2009年5月31日日曜日

罪悪感とは 後編

 前回の罪悪感についての記事の続きです。
 さて前回はまず罪悪感を人間が持つのは先天的か後天的かと触れ、仮に後天的に得られるのであれば悪事とされる行為の後の制裁に対する恐怖に近くなるが、罪悪感は制裁後も何かと気に悩んだり悔いたりする感情だからこれではちょっと違うんじゃないんじゃないかというところで話を終えました。そこで今日は罪悪感についていくつかの症例を紹介し、私の考える罪悪感の定義について解説しようと思います。

 ではその罪悪感の症例という奴ですが、エスパーみたいに察しのいい人とか文学好きな人ならもしかしたらピンと来ているかもしれませんが、あのロシアの文豪ドストエフスキーが最高傑作と呼び声の高い「罪と罰」の主人公、ラスコーリニコフの話です。
 ラスコーリニコフは金がないために大学を休学せざるを得なかったのですが、彼がその追い詰められた状況を打開するために考えた行動というのが、誰からも嫌われている金貸しの老婆を殺害してお金を奪うということでした。彼は誰からも嫌われている人物を殺すのだし、そうして奪ったお金で優秀な学生である自分が大学を出て世に貢献するのだから何も悪びれることはないと決心してこの計画を実行します。しかしその際、金貸しの老婆だけでなくたまたま家に戻ってきた、こちらは嫌われていなかった老婆の妹まで殺してしまいます。

 よく解説などを読むとこの無関係な妹を殺したことがラスコーリニコフの後の苦悩へとつながったという解説が多いのですが、私が読んだ印象だとそこまで妹の殺害が影響したようにはあまり思えず、それよりも老婆を含めた殺人というそれ自体の事実が、自ら計画時に正当化しているにもかかわらず、その後彼を狂人かのように延々と思い悩ませる原因だったのではないかと感じました。
 とまぁ罪と罰のあらすじはそんな感じで、周到に正当化していたにもかかわらずラスコーリニコフは殺害後に悩み、そうまでして奪った金も手元には残さず半ば投げ捨てるかのように手放してしまい、会う人すべてに猜疑心を持ってはしっちゃかめっちゃかな行動を続けます。なおそんなラスコーリニコフにかなり早い段階で犯人だと目星をつけた刑事ポルフィーリィーとのやり取りは実に内容が鋭く、この作品の最大の見せ場となっております。

 このラスコーリニコフの思い悩むシーンに良く出てくる単語の一つに、ナポレオンという言葉があります。ラスコーリニコフはナポレオンがエジプト遠征から帰国する際に自分が引き連れてきた兵隊皆を置き去りにし、帰国するやクーデターを起こして最高権力者に就いた事実を引用しては、英雄は自らがどれだけ残酷で冷徹な行為を行ってもそれを全く意に介さない、しかるに自分はあの老婆の殺害でこれほどまで苦しめられるのだから英雄のような大人物ではなかったのか、というように自問自答をします。
 当時のヨーロッパでナポレオンという存在が知識人層に与えた影響は相当強かったと思わせられるエピソードですが、私は言ってしまえばここに一般の人間が持つ罪悪感という正体が隠されていると考えています。

 それがどれだけ後につながる行為だとしても、どれだけ正当だと言いわけできるような行為だとしても、犯罪とされる殺人や盗みという行為に対して人間は本能的に拒否する感情があるのではないかと私は思います。生物学によるとどの種族も基本的には自分の属する種の繁栄を遺伝子レベルで望むため、雌の奪い合いといった特殊な状況は除き、同種間で殺害が行われると行った生物は高いストレスを覚えるそうです。人間の場合は戦争といった他の種族とは大きく異なる形で殺人を行うことはありますが、私が知る限り少なくとも同部族、同文化間で殺人や盗みを奨励した社会はなく、遺伝子的な影響によるものだとしてもこうした意識こそが人間が先天的に持つ良心ではないかと考えています。

 つまりはその生まれ持った良心の延長に反する行為、当該社会内で犯罪とされる行為に対して深いストレスや自責の念を生じさせる罪悪感というのは、後天的にその範囲や効力が強化されることはあっても、根っこのところでは先天的なものが起因しているのではないかということです。
 逆を言えば先ほどのラスコーリニコフの考えるナポレオンのように、自らの行為に対して罪悪感のような呵責を覚えない人間というのはいい意味でも、悪い意味でも手に負えないところがあるように思えます。織田信長や曹操にもこうした面がありますが、講談の中でならいざ知らず、いざ身近にこんな人物がいたら厄介なことこの上ないでしょう。

 最後に宗教的な話をしますが、私の解釈だと他の宗教に比してキリスト教はこの罪悪感を強く打ち出して信仰をしているように見えます。まず最初にアダムとイヴが天界で罪を犯したせいで彼らの子孫である人間は下界に落とされてしまったので、この世に生きている間は必死に許しを乞いて神へ贖いをしなければならないというのがキリスト教の基本的な教えなのですが、やっぱり私が見ていると何か罪悪感というものを強く持ちなさいという様に言っているように感じます。私なんか子供の頃は今でこそ素で引くような滅茶苦茶なことばっかしていて、このキリスト教の教えに触れた際に一時は猛烈に罪悪感を感じて強く惹き込まれた経験があります。今ではキリスト教に対して強い敬意を抱くのに変わりはありませんがちょっと違うなぁと思うところも出てきて距離を置いていますが、そういった下地があるからこそこの罪悪感について強く思うところがあるのかもしれません。

3 件のコメント:

  1.  キリスト教は罪悪感を感じるのが信仰の基礎みたいな感じはありますよね。そして、僕もみなさんと同じように罪悪感は後天的だと思います。そう思うエピソードを下に書きます。
     
     僕は罪悪感は感じなくてもいいものと考えていますが、僕にも罪悪感を感じるときがあります。それは、小学生の時に女の子をグーで殴ってしまたことを思い出す時です。別に怪我とかはしてないのですが、年齢を重ねれば重ねるほどそれはやってはいけなかったのだと思わされます。しかし、僕はそれさえも本当は後悔しなくてもいいと考えます。後悔しても、その事実は変わらないからです。しかし、後悔することで次に同じようなことを繰り返さないようになることは有益なことだと思います。

     

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  2. 僕も罪悪は先天的なものが大きいという説を支持します。同族殺しが起こらない種の方が生きていける可能性が強いために、自然淘汰されにくいことが考えられます。逆に言うと同族殺しを寛容に認めていた種は自然に淘汰されて残っていないといえるかもしれません。

    これは、生物に先天的に備わる死への恐怖についても同じようにいえるような気がします。死への恐怖を持つ種が生存競争に勝ち、死への恐怖を持たなかった種が滅んだとも考えられるからです。

    社会的なルールや罪悪を用いて、種族内の社会的生活を安定させた種が生き残っているのかもしれません。

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  3.  二人とも、貴重なご意見ありがとうございます。

     サカタさんの述べられた、男女間の価値観につながるような罪悪感は間違いなく後天的な訓練によるものでしょう。私も小学生の頃は女の子を泣かしても全然気にしませんでしたし、むしろ女の子に泣かされることの方が多かったです。

     Sophieさんの意見についてですが、自分も数年くらい前から遺伝子の影響は種の存続に計り知れない力を持っているように思い始めたことをきっかけに、今回のような内容についても考えるようになりました。ただそうすると結局はリチャード・ドーキンスの利己的遺伝子論ですべての心理学や社会学の結論が完結しちゃいそうなので、やや危機感も覚えています。

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コメント、ありがとうございます。今後とも陽月秘話をよろしくお願いします。

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