ページ

2008年9月29日月曜日

アメリカの金融不安と日本のメガバンクについて

 本日友人からリクエストをもらったので、この前のリーマンブラザーズ社破綻以降続いている世界的な金融不安とそれに対する日本のメガバンクについて手持ちの情報と解説をやろうと思います。

 先ほどのNHKのニュースによると、何でもベルギーの銀行が信用不安から取り付け騒ぎに生じかねないとのことでベルギー政府が公的資金の注入を発表したようなのですが、このベルギーの信用不安も明らかにアメリカの金融不安が原因です。このアメリカの金融不安についてアメリカ嫌いの経済学者などは去年辺りからいつかボロが出るなどと警鐘を鳴らし続けていましたが、連中は今のようになったらかつての大恐慌のような世界的経済混乱が起こると予想していましたが、結論から言って現時点でもその可能性は非常に高いと思います。

 なぜならアメリカの通貨がドルだからです。基本的に貿易の世界ではドル決済といって、商品の売買はドルでお互いに支払った後に自国通貨に換えます。何故これがドルなのかというと、それはやはり安定しているのが理由です。たとえば昨日まで1ゴールド=100円だったのが次の日には1ゴールド=500円になったりすると、日本人で前日に500ゴールドで商品を買うと約束していた人は5000円で済む支払いが25000円にまで膨れ上がってしまいます。貿易というのは輸送や送金に時間がかかるためこうしたリスクを常に計算しなければなりませんが、この変動が小さければ小さいほど貿易の人間にとっては取引が安全ということで、これまで決済通貨にドルが使われてきました。

 その結果、ドルは世界中でばら撒かれ基軸通貨としての地位を得ましたが、今回のこの金融不安で急激に変動が起きた場合、たとえば銀行のローンだと毎年1000ドル返済する予定がドルの価値がその国の通貨で三分の二に落ちてしまった場合、単純に収入も三分の二に落ち込んでしまいます。このようなことが今後世界中で起こることが予想されるので、まぁ確かにかつての大恐慌のようなことになるというのもうなずけます。

 それに対して我らが日本の銀行はどうなのでしょうか。実を言うと、今の状況は日本の銀行にとっては願ったり叶ったりの状況であると私は考えています。
 というのも日本は私も以前にくどいくらい「竹中平蔵の功罪」の記事の中で解説しましたが、竹中平蔵氏が指揮した小泉改革の中で徹底的に不良債権を洗い出して自己資本比率、要するに自由に使える銀行自身の手持ちのお金を可能な限り貯めさせたのもあって、恐らく他国と比べて今回の金融不安で受ける損失は著しく低いと考えられます。また自己資本比率が多いということは、今回の混乱で他国の銀行が損失の補填やら運転資金やらに回すのに手持ち金が不足するような事態に陥っているのに対して新たな投資を行えるくらい余裕があるということを表しています。

 その結果の証拠というか、先週末に経済紙の一面を騒がせましたが三井住友銀行の米証券会社一のゴールドマンサックスへの出資と、野村証券のリーマンブラザーズのアジア部門買収がありました。これは運転資金にすら困る連中に対して、いかに邦銀が資金に余裕があるのを見せ付けた事件でした。
 かつて日本が不況だった折には散々公的資金を投入して立ち直らせた新生銀行があっさりとアメリカの投資家たちに買われていったのときれいに逆転し、今度は日本の銀行がアメリカの会社を買うようになったなんて、不謹慎ですがすこし小気味よく感じます。たとえるなら、散々四番バッターを奪っていった阪神に広島がありえないくらい勝ち越すような気分です。

 かといって、日本の銀行を私は手放しで賞賛するつもりはありません。なぜなら彼らがそれだけの資金を持っているのにはやはり悪いことをしているからです。その悪いことというのも、ずばり金利です。
 通常、個人が銀行に預金をしているとその額に対して利子がついて増えていきます。しかし日本はかつての不況以来延々と0金利政策を日本銀行が取っているため、普通の銀行である民間銀行も延々と金利を据え置いて、確か利率1%をまだ切っているんじゃなかったでしたっけ。

 本来、銀行は個人から預かるお金に応じて利子を払わねばならないので、その分企業などにお金を貸して自分らで利子を取ってお金を増やすという資金運転をしなければなりません。しかし今の0金利政策下だと人からお金を借りても払う利子が極端に少ないので、別に無理して企業にお金を貸す必要もありません。

 その結果起きたのが、私の見たところあまり経済誌なども取り上げておらず、唯一私と私の親父だけが道頓堀に飛び込まんばかりに怒っている銀行の貸し渋りです。かつての貸し渋りは資金の余裕のなさから起こったものですが、今は資金に余裕があるばかりか、どの銀行も過去最高利益を更新し続けるほど儲けているのに企業への資金の貸付を顕著に減らしています。これは支払う利子が少ないために資金を溜め込むリスクが少ないため、確実に利息が返ってくる優良企業にのみ商売をやって、中小企業を相手にしなくなったというのが問題の構造でしょう。その結果何が起きたかというと、うちの親父曰くアーバンコーポレーションや創建といった、そこそこ名のある企業の破綻です。特にアーバンなんて経営上うまくいっているのに運転資金が足りずの破綻、つまり黒字破綻です。

 本当に皮肉な話ですが、今日本で最も資金の流通を妨げているのは間違いなく銀行でしょう。新規の産業には一切金を出さないどころか、個人への利子も全く払おうとしません。確か去年の記事ですが、この銀行の不作為によって日本人が失った本来受け取るべき利子は数兆円にも上ると分析されています。

 今、邦銀はそのようにして貯めたお金を使って弱っているアメリカの金融機関などの買収に乗り出していますが、別に買収が悪いことだと言うつもりはありませんが、それより先にもっとやるべきこと、金利の引き上げと企業への貸付の増加があると私は思います。

2008年9月28日日曜日

文化大革命とは~その十、毛沢東の死と文革の終わり~

 いよいよ文化大革命の通史の大詰めです。この後は文革についてその後の影響や思想について書くので連載はまだ続きますが、ひとまず今回で大まかな話は終わります。

 さて前回では周恩来が死んだ時期について解説しましたが、よく周恩来と毛沢東はセットで語られることが多いのですが、彼ら二人が建国以後文字通り二人三脚で中国を背負っていたということはもちろん、こうして同じ年に死んだこともそのように語られている原因だと思います。

 1976年、周恩来の死から八ヵ月後についに毛沢東も病気で死亡します。その臨終の様については諸説入り乱れており、中には「日本の三木首相の選挙のことを心配していた」とかいうとんでもない話まであり、どれが本当かはまだ研究する時間を待たねばなりません。しかし約半世紀にわたって中国を引っ張り続けた彼の死はそれはもう大きな影響を後に残しました。

 毛沢東は死の間際、数年前から中央指導部に引っ張り側近に取り立てた華国鋒を次の後継者として指名していました。何故この華国鋒が毛沢東によって突然の抜擢を受けたかというと、それも今のところよくわかっていません。ただ中央指導部に抜擢されたのは派閥人事のなかでバランスを取るためだといわれており、事実この人はどうにもキャラが薄く、これというはっきりした政策案とか色を持っていなかったようです。

 それがために死後に混乱を恐れた毛沢東が、どこにも派閥に属していないという理由だけで華国鋒を取り上げたのかもしれませんが、毛沢東の死後、残った華国鋒はたまったもんじゃなかったと思います。というのも権謀術数渦巻く中央政界において何の後ろ盾も持たない自分だけが形だけの最高権力者として放り込まれ、案の定毛沢東の側近として文革を推し進めた「四人組」がより大きな権力を求め(四人組の中の一人である毛沢東の妻の江青は国家主席の地位をねらってたと言われている)、華国鋒の追放を画策し始めてきました。

 そんな状況下で、華国鋒には恐らく二つ選択肢があったと思います。一つは四人組に従い、国家主席の地位を投げ出すか、四人組に唯一対抗できる「猛虎」を自分の下へ引っ張り込むかという選択肢です。結果から言うと、彼は後者の選択肢を選び、第一次天安門事件にて再び追放された鄧小平を招聘するに至るのです。

 ちょっとややこしいことを先に書いちゃいましたが、時系列的には華国鋒は先に四人組を軍隊の幹部である葉剣英と組んで毛沢東の死から一ヵ月後に電撃的に逮捕、死刑宣告を行って一掃し、その後に鄧小平を中央指導部へ招聘しています。恐らく彼は鄧小平の力を借りながら自らの地位を守っていこうと考えたのだと思いますが、虎はやはり虎で、案の定自ら招聘した鄧小平によって失脚させられます。

 事の次第はこうです。四人組の逮捕後、恐らく鄧小平への牽制として華国鋒は自分の新たなスローガン、その名も「二つのすべて」を発表します。これは単純に言って、「毛沢東の言ったこと、やったことは何一つ間違いがない」という内容で、要するに毛沢東の目指した路線を守っていこうという政治信条で、これを発表することによって毛沢東の支持層を取り込もうと考えたのだと思います。しかしこれに対して毛沢東がいなくなって怖いものがなくなった鄧小平は猛然と真っ向から否定し、こう言いました。

「毛沢東の言ったことにも、中には間違いもある」

 華国鋒はあくまで毛沢東路線を引き継ごうとしたのに対し、鄧小平ははっきりと毛沢東の後年に行った文化大革命などの一連の政策は間違いだったと主張したのです。しかしここが鄧小平のうまいところで、彼はそれに加えて、「毛首席は確かに間違ったことをした。しかしそれでも功績七割、失政三割で、やはり彼は偉大な指導者であった」と毛沢東を全否定せずに文革のみを否定し、毛沢東の支持層を含めて民衆を大きく取り込んだのです。

 この論争は民衆の感覚をどう捉えていたかの両者の違いがはっきり出ています。華国鋒も鄧小平も文革の混乱をどうにかせねばと考えていたのは間違いありませんが、民衆がどれだけ毛沢東に傾倒しているか、文化大革命にどれだけ憎悪を燃やしているかを華国鋒よりも鄧小平の方がしっかりと計算できていたようです。「ワイルドスワン」のユン・チアンもこの鄧小平の打ち出した路線を知った時に、地獄に仏のように思ったとつづり、だからこそ後年の第二次天安門事件で虐殺を行ったとは信じられなかったと述べています。

 その後、華国鋒は鄧小平の批判を受けて次第に権力がなくなり、最終的に指導部からかなり早くに追い出されることになりました。しかし文革期のように集団リンチを受けたり強制労働をされるわけでもなく、一定の地位と収入をもらって余生を過ごしていたようです。その一つの証拠として、この華国鋒は87歳で、つい先月の八月二十日に天寿を全うして亡くなっています。

 実はこの連載を始めるきっかけというのが、この華国鋒の死でした。これによって文化大革命中の中心人物はほぼすべて世を去ったことになり、当事者たちがいなくなったことによって、これから恐らくこの時代についての様々な史料が公開されることだろうと思いますが、その前に中国の今の若者にとってもそうですが、隣国でこれほどの大事件が起きていたことを知らない日本の若者が多いということを改めて痛感し、私自身もまだ未熟な理解ではありますが中国を理解するうえで決して外せないだけに、何かしら役に立てないかと思って連載を書くことにしました。

 長くはなるだろうとは思っていましたが、十回を越えてまだなお書く記事があるというのは我ながら予想だにしませんでした。もっと簡潔に書くべきだったかもとは思いますが、第二回に既に概要は書いてあるので、むしろここまで細かく書いておいたほうがよいのかもしれません。今までのどの回も呆れるくらいに長い記事となっていますが、きちんと読んでいる方がおられれば、この場を借りて深くお礼を言わせてもらいます。ありがとうございました。

文化大革命とは~その九、周恩来の死~

 前回の林彪事件の記事は私自身あまり詳しくないのもあって、どうも後から読んでみるとやっぱり文章のリズムがよくありませんでした。まぁ今回の周恩来はいろいろあるからそんなことはないと思うけど。

 さてこの周恩来、日本からすると田中角栄との日中共同声明に調印した人物として有名ですが、何気に戦前には台湾の李登輝元大統領と同じように京都大学に留学に来ており、帰国の際に嵐山に立ちよって詩を詠んだ事から現地に記念碑ができており、京都にくる中国人の観光スポットとしてそこが有名になっています。
 実は中国人からすると、この周恩来は今でも非常に人気のある人物です。毛沢東に対しては畏敬の対象として恐れ多いもの、なんと言うか天皇に対する右翼の態度みたいなものですが、周恩来へは日本人の萩元欽一氏への態度みたいに誰からにでも好かれています。私の友人の中国人(♀)なんて日本人だと玉木宏、中国人だと周恩来が一番好きだといって豪語してやみません。

 その周恩来、数々の建国時の元勲までもが追放された文革期において一度として毛沢東から迫害を受けませんでした。周恩来は建国以後ずっと政務院総理(現在の国務院総理)という行政の長、日本で言う内閣総理大臣の職に位置しました。何故彼だけが毛沢東に目をつけられなかったかというと、この職位が関係しているといわれています。
 どういう意味かというと、毛沢東自身も恐らくは大躍進政策の失敗から行政政策を執り行う能力が自分にないということを自認していた節があります。なので、どうしても外すことのできないこの職に限っては専門家、つまり行政手腕に長けた人材を囲っておかねばならないという必要性から、周恩来を追放しなかったのだと言われています。

 では、同じように行政手腕に長けた劉少奇と鄧小平ではなく、何故周恩来だったのかというと、それは恐らく先の二人に比べて毛沢東の意のままに従う人物であったからだと私は思います。もともと毛沢東が抗日戦争の最中に党内部で権力を掌握するに至った遵義会議にてこれまでの幹部を裏切り毛沢東についたという経緯があり、また文革初期に至っても先の国家主席の劉少奇に対してスパイ容疑を出して、迫害に至る決定的な一打をぶつけています。その後も文革期は一貫として毛沢東の指示に従い続けました。

 しかし、こうした彼の行動については追放された鄧小平自身も理解を示しています。鄧小平に言わせると、あの時代は毛沢東に逆らえばどうしようもなかった時代で、敢えて毛沢東に従いながら文化大革命の被害を最低限に抑えようと実務面で周恩来は努力したのだと評価しています。実際に、あの文革期に国内の政務を一手に取り仕切っていたというのは実務家として大した手腕だと私も評価しており、取り仕切れるのが自分しかいないと自覚していたが故の行動だったのではないかと、好意的にみております。

 その周恩来ですが、とうとう1976年に死去することになります。ちょっと前に発売した「毛沢東秘録」という本によると、毛沢東は病気となった周恩来に対してわざと医者に診させないように手配して、暗に周恩来を死なせようと仕向けたと書かれています。それが本当かどうかはわかりませんが、この周恩来の死は当時の中国人も大いに悲しみ、その悲しみが第一次天安門事件につながることとなりました。

 日本人は「天安門事件」というと1989年に起きた民主化デモを中国政府が軍隊を使って押しつぶした「六四天安門事件」、私は「第二次天安門事件」と呼んでいますが、こっちの方しか思い浮かばないと思いますが、実は天安門事件は二つあって、一般に知られているほうが後で、最初のはこの周恩来の死の直後に起きています。

 その第一次天安門事件ですが、これは天安門広場前に民衆が死去した周恩来へ向けて花輪を捧げたところ、北京市当局によって即撤去されたことから起きた事件です。それ以前から文革を主導してきた毛沢東の腹心四人、通称「四人組」への批判が高まっており、周恩来の死によってますます彼らの専横が広がると考えた民衆らが花輪事件を契機に政府に対して四人組を批判するデモを大々的に行ったところ、これを危険視した政府によってその後の天安門事件同様に軍隊を使って強圧的に運動を押さえつけられました。

 その後、この事件の責任が問われ、林彪事件失脚後に復帰していた鄧小平がまたも失脚することになります。なお「ワイルドスワン」の作者のユン・チアンによると、毛沢東が劉少奇を殺して鄧小平は追放はしても殺しまではしなかったのは、最低限周恩来の代わりになる政治実務の担当者を用意しておく必要があったからだと分析しており、私もこの説に同意します。まぁ皮肉なことにいざ必要になったところでまた追放されちゃったんだけど。

 しかし、この鄧小平の追放は今度のは比較的短期に終わりました。何故かというとそれから八ヵ月後、彼を追放した張本人がいなくなったからです。もはや隠すまでもありません、文化大革命の主人公、毛沢東がこの世を去ったからです。

面白いゲームの条件

 前々から書こうと思っていたネタですが、私がコンピューターゲームの数ある条件の中で何がそのゲームを面白くさせるのかと思う最大の条件とは、ずばり「成長する要素」だと思います。

 さてこの成長する要素、RPGなどは至って簡単でレベルが上がるということでキャラクターは成長していきます。これがどう面白さにつながるのかというと、やっぱりやっていてゲームをやっている、積み上げているという実感が湧いて来ます。またキャラクターが成長することによってこれまで進めなかった場所にまでゲームを進められるようになったり、倒せなかった強敵が倒せるようになったりすると非常に爽快感がこみ上げてきます。
 私などはRPGゲーム全盛期の90年代中盤の育ちですから特にその傾向が強いのかもしれません。ちなみにその頃は、「RPGにあらずばゲームにあらず」と言わんくらいにこのジャンルが流行り、多分その頃からもそうでしたが一番多いゲームのジャンルというのは今は「アクションゲーム」なのですが、このアクションに対するRPGの割合は当時はずっと高かったと思います。

 私がこの成長する要素に初めて着目したのはレースゲームの「グランツーリスモ4」でした。このゲームで開始当初は所持金が少なくてしょぼい車しか(何気にAE86、「ハチロク」を最初に買った)買えなかったものの、下位のレースで勝ち続けて賞金を集め、集めた賞金で新しい車を買ったり今もっている車を改造することによってより上位のレースに挑戦できるようになるのが当初、非常に面白かったものです。またこのゲームだとクラスのレースをすべて勝つことによってプレゼントカーというものが無条件でもらえ、その車がまたいい車だとこれまたうれしく、わざわざその車を使って次のレースに挑んだりということもして遊んでいました。
 もっとも、このゲームは最初に「AE86」なんか買わずに「R32スカイラインGTR」を買えば序盤からかなり余裕で勝てるんだけどね。反則なくらいに速い車だし……。

 このように、「挑戦できなかったものに挑戦できるようになる」、「自分の技術、ゲーム内のキャラクターの実力が成長する」という要素こそ、ゲームの面白味を引き出す最大の条件なのではないかと思うようになってきました。今流行っている「モンスターハンターシリーズ」も、様々な武器防具を集めてきた材料で作り出すことによって手に入れ、それを装備することによってより上位のクエストに挑戦できるようになるという要素がここまでの人気を生んでいるのだと思います。格闘ゲームなどもそうで、自分の技術が上達するというのが目に見えれば見えるほどのめりこんでいったように思えますし、システムが複雑になって成長が逆に見えづらくなった90年代末期の格闘ゲームが衰退したのは自明な気がします。

 このようにゲームにおける「成長」という要素が、その面白さを左右する最大の条件だと私は思っています。考えてみると子供の成長から勉強まで、成長や上達が目に見えれば見えるほど人間というのは喜びや興味を感じるように思えます。これなんかは昔に私があれこれ考えていた話ですが、基本的に人間は適度な変化が目に見えなければ不安に陥りやすく、また急激な変化が起こるとこれまた不安に陥ると考え、「徐々に変化する」というのが目に見える「成長」というのが一番具合がいいのかもしれません。

 だからもし私でゲームを作り出すというのなら、アドベンチャーゲームではどれもついていますけど「達成度」という指標を必ず入れると思います。「現在の所持ポケモン数/150」とかいうような感じで。
 個人的にこういった要素を入れて一番やってみたいゲームというのがガンダムのゲームです。たとえば最初はジムしか使えず簡単なミッションしかできないのが、徐々にガンキャノン、ガンダム、Zガンダムとか選べるようになって難しいミッションもできるようになるというのが理想的です。一応、「機動戦士ガンダム戦記 Lost War Chronicles」というPS2のゲームがまさにこれなんですけど、残念なことに機体がファーストのものだけで、また数も少し少ないというのが残念でした。それでも100時間以上は遊んでいると思いますけど。私以外の人も言っていますが、余計な要素はいらないからこの作品の続編を、機体数だけ増やして出してほしいと私も願っています。できればZが舞台の奴で、そしたら私は愛するマラサイでカミーユを撃墜してやりますよ。あの甲殻類を思わせるフォルムが一番好きです(n‘∀‘)η

ゲーム会社のアトラスについて思うこと

 前回、「ゲーム「ペルソナシリーズ」についておもうこと」にてペルソナ3について簡単にレビューをしましたが、その後しばらくゲームを続けていて、なんというか「またか」というような感情を覚えてきました。というのもこのゲーム、RPGの癖に主人公が戦闘で死亡すると即ゲームオーバーになってしまうのです。もちろんザコ敵との戦闘でもです。

 このシリーズのほかのゲームではそんなことはないのですが、この3では何故だかそんな仕様になっているもんだから本来余裕のはずの相手にすらいきなり即ゲームオーバーにされる確率が非常に高くなっています。しかもこのゲーム、アホだから即死魔法がやけに多くて、こっちが使っても10%くらいしか効果がないのに敵が使うとなんだか50%くらいで食らいます。なわけで先ほどもザコ的の戦闘でいきなり即死魔法をパーティ全体に使われて、HP満タンの主人公一人だけが食らってゲームオーバーになりました。このシステム作った奴、首でも吊れってんだ。死亡状態から回復する魔法もあるけど、存在価値あるのかよ。

 おまけにこのゲーム、AIがこの時期のゲームにしては非常に稚拙です。戦闘時にいくらか仲間に大まかな戦略を指示することができますが、基本的に仲間キャラの行動は操作ができないのでAI任せになるのですが、何も気絶している相手を毎回叩き起こす必要はないのでは、もっと優先して叩く敵がいるのにと毎回思わずにはいられません。先ほども行った戦闘指示ですが、これなんかも一回の戦闘ごとにいちいちコマンドしなくてはならず、明らかにこのゲームの欠陥と言えると思います。

 実は最近、このアトラスが運営しているゲームセンターで大負けこいたのでイライラも手伝ってこの際文句をあれこれ続けさせてもらいます。それにしても、ゲームセンターのスロットで16連続でリーチが外れるってありえないだろ……。ゲーム台に殴りかかった私も悪いけどさ。

 このアトラスという会社は一般にはプリント倶楽部、通称プリクラを作った会社として認知されていますが、かなり昔からゲームを作っており今に至る女神転生から様々な種類のゲームを世に出しています。しかし、この会社が何故RPGの本舗ことスクウェアエニックス社の後塵を拝したかというと、私に言わせるとどのゲームも作り込みが甘いことが原因だと思います。なんというかユーザーのことを考えていないというか、ほんの少し改善するだけでぐっとやりやすくなるところに限ってこの会社は放置し、また難易度についても、これは昔からのユーザーにとってすれば今のゲームがぬるいだけと言われるかもしれませんが、なんというか致命的なところを調節しておかないために、ゲーム全体のバランスを毎回のように崩しているところがあると思います。

 一つ例を挙げると、「女神異聞録ペルソナ」ではいろんなペルソナ、ていうかスタンドを装備して戦闘しますが、ペルソナの中で入手も簡単なある種類のペルソナを装備していると敵キャラの魔法をほぼすべて反射してしまうために、魔法攻撃しかしてこないラスボスなんかだと余裕でノーダメージで勝てたりします。かと思えば十分にレベルを上げて余裕でザコ敵もなぎ倒せるくらいで次のステージに進んだら、いきなりわけのわからないくらいに強い敵が続出してなかなか前に進めなくなる、って言うのも結構ざらでした。個人的にこれが一番ひどいと思ったのは「真女神転生2」かな。

 もうすこしこういったところ直して一般ユーザーももっと遊びやすいように設計していれば、プレイしているユーザーは皆コアなファンになっていることから、DQやFFと並ぶ三大RPGの座に並べたと思います。ちなみに過去の三大RPGはDQこと「ドラゴンクエスト」、FFこと「ファイナルファンタジー」と「ロマンシングサガ」の三シリーズです。このうちロマサガは最近続編がほとんど出ていないからもう除外されていると考えると、今じゃその位置に「テイルズシリーズ」が来るのかな。

 今回のペルソナ3は一般ユーザー向けにこれまでのシリーズから非常に難易度を下げていますが、最初に言った主人公一人戦闘で死んだら問答無用でゲームオーバーというシステムは常軌を逸しているとしか思えません。ようやくまともなゲームになったかと思った矢先にこれですから、今後もアトラスにはあまり期待が持てなくなりました。

2008年9月27日土曜日

文化大革命とは~その八、林彪事件~

 前回までは文化大革命に翻弄される国民目線の解説でしたが、今回から指導者たちの権力争いについての解説になります。文革期の後半に至ると、なにもこの文化大革命のみならず建国時からの元勲たちが次々と世を去っていくことになりました。

 文化大革命初期に、これら元勲メンバーの中でいち早く毛沢東支持を表明したのが林彪でした。彼は抗日戦争の頃から活躍した将軍でしたが、年が他の元勲より若いということもあってこの時期には軍隊内で元帥とは言っても最高権力者にはなれずにいました。そんな時、毛沢東が文化大革命を引き起こし、それに乗ずる形で毛沢東に接近し、彼の威光を使うことによってライバルたちを次々と引きずりおろして軍隊内での地位を固めていきました。
 毛沢東が何故文化大革命を引き起こせたのか、その最大の要因となったのは軍隊、この林彪が毛沢東の行動を支持、協力したのが大きいといわれています。そのせいか毛沢東の林彪への信任は厚く、生前にははっきりと自分の後継者だと明言しております。

 そんな林彪が、文革末期の1971年に突然亡くなります。しかも、暗殺でです。事の起こりはこうです。この年のある日、中国とソ連の国境付近で飛行機が墜落しました。墜落現場をソ連の調査団が調べたところ、現場にある焼死体のうちの一つが林彪のものだと確認されたのです。
 この事件が発覚した際は各所で大きく事件が取り上げられました。何故毛沢東の後継者とまで呼ばれている林彪が墜落死したのか。しかも墜落したのが中ソの国境付近ということから林彪ががソ連への亡命を行おうとしていたことがわかります。

 この事件の最大の謎は、毛沢東の後継者として思われていた林彪が何故ソ連へと亡命を謀ったのかです。それについては諸説あり、まず一つが毛沢東の暗殺を謀ったためという説が今現在で最も強いです。毛沢東との関係は非常に深かったものの、猜疑心の強い毛沢東に次第に疑われこのままでは遅かれ早かれ他の幹部のように殺されると考えた林彪が、逆に相手を討ち取れとばかりに暗殺計画を練ったのが毛沢東にばれ、亡命を図ったもののその途中で毛沢東の追っ手によって飛行機が打ち落とされたというのがこの説です。また林彪自身は暗殺を計画しなかったまでも、息子の林立果が計画し、それが漏れたという説もあります。

 この説に対する対論として、暗殺を謀ったのが林彪ではなく毛沢東だったという説があります。なぜなら林彪は既に毛沢東の後継者として指名されてあるので、遅かれ早かれ何もしなければ最高権力者につけるはずなので、毛沢東の暗殺を謀るのは矛盾しているという説に立ち、一方的に猜疑心の強い毛沢東が林彪に対して暗殺を謀り、それから逃亡しようとしたところを結局打ち落とされてしまった、という説です。

 この事件については現状でもまだまだ明らかになっていない事実が多く、真相が明らかになるにはまだまだ時間がかかると思います。ただ一つ明らかなのは、この事件がきっかけで毛沢東はその後急速に方針を転換するに至っています。
 残っている記録によるとこの事件は毛沢東にとっても相当ショックだったようです。真偽はどうだかわかりませんが林彪機墜落の報を受けて毛沢東は、「逃げなければ殺さなかったものの」とつぶやいたという話があります。
 恐らく、毛沢東としては文化大革命の初期からの自分の支持者だった林彪の、少なくとも亡命にまで至る裏切りは相当堪えたようです。またこれまでの自分の採ってきた政策にも疑問を持ったのか、一度は自らの手で追放した実務派の鄧小平をわざわざ復権させて政務を取らせるようになっています。

 私の考えを述べさせてもらえば、その後の毛沢東の慌てぶりを見ると彼が率先して林彪を殺害しようとしたとは思いづらいです。とはいえ林彪を廃した後、毛沢東は急速にアメリカ、ひいては日本と急接近するなど外交路線でも大きな転換をしており、この事件が彼の政策を転換するに至る象徴的な事件であることは間違いありません。
 文化大革命全体を通しても、この事件が果たした役割は非常に大きいといわれております。しかしながら先ほどにも述べたようにこの事件にはまだまだ明らかになっていな事実が数多いため、具体的な分析に至れないのが現状というところでしょう。

2008年9月26日金曜日

文化大革命とは~その七、下放~

 前回、自分の権力奪還のために散々若者を煽り、あまりに運動に熱を帯びて毛沢東も危機感を感じ始めたところまで解説しました。聞くところによると田中角栄が日中共同声明のために北京に来た際、会見場には厳戒警備をしいていたそうらしいです。あれほど崇拝された毛沢東ですら、この時期にあまりにも熱を持ってしまった若者を自分の権勢だけで押さえつけられる自信はなく、散々若者に敵視させた日本の首相と会う際には慎重にならざるを得なかったそうです。
 そんな具合で紅衛兵に代表される若者が邪魔になってきた毛沢東は、ある政策でこの問題に片をつけようとしました。その政策というのも「上山下郷運動」、通称「下放」です。

 ある日、毛沢東はこんな声明を発表しました。
「若者は直に地方の農村で働き、農民の生活を直接学び革命に役立てるべきである」
 もともと毛沢東は自分の権力の基盤を常に農民においており、日本の安藤昌益のように「万人直耕」みたいなことを昔から言っていました。何もこの文革の前から農村で学び、考えることの重要性を訴えていたので政策自体は突然ぱっと出したものではないと私は思っています。

 しかし、この下放には明らかに別の意図がありました。この時代ごろから今の中国にとっても最大の懸案である人口問題が起こり出し、都市部の人口密度が桁外れなものにまで膨れ上がってきていました。こうした人口を外に分散させるとともに、手を焼かせる若者を一挙に片付ける一石二鳥の策としてこの下放が実行されたのです。若者も、毛沢東の言葉と新たな大地を自分が拓くのだという強い意欲とともに、この下放政策を受け入れ率先して地方へと下って行ったようです。

 さて農村で働くといって、日本の田園風景の中でのどかな生活を送る、みたいなのは想像してはいけません。日本でも最近になって問題化してきましたが、基本的に日本の農家は世界的にも裕福な方です。中国や韓国の農村は日本とは比べ物にならないほど貧困が激しく、以前の時代ならばなおさらのことです。なのでこの下放もイメージ的にはシベリア抑留みたいなものの方が近いと思います。都市部の近くの農村に行けた者は幸運だったらしく、大半は西南の密林地域や、東北の極寒地域に放り込まれていったそうです。

 資料に使っている「私の紅衛兵時代」の作者である陳凱歌は雲南省の密林地帯へと十六歳の頃に行き、そこで七年も過ごしたそうです。行った先にはもちろん電気などなく、鍬と鉈と毛沢東選集だけを現地の事務所で受け取り、掘っ立て小屋にて他の下放者と一緒に暮らし、毎日延々と密林の木を切り倒していたそうです。
 この本によると、下放者の中には過酷な労働で病気になる者も多く、作業中に木に潰されて亡くなった者も数多くおり、そして発狂する者までもいたそうです。
 下放されたのは何も男子だけでなく、たくさんの女子も同じように下放されています。資料ではある女子の発狂するに至る過程が描かれていますが、あまりの生々しさにここでは紹介することを遠慮させてもらいます。

 陳氏はこの下放を振り返り、何が一番印象的だったかというと木を切り倒したことだと述べています。結局、自分たちは大いなる自然に対して一方的に攻撃を加えていただけなのではと、成人後に現地へ赴いた際に強く思ったそうです。なにも木を切り倒すだけでなく焼き畑も数多く行い、あれだけあった密林もほとんどなくなってしまったことに強い後悔の念を抱いております。

 もう一つの資料の「ワイルドスワン」に至っては、この下放についてより生々しく描かれています。作者のユン・チアンも南方の密林地域に下放されたのですが、現地の農民とは言葉が全く違っていて何も会話することができず、これまで農作業など全くやってきていないのに突然農村へ放り込まれ、慣れない作業に体を何度も壊したり、病気になる過程が事細かに書かれています。
 その上でユン氏は、資本主義の国ではブルジョアとプロレタリアートの間で格差が広がり地獄のような世界が広がっていると教えられてきたが、果たしてそれは本当なのか。それよりも、この国の現状以上の地獄があるのだろうかなどと、これまで教えられてきたことや自分が紅衛兵として行ってきた事に対して疑問を持ち始めたと述べています。しかしそれでも、ユン氏も強調していますがそれまでの教育の成果というべきか、とうとうこの時代には毛沢東を疑うことはなかったそうです。

 前回の記事で、この下放こそが文化大革命の最大の悲劇と私は評しましたが、実はこの下放問題は現在進行で未だに続いている問題なのです。どういうことかというと、この後に文革は終了するのですが、下放された若者たちは下放された時点で都市戸籍から農村戸籍へと変更されてしまい、故郷へ帰ろうと思っても帰ることができなかくなった者が続出したのです。

 ちょっと簡単に説明すると、中国では「都市戸籍」と「農村戸籍」と分けられ、都市の人口をむやみに増やさないためにも農村戸籍の人間は都市に引っ越すことができないようになっています。つまり先ほどの下放された若者らは、事実上この時期に都市から追い出されて二度と故郷に住むことができなくなったのです(短期滞在は可能)。

 先ほどの両氏によると、無事故郷に戻ることができた人間は非常に幸運だったそうです。下放された者の中には現地で死亡した者も多く、また下放者同士で子供を作ってしまった者はそれがネックになって帰郷が許されなかったり、それがために子供を現地に置いて帰郷するものもいたりなどと。
 現在でも、この時期に下放された人の多くが地方に取り残されたままでいるそうです。
 陳氏などは軍隊に入ることで帰郷が叶ったそうですが、彼の友人などは東北部で凍死したなどと書かれています。それがため、この時代に若者だった中国人の大半は世にも凄惨な歴史に翻弄されて今に至ります。

 これほど多くの被害者が出た文化大革命ですが、その後半には急転直下とも言える政治事件が続発し、大きく情勢が動くことになります。今までの解説は国民目線のが多かったのですが、次回からは政治の中枢にいた、いわゆる文革の役者たちの解説になります。そういうわけで次回は、二十世紀中国史最大の謎と言われる、「林彪事件」を解説します。