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2018年4月3日火曜日

能力の衰退する様

 先日、最新刊が発売されていたため長谷川哲也氏の漫画「ナポレオン~覇道進撃~」の14巻を購入しました。この巻から舞台はロシア遠征に入るのですが、知っている人には早いですがナポレオンとフランスの凋落はまさにここから始まります。このロシア遠征でナポレオンは軍事の天才とい呼ばれたかつての姿と違い、要所要所で決断ミスを犯し、挙句に部下の適切な進言すらも退けて不要な失敗を重ねていくこととなります。かつての英雄と見比べてみるとその姿は別人のようにも見え、かえってその若かりし頃の華々しい活躍を見ているだけにその落ち目ぶりには目をそむけたくなる感情すら覚えます。

 「老獪」、という言葉はありますが、この言葉は実は極一部の限られた、選ばれた人間にしか実は使えない言葉だと私は思います。現実には多くの人間は若い時分のピークを過ぎると例外なく能力が落ちていき、年を取ってますます勘や経験がさえるなんて言うことは実際にはほぼ起こらないでしょう。その上で能力が落ちていく様は上記のナポレオンのように、かえってその人のピーク時を知っている人間からしたら見るに堪えない感情というものを喚起させるでしょう。

 ここまで長く生きる予定はなかったものの自分もある程度年を食ったせいか、一部周りでそのように能力が落ちていく人間を目にすることも増えてきました。さすがに本人に対して直接言わないものの、「ああ以前だったらこのワードを示唆するだけで感じ取ってくれたのに」、「理解や反論する際の反応速度が前よりガクンと落ちている」などと感じることは、年々増えています。
 書くいう私自身もこと表現力においては2009年が明らかにピークで、あの時のような刃物をわしづかみするかのような表現は現時点において再現することは不可能です。慎重さに欠ける文体ではあったものの、内容の深層を抉りほじくるようなあの表現力はあの時分だったからこそできたものだったのでしょう。

 一応、普段の日常では反応速度や別視点、切り返しなどの点で目立つほど落ちてはいないものの、前よりコンディションに左右される量が増えている気はします。自分の密かな隠し刀こと観察力に関しては去年あたりから「そろそろヤバイ水準に入ってきた」と思えむしろ意識的に抑え込むようにしてきましたが、無意識に見透かすようなことがなんか増えてきているような気がします。

 話は戻りますが、やはり能力が衰退していく様は誰にとっても、誰が対象であっても見ていて辛いものがあります。プロ野球選手なんかはこうして特集記事も作られていますが、やはり往年のスターほど晩年の成績悪化は寂しさを感じずにはいられません。それと比べると規模はちっちゃいですが、周囲の人間でも認知症発祥レベルとまで行かずとも、ちょっとした反応速度や好奇心が落ちているとはっきり認識した際は、言葉にならない感情を私も覚えます。

 今思えばですが2013年に一旦日本へ帰国した際、大学時代の友人と久々に会って夜中に軽く討論となった際、「全く衰えがないね」と相手に言われたことがありました。どちらも学生の身分を離れ社会人となり思考がやや理想中心から現実中心へとシフトする立場であったものの、話題によってはまんま学生時代のまま仮定に仮定を重ねた上でどこまで論を発展させるかという鋭さにおいて、私も相手に対し全く同じ感想を覚えていました。
 っていうか自分にとって相性的に一番苦手なタイプなだけに、この友人に対しては内心で「むしろ衰えていてくれ……」と願っていたのですが全く期待には応えてくれませんでした。

 上記のエピソードは5年前ですが、果たして今の自分が5年前のポテンシャルを維持できているのかは自覚できません。自覚しようにも、現状のポテンシャルを最大限引き出せる相手が今周りにいないというのが大きいですが、上記とは別のまたこちらも偉く優秀だった大学時代の友人に先月会った際、めちゃくちゃハイテンポな会話を久々に堪能出来て、「相手に恵まれてないだけだな」となんか自己納得できました。
 ただ真面目な話、自分の限界値と同等もしくはそれ以上の相手でなければ自分の能力は測りようがないというのは真実だと思え、逆を言えば自分の限界値を把握できるかは意識しないとできないし、出来たらすごいラッキーだと思います。自分は学生時代に自分の限界値をある程度見えたのが物凄いプラスでした。

 いろいろと行ったり来たりな話をしてますがここで何を言いたいのかというと、自分の能力の衰退を抑えるというのも一つの才能であり努力だと言いたいわけです。最初に述べた通りに加齢とともに来る能力の衰退は避けられません。通常、その能力の衰退に対して知識や経験でカバーするのがこれまでの世界のルールでしたが、最近は技術や知識の陳腐化や更新が早いため、日常だとこれまでの埋め合わせが効かなくなっています。
 そうした中、まぁ以前からも同じことでしょうが、年齢が上がっても往年時から衰えない、むしろ前以上にパワーアップするような人というのは非常に稀だし、たとえピーク時の能力自体が低いとしても、それを維持させるというのはもはや一つの才能であり能力だと言いたいわけです。

【田中圭一のペンと箸-漫画家の好物-】第九話:池上遼一と福井の越前ガニ

 こうした例に当てはまる人として、上のリンク先で描かれている池上遼一氏などまさに典型でしょう。この人の場合、昔から絵が綺麗だったのに年々その凄みを増してきているという恐ろしい人で、レポート漫画を描いた田中圭一氏もきちんとその点をついているあたりよく見ていると思います。
 にしても、娘の中学校の課題に代筆で昇り竜描いちゃうってなにそれ……。

 能力の衰退がない、むしろ前より凄みを増しているという人物として漫画家では池上氏が挙がってきますが、今それよりもホットな人物は何といっても巨人の上原投手でしょう。さすがにスタミナが落ちているからか先発ではないものの、その投球術と現時点でも日本歴代投手の中でぶっちぎりトップの制球力は圧巻というよりほかなく、同年デビューで衰退の激しい松坂投手ともどうしても比べてしまいます。上原投手の場合、メジャー帰りというのもあるからかもしれませんが前よりも投球に余裕がみえるというか、どうやって攻略すればいいのかすらわからない気迫すら感じます。

 最後にちょこっとだけ書くと、能力の衰退、減衰に影響する要素を挙げるとしたら攻撃性、排他性だと私は思います。この辺はまたやる気があれば書きます。

2017年12月23日土曜日

知識の吸収と追求

 学生時代にある友人から、「僕は花園君と違って何か特定の情報を追い求めて自分で調べようという熱意が持てず、素直にこの点では花園君がうらやましい」と言われたことがありました。自己分析について自信を持っている私ですが、この指摘はされるまで意識したことがなかったため意外なものでしたが、改めて思い返すにつれ実に鋭い指摘だったと思います。
 この指摘をした友人は、控えめに言っても知識の吸収については超一流でした。一回伝えたり教えたりした内容は確実に覚え、勉強面でも一を知れば十を知るような勢いで身につけ実際に学術成績は凄まじく高かったです。しかし本人が言う通り、何か周りから強制されたりするなど必要性に追い立てられない分野については自分から率先して知識を吸収しようとすることはなく、それがために世間知らずなところも多く、時によっては妙に失礼なことも平気で口にするところがありました

 この知識を追い求めるという私の特徴ですが、断言すると非常に際立った特徴であり自分の個性を構成する重要な要素の一つでもあります。先ほどの友人と違って私は、事知識の吸収については決して優秀ではなく、むしろ物覚えが悪いと感じるほどのレベルしかなく、勉強面もそんな自慢できるほどではありませんでしたし仕事で必要な知識とかも、「まぁ今何とかなってるし……」等と言い訳しては習得を先送りにしたがる傾向も激しいです。
 その一方、自分が興味を持ったり、何かしらきっかけを得た分野に対する知識の習得意欲ははっきり言って異常者レベルで激しく、このブログでもたまに記事書きますが戦闘機や軍艦といったミリタリーについてはつい2~3年前までは全く興味がなく、F-15とF-16の違いやカナード翼の有用性はおろか、酸素魚雷の恐ろしさについて全く知りませんでしたが、今だったら一定レベルであればこうした分野について語れるようになっています。
 またこうしたふざけた分野でなくても、今JBpressでたまに書く中国の業界関連経済記事も大体2日程度のリサーチでいつも書いていますが、ほぼ何も知識がない状態からあそこまでもっていくのは自分でも結構不思議です。たまにコメントとかで、「非常によく調べている」等とついたりすると、光栄だと感じるとともに「2日のリサーチで本当にいいのだろうか?」などと不安に感じることも正直あります。

 話は最初の友人に戻りますが、既に書いている通り彼は何か必要性に追い立てられない限り、自分で知識を広げようという意欲というか行動を見せることはほとんどありませんでした。その代わり必要性を感じたらすごい勢いで習得し、定期テストも大体そんな具合でテスト前日の一夜漬けでいつもいい成績を取っていました。
 この友人に限らず、知識の吸収で優れている人は全般的に知識の追求についてはあまり熱心でない人間が多いというのが私の実感です。教えたらすぐに身に着けてしまうのですが、教えられたりしない限りは自ら率先して現状あまり関係ない分野に触れようとするような行動をとることはあまりなく、基本「受け」の姿勢を維持します。一言で言えば、関係ない分野については「関係ない」で一気に見切りをつけてしまうような具合です。

 では知識の吸収が悪い人間は反比例的に、知識の追求に熱心となりやすいのか。この問いに対する答えはNOで、あくまで私の実感で言えば知識の吸収が悪い人はむしろ、知識の追及も不熱心であることの方が多く、むしろ吸収のいい人よりも不熱心でしょう。

 そうなると今度は、どんなタイプが知識の習得というか新分野開拓に熱心になりやすいのかという問いが出てきますが、結論をここでいえばこの手のタイプは「突然変異」的にランダムで出てくるのではないかというのが私の見方です。というのも私以外で知識の追求が激しい人間はいるかと言ったら私の周りだと一人の友人くらいしか浮かばず、それ以外だと未知の分野や関わりのない世界についてグイグイ突っ込んで知識を追求する人間はほぼ皆無です。
 なおその友人は、私同様に必要性に追い立てられるわけでもなく無関係の分野であっても知識を広げようとしますが、私と比べると広げようとする傾向がやや異なっており、私が政治やホビーにより傾注しようとするのに対し友人は経済やアカデミックに重心が置かれ、被る分野もありますが不思議な具合に住み分けができています。

 最後に発展応用として書くと、こうした知識の追求に熱心な人間はあまり出身やスペックに関係なく突然出てくるだけに、全体としてやはりレアな存在だと考えます。その上でこの手のタイプが社会で有用かと言えば必ずしもそうではないと自分でも思うものの、その特性に合った特定の部署なり分野に配置すれば思わぬ活躍を見せることもあると思います。野球でいえば「アンダースローのサウスポー」のようなややレアな存在だと割り切り、今使えるかどうかわからないけどとりあえず囲っておくような感じで抑えといて、いろいろ試してみると面白いんじゃないかと自分で思います。

2017年3月26日日曜日

ロジックで考える人の希少性

 今日動画では見ていませんが怪我を押しての強行出場を続けた稀勢の里関が本日、二場所連続優勝を遂げられたとのことで、正直私も一回の優勝で横綱にさせたことについていささか不安を感じていましたが、今場所の優勝についてはその怪我の具合を考慮すると見事としかいうほかなく、日本人横綱としての名を恥ずかしくないものにした立派な功績だと感じました。

 さてそれで本題ですが、以前にも一度書きましたが中国でコナンや金田一といった推理漫画、果てには京極夏彦氏などの小説は中国でも大人気で、特に小説の方は海外文学コーナーに行くと日本人作家の小説がずらりと並んでおり、実質「海外文学=日本文学」と言ってもいいくらいの状態です。こうした日本の文物が受け入れられる背景について中国人の友人の嫁さんが、「中国人にはあんなロジック(論理)は組めない」と分析し、だからこそ受け入れられるという見方をしめしたことがありましたが、確かに中国人に推理小説を書けそうな人ってあまり浮かばないなと思うだけに、妙に納得させられる意見でした。

 ただこうした中国人からのコメントを受けつつも、果たして日本にロジックを理解している人はどれくらいいるのだろうかという問いがこのところ頭をもたげています。この場合のロジックというのは意見や主張の論拠や合理性を筋道立てて説明、理解することを指しており、想定不可能な事態や事故による結果の変動や予測間違いは含みません。
 敢えて私流に言わせれば、「話せばわかる」というのがロジックで考えられる人の定義となります。

 こんな風な疑問を持つのも、単純にロジックが日本社会で通ることが少ないと思うからです。いくらか入る感情の余地を考慮したとしても結構無茶苦茶な、有体に言えば明らかに論理破綻していて誰もが上手くいかないと考える意見が通って、実施して、案の定うまくいかなくなるというパターンは東電の凍土壁を始め世の中いくらでもあります。そういうパターンに多いのは、「声のデカい奴の意見が通る」という情景で、要するに発言力の大きさで採用意見が決まる、意見の中身というより誰が発言したかで決まるという形態です。
 っていうか声のデカい奴が大抵どこでも無能というのが地味に大きなトピックのような気もしますがそれは今回は割愛しましょう。

 こう言う風に言えば、「いや、間違っているのはわかるんだけど相手が相手だけに反論できない」という言い訳をほぼ確実に言われますが、意見に対して何故その意見が誤っているのかなどを論理立てて説明するよう求められても案外その手の言い訳する人は説明できません。なんとなくですが、ぼんやりとその意見は誤っているとは感じつつも、それをきちんと理解するには至れていない感じです。
 こうした傾向は通常の議論でもよく散見され、私が論拠の不備や自分の意見を優位性があるとまでは言わなくとも存在する可能性はあると主張した場合、よう「でもそれは気持ち的に納得できない」などと、反論意見において感情論を主張されることが多いことからもロジックがないなと感じる人は多いです。ゲロ吐くような気持ちになろうが合理性、論理性的に正しい意見は受け入れるというような精神は、大学時代を除くと周囲の人間に感じたことはありません。

 これ以上長く述べててもしょうがないので言いたいことを述べると、案外大学教育でそうしたロジックの組み立て方や議論について学ぶべきものを学んでいないという人がこのところ多いような気がします。特に、議論で負けることを恥だと思い論理的に破綻していながらも主張を曲げないような人を見る度、議論で自分の意見を曲げることは恥ではないということすら学ばなかったのかと感じたりします。
 なお論理破綻を無視して感情論を述べる人間に対しては自分も変な手加減は要らないと考え、そこから感情論に切り替えて相手への攻撃を始めることが多いです。基本的にこの手の感情論の議論は論理を無視しての怒鳴り合い、罵り合いとなるわけですが、話せばわかる人にはもちろんこうした手段は使いません。けど使っていいと思う相手なら遠慮なく使い、でもって年齢と共に声もでかくなってきたので最低限引き分けには持ち込む自身は今の自分にはあります。無論そうした手段がいいとは思わないものの、ロジックを考えない人にむざむざ屈するよりかはという気分で私も感情論を主張するわけです。

2016年11月20日日曜日

表現者としてのピーク

 この週末の二日間、自分でも呆れるくらいにKindleの電子書籍をダウンロードしておりました。というのもここ一ヶ月くらいずっと、一切全く何もダウンロードできなかったからです。あくまで私個人の主観で理由を予想すると、恐らく中国では11月11日(双十一)が「独身デー」といってインターネット通販の大幅値引きキャンペーンが毎年各社で行われているため、この前後の期間でサーバーへの負担を軽減するために国外の一部ネットサービスに制限をかけていたのではないかと睨んでいます。現に双十一が終わってまた復活しましたし。
 この間に購入はできてもダウンロードの出来なかった新刊を始め、無料キャンペーンで配信されていた漫画などもあらかじめ購入クリックしていたため、ダウンロードが復活するや一挙に十冊近くダウンロードし始めてしまい、また途中途中で読んで気に入った漫画をさらに追加で大人買いしたりしたもんだからなんかずっとタブレットを片手に持ってた様な二日間でした。なお読んだ中で予想外に面白かったのは金田一蓮十郎氏の「ライアー×ライアー(「ハンター×ハンター」っぽいタイトル)」でした。

 話は本題に入りますが。今回無料だからといってダウンロードした中には押見修三氏の「悪の華」の1~2巻もあり、この漫画は既に一回通しで呼んでいるものの久々に読み返したところ相変らず面白いと感じると共に、「この作者はこの作品で燃え尽きたのかな」と思う節がありました。
 この「悪の華」は全11巻で構成されており中身は主人公が中学生の頃と高校生の頃とで大きく前後編に分かれているのですが、私を含め後編の「高校生編」はあまり評価が高くありません。逆に前編はヒロインこと「仲村さん」という超絶エキセントリックなキャラクターが口を開けば「クソムシが、クズネズミが」という毒舌をまき散らし、今回読み返した際も既に内容を把握しているにもかかわらず毎回強く圧倒されます。

 私はこの「悪の華」の後に押見氏が描いた「ぼくは真理のなか」、「ハピネス」も読みましたが、単純に嗜好の違いだけかもしれませんが「悪の華」に感じた圧倒的な迫力は全く感じられず、はっきり言えばどっちもあんま面白くありませんでした。しかもエキセントリックなヒロインがぐずぐずした男性主人公を引っ張り回すというような構図がずっと続いているし。
 逆に、「悪の華」が連載される直前に押見氏が描いた「漂流ネットカフェ」はまだ面白く、「悪の華」程ではないにしろやはりそれなりに作者の持ち味が出ていて読んでて迫力も感じられて個人的に高く評価しています。それだけに、やはりこの作者は「悪の華」前編終了時に少し燃え尽きてしまったのかなと今回感じたわけです。

 なにも押見氏を貶す目的でこういうこと書いているわけじゃなく、やはり漫画家なり作家なりには表現する力のピークというか波というものは確実に存在します。以前に取り上げた週刊少年ジャンプの編集長をしていた鳥嶋氏も、対談で話した「ベルセルク」という漫画の作者である三浦建太郎氏に対し、「ベルセルク」の前半終了部における「蝕」という場面を名指しして、「あそこで君は一回燃え尽きた」というようなことをはっきり述べ、言われた三浦氏もその通りと認めていました。

 複数の作品を長期に渡って書く場合でも、長期連載作品の場合であっても、やはりどこかしらにその作者の表現にはピークがあります。しかもピークを一旦迎えてしまうと大きく調子を落とさない限りは読者は依然と面白さは感じ続けられるものの、段々と面白さが増していき盛り上がっていくというような臨場感はどうしてもなくならざるを得ず、「今も面白いけど前のあの辺りの方がすごかったよなぁ」なんて言われてしまいます。私が子供の頃だったらやっぱり「ドラゴンボール」のフリーザ編最終盤がまさにこうして挙げられる例の筆頭でした。
 逆の例としては、「ハンター×ハンター」でヨークシン編が非常に面白く、もうこれ以上この漫画は面白くはならないだろうと思ってたら、その後のグリードアイランド編、キメラアント編はもっと面白くなっていきこの作者すげぇと心底思いました。

 話は戻りますが、やはり早くにピークを迎えてしまうとどちらかといえば不便です。確か「ジョジョの奇妙な冒険」の作者の荒木飛呂彦氏が連載漫画で人気を維持する上で段々と面白さというか熱を高めていくことが大事で、基本的には右肩上がりの展開を維持するべしと言ってましたが、私の言わんとすることもこれと同じです。しかし意図的にそういう風な右肩上がりの話を作っていくならともかく、作者個人のセンスなり感覚なりがピークを迎えちゃうと、まぁちょっと言い辛いですがあんま良くないです。
 場合によってはそこからスランプに入り、「ブラックジャック」など大人向けの漫画を描くようになった手塚治虫や、昭和史を始めとした歴史、伝記、自身の戦争体験漫画を主軸に置いた水木しげるなど新境地を切り開き復活する漫画家もいますが、こういうのはどちらかといえばレアでしょう。

 小説に関してもそうですが、やはり話作り、文字表現などはどこかしらでピークを迎え、そこから段々と落ちていくものだと私は考えています。無論ピークを迎えたからと言ってその後の作者は即無価値になるというわけではなく、その後は作り上げたキャリアや経験を使った表現活動を行って行けばいいのですが、ピークを迎えるまでと迎えた後でどのように心境を置くかで物事がいろいろ変っていくのではないかという気がします。

 ここで私個々人の話になりますが、地味に文章表現に関してはとっくにピークを過ぎており、具体的に言えば2009年に連載していた「文化大革命とは」の記事を書いてた頃がピークで、この連載記事を読み返すたびによくこれだけ難しい内容をここまで小ざっぱりまとめたものだと我ながら呆れると共に、同じような表現を再現しろと言われたら無理だという本音が出てきます。昔から難しい内容をわかりやすく説明するという表現には自信があったものの、多分もうあの頃以上にこうした表現を駆使することは永遠にないでしょう。
 一方でその後、表現手法を色々学んだこともあって新聞記事としての表現、アジテーターっぽい表現、分析レポート的な表現に関しては間違いなく今の方が上で、野球に例えるならかつて猛威を振るった縦に大きく割れるフォークこそ失ったものの、カーブやチェンジアップなど他の変化球を習得して使い分けが上手になったというような感じです。ただ欲を言えば、昔みたいなフォークを「┌(`Д´)ノセイヤッ」とばかりにもう一度投げたいという願望は常にあります。

 文章表現に関しては上記の通り、器用さは増したものの一点突破的なパワーではピークを越してしまいましたが、ことセンスというか観察力、判断力、分析力に関しては未だピークを越えておらず、毎年確実に凄みを増してきているという実感はあります。どうしてそう感じるのかというと単純に、同じ風景を見ているにも関わらず以前は気づかなかった違いやポイントを今だと簡単に気づけるようになっており、また一つのニュースを見てもそこから導き出される次の展開予想の数が毎年増え続けているからです。最低でもあと二年くらいはこの方面の成長は続くようにも感じているのですが、ただでさえ歩いている最中も常に何か考えててボーっとしており周囲に気が付かないことが多いだけに、二年先以降もピークを迎えなかったら逆にヤバいのではないかと一人警戒しています。

2016年10月19日水曜日

後悔より始まる責任感

 前回の記事では映画のスパイダーマンについて延々と語りつくしましたがリアルでもあれやると軽く引かれます。とはいえ、自分がどれだけスパイダーマンが好きかはあの記事読んでもらえば大体わかってもらえるでしょうが、私が何故スパイダーマンを好むかと言うと彼のヒーローとしての孤高性はもとより、彼がヒーローとなったきっかけとその動機が個人的に胸を打ったからです。

 映画を見ている人なら話は早いですがスパイダーマンの中の人ことピーター・パーカーは偶然スパイダーマンとしての能力を得た直後はその力を私利私欲に使い、掛け試合に出てお金を稼ごうとしたりしますが、捕まえようと思えば捕まえられた強盗を「自分の仕事ではない」と敢えて見逃したところ、その強盗によって自分の養父である叔父が殺害されるという皮肉な結果を招くこととなります。この体験と叔父から受けた言葉からピーターは、自分の持てる力を可能な限り他人のために使うヒーローとなることを決心し、自己犠牲的なヒーロー稼業にのめり込んでいくこととなるのですが、スパイダーマンのヒーローとしての原点はやはりこの時の「後悔」にあると言えるでしょう。

 ここで話は変わりますが、今年に高い人気を保ったままジャンプ作品としては珍しく円満に終了した「暗殺教室」という漫画作品があります。この作品の主人公の「殺せんせー」は頭もいいし教え方も上手だし授業帯でも生徒の悩みにいくらでも応えてくれる上にマッハ20で飛び回る、教師としてはこれ以上ないくらい理想的な教師で生徒たちを時に厳しく時に優しく導きます。しかしその姿は見ようによってはやはり自己犠牲的で、まるで生徒の存在が人生すべてであるかのようにももえるのですが、ネタバレになるので核心については省きますが、この殺せんせーも過去に起きたある事件に対する深い後悔をきっかけに生徒たちへの指導に全精力を傾けることを決心するようになります。
 この「暗殺教室」についてこうした評論はあまり見ませんが、突き詰めればこの作品は後悔に対する物語だと私はみています。

 あくまでお話の上ですが、上記の二作品における主人公はどちらも過去のある後悔をきっかけに強い責任感を持つようになり、その後の行動、ややもすれば自己犠牲的な行為を行うようになります。私は何もこうしたことはお話の中だけでなく現実でもそうであるように思え、責任感というのは大抵は後悔より始まるのではないかと思え、特に他人を巻き込む後悔ほど「二度としてはならない」という意識を喚起させるものはなく、そうした体験が多ければ多いほどその後の行動は慎まれ、反省を生かそうという意識が働いて当人、ひいては周囲にとってもいい影響を及ぼすのではないかと私は考えています。とはいっても、度が過ぎて自己犠牲的になりすぎたらそれはそれで問題でしょうが。

 世間ではよく後悔に対してネガティブな印象が強くしないならしないに越したことがないとも言われますが、自分はそうは思わず、率先して後悔しろとまでは言いませんがあったらあったで役に立つから避けるようなものではないと思います。もちろん後悔から何も学ばず同じ後悔を何度も繰り返すのは問題外で、一番肝心なのは二度と繰り返してはならないという強い信念を持つことにありますが。

 なお今日の帰り道、ふと一年前の自分を思い返しましたがちょうどこの時期に転職先の当てもまだなかったのに前に所属していた会社を辞めようと決心、というか辞めると会社に宣言しました。辞めた理由は絶対に許すことのできない人間がいたためですが、この決断に至ったのも過去に問題があるとわかっていながらも自分さえ我慢していれば丸く収まると思って我慢した所、余計な人間を巻き込んで不幸にさせてしまったという後悔に対する反省が働いていたかもしれません。
 幸いにして一年前と比べれば今の状況は大きく好転しており、行き当たりばったりな自分の決断もたまにはうまくいくもんだとつくづく思います。

2016年10月10日月曜日

国家が反逆者を育てる意味と価値

 いきなり言うのもなんですが、私の出身大学は国家や政府に対する反逆者を作るという意味ではそこそこの環境と実績を持った大学だったと思います。知ってる人には早いですが私が卒業した関西の私大では、「ルールがあったらまず破る」というような妙な価値観が学生全体に蔓延しており、フリーダムというよりはただただ反逆的で、「これこれこうしなきゃならない」と言われたら、「じゃあまずそれは置いといて」と言い返して無視するところから始まるというのがリアルで多かったです。特に、「従順こそ最大の美徳」、「周囲と同じであることは素晴らしい」という価値観が皮肉ではなく本気で蔓延している関東から関西に渡った私からすればかなりのカルチャーショックを受ける場でもありました。

 一体何故私の出身大学がそんなアナーキーな学校だったのかというと一番大きな理由はまず関西圏にあること、次に私学であったことが挙げられます。もっともそれ言ったら、国立の京大もアナーキーっぷりには定評ありますが。
 上の二つ以外に私の思う理由を挙げると、単純に創立以来の校風がやはりそうさせていたんだと思います。なんちゃってミッション系スクールから始まりとにかく自由を追い求める校風となったそうで、戦時中に学生が喫茶店にいたところ憲兵に見つかり、「学生の分際で何しとるんやこら。お前、どこの学校のもんや?」と聞かれ学校名を答えたら、「あかん、あそこは治外法権や」と言われて許してもらったという冗談みたいなエピソードもあります。

 とまぁそんな感じでそこそこ有名なテロリストも輩出したこともある大学なのですが私にとっては非常に相性が良く、小中高と常に学校嫌いであったにもかかわらずこの大学だけは好きになることが出来ました。そしてそんな私に言わせると、私の出身大学の様に国家や政府、果てには既得権益層に対して理不尽に反感や拒否感を持ち噛みつこうとする反逆者を、国家や社会はある程度育てる必要があると思います。もちろん、そういうのばっか育てまくったらそれはそれで問題ですが……。

 一般に国家による教育となると、国家に対して従順な国民を作ろうとする教育を想像するかと思います。もちろん今の日本の教育の根底にあるのもこうした考え方ですが(日教組は逆だろうが)、その一方で私は国家に対して反逆意識を持つ人間を教育で作ることも国家にとって必要であり責務であると考えています。一体何故そう考えるのかというと単純に、反逆思想を持つ人間が一定割合いる方が国家として明らかに強くなるからです。

問題を探す力、発見する力

 上記記事は8月に私が書いた記事ですがこの中で私は、「エリートは問題解決能力には優れるが問題を発見する力には疎く、逆に非エリートは問題を解決することはできないが発見する力には優れている」と主張し、卑近な例として豊洲問題で活躍中の共産党を引き合いに出しました。
 突き詰めて言えばまさにこの点が反逆者を育てる価値のポイントに当たり、国家というのは従順なものばかりで構成されると問題がそこに存在しながらも誰も気づかずに手をつけなくなる傾向があり、こうした問題なり欠陥を指摘して社会に解決を促させる上である程度社会の中で反逆者を育て、囲う価値が絶対的に存在すると主張したいわけです。

 ある意味こうした役割は自分たちにのみ都合のいい報道の権利をかざすジャーナリストがになっており、問題があるとわかってても彼らをある程度野放しにしておくことこそが「反逆者を囲う」こととなり、彼らのような存在を一程度の比率で存在し続けさせるためにも「反逆者を育てる」ということも必要で、その役割はやはり私学が担っていると関西発の私学出身者である私としては信じてやみません。

 恐らく普通の日本人が以上の私の主張を見たら、「なんてこいつは過激な奴なんだ」と思われるかもしれませんが、一切の反逆者を許さない社会を想像されたら私の意見に即賛同していただけるかと思われます。具体的に言えばそれは旧ソ連や今の中国、極端な例なら北朝鮮とかで、こうした国々の社会では社会に問題があっても是正が効き辛く、既得権益層もずっと存在し続け、よっぽどまともな改革者が運よくトップにでも立たない限りは何も変わることはありません。こうした社会を比べるにつけ、料理に混ぜる少量のスパイスじゃありませんが国家にとって反逆者を5%くらいは存在させ続けるべきではないでしょうか。
 もちろん、暴力的な活動を行うようなテロリストは論外でこうした連中は見つけたそばから殺しておくに限るでしょう。江戸時代の農民政策じゃありませんが、生かさず殺さずが反逆者に対する扱いのポイントです。

 過去の歴史を見るとやはりこうした反逆者を一程度許容する国や社会ほど強く、明治以降の日本も限定付きではありますが社会主義者の結党を認めたり、国立以外の学校も大学として認めて加えるなどしてこうした治世のツボをしっかりとつかんでいたように思われます。あとこれは映画「マトリックス」のセリフですが、「一程度の不確定要素を備えることでシステムは安定する」とはなかなかに金言な気がします。

 最後に蛇足かもしれませんが、私は日本の新聞社などは反逆者として認めていません。何故なら彼らは完全な既得権益層に成り下がっており、それを知らない振りして自分たちが弱者であるかのように振る舞っているからです。更に言うと、弱者であるということが武器になると知ってて弱者だと声高に主張する者はもはや弱者ではない。強い弱いに関係なく、ただ気に入らないという理由だけでむやみやたらに噛みつく者こそが真の反逆者である、というのが私の反逆論であります。

  補足
 上記でお手頃な反逆者の割合は5%と書きましたがこれは完全に適当に述べただけの数値で特に根拠はありません。逆に80%とか100%みたいに反逆者が多数派の世界ってどんななのかなと想像してみましたが、映画の「マッドマックス」の世界しか浮かびませんでした。

2016年8月9日火曜日

日本人論は女性にも適用できるか

 私はこのブログでこれまで様々な日本人論を提唱してきましたが、どれも内容についてはそこそこ自信があり、やはり中国で生活していることから日本人と中国人を比較することにより日本国内にいてはなかなか気が付かないような社会的特徴に気が付くようになっていることもあって、言われれば納得するけど言われるまでは気が付かない点を上手く突いているのではとやや得意になっています。

 しかし、つい最近読んだ漫画のあるセリフを見てふとこの自信が大きく揺らぎました。その漫画というのは「渡くんのXXが崩壊寸前」というラブコメ漫画なのですが、この漫画のヒロインの片割れ(ダブルヒロイン作品)が偶然から着替えを覗いてしまった主人公の渡くんに対し、普段は自らセクシーアプローチかけてくるくせして「見せるのと見られるのは違う!」といって抗議するシーンがあります。
 このシーンを読んで私は、「女って勝手なこと言うよなぁ」と思いつつ、男とは根本的に思考が違うのかもと思ったその瞬間、「待てよ、日本人論も男には当てはまっても女性には当てはまらないものもあるのでは?」と閃いたわけです。相変わらず閃く場所がおかしい気がしますが。

 現実問題として日本人論、また日本人に限らず特定の国民や民族の社会的特徴を分析する際は基本的にその社会の男性が分析対象となり、その主張や説も男性を対象として提唱されます。もちろん女性をターゲットにした民族論もないわけではありませんが、「日本人論」、「中国人論」といったら基本的に「日本人男性論」、「中国人男性論」と読み取るべきでしょう。
 こうした扱いはどの社会でも男性がやはり優位な立場にあることを考えれば仕方がないかと私は思うのですが、その一方で安易に「日本人論」を「日本人女性」に適用しようとしたら妙な誤解をしてしまったり、勘違いを起こす可能性も高いのではないかと今回思ったわけです。冒頭でも述べた通り性差による価値観、思考の違いは確実に存在しており、それを無視して「日本人はこういう価値観だ」といっしょくたに主張するのはやっぱり強引だと思え、その辺は分別して考えるべきではないかと言いたいわけです。

 例として私がこれまでに提唱した主だった日本人論で比較すると、「日本人は相手が逆らえないとわかるや途端に狂暴になる」というのは駅員などへの暴力を見る限りやはり日本人男性を主体として捉えています。といっても、女同士のいじめは結構激しいと聞くし、また抵抗できない相手をいたぶるというのも「ガラスの仮面」とかでよく見るいじめシーンなので、これは男女両方に共通する、というより下手すりゃ日本人女性の方が顕著かもしれません。
 もう一つ、「日本人は無意識の他人のスマホを盗み見たり、他人の会話を盗み聞きする癖がある」という説を私は過去に主張していますが、これは日本人男性を主体とせずに気が付いた特徴(電車乗ってて気が付いた)なので、男女差のない日本人論と堂々と言えるかもしれません。っていうよりもむしろ、盗み聞きするという点では噂話大好きな女性の方が顕著かもしれません。

(´・ω・)<……………

 なんか日本人論は男性向けばかりって話をしてたつもりなのに、実際には女性の方が特徴的に顕著なことが多いような気が。仮にそうだとしたら、なんか日本人女性は嫌な特徴盛りだくさんなようにも見えて来るような……。

2016年7月23日土曜日

暴力的支配者を望む日本人

 これまでこのブログではたくさんの日本人論を語ってきましたが、個人的に一番盲点を上手く付いたと思うのはこの記事に書いている「相手が逆らえないとわかるや途端に狂暴になる」という特徴だと自己評価しています。こうした日本人論を色々考えたり書くようになったのは別に特別意識しているわけでなく、パッと思い浮かんでは大した検証なしに「こう思ったんだけ」と書いてるだけでそこそこの量となり体系化できるようにまで至ったというのが本音なのですが、今日書く奴もその延長です。適当にインスピレーションを受けて作ったものなので異論反論は受け付けますが、そこまで議論するようなものでもないかもしれません。

 結論から述べると、日本人は暴力的な支配者を望む傾向が少なからずあるような気がします。これは何も私が言い出したわけではなく日本人論の原典ともいうべきルース・ベネディクトの「菊と刀」において「家父長的政治体制」という言葉と共に「どんな暴君であろうとも支配者の地位に就雲のに対して盲目的な服従をする」と指摘されています。実際、支配者がどんな資質かはこれまでの日本の歴史でもそれほど大衆は問わないような気がしますし。

 この指摘を思い返した際にふと思い出したのが、私の中学校の頃の部活でした。その時は運動部にいたのですが入学したばかりの一年生の我々に対して二年、三年の先輩はもちろん異なる態度を取ってくるのですが、今思い返してみると親切にいろいろと話を聞いてくれたり同じ目線に立ってくれた先輩に対し、何故だか周囲の一年生は見くびり始める態度を取っていたような気がします。逆に暴力的と言ってはなんですが口調も荒く要求も厳しい先輩に対して一年生たちは、「あの人はキツイけど俺たちのことを思って言ってくれている」などと言っては尊敬の念を持ち、慕いだすという有様だったように思います。

 所属していたのが運動部という環境、あとたまたま私が所属したクラブがそういう環境だったかもという可能性は有りますが、成人した後の会社社会においても割と同じような光景を見てるような気もしないでもありません。具体的には優しい年配の人だったり先輩が舐められて、逆に粗野な感じの人が「あの人はキツイけど俺たちの~」なんて言われたりしてるような。実際私も、相手に優しい態度を取れば取るほどなんだか邪険にされ始めたので、嫌われることも覚悟の上である日突然牙を剥くというか厳しい態度で臨み始めたら逆に慕われ始めて自分でやっときながら、「なんじゃこりゃ?」と思うことが過去に何度かありました。ほんと、今でもよく意味がわからない。

 こうした傾向は何も日本だけでなく他の国や地域でもあるかもしれないですが、それでもその程度は日本が突出しているように感じます。比較例として私からしたら身近な中国人を例にとると、彼らはきつい態度を取ると即反抗してきます。もちろん優しい態度を取り続けたら舐められることも多いので日本人以上に塩梅が難しいというかそれで失敗する日本人経営者も少なくなく、かなり古い話ですが以前にこんな事件もありました。

日系工場でストライキ。日本人管理職の差別的な罵倒に抗議。「やる気がないならやめろ」と叱責された(哲学ニュース)

 ワンポイントアドバイスとして中国人スタッフをてなづかせるのに一番いい方法は、実力差を見せつけ自分が上の立場にいることの正当性を証明することが何よりです。なんていうか犬のしつけっぽいですが、実力を持つ技術者への憧憬は非常に強いのでこれが何よりも一番だと思います。

 話は戻りますが、全員が全員というわけではありませんが優しくすると舐めはじめ、きつく当たると逆に尊敬し始める妙なタイプの割合が日本人には一定比率存在する気がするというのが今日書きたいことです。こういうタイプはやはり体育会系に多く、一言でいえばマゾっぽい性格してるようにも見え、何故彼らがそういう性格しているのかというとやはり「家父長的価値観」なのかなと考えると少し納得します。

 最後に蛇足かもしれませんが、昔ある友人が日本人は大衆に迎合しやすいから独裁者にとっては非常に扱いやすい国民かも知れないと言っており、上記の内容を踏まえるとあながち間違いではないなと私も思います。

2016年5月16日月曜日

立ち向かっていく覚悟

 このところブログ更新が滞っておりましたが理由を明かすと、先週金曜日は夜に飲み会があり、その翌日の土曜から今日の夕方までは友人と一緒にちょっと旅行に行っていました。旅行内容についてはまた明日からゆっくりと紹介してくつもりですが今日は疲れてもいるので適当にかける内容でまとめます。

 さて今年の大河ドラマ「真田丸」はネットでの評判を見る限りだと非常に好評で、ほぼ毎週どの俳優のどういう演技が良かったかなどと話題になっており、もはやタイトルすら思い出せない昨年の大河ドラマは最低視聴率を更新するか否かしか話題にならなかった(後半に至っては話題にも出なかった)ことを考えると近年としては上々の出来なんじゃないかと思います。

 ここで話は主役の真田信繁(幸村)について触れますが、真田家の旗印は「六文銭」といって、当時流通していた貨幣を六つ並べるという意匠です。知ってる人には有名ですがこれは三途の川の渡し賃が「六文」であることに由来しており、渡し賃は準備済みで死ににいくことを恐れないぞという意思表示を込めてこうした旗印となったわけです。なお渡し賃がなかった場合は三途の川のほとりで「脱衣婆」というババアに渡し料金代わりとして身ぐるみ剥がされるとされており、もし自分が臨死体験するならこのババアが本当にいるのかどうかをまず確かめたいと思っております。

 この真田家の旗印、並びに随筆「葉隠」にある「武士道とは死ぬことと見つけたり」という文言といい、実際は別として日本人が理想とする精神形というのは「決死」こと「死ぬことを恐れない」という精神状態だと私は考えています。なもんだから事ある毎に、「死ぬことを恐れたらそこで日本人終了だよ」などと妙なことをリアルでたまに口走ったりもしますが、半分本気であります。
 もちろん決死の覚悟とはいうものの戦時中の特攻作戦などは礼賛するつもりはなくあくまで理想的な精神形として扱っていますが、極端な話をすると実行するしないは別として、こうした感情を持つ日本人は最近いるのかなと少し気になります。というのも私の場合は、「誰かを殺すこととなってでも~をしたい」というような感情を頻繁に覚えるとともに、その際には必ず自分の死もカウントに入れています。

 要するに「死んでも~したい」という感情を自然に持つわけなのですが、実際に誰かを殺したり自分の死を犠牲にしてでも何かを奪うというようなことは今の所実行してはいませんが、それくらいの覚悟を持って生きている日本人は今どれくらいいるのかと疑問に思うわけです。このような危険思想を持つ私に言わせると、自分の死すら秤にかける覚悟を持つと案外何にでも立ち向かえるというか、腹が座ります。
 これまでの人生で私もそれなりに、恐らく普通の日本人からしたらまず渡るまい危ない橋を敢えて渡ってきた自負がありますが、その際には「失敗したら死ぬか?」という問いを必ず行っていますが、実際には命に係わる決断なんてそうそうあるわけじゃなく、どんな決断であっても最低限「死ぬ」ことはありません。大金を失ったり安定した身分を失ったり人間関係を失ったり修羅道に落ちたりすることはありますが、実際に命を落とす程の決断を迫られることはほとんどありません。いう必要はないでしょうが、命を懸けるくらいの感情を持てば基本何でもできるというわけです。

 恐らく普通の日本人が決断する際は生活を懸けたり、預金を懸けたり、将来を懸けたり、安定を懸けたり、世間体を懸けたりするでしょうが、それらを秤に懸けたところで悩みは尽きるどころかむしろ増えることの方が多いと思います。日常での決断であればそれでもいいと思いますが、リストラされたり、追放されたり、陥れられたり、裏切られたり、追い詰められて選択の余地のない状態であれば上記の存在をベットしてしまうと、リターンが得られる見込みが低いため心理的な負担になりやすく、逆に命をベットしていればどんな逆境であっても大抵は「必ず死ぬ訳じゃない」と開き直れます。実際私も、何も死ぬわけじゃないという言葉を覚悟にして逆境に対し何度か立ち向かっており、周囲から精神的に非常にタフだという評価を得るに至りました。
 生存権を主張するわけじゃないですがもし自分が死ぬような目にあうのであれば、そうそうそんな場面は実際ないですが、ためらいなく他人を殺したって別にいいと私は思っております。逆を言えば、「自分は死ぬかもしれないが他人を殺してはならない」という価値観は無駄に自分を追い詰めかねず、危険なことを言っていることは百も承知ですがそういう概念は持たない方がいいと、少なくとも強くい来るためにはお勧めしません。

 その上で、「自分が死んでもこうしてやりたい」という概念があるとすれば、上記の覚悟を持っているのであればそれは追いかけた方がいいのではとも思います。無論、そんな命を懸けるような概念が見つからないに越したこともないっちゃないですが、いざって時に命を秤に懸ける覚悟というのは持っておくと強いというのが私の持論です。

2016年5月1日日曜日

感覚強奪

 最近自転車に乗っていなかったので上海市中心部から北に行った海沿いの公園まで片道33km、往復66kmを走ってきましたが、連休ということもあって公園は大賑わい、っていうか車の列が公園入り口前からやばいくらい長々と続いていたので結局入らずすぐUターンしてきましたが、気温がここ数日で急に上がったのと、最近あまり漕いでいなかったのもあってやけに疲れて帰ってきました。しかも帰り道、道を逆走してきた電動バイクと正面衝突もしてます。
 私が腕時計に目をやったその瞬間、その電動バイクは横にマージンあるのにまっすぐ私に向かってきたのですが相手の上げた声で私も気が付いたので直前で減速しつつ、よけきれないと思って斜行しながら向こうのバイクにわざと自転車をぶつけたため、自転車も体も完全に無傷でした。つくづく自分は無駄にタフな気がします。

 話しは本題に入りますが仮に学問をするとはどういう事かと人に尋ねた場合、十中八九は「その分野の知識を身に着けること」という答えが返ってきて、少しレアなものになると「知見を広げること」なんてのもあるかもしれません。仮にこの二つの答えが返ってきたら私ならばその場で「それは違う」と否定した上で、模範解答として私が学生時代にお世話になった中国語の先生にかつて教えてもらったように、「各学問分野ごとの思考法を身に着けること」と教え、経済学なら貨幣を中心に社会を分析し、商学なら経済活動と価値測定を中心に、法学なら法体系や制度を中心に、人文学なら個人や社会の思想や文化を中心に、それぞれ核となるとモノから世の中を見る思考や判断力を身に着けることだと教えます。
 その上で自分の学問目的は上記の概念をベースにしてあるもののやや邪道で、多種多様な感覚を身に着けることそれ一筋であったと、気分がよければそう教えると思います。

 感覚を身に着けるというのは私なりの表現で、通常の表現ではありません。では感覚を身につけるということは何かというと、上にあげたあらゆる学問分野の価値判断基準を身に着け、それぞれの視点を使いこなすと共に同時に見られるようになるということを指します。更に学問分野だけでなく、男性と女性の価値観の違い、日本人と中国人の価値観の違い、カレー好きと煎餅好きの価値観の違い、これらあらゆるジャンルや特徴の異なる視点で使い分け、目に入る耳に入るものすべてを見逃さずに知覚する目的で以って学問に取り組んでいました。

 一体何故こんな妙ちきりんなことをしていたのかというと一番大きな理由は中学生の頃からジャーナリストになりたいと思っており、普通の人なら見逃すような情報でもきちんと拾えるようになるためにはどうすればいいかと考え、究極的には間隔を広げ、増やすことだという結論に至ったためです。感覚というと通常ならば五感を指し、視覚なら目、聴覚なら耳を介して感じ取りますが、これと似た感じで芸能情報を感知する感覚、政治情報を感知して分析する感覚、特定状況下に置かれた人々の思考を類推する感覚など、こういったものを私はずっと求めてきました。
 常日頃からあらゆるジャンルの情報を感じ取るため感覚を磨くことはもとより、価値観の異なる人間同士で同じ対象をどのように異なって見えるのか、また限られた知識の中でどういう風に思考を組むのかなど、今まであまり口にすることはありませんでしたが隙あらば観察しようと動き続け、思考パターンを作ることに従事してきました。

 そんな私の経験から言えば、完全にではありませんが比較的同じような記憶を共有している場合だとほぼ同じ思考、行動パターンを取る可能性が高いようにみられます。同じ記憶と言っても何も生まれてからずっとの記憶となると本人以外でなければわかりませんが、特定ジャンル、たとえば歴史や経済などの分野に分けると小学生レベルや中学生レベルなどに区分しやすくなり、それらあるジャンルの知識が同じ水準の人間同士となるとそのジャンルに対する思考パターンは等しくなり、何か課題や質問を出すとほぼ同じ結論に至ることが多いというのが私の実感です。

 そのため、私が相手の出方を伺う際はその相手がその分野に対しどれだけの知識を持っているのかをまず確認します。その上で知識とは関係なくとも何か特定のこだわりの条件、極端な例だとトラウマのような思考に影響を及ぼす過去の体験や経験を探り、これらを一通り把握した段階から相手の次の返答や行動を読み始め、それに対する自分の返答も準備し、結論をどこに持って行くかなどを決めていきます。
 人間、苦し紛れとなると手持ちの材料を全部投げ出そうとするところがあり、特に知識関連だとあまり関係なさそうでも少しで関係する要素があれば、苦しい状況下で口に出しがちです。大体の結論はそこへ持って行くというか苦し紛れの一言を言わせることにあり、その一言を打ち崩す自分の言葉でフィニッシュをかける、というのが私の通常の議論パターンです。ほかの人がやってるかどうかは知りませんが。

 ただ、大体10分から15分くらい話せばその人が大体どういうパターンで話を組んでくるかは段々見えてきます。掘り下げるタイプとか話題を切り替えるタイプとか逆質問を多用するタイプとか、それらを見極めた上でどういう言葉をかけると相手がどう反応するのか、むしろどう捉えるかを予想する、言うなれば感覚を奪うような感じで議論で攻める時は攻めるようにしてます。もちろん完全に決まらないこともあるっちゃありますが。
 前にもちょこっと書きましたこのところ「隙を見せたら一撃死」みたいな白熱した議論をする相手がいなくてやや手持無沙汰です。そういう白熱する議論における好敵手というのは上記の思考パターンとは異なり、既存の知識に頼らないというのがやっぱり一番手ごわい気がします。そういうタイプはどうやってまくかとなると、ひたすらに頭使わせて途中から疲れで頭廻らなくさせるくらいしかないのですが、やってる最中にこっちが頭廻らなくなったりするからまた面倒くさい。

2016年4月20日水曜日

自己愛の激しい人、自己嫌悪の激しい人

 以前に読んだ小保方氏の著書に対する佐藤優氏の書評にて佐藤氏は小保方氏のパーソナリティを、「自己愛の塊」と評しておりましたが、この表現に異論を述べる人はそんな多くはない、というよりはほとんどいないでしょう。実際自分から見ても自己愛の激しい人はこれまで直接間接含めていろいろ見てきましたがあれほどのレベルとなると確かに思い浮かばず、恐らく今この現状もフェスティンガーさんの認知的不協和を起こして自分ははめられただけで何も悪くなく、いつかきっと世間は理解していると本気で信じてそうな気がします。

 ここで引っ張り出した「自己愛が強い」ですが、わざわざ説明するまでもなくこの手のタイプは面倒だという事実をこの手の人間に関わった人なら誰もが十分に理解していることでしょう。自分なんか前の会社の上司がまさにこの典型で常に自分の自慢話か苦労自慢しか話さず、仕事でも常に失敗してるのですが景気がどうとかあともうちょっとで取れるとか交渉中だとか嘘八百を並べ立てて絶対に自分に非があるとは認めようとしない輩でした。挙句の果てには会社判断で進めていた話を中断すると決めたら、「そんなことするというのならもう自分は必要ないってことだな。それならば辞表を出す!」と言ってましたが、その後いつまでたっても辞表は出してくれませんでした。多分今でも自分は必要とされてるからクビ切られないとか思っているんだろうな。

 上のは私の身近な話ですが、芸能界でもう一人極端に自己愛が強いなと密かに睨んでいる人物として元フィギュアスケート選手の安藤美姫氏がいます。なんでこう思うのかという理由としてはテレビ番組にこの人が出てくるのを見ればすぐわかると思いますが何かコメントをする際に十中八九、「私もフィギュアの練習などで……」、「私もフィギュアの試合前とかに……」などと、確実に自分の体験談(それもほぼフィギュア関連)を引用して自分の話しかしないからです。相手の話に合わせて「その時はどういうこと考えたのですか?」などという返答は皆無に近く、よくここまで超然としてられるなと逆に感心します。なんていうか生き様もそんな感じするし。

 こんな具合で、正直なコメントを述べると自己愛が極端に強い人にはあんま傍にいてもらいたくないってのが私の本音です。遠目に見る分にはそりゃ楽しいかもしれませんが近くにいたらすごい疲れそうなので、何かとトレードオフする才能とかない限りは私もなるべく関わろうとはしないようにしています。

 では逆に自己愛が低すぎる人、自己評価が低い人、極端に来れば自己嫌悪の激しい人はどうなのでしょうか。多分今真っ盛りの就活の面接で、「あなたは自己愛が強い方でしょうか、それとも自己嫌悪の方が強いでしょうか?」と質問されて「自己嫌悪!」って言ったら真っ先に落とされてしまうでしょうが、ここだけの話、日本人は平均的に言えば自己嫌悪の方が強い国民性だと思います。端的に言ってアメリカ人と日本人を比べればもう歴然で、中国人と日本人とを比べてもやっぱり中国人の方が「自分大好き!」って屈託なく言ってくると断言できます。

 もちろん自己愛も自己嫌悪も極端でなければいいわけでどちらが強いか弱いかは優劣につながるわけではありません。社会学的に言えばアノミー論にもつながりますがどちらもほどほどのバランスを保っている状態が精神的には落ち着くとみられ、どっちかに大きく偏っているという自覚があればそれをバランスのいい状態に持って行こうと意識するのが割とベターだと私は考えています。実際、私が指導する人間にそのような傾向が見られた場合は、はっきりとは言いませんが自己愛が強い奴にはプライドをどっかでへし折ってやって、逆に自己嫌悪が強い人間には何かを持ち上げて自信をつけさせたりしてきましたし。

 ただ自己嫌悪が強い人間は、日本人が平均的にその資質を持っていながらも、極端なレベルとなるとほとんど見ることはないと思いますし私もそんなに会うことはありません。自己愛が極端な人がやたら目立つということもあるでしょうが自己嫌悪が強いかどうかはパッと見では意外と気づき辛く、またネガティブな表現してることもあってむしろそうした資質がばれないような行動を取ってくるので気づかないし目に入らないのも自然なことです。
 そこで私の持論なのですが、見分け方というより自己嫌悪の強い人に共通するのではと思う特徴として周囲に対する貢献意識や献身行動が極端に強いという点があるのではと密かに睨んでいます。それもなるべく割に合わない仕事とか作業を引き受けるようなタイプです。

 仮にこの通りであれば、自己嫌悪の激しい人が横にいると便利というか非常に楽できそうな気がするので、むしろそういう人が身近にいてくれれば助かります。平たく言えば日本人全体にこのような傾向があるとも思えるのですが、その一方でやはり極端に献身行動が強い人には心配に感じることも少なくなく、そういう人を見かけたら「もっと自分にワガママになれよ」って一声かけるようにはしています。
 まとめとしては、自己愛も自己嫌悪もどっちかに大きく振れたら意識して引き戻しバランスを保たせた方が無難だというのが私の意見です。

 ……多少愚痴になりますが、こういう話をして太宰治をすぐ確実に引用してくる友人に囲まれてた学生時代はよかったなぁと思うと共に、こっちが全力出して議論に臨む機会が最近めっきりなくなった現状を寂しく思います。

2016年3月29日火曜日

マルクス主義的には、という理由づけ

 先日近くのスーパーに買い物へ訪れた所、何故かチョコレート菓子の「メルティキッス」が中国語パッケージでなおかつ10元(約180円)で売っていたので、「これはマルクス主義的に買うべきだろう」と判断してそのまま購入しました。どうでもいいですが、「ギルティキッス」ってのはないのかな。
 書いててどっちが本題かわからなくなりますがこの時に使った「マルクス主義的には」という言い回しは、実は普段からも理由のない行為や事柄に対して私がしょっちゅう使う言い回しだったりします。具体的には、

「東芝の不正会計ってマルクス主義的にどんなもんかね?」
「巨人の野球賭博はマルクス主義的にいけない行為だと思う」
「マルクス主義的には今日はうどんを食べる気分じゃない」

 などと、先ほどにも書いた通りに理由のない行為や事柄に対して無駄に理由をつける言い回しとして定型句となっております。自分でも一体いつから、でもって何故こんな言い回しをし始めたのか全く分からなかったのですが、先日とあることをきっかけにすべての謎が解けました。真犯人は永田洋子でした。

永田弘子(Wikipedia)

 永田弘子について知っている方はそのまま、知らない方はいったんウィキペディアの記事を読んでから続きを読んでください。
 一体なんでこんな私の言い回しに永田弘子が関係してくるのかというと、彼女がまさに理由のない事柄に対して「共産主義的に正しいから」というセリフとともに無理矢理こじつけて押し切ったことがあり、それを見て「なにゆうてんねん」と思って、理由のない事柄への理由づけに皮肉を込めて敢えて「マルクス主義的には……」なんて言い回しを使い始めたことを思い出しました。

 では具体的に永田弘子はどのような場面で上記の言葉を使ったのかというと、ちょうど山岳ベースで総括リンチで仲間を次々と殺害している最中、赤軍派の森恒夫と一緒に活動資金を受け取るために山を下りて、後から合流した事実婚の旦那である坂口弘氏に対しこう言いました。

「私、森さんのことが好きになっちゃったからあんたと別れて森さんと結婚するわ。これは共産主義的にも正しいことなの

 細部は間違っているかもしれませんが大まかなレベルで上記のようなセリフを言ってのけたのは多数の証言者からもほぼ間違いないと伝えられています。でもってこう言われた坂口氏も、「うん、わかった」と返答した当たり只者ではありません……ってか、内心距離置きたかったのかもしれませんが。

 話は戻りますが、恐らく永田弘子は組織を率いる幹部同士は結婚した方が指導的にも運営的にも都合がよく正しいと言いたかったのかもしれません。もっともそれ言ったら坂口氏もナンバー3なんだから立派な幹部なんですけど。
 しかしまさかマルクスさんも、不倫について正しいか正しくないかまで細かく主張したり指導したりしたわけではないでしょう。もっともマルクスさんも奥さんに内緒で隠し子まで作ってましたがそういう風に考えると共産主義的には「不倫は文化」なのかもしれず、だったら永田弘子の主張も一理あるかも。

 ただ、永田に限らずとも当時の社会主義者や共産主義者は理由のない事柄に対する説明口上としてよく、「マルクス主義的には」、「共産主義的には」という言い回しを多用していたように私は思います。何故なら説明する本人らも理由なく無理矢理押し切るためにこうした文句を知らず知らず使っていた節があり、更に言えば彼らからすればマルクス主義は深奥なる概念であって言葉でやすやすと説明できるほど簡単なものじゃないから、「よくわからないけど正しい」という風に理解……この場合は曲解とすべきかもしれませんが、とにもかくにも概念も理由もわからないままこじつけに使っていたと思えます。

 これは最近知人に教えてもらった内容ですが、概して社会主義者的思想の持ち主は一度作った結論を梃子でも動かさず、その結論に対してどれだけ合理的に疑義を呈したり修正を求めようものなら何が何でもそれを叩き潰し、初期の結論を維持したまま突き進もうとするところがあるとのことで、私もこれには深く同感します。彼らにとっては合理的な説明や状況分析などよりも最初に作った結論を堅持することが重要で、それが正しいか間違っているかは些末な問題とみえます。
 そういう意味では、無意味な理由づけに「マルクス主義的には」とつけるのも、インスピレーション重視って点であながち間違ってないかもしれません。

2015年12月3日木曜日

水木しげるは反戦だったのか?

 水木しげる氏の逝去を受けて各メディアでこのところ、水木氏の往時の業績や辿った人生についてまとめる記事が数多く出されております。ただこうした記事について一部ネットで、彼の戦争体験を引用しては無理に戦争批判へと繋げようとする報道があり違和感を覚えるといった意見が出ており、かくいう私もその違和感を感じた一人でした。
 有名なので知ってる方も多いでしょうが、水木氏は戦時中に徴兵されて南方の激戦地であるラバウルに派遣されそこでの空爆を受けて左腕を失う大怪我を負いました。この戦争時の体験については自伝漫画にも詳しく記述され当人にとっても激烈な体験であったことは想像に難くなく、また軍隊内では持ち前のマイペースな性格が災いして度々ビンタを喰らってたりなど、当時の上官らに対しては不満があったことを率直に書いております。

 こうした本人の証言からか、「水木氏は戦争に対して批判的であった」などという風に書くメディアを実際に私も数多く見たのですが、先ほども述べた通りにこうした報道に対して何となく違和感を覚えました。もちろんこれは水木氏の作品や証言をどう読み取るかによるもので絶対的に何が正しいか否かはよほど明確な証言記録が残っていない限り、本人が逝去した今だと確認のしようがないものです。それでも敢えて私の理解を述べるなら、水木氏は「反戦」というよりは「鎮魂」を訴えていたのではないかと思えてなりません。

 まず話の前提として、水木氏はかなりのミリタリーマニアことミリオタであったことはほぼ間違いありません。出征時に乗り込んだ船が日露戦争時にバルチック艦隊を信濃丸だと知って驚いたり、戦後も売れない漫画家時代に知人から融通してもらったプラモで奥さんと一緒に連合艦隊の再現に取り組んだりと、意外と軍事・兵器関連に妙な造詣を見せております。なお水木氏の直弟子にあたる漫画家の池上遼一氏も、最近「ガールズパンツァー」にはまっているとカミングアウトする当たり、師弟揃って意外とミリオタだったようです。

 もちろんミリオタであっても平和主義者はいるでしょうからおかしいってことではないものの、なんとなく水木氏の作品を読んでいると戦争を根本的に否定するような素振りはなく、自身の体験以外だとやはり独特の視点というかやや皮肉っぽく他人事のように戦争を描いているように見えます。少なくとも、殊更悲惨さや空しさを強調しているようには見えませんでした。
 しかしその一方で、「総員玉砕せよ!」に代表されるように自身の体験に根差した戦争作品を大量に書いているのは事実で、それらの作品に対する思い入れは深いと生前に度々話していました。そうした水木氏の作品をみていて私が感じるのは先ほども述べた通り反戦ではなく、むしろ敢え無く散っていった戦友や同胞たちに対する深い鎮魂の意思じゃないかと感じられました。

 水木氏の戦争作品ではどれも指揮官目線ではなく末端の兵士、または前線隊長の目線で語られ、厳しい戦況や無茶な作戦に振り回され散っていく話がフィクション、ノンフィクションの区別なく数多く描かれています。特にほぼ実体験である「総員玉砕せよ!」では死にゆく兵士らに対して強い同情心を覚えさせられるように描かれており、これらの作品を読む限りと私は水木氏はどちらかというとあの戦争で死んでいった兵士らへの鎮魂、そして彼らを知らない日本人にも彼らという存在があったことを知ってほしいという目的で描いていたのではないかと思います。

 確かに言い方を変えればこうした視点も「反戦」と言えるかもしれませんが、本来の意図通りに述べるならば「鎮魂」こそが水木氏の戦争作品のテーマだと思え、反戦という言葉で引用するのは少し方向性が違うのではないかという気がします。
 言うまでもなく水木氏は妖怪漫画の大御所としてこの分野の裾野を広げた漫画家ですが、そんな経歴なだけあって神霊や超常現象に関しては興味や造詣が深く90年代などは世界各地を飛び回っては観察、紹介しおります。それだけあって死語の世界や魂、成仏、怨霊、地縛霊などといった存在や価値観についてもあれこれ思索していることを書き残しており、そんな水木氏だからこそ散っていった何百万ともいう兵士たちへ強い同情心を覚え、彼らの魂を慰め、鎮めたいという気持ちも強かったのではないかと私には思えてなりません。

 あくまで上記の解釈は私個人の解釈によるもので自分の意見が絶対正しいなんていうつもりは全くなく、ただ自分はこう読みとったというものでしかありません。その上で私は、あの戦争あ正しかったのか悪かったのかという肯定か否定の議論以上に、亡くなられた兵士や民間人の方々に対しその存在を知り、哀悼の意を持ち続けることこそが何より大事だと考え続けていこうと思います。

2015年11月30日月曜日

そこにゲゲゲがあった日々

 今日昼ごろ、ネットニュースに表示された見出しを見て文字通り身体がビクッと一瞬跳ね上がり、いずれ来るとは分かっていながらもとうとうその日が来てしまったのかと深くため息をつかされました。皆さんも知っての通り本日、「ゲゲゲの鬼太郎」に代表される数多くの人気漫画を生み出しながら妖怪分野の研究において第一人者でもあった水木しげる氏が亡くなりました。

 このブログでも私は常々水木氏のファンであるということを書き綴っており、またかつて読んだことのある彼の作品を何度か紹介しております。現時点においても一番好きな本はと聞かれたら「水木しげる伝」と即答するほどで、先日も高校生になったという知り合いの娘さんへ、「これ読んでいい大人になれよ」といって上中下の三巻をプレゼントしており、ガチな水木フリークに比べればまだまだですが私個人としてはかなり熱狂的だといえるほどのファンだと自負しております。

 私が何故水木氏とその作品に対してこれほどまで愛好するようになったのかというと話せば長くなりますが、子供の頃にアニメが放映されていた「ゲゲゲの鬼太郎」や「悪魔くん」を見ていたことはもとより、成人してから京都大丸でやっていた水木氏の作品展(大・水木しげる展)を訪れ、改めて水木氏が生み出したキャラクターの造形や性格、そして水木氏自身の数奇な人生を単純に「すごい!」と感じたことが大きかったです。ちなみに今でも後悔してるけど、その作品展で売られていた一反木綿の携帯カバーを買っとけばよかった……。

 知られている通りに水木氏は少年時代からのんびりし過ぎというか特徴的な子供で、そして成人後に出征して片腕を失くしながらも日本への帰還を果たします。しかし帰還後も苦しい生活は続き、食うや食わずの中で漫画を描き続け40歳を超えて初めてヒット作(「テレビくん」)に恵まれ、その後も本人が子供の頃から好んでいた妖怪をモチーフとした作品群でヒットを続け漫画界のみならず民俗学の分野においても多大な功績と数多くのフォロワーを生み出しました。事実、水木氏と柳田國男なければ妖怪という言葉は現代ほど定着はしなかったと思え、もしそうなっていれば「妖怪ウォッチ」もなければ「トイレの花子さん」もなく、下手すれば「ポケットモンスター」も生まれてなかったかもしれません。

 話は戻りますがどうして私が他の漫画家とは一線を画すほどまでに水木氏へ入れ込んだのかというと、単純に作品が面白かったことに加え、水木氏の人生観と死生観に強く惹かれたことが大きかったと思います。元々が特徴的な思考をしているだけに水木氏の価値観は際立っていたというか常人からは見ることのできない視点からの意見が多かったのと、それ以上に激戦地で死線を潜り抜けながら目の前で何人もの戦友を失うという壮絶な体験に根差した死生観にはえもいわぬ迫力がありました。
 生前のインタビューでも若者の自殺が近年増えていることについて、「彼らにとってそれが楽だというのであれば死なせてあげなさい」と述べた上で、「戦争の時代、若者は生きたくても生きられなかった」と付け加えていましたが、一見すると前後の文脈が噛み合っていないようであるものの、水木氏の人生を知るにつけて強烈なインパクトを持つ言葉の様に感じられてきました。ただ単に「自殺はよくない」と言う訳ではなく、どのような生が正しいのか悪いのか、そもそも生が正しくて、死は正しくないのかと問い直すような生死の比較対立構造すら揺さぶりかねない視点のようにも思え、自分には辿り着けない領域をこの人は見ているのだなとも覚えました。

 確か荒俣宏氏だったと思いますが、「水木氏の最高傑作は水木氏自身だ」と述べており、まさにその通りで水木氏が生み出してきた作品以上に水木氏という人物がとんでもなく凄かったと私にも思えます。この人の作品に出会えたこと、そして同時代を過ごせたことは紛れもなく幸福だと思いますし、この尊敬の念は今後一生変わり続けることもないでしょう。この偉大な水木サンに対して、この場にて改めて哀悼の意を表したいと思います。

2015年10月26日月曜日

平家物語と日本人


 いつも変な行動ばかりとっているヤクルトスワローズの畜ペンことつば九郎ですが、この写真には一瞬うるっとさせられました。まぁこの時は高橋由伸選手の監督就任はまだ決まってなかった段階でしょうが、発表された後で見ると一味違います。

 それで話は本題ですが、先日私は「腐女子のDNA」という記事で源氏物語が日本古典文学の最高峰の様に取り扱われるのは過大な評価では、支持層の大半は昔も今も女性ではないのかということを主張しました。ならば日本古典で何が最大の傑作なのか少し考えたところ、すぐ出てきた結論というのは平家物語で、下手すればこれは現代にも続く日本人の価値観を形作った作品ではないかと思えてきました。

 平家物語とは何かについての解説はするまでもないでしょうが、この作品のテーマは何かとなるとそりゃやっぱり「無常観」という言葉に尽き、言い換えれば「滅びの美学」といったところになるでしょう。権勢絶頂期の平家の記述から始まり、その平家が源氏によって徐々に追い詰められ没落し、またその平家を打倒した源義経もまた兄頼朝によって追い込まれるという過程は冒頭で語られる「諸行無常」以外の何物でもありません。
 こうした滅びの美学をテーマにした悲劇作品は日本に限らず他の国や文化圏においても数多く見られますが、それらを考慮してもやっぱり日本人はこういう無常系作品を好む傾向が強いような気がします。この平家物語以降も太平記や忠臣蔵、人物においても来年の大河に使われる真田幸村や新撰組など、勝利の栄光を勝ち取る側よりも滅びゆく側に強いスポットが当てられ共感する人間も多いように思え、実際、栄光の大勝利で終わる作品といって私がパッと浮かぶものと言ったら「坂の上の雲」こと日露戦争ものしかないような気がします。

 また文学作品のみならず、「徒然草」や「葉隠」といった無常観を主とする随筆や思想書も後の世に生まれていますが(徒然草は平家物語と同時期に成立したのかもしれませんが)、うがった見方をすると平家物語の価値観が日本人に根付いて、だからこそこうした無常系作品が未だに受け入れられているのでは、大きく出れば日本人の魂を形作ったのは平家物語じゃないかとすら思えてきたわけです。桜の鑑賞においても満開ではなく塵り際こそが最高潮とされ、命が誕生したり、最高に輝いている瞬間ではなく、事切れる直前の最後の灯にこそ日本人は美を見出しており、現代においてもこれは大きく変わらないでしょう。

 無論、平家物語の思想背景には仏教、そして中国から渡ってきた老荘思想が大きく影響しており、根っこは何かとなればこの両者だと断言できます。しかしこと文学作品の枠で見ればこの平家物語が無常系のトップランナーで、また日本人の価値観に強い影響を与えている可能性を考えると、古典最高峰として置くにはこの作品しかないというのが私の意見です。

 最後に以前にも昔書いておりますが、私の曾祖母は平家の隠れ里出身だったため私も家系的には平家寄りだったりします。

2015年10月1日木曜日

遵法に対する日本人と中国人の違い

 昨日書いた「遵法意識のない日本人」という記事で私は日本人は法律や規則といったルールを守る意識はほとんどなく、実際には周囲に行動を合わせることを第一の行動原理としているため結果的に実生活ではルールを守った行動を取っていると主張しました。その上で、案外日本人と中国人で遵法意識についてはそれほど差はないのではないかという仮説を立てましたが、今日はその理由を説明します。

 まず一般的に、日本人と中国人のどちらがルールを守るかと言ったらそりゃ間違いなく日本人に決まっています。中国国内でもこういうルールを守るというかマナーについてはしょっちゅう議論になるほど普段の中国人は悪く、私も以前い観光地で「禁煙」と書かれた貼り紙の前でおっさんが堂々と煙草を吸い始め、それを係員が注意した所「なんで吸ったらダメなんだ!」と逆切れするのを見てああ中国だなと感じたことがありました。
 最近であれば爆買い中国人が日本のあちこちでも見られるかと思いますが彼らのマナーの悪さについては見ていて辟易する日本人も多いでしょうし、実際に小売店各社もあれこれ対策を取っているとも聞きます。これだけ見るととてもとても日本人と中国人で遵法意識に差があるようには見えず、中国人は本当に決まりを守らない人間にしか見えないでしょう。

 にも拘らず何故私は今回このような主張をするのか。結論を端的に述べると、この差は遵法意識の差ではなく集団主義と個人主義の差であると思うからです。

 前回記事で私は日本人はルールを守る意識は薄いが周囲に合わせようとする集団主義的意識が極端に強いため、結果的に集団でルールを守る側が多数派を握れば全体が自然とルールを守るようになると分析しました。ただその一方、多数派がひっくり返れば一瞬で態度もひっくり変わるため、外国人から反復常ならないとか何考えてるのかよくわからないと思われ、また戦前から戦後の転換に絶望した人を生みだしたりするわけですが。
 これに対して中国人はというと、言ってしまえば完全な個人主義です。周囲が何しようが何を言おうが全く意に介せず、「ワシがこうしたいねんからこうするねん!」とばかりに自分がしたいことばかりを全く我慢せずに実行します。っていうかさっきのセリフは敢えて関西弁で書きましたが日本人の中で個人主義的意識が強いのは間違いなく関西というか大阪人で、その辺が中国人と馬が合うポイントでしょう。

 まず前提として日本人も中国人もルールを守ろうという意識は非常に希薄です。ただ日本人は周囲に合わせようとするため結果的にルールを守る行動を採ろうとするのに対し、中国人はさっきの煙草の例のように周囲なんてお構いなく自分の本音を通すというか、もちろん度を越した行為はさすがに控えますが、やりたいことを本能のまま忠実に実行します。なので日本人には通じる「他の人はこうですよ」なんていう注意は中国人には届くわけがなく、何かしら罰金なり追放なりといった強制的な処置をちらつかせる以外にルールの遵守を求めることは難しいでしょう。
 その上で述べると、マナーの悪い中国人を見ていて日本人がイラつくのは、中国人がマナーやルールを破るからではなく、周囲に行動を合わせないからという理由の方が大きいのではないかと私は見ています。遵法意識の差からではなく、集団主義と個人主義の意識の違いからくるズレの方が多分琴線に触れているのではないかと言いたいわけです。

 念のため付け加えておくと、上記までの内容を見るとさも集団主義が個人主義に比べ優れているように見えますが私としてはそんな考えは毛頭なく、レベルというか強さ的にはどっちもどっちという風に考えています。集団主義はきちんと管理などが機能している間は確かに強いですが管理がおかしくなっている場合、たとえばこの前書いた労働法の問題やブラック企業、しごき体質の運動部など、集団がおかしな方向に向いた場合に全く修正が効かないままおかしい方向へ進み続けるという大きなデメリットがあります。個人主義な中国人の場合はブラックな企業に入った場合、「アホか!」つってすぐに辞めてしまうので会社が成り立たずすぐ潰れるでしょうし、あと個人主義故に周りを気にせず自分の追い求める方向を追い求め続けるのでたまにすごい芸術家や科学者が出たりもする土壌があります。

 最後に私の思い出話をすると、確かあれは小学三年生の頃でしたが何か粗相をしでかして担任の先生に怒られた際、「友達もやっていたから」という言い訳をしたところ、「他の人がやっていたら悪いと思うことをやってもいいの?」と言い返されました。この時そういわれて、「そや、なんでやったらあかん思うとるのにほかの奴がやってたからやってええことになるんや」と妙な感じで悟ってしまい、少なくともほかの日本人よりは個人主義でありなおかつ遵法意識も強い性格を形成していく大きなきっかけとなりました。
 もちろん私だって信号を無視することもあれば細かい法規を無視するなどといったことはしますが、それでも周囲からはよく固すぎると言われるくらいやや厳格な生活を続けています。昨日例にとった就活でも、二月の期末試験を終えない間に活動をするのは学生としてどんなものかという妙なマイルールを課して期末試験が終わるまでは一切活動らしい活動をしなかったところ、面接では「君は就活の開始が遅かったんだね」と皮肉を言われるだけで誰からも評価されませんでした。

 はっきり言ってこんな性格じゃなければもっと器用に世渡り出来て今よりずっと楽でマシな生活が出来ただろうという確信がありますが、あの小学生の頃に諭してくれた先生には今でも感謝しており、あのおかげで自分は魂を得るに至ったと考えています。

遵法意識のない日本人

 明日から中国では国慶節連休に入る上、途中から日本にも一時帰国するのでかなり長いお休みになります。もっともちょっと状況がテンパり気味なので、ゆったりと休暇を楽しむ気分にはなれないでしょうが。明日暇だし蘇州のイオンでも行こうかな。

<就活>長期化、学業に支障…解禁破り続出、見直し論(毎日新聞)

 そういうわけで記事リンクを貼った上での本題ですが、さすがに大分年齢重ねて就活と聞いてもそれほど共感を感じなくはなっているものの、今年就活に直面した学生はいろんな意味で大変だったようです。何故大変になったのかというと就活にかまけて大学での学業がおろそかになるという懸念から政府、そして経団連が加盟企業に対して就活の開始時期を従来より遅らせ4回生の8月から行うよう指示したものの、次々と横紙破りをする企業が現れ企業側も学生の側も対応を巡って現場では大混乱となっているとのことです。
 まぁ始まる前からある程度予想はついていましたが8月から採用活動を開始するよう通達されていたものの優秀な学生を取ろうとこれより早く開始する企業が後を絶たず、また学生の側もそうした横紙破り企業があることを前提に早くから活動していた人間が順調に内定を取り、結果、正直に8月から活動を開始した企業と学生が揃って割を食う羽目になりました。もっとも、中には3月から活動を開始したものの未だに内定が取れず活動を続けている学生もいて就活の長期化を招いていると記事中で指摘していますが、こういう事例に関しては以前からもあるのでわざわざ記事に書くほどでもないようなと思えるあたりが所詮は毎日の記事です。

 この就活についてもっとしつこく書いてもいいですがそっちに関してはほかに専門家もたくさんいるので今回はスルーするとして、ここで私が提起したい点は横紙破りをする企業が後を絶たなかったというところで、結論から述べると日本人というのは案外中国人と同じで、法律の遵法意識が薄い、っていうかほとんどないように実は前から思っています。

 日本人はルールや規則を守る方か否かと問われるなら、恐らく大半の日本人は「比較的守る方だと思う」と答えることでしょう。しかし私の目からすると行動では確かに守っていることが多いものの、ルールを守ろう意識は実際にはほとんどなく、はっきり言えば惰性で守っているに過ぎないのではと見ています。
 今回の就活の例で言えば横紙破りをする企業が多数いたという点が一見するとポイントのように見えますが、真のポイントはそうした横紙破り企業に対して世間が何も批判しようとしない点です。罰則こそないもののみんなで守ろうといったルールを無視してほかの企業を出しぬく、ギャンブル漫画「カイジ」の世界では日常的に行われていることですがそんな「カイジ」の世界においても、「汚ねぇ、汚すぎるぞっ!」と敗者側が非難をしますが、少なくとも今年の就活に関してはそういった出し抜いた企業に対する非難はほとんどなく、正直にルールを守った会社で採用が上手くいってないことに対して、「正直だったのに可哀相だね」と軽く同情するに止まっています。

 一体何故出し抜いた企業は非難されないのか。そもそもの開始時期設定自体に問題があったのだとか色々言い訳は立ちますが、私が思うに出し抜いた企業が多かったから非難されないのだという気がします。
 たまにはここで筆を止めてもいいかなと思いますがもうちょっと詳しく説明すると、たとえば百人中一人がルールを破った場合、恐らく日本人はその一人を徹底的にこき下ろした上で村八分のような処置を取ることでしょう。しかしこのルールを破る人間が一人ではなく二十人だったら、恐らく守った八十人は破った二十人を非難はするものの村八分のような扱いまで取ることはないでしょう。さらに破った人間が五十人だった場合、諍いは起こるかもしれませんが守った側もこのくらいの人数になると「ずるい」と悔しげに文句を言うにとどまることでしょう。そして破った人間が八十人だったら、ルールをきちんと守った人たちは破った人たちから「馬鹿正直な連中だ」と文字通り馬鹿にされ、その二十人も恐らく非難すらせず、中にはどうして自分はルールを破らなかったのか後悔する人間も出てくるでしょう。

 ここまで言えばわかるでしょうが、日本人はそこに存在するルールを守るか守らないか以上に、自分の行動や判断が多数派になるかならないかの方をより重要視する傾向があります。何もこれは日本人特有というわけではなく外国人にももちろんみられますが、ただ私の目から見て外国人と比べれば日本人は特にこういった集団主義的傾向が極端に強いという風に感じます。
 このような集団主義的傾向が日本人においては強いためか、普段の行動原理は「他の人間と同じ行動をとる」ということが第一義として存在しており、「ルールや規則を守る」という考えは文字通り二の次でしかありません。なもんだからルールや法律を守らない人間が集団のうち過半数を越えた場合、強力な罰則や執行機関が存在しなければ、その時点でそのルールはルールとしての価値を完全に喪失することとなるわけです。極論を述べると、百人のうち九十九人がルールを破る中、「ルールはやっぱり守らなきゃだめだ」と主張するような最後の一人はもはや日本人ではないでしょう。

原発事故で日本社会が失ったこと(2)・・・遵法精神(武田邦彦氏のHP)

 この記事を書くに当たって「遵法精神」というキーワードで検索したところ引っかかったのが上記の武田邦彦氏のホームページでしたが、武田氏は放射線の被爆限度量が震災以前と以後で変わったことを例にとって日本人は原発事故によって遵法精神を失ってしまったと書かれていますが、私の意見は異なっており、そもそも日本人には遵法精神なぞ初めからなかったのだと思います。この限度量が変わったことについても、黒が白に変わっただけというか多数派がつく数字が必要に応じて変わっただけでしょう。

 このまま一気に書いてしまうつもりでしたが、途中で書いた「日本人というのは案外中国人と同じで法律の遵法意識が薄い」という点についてはまた明日にでも書きます。疲労してテンション低い中、今日はなかなか頑張って記事書けたな。

2015年8月5日水曜日

「自由」という言葉が持つ二つの定義

 先日、ある友人から「自由」という言葉は福沢諭吉が初めて「Freedom」という言葉を翻訳して作った言葉だということを教えてもらいました。なお福沢はこの言葉を最初は「下剋上」と翻訳したそうですが、「なんか違うよなぁ」と思って翻訳し直したそうです。この判断は正しかったんじゃないかなぁと私は思います。
 ただこの自由という言葉ですが、内包する意味としては大きく分けて二つあるのではないかと私は考えております。もったいぶらずに述べると一つは「どんな選択肢でも好きに選べる状態」で、もう一つは、「束縛が全くない状態」です。どちらも似たような印象を覚え実際に両方とも兼ね備えた状態も決して珍しくはありませんが、必要十分条件の関係ではないと断言できます。

 具体例を挙げると、誰かの監視なり保護下に入ることによって行動の選択肢が増えるというのが一番わかりやすく、これだと束縛は増えるものの自分単独では実行することが出来ない行動が選択肢に入ってくるわけで、一種の社会契約論と考えても問題ありません。
 逆のパターンもまた然りで、親の庇護下から離れることで束縛は減るものの成人していなかった場合は経済面から行動が縛られてしまいます。まぁ経済面の縛りを束縛ととるならまた解釈も変わってきますが。

 では一般的な日本人は普段どちらの自由を重視しているのか。私の意見を述べるならば圧倒的に前者で、選択の幅を広げるのであれば社会や組織の束縛を受けることにほとんど抵抗しない人が多いように思います。こうした日本人の傾向について特段批判するような点はなく、いつも手厳しい日本人論を語る私としても変だとは思いません。そもそもどちらの自由を優先するのかは本当に考え方次第であるため、どっちが正しいとか理想形は何なのかを考えるのは野暮でしょう。もっとも、どっちの自由も放棄するってのは問題である気はしますが。

 ここまで書けば薄々勘付かれるでしょうが、私個人としては圧倒的に後者の「束縛からの自由」を重視しています。逆を言えば束縛から離れられるのであれば選択肢が狭まっても構わないというか、実際にそのような行動をこれまで取ってきました。
 あくまで私見ですがこっちの「束縛からの自由」を重視するのはやっぱり欧米系国家の人たちに多いような気がします。組織や家族のために個人を殺すといった行動意識は日本人と比べると小さく見え、単純に個人主義が強いだけかもしれませんが社会全体でもそうした意識が垣間見え、慣習やら社会的影響をなるべく排除しようとしているのではないかと思います。
 こちらでも具体例を挙げると自由の本場と日本人が言っているフランスで、以前に騒がれた学校にイスラム教徒であってもブーケを被って来てはならないというルールを設ける当たり、宗教的影響を可能な限り教育現場から排除しようとしたのではないかと見えました。

 繰り返しになりますが「選択の自由」、「束縛からの自由」のどちらを重視するかは人それぞれであって、どちらの自由が絶対的に正しいと言い切ることはできないでしょう。ただ私からの助言としては、二つの自由をどんな按配で重視するのか、これをおぼろげながらも意識すると物事の見え方が良くなるように思えるのでお勧めです。
 たとえば普段は行動の自由を重視しながらも束縛からの自由を完全放棄しない、割合的には8:2ぐらいに自己設定して、一体どこのタイミングで自分は束縛に対して抵抗するのかを考えてみるのも面白いかもしれません。上司から叱責を喰らう、上司からビンタを喰らう、上司からフランケンシュタイナーを喰らう、この三段階のどこまで我慢するのかを考えるだけでも自分の立ち位置なり根本的な考え方が以前より確固と固まるのではないかと思えます。まぁ三つ目はこんな技決められる上司に巡り合えるかどうかをまず考えた方が良いかもしれませんが。

2015年5月6日水曜日

空飛ぶ霊媒師、ダニエル・ダングラス・ホーム


 上記の画像は以前に「不死身の弁護士」という記事で紹介した滝本太郎弁護士の写真です。滝本弁護士は別に霊感があって空中浮遊をしているわけではなく、地下鉄サリン事件以前のオウム真理教信者の救済活動に携わっていた際、麻原彰晃が空中浮遊できるほど霊力があると信じ込んでいた信者らに対し、「空中浮遊ならやろうと思えば俺だってできる」と言って、自ら体を張って空中浮遊の写真がトリックであると証明するためこの写真を撮影したそうです。詳細はリンク先の過去記事に詳しく書きましたが、この写真といい何度狙われても生還したことといい非常に頼もしい弁護士だと思うと同時に、なんでこんな写真を私もいつまでも保存しているのか少し悩むところです。

 ここで少し話が変わるというか本題に移りますが、いわゆる霊能力や超能力があるということを証明するのによく使われるパフォーマンスと言ったらスプーン曲げや予知と並び、先ほど出てきた空中浮遊も挙がってくるでしょう。しかし先の二つと比べ空中浮遊ができるという人はそれほど多くはなく、また誰もが「あいつはマジで浮かんでた!」と証言するような見事な空中浮遊を見せる人物となるとほぼ全くいないどころか、浮遊するシーンを撮影した動画なんてものもこれだけネットが発達した時代でも出回っていません。何故そうなのかというと単純に空中浮遊はトリックとして難しく、超能力があるように種や仕掛けを用いてやろうとしてもあっさりばれてしまうことが多いため、スプーン曲げなどと比べるとややレアになっているのだと推察します。

 しかし、やや時代は古いですが「あいつ、マジで浮かんでたよ!」と言われた超能力者がかつて存在していました。驚くべきことにこの超能力者というか霊媒師は生前、ただの一度として彼の見せる奇跡がトリックだと見破られることもなく現代においても彼が見せた不思議な現象を説明できておらず、彼は本物だったのか否かは今でも大きな議論のネタとなっています。

ダニエル・ダングラス・ホーム(Wikipedia)

 その霊媒師の名前はダニエル・ダングラス・ホーム(ヒューム)といって、19世紀にスコットランドで生まれました。ホームは生まれてすぐ子供のいなかった叔母夫婦に引き取られますが子供の頃から彼の周囲ではラップ音やポルターガイスト現象が起こっており、ホームが17歳だった頃に生みの母が死去するとそうした心霊現象は以前にも増して増えていったそうです。またホーム自身も心霊現象を見せることができ、イギリスを始め欧州各国で多くの人間が彼が起こす超常現象を目の当たりにしてその名声も存命当時からも論争になるほど大きなものでした。

 ホームが見せた超常現象はどんなものだったのかというと、一言で言って桁外れに説明のつかないものが多いです。冒頭に書いた空中浮遊はもちろんのこと、その場で手足を数十センチ伸ばしたり、燃える石炭で顔を洗う、触るだけで楽器を鳴らす、空中から誰のものでもない霊の手を出現させ列席者と握手させるなど、並み居る列席者の目の前で常識では考えられない現象を実に多くの人間に見せています。

 しかもホームがほかの超能力者と大きく異なっている点は、これらの心霊現象でお金を稼ぐようなことはほとんどせず、それどころか時間さえあれば一般市民にも無料で見せていた点です。さらに列席者に対しては、「部屋が暗くちゃ見え辛いよね(´・ω・`)」などと言っては自ら照明を明るくするなど、トリックを隠そうとすような素振りを見せるどころか逆にオープンすぎる姿勢を貫いていたそうです。それだけオープンだったにもかかわらず彼の存命中、誰一人として彼が見せる心霊現象をトリックだと証明できるものはおらず、ハーバード大学の研究者だけでなく「クルックス管」の発明で有名なウィリアム・クルックスすらも「疑わしい点はない」と彼の力を認める発言を残しています。

 彼の心霊現象を見た人間は著名人にも多く、時のローマ教皇であったピウス9世、フランス皇帝のナポレオン3世、ロシア皇帝のアレクサンドル2世などもわざわざホームを呼び寄せています。もっともホームを詐欺師呼ばわりする人間も当時からたくさんいたようで、そうした声に巻き込まれる形で生活が困窮するような事態にもなんどか陥っています。しかし彼を糾弾する人間からは誰一人として彼が起こす不思議な現象を説明出来るものは出て来ず、そうこうしていたらホーム本人が48歳ごろに引退宣言をして表舞台から姿を消してしまいます。といっても、親しい人には「今回だけだからね(´・ω・`)」といってちょくちょく見せてたそうですが。

 ホームの特徴を一言で述べるなら、非常に多くの人間を前に心霊現象を披露しながら存命中に足を見せることが一度としてなかったということに尽きます。だからと言って彼が本物の霊媒師だったと言い切れるわけではありませんが、彼自身が見せていたオープンな姿勢といい、ほかの超能力者たちとは明らかに一線を隠す人物であったことだけは間違いありません。
 私自身はそれほどスピリチュアルに傾倒しているわけでもなく超能力や例現象に関してもやや懐疑的な立場を取ることが多いですが、このホームの話は聞いてて素直に「なんじゃこりゃ」と思う話が多く、スウェーデンボルグ並に聞いてて面白いと思ったのでここでも紹介することにしました。

 このブログは一応政治系ブログを標榜していますが、意外とこの手の記事の方が人気あるんだよなぁ……。

2015年3月3日火曜日

日本人の同化圧力

 本当は今日はやけに眠いので(この前の日曜は10時間寝ていた)ブログは休もうとも考えていましたが、ちょっとネタ拾ったので頑張って一本記事書くことにします。

川崎市中1生殺害 リーダー格「少年Bに『お前もやれ』と指示」(FNN)

 上記のリンク先は今話題の川崎での少年殺人事件のニュースです。この件に関してはほかの人がいちいち話題にしているので私の方から何か言いたいことは特にありませんが、一つだけ言及するとこの手の事件にしては珍しく被害者が通っていた学校の教師らは批判されず、むしろその親と犯人の親がよく槍玉に挙がっているなという印象を覚えます。大津のいじめ自殺事件とはこの辺りが大違いだなと思うのと同時に、神奈川県警関連のニュースでやや怪しい、はっきり言ってしまえば誤報と思われるリークが出ているのが気になります。

 そんな事件の感想は置いといて今日書きたい話題に移ると、上記のリンク先見出しによるとリーダー格の犯人は一緒にいた子分こと別の犯人に対し、被害者を暴行するよう指示したそうです。こうした行為は言ってしまえばよくあることなのですが、社会学で言うとこの行為は「同化」といって、複数の人間で同じ行動を取る、または同じ経験を共有することで結びつきを強めるという一種のコミュニケーション方法だと考えます。暴行みたいに極端なものでなくても、一緒にスポーツしたりゲームしたりも同化の一種に入りますが、学術的に研究価値があるのはやっぱり極端な同化行為です。

 今回のこの事件でリーダー格が子分に暴行を指示したのは色々思惑があるでしょうが、やはり同じ暴行という行為を行わせることで責任の連帯なりを無意識にでも意図したんじゃないかと思います。ちなみにこの暴行による同化行為ですが一番よく行われるのはやっぱりマフィア内部ですが、学校内でのいじめもこの類に入るとすれば広く盛んにおこなわれていると言ってもいいでしょう。
 特に日本の場合は明らかにいじめ行為が多いのですが、視点を広げると一般社会上でもこの同化によるコミュニケーションが多く、というより下手したら同化以外のコミュニケーションがないのではと思うくらい日本人はこれを重視しているように見えます。一例をあげると外国人と話す際に日本人はお互いの国で知られている有名人を言い合うなど共通点を捜しはじめますが、自分やほかの外国人同士だと割と現地の生活習慣とか風習など異なる点を紹介し合います。

 眠いので言いたいことをもう話すと基本的に日本人はコミュニケーションにおいて共通点、共有体験を非常に重要視する一方、思想や経験の異なる相手に対するコミュニケーションというか付き合い方が非常に下手、というよりも知らないようもに見えます。なもんだから新入りとかに対してはやたらと共有体験を創ろうと同化を迫り、その圧力はかなり異常なんじゃないかなぁと前から思ってます。
 特に共有体験において私の目からすると何かしら苦痛を伴うものを強要するパターンが多い気がします。以前にも「目下に苦痛を強いる日本人、といじめの構造」で少し書いていますが、目上の人間が目下の人間に苦痛を伴う共有体験(一気飲みやハードワーク)を強いさせ、立場というか上下関係を相手に認識させようとしているのではと、さっきのニュースの見出しを一目見てピンときました。マフィアなんて明確にそういう目的で集団での暴行に参加させてるんだろうけど。

 最後に学生時代にある授業で一緒に受けていた学生が、「こんだけ書店にコミュニケーションに関する本が並んでいる事実一つとっても、日本人ってコミュニケーションが極端に下手な民族なんだと思う」という一言が今でも頭に残っています。実際中国にいてもコミュニケーションがうまくいかないとかで悩む人は全くと言っていいほど見ないし、こういう事実に日本人はもっと自覚したらどうかなと眠いと思いながら感じます。