失われた十年における事実整理とそれに対する私の見方だけだったこれまでの記事に対し、今回は後半のポイントとなる社会心理の話を完全私独自の考えで披露します。結論から言えば私は90年代には薄く、幅広い終末思想のようなものが存在し、それがいろいろなものと結びついて当時の独特な社会空気を作ったのではないかと考えています。
さて終末思想とくれば恐らくもう読んでいる方は察しがついているでしょうが、あの「ノストラダムスの大予言」です。これ自体については本の著者の五島勉氏の眉唾本ですが、本が出た当初は売れに売れて私が子供だった90年代初頭でも1999年には世界が滅亡するという話には相当な影響力がありました。さすがに99年を過ぎた現在ではノストラダムス自体が死語になりつつあるのですが、私がこのところ失われた十年の大部分に当たる90年代を思い起こすにつけ、このノストラダムスの予言が幅広く浸透し、意識してかしてないか当時の人たちの行動や思想に少なからず影響を与えていたのではないかと思うようになりました。
まず実際にノストラダムスの与太話が大きな行動、事件に繋がった例として、前回に解説したオウム真理教による地下鉄サリン事件です。というのもこのオウム真理教は教団内で終末思想を持っており、それに向けてあれこれ準備すると言う名目でいろんな武器や化学兵器の開発といった非合法な活動を行っており、このオウムの終末思想に影響を与えたのが前述のノストラダムスの予言だと言われております。
現実に当時、一部(大槻教授とか)から批判されだしてきた五島勉氏が1999年の世界滅亡について、「目には見えない何かによって人類は滅亡する」等と言い出し、オウムの起こしたサリン事件によって化学兵器などが俄かに一部(オカルトマニア)で注目されました。
またこのオウム事件に限らなくとも、前々回に解説した阪神大震災やバブル崩壊による戦後初めての長期不況によって日本人全体で言いようのない不安を持ち合っていたと思います。こうしたバックグラウンドの元で、日本人は「見えない不安」というものを全体で薄いながらも抱えだし、その結果改めて思うと当時限定の独特な文化が生まれていったというのが大まかな概略です。
そうして生まれた当時独特の文化、風習の一例として、私がにらんでいる一つの候補は心理学です。それまで哲学とかと並んでマイナーな学問だった心理学が俄かに脚光を浴びて、現在はどうだか知りませんが当時は絶大な偏差値を誇るほど入学希望者が殺到したブームのきっかけはハリウッド映画の「羊たちの沈黙」からですが、その映画だけでなく先ほどの終末思想に端を発するオカルト分野の盛り上がりもこのブームを後押ししていたのではないかと私は考えます。なおこの心理学ブームと並んで90年代初頭より勃興したものとして、今も続く「名探偵コナン」を代表とする推理マンガも、こうした背景の元だからこそ成立したのではないかと思います。
勘のいい人ならわかるでしょうが、心理学と推理マンガ、つまり人の心理などといった曖昧でよくわからなく、理解しづらいものが不思議と当時に流行っています。今度はこの「よくわからない」と言うものがキーワードになりますが、やっぱこっちも改めて考え直してみるとよくわからない、わかりづらい、曖昧模糊としたものほど当時は何故かいろいろ流行ってる気がします。
その方面での代表格はアニメの「エヴァンゲリオン」ですが、これなんかユング心理学、聖書(オカルト方面の)、難解なストーリーと、今私が挙げた三拍子を全部備えている優等生で、案の定90年代後半には爆発的なヒットを博して現在に至るまで製作したアニメ会社が関連商品で儲けていられるという大傑作となりました。なおこのエヴァンゲリオンがヒットした当時に発売したファイナルファンタジー7の主人公のクラウドがややメンヘラなキャラクターとなったのは、このエヴァンゲリオンのストーリーが影響したと言われています。まぁ当時はクラウドに限らなくとも、メンヘラなゲームやアニメのキャラクターが非常に多く、恥ずかしい話だけど当時の私の小説もそんなんばっかだったし。
このようにはっきりと意識しないながらも終末思想を日本人は全体で広く抱え、その影響で終末思想とやや系統の近いオカルトや心理学が人気になり、現実でも阪神大震災やオウム事件など社会を揺るがし不安に陥れる事件が連続したために、日本人の行動や思想が刹那的、自暴自棄なもの(クラウドっぽい?)へとなっていった……といったところでしょうか。この辺は後でもっと詳しく解説します。
そんでもってこうした傾向に最後の一手を入れたのが、私は97年に起きた酒鬼薔薇事件だと考えています。この事件が発生した当初、そして犯人が中学生だったということがわかった際の社会の混乱振りは私もはっきりと覚えているほどで、この混乱がどのようにその後に繋がったか一言で言うとすれば、私はやっぱりこの事件によって日本社会がそれまで持ってきた様々な規定概念のようなものすべてが崩れ落ちたのではないかと考えています。折も折で私が経済的に転換点だと述べた97年で、長らくエリートコースとされてきたいい大学に入っていい企業に就職すれば将来安泰とか、子供は社会の宝だとか、親父狩り事件に代表される子供から大人への尊敬意識といった、それまでは社会上で当たり前とされてきた規範や規定のほとんどが否定されるかなくなっていったように思えます。
その結果は、その後続く私から見れば退廃的な文化の勃興や刹那的な意識を持つ若者の増加、延々と続く自分探しといった現象の発生に繋がったのではないかと思います。今の後ろ向きな世の中も、言うなればこの97年から始まったのではないかと、私なりの提言です。次回からはこの記事で展開した話を個々に分けて解説して行き、この失われた十年の以前と以後で転換した日本の社会意識や風習を紹介していきます。
それにしても、今日は思いっきり飛ばして書いたなぁ(ノ∀`) アチャー
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