件が与えた日本全体への影響はすさまじく、刑法や死刑問題などこれ以前と以後で一気にひっくり返ったのではないかと私は思い、事実これ以降刑法は厳罰化の一途を辿っております。
私としては社会全体の意識に与えた影響を大きく捉えており、前回の阪神大震災といい、次回にて解説する「90年代の終末思想」に強く影響を与えた事件だと考えております。この連載の最初の方に書いたように経済や政治的には97年が大きな転換点に当たる年だとすると、社会面ではこの95年が一つの転換点にあたる年に当たると思います。何が具体的に転換したかというと、それはやっぱり「平和」でしょうか。
2009年1月7日水曜日
失われた十年とは~その十七、阪神大震災~
この連載も既に開始から三ヶ月近くたっていますが、そろそろスパートかけて一気に終わらせにかかろうと思います。大分自分の中で今後の話の整理もついてきたし。
さて失われた十年の間で最も大きな災害というと、それは間違いなく今回のお題となっている阪神大震災においてほかはないでしょう。元々この地震は官公庁が当初は兵庫県南部地震と読んだのですが、メディアなどで阪神大震災という関東大震災にかけたこの名前が浸透するにしたがって、いつの間にか国の方でも正式名称にするようになったちょっと変わった経緯を持っています。
それでこの地震の被害の規模ですが、戦後としては最大規模の被害となり、経済面ではただでさえバブル以前に投機的な投資が他地域より多く行われたために崩壊後の不景気に悩まされていた関西地域がこれで止めを刺される形となって、去年までは全国的に羽振りがいいといわれる中で関西地域だけは未だにずっと深刻な不景気に悩まされ続け、世界景気が悪化した現在に至っては更に問題が大きくなっているといわれています。
企業単位では関西地域に本拠地を持っていた企業はこの地震で軒並み大打撃を受けることとなり、それ以前からも凋落していたダイエーが本格的に経営に行き詰るようになったのも、関西を本拠地として大型店を多数抱えていたものの地震によっていくつか倒壊してしまったことが原因だと言われています。
逆に見事に復活した稀有な例として神戸製鋼の例があります。この辺はプロジェクトXでも取り上げられていましたが、大量の溶かした鉄が入っていた炉の火が地震によって消えてしまい、炉の中に大量の鉄が固まって再建は不可能と言われながらも見事に炉を炊きなおし事業再開にこぎつけています。
こうした経済的な被害はもとより人的被害も四桁にも及ぶ死者数を出し、人生を一変させられた人も数多くいたことでしょう。特に災害時が一月だったことから、大学受験を控えた方などは同時どのように対応したのか考えるだけに重苦しい気持ちになります。もっともこの一月という時期は救助や支援においては比較的めぐまれていた時期で、食料などの支援物資が腐敗することは避けられました。一説によると、もし地震が夏場に起きていたら感染病などが起きるなど二次被害がずっと深刻になったといわれています。
またこうしたことから大規模な救助活動が行わたため、この時期を境に日本の救助、救援活動というものは各方面で大きく見直されることとなりました。まず代表的なのは消防車のホースで、それまでホースの口の規格が各県でバラバラにされており、応援に駆けつけた近隣の都道府県の消防車がなかなか現地で水を放水できなかったという反省から、現在では全国でこの規格が統一されております。そしてこうした救急隊と共に、救助活動で大きく世間の見方を変えたのが自衛隊でした。
私などは当時はまだちっちゃな子供でしたが、やはり子供心に自衛隊は戦争のための軍隊で、日本に本当に必要か疑問を感じていました。しかしこの阪神大震災時の救援活動を見ることにより、自守自衛のためよりこうした大規模災害のために自衛隊は必要なのだと思うようになり、世間一般でも阪神大震災をきっかけに自衛隊への感情を好転させております。
なおこの自衛隊の出動についてですが、震災当時は出動が遅れたために助けられた被害者を助けられなかったとして、当時社会党出身であった村山富一元首相がそのスタンスゆえに出動をためらったのだとして一気に批判が起こりましたが、これは以前の記事でも書きましたがあの一党独裁の中国でさえ去年の四川大地震で人民解放軍が思うように救助活動が出来なかったことを見るにつけ、当時の村山元首相の側近が言っている様に前例のない事態ゆえに村山元首相でなくとも迅速な対応は不可能だったのではと私も思うようになりました。ちょっと前まで激しくこの件で私は村山元首相を批判していましたが、今では逆に擁護する立場に回っております。
もちろんこの時の反省は強く生かされ、現在では各方面の災害救助において日本の自衛隊は出動面での法整備が整えられ、またこの方面で訓練を専門的に行うことで世界でもトップクラスの能力を持つに至っております。私の専門の社会学の中の一分野である災害社会学では、広義で戦争も災害として分類しております。そういう意味でこの際、自衛隊という名前はやめて「国際災害救助隊」という名前にするのもよいのではないかと思っています。PKOとかもあるんだし。
それにしてもこの阪神大震災が起きた95年というのは非常にめまぐるしく事件が起きた年であります。もうあまり記憶していない方が多いかもしれませんが、実はこの年に世界初のバイオテロこと、あの忌まわしい地下鉄サリン事件が起きています。次回はこの地下鉄サリン事件とオウム真理教について解説すると共に、この時代の風潮といった話へつなげていこうと思います。
さて失われた十年の間で最も大きな災害というと、それは間違いなく今回のお題となっている阪神大震災においてほかはないでしょう。元々この地震は官公庁が当初は兵庫県南部地震と読んだのですが、メディアなどで阪神大震災という関東大震災にかけたこの名前が浸透するにしたがって、いつの間にか国の方でも正式名称にするようになったちょっと変わった経緯を持っています。
それでこの地震の被害の規模ですが、戦後としては最大規模の被害となり、経済面ではただでさえバブル以前に投機的な投資が他地域より多く行われたために崩壊後の不景気に悩まされていた関西地域がこれで止めを刺される形となって、去年までは全国的に羽振りがいいといわれる中で関西地域だけは未だにずっと深刻な不景気に悩まされ続け、世界景気が悪化した現在に至っては更に問題が大きくなっているといわれています。
企業単位では関西地域に本拠地を持っていた企業はこの地震で軒並み大打撃を受けることとなり、それ以前からも凋落していたダイエーが本格的に経営に行き詰るようになったのも、関西を本拠地として大型店を多数抱えていたものの地震によっていくつか倒壊してしまったことが原因だと言われています。
逆に見事に復活した稀有な例として神戸製鋼の例があります。この辺はプロジェクトXでも取り上げられていましたが、大量の溶かした鉄が入っていた炉の火が地震によって消えてしまい、炉の中に大量の鉄が固まって再建は不可能と言われながらも見事に炉を炊きなおし事業再開にこぎつけています。
こうした経済的な被害はもとより人的被害も四桁にも及ぶ死者数を出し、人生を一変させられた人も数多くいたことでしょう。特に災害時が一月だったことから、大学受験を控えた方などは同時どのように対応したのか考えるだけに重苦しい気持ちになります。もっともこの一月という時期は救助や支援においては比較的めぐまれていた時期で、食料などの支援物資が腐敗することは避けられました。一説によると、もし地震が夏場に起きていたら感染病などが起きるなど二次被害がずっと深刻になったといわれています。
またこうしたことから大規模な救助活動が行わたため、この時期を境に日本の救助、救援活動というものは各方面で大きく見直されることとなりました。まず代表的なのは消防車のホースで、それまでホースの口の規格が各県でバラバラにされており、応援に駆けつけた近隣の都道府県の消防車がなかなか現地で水を放水できなかったという反省から、現在では全国でこの規格が統一されております。そしてこうした救急隊と共に、救助活動で大きく世間の見方を変えたのが自衛隊でした。
私などは当時はまだちっちゃな子供でしたが、やはり子供心に自衛隊は戦争のための軍隊で、日本に本当に必要か疑問を感じていました。しかしこの阪神大震災時の救援活動を見ることにより、自守自衛のためよりこうした大規模災害のために自衛隊は必要なのだと思うようになり、世間一般でも阪神大震災をきっかけに自衛隊への感情を好転させております。
なおこの自衛隊の出動についてですが、震災当時は出動が遅れたために助けられた被害者を助けられなかったとして、当時社会党出身であった村山富一元首相がそのスタンスゆえに出動をためらったのだとして一気に批判が起こりましたが、これは以前の記事でも書きましたがあの一党独裁の中国でさえ去年の四川大地震で人民解放軍が思うように救助活動が出来なかったことを見るにつけ、当時の村山元首相の側近が言っている様に前例のない事態ゆえに村山元首相でなくとも迅速な対応は不可能だったのではと私も思うようになりました。ちょっと前まで激しくこの件で私は村山元首相を批判していましたが、今では逆に擁護する立場に回っております。
もちろんこの時の反省は強く生かされ、現在では各方面の災害救助において日本の自衛隊は出動面での法整備が整えられ、またこの方面で訓練を専門的に行うことで世界でもトップクラスの能力を持つに至っております。私の専門の社会学の中の一分野である災害社会学では、広義で戦争も災害として分類しております。そういう意味でこの際、自衛隊という名前はやめて「国際災害救助隊」という名前にするのもよいのではないかと思っています。PKOとかもあるんだし。
それにしてもこの阪神大震災が起きた95年というのは非常にめまぐるしく事件が起きた年であります。もうあまり記憶していない方が多いかもしれませんが、実はこの年に世界初のバイオテロこと、あの忌まわしい地下鉄サリン事件が起きています。次回はこの地下鉄サリン事件とオウム真理教について解説すると共に、この時代の風潮といった話へつなげていこうと思います。
2008年12月29日月曜日
失われた十年とは~その十六、ゆとり教育Ⅱ~
前回の連載記事ではゆとり教育の概略について大まかに解説しました。思ってた以上に長くなって自分でも結構驚いているのですが、この記事では現状での結果、評価、見直しにおける各所の混乱と、このゆとり教育の何が問題だったのかをいくつか提唱します。
まずこのゆとり教育の結果ですが、今年の日本国内の全国調査では以前よりもマシな結果が出て学力低下も下げ止まったと言われましたが、それ以前はというと如実に日本の子供の学力低下は国際学力テスト、通称PISAにて現れています。
まず2000年度の調査では一位だった数学が03年には六位、06年には十位にまで下がりました。さらに、ゆとり教育のそもそも目的は詰め込み型教育から応用力をつけさせるのが目的で、数学能力が下がることは織り込み済みなのですが、数学力の低下と引き換えに強化を図った読解力の方でも00年度が八位だった日本の順位は03年度には十四位、06年度は十五位とこちらでも低下をし、言ってしまえば全下がりという最悪な結果となっております。
ついでに書いておくと、日本と比べて明らかに授業時間数の少ないフィンランドでは毎回どの分野でもトップクラスの順位にランクしております。
こうした結果に加え、前回にも書いた教育現場での指導者側の苦労話からゆとり教育に切り替えたことによって明らかに日本の学力は低下したといってもいいでしょう。この学力低下の原因がカリキュラムの削減によるものか、はたまた前回に書きそびれた総合学習などの取り入れによる授業時間数の減少が原因なのかまではここではいちいち分析しませんが、少なくともこのゆとり教育はもっと早く見直しを図るべきでした。既にゆとり教育が導入し始めた頃からこうした懸念が強く叫ばれた上に明確な傾向も見え始めていたにもかかわらず、日本人お得意の問題の先送りによって明らかにこの問題への議論は先延ばしにされてきています。
一応ゆとり教育に完全に移行して二年後には、それまで指導要領以外の内容を教えることを厳しく制限してたのを教科書以上の内容を教えても構わないとくくりをわずかに緩めていますが、ゆとり教育自体に初めてメスを入れたのは安倍政権でした。安倍政権によって教育再生の名の下に「教育再生会議」が集められ、恐らく安倍元首相はこの教育制度を抜本的に変えるつもりだったのでしょうがいかんせん本人が教育改革を行う前に先に倒れてしまい、教育再生会議も行き場を失って次の福田政権時に申し訳なさげに「とりあえず改革した方がいいよ」という報告書を出して解散してしまいました。なお当時のメディアはこの教育再生会議に対して散々金を使ったくせにこの程度かという報道をしていましたが、ちょっとあんな報告書では言われても仕方がないと私も思います。
ただこの再生会議をめぐる動きの中で、いくつか奇妙なやり取りが見受けられました。そのやりとりというのも、ゆとり教育に舵を切った文科省の元幹部の発言です。
もうこの人は退官しておりテレビなどでどうしてこのゆとり教育を実行して日本の学力をわざわざ低下させたのだという厳しい質問を受けるとその元幹部は、国民がゆとり教育に変えろと強くせがんだからだと言い返していました。
この元幹部の発言を官僚特有の責任逃れ体質と言い切れば簡単ですが、私自身、この元幹部の言うようにゆとり教育への移行が90年代前半に一部で強く主張されていたような気もしないでもありません。無論この移行を強く主張していたのは自民党と仲の悪い日教組などの集団ですが、少し記憶が曖昧ですが、なんかのテレビ番組で日教組の幹部とその文科省の元幹部がどちらも、「ゆとり教育への移行には反対していたが、お前らが強くやれやれ言うから」とお互いに言い合っているのを見た気がします。
こう言ってはなんですが、前述の通りに日教組と自民党は昔から仲が悪いので日教組に言われたくらいで自民党の影響力の強い文科省の人間がその要求を呑むとは俄かには信じられません。じゃあどっから、誰がこの移行を行おうとしたのか、本当に国民はゆとり教育の移行を望んでいたのかということですが、細かい過程を省いて結論を言うと私は官僚が独自に始め、独自に実行したというのが本当のところではないかと思います。一部の関係者の話を人づてに聞いた内容では、どうも文科省の役人は敢えて国民の総白痴化を狙っていたという話を私も聞いたことがあり、案外それが真実なのではないかと思います。
更に言うと、このゆとり教育の移行がどこから、そして本当にどんな目的で始められたかが全くわからないために現在に至るまで見直しや建て直しが行えずにいるのではないかという不気味さを私は感じています。じゃあ具体的にどう立て直すかですが、まずは今遡上に上っていますが教科書のページ数の増量、土曜日授業の完全復活、暗記や詰め込みの奨励など、言ってしまえばゆとり教育以前にまずすべて戻すことから始めるべきだと思います。その上でこれまでやってきたゆとり教育との比較を行い、よかった点は残したりするのが手っ取り早い気がします。
最後にこのゆとり教育によって本当に子供たちがゆとりを得たかについてですが、私が小学六年生の頃に中学受験をして私立中学に進学しましたが、当時は三十人以上のクラスの中でわずか四人しか行わなかった中学受験が現在、都市部の学校では約半数もの子供が受験をしているそうです。たとえ学校のカリキュラムが下げられたところで入学テストのレベルは下げられるわけでもなく、結局以前に比べて明らかに塾通いをする子供の割合は増えているそうです。そのため、所得の大きい家庭は塾で学力を維持する一方、所得の低い家庭は下げられたカリキュラムの授業を甘んじて受けるより他がなく、学力の差が一段と広まっているそうです。私の恩師も、ここ数年で入ってくる学生の優劣の差が大きくなっていると述べています。
まずこのゆとり教育の結果ですが、今年の日本国内の全国調査では以前よりもマシな結果が出て学力低下も下げ止まったと言われましたが、それ以前はというと如実に日本の子供の学力低下は国際学力テスト、通称PISAにて現れています。
まず2000年度の調査では一位だった数学が03年には六位、06年には十位にまで下がりました。さらに、ゆとり教育のそもそも目的は詰め込み型教育から応用力をつけさせるのが目的で、数学能力が下がることは織り込み済みなのですが、数学力の低下と引き換えに強化を図った読解力の方でも00年度が八位だった日本の順位は03年度には十四位、06年度は十五位とこちらでも低下をし、言ってしまえば全下がりという最悪な結果となっております。
ついでに書いておくと、日本と比べて明らかに授業時間数の少ないフィンランドでは毎回どの分野でもトップクラスの順位にランクしております。
こうした結果に加え、前回にも書いた教育現場での指導者側の苦労話からゆとり教育に切り替えたことによって明らかに日本の学力は低下したといってもいいでしょう。この学力低下の原因がカリキュラムの削減によるものか、はたまた前回に書きそびれた総合学習などの取り入れによる授業時間数の減少が原因なのかまではここではいちいち分析しませんが、少なくともこのゆとり教育はもっと早く見直しを図るべきでした。既にゆとり教育が導入し始めた頃からこうした懸念が強く叫ばれた上に明確な傾向も見え始めていたにもかかわらず、日本人お得意の問題の先送りによって明らかにこの問題への議論は先延ばしにされてきています。
一応ゆとり教育に完全に移行して二年後には、それまで指導要領以外の内容を教えることを厳しく制限してたのを教科書以上の内容を教えても構わないとくくりをわずかに緩めていますが、ゆとり教育自体に初めてメスを入れたのは安倍政権でした。安倍政権によって教育再生の名の下に「教育再生会議」が集められ、恐らく安倍元首相はこの教育制度を抜本的に変えるつもりだったのでしょうがいかんせん本人が教育改革を行う前に先に倒れてしまい、教育再生会議も行き場を失って次の福田政権時に申し訳なさげに「とりあえず改革した方がいいよ」という報告書を出して解散してしまいました。なお当時のメディアはこの教育再生会議に対して散々金を使ったくせにこの程度かという報道をしていましたが、ちょっとあんな報告書では言われても仕方がないと私も思います。
ただこの再生会議をめぐる動きの中で、いくつか奇妙なやり取りが見受けられました。そのやりとりというのも、ゆとり教育に舵を切った文科省の元幹部の発言です。
もうこの人は退官しておりテレビなどでどうしてこのゆとり教育を実行して日本の学力をわざわざ低下させたのだという厳しい質問を受けるとその元幹部は、国民がゆとり教育に変えろと強くせがんだからだと言い返していました。
この元幹部の発言を官僚特有の責任逃れ体質と言い切れば簡単ですが、私自身、この元幹部の言うようにゆとり教育への移行が90年代前半に一部で強く主張されていたような気もしないでもありません。無論この移行を強く主張していたのは自民党と仲の悪い日教組などの集団ですが、少し記憶が曖昧ですが、なんかのテレビ番組で日教組の幹部とその文科省の元幹部がどちらも、「ゆとり教育への移行には反対していたが、お前らが強くやれやれ言うから」とお互いに言い合っているのを見た気がします。
こう言ってはなんですが、前述の通りに日教組と自民党は昔から仲が悪いので日教組に言われたくらいで自民党の影響力の強い文科省の人間がその要求を呑むとは俄かには信じられません。じゃあどっから、誰がこの移行を行おうとしたのか、本当に国民はゆとり教育の移行を望んでいたのかということですが、細かい過程を省いて結論を言うと私は官僚が独自に始め、独自に実行したというのが本当のところではないかと思います。一部の関係者の話を人づてに聞いた内容では、どうも文科省の役人は敢えて国民の総白痴化を狙っていたという話を私も聞いたことがあり、案外それが真実なのではないかと思います。
更に言うと、このゆとり教育の移行がどこから、そして本当にどんな目的で始められたかが全くわからないために現在に至るまで見直しや建て直しが行えずにいるのではないかという不気味さを私は感じています。じゃあ具体的にどう立て直すかですが、まずは今遡上に上っていますが教科書のページ数の増量、土曜日授業の完全復活、暗記や詰め込みの奨励など、言ってしまえばゆとり教育以前にまずすべて戻すことから始めるべきだと思います。その上でこれまでやってきたゆとり教育との比較を行い、よかった点は残したりするのが手っ取り早い気がします。
最後にこのゆとり教育によって本当に子供たちがゆとりを得たかについてですが、私が小学六年生の頃に中学受験をして私立中学に進学しましたが、当時は三十人以上のクラスの中でわずか四人しか行わなかった中学受験が現在、都市部の学校では約半数もの子供が受験をしているそうです。たとえ学校のカリキュラムが下げられたところで入学テストのレベルは下げられるわけでもなく、結局以前に比べて明らかに塾通いをする子供の割合は増えているそうです。そのため、所得の大きい家庭は塾で学力を維持する一方、所得の低い家庭は下げられたカリキュラムの授業を甘んじて受けるより他がなく、学力の差が一段と広まっているそうです。私の恩師も、ここ数年で入ってくる学生の優劣の差が大きくなっていると述べています。
2008年12月28日日曜日
失われた十年とは~その十五、ゆとり教育Ⅰ~
失われた十年の間、日本は一貫して初等教育、特に小中学校での指導内容を削減していきました。
削減の目的は毎年過熱する受験戦争によって青少年の心身の育成がうまくはかどれないということからで、それまでの詰め込み教育に変わって今回の記事の題となっているゆとり教育が90年代初頭より徐々に導入されていきました。ですが2008年現在、このゆとり教育は旧安倍政権にて槍玉に挙げられて以降、目下見直しの必要があるとの見解で官民一致している状態で、あと数年もすれば死語となるのではないかと私は考えています。
まずそれ以前の詰め込み教育についてですが、言っちゃ何ですけど結構優秀でした。当時の国際学力テストで理数系の日本の成績は常にトップクラスで、誰が言っていたかは忘れましたが、当時のアメリカの小学校に日本人の小学生が転校してくると、算数が非常に出来るので者を教わるのに重宝されたという話も聞いたことがあります。
しかしこうした知識をどんどんと詰め込んでいく教育では基礎や計算が強いものの、応用という分野では呆れるくらいに弱くなるという指摘が当時からされていました。結果論から言うと、私は日本人は応用分野は日本の国民性ゆえに弱いんじゃないかと思いますが、当時は詰め込み型教育の知識偏重が原因だとされ、また詰め込み型教育ではカリキュラムが厳しいゆえに落ちこぼれた生徒がなかなかカムバックが効かない学力格差の解消などの目的も加えられ、80年代の後半からゆとり教育へのシフトが文部科学省を中心にして行われていきました。
まずゆとり教育のそもそもの目的ですが、一言で言えば子供たちの受験戦争からの解放でした。もうこれなんか大分死語になってきたのですが、90年ごろは公然と「学歴社会」という言葉が世間を通っており、今の中国や韓国のように学歴が社会上の地位に今以上に強く影響していた時代でした。まぁ現在も学歴は強いとされながらも今じゃ「職歴」の方が強く影響する時代ですがそれはおいといて、この学歴社会ゆえに子供たちは幼少時より勉強に駆り立てられ、その挙句いじめや校内暴力(実際に70年代は率で言えば非常に高い)が横行するのだとされ、多分内心的には「もう学力では世界トップなのだから、もう少し中身を求めていこう」という勢いから始まったのだと私は推測しています。
具体的な政策目標としては、ちょっと記憶が曖昧なのですが大体こんな風なことを言っていたと思います。
1、平均学力が多少低下してでも、もっとゆとりを持って教育して応用力をつけさせるべき
2、理数系に比して当時から世界的にも遅れがちだった読解力といった文系学力の充実化
3、授業時間を削減し、親子や友人間といった人とのつながりを充実化させる
ま、大体こんなもんでしょう。こういった目標の元にまず行われたのは三番目の授業時間の削減です。これは92年に第二土曜日、95年に第四土曜日を原則休日として、02年にはすべての土曜日を休日化することで行ってきました。今の小学生たちからすると驚かれるかもしれませんが、私など子供の頃は毎週土曜日は三ないし四時間の授業が設けられていました。
たかが半日と思われるかもしれませんが冷静に計算してみると、まず一年間が約52週間あるとして夏、冬、春休みが大目に見て14週間あるとして、祝日などをこれまた大目に見てさらに2週間を差し引くと一年の間に授業が行われるのは36週間となります。この36という数字に4時間の授業数をかけると、実に144時間もの差が土曜日授業のあるかないかで生まれてくることになります。こういっちゃなんだけど、144時間も勉強したら相当いろんなことを覚えられそうです。
こうした授業数を削減する一方、授業科目についても一部の変更が行われました。まず、これは私なんかも体験していますが92年度より小学校の低学年においては社会と理科の科目を廃止し、新たに「生活」という科目が加えられました。私などはちょうどこの変更が行われる年に低学年だったため、一年生の頃にあった社会と理科が二年生から突然「生活」にまとめられ、三年生になったらまた社会と理科になったので不思議に思ったりしていました。
さらにこうしたことに加え、各科目の指導量もどんどん削減されていきました。
これは私の体験ですが、従兄弟の家に遊びに行って従兄弟の小学生の子供の教科書を見て、そのあまりの薄さに絶句してしまったことがあります。本来文章をたくさん読ませてなんぼの国語の教科書ですらまるで絵本かのような薄さで、こんなに薄いのでは子供の教育に不安があるのではと従兄弟に話したところ、その従兄弟からすると私が小学生の頃に勉強してきた教科書も従兄弟らの頃と比べたら相当薄くなっていたそうで、今に始まった話ではないと言い返されました。
実際に、私が大学受験の頃に予備校の教師に何度も、ほんの数年前と比べると私たちの世代は計算力が非常に落ちていると言われ続けました。ただその教師によると、私らはまさにゆとり教育へと移り変わっていく過渡期の世代で、私たちよりまた数年下がるともはや手のつけようがないとも言われていました。
この教師の予想は見事に当たり、現在予備校関係者はどこも基礎的な力が身についていない子供の指導方法に頭を悩ませているそうです。
書いててキリがなくなったので、続きはまた次回に。
削減の目的は毎年過熱する受験戦争によって青少年の心身の育成がうまくはかどれないということからで、それまでの詰め込み教育に変わって今回の記事の題となっているゆとり教育が90年代初頭より徐々に導入されていきました。ですが2008年現在、このゆとり教育は旧安倍政権にて槍玉に挙げられて以降、目下見直しの必要があるとの見解で官民一致している状態で、あと数年もすれば死語となるのではないかと私は考えています。
まずそれ以前の詰め込み教育についてですが、言っちゃ何ですけど結構優秀でした。当時の国際学力テストで理数系の日本の成績は常にトップクラスで、誰が言っていたかは忘れましたが、当時のアメリカの小学校に日本人の小学生が転校してくると、算数が非常に出来るので者を教わるのに重宝されたという話も聞いたことがあります。
しかしこうした知識をどんどんと詰め込んでいく教育では基礎や計算が強いものの、応用という分野では呆れるくらいに弱くなるという指摘が当時からされていました。結果論から言うと、私は日本人は応用分野は日本の国民性ゆえに弱いんじゃないかと思いますが、当時は詰め込み型教育の知識偏重が原因だとされ、また詰め込み型教育ではカリキュラムが厳しいゆえに落ちこぼれた生徒がなかなかカムバックが効かない学力格差の解消などの目的も加えられ、80年代の後半からゆとり教育へのシフトが文部科学省を中心にして行われていきました。
まずゆとり教育のそもそもの目的ですが、一言で言えば子供たちの受験戦争からの解放でした。もうこれなんか大分死語になってきたのですが、90年ごろは公然と「学歴社会」という言葉が世間を通っており、今の中国や韓国のように学歴が社会上の地位に今以上に強く影響していた時代でした。まぁ現在も学歴は強いとされながらも今じゃ「職歴」の方が強く影響する時代ですがそれはおいといて、この学歴社会ゆえに子供たちは幼少時より勉強に駆り立てられ、その挙句いじめや校内暴力(実際に70年代は率で言えば非常に高い)が横行するのだとされ、多分内心的には「もう学力では世界トップなのだから、もう少し中身を求めていこう」という勢いから始まったのだと私は推測しています。
具体的な政策目標としては、ちょっと記憶が曖昧なのですが大体こんな風なことを言っていたと思います。
1、平均学力が多少低下してでも、もっとゆとりを持って教育して応用力をつけさせるべき
2、理数系に比して当時から世界的にも遅れがちだった読解力といった文系学力の充実化
3、授業時間を削減し、親子や友人間といった人とのつながりを充実化させる
ま、大体こんなもんでしょう。こういった目標の元にまず行われたのは三番目の授業時間の削減です。これは92年に第二土曜日、95年に第四土曜日を原則休日として、02年にはすべての土曜日を休日化することで行ってきました。今の小学生たちからすると驚かれるかもしれませんが、私など子供の頃は毎週土曜日は三ないし四時間の授業が設けられていました。
たかが半日と思われるかもしれませんが冷静に計算してみると、まず一年間が約52週間あるとして夏、冬、春休みが大目に見て14週間あるとして、祝日などをこれまた大目に見てさらに2週間を差し引くと一年の間に授業が行われるのは36週間となります。この36という数字に4時間の授業数をかけると、実に144時間もの差が土曜日授業のあるかないかで生まれてくることになります。こういっちゃなんだけど、144時間も勉強したら相当いろんなことを覚えられそうです。
こうした授業数を削減する一方、授業科目についても一部の変更が行われました。まず、これは私なんかも体験していますが92年度より小学校の低学年においては社会と理科の科目を廃止し、新たに「生活」という科目が加えられました。私などはちょうどこの変更が行われる年に低学年だったため、一年生の頃にあった社会と理科が二年生から突然「生活」にまとめられ、三年生になったらまた社会と理科になったので不思議に思ったりしていました。
さらにこうしたことに加え、各科目の指導量もどんどん削減されていきました。
これは私の体験ですが、従兄弟の家に遊びに行って従兄弟の小学生の子供の教科書を見て、そのあまりの薄さに絶句してしまったことがあります。本来文章をたくさん読ませてなんぼの国語の教科書ですらまるで絵本かのような薄さで、こんなに薄いのでは子供の教育に不安があるのではと従兄弟に話したところ、その従兄弟からすると私が小学生の頃に勉強してきた教科書も従兄弟らの頃と比べたら相当薄くなっていたそうで、今に始まった話ではないと言い返されました。
実際に、私が大学受験の頃に予備校の教師に何度も、ほんの数年前と比べると私たちの世代は計算力が非常に落ちていると言われ続けました。ただその教師によると、私らはまさにゆとり教育へと移り変わっていく過渡期の世代で、私たちよりまた数年下がるともはや手のつけようがないとも言われていました。
この教師の予想は見事に当たり、現在予備校関係者はどこも基礎的な力が身についていない子供の指導方法に頭を悩ませているそうです。
書いててキリがなくなったので、続きはまた次回に。
2008年12月25日木曜日
失われた十年とは~その十四、フェミニズム~
さていよいよ中盤の山場というか、書いてて敵ばかり作りそうなフェミニズムの項目です。結論から言うと、私は失われた十年に当たる90年代こそ日本で最もフェミニズムが強く、また暴走した時代だったと考えています。
まずこのフェミニズムですが、スタート的にはやはり女性の権利獲得運動から始まりました。今でも活躍なされている田島陽子氏もこの時期からテレビに出るようになり、90年代初頭は男女同権運動の元で女性の権利、地位向上の名目でフェミニズムの正当性が強く叫ばれ、私自身も小学校時代にその辺を強く言い含められた記憶があります。
誤解しないでほしい点として、私は当時の女性の権利運動は意義深かったと考えています。というのも確か90年ごろですがヨーロッパでテレビコマーシャルの品評会があり、どっかの国が作った明らかに日本人と思しき飛行機の乗客がスチュワーデスにセクハラをする映像のコマーシャルが大賞を取り、日本のどっかの団体がこれに抗議したところ他国から、「いや、実際によくあることじゃないか」と一蹴されたようです。この例のように、当時はよく文物でも描写が書かれていたようにセクハラが日常的に行われていたと私は考えています。そしてもしそうだとしたら、少なくとも私の目の前で現在セクハラが行われなくなっただけ当時の女性運動は実を結んだといっていいでしょう。
またこれは私の高校時代の女性教師の話ですが、その先生は生徒時代に勉強もよく出来て本人としては京都大学に進学したかったものの、先生の両親が女性は勉強するべきではないという観念の元に結局御茶ノ水女子大に進学させられたという話をしたことがあり、当時と比べて現在では女性でも好きな職業に就けるのだからもっと女子生徒は挑戦をしてほしいという話をしたことがありました。実際に一昔前の女性は職業選択の面で大幅に制限を受けており、現在でも女性は一般的に男性と比べて就職に不利だとは言われておりますが、それでも当時に比べれば随分と前進をしたと言えるでしょう。
それが何故、最初に私が表現したように暴走するようになったのでしょうか。
一つは前回の言葉狩りの記事で書いたように、途中からわけのわからず観念的なものに対して言いがかりのような平等の押し付けが行われるようになったからです。この平等の押し付けですが、一番大きく問題となったのは表現上の問題で、作家の筒井康隆などは自身の小説が癲癇患者の差別に当たると言いがかりをつけられ一時断筆宣言を行っております。
このように一部の障害者、被差別団体が中心になり文物に対して表現規制を訴えてきました。また出版社の側もこのような社会的批判を恐れ、自主規制の名の元で様々な表現に対して封印を行うという事例も数多く報告されています。
ここでちょっと注意してもらいたいのは、先ほど一部の障害者、被差別団体と私は表現しましたが、私の見方だとこれらの団体の多くは真っ当に活動を行っていると思いますが、やはり中には自分たちが差別の被害者であることを錦の御旗のようにして不当な要求を行ってきた団体も少なくありません。一例を上げると数年前に発覚した奈良市の被差別団体に属していた市職員が不当な要求を何度もし側に対して行っていた事件があり、非常に悲しいものですがこういった事例は何も奈良市に限らず、全国あちこちで多かれ少なかれ行われているという話を私も聞きます。
一見すると明らかに不当かつ横暴な要求が何故このように通ったりしたのか、一言で言えば前にも少し書きましたが当時の日本には被害者であれば何をしても許されるというある種ずれた観念が強く渦巻いていたことが原因でしょう。こうした空気が何故醸成されたかですが、厳しい意見、もとい安直な結論かもしれませんがやはり当時のマスコミが何でもかんでも弱者(とされるもの)を祭り上げて不当な要求であろうと被害者側をなんでもかんでも強く応援する姿勢があったことに尽きます。恐らく見ている視聴者の側も内心では、「こりゃこっちの方が悪いんとちゃう」とか思うような報道もあったと思いますが、マスメディアを持つマスコミがある程度情報を押さえつけていた時代であったのでそういった声はあまり出てこなかったのでしょう。
最初に挙げた女性運動も、90年代の後半に至る頃には当時の私からしても首をかしげるようなおかしな要求を掲げる団体が現れるようになりました。いくつか挙げるとしたら、社会で女性は虐げられているのだから公共施設の使用料を女性には安くしろ無料にしろだとか、母子家庭は大変なのだから現状以上に自治体からの財政補助を増やせなどという要求が公になされているのを私は見ています。後者の要求に至っては、現在も母子家庭には補助がありますが父子家庭にはないという問題があり、明らかに的を外した意見だと考えています。
何故フェミニズム運動がこのように暴走していったのか根本的な原因を言うとすれば、それはやはり被差別、不平等の是正すべきだという空気を一部の邪な団体が利用し始めたに尽きます。そして社会の側、といってもこれはマスコミとかそういった団体を応援していた左翼政党だけだったかもしれませんが、それらの要求が真に正当性があるのかを考えずに応援し続けたのが更に助長させていったのだと思います。いうなれば、「被害者は何をしても許される」という何度も私が使っているこの観念がこうした物を作ってしまい、自分が被害者を装うことで好き勝手するのフェミニズムが格好の化けの皮と認識されたがゆえに、本来の目的から外れた不当な要求を行う手段となってしまったのでしょう。
さてここまで言えば察しのいい人ならわかるように、個人が直接情報を発信できるインターネットの登場によってこの流れはせき止められました。前述したようにやっぱり私のように見ていておかしいと思っていた人間は潜在的に多かったのか、今ではネット上で「フェミニズム」という言葉が出てくると中には激しい批判が集まるサイトも数多く、またこれに「左翼」という言葉がついたりすれば大抵は荒れに荒れます。そして実社会上でもフェミニズムへの関心は非常に薄れ、私が見ているところ元々のフェミニズム団体も名前を「ジェンダーフリー」に鞍替えしてこうした批判を避けようとしているように見えます。くれぐれもいいますが、真っ当な団体は真っ当な活動を至極真面目に行っていると私は考えています。
また同様に、ってかこの辺は前にも書いた私の「ネット右翼」の論文で詳しく分析されているのですが、マスコミの側でもこうした動きに対応してこのような話題を近年はほとんど取り上げなくなった気がしますし、先ほどの奈良市の市職員の事件など、逆に公然と批判や取材をするところも増えてきています。結論としてはやはり、間違ったことをすればいずれ返ってくるといった所でしょうか。
まずこのフェミニズムですが、スタート的にはやはり女性の権利獲得運動から始まりました。今でも活躍なされている田島陽子氏もこの時期からテレビに出るようになり、90年代初頭は男女同権運動の元で女性の権利、地位向上の名目でフェミニズムの正当性が強く叫ばれ、私自身も小学校時代にその辺を強く言い含められた記憶があります。
誤解しないでほしい点として、私は当時の女性の権利運動は意義深かったと考えています。というのも確か90年ごろですがヨーロッパでテレビコマーシャルの品評会があり、どっかの国が作った明らかに日本人と思しき飛行機の乗客がスチュワーデスにセクハラをする映像のコマーシャルが大賞を取り、日本のどっかの団体がこれに抗議したところ他国から、「いや、実際によくあることじゃないか」と一蹴されたようです。この例のように、当時はよく文物でも描写が書かれていたようにセクハラが日常的に行われていたと私は考えています。そしてもしそうだとしたら、少なくとも私の目の前で現在セクハラが行われなくなっただけ当時の女性運動は実を結んだといっていいでしょう。
またこれは私の高校時代の女性教師の話ですが、その先生は生徒時代に勉強もよく出来て本人としては京都大学に進学したかったものの、先生の両親が女性は勉強するべきではないという観念の元に結局御茶ノ水女子大に進学させられたという話をしたことがあり、当時と比べて現在では女性でも好きな職業に就けるのだからもっと女子生徒は挑戦をしてほしいという話をしたことがありました。実際に一昔前の女性は職業選択の面で大幅に制限を受けており、現在でも女性は一般的に男性と比べて就職に不利だとは言われておりますが、それでも当時に比べれば随分と前進をしたと言えるでしょう。
それが何故、最初に私が表現したように暴走するようになったのでしょうか。
一つは前回の言葉狩りの記事で書いたように、途中からわけのわからず観念的なものに対して言いがかりのような平等の押し付けが行われるようになったからです。この平等の押し付けですが、一番大きく問題となったのは表現上の問題で、作家の筒井康隆などは自身の小説が癲癇患者の差別に当たると言いがかりをつけられ一時断筆宣言を行っております。
このように一部の障害者、被差別団体が中心になり文物に対して表現規制を訴えてきました。また出版社の側もこのような社会的批判を恐れ、自主規制の名の元で様々な表現に対して封印を行うという事例も数多く報告されています。
ここでちょっと注意してもらいたいのは、先ほど一部の障害者、被差別団体と私は表現しましたが、私の見方だとこれらの団体の多くは真っ当に活動を行っていると思いますが、やはり中には自分たちが差別の被害者であることを錦の御旗のようにして不当な要求を行ってきた団体も少なくありません。一例を上げると数年前に発覚した奈良市の被差別団体に属していた市職員が不当な要求を何度もし側に対して行っていた事件があり、非常に悲しいものですがこういった事例は何も奈良市に限らず、全国あちこちで多かれ少なかれ行われているという話を私も聞きます。
一見すると明らかに不当かつ横暴な要求が何故このように通ったりしたのか、一言で言えば前にも少し書きましたが当時の日本には被害者であれば何をしても許されるというある種ずれた観念が強く渦巻いていたことが原因でしょう。こうした空気が何故醸成されたかですが、厳しい意見、もとい安直な結論かもしれませんがやはり当時のマスコミが何でもかんでも弱者(とされるもの)を祭り上げて不当な要求であろうと被害者側をなんでもかんでも強く応援する姿勢があったことに尽きます。恐らく見ている視聴者の側も内心では、「こりゃこっちの方が悪いんとちゃう」とか思うような報道もあったと思いますが、マスメディアを持つマスコミがある程度情報を押さえつけていた時代であったのでそういった声はあまり出てこなかったのでしょう。
最初に挙げた女性運動も、90年代の後半に至る頃には当時の私からしても首をかしげるようなおかしな要求を掲げる団体が現れるようになりました。いくつか挙げるとしたら、社会で女性は虐げられているのだから公共施設の使用料を女性には安くしろ無料にしろだとか、母子家庭は大変なのだから現状以上に自治体からの財政補助を増やせなどという要求が公になされているのを私は見ています。後者の要求に至っては、現在も母子家庭には補助がありますが父子家庭にはないという問題があり、明らかに的を外した意見だと考えています。
何故フェミニズム運動がこのように暴走していったのか根本的な原因を言うとすれば、それはやはり被差別、不平等の是正すべきだという空気を一部の邪な団体が利用し始めたに尽きます。そして社会の側、といってもこれはマスコミとかそういった団体を応援していた左翼政党だけだったかもしれませんが、それらの要求が真に正当性があるのかを考えずに応援し続けたのが更に助長させていったのだと思います。いうなれば、「被害者は何をしても許される」という何度も私が使っているこの観念がこうした物を作ってしまい、自分が被害者を装うことで好き勝手するのフェミニズムが格好の化けの皮と認識されたがゆえに、本来の目的から外れた不当な要求を行う手段となってしまったのでしょう。
さてここまで言えば察しのいい人ならわかるように、個人が直接情報を発信できるインターネットの登場によってこの流れはせき止められました。前述したようにやっぱり私のように見ていておかしいと思っていた人間は潜在的に多かったのか、今ではネット上で「フェミニズム」という言葉が出てくると中には激しい批判が集まるサイトも数多く、またこれに「左翼」という言葉がついたりすれば大抵は荒れに荒れます。そして実社会上でもフェミニズムへの関心は非常に薄れ、私が見ているところ元々のフェミニズム団体も名前を「ジェンダーフリー」に鞍替えしてこうした批判を避けようとしているように見えます。くれぐれもいいますが、真っ当な団体は真っ当な活動を至極真面目に行っていると私は考えています。
また同様に、ってかこの辺は前にも書いた私の「ネット右翼」の論文で詳しく分析されているのですが、マスコミの側でもこうした動きに対応してこのような話題を近年はほとんど取り上げなくなった気がしますし、先ほどの奈良市の市職員の事件など、逆に公然と批判や取材をするところも増えてきています。結論としてはやはり、間違ったことをすればいずれ返ってくるといった所でしょうか。
2008年12月14日日曜日
失われた十年とは~その十三、言葉狩り~
まず最初に、私のある体験からお話します。
これは私が小学校一、二年生の頃の話ですが、ある日先生が、「馬鹿を馬鹿といってはいけません」と言い出しました。なんかこう文章にすると一休さんのとんち話のようにも見えますが、当時の私はというとこれを結構真に受けたりし、友達同士で悪口の言い合いになると、
「馬鹿って言う人が馬鹿なんですぅ」
「馬鹿を馬鹿と言っちゃいけないんだぞ」
などとお互いに言い合ったりしてました。
これはちょっと解説をすると、当時に流行った言葉狩りの一端だったと今では思います。
当時、馬鹿という言葉が知能障害者への差別に当たるとして、当時の文部省だかが通達を出したのか、ほぼ全国的にこのようなわけのわからない、まるで言葉遊びのような妙な教育というか言葉狩りが行われていました。なおうちの親父の世代だと、親父が関西地方出身だからかもしれませんが「四つ」というのがタブーワードとして使うなと言われていたそうです。
さてこうした言葉狩りが使われた背景には、この失われた十年におけるフェミニズムの勃興があると私は考えています。ふと気がついてみるとこのフェミニズムという言葉自体、現代ではあまり聞かなくなった(どうも「左翼」という言葉に含められている気がする)のですが、失われた十年にはこのフェミニズムを冠する、掲げる集団が非常に大きな力を持っていました。
このフェミニズムが私の記憶する限り初めて社会に大きな影響を与えた言葉狩り事件というと、「ちび黒サンボ事件」だと思います。この事件は少年サンボが知恵を使ってトラを退治する「ちび黒サンボ」という童話に対しある団体が、「ちび黒」という表現は黒人への侮蔑に当たると批判し、なんとその批判を受けて1988年にはこの本自体が絶版してしまった事件です。
そもそもこの童話はインドの話で、少年サンボをアフリカ系黒人と勘違いしている時点からかなり駄目駄目な問題なのですが、当時はこのように何かの表現が誰かへの侮蔑に当たると言われると複数の団体がものすごい批判が集まり、批判を受ける側としても要求を飲むケースが非常に多く、この「ちび黒サンボ」も「ちび黒さんぽ」という、サンボのかわりにさんぽという犬(しかも色は白)の話に取り替えられ再出版するという、まるでギャグのような結末になってしまいました。どうせなら「ちび黒コマンドサンボ」にすりゃいいのに。
こうした例を筆頭に、この時期に数多くの日本語表現がまるで魔女狩りのように槍玉に挙げられては無理やり変えられていきました。特にこのフェミニズムと言うだけあって、女性が関係する言葉は片っ端から変更が加えられ、代表的なものだと「スチュワーデス」が「キャビンアテンダント」、「看護婦」が「看護士」といったように変更され、その他数多くの言葉も現在までに定着こそしなかったものの、代替語が一時は用意されていきました。
最も、最近だとこういうような「侮蔑に当たる」として表現差し止めを要求する行為が行われればネット上で激しい逆批判が起こり、またメディア側もこの時期みたいにそういった要求を行う団体に肩入れした報道を行わなくなったので、現在だとめっきりこのような事件は目にしなくなりました。
私が記憶する中でも2005年末に、当時人気絶頂だったレイザーラモンHGをもじり、テレビ番組の企画で「黒ひげ、危機一髪」ならぬ「黒ひゲイ、危機一髪」という名前の玩具をおもちゃメーカーが発売したところ、
「同性愛者をナイフで刺して遊ぶ、差別感情を増長させる玩具だ」
として、ある人権団体が抗議したのを最後に確認して以来は全く見なくなりました。それにしても、同性愛者の偏見といったらレイザーラモンHGの存在の方がよっぽど妙な誤解を生むような気がするのですが。
では一体何故このようにフェミニズムが失われた十年に台頭したかですが、これは完全に私の推論ですが、高度経済成長を終えて男女差別論が欧米から輸入されてきたのを受けての現象だったと見ています。そのため必然的にこの言葉狩りは女性論とも密接に結びつき、本流のジェンダー論ともいろいろない交ぜになってわけのわからない事態を生んでしまったのだと思います。
この辺は次回の、フェミニズムについての解説にて詳しく行います。
これは私が小学校一、二年生の頃の話ですが、ある日先生が、「馬鹿を馬鹿といってはいけません」と言い出しました。なんかこう文章にすると一休さんのとんち話のようにも見えますが、当時の私はというとこれを結構真に受けたりし、友達同士で悪口の言い合いになると、
「馬鹿って言う人が馬鹿なんですぅ」
「馬鹿を馬鹿と言っちゃいけないんだぞ」
などとお互いに言い合ったりしてました。
これはちょっと解説をすると、当時に流行った言葉狩りの一端だったと今では思います。
当時、馬鹿という言葉が知能障害者への差別に当たるとして、当時の文部省だかが通達を出したのか、ほぼ全国的にこのようなわけのわからない、まるで言葉遊びのような妙な教育というか言葉狩りが行われていました。なおうちの親父の世代だと、親父が関西地方出身だからかもしれませんが「四つ」というのがタブーワードとして使うなと言われていたそうです。
さてこうした言葉狩りが使われた背景には、この失われた十年におけるフェミニズムの勃興があると私は考えています。ふと気がついてみるとこのフェミニズムという言葉自体、現代ではあまり聞かなくなった(どうも「左翼」という言葉に含められている気がする)のですが、失われた十年にはこのフェミニズムを冠する、掲げる集団が非常に大きな力を持っていました。
このフェミニズムが私の記憶する限り初めて社会に大きな影響を与えた言葉狩り事件というと、「ちび黒サンボ事件」だと思います。この事件は少年サンボが知恵を使ってトラを退治する「ちび黒サンボ」という童話に対しある団体が、「ちび黒」という表現は黒人への侮蔑に当たると批判し、なんとその批判を受けて1988年にはこの本自体が絶版してしまった事件です。
そもそもこの童話はインドの話で、少年サンボをアフリカ系黒人と勘違いしている時点からかなり駄目駄目な問題なのですが、当時はこのように何かの表現が誰かへの侮蔑に当たると言われると複数の団体がものすごい批判が集まり、批判を受ける側としても要求を飲むケースが非常に多く、この「ちび黒サンボ」も「ちび黒さんぽ」という、サンボのかわりにさんぽという犬(しかも色は白)の話に取り替えられ再出版するという、まるでギャグのような結末になってしまいました。どうせなら「ちび黒コマンドサンボ」にすりゃいいのに。
こうした例を筆頭に、この時期に数多くの日本語表現がまるで魔女狩りのように槍玉に挙げられては無理やり変えられていきました。特にこのフェミニズムと言うだけあって、女性が関係する言葉は片っ端から変更が加えられ、代表的なものだと「スチュワーデス」が「キャビンアテンダント」、「看護婦」が「看護士」といったように変更され、その他数多くの言葉も現在までに定着こそしなかったものの、代替語が一時は用意されていきました。
最も、最近だとこういうような「侮蔑に当たる」として表現差し止めを要求する行為が行われればネット上で激しい逆批判が起こり、またメディア側もこの時期みたいにそういった要求を行う団体に肩入れした報道を行わなくなったので、現在だとめっきりこのような事件は目にしなくなりました。
私が記憶する中でも2005年末に、当時人気絶頂だったレイザーラモンHGをもじり、テレビ番組の企画で「黒ひげ、危機一髪」ならぬ「黒ひゲイ、危機一髪」という名前の玩具をおもちゃメーカーが発売したところ、
「同性愛者をナイフで刺して遊ぶ、差別感情を増長させる玩具だ」
として、ある人権団体が抗議したのを最後に確認して以来は全く見なくなりました。それにしても、同性愛者の偏見といったらレイザーラモンHGの存在の方がよっぽど妙な誤解を生むような気がするのですが。
では一体何故このようにフェミニズムが失われた十年に台頭したかですが、これは完全に私の推論ですが、高度経済成長を終えて男女差別論が欧米から輸入されてきたのを受けての現象だったと見ています。そのため必然的にこの言葉狩りは女性論とも密接に結びつき、本流のジェンダー論ともいろいろない交ぜになってわけのわからない事態を生んでしまったのだと思います。
この辺は次回の、フェミニズムについての解説にて詳しく行います。
失われた十年とは コラム一、中内功
昨日友人と会ったら、ダイエー創業者の中内功氏と満州帝国について今調べていると言っていたので、ちょうどこの失われた十年の草稿でコラムを書いていたので、大分連載がのびのびになっているのあるのでここで一気に放出します。
このコラム自体は二年前に執筆したもので、他の草稿については参考にすることはあっても、草稿の文体が常体であるため書き直しであるのだが、敢えてこのコラムについてはそのままカット&ペーストにして紹介してみようと思います。一部見苦しい表現がありますが、気にせずに読んでください。
今となっては産業再生機構からイオンに売却される(提携と言ってあげるべきか)ダイエーだが、かつては小売業界一の売上を誇り、かつて日本の小売形態をすべてひっくり返した企業であった。その先導役となったのが、創業者の中内功である。
彼の企業形態の基本は安売りである。ほかよりも安く、ほかよりも多くという薄利多売方式でこれが高度経済成長時代にはぴったりと当てはまった。また土地本位制ともいう、駅前に店舗を構え、周辺地域の開発が進む事によって跳ね上がる地価を担保に金を借り、また新たな店舗を拡大するという形態で、このやり方によって全国制覇も成し遂げた。しかしこれはほとんどの解説でも触れられているが、消費者の嗜好が量より質へと変化していく事に対応できず、いわゆる「ダイエーには何でもあるが、欲しいものはない」という言葉にまとめられる客層へのニーズ対応の鈍さが最終的に彼の命取りになった。また土地本位制においても、恒久的に地価が上がるなどとというありえない前提の上で行わってきたため、何度も本解説において出てくる不良債権となるのは目に見えていた。
こうした経緯もあり、中内功は80年頃に一時経営を引き下がる事になった。彼が引いた後、かわりに社長になった平山敞によってダイエーは見事なV字回復を遂げ、「失われた十年」の直前のバブル期においてもダイエーは小売業界の王様であった。当時の私は幼稚園くらいだったが、私もこの時期に買い物とくれば親に近くのダイエーによく連れて来られ、それこそ土曜日ともなると家族全員でダイエーに行き、コージーコーナーでアイスを食べ、私と姉がおもちゃ売り場をうろちょろしている間に両親は買い物というパターンまで出来上がってたくらいである。
ここで終わっていれば中内功もそれなりの評価で終わったかもしれない。しかし残念というべきか、彼は自分の息子に社長を継がせようと考え、その後再び自ら社長に就任。そして前社長の取り巻きを追い払い、自らの周りをイエスマンで固めてしまった。その結果、「失われた十年」の間にダイエーは再び失墜する事になる。またこれは後述するが、95年には阪神大震災も起こり、関西拠点のダイエーは大きな痛手を受ける事になった。
こうして2001年、中内功は全面的にダイエーから退任する事となった。しかしウィキペディアの項目上でも「時既に遅し」と書かれているように、傾いたダイエーは再び栄光を取り戻すことなく、後に国家機関の産業再生機構の管理課に入ることになる。余談だが、この産業再生機構自体がダイエーの借金を抱えると国家財政が傾くという危機感から2003年に生まれた機関であり、ある意味本願成就した形となった。
なおこの産業再生機構入りする際も一悶着あり、再生機構はホークス球団の売却を迫ったのだが、当時もオーナーは続けていた中内功は球団保持を最後の最後まで拘泥し、当時はそれほど野球に興味が少なかった私ですらこれには幻滅した。結局、ソフトバンクが買収する事になったのだが、こうしたこだわりが晩節を汚したとしかいいようがない。
そうした球団の売却が行われた翌年の2005年9月、中内功は自宅で死亡する。かつての栄光むなしく、私の目からするとその死の報道は非常に小さな扱いであった気がする。もっとも、この時私は中国に留学中で、北京でNHKしか見ていないからそう思うだけなのかもしれないが、その際に感じた無常観を愚作ながら俳句にしたためて手帳に残してある。
秋風(しゅうふう) 見果てぬ先の 大栄華
その一つ前の日には「中国人はポルノが少ないから過熱しやすいんだと思う」と手帳に書いてある。全然脈絡がないな。
私自身の評価として、やはり後年に経営感覚が時代の変化に合わせられなかった事に尽きる。彼自身、「最近、客が何を欲しがるのかがわからなくなった」と洩らしており自覚していたようではあるが、それならばなおの事引き際をわきまえるべきだった。それにしても、どうにも彼の生涯を見るにつけて筑前守を重ねずにはいられない。
といったところでしょうか。この中内氏に限らず草稿では藤田田氏についても書いており、これなんか私の自慢の愛弟子と話題になるたびに盛り上がる人物なので、こちらもタイミングを狙ってまた紹介します。
このコラム自体は二年前に執筆したもので、他の草稿については参考にすることはあっても、草稿の文体が常体であるため書き直しであるのだが、敢えてこのコラムについてはそのままカット&ペーストにして紹介してみようと思います。一部見苦しい表現がありますが、気にせずに読んでください。
今となっては産業再生機構からイオンに売却される(提携と言ってあげるべきか)ダイエーだが、かつては小売業界一の売上を誇り、かつて日本の小売形態をすべてひっくり返した企業であった。その先導役となったのが、創業者の中内功である。
彼の企業形態の基本は安売りである。ほかよりも安く、ほかよりも多くという薄利多売方式でこれが高度経済成長時代にはぴったりと当てはまった。また土地本位制ともいう、駅前に店舗を構え、周辺地域の開発が進む事によって跳ね上がる地価を担保に金を借り、また新たな店舗を拡大するという形態で、このやり方によって全国制覇も成し遂げた。しかしこれはほとんどの解説でも触れられているが、消費者の嗜好が量より質へと変化していく事に対応できず、いわゆる「ダイエーには何でもあるが、欲しいものはない」という言葉にまとめられる客層へのニーズ対応の鈍さが最終的に彼の命取りになった。また土地本位制においても、恒久的に地価が上がるなどとというありえない前提の上で行わってきたため、何度も本解説において出てくる不良債権となるのは目に見えていた。
こうした経緯もあり、中内功は80年頃に一時経営を引き下がる事になった。彼が引いた後、かわりに社長になった平山敞によってダイエーは見事なV字回復を遂げ、「失われた十年」の直前のバブル期においてもダイエーは小売業界の王様であった。当時の私は幼稚園くらいだったが、私もこの時期に買い物とくれば親に近くのダイエーによく連れて来られ、それこそ土曜日ともなると家族全員でダイエーに行き、コージーコーナーでアイスを食べ、私と姉がおもちゃ売り場をうろちょろしている間に両親は買い物というパターンまで出来上がってたくらいである。
ここで終わっていれば中内功もそれなりの評価で終わったかもしれない。しかし残念というべきか、彼は自分の息子に社長を継がせようと考え、その後再び自ら社長に就任。そして前社長の取り巻きを追い払い、自らの周りをイエスマンで固めてしまった。その結果、「失われた十年」の間にダイエーは再び失墜する事になる。またこれは後述するが、95年には阪神大震災も起こり、関西拠点のダイエーは大きな痛手を受ける事になった。
こうして2001年、中内功は全面的にダイエーから退任する事となった。しかしウィキペディアの項目上でも「時既に遅し」と書かれているように、傾いたダイエーは再び栄光を取り戻すことなく、後に国家機関の産業再生機構の管理課に入ることになる。余談だが、この産業再生機構自体がダイエーの借金を抱えると国家財政が傾くという危機感から2003年に生まれた機関であり、ある意味本願成就した形となった。
なおこの産業再生機構入りする際も一悶着あり、再生機構はホークス球団の売却を迫ったのだが、当時もオーナーは続けていた中内功は球団保持を最後の最後まで拘泥し、当時はそれほど野球に興味が少なかった私ですらこれには幻滅した。結局、ソフトバンクが買収する事になったのだが、こうしたこだわりが晩節を汚したとしかいいようがない。
そうした球団の売却が行われた翌年の2005年9月、中内功は自宅で死亡する。かつての栄光むなしく、私の目からするとその死の報道は非常に小さな扱いであった気がする。もっとも、この時私は中国に留学中で、北京でNHKしか見ていないからそう思うだけなのかもしれないが、その際に感じた無常観を愚作ながら俳句にしたためて手帳に残してある。
秋風(しゅうふう) 見果てぬ先の 大栄華
その一つ前の日には「中国人はポルノが少ないから過熱しやすいんだと思う」と手帳に書いてある。全然脈絡がないな。
私自身の評価として、やはり後年に経営感覚が時代の変化に合わせられなかった事に尽きる。彼自身、「最近、客が何を欲しがるのかがわからなくなった」と洩らしており自覚していたようではあるが、それならばなおの事引き際をわきまえるべきだった。それにしても、どうにも彼の生涯を見るにつけて筑前守を重ねずにはいられない。
といったところでしょうか。この中内氏に限らず草稿では藤田田氏についても書いており、これなんか私の自慢の愛弟子と話題になるたびに盛り上がる人物なので、こちらもタイミングを狙ってまた紹介します。
2008年11月26日水曜日
失われた十年とは~その十二、左翼の失墜~
ちょっと連載のペースが落ちてきているので、気合入れなおして書いて行きます。
さてこの失われた十年の間の最も大きな政治変動といったら、恐らく誰もが宮沢内閣時の自民党の野党転落による55年体制の崩壊だと挙げる方が多いでしょうが、確かに一発の事件で見るならこちらに分があるでしょうが、この時代全体を通してみるのなら私はやはり今日のお題になっている左翼政党の失墜こそ、この時代の最大の政治変動だと考えています。
現在の日本で左翼政党と来たら日本共産党と社会民主党の二党が代表的ですが、現在この両党は選挙のたびに議員数を減らしていき、特に社民党はかつて社会党であった頃は自民党と文字通り二大政党体制を築くまでの議員数を誇っていたことを考えるとその凋落振りは激しく、最近の選挙では毎回「党の存亡がかかっている」とまで評論家に揶揄される始末です。
しかしその社民党はその前身の社会党時代、失われた十年の初期においては現在とは逆に、それまでにないほどの隆盛を誇っていました。その一時の隆盛の原動力となったのは今はもう引退した土井たか子氏で、土井氏がいろんな意味で引っ張っていた頃の89年の選挙ではマドンナ旋風とまで言われるほど現在の党首の福島瑞穂議員をはじめとする女性議員が数多く当選し、議会内でも社会党の発言力が大きく向上していました。折も折で自民党が数々の汚職に加えてバブル崩壊を招いたことによって国民の信頼が大きく揺らいだこともあり、小沢一郎現民主党代表による政界再編が行われた結果、社会党は政局を動かすキーパーソンたる位置についていました。
そのため、小沢氏の仕掛けた細川内閣が崩壊した94年に至ってなんとしても与党に返り咲こうとするかつての仇敵である自民党から連立打診を受け、ついに社会党は戦後からの悲願であった与党に入ることが出来、首相も当時の党首である村山富一氏が就任したのですが、結果論から言うとこれは社民党にとって凋落の原因をになってしまいました。
社会党は戦後に発足した当時からその党是として「平和、福祉、護憲」を掲げており、自衛隊などの国家が持つ武力を違憲であると激しく非難し否定し続けてきた歴史がありました。そんな政党が与党になり政策も実際に動かす段階に至ったのでこの自衛隊の扱いについても当然注目が集まったのですが、当時の村山元首相は就任と共に、
「自衛隊は違憲ではあるが、その存在は認める」
と、発言しちゃったものですから、それまで護憲ということで社民党を応援してきた人間も結局は口先だけだったのかと呆れて支持が離れ、さらに村山内閣時には阪神大震災が起こり、被災地を救援するために自衛隊の出動が各所で求められたにもかかわらずそれまでの立場から村山元首相は渋り、そのため自衛隊の出動が遅れて被害が拡大したと非難されてここでも失点を出してしまいました。
ちなみにこれは私の見解ですが、この自衛隊出動の遅延についてはやはり関東よりも実際に被害に遭われた関西の人の方が根強く覚えているような気がします。それと村山元首相が自衛隊出動を渋って遅れたとよく言われますが、当時の側近の方らが言うにはかつてないほどの都市中心部での前例のない大災害ということで、自衛隊を派遣するにしてもどのように、どんな方法で出動、活動させればよいかわからずに混乱したために出動が遅れたというだけで、決して渋ったわけではないと話しています。この意見について私は当初、しょせんはいいわけだろうと見ていたのですが、この前に中国に起きた四川大地震とその際の人民解放軍の救援活動の難航振りや指揮系統の乱れを見ていると、あながち嘘ではないのかもしれないと考え始め、現在この件で私は村山元首相を弁護する立場におります。
まぁそんな具合で、万年野党だったのが突然政策を作る立場になって見たらてんで何も出来なかった、というのがまさにこの村山内閣でした。連立という他の連立政党にも気を配らなければいけない政権だったとはいえ、私から見ても当時の村山内閣は政策実行がほとんど図られていなかったと思います。なお、今度もし民主党が政権をとったら同じようになるのかもしれませんし、評論家の方などはそうなるとはっきりと断言している人もいます。
その後社民党と名前を変えて連立からも離脱したものの、やはりこの時の政策手腕を見て支持者たちもやはり政権を任せられないと思ったのか、社民党はその後ずるずると議席数を減らしていきました。またこの頃から(前からもだけど)政策を批判することだけに固執し始め実際に実現可能かどうか非常に疑問なことばかりを政党の主張としてあげる傾向が目立ち、私が覚えているのは「企業のリストラ、原則禁止」といったことを選挙の公約に掲げたりもしていましたが、「リストラせずに本体の会社が潰れたらどうするんだ!」などと逆批判を受けるなどだんだんと国民の意識と乖離した政策ばかり主張するようになり、それに合わせて支持者も減っていったように思えます。
それでも一応は左翼政党ということで弱者の味方という立場を主張していたことと、憲法九条を何が何でも堅持するという護憲派の立場ということでうちの叔父さんのように根っからの支持者は離れずについてきていたのですが、失われた十年の後期におきたある事件によって、徹底的に社民党は支持をなくすことになりました。何を隠そう、小泉元首相の北朝鮮訪問とその後に起こった拉致被害者の帰還です。
社民党はそれまで同じ社会主義を標榜していることから北朝鮮の政権である朝鮮労働党とは友好な関係を維持し続けており、北朝鮮が飢饉に陥った際は米支援を訴え、ある自民党議員が拉致疑惑のある国に塩を送るような真似をしてもいいのかと反論するも、そんなありもしない疑惑で人助けを邪魔立てするのかと批判して米支援を実現しました。そんな具合で党の公式見解においても社民党は長い間、北朝鮮の日本人拉致は根も葉もないデマだと一貫して否定し続けていたのですが、小泉元首相の訪問により北朝鮮も拉致の事実を認め、被害者も帰還してきたのですからこれが大問題になりました。言ってしまえば、根も葉もないデマを言っていたのは社民党になってしまったといったところでしょうか。
これについて社民党は結局、党の公式見解から「拉致は存在しない」という項目を削除するに至ったのですが、それまでの見解が間違っていたということについては一切謝罪をせずにいたため、結局は日本の国益よりもわけのわからない理念の方が重要なのかと知識人層も批判し、最後まで残っていた支持者もこの件で一挙に社民党に見切りをつけるようになりました。私としても、まだまともな見識を持っているのなら与党にならなくとも野党として存在価値はあると認めるのですが、この時の社民党の対応を見ていると、その存在すら許されざる集団のように思えてきます。
ついでに書くと、その後北朝鮮の核問題が大きく取り上げられ、また災害救助やイラク派遣などを経て自衛隊への国民の信頼も大きくなり(最近また下がってきたが)、近年では憲法改正についても「九条維持、自衛隊の存在を明記」という意見が多数派を占めるようになり、社民党の最後の砦であった「護憲派」という主張もほとんど有名無実化してしまったのがとどめになり、今のような泡沫政党になってしまったのだと思います。
これは共産党もそうですが、ソ連の崩壊によって社会主義が現実に適用するには無理な思想だったということが明らかになったにもかかわらず、大きな政策路線の転換を図らずにいたのが日本の左翼政党の失墜を招いたのだと思います。また野党で居続けるということを暗黙のうちに了解していた55年体制の頃ならともかく、55年体制が崩壊した後も延々と政策の実現性を無視したり独自案などを設けずに自民党の政策を非難し続けたのも、時代の変化を考えなかった無謀な行為だったと言わざるを得ませんし、北朝鮮の問題や現在の主張内容などを見ても本気で弱者の立場に立っているのかと疑問なことばかりで、言ってしまえば両党は自民や民主の二大政党制の煽りを受けたわけではなく、自分で自滅したに過ぎないと私は断言できます。
ただ惜しむらくは、こうした自滅を招くような政党しか日本には左翼政党がなかったということです。別に左翼だからといって必ずしも社会主義を標榜する必要はなく、以前の記事でも書いたように私としては右翼と左翼がそれぞれ拮抗し合う状態こそが政治的に安定すると思うので、与党になれとまでは言いませんが、きちんとした左翼政党が日本にも本来必要だと思います。ですがこの社民党のお粗末な姿を見て、現代の日本人は左翼と聞くだけで激しい嫌悪感情を持つ人間も増えてきているように思え、懸念過ぎだし現段階でそうなることはほとんどないにしても、今のうちにきっちりとした左翼政党を作っておくべきではないかと陰ながら考えています。
さてこの失われた十年の間の最も大きな政治変動といったら、恐らく誰もが宮沢内閣時の自民党の野党転落による55年体制の崩壊だと挙げる方が多いでしょうが、確かに一発の事件で見るならこちらに分があるでしょうが、この時代全体を通してみるのなら私はやはり今日のお題になっている左翼政党の失墜こそ、この時代の最大の政治変動だと考えています。
現在の日本で左翼政党と来たら日本共産党と社会民主党の二党が代表的ですが、現在この両党は選挙のたびに議員数を減らしていき、特に社民党はかつて社会党であった頃は自民党と文字通り二大政党体制を築くまでの議員数を誇っていたことを考えるとその凋落振りは激しく、最近の選挙では毎回「党の存亡がかかっている」とまで評論家に揶揄される始末です。
しかしその社民党はその前身の社会党時代、失われた十年の初期においては現在とは逆に、それまでにないほどの隆盛を誇っていました。その一時の隆盛の原動力となったのは今はもう引退した土井たか子氏で、土井氏がいろんな意味で引っ張っていた頃の89年の選挙ではマドンナ旋風とまで言われるほど現在の党首の福島瑞穂議員をはじめとする女性議員が数多く当選し、議会内でも社会党の発言力が大きく向上していました。折も折で自民党が数々の汚職に加えてバブル崩壊を招いたことによって国民の信頼が大きく揺らいだこともあり、小沢一郎現民主党代表による政界再編が行われた結果、社会党は政局を動かすキーパーソンたる位置についていました。
そのため、小沢氏の仕掛けた細川内閣が崩壊した94年に至ってなんとしても与党に返り咲こうとするかつての仇敵である自民党から連立打診を受け、ついに社会党は戦後からの悲願であった与党に入ることが出来、首相も当時の党首である村山富一氏が就任したのですが、結果論から言うとこれは社民党にとって凋落の原因をになってしまいました。
社会党は戦後に発足した当時からその党是として「平和、福祉、護憲」を掲げており、自衛隊などの国家が持つ武力を違憲であると激しく非難し否定し続けてきた歴史がありました。そんな政党が与党になり政策も実際に動かす段階に至ったのでこの自衛隊の扱いについても当然注目が集まったのですが、当時の村山元首相は就任と共に、
「自衛隊は違憲ではあるが、その存在は認める」
と、発言しちゃったものですから、それまで護憲ということで社民党を応援してきた人間も結局は口先だけだったのかと呆れて支持が離れ、さらに村山内閣時には阪神大震災が起こり、被災地を救援するために自衛隊の出動が各所で求められたにもかかわらずそれまでの立場から村山元首相は渋り、そのため自衛隊の出動が遅れて被害が拡大したと非難されてここでも失点を出してしまいました。
ちなみにこれは私の見解ですが、この自衛隊出動の遅延についてはやはり関東よりも実際に被害に遭われた関西の人の方が根強く覚えているような気がします。それと村山元首相が自衛隊出動を渋って遅れたとよく言われますが、当時の側近の方らが言うにはかつてないほどの都市中心部での前例のない大災害ということで、自衛隊を派遣するにしてもどのように、どんな方法で出動、活動させればよいかわからずに混乱したために出動が遅れたというだけで、決して渋ったわけではないと話しています。この意見について私は当初、しょせんはいいわけだろうと見ていたのですが、この前に中国に起きた四川大地震とその際の人民解放軍の救援活動の難航振りや指揮系統の乱れを見ていると、あながち嘘ではないのかもしれないと考え始め、現在この件で私は村山元首相を弁護する立場におります。
まぁそんな具合で、万年野党だったのが突然政策を作る立場になって見たらてんで何も出来なかった、というのがまさにこの村山内閣でした。連立という他の連立政党にも気を配らなければいけない政権だったとはいえ、私から見ても当時の村山内閣は政策実行がほとんど図られていなかったと思います。なお、今度もし民主党が政権をとったら同じようになるのかもしれませんし、評論家の方などはそうなるとはっきりと断言している人もいます。
その後社民党と名前を変えて連立からも離脱したものの、やはりこの時の政策手腕を見て支持者たちもやはり政権を任せられないと思ったのか、社民党はその後ずるずると議席数を減らしていきました。またこの頃から(前からもだけど)政策を批判することだけに固執し始め実際に実現可能かどうか非常に疑問なことばかりを政党の主張としてあげる傾向が目立ち、私が覚えているのは「企業のリストラ、原則禁止」といったことを選挙の公約に掲げたりもしていましたが、「リストラせずに本体の会社が潰れたらどうするんだ!」などと逆批判を受けるなどだんだんと国民の意識と乖離した政策ばかり主張するようになり、それに合わせて支持者も減っていったように思えます。
それでも一応は左翼政党ということで弱者の味方という立場を主張していたことと、憲法九条を何が何でも堅持するという護憲派の立場ということでうちの叔父さんのように根っからの支持者は離れずについてきていたのですが、失われた十年の後期におきたある事件によって、徹底的に社民党は支持をなくすことになりました。何を隠そう、小泉元首相の北朝鮮訪問とその後に起こった拉致被害者の帰還です。
社民党はそれまで同じ社会主義を標榜していることから北朝鮮の政権である朝鮮労働党とは友好な関係を維持し続けており、北朝鮮が飢饉に陥った際は米支援を訴え、ある自民党議員が拉致疑惑のある国に塩を送るような真似をしてもいいのかと反論するも、そんなありもしない疑惑で人助けを邪魔立てするのかと批判して米支援を実現しました。そんな具合で党の公式見解においても社民党は長い間、北朝鮮の日本人拉致は根も葉もないデマだと一貫して否定し続けていたのですが、小泉元首相の訪問により北朝鮮も拉致の事実を認め、被害者も帰還してきたのですからこれが大問題になりました。言ってしまえば、根も葉もないデマを言っていたのは社民党になってしまったといったところでしょうか。
これについて社民党は結局、党の公式見解から「拉致は存在しない」という項目を削除するに至ったのですが、それまでの見解が間違っていたということについては一切謝罪をせずにいたため、結局は日本の国益よりもわけのわからない理念の方が重要なのかと知識人層も批判し、最後まで残っていた支持者もこの件で一挙に社民党に見切りをつけるようになりました。私としても、まだまともな見識を持っているのなら与党にならなくとも野党として存在価値はあると認めるのですが、この時の社民党の対応を見ていると、その存在すら許されざる集団のように思えてきます。
ついでに書くと、その後北朝鮮の核問題が大きく取り上げられ、また災害救助やイラク派遣などを経て自衛隊への国民の信頼も大きくなり(最近また下がってきたが)、近年では憲法改正についても「九条維持、自衛隊の存在を明記」という意見が多数派を占めるようになり、社民党の最後の砦であった「護憲派」という主張もほとんど有名無実化してしまったのがとどめになり、今のような泡沫政党になってしまったのだと思います。
これは共産党もそうですが、ソ連の崩壊によって社会主義が現実に適用するには無理な思想だったということが明らかになったにもかかわらず、大きな政策路線の転換を図らずにいたのが日本の左翼政党の失墜を招いたのだと思います。また野党で居続けるということを暗黙のうちに了解していた55年体制の頃ならともかく、55年体制が崩壊した後も延々と政策の実現性を無視したり独自案などを設けずに自民党の政策を非難し続けたのも、時代の変化を考えなかった無謀な行為だったと言わざるを得ませんし、北朝鮮の問題や現在の主張内容などを見ても本気で弱者の立場に立っているのかと疑問なことばかりで、言ってしまえば両党は自民や民主の二大政党制の煽りを受けたわけではなく、自分で自滅したに過ぎないと私は断言できます。
ただ惜しむらくは、こうした自滅を招くような政党しか日本には左翼政党がなかったということです。別に左翼だからといって必ずしも社会主義を標榜する必要はなく、以前の記事でも書いたように私としては右翼と左翼がそれぞれ拮抗し合う状態こそが政治的に安定すると思うので、与党になれとまでは言いませんが、きちんとした左翼政党が日本にも本来必要だと思います。ですがこの社民党のお粗末な姿を見て、現代の日本人は左翼と聞くだけで激しい嫌悪感情を持つ人間も増えてきているように思え、懸念過ぎだし現段階でそうなることはほとんどないにしても、今のうちにきっちりとした左翼政党を作っておくべきではないかと陰ながら考えています。
2008年11月23日日曜日
失われた十年とは~その十一、就職氷河期~
三年ほど前の2005年度採用から日本企業では新卒採用が大幅に増えてきましたたが、来年度はリーマンショックの影響もあって大幅に採用が絞られるということが早くも今から言われており(冷静に考えると、こんな時期に再来年度採用の話が出るあたりかなりおかしいんだけど)、かつての就職氷河期の再来かとまで言われています。
さてその就職氷河期ですが、私が知る限りこの言葉が一番最初に使われたのは第一次オイルショック時に戦後初めてマイナス成長をした1972年頃に大卒採用が一気にへこんだのが初めてですが、先ほどの引用に使われたのは大体98年から2003年まで続いた際の就職氷河期です。既に過去の連載でも書いた、山一證券が破綻するなど日本経済の大きな転換点となった97年を境に日本は本格的な大不況に見舞われ、企業内でも社員にリストラの嵐が吹き、新卒の社員採用もこの時期に勃興したIT産業を除いてどこも大幅に制限されるようになりました。
当時において、某薬品小売の全国チェーン店本社は私が当時住んでいた場所の近くにあったのですが、確か2000年位のある日にその本社前にものすごい数の行列が出来ていたことがあります。それというのも当時が就職氷河期であり、当時の卒業を控えた多くの学生はそれこそいけるとこならどこへでも採用試験を受けており、その会社でも採用を受けに来た学生たちが多く集まって長蛇の列を作っていたそうです。
このように、当時の高卒、大卒の就職環境は共に歴史的にも異様なほど厳しいものでした。ちょっとネットでこの時期の就職内定率の細かいデータを調べてみたのですが、なんというかどれも信用の置けない非常にお粗末なデータばかりなのでちょっと引用を見送りました。別にこれに限るわけじゃないですが、日本の失業率調査など測定方法の時点から、”失業率=失業者数/就業希望者”で割り出しており、本当は就職したいものの現状で活動できないものやハローワークに通わずに就職活動しているが職に就けない人は分母から外されるので、実態から遠くかけ離れたものばかりです。
ちょっと話が長くなるけど大卒の就職内定率も同様で、こっちでは就職できなかったので学内にとどまるために留年したり大学院へ進学する人間が分母から外れるので、こちらもかなり問題のあるデータが国で作られています。更に言えばさっき調べてすごく驚いたのですが、この就職内定率のデータで総務省統計局と厚生労働省の同じ年の内定率になんと二割も差があり、確かある年のデータだと総務省では70%台だったのが厚生労働省では90%台で、いくらなんでも厚生労働省のデータはありえないと呆れました。ってか、同じ国の機関なんだから調査、統計を共通化させて、費用を浮かせろよなぁ。
話は戻りますがこのように失われた十年の後半では若者の新卒雇用の道は非常に制限されていました。私の実感でも他の公表しているデータでも、私が最初に最悪だった年として挙げた2002年が最も悪く、その後は徐々に回復傾向となって近年では逆に「売り手市場」とまで言われるほど大量の採用が行われるように至りましたが、それでもこの時代に採用が大幅に制限されたことの負担は非常に大きいものとされています。
折も折でいわゆる団塊ジュニア世代が社会に出る時期に当たってしまったのがまさにこの就職氷河期で、ただでさえ母数が前後の世代より頭一つ多いのにほとんど就職することが出来ず、大量の若者が路頭に迷うこととなりました。そのためこの世代のことを先ほどの「団塊ジュニア世代」というよりは最近では「ロストジェネレーション」という言葉が使われており、現在もこの世代がその前後の世代と比べて失業率が高く、不安定な社会的立場にいるために将来大きな問題となる事が懸念されています。
そして新卒採用を行う側の企業にとってしても、当時はいつどんなことで自分の会社が潰れるかわからない非常に不安定な状態で新卒採用も非常に制限をしたのですが、当時の就職状況を知る何人かから話を聞いたことがありますが、当時の採用試験や面接というのは採用作業というより、就職志望者の人数を削るような作業だったらしいです。面接ではいわゆる圧迫面接で当たり前で、友人の姉さんなんて一緒に企業面接を受けた早稲田大学の学生が泣きながら面接室から出てきたとまで言っています。さらに当時にテレビ番組でも字が汚いとか、ネクタイが長すぎるとか、本当に些細なことでどんどんと人数が削られるという話が紹介されていましたし、外から見ていてもなんとなくそんな感じがします。
こうして若者の採用が厳選され、失業率も高まってきたことを受け、当時には現代でも使われるこのような立場の若者を言い表す言葉が数多く生まれてきました。まず一番代表的なものとして、90年代後半より定職につかずに非定期雇用で生活する「フリーター」という言葉がリクルート社より作られました。当時を振り返って思うのですが、当時この言葉は若者にとっては肯定的な意味合いで(若者ら自身がそう思っていたかは言えないが)使われていたように思えます。「企業に縛られたくない」、「自由な生き方」、「夢を追うためのつなぎ」といった具合で、特に最後のは決まってミュージシャン志望者が言っており、私みたいに小説家を志望しているってのは皆無でしたね。それはともかくとして、こうして自由な生き方の手段として「フリーター」というものはメディアなどで取り上げられて、それに対して壮年層の大人たちからは「最近の若者はフラフラしおって!」といった具合で批判するという構図が毎回組まれていました。私の友人のお父さんなんて、フリーターと聞くだけでローズに向かって内角高目を投げつけんばかりに怒り出すほどの否定論者でした。
敢えて当時の若者を弁護しながら分析すると、先ほどの「自由を追う」という主張は積極的な理由ではなく、むしろ後付けの理由だったと思います。就職したいと思ってもそれが叶わずに仕方なくフリーターで食いつないでいた人間が、敢えて自己弁護のようにして自由という言葉を言っていただけというのが大半だったと思います。しかし最近では皮肉なことに、若年層では実に7割近くが派遣などの非正規雇用で働いており、実感的にも働くのはフリーターで当たり前になってきて、この言葉も死語になりつつある気がします。
このフリーターに続いて当時に作られた言葉もう一つの言葉として、こっちはすぐに消えましたが「パラサイト」です。これは仕事もせずに家にいるだけで親に生活の面倒を見続けてもらうという人たちで、この言葉は一年くらいですぐに死語化し、その代わりに同じ意味で今度は「引きこもり」という言葉が出来、これははっきりと断言できますが2004年に至って初めて「ニート」という言葉になり、現在に至ります。やはり「ニート」という短い言葉の方が時代の移り変わりに強いのかもしれません。
ちょっと脈絡のない記事になってしまいましたがこの就職氷河期について総括すると、本心からもこの「ロストジェネレーション」に当たる世代の方には私は非常に同情します。しかし採用を絞った企業の側としてもちょうどこの世代に当たる20代後半から30代前半の社員が非常に不足しており、ノウハウや技術の継承面で大きな問題が起きているのも事実で、実際に中途採用もこの世代を中心に行われていると聞きます。
逆を言えば、今後この世代の穴埋めを日本社会全体で対処しなければ、今後長きに渡って大きな問題となっていくことが予想されます。具体的にどうすればいいかということを今後議論していく必要があるでしょう。
さてその就職氷河期ですが、私が知る限りこの言葉が一番最初に使われたのは第一次オイルショック時に戦後初めてマイナス成長をした1972年頃に大卒採用が一気にへこんだのが初めてですが、先ほどの引用に使われたのは大体98年から2003年まで続いた際の就職氷河期です。既に過去の連載でも書いた、山一證券が破綻するなど日本経済の大きな転換点となった97年を境に日本は本格的な大不況に見舞われ、企業内でも社員にリストラの嵐が吹き、新卒の社員採用もこの時期に勃興したIT産業を除いてどこも大幅に制限されるようになりました。
当時において、某薬品小売の全国チェーン店本社は私が当時住んでいた場所の近くにあったのですが、確か2000年位のある日にその本社前にものすごい数の行列が出来ていたことがあります。それというのも当時が就職氷河期であり、当時の卒業を控えた多くの学生はそれこそいけるとこならどこへでも採用試験を受けており、その会社でも採用を受けに来た学生たちが多く集まって長蛇の列を作っていたそうです。
このように、当時の高卒、大卒の就職環境は共に歴史的にも異様なほど厳しいものでした。ちょっとネットでこの時期の就職内定率の細かいデータを調べてみたのですが、なんというかどれも信用の置けない非常にお粗末なデータばかりなのでちょっと引用を見送りました。別にこれに限るわけじゃないですが、日本の失業率調査など測定方法の時点から、”失業率=失業者数/就業希望者”で割り出しており、本当は就職したいものの現状で活動できないものやハローワークに通わずに就職活動しているが職に就けない人は分母から外されるので、実態から遠くかけ離れたものばかりです。
ちょっと話が長くなるけど大卒の就職内定率も同様で、こっちでは就職できなかったので学内にとどまるために留年したり大学院へ進学する人間が分母から外れるので、こちらもかなり問題のあるデータが国で作られています。更に言えばさっき調べてすごく驚いたのですが、この就職内定率のデータで総務省統計局と厚生労働省の同じ年の内定率になんと二割も差があり、確かある年のデータだと総務省では70%台だったのが厚生労働省では90%台で、いくらなんでも厚生労働省のデータはありえないと呆れました。ってか、同じ国の機関なんだから調査、統計を共通化させて、費用を浮かせろよなぁ。
話は戻りますがこのように失われた十年の後半では若者の新卒雇用の道は非常に制限されていました。私の実感でも他の公表しているデータでも、私が最初に最悪だった年として挙げた2002年が最も悪く、その後は徐々に回復傾向となって近年では逆に「売り手市場」とまで言われるほど大量の採用が行われるように至りましたが、それでもこの時代に採用が大幅に制限されたことの負担は非常に大きいものとされています。
折も折でいわゆる団塊ジュニア世代が社会に出る時期に当たってしまったのがまさにこの就職氷河期で、ただでさえ母数が前後の世代より頭一つ多いのにほとんど就職することが出来ず、大量の若者が路頭に迷うこととなりました。そのためこの世代のことを先ほどの「団塊ジュニア世代」というよりは最近では「ロストジェネレーション」という言葉が使われており、現在もこの世代がその前後の世代と比べて失業率が高く、不安定な社会的立場にいるために将来大きな問題となる事が懸念されています。
そして新卒採用を行う側の企業にとってしても、当時はいつどんなことで自分の会社が潰れるかわからない非常に不安定な状態で新卒採用も非常に制限をしたのですが、当時の就職状況を知る何人かから話を聞いたことがありますが、当時の採用試験や面接というのは採用作業というより、就職志望者の人数を削るような作業だったらしいです。面接ではいわゆる圧迫面接で当たり前で、友人の姉さんなんて一緒に企業面接を受けた早稲田大学の学生が泣きながら面接室から出てきたとまで言っています。さらに当時にテレビ番組でも字が汚いとか、ネクタイが長すぎるとか、本当に些細なことでどんどんと人数が削られるという話が紹介されていましたし、外から見ていてもなんとなくそんな感じがします。
こうして若者の採用が厳選され、失業率も高まってきたことを受け、当時には現代でも使われるこのような立場の若者を言い表す言葉が数多く生まれてきました。まず一番代表的なものとして、90年代後半より定職につかずに非定期雇用で生活する「フリーター」という言葉がリクルート社より作られました。当時を振り返って思うのですが、当時この言葉は若者にとっては肯定的な意味合いで(若者ら自身がそう思っていたかは言えないが)使われていたように思えます。「企業に縛られたくない」、「自由な生き方」、「夢を追うためのつなぎ」といった具合で、特に最後のは決まってミュージシャン志望者が言っており、私みたいに小説家を志望しているってのは皆無でしたね。それはともかくとして、こうして自由な生き方の手段として「フリーター」というものはメディアなどで取り上げられて、それに対して壮年層の大人たちからは「最近の若者はフラフラしおって!」といった具合で批判するという構図が毎回組まれていました。私の友人のお父さんなんて、フリーターと聞くだけでローズに向かって内角高目を投げつけんばかりに怒り出すほどの否定論者でした。
敢えて当時の若者を弁護しながら分析すると、先ほどの「自由を追う」という主張は積極的な理由ではなく、むしろ後付けの理由だったと思います。就職したいと思ってもそれが叶わずに仕方なくフリーターで食いつないでいた人間が、敢えて自己弁護のようにして自由という言葉を言っていただけというのが大半だったと思います。しかし最近では皮肉なことに、若年層では実に7割近くが派遣などの非正規雇用で働いており、実感的にも働くのはフリーターで当たり前になってきて、この言葉も死語になりつつある気がします。
このフリーターに続いて当時に作られた言葉もう一つの言葉として、こっちはすぐに消えましたが「パラサイト」です。これは仕事もせずに家にいるだけで親に生活の面倒を見続けてもらうという人たちで、この言葉は一年くらいですぐに死語化し、その代わりに同じ意味で今度は「引きこもり」という言葉が出来、これははっきりと断言できますが2004年に至って初めて「ニート」という言葉になり、現在に至ります。やはり「ニート」という短い言葉の方が時代の移り変わりに強いのかもしれません。
ちょっと脈絡のない記事になってしまいましたがこの就職氷河期について総括すると、本心からもこの「ロストジェネレーション」に当たる世代の方には私は非常に同情します。しかし採用を絞った企業の側としてもちょうどこの世代に当たる20代後半から30代前半の社員が非常に不足しており、ノウハウや技術の継承面で大きな問題が起きているのも事実で、実際に中途採用もこの世代を中心に行われていると聞きます。
逆を言えば、今後この世代の穴埋めを日本社会全体で対処しなければ、今後長きに渡って大きな問題となっていくことが予想されます。具体的にどうすればいいかということを今後議論していく必要があるでしょう。
2008年11月17日月曜日
失われた十年とは~その十、リストラ~
今回の連載もようやく二ケタ台。あとどれだけ続くだろうな。
さて前回では長引く不況に日本式経営の権威がこの失われた十年の間に大きく失墜したと書きましたが、その中でも最も大きなトピックスとなるのがこのリストラです。このリストラという言葉は元はリストラクチャリング、再構築という英語から来ていますが、実質的には従業員数のカットということで、それまでの日本式経営の柱の一つである終身雇用がこのリストラによって大きく否定されることになりました。
97年の山一證券の破綻によって不況が深刻になる中、企業も利益の減益どころか大企業であろうと赤字を出すようになり、早急なコストカットを図らねば簡単に倒産することが当時は目に見えていました。そのため、そこそこ支払い給料額も大きくなり、必要な人材とそうでない人材がはっきりとわかり始めるようになった40歳以上の中年世代の社員がこの対象となり、この時期に不要と判断された人間は容赦なく首を切られていきました。
私自身がこのリストラの現場を目の当たりにした経験は一回だけあり、中学生だった私は今の個別指導型の予備校に通っていたのですが、そこでは一人の教師に対して二人生徒がついており、毎週私は自分より一つ年上の高校生の方と一緒に勉強していました。毎週会うもんだから互いに気心も知れて、帰るときには談笑し合うくらいの仲だったのですが、ある日突然その人が来なくなりました。
どうしたものかと先生に聞いたところ、何でもその人の父親がリストラにあって失職し、高校は続けるものの予備校は費用の問題から辞めざるを得なくなったということだったようです。
当時、このような話は日常茶飯事でした。テレビでは毎日リストラの問題を取り上げはするものの、人員カットを行わねばならぬほどどの企業も追い詰められているというのが常識であったことから、それほどリストラを行った企業に対しては批判が起きていなかったように思えます。唯一社民党だけが「リストラの全面禁止」を主張して選挙戦を行いましたが、「そんなことやって企業本体が潰れたらどうするんだ」という逆批判に遭い、これもこの後に細かく解説していきますがそのまま左翼政党の失墜へと続いていきます。
ただこのリストラについては、私の友人のように余計な同情論は無用と言う人も当時から少なからずおりました。というのも日本式経営のもう一つの柱である年功序列制のためにバブル期以前には同期の給料を一律に引き上げるため、無駄なポストを無理やり作っては実権のない中間管理職を日本企業は量産しており、そのコストに見合うだけの効果をほとんど発揮せずに無駄金を使い続けていたという実態がありました。またそのような環境のために実力のあろうとなかろうとそうして出世、給与アップが行われていたため、朝会社に来てから新聞を読むだけで何も働かない人間、いうなれば会社に寄生する人間も数多くいたと私は聞いています。
確かにリストラされた方の大半は真面目に働いてきた方ばかりでしょうが、組織的にも無駄なポストを量産していたと言うのは紛れもない事実であり、いわば日本式経営の負の側面の清算という意味でもこのリストラは行われたと言うべきでしょう。
そして極めつけですが、これは友人の言ですが、少なくともリストラされる人間は40代で、会社に入ってから20年もの時間があり、その間に何かしら会社に必要とされるような資格、技術を取ろうと努力せずに首を切られたのは個人の責任だと常々述べています。この意見に、多少厳しいかなと思いながらも一理あると私も同感しています。
聞くところによると韓国では儒教思想が強く、このリストラが行われるにしても日本とは逆で老人を残すために若手社員から切られていったそうです。それに比べれば社会的にも将来的にも、日本の中年を切るリストラの方が良かったのではと、今の韓国の若者が置かれている劣悪な状況を見るにつけ思います。しかし残された若手社員こと若者も決してこのリストラによってタダでは済まず、人員が減った分一人当たりの仕事量が増えて猛烈な過労状態が各業種で行われるようになっていきました。何もこうした日本の過労傾向はこの時期からではないですが、先ほども言ったように人件費のカットがこの時期に次々と行われ、あらかじめ決められた一定残業代を給料に組み込むことでどれだけ残業しても残業代がもらえない「見なし残業込み給料」と言うものが普及し、残業時間が労働時間に計測されず、また給料上昇も非常に抑えられて日本の労働環境がいろいろおかしいことになり始めたのもこの時期です。
そういう具合で、この次には当時の若年労働者の状況こと、就職氷河期について解説します。おまけとして、当時に大流行りした綾小路きみまろのネタを載せておきます。
「会社のために手となり足となり、クビとなり」
さて前回では長引く不況に日本式経営の権威がこの失われた十年の間に大きく失墜したと書きましたが、その中でも最も大きなトピックスとなるのがこのリストラです。このリストラという言葉は元はリストラクチャリング、再構築という英語から来ていますが、実質的には従業員数のカットということで、それまでの日本式経営の柱の一つである終身雇用がこのリストラによって大きく否定されることになりました。
97年の山一證券の破綻によって不況が深刻になる中、企業も利益の減益どころか大企業であろうと赤字を出すようになり、早急なコストカットを図らねば簡単に倒産することが当時は目に見えていました。そのため、そこそこ支払い給料額も大きくなり、必要な人材とそうでない人材がはっきりとわかり始めるようになった40歳以上の中年世代の社員がこの対象となり、この時期に不要と判断された人間は容赦なく首を切られていきました。
私自身がこのリストラの現場を目の当たりにした経験は一回だけあり、中学生だった私は今の個別指導型の予備校に通っていたのですが、そこでは一人の教師に対して二人生徒がついており、毎週私は自分より一つ年上の高校生の方と一緒に勉強していました。毎週会うもんだから互いに気心も知れて、帰るときには談笑し合うくらいの仲だったのですが、ある日突然その人が来なくなりました。
どうしたものかと先生に聞いたところ、何でもその人の父親がリストラにあって失職し、高校は続けるものの予備校は費用の問題から辞めざるを得なくなったということだったようです。
当時、このような話は日常茶飯事でした。テレビでは毎日リストラの問題を取り上げはするものの、人員カットを行わねばならぬほどどの企業も追い詰められているというのが常識であったことから、それほどリストラを行った企業に対しては批判が起きていなかったように思えます。唯一社民党だけが「リストラの全面禁止」を主張して選挙戦を行いましたが、「そんなことやって企業本体が潰れたらどうするんだ」という逆批判に遭い、これもこの後に細かく解説していきますがそのまま左翼政党の失墜へと続いていきます。
ただこのリストラについては、私の友人のように余計な同情論は無用と言う人も当時から少なからずおりました。というのも日本式経営のもう一つの柱である年功序列制のためにバブル期以前には同期の給料を一律に引き上げるため、無駄なポストを無理やり作っては実権のない中間管理職を日本企業は量産しており、そのコストに見合うだけの効果をほとんど発揮せずに無駄金を使い続けていたという実態がありました。またそのような環境のために実力のあろうとなかろうとそうして出世、給与アップが行われていたため、朝会社に来てから新聞を読むだけで何も働かない人間、いうなれば会社に寄生する人間も数多くいたと私は聞いています。
確かにリストラされた方の大半は真面目に働いてきた方ばかりでしょうが、組織的にも無駄なポストを量産していたと言うのは紛れもない事実であり、いわば日本式経営の負の側面の清算という意味でもこのリストラは行われたと言うべきでしょう。
そして極めつけですが、これは友人の言ですが、少なくともリストラされる人間は40代で、会社に入ってから20年もの時間があり、その間に何かしら会社に必要とされるような資格、技術を取ろうと努力せずに首を切られたのは個人の責任だと常々述べています。この意見に、多少厳しいかなと思いながらも一理あると私も同感しています。
聞くところによると韓国では儒教思想が強く、このリストラが行われるにしても日本とは逆で老人を残すために若手社員から切られていったそうです。それに比べれば社会的にも将来的にも、日本の中年を切るリストラの方が良かったのではと、今の韓国の若者が置かれている劣悪な状況を見るにつけ思います。しかし残された若手社員こと若者も決してこのリストラによってタダでは済まず、人員が減った分一人当たりの仕事量が増えて猛烈な過労状態が各業種で行われるようになっていきました。何もこうした日本の過労傾向はこの時期からではないですが、先ほども言ったように人件費のカットがこの時期に次々と行われ、あらかじめ決められた一定残業代を給料に組み込むことでどれだけ残業しても残業代がもらえない「見なし残業込み給料」と言うものが普及し、残業時間が労働時間に計測されず、また給料上昇も非常に抑えられて日本の労働環境がいろいろおかしいことになり始めたのもこの時期です。
そういう具合で、この次には当時の若年労働者の状況こと、就職氷河期について解説します。おまけとして、当時に大流行りした綾小路きみまろのネタを載せておきます。
「会社のために手となり足となり、クビとなり」
2008年11月12日水曜日
失われた十年とは~その九、日本式経営~
久々の連載記事だ(*゚∀゚)=3ハァハァ
さて前回までは主に経済的に、失われた十年の間で行われた政策を中心に解説していきました。実際にこの失われた十年(最近だと一部で「失われた十五年」と言う人も出てきている)は経済学的な意味合いで使われることが多いのですが、社会学士の私からすると経済的というよりは、日本の社会史上における一大転機として取る場合の方が多いです。
そういうわけで今回からようやくこの連載の主題である、この時代における社会的価値観の変容について解説していこうと思います。最初に一回目は、もはやほとんど話題にすら出ることがなくなった「日本式経営」です。
先にこの後に解説するネタを紹介すると、この時代に社会の見方が一気にひっくり返ったのはこの「日本式経営」、「左翼」、「フェミニズム」、「スポーツ」といろいろあって程度も様々ですが、どちらかというと強い権威を持ったものが悉く失墜していく一方で、代わりに力をつけた権威というものはあまり多くない気がします。何かあるのならこの後の記事も非常に書きやすいのですが、
それで日本式経営ですが、この中身というのは言ってしまえば60年代から80年代まで日本の企業で行われた雇用、経営慣行のことを指しています。具体的な中身を言うと「終身雇用」、「年功序列制」の二本柱で組む雇用体制を指しており、ちょっと細かい点を上げると「株式持合い制度」の元で企業投資を社会全体で非常に抑えて内部留保を蓄え、自社投資を繰り返すという経営方法も含まれます。もしリクエストがあるのならこの中身も詳しく解説してもいいですが、長いので今回はちょっと割愛します。
この日本式経営もバブル崩壊までは「これが王道だ!」といわんばかりに世界でも持て囃され高く評価され、アメリカ人経済学者に至っては「ジャパンアズナンバーワン」とまで評していたのですが、バブル崩壊が起きると、「やはり日本のローカルなやり方だった」とか、「いつかこういう日が来ると思ってた」などと、特に株式へと全然投資しない閉鎖的な体制を指摘されて今度は逆に世界から批判されるようになりました。
そこで日本人がいつもの悪い癖で、自分では正しいと思うことでさえ他人に批判されると途端に自信をなくしてしまう癖が出てしまい、この失われた十年の間に日本人の中でも日本式経営について激しく非難するものが次々と現れていきました。
当時を回想をするにつけ思いますが、子供だった私からしてもあの時代の日本式経営への身内からの批判振りは異常過ぎるほどでした。しかも、それらの批判の大半は理論的にどこがどう問題なのかという点は無視して、どちらかといえば感情的な意見が主で、「こんな古いやり方では世界についていけない」など、他国と協調することが一番大事と言わんばかりの批判でした。
中でも私が最も呆れるのは、子供の教育現場にすら「日本式経営は駄目だ!」ということを当時に教えていることです。これなんか私の実体験ですが、中学校の公民の時間で、「年功序列制では、実力ある社員のやる気をそいでしまうから成果主義に変えろ」とか、「終身雇用ではなく、様々な生き方にチャレンジを促すべきだ」などといった言葉を使っては、日本式経営の欠点を教えられました。さらに極端な例だと、私の友人は授業の作文にて日本式経営が駄目だということまでも書かされたそうです。
では何故これほどまでに日本式経営は叩かれたのでしょうか。それにはいくつか考えられる理由があり、まずはなんといってもバブルで浮かれすぎた反動で、急に景気が悪くなったもんだから非常に自分らのやってきたことに対して自信をなくしてしまい、さらにこの時の日本人の後ろめいた気持ちは、物事に対して「どうすれば良くなるか」よりも、「何をしてはいけないのか」ことばかり考えるように思考を持って行ったのではないかと私は睨んでいます。そういうのも、当時のビジネス書のタイトルを思い出すと、「○○が悪い!」とか「××経営の弊害」といったタイトルばかり思い浮かび、ポジティブな本だと大抵が「欧米式△△経営」、「アメリカ人の戦略」などと海外の成功体験ばっかでした。
こうした状況を踏まえてか、かなり昔に(2004年ごろだと思う)読んだ誰かのエッセイでは、「当時の日本人は失敗の理由ばかりを探して成功する方法を探そうとしなかった」とかかれていましたが、この意見に私も同感です。
そうやって日本式経営をたたき出した後に持て囃されたのが、既にもう述べた成果主義です。まぁこれについては賛否両論いろいろあり、特に早くにこれを導入した富士通に至っては元富士通の城繁幸氏に激しく批判されており、私としてもこの成果主義がうまく機能することはほとんどないと思います。何気に最近読んだ、クロネコヤマトの生みの親の故小倉昌男氏も自著にて、とうとう個人ごとに成果を評価する制度だけは最後まで作ることが出来なかったと述べています。
これなんか社会学やってたから私もいろいろ思うところがあり、元々社会学は本来比較し辛い、出来ない人間の心理や行動といった対象を出来るだけ現実にあった形で数値化して比較する手法を持っていますが、これは言うは安しで行なうは難しです。私が去年やった調査なんか、2ちゃんねらーは朝日新聞が嫌いなのかを測ろうと大学生に調査票配ってやりましたが、200人に配ったところで2ちゃんねるをよく閲覧するのは10人にも満たなくて、客観的に足る必要サンプル数が集まらずに断念しました。
成果主義においても、単純な個人売上で測ろうとしてもこの数字も周りの景気の影響やらで簡単に変わりますし、一概に導入すればかえって運のいい人、リスクをとらない人ばかりが評価されて、積極的に仕事をしてリスクを抱える人などは逆に評価が下がりやすくなるので、私としてもこの成果主義には疑問を感じます。それでも当時の日本人からすると、日本式経営と対極にあることからこういった評価制度をどんどんと導入していきました。
しかもなお悪いことに、日本式経営でも部分的に見れば非常に優れた経営方法といえる点は数多くあるのですが、この時代に標的にされて潰されていったものはほとんどがそういった優れた点で、逆に日本式経営で非常に問題な点、たとえば無駄に会議が多くて決断や動きが鈍い点は何故だかよく残ってしまい、実際に会社員の方から話を聞いたりするとまるで成果主義と日本式経営の駄目な点が見事にハイブリッドされているのが今の状況のような気がします。
ここで話が少し変わりますが、確か96年か97年頃に「世界まる見えテレビ」という番組において、あるアメリカの企業が紹介されていました。名前は失念してしまったが、いわゆるIT系の会社で、その会社には社内に託児所から個人用のオフィスまで備えらた、社員にとっては至れり尽くせりという雇用環境で、これについて社長はこうした環境が社員のモチベーションを引き上げるのだと言い、実際にその会社は多くの利益を生み出しているとして紹介が終わりました。見終わったゲストからは、自分達が持っていたアメリカの企業イメージと全然違っていたなどと互いに感想を述べ合っていました。
90年代後半からアメリカの多くの企業は優秀なIT系技術者を囲い込むために、かつての日本よろしく社員への好待遇を行う企業が増え始めてきていたそうです。もちろんそれは一握りのエリート社員だけで、かつての従業員は皆家族という日本式経営とは異なるものでしたが、キャノンの会長であり経団連の会長もやっている御手洗富士夫などはこうした例を挙げては知った振りをして、日本が日本式経営を捨てている頃にアメリカは日本式経営を取り込み成長し、終身雇用制を守ったキャノンやトヨタが今では日本で勝ち組なのだということを言っていますが、ここで反論させてもらうと、キャノンもトヨタも初めから正社員が少なくて非正規雇用が多かっただけに過ぎません。キャノンに至っては会長が社員は家族といいながら、偽装請負までしているのだから盗人猛々しいとはこの事でしょう。
しかし現在の日本のSEことシステムエンジニアの現状を見る限り、先のエリート社員に高待遇を与えるというアメリカのやり方も一理ある気もします。日本でも成果主義が導入されているとは言われながらも、実際に優秀な人間は今でもかなりはじかれているように思えてならないからです。
最後に非常に皮肉な言い方をしますが、日本は失われた十年の間に日本式経営を非難する事によって、企業が社員をリストラできる大義名分を得たのは一つの収穫だったと思えます。それまではリストラは非人道的だと非常に批判されて企業もやり辛かったのですが、成果主義の名の元で不要な人員の解雇が行えるようになり、結果的に経営を一時的に立て直すことが出来たのは事実で、そういう意味ではこうした日本式経営への一連の批判はそれ相応の役割を果たしたといえると思います。
さて前回までは主に経済的に、失われた十年の間で行われた政策を中心に解説していきました。実際にこの失われた十年(最近だと一部で「失われた十五年」と言う人も出てきている)は経済学的な意味合いで使われることが多いのですが、社会学士の私からすると経済的というよりは、日本の社会史上における一大転機として取る場合の方が多いです。
そういうわけで今回からようやくこの連載の主題である、この時代における社会的価値観の変容について解説していこうと思います。最初に一回目は、もはやほとんど話題にすら出ることがなくなった「日本式経営」です。
先にこの後に解説するネタを紹介すると、この時代に社会の見方が一気にひっくり返ったのはこの「日本式経営」、「左翼」、「フェミニズム」、「スポーツ」といろいろあって程度も様々ですが、どちらかというと強い権威を持ったものが悉く失墜していく一方で、代わりに力をつけた権威というものはあまり多くない気がします。何かあるのならこの後の記事も非常に書きやすいのですが、
それで日本式経営ですが、この中身というのは言ってしまえば60年代から80年代まで日本の企業で行われた雇用、経営慣行のことを指しています。具体的な中身を言うと「終身雇用」、「年功序列制」の二本柱で組む雇用体制を指しており、ちょっと細かい点を上げると「株式持合い制度」の元で企業投資を社会全体で非常に抑えて内部留保を蓄え、自社投資を繰り返すという経営方法も含まれます。もしリクエストがあるのならこの中身も詳しく解説してもいいですが、長いので今回はちょっと割愛します。
この日本式経営もバブル崩壊までは「これが王道だ!」といわんばかりに世界でも持て囃され高く評価され、アメリカ人経済学者に至っては「ジャパンアズナンバーワン」とまで評していたのですが、バブル崩壊が起きると、「やはり日本のローカルなやり方だった」とか、「いつかこういう日が来ると思ってた」などと、特に株式へと全然投資しない閉鎖的な体制を指摘されて今度は逆に世界から批判されるようになりました。
そこで日本人がいつもの悪い癖で、自分では正しいと思うことでさえ他人に批判されると途端に自信をなくしてしまう癖が出てしまい、この失われた十年の間に日本人の中でも日本式経営について激しく非難するものが次々と現れていきました。
当時を回想をするにつけ思いますが、子供だった私からしてもあの時代の日本式経営への身内からの批判振りは異常過ぎるほどでした。しかも、それらの批判の大半は理論的にどこがどう問題なのかという点は無視して、どちらかといえば感情的な意見が主で、「こんな古いやり方では世界についていけない」など、他国と協調することが一番大事と言わんばかりの批判でした。
中でも私が最も呆れるのは、子供の教育現場にすら「日本式経営は駄目だ!」ということを当時に教えていることです。これなんか私の実体験ですが、中学校の公民の時間で、「年功序列制では、実力ある社員のやる気をそいでしまうから成果主義に変えろ」とか、「終身雇用ではなく、様々な生き方にチャレンジを促すべきだ」などといった言葉を使っては、日本式経営の欠点を教えられました。さらに極端な例だと、私の友人は授業の作文にて日本式経営が駄目だということまでも書かされたそうです。
では何故これほどまでに日本式経営は叩かれたのでしょうか。それにはいくつか考えられる理由があり、まずはなんといってもバブルで浮かれすぎた反動で、急に景気が悪くなったもんだから非常に自分らのやってきたことに対して自信をなくしてしまい、さらにこの時の日本人の後ろめいた気持ちは、物事に対して「どうすれば良くなるか」よりも、「何をしてはいけないのか」ことばかり考えるように思考を持って行ったのではないかと私は睨んでいます。そういうのも、当時のビジネス書のタイトルを思い出すと、「○○が悪い!」とか「××経営の弊害」といったタイトルばかり思い浮かび、ポジティブな本だと大抵が「欧米式△△経営」、「アメリカ人の戦略」などと海外の成功体験ばっかでした。
こうした状況を踏まえてか、かなり昔に(2004年ごろだと思う)読んだ誰かのエッセイでは、「当時の日本人は失敗の理由ばかりを探して成功する方法を探そうとしなかった」とかかれていましたが、この意見に私も同感です。
そうやって日本式経営をたたき出した後に持て囃されたのが、既にもう述べた成果主義です。まぁこれについては賛否両論いろいろあり、特に早くにこれを導入した富士通に至っては元富士通の城繁幸氏に激しく批判されており、私としてもこの成果主義がうまく機能することはほとんどないと思います。何気に最近読んだ、クロネコヤマトの生みの親の故小倉昌男氏も自著にて、とうとう個人ごとに成果を評価する制度だけは最後まで作ることが出来なかったと述べています。
これなんか社会学やってたから私もいろいろ思うところがあり、元々社会学は本来比較し辛い、出来ない人間の心理や行動といった対象を出来るだけ現実にあった形で数値化して比較する手法を持っていますが、これは言うは安しで行なうは難しです。私が去年やった調査なんか、2ちゃんねらーは朝日新聞が嫌いなのかを測ろうと大学生に調査票配ってやりましたが、200人に配ったところで2ちゃんねるをよく閲覧するのは10人にも満たなくて、客観的に足る必要サンプル数が集まらずに断念しました。
成果主義においても、単純な個人売上で測ろうとしてもこの数字も周りの景気の影響やらで簡単に変わりますし、一概に導入すればかえって運のいい人、リスクをとらない人ばかりが評価されて、積極的に仕事をしてリスクを抱える人などは逆に評価が下がりやすくなるので、私としてもこの成果主義には疑問を感じます。それでも当時の日本人からすると、日本式経営と対極にあることからこういった評価制度をどんどんと導入していきました。
しかもなお悪いことに、日本式経営でも部分的に見れば非常に優れた経営方法といえる点は数多くあるのですが、この時代に標的にされて潰されていったものはほとんどがそういった優れた点で、逆に日本式経営で非常に問題な点、たとえば無駄に会議が多くて決断や動きが鈍い点は何故だかよく残ってしまい、実際に会社員の方から話を聞いたりするとまるで成果主義と日本式経営の駄目な点が見事にハイブリッドされているのが今の状況のような気がします。
ここで話が少し変わりますが、確か96年か97年頃に「世界まる見えテレビ」という番組において、あるアメリカの企業が紹介されていました。名前は失念してしまったが、いわゆるIT系の会社で、その会社には社内に託児所から個人用のオフィスまで備えらた、社員にとっては至れり尽くせりという雇用環境で、これについて社長はこうした環境が社員のモチベーションを引き上げるのだと言い、実際にその会社は多くの利益を生み出しているとして紹介が終わりました。見終わったゲストからは、自分達が持っていたアメリカの企業イメージと全然違っていたなどと互いに感想を述べ合っていました。
90年代後半からアメリカの多くの企業は優秀なIT系技術者を囲い込むために、かつての日本よろしく社員への好待遇を行う企業が増え始めてきていたそうです。もちろんそれは一握りのエリート社員だけで、かつての従業員は皆家族という日本式経営とは異なるものでしたが、キャノンの会長であり経団連の会長もやっている御手洗富士夫などはこうした例を挙げては知った振りをして、日本が日本式経営を捨てている頃にアメリカは日本式経営を取り込み成長し、終身雇用制を守ったキャノンやトヨタが今では日本で勝ち組なのだということを言っていますが、ここで反論させてもらうと、キャノンもトヨタも初めから正社員が少なくて非正規雇用が多かっただけに過ぎません。キャノンに至っては会長が社員は家族といいながら、偽装請負までしているのだから盗人猛々しいとはこの事でしょう。
しかし現在の日本のSEことシステムエンジニアの現状を見る限り、先のエリート社員に高待遇を与えるというアメリカのやり方も一理ある気もします。日本でも成果主義が導入されているとは言われながらも、実際に優秀な人間は今でもかなりはじかれているように思えてならないからです。
最後に非常に皮肉な言い方をしますが、日本は失われた十年の間に日本式経営を非難する事によって、企業が社員をリストラできる大義名分を得たのは一つの収穫だったと思えます。それまではリストラは非人道的だと非常に批判されて企業もやり辛かったのですが、成果主義の名の元で不要な人員の解雇が行えるようになり、結果的に経営を一時的に立て直すことが出来たのは事実で、そういう意味ではこうした日本式経営への一連の批判はそれ相応の役割を果たしたといえると思います。
2008年11月7日金曜日
失われた十年とは~その八、何故不況が続いたのか~
この記事でようやく経済学的な失われた十年の分析は終わりです。もともとここまでの内容は他でも行われているので敢えて私がやる必要もなく、本音を言うと次回辺りから書き始めるこの時期の社会状況の方が書く側としても非常に楽しみです。
前回では失われた十年における「平成不況」において、日本の景気を決定的に悪化させるに至った97年の転機について解説しました。その後の日本の経済状況についてはリストラ、合併の嵐で、構造的にも97年から大体03年までの間に日本の社会構造は大きく変換を余儀なくされました。その代表例の一つともいえるが日本の銀行で、今のアメリカの金融機関のように生き残りをかけて各銀行はこの時期にお互いに合併を繰り返した結果、現在において三大メガバンクと呼ばれる三つの銀行に主要行としての機能がほぼ集約されるようになりました。それで、その現三大メガバンクがどのように構成されたのかを列記すると、
・みずほ銀行 (第一勧業銀行・富士銀行・日本興業銀行)
・三菱東京UFJ銀行 (三菱銀行・東京銀行・三和銀行・東海銀行)
・三井住友銀行 (住友銀行・さくら銀行)
と、こうして書いて見るとほんのちょっと前まで日本にはたくさん銀行があったことがわかります。今でこそ思いますが、以前の日本人はこんなに銀行があるのにどうやって振込とか送金とかしていたんだろう。非常に面倒くさそうな気がするのですが。
他の業界でもこの銀行業界のように合併が繰り返され、その度に吸収される会社の側では大幅な人員カットことリストラが行われたと言います。その結果失業率も増えるなどして一時的に日本社会は大きく暗く落ち込みましたが、敢えて前向きに取るならこの時の苦しみの経験が今のまだマシな状況を作ったのだと亘がるのなら、決して無駄な時代ではなかったと思えます。
それでこの平成不況がいつ、どのようにして終わったかですが、これについては私が以前に書いた「竹中平蔵の功罪~陽編~」(http://imogayu.blogspot.com/2008/08/blog-post_02.html)の中で書いてあるので、そちらをご覧ください。正直言ってこの記事は恐らく一番私も力を入れて書いた記事なので、本音を言えばもっと高く評価されてもいいと思ってます。
ここまででこの平成不況の大まかな概要はほとんど書き終えているのですが、それでは何故これほど長い間日本で不況が続いたのかがまだ疑問として残ります。これまでの記事の中にもちょっとずつその原因を挙げてはいるのですがここで簡単にそれをまとめると、まず第一に政府の政策ミスが挙がってきます。政府としてはバブル崩壊以後の企業の業績不振を単純に、「個人消費の停滞」と判断し、個人消費を浮揚させるために散々公共事業を行いましたがこれは根本的な間違いであり、現在において実際の不況の原因は信用不安にあったとほぼ断定されております。
この信用不安とはちょうど今アメリカで起こっている経済問題がこれで、お金を貸しても物を売っても、その企業がお金を自分のところに返すか払う前に潰れてしまうのではないかと互いに尻込み、資金の流通が滞ってしまうことを指しています。日本の場合はそれまで資金融資の担保となっていた土地に代表される不動産の価格が大きく目減りしてしまい、金融機関としても損失を明るみにさせないために無理やり融資した資金を取り立てずに不良債権をどんどんと抱え込んだのが不況を長引かせた原因とされています。なので竹中氏がこの不良債権を徹底的に減らした途端に、まぁ中国の景気に引っ張られたのもありますが日本の景気も復活したわけです。
こうした不況原因の特定ミスともう一つ、この不況を長引かせた原因となったのは根強かった日本経済への楽観論でしょう。
当初、バブル期は異常ではあったがしばらくすればまた日本の景気はよくなるだろうという楽観論は非常に強かったと思います。その根拠として、当時の各政策決定者たちも不況が始まった当初から不良債権を問題視していたのですが、ひとまず公共事業をやって景気が落ち着いてから対処しようと、皆が皆この問題を先送りにしていた事実があります。この時の状況をたとえて言うなら、火事が起きているのに火元を消さず、自分の周りにだけ水を撒いているようなもんですね。
何故こうした楽観論が根強かったのか私の考えを言わせてもらうと、やはりバブル期以前に経済大国としての地位を固めたことにより日本人全体で経済に対して強いうぬぼれが生まれた気がします。逆を言えば相当に自信を持っていたために、現実の経済として通用しないことがはっきりした97年の転機によって今度はものすごい自信を失って日本式経営への批判が急に巻き起こっています。そこら辺は次回で解説しますが、こういったことから不況になった当初、真面目に不況対策を考えていなかったのが裏目に出たのだと私は考えています。
そして最後に、これなんかまんま私の持論なのですが、この連載の「その六、ポストモダンとデフレ」で書いたように日本においてポストモダン化現象が起きたのも原因として考えてもいいと思います。結構さらりと書いてはいますが我ながらなかなか重要なポイントを突いていると自信をもって公開してはいるものの、反響が少なく一人で落ち込んでおります。
前回では失われた十年における「平成不況」において、日本の景気を決定的に悪化させるに至った97年の転機について解説しました。その後の日本の経済状況についてはリストラ、合併の嵐で、構造的にも97年から大体03年までの間に日本の社会構造は大きく変換を余儀なくされました。その代表例の一つともいえるが日本の銀行で、今のアメリカの金融機関のように生き残りをかけて各銀行はこの時期にお互いに合併を繰り返した結果、現在において三大メガバンクと呼ばれる三つの銀行に主要行としての機能がほぼ集約されるようになりました。それで、その現三大メガバンクがどのように構成されたのかを列記すると、
・みずほ銀行 (第一勧業銀行・富士銀行・日本興業銀行)
・三菱東京UFJ銀行 (三菱銀行・東京銀行・三和銀行・東海銀行)
・三井住友銀行 (住友銀行・さくら銀行)
と、こうして書いて見るとほんのちょっと前まで日本にはたくさん銀行があったことがわかります。今でこそ思いますが、以前の日本人はこんなに銀行があるのにどうやって振込とか送金とかしていたんだろう。非常に面倒くさそうな気がするのですが。
他の業界でもこの銀行業界のように合併が繰り返され、その度に吸収される会社の側では大幅な人員カットことリストラが行われたと言います。その結果失業率も増えるなどして一時的に日本社会は大きく暗く落ち込みましたが、敢えて前向きに取るならこの時の苦しみの経験が今のまだマシな状況を作ったのだと亘がるのなら、決して無駄な時代ではなかったと思えます。
それでこの平成不況がいつ、どのようにして終わったかですが、これについては私が以前に書いた「竹中平蔵の功罪~陽編~」(http://imogayu.blogspot.com/2008/08/blog-post_02.html)の中で書いてあるので、そちらをご覧ください。正直言ってこの記事は恐らく一番私も力を入れて書いた記事なので、本音を言えばもっと高く評価されてもいいと思ってます。
ここまででこの平成不況の大まかな概要はほとんど書き終えているのですが、それでは何故これほど長い間日本で不況が続いたのかがまだ疑問として残ります。これまでの記事の中にもちょっとずつその原因を挙げてはいるのですがここで簡単にそれをまとめると、まず第一に政府の政策ミスが挙がってきます。政府としてはバブル崩壊以後の企業の業績不振を単純に、「個人消費の停滞」と判断し、個人消費を浮揚させるために散々公共事業を行いましたがこれは根本的な間違いであり、現在において実際の不況の原因は信用不安にあったとほぼ断定されております。
この信用不安とはちょうど今アメリカで起こっている経済問題がこれで、お金を貸しても物を売っても、その企業がお金を自分のところに返すか払う前に潰れてしまうのではないかと互いに尻込み、資金の流通が滞ってしまうことを指しています。日本の場合はそれまで資金融資の担保となっていた土地に代表される不動産の価格が大きく目減りしてしまい、金融機関としても損失を明るみにさせないために無理やり融資した資金を取り立てずに不良債権をどんどんと抱え込んだのが不況を長引かせた原因とされています。なので竹中氏がこの不良債権を徹底的に減らした途端に、まぁ中国の景気に引っ張られたのもありますが日本の景気も復活したわけです。
こうした不況原因の特定ミスともう一つ、この不況を長引かせた原因となったのは根強かった日本経済への楽観論でしょう。
当初、バブル期は異常ではあったがしばらくすればまた日本の景気はよくなるだろうという楽観論は非常に強かったと思います。その根拠として、当時の各政策決定者たちも不況が始まった当初から不良債権を問題視していたのですが、ひとまず公共事業をやって景気が落ち着いてから対処しようと、皆が皆この問題を先送りにしていた事実があります。この時の状況をたとえて言うなら、火事が起きているのに火元を消さず、自分の周りにだけ水を撒いているようなもんですね。
何故こうした楽観論が根強かったのか私の考えを言わせてもらうと、やはりバブル期以前に経済大国としての地位を固めたことにより日本人全体で経済に対して強いうぬぼれが生まれた気がします。逆を言えば相当に自信を持っていたために、現実の経済として通用しないことがはっきりした97年の転機によって今度はものすごい自信を失って日本式経営への批判が急に巻き起こっています。そこら辺は次回で解説しますが、こういったことから不況になった当初、真面目に不況対策を考えていなかったのが裏目に出たのだと私は考えています。
そして最後に、これなんかまんま私の持論なのですが、この連載の「その六、ポストモダンとデフレ」で書いたように日本においてポストモダン化現象が起きたのも原因として考えてもいいと思います。結構さらりと書いてはいますが我ながらなかなか重要なポイントを突いていると自信をもって公開してはいるものの、反響が少なく一人で落ち込んでおります。
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