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2020年11月19日木曜日

夏の夕暮れ

 好きな日本語ときたら昔は「ノーパンしゃぶしゃぶ」で、なんですき焼きとか焼鳥じゃなくしゃぶしゃぶなのかっていう点と発音時の音から気に入っていましたが、最近は見出しに掲げた「夏の夕暮れ」がなんか好きな日本語になりつつあります。

 そんな「夏の夕暮れ」ですが、そのまんまサマーシーズンの夕焼け小焼けにまた明日っていう意味ではないです。知っている人には早いですが、これは「R-typeファイナル」というシューティングゲームのエンディングタイトルの一つです。このゲームはマルチエンド方式となっているのですが三つあるエンディングの一つが「夏の夕暮れ」というタイトルで、その名の通り夕暮れ時を思わせる背景が夕焼けがかったステージで戦うこととなります。

 問題なのはそのステージと戦う相手です。というのもそのステージ、主人公機が第1ステージで飛び立った宇宙コロニーの中だったりします。そして向かってくる敵機というのも、主人公と同じ次元戦闘機ことR-typeシリーズの機体だったりします。
 一体これは何故かというと、このゲームの敵役である「バイド」というのは有機か無機かに係らず様々な物体に寄生して乗っ取り、人間などを攻撃してくる生物なのですが、この「夏の夕暮れ」のステージではあろうことか主人公機をバイドがパイロットごと乗っ取ったという状態であり、バイドと化した主人公機を味方であった仲間たちが迎撃に来るという内容になっています。

 なお主人公自身は自分がバイドに乗っ取られたことを理解しておらず、任務を終えて故郷へ帰ってきたものの何故か仲間たちから攻撃を加えられ、若干判断がおかしくなっていることもあって、襲ってくる仲間たちもこの際撃墜しようという心境になっているとのことです。また画面が夕焼けっぽく見えるのは、主人公がバイド化して、視野がおかしくなった結果紅く見えているだけで、実際は太陽の位置から夕暮れ時ではないことがわかるようになっています。
 そんな絶望感たっぷりのステージ冒頭で語られるのがテープレコーダーに残されたという主人公の独白で、「夏の夕暮れ やさしく迎えてくれるのは 海鳥達だけなのか?」というセリフです。そのストーリーのえぐさといい、非常にきれいな言葉であると自分は思います。

 上記のストーリー背景とその言葉の重みだけでも十分「夏の夕暮れ」は好きになる言葉なのですが、それ以上に自分の関心として重いのは、闘争理由の喪失ともいうべき心境がこのところいろいろ思いふけることが多いためです。

 この「R-typeファイナル」のようなエンディングのゲームとしては他にも「アスピック」というゲームがあります。このゲームでは姫をさらった悪魔の蛇ことアスピックを主人公が仲間とともにやっつけに行くゲームですが、アスピックを無事に打ち倒すや何故か一緒に戦ってきた仲間が離反した上、お城の王様にも「貴様は呪われている!」などと言われ追い返されます。そしたら何故か今まで敵だったスケルトンなどのモンスターが仲間になり、腹いせとばかりにお城に攻め込んで王様を打ち倒したりできます。っていうか、ラスボスは王様。
 無事王様を打ち倒すとエンディングに入るのですが、ここで主人公の姿はかつて倒したはずのアスピックへと変貌し、アスピックはその倒した者に乗り移り、永遠に戦いを続ける存在であることがカミングアウトされます。つまり王様の言っていることは正しく、リアルに主人公はアスピックに乗っ取られていたというわけで、先ほどの「夏の夕暮れ」エンドになるってわけです。

 このほかだと有名どころで「ライブアライブ」の「あの世で俺に詫び続けろ、オルステッド!」エンドもこの類ですが、上記三つのエンディングはやはりネットで見ている限りだと今でも語られることが多く、実際に遊んだプレイヤーの心に深く刻み込む内容であったようです。三つに共通する点としては、「これまで戦う理由や目的だった仲間たちに裏切られて(本人視点で)戦う羽目になる」という流れで、この要素は恐らく普遍的に心に刻み込ませる要素になっているのだと思います。

 実際にというか私自身、この要素は人間、というよりは男にとっては本当に致命的な一打になりうるのではないかとこの頃思うようになりました。この年になってみて改めて感じることとして、やはり男にとっては闘争というのはその生存において大きな幅を占める重要な要素であり、大なり小なり形はいろいろあれど、皆それぞれがそれぞれの闘争の形というものを持っている気がします。そしてこの闘争というものが人生における大きなモチベーションとなっていて、闘争を失うということは男にとって内臓を失うに近い衝撃であるという風に最近考えています。

 そういう意味で上記の三つのゲームの主人公はいずれも強大な敵という大きな闘争を抱えていたものの、無事その闘争に勝利したかと思いきや、その勝利の意味が全て無に帰すかのように味方達に裏切られる結末を迎えています。こうしたそれまでの闘争理由が喪失してしまう状態はある意味、闘争に敗北するよりも男にとってはダメージがでかいというか、本当に生存理由すら失わせかねない事態じゃないかという風に思います。そして現実にそういう立場であったのが、戦後における日本の元兵士たちだったと思え、その喪失感はとても語れるようなものではなかったのではないかという気がします。
 まぁ水木しげるのように、「これで生きて帰れるぞ」と単純に喜ぶ人も少なからずいたでしょうが。

 まとめに持って行くと、やはり男はいくつになっても何かしら闘争の構造を自分の中に持っていたほうがいいのではと個人的に思います。誰彼構わずケンカ売れというつもりはなく、自分に課した目標なりタスクなりを以って、戦っていると感じるような環境を何かしら作るのは精神衛生上プラスじゃないかっていうことです。
 その上で、途中で闘争理由を失うような事態については何よりも回避すべきだと言いたいです。そういう意味では最初の闘争設定の際に設定ミスる(自己満足的な闘争を設定して途中で周りから反発食らうとか)とかなり打撃がでかいので、その辺を気をつけて設定した方がいいかもしれません。「誰かのために」とかいう闘争なんて、まさに地雷原です。

 ちなみに自分は前の会社で本来会社が支払うべき就労ビザ切替え代を自分に自己負担させた元上司を勝手に敵設定して、いつか襲撃加えてやると時たま思い出してはモチベーション高めています。あの時下手に抵抗してビザ切替え渋られたりしたら決まっている会社への転職ができなくなるという弱味があったから我慢したけど、マジあの野郎今でも許せねぇ(´・ω・`)

4 件のコメント:

kei さんのコメント...

陽月秘話氏へ
あなたの元上司は、きっとあなたが会社を辞めることが惜しかったのだと思います。
また、能力のある陽月氏の転職先がうらやましかったのではないでしょうか。
小さい上司ができることは小さい嫌がらせだけです。
モチベーションを保つことは素晴らしいと思いますが、陽月氏の相手では不足でしょう。

陽月氏は文章が書けて、数字の裏付けに信用できる分析ができる、中国語に堪能、中国の現地で働く日本人です
一つ一つはトップでなくてもこの4つの長所が発揮できる人材で陽月氏の右に出る人はいません。

花園祐 さんのコメント...

 コメント、並びに慰めのお言葉、大変ありがとうございます。
 いろんな会社を経験してはいますが、ひとつ前の会社は上記の退職手続きを始め、情報を共有しないなど深刻な問題をいくつも抱えているおかしな会社でした。幸いにしてある程度自分の能力を認めてくれる今の会社に拾われたからよかったものの、一歩間違えれば中国にも残れず、かといって日本でも転職の多さから再就職も叶わず、えらい状態になるところでした。

殺意の波動に目覚めた川戸 さんのコメント...

阿Q正伝の阿Qが他人の悪意に晒され誰からも愛されずに生きてこられたのは、その悪意が彼の闘争理由を生み出していたからだと思います。
阿Qは傍から見れば誰とも戦ってすらいないし、まして勝利してもいませんが、阿Qからすれば、倒すべき敵に勝利することが“人生における大きなモチベーション”だったのではないでしょうか。
私の中学時代は阿Qの心境に迫っているようでした。他人の何気ない蔑みや嫌がらせに過敏に反応し、クラスメイトを殺すべき敵として思い浮かべなから、常にブレザーの胸ポケットにカッターナイフを携行していました。
今思えばクラスのやんちゃ共は私など大して気にもかけていなかっただろうし、そんなに悪い奴らでもなかったと思うのですが、自分が敵を認識している間は“人生における大きなモチベーション”であるかのような、とても楽しい気分になりました。これが私の精神的勝利法だったのかもしれません。
ところが高校に進学してからは他人を憎めるほど酷い仕打ちをする人間が周囲からいなくなってしまった(=闘争理由の喪失)ので、何のために努力すればいいかがわからなくなり、次第に精神を病んでいきました。
私の闘争理由は、私に危害を加える(と私が認識した)者から発生することが多いので、他人依存の生き方になりがちです。近頃は、憎むに値する人間が周りにいないので腑抜けた生き方しかできていません。むやみに人を憎まず、慮ることができるのは精神的成熟の証だと思うのですが、富野由悠季など成功した大人は常に闘争心を昇華させています。
花園さんもそのような大人の一人だと思うのですが、どのように闘争の炎を調節していますか。もう一度他人を殺すほど憎めるように、敢えて嫌いな物事にぶつかってみるべきでしょうか。それともやはり、憎悪から闘争理由を引き出す私のやり方がまずいでしょうか。

花園祐 さんのコメント...

 変な話ですけど、この記事でも書いているようにやはり憎い相手がいると生きる上でのモチベーションは確実に上がると思います。逆を言えば川戸さんの言う通り、憎い相手がいないとなんか張り合いがないというか、生きててもそれらしい実感が湧きません。憎い相手がいないというのはある意味で恵まれた環境なのでしょうが、こと生存本能にとっても恵まれているのかと言うとやや疑問で、そうした思いからこの記事も書いています。
 前述の通り、前の会社から今の会社に移って以降は私もかなり恵まれた環境にあり、3年くらい前はかなりモチベーションも落ち込んでいました。この記事を書く前後でその辺のモチベーションの低下は闘争本能の低下だと勝手に考え、対策として仮想敵みたいに目下のターゲットを作るようにしています。
 といっても、周りで恨むような相手もいるわけでもないので、社会敵とばかりに嫌いな企業とか団体、概念などを敵視するようにしています。直近ならフジテレビとか某上級国民などで、こうした「敵視することに敵よりも味方の方が多い」という対象を憎悪するのであれば、まだ身に降りかかる火の粉も少なくて済むのではないかと思います。またその敵視の方向性が正しければ社会改善にもつながるわけですし、要は「正しい敵を選べ」的に憎悪を燃やしてみてはいかがでしょうか。