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2018年3月23日金曜日

文学性とは何か?

 策やブログ書く気もなかったのに「なろう系に代表される異世界転生物小説について」という記事書いて、その中でもし私が書くとしたら「中国に転職したらブラック企業だった件」になるだろうと書きましたが、冷静に考えて日本人にとってすれば下手な異世界よりも中国の方が常識通じない世界なんじゃないかと思えてきました。といっても以前と比べると中国も大分まともになってきて、以前ほどトンでもニュースも減ってきていてなんかつまらなくなってきてますが……。

 話は戻しますが昨日の記事で私は、異世界転生物について文学的要素の観点から見たら果たしてどうなのかと書きました。もったいぶらずに結論から言うと、そもそも文学性とはないかというといというなれば人生や体験のシミュレーション、物語を通じて疑似体験を行う登場人物の人生や判断をの種類や程度、深さであると私は考えています。

 例えば森鴎外の「舞姫」を例にとると、当時としては珍しかった官費留学生の留学生活が書かれてあり、そして留学先で官費支給が打ち切られ、それでも現地の恋人とうまくやってたけど最終的には仕事を取って切り捨ててしまうという決断へと至るまでが描かれています。こうした体験は塔の一般人はもとより現代でもなかなか実際に経験することはないものの、舞姫を読むことで少なくとも登場人物の行動や決断に至る一人の人間(太田豊太郎)の過程は知ることが出来、一つの人生体験モデルとして消化するに至るわけです。
 このように文学性とは、普通じゃ体験できない、まだ体験していないことを物語を通して認知、疑似体験し、それによって人生経験をいくらか膨らませることのできる要素であるという風に私は考えてます。従って物語における体験はごくありふれたものではあまり意味がなく(リアルでも体験できるため)、どちらかと言えば珍しく、尚且つ極限であればあるほどよく、また苦しい決断ほどその重要性は高まると言っても過言ではなく、シェイクスピアの「リア王」などがこのパターンではないかと思います。

 ただし、疑似体験とはいえあまりにも現実離れしていては読んだところで「体験した」という実感が得づらくなります。それこそ昆虫の世界で飛脚をやっているというアブラムシの話が書かれたとしても、「え、飛脚ならバッタじゃない?」という風に疑問を覚え、読んでてもしっくりこないでしょうし多分その後の人生においても何か生かせるところはほとんどないでしょう。仮想の話とはいえ、リアリティがあればあるほど読者は本の中の世界に現実味を覚え、のめり込むというか疑似体験の度合いが高まることから、一定の現実感はやはり文学性においては求められるでしょう。
 もちろん空想世界が前面に出された「杜子春」や「蜘蛛の糸」であっても、そこから得られる人生経験や教訓が深ければ特に問題はなく、特にこの二つは現実離れした要素がなければ作品のテーマを打ち出せないため、仮想の要素は必要不可欠と言えます。そういう意味では現実感はバランスが求められる要素でしょう。

 説教臭い内容が続きますが、やはり文学性というか小説はこうした仕組みではないかと思います。先ほど現実感が大事と書きましたが、やはり明治の小説家を見ているといい作品を作るために自らぶっ飛んだ体験をしてそれを作品に活かそうとする人が見られます。具体的には心中未遂とかですが、こうしたジャンルは「舞姫」を含め私小説、自らのぶっ飛んだ体験に基づき、「こうなったらあなたはどうする?私はこうする」的に描かれてあるように私には見えます。現実に私小説形式だと自らの体験に根差していることからリアリティ高く描けるというメリットがあります。
 私小説に近い形式で、実際に一つのジャンルとして成立しているのは戦争文学です。そもそも戦争自体がぶっ飛んだ体験として十分成立するため、戦場で見た光景や自分の体験を書くだけで、「こんな時、あなたはどうする?私はこうする」という主張が十分に伝わります。そして読んだ人間も、「もし自分が戦場にいたら……」ということを考え、その後実際に戦場へ行くにしろ行かないにしろ、人生経験的には読まないよりかはこういった世界もあると知ってる方がプラスになってくるでしょう。

 以上のように私は文学性について、突き詰めれば人生や決断のシミュレーションであり、それこそ心中や戦場のような強烈な体験の方が価値が高まると考えています。また評価要素としてはこのほかにも普遍性が挙げられ、いつどの時代、性別を超えて多くの人間から共感が得られる作品であればあるほど文学性は高まると考えており、さっきも上げたシェイクスピア作品もそうですし、そもそも現代が舞台でないにもかかわらず現代における安楽死問題も考えさせられる森鴎外の「高瀬舟」なんかもこうした普遍性に富んでおり、その延長として文学性も高いと考えられます。
 逆に、と言っては何ですが、文学作品の批評からが口にする文章表現の巧遅については私はあまり議論するまでもないと考えています。「みずみずしい表現」だとか「感性の高い表現」などという人もいますが、そりゃ読みにくい表現より読みやすい方がいいに決まってはいるものの、文章表現なんて時代が変われば古語と現代語のようにガラッと変わってしまうもので陳腐化も早いです。そういう意味で副次的な要素ではあるものの、文学性の価値を決める要素と言えるのかと言ったらそれは違う気がします。

 ここでようやくなろう系小説に代表される異世界転生物というジャンルの文学性について触れますが、異世界に転生して怪物と斬った張ったするというのは極限性という観点では確かにレアリティは高いですが、現実感という点では逆に極度に薄いです。またこうした小説を読んで将来、近いような体験や判断に迫られることがあるかと言ったら、もしかしたら転生する人も世の中にはいるかもしれませんが、多分少ないということを考えるとあまり人生経験上でプラスになる要素は低いかなということになってきます。

 しかしと言っては何ですがじゃあ他の、一般的な現代小説がなろう系より私の定義する文学性を含んでいるかと言ったら、こちらもまた疑問です。具体的に言うと、最近文学賞を取る作品を見ていると非常にニッチな世界、はっきり言えば限定された職業の話が多く、かといって物凄い葛藤のある決断に迫られるような極限シーンもあるかと言えばなく、疑似体験したところで何か考えさせられたり将来にその疑似体験が役に立つシーンがあるかと言えば疑問な小説ばかりです。ああそうだ、言うならば深いテーマ性もないんだ。
 それこそ三浦綾子の小説「氷点」のように、「汝の敵を愛せを本当に実行できるのか?」などと、こうした問い、そしてそれに対する一つの回答みたいな物が現代作品にあるのかという点で疑問です。そしてなんでないのかというと、はっきり言えばそうした作品を拾えず、「みずみずしい表現」で作品を選んじゃう文壇が悪いのではないかと疑っているわけです。

 敢えて今回なろう系小説を取り上げたのは、確かに疑似体験というレベルで見れば文学性の要素は低いものの、かといって「文学作品が高い」として祭り上げられている現代の作品はすごい狭い世界のことばかりで、こっちもこっちで普遍性やテーマ性の点で非常に質が低く、いいところ同レベルなのではないかと見ていると言いたかったからです。むしろなろう系の方が、物にもよりますが誰も知り合いのいない世界に突然放り込まれてどう行動し、生きていくかというテーマ性はいくらか備えているだけ、狭い世界の舞台裏だけを紹介するような「文学作品」よりはまだマシなんじゃないかとすら思っています。

 以前にも書きましたが、今考えてみると「バトル・ロワイアル」は文学作品として非常に価値の高い作品だったのではないかとこのところしきりに思います。あれは中学生が殺人を強要され、それに対する各生徒の対応がバラバラに描かれてあり、現代の少年兵問題、そして「生き残るためなら他人を(何人も)殺してもいいのか?」という問いを疑似体験させられます。もっともこれ以降、同じコンセプトのデスゲーム物の漫画が大氾濫するようになりましたが、極限性という点ではやっぱり最初のこっちの方がすごかったなと思えてなりません。
 にしても2015年の自分は「ファイナルファンタジー零式」やって遊んでたんだな。あれは登場キャラクターが美男美女過ぎて食あたり気味になるゲームで、物語において三枚目の価値を再認識させられました。

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