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2009年6月10日水曜日

少人数学級にすれば、万事解決するのか?

 大分前から、昨今の日本の小中高での学力低下やいじめ問題を解決する大きな手段として少人数制学級への移行があちこちで強く叫ばれています。移行自体は現在少子化ということもありそれほど難しいことではないと思うのですが、今日ふと電車に乗っているとき果たして少人数制にすれば本当になんでも解決するのかなと一つ疑問がもたげたので、今日はその考えを紹介しようと思います。

 まず少人数制にするとどうなるかという賛成派の意見ですが、少人数制であれば教師一人当たりが面倒を見る子供の人数が減り、勉強などでもおちこぼれを出しづらく、またいじめについても何か問題があればすぐに教師も把握できて対応が出来るだろうという意見です。

 こう聞くと確かにもっともらしくて私もその方がよいのではとこの前まで考えていたのですが、この少人数制学級について実施している自治体の報告によると確かに保護者などのアンケートでは好評だという調査結果が出ているのですが、肝心要のテスト成績の比較などといった調査データはまだお目にかかれておりません。せめて少人数学級とそうでない学級で各学年ごとにそれぞれ20サンプルずつ出して比較してもらい、又同じ学級内の成績のばらつき具合などのデータがあれば検証しやすいのですが、なんか思い返してみると本来主張するからにはなくてはならないそれらのデータが見当たらないような気がします。
 それに単純な学力レベルの比較で言えば、今より全然大人数学級であった昭和時代の生徒らの方が高かったと、こちらは過去の国際学力テストのデータ上でもはっきり出ています。このようなデータから私は、学力はカリキュラムによって決まるものであまり教師の質とかクラスの人数は関係ないように思います。

 ではもう一つのいじめ問題についてですが、実はこれは以前から気になっていた意見として北野たけし氏の意見がありました。北野氏が言うには彼が子供だった頃、今より一クラスの人数は全然多かった(五十人程いたそうです)が今のような陰湿ないじめとかは無かったそうです。もちろんこれは北野氏個人の体験かもしれませんが、北野氏以外の方たちもよく昔と今のいじめは違うなど、近年の子供のいじめについては概して経験がないという意見ばかり聞きます。
 昔は一クラスの人数が今より多かったのにそれほどひどいいじめが無かった。では何故現代の日本はいじめが問題化するのか。ひょっとすると、一クラスの人数が前より減ったからいじめが増えたのではないかと、急にこんなこと思いつく当たり自分はひねくれた性格しているという気がします。

 ただこれが全くただの思いつきだと言うつもりはありません。例えばすこし極端な例を出すと、どんな集団でも十人に一人の確率で周りとは一味違う子供が出てくるとします。もしこれで十人一クラスの少人数制学級を作ると、その一味違う子供はそのクラス内で一人だけしかいませんが、これが五十人学級になると確率はそのままでも、50×1/10=5で、一味違う子供は一クラスに五人も出てきます。その五人の子供はタイプ的に希少なタイプだとしても、同じクラスに五人もいれば一つの集団が出来て少なくとも十人一クラスの中で一人で孤独にい続けるよりはずっと安定した生活を送れるのでは、ということです。

 つまりはこんな感じで、人数が多ければ教師の負担は確かに大きいかもしれませんが、生徒にしてみれば気の合う人間と同じクラスで出会う確率は上がるということです。逆に少人数制学級でそれこそ理想的にみんな仲良しになれれば何も言うことありませんが、果たしてそんなうまくいくとなるとはちょっと信じられず、やっぱり一人や二人がはぶられて、しかも少人数制学級だから他に逃げ場がなくなってますます追い詰められた状況になるんじゃないかという気がします。こういう風に考えると、今より人数の多かった昔の方がいじめが少ないというのもまだ理解できます。

 また私は子供の頃は雑多な人間模様の中でいる方が精神的にも成長する要素が多い気がします。少人数制学級では教師の目は行き届くかもしれませんがその一方で辺に純化してしまい、視野や世界がかえって狭くなって純化しきれない人間への反作用が強まり、そうしたところでいじめも出てくる可能性があると思います。本当に我ながらひねくれていると思いますが、今の教育問題をどうにかしようというのなら世論とは逆に、大人数制学級に移行するのもありなんじゃないかと考えたわけです。

郵政社長の人事問題を巡る各人の思惑

 昨日書いた「西川郵政社長の人事問題について」の記事にSophieさんよりコメントがあり、この人事問題は鳩山邦夫総務相が郵政民営化を潰し、かつての郵政利権を復活させようとしているために起こったのだと主張しているブログを紹介されたので、ちょっと書き残したこともあるので補足を行います。

鳩山総務大臣の一連のパフォーマンスの裏の権力闘争の歴史に関してマジレスしてみる
鳩山大臣と原口先生達は不動産ファンドを作ってみるのはどうだろうか?(金融日記)

 紹介されたのは上記のブログですが、このブログ内の主張は私の理解ですと先ほども述べたように、今回の人事問題は旧田中派の末裔の鳩山邦夫総務相(鳩山氏は田中角栄の元秘書)が郵政利権を復活させるため、小泉・竹中路線の改革を中座させるために介入している、と読みました。言われることもよくわかりますし鳩山総務相が旧田中派の末裔というのもわかりますが、鳩山総務相がこの問題にこだわっているのは郵政利権のためだとはちょっと私には思えません。詳しく調べていないのではっきりとはいえませんが、何か彼が票田といった郵政利権と結びついていたという報道は今まで聞いたことが無いですし、そもそもそんなことしなくとも彼の家は金持ちです。まぁ欲望にはキリはありませんが。

 では何故鳩山総務相がこの問題、というより郵政に対してしつこく絡んでくるかですが、それはやっぱり本心から今の郵政に鳩山総務相個人が納得がいっていないのと、報道されている通りに今のうちに目立ってあわよくば将来の総理候補にという下心からだと思います。鳩山総務相の秘書をやっていたジャーナリストの上杉隆氏によると、鳩山総務相は良くも悪くも正直な性格の人らしく、自分が正しいと思ったら周りを気にせずに自説をこれまでにも言い立てたようで、総務省就任後の裁判員制度、草彅氏の逮捕事件などを見ているとまさにそんな気がします。

 そんな鳩山総務相の性格を考えると、今回の問題であれこれ文句を言っているのは、「なんとなくだが納得いかねぇ」とばかりに、あまり利権とか権益とか深い背景や考えなしに言っているようにしか思えません。東京駅前郵政庁舎改築問題時に竹中平蔵氏とサンデープロジェクト内で一対一で討論しているのも私は見ましたが、やっぱりどう見たってあの時に待ったをかけたのは、「あんな歴史的建築物を改築するにはもったいない」というくらいの勢いでやっていたようにしか見えませんでした。

 さて、実は誰かが言うかなぁって思って今まで黙っていた事実がこの問題に一つあります。前みたいにワイドショーとか夕方のニュースを全局調べるという荒業をやらなくなったので、もしかしたらもう誰か言っているかもしれませんが、今回のこの問題には過去のある人のある発言が実は根っこにあるのではないかと私はにらんでいます。その発言というのも、

「私はそもそも、郵政民営化に反対だった」

 この発言は数ヶ月前の麻生総理の発言で、郵政民営化を行った当時に小泉内閣の総務相という責任者である立場であったにも関わらずこんなセリフを今になって言うなんて、さすがに私も予想だにしていませんでした。しかも民営化後の分割案についても国民は理解していなかったのだなどと、まるで有権者を馬鹿にしたような発言に自民党幹部もえらい焦ったでしょうが、そのすぐ後におきた西松建設献金事件で意外とみんな忘れてくれました。

 鳩山総務相は麻生総理の親友であり、また麻生総理もこの人事問題について言及するのを自ら避けているような素振りすらあります。さすがに二人で口裏を合わせてということは無いでしょうが、以心伝心的に共通の理解をもってこの人事問題を大きくしているのではないかと、ちょっと疑り過ぎかもしれませんが考えてしまいます。どちらにしろ郵政民営化に反対だったと今になって言うくらいですから、恐らくこの問題に麻生総理が介入することはまだまだ先だと思います。それにしてもこの人、

麻生首相「世襲頑張れ」と奨励=都議選候補の息子に

 まさかこの時期にこんな発言までするなんて、度胸は買うけどさ。

2009年6月9日火曜日

西川郵政社長の人事問題について

 本題とは関係ありませんが、今日FC2の方の「犯罪者の家族への社会的制裁について」の記事に対し、多分これは携帯からだからブログコメント欄に表示されないと思うのですがある方からお褒めのコメントをいただけました。この記事は友人からのリクエストを受けて私も気合を入れて書いた記事だけに、他の記事より拍手やコメントがついた際の喜びもひとしおなので素直にはしゃぎました。

進退は鳩山総務相の判断=辞任の考えはなし-西川日本郵政社長(YAHOOニュース)

 それでは本題ですが、昨今で一番の政治ニュースはというとこの西川善文郵政社長の総裁人事問題でしょう。西川氏の続投が当然視されていたところに任命権のある鳩山邦夫総務相が、かんぽの宿の売却問題とこのまえ発覚したばかりの障害者割引の不正使用問題の責任を取るべきだと、自民党執行部が止めるのも聞かずに公然と辞任を要求したことで文字通りてんやわんやとなっております。結論から言えば今回のこの件では私は鳩山総務相の肩を持ちます。

 一つ一つ問題を整理していきますが、まず一部の自民党議員が、
「郵政社長の人事は株主による株主総会で決められるもので、総務大臣はそれを追認するだけの任命権を持っているだけで人事権を持っているわけじゃない。なので鳩山総務相が人事に意見を出すこと自体間違っている」
 という意見についてですが、これはこの前の政治番組で突っ込まれていましたが、現在郵政の株は国がすべて保有しており、株主といっても与謝野財務相一人しかいない状態で、与謝野氏も鳩山氏も同じ内閣にいるので「株主総会で決められる」というのは間違いで実際には内閣の総意によって決められるべきということと、郵政を監督する総務省の代表者ということを考慮すれば鳩山氏が意見を出すのは決して筋違いではないと私は考えます。

 次に鳩山氏の言う西川氏の責任についてですが、かんぽの宿の売却問題については西川氏が就任する以前の公社時代の方が問題性は高く、オリックスへの一括売却についてはかんぽの宿が不良債権であることもあり、また従業員の雇用を守るという条件をつけてであれば多少はしょうがないのではないかという気がします。まぁ規制改革委員会にずっと会長が参加していたオリックスへというのは確かにちょっと問題ですが。
 しかし次のベスト電器などが行っていたダイレクトメールの障害者割引制度の悪用については、文句なしに西川氏が責任を追求されて仕方が無いと思います。現在ではこの件の報道は下火になりつつありますが、郵政会社の支店長もこの悪用に関わっていたことも発覚しており、また以前から恒常的に悪用されていたことを考えると私はまだまだこの問題の根は深いような気がします。

 しかるに西川社長がこの問題において公で深く謝罪をしたり、また原因追求に対して積極的であるとは私には感じられません。さっきも言った通りにこの件は現在ではほとんど報道されなくなってきており、なんかこのまま闇に葬られるのではないかと思っていた矢先に鳩山総務相のこの行動ですから、総務相がやめろと言うのなら私も支持するよという具合に肩を持つわけです。

 元々西川氏は、就任以前から過去の経歴(銀行の頭取)や行動などから公的な業務の多い郵政の社長としてはふさわしくないという意見が強かった人物でした。私としてはまずはお手並み拝見で去年一年間を見てきましたが、これと評価する点は無く、また在任中に起きた事件に対しての対応を見ているとやっぱりこの際変えるのもありかという気がします。
 それにしてもこの問題でなにが一番おかしいのかといえば、最高責任者である麻生首相が何も発言をせずに静観を続けていることでしょう。各ニュースのコメンテーターも何度も言っていますが、こういうところでトップダウンで決断をするのが総理にも関わらず、何の姿勢も打ち出さないがために鳩山総務相と西川社長の対立をわざわざ大きくさせております。決断力が無いにしても、ここまでくるともはや何も言えません。

  おまけ
 ヤマダ電機の障害者割引制度の不正使用には報道されている通りにある広告代理店が深く関わっていましたが、ちょっと業界関係者にこの件について聞いてみると、なんでもその会社は非常に官僚的な会社らしく、子会社の役員とか責任者の首を切るとかげの尻尾切りをしてこの問題にケリをつけたそうです。

プライドの売り方、買い方

 昨日の記事で私は、信長は家中に茶道をわざと流行らせることで茶器や茶碗といった茶道用具を信長から下賜されることを名誉に思わせるように家臣に仕向け、そうすることで恩賞に与える土地を節約したのではと解説しました。もっとも、佐久間信盛みたいにあまりにお茶にハマりすぎて逆に信長に追放されたのもいましたけど。

 ここで話を現代に戻しますが、信長の茶道への扱いほどではないにしろ私はこのような報酬のやり方というか、従業員に対して金銭的な報酬の代わりにいわばプライドを売ることで彼らを掌握する経営方法は現代でも応用が利くのではないかと思います。また従業員、というよりある程度生活の安定した現代の日本人の側としても、逆にそうしたプライドという報酬を得るために働いている比重が増えてきているではないかという気もします。
 このような例の代表格は言うまでもなくボランティア活動で、この行為は無報酬での勤労だからこそ従業員(この場合、ボランティア活動者)は納得をして、またそれなりに満足感を得られるのだと思います。仮にそのボランティア活動と同じ仕事をものすごい安い時間給でやらされるかたと比較検証をすると、仕事内容に対しての満足度が段違いに変わってくると思いますし、フェスティンガーの認知的不協和の実験でもそうと取れる結果を出しています。

 単純に言い換えるのなら、別に今に限らず昔も今も人間が働くのは金銭的な報酬のためだけでなく、自らのプライドこと自尊心を得るがために働いていたと思います。前にも一回引用しましたが、イギリスの労働党支持者のある男性がなぜ労働党を応援するのかというと、

「社会主義が間違っているのは間違いないが、人間は労働を通して初めて自尊心を得て人生を充実させることが出来る。労働党はイデオロギーはともかく労働を第一に考えてくれるから俺は投票するのだ」(昔の文芸春秋の塩野七生氏のコラムより)

 といっており、私としてもこの男性の意見に同感で、普段あまりお金を使わない性格というのもありますが自分が働いているのは金銭的なものより働いて世に貢献しているという実感を得たいがためという比重が大きいです。また私に限らず友人らも、給料は多少下がってもいいからもっとやりがいのある仕事をしたい、とほぼ皆で口を揃えて私を含めてぼやいています。
 さらにもう一つ引用を入れとくと、大体失われた十年が終わって就職状況が少しずつ良くなって来た頃に学生らに就職先を選ぶポイントは何かというアンケートをとると、大体ほとんどの調査で「やりがいのある(やりたい)仕事ができること」が上位に来ており、失われた十年期の「企業の安定性」を上回っておりました。今はさすがにどうなっているかはわかりませんが。

 このように、マズローの段階欲求説を引っ張ってくるまでもなく日本人の生活がある程度裕福になっているというのが主要因だとは思いますが、私は現代の日本の若者は金銭的な報酬よりプライド的な報酬を求めている割合が高いのではないかと思います。だとしたら私は日本の企業は現代の若者に対して仕事でやりがいを与える、もしくはそれを認識させることで彼らにそれほど高い給料を与えなくともてなづけられる可能性があるということになりますし、優秀な人材も集められるのではないかと思います。
 無い袖は振れなくて当たり前なのですから、経営者たちもそんな中でどのようにして従業員のやる気を引き出し、またやりがいを実感させるような環境にするかを不況の今だからこそ考えるべきでしょう。

  追伸
 今に始まったわけじゃないですが、最近アニメーターの薄給激務がよく話題になってくるようになってきました。前に読んだ記事によると手塚治虫氏が始めた虫プロの創成期は今以上のものだったらしく、残業も一月で300時間は下らなくて当たり前だったそうです。そんな厳しい世界でありながらまだこの業界が続いているのはやっぱり今日ここで語った、従業員がプライドを感じられる業界だからだと思います。もちろん本人が納得しているのだからアニメーターは今のままの待遇でいいなんて言うつもりはありませんが、せめてこのようなやりがいを他の業界でも感じられるような世の中にしてみたいものです。フリーコストでみんなで明るくなれるんだったらさ。

2009年6月8日月曜日

家臣の恩賞エトセトラ

 戦国時代の大名や豪族を最も悩ませたものは何かといえば、それは間違いなく家臣への恩賞だったと思います。というのも当時は現物経済で実質的な生産手段が土地の耕作しかなく、土地をどれだけもてるかがその一家の隆盛に深く結びついていたからです。そのため武士の成り立ちは基本的にはこの土地管理の保護と追認を仲立ちにして起こり、御恩と奉公というように中学校などで習っているとは思いますがそれだけに当時は土地が大事だったのです。

 しかし戦国時代になると、主君たる大名や豪族に従う家臣らはただ単に自分らの所領の安堵してもらうだけではもはや従わなくなってきました。彼らの目的は戦争の際に功績を立てることで新たな所領を恩賞としてもらうことが主眼になり、その目的が達成されないのであれば実際によくあった様に主君を裏切ることも数多くありました。しかし大名たちからすると、功績を挙げる傍から家臣に新たに土地の支配権を認めていくとどんどんと自分の取り分が減って行きます。家臣にあげる量以上に他国から土地を切り取れればまだマシですが、それでもあげていく事で家臣としてもどんどんと力を蓄え、ほっとくと主君以上の実力を持つことすらあります。

 主君にとってベストなのは言うまでもなく土地を出来るだけ家臣にあげずに彼らを手なずける事ですが、そんな世の中なんでもかんでも甘くなくケチな大名には誰もついてきません。とはいえ、そういった現物経済のあの時代でこの二律背反とも取れる恩賞問題で面白い試みをした大名も幾人かいました。
 まず一人目は越後の龍こと上杉謙信で、彼の代に上杉家は「血染めの感謝状」こと、上杉家当主の血判が押された感謝状を功績のあった家臣に発行しております。上杉家はこれ以外にも他家との信用を守ることを第一に軍事行動を行っていたのもあり、ライバルの武田家に比べれば裏切り者を出すことは少なかったように思えます。

 この上杉謙信に対しもう一人目の織田信長は更にトリッキーな手段を考案しており、家中に茶道を流行させることでこの恩賞での支配地の流出を最小限に食い止めています。一体どういう意味かというと、信長は京都に上洛するとすぐに千利休などの茶人を保護し、自ら率先して茶道を行うようになって行きました。そうすると彼の家臣らもならって茶道を行うようになり、言ってしまえば茶道に対して特別な意識を持っていきました。そうなると信長にしてはしめたもので、自分が使っていた茶碗や茶器など、他には保護した茶人から無理やりふんだくった道具などを家臣にあげる事で彼らの功績に報いることになり、家臣としても茶道をやっている手前そういったものをありがたいと思って受け取ってしまいます。

 恐らく打算的な信長の性格を考えると、彼はこうした目的の元に茶道を保護したのだと私は思います。とはいえこの方法は言い換えるならプライドを家臣に売るというようなやり方で、コスト的には非常に優秀な掌握術だったように思えます。
 このプライドを売るという言葉、最近ちょっと注目しているので次回はこれが現代にどう作用するのかを解説します。

2009年6月7日日曜日

日本の司法制度の問題点

 以前によく友人と言い合っていたセリフで、こんなのがありました。

「よく日本って、小中学生向けの教科書に三権分立とか書けるよな」

 この言葉が意味するのは、日本の三権こと立法、行政、司法が名目上は独立し合っているといっておきながらも、実際にはほぼ一体の権力と言ってもいい状態にあるからです。

 今日もテレビ番組のサンデープロジェクトでは足利事件の無実の罪で収監されていた菅家氏が出演していましたが、何でも菅家氏は刑務所にいるときもこの番組を見ていたそうです。というのも菅家氏のDNA再鑑定を巡って彼の弁護士が奔走している際、いち早くこの番組が菅家氏の事件を取り上げていてその際の放送がきっかけとなって世論が盛り上がった事が再鑑定に繋がったとして、弁護士もよくぞ取り上げてくれた田原氏らに今日はお礼を述べていました。
 それにしても今回の冤罪事件、菅家氏の釈放日には私の友人も激怒していてこれでもかといわんばかりに私へメールを送って来たのですが、サンデープロジェクトの出演者らも菅家氏を誤認逮捕した警察にDNA鑑定のイロハもわかっていなかった裁判官を激しく糾弾し、まだ他の番組では私は確認していないのですが菅家氏の再鑑定を阻んだ裁判官名を実名を挙げて紹介する辺りはさすがはサンデープロジェクトと思わせられました。

 その番組内でも色々取り上げられていたのですが、今後菅家氏への補償は金銭的な面はもちろんのこと、今回のような冤罪を防ぐにはどうすればよいかというところに議論が向かいました。私自身日本の司法制度は問題があると以前から感じており、ひょっとすれば年金を含めた社会保障などよりもこちらの司法制度改革の方が今の日本において喫緊の課題なのではないかと以前から考えており、このブログを始めた際もそういった司法改革の問題を以下の記事にて取り上げております。

裁判の可視化について
刑事裁判について

 私が日本の司法制度に疑問を持つようになったきっかけは、ちょっと変かも知れませんが自衛隊の存否を巡る裁判の結論を聞いてからです。いつのものかまではわかりませんが、自衛隊が憲法の陸海空の軍隊保持を認めないという記述に違反するかしないかの裁判において、「それは行政の判断する内容だから、知らないよ」というような結論で結審したのを中学生くらいの頃に見て、司法権というのは行政や立法を監視する立場なのに行政だから知らないよで済まされるのかと、自衛隊は災害救助のために日本にとって絶対に必要だと考えつつも裁判所の妙な態度に激しく疑問に感じました。

 そしてその後も鈴木宗男氏に絡む事件で捕まった佐藤優氏の裁判を知り、映画「それでもボクはやっていない」などに代表される痴漢冤罪事件の深刻さを知るにつけ、日本の裁判と言うのは何のためにあるのか、司法権はちゃんと機能しているのかとますます疑問に思うようになりました。
 手っ取り早く結論を言うと日本の司法権は実態上、行政権とほぼ一体と考えてもおかしくなく、いわば行政の敵を潰すための追認機関と言われても仕方ないと私は考えております。まず最高裁の裁判官の任命権が内閣にあり、この前新しく裁判長に就任した人は裁判員制度の導入に熱心だったことから一足飛びに就任しています。

 そして検察についても基本的には警察の挙げてきた犯人を疑うことなく訴追するだけで、これはホリエモンの意見ですが彼らは訴追権だけでなく捜査権も持っていることから、やりようによっては自分たちだけでいくらでも国民を犯罪者に仕立てて刑務所に送ることだって出来ます。こうして見るのであれば司法の中では、山口県光市の殺人事件の弁護士みたいに変なのもいますが、まだ弁護士はそういった塊の中からは独立している方でしょう。
 何が問題なのかといえばやっぱり検察、裁判官、そして警察組織がほぼ一体として存在していることだと私は思います。この組織構造をどうにかしない限り、まだまだこういう冤罪事件や国策捜査は生まれてくるでしょう。このような悲劇を繰り返さないためにも、何よりも優先して司法改革を政権のみならず、国民全体で行っていく必要があると思います。

 最後にもう一つこの足利事件に対して私が言いたいことは、まだあまりマスコミも関連した報道をしてないのですが今回の足利事件にて冤罪を引き起こす端緒を作った栃木県警はその後の1999年、あの悪名高き栃木リンチ殺人事件で杜撰な対応を見せ、被害者を救える可能性が当初あったにもかかわらずむざむざ犯人による殺害を誘引までしております。しかもそのような失態を見せた警察官の処分も甘く、足利事件と合わせて考えるとこの栃木県警という組織自体に何かしら大きな欠陥があるのではないかと思えてなりません。こうした点も今後、厳しく追及されていくのを心から願います。

罪悪感をどう利用すればいいのか

 先月に「罪悪感とは 前編後編」の記事を公開しましたが、この記事の中では罪悪感とは何か、先天的なのか後天的なのかというメタな議論で終わってしまい、本当に私が書きたかった内容はすっかり書き忘れてしまっていました。書き終わった後でそのことに気がつき猛省したわけですが、一番肝心な内容なだけに今日はここでその話を紹介しようと思います。

 まず前回の前後編の記事において私は罪悪感は先天的か後天的かという議論を行いました。それはさておきこの罪悪感ですが、冷静に考えてみると日常における人間の行動に最も強い影響を与えている要素の一つなのではないのかというのが私がまず着目したきっかけでした。
 例えば前回の記事でも書いているように、人間がその所属する社会内で犯罪とされる行為や望ましくないとされる行為を何故行わないのかといえば、一つは犯罪行為の実行後に待ち受けている周囲からの制裁への恐怖と、もう一つは「なんか悪いことをやっちゃいけないような……」というような罪悪感を抱いてしまうような感情がそうした行為を踏みとどまらせているのだと思います。

 こうしたことをちょっと専門的な言葉で言えば、人間の行動を制御する要素として罪悪感はその比重が非常に大きいのではないかと考えるわけです。
 単純に話をまとめると、まず人間は本能に基づいた欲求から摂食なり運動なりといった行動を行おうと思い立ちます。しかし何でもかんでも本能の赴くままに行動していれば集団生活など出来るわけがなく、ある程度は周囲と協調して身を引くような行動を取らないと人間どこでもやってけません。では何を以って個人はやっていい行動とやってはいけない行動を分けるのかといえば、一言で言えば理性によるブレーキが分けていると言っていいでしょう。

 ではその理性のブレーキの正体は何者かとくればそれはいくつもの要素があり、強そうな相手にケンカを売らないというような本能的な恐怖感や、周囲に恩を売って後で返してもらうという打算であったりいくつもありますが、その中で特に大きいと私と友人が考えたのが、一つは成長と共に獲得していく自尊心ことプライドと、ここで出している罪悪感です。
 ちょっと皆さんに日常生活を想像してもらいたいのですが、お墓の前のお供え物を食べなかったり、賽銭箱の中身を泥棒しなかったり、人の家の壁に落書きをしなかったりと、別に誰か見ているわけでもないのにこういった行動を何故起こさないのかと考えれば、多分まともな人なら「そんなことしたら誰かが迷惑するかもしれない」とか「悪いことをやっても後で後悔するだろう」といった理由からだと思います。私はこういった考えも罪悪感の一種、もしくは延長系で、人間集団をまとめるために強く意識こそしていないながらも大きな働きをしている共通認識だと思うわけです。

 ではここで私がその上に何を言いたいのかというと、より社会を安定させていいものにするために、この罪悪感をもっと有効に活用する方法はないのだろうかということです。言うなれば罪悪感は人間の行動を制御する要素なのだから、それをいい方向、社会上望ましくない行為を等しく社会の構成員にさせない方向にもっと働かせられないかと思い立ったわけです。
 この罪悪感による人間の行動制御がどの点で優れているかといえば、それはコストフリーだということに尽きます。例えば法律などの刑罰による制御であれば警察などといった刑罰の実行者や監視者を用意する必要があります。しかし罪悪感は個人の中で起こって個人で完結するので、先ほどの例のように誰も見ていないところでも働いてくれます。しかもわざわざ成文法にする必要もなく、状況において調節も聞きやすく、広く浅い制御においてはこれ以上ないツールです。

 実際にこの罪悪感が社会内で有効に働いた例を紹介すると、これは昔ネットの掲示板で見た話ですが、なんでも大した怪我にはならなかったものの自動車に接触事故を起こされて逃げられた方が、その事故現場に毎日花を自分で置いていたら接触事故の犯人が罪悪感に悩まされてわざわざ自首してきたそうです。
 またこれは最近全国の自治体に広がっている方法なのですが、道路の真ん中でよく弁当箱などがポイ捨てされる現場に鳥居に似せた小さな組木を置いてみると、みんななんだかよくないと思うのか驚くほどにポイ捨てが減ってゴミ回収費用の削減に役立っているようです。

 上記二つの例は望ましくないとされる行為の行為者の罪悪感に働きかけて自首、ポイ捨ての禁止という行動を見事に誘導させた例です。このように使い方によっては罪悪感(とされるような感情)というのは少ないコストで大きな成果を挙げる可能性があり、また教育においても罪悪感を強く認識させることでいじめや非行、果てには犯罪といった行為への予防策となりうるのではと、先月辺りに電車に乗っているときにぱっと思いつきました。
 心理学でこの罪悪感がどのように扱われているのかはわかりませんが、先ほどの鳥居に似せた組木の利用法などいろいろと応用できる範囲はあるのではないかと思うので、もっと罪悪感に着目して社会の中で細かい仕掛けを作っていくのもありなんじゃないかというのが、私がこの一連の記事で言いたかったことです。