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2023年8月27日日曜日

中国の清朝が維新に失敗した背景

 例によって「蒼穹の昴」を世に続けていますが、この作品は戊戌の変法)(1898年)と言われる、中国清朝末期に行われた政治改革とその失敗を主なテーマとしています。

 簡単に戊戌の変法について説明すると、中国は1840年代のアヘン戦争などを経て西洋技術の導入が必要だと考え、李鴻章らが主導する形で西洋式軍隊をはじめとする改革を行いました(洋務運動)。しかし政治体制は古いまま、官僚も中国の古典の丸暗記で登用する科挙を使用し続けたことからこの改革は当初より限界がありました。
 その限界が露呈したのは何を隠そう日清戦争で、西洋列強ならまだしも同じ東アジアの日本に見るも無残な惨敗を喫し、日本が行った明治維新との差をまざまざと見せつけられることとなりました。

 この結果を経て、康有為をはじめとする急進的な改革派は時の皇帝であった光緒帝に対し、日本に範を取った改革の必要性を強く主張します。これに対し光緒帝も、かねてから叔母である西太后に実権を握られ続けていて自分でも親政を行いたいと考えたことから利害が一致し、西太后が紫禁城から頤和園に引っ越して影響力を弱めたその日からこの戊戌の変法は始められ、約100日後に失敗に終わります。

 失敗に至った原因は守旧派の反発でした。康有為らは科挙も一気に廃止するなど急激に改革を進め、これにより既得権益を失うと恐れた満州貴族、そして漢民族官僚らが大きく反発し、当初は改革に協力的だった人物も距離を置くようになり、西太后を頼るようになります。
 こうした動きを受け西太后も守旧派に祭り上げられるまま光緒帝の妨害を開始するようになる、具体的には日本で上皇が天皇の頭越しに院宣を出すように光緒帝の出した布令と真逆の指示を出し続け、二重権力状態を作りました。こうした状況に光緒帝側は西太后の捕縛も検討しますが、ここで頼ってしまったのが袁世凱で、彼は光緒帝より西太后の捕縛を命ぜられるやそれをそのまま西太后に報告し、逆に西太后の手先として光緒帝を捕縛するに至ります。

 こうして光緒帝の改革はとん挫し、そのまま幽閉され、最後には毒殺されるという末路になっています。

 この一連の改革の流れを見て少し感じたこととして、仮に当時の中国の王朝が清朝じゃなかったら、また違ったのかもなという印象を覚えました。言うまでもなく清朝は満州人による王朝で、数十万人の満州人が数億の漢民族を支配する征服王朝でした。
 それでも統治自体は安定していて漢民族の既得権益や文化も守ったことから、アヘン戦争までは平和にやってこれてましたが、帝国主義時代にあってはかえって古い体制を守り続けたことから国家としては弱くなっており、上記の様な顛末に至ることとなっています。

 日本も中国の西洋列強にどう対抗し、どう独立を守るかという立脚点から改革を進めようとした点は共通していたものの、日本の場合は天皇と徳川幕府のどちらをトップにして政治改革を行うかで対立が起こりました。結果的には幕府を取り潰し、既得権益層をほぼ可能な限りに叩き潰してから新体制の設立へと至り、廃藩置県を経て完全なる既得権益層打破に成功しています。
 これに対し中国では、既得権益層は科挙出身の士大夫層だけでなく、その上に満州人貴族も存在するという二重箱状態でした。またそうした体制もあって、康有為や梁啓超のように「清朝を主体に改革を進める」という勢力もいれば、「古くなり切った清朝を廃止して一から国会を作るべし」という孫文のような勢力もありました。日本の明治維新と比較するなら、やはり孫文の方針が近いでしょう。

 このように、確かに日本でも尊王派と佐幕派が存在しましたが、中国の場合はトップ争いにおいて満州族と漢民族の民族対立もやや絡んでおり、いまいち人材が一つの改革勢力に結集しきれなかったのではないかと思う節があります。それだけにもし当時の王朝が征服王朝ではなく漢民族王朝だったら、もう少し既存政体を中心に改革を進めようとする勢力がまとまりを見せ、改革ももっと円滑に進んだのではないかという気がします。もとより、満州貴族という既得権益層もこの場合はいないんだし。

 そう考えると、当時の中国が征服王朝であった清朝であったというのはかなり大きな不幸であったように見えます。清朝の統治は末期を除けば非常に安定していて悪くはない王朝と言えるのですが、如何せんあの時代にあっては征服王朝であったのはあらゆる方面でマイナスに働いており、実際に戊戌の変法を見ていても漢民族に対する革命への懸念もいくらか見て取れます。
 ただ仮に漢民族の王朝であっても、果たして日本の明治維新のようにうまくいったかと言えば話は別です。日本と比べると中国は広くてでかいし、それだけに西洋列強の干渉も強かっただけに、そっちはそっちでうまくいかない要素がたくさんあります。

 何気にこの手の革命で思うことは、革命に成功するか否かより、革命の過程でどれだけいい人材を輩出するか、生き残らせられるかの方が大きい気がします。日本の場合は坂本龍馬と高杉晋作、久坂玄瑞が途中脱落となっていますがそれ以外はうまく生き残ったのに対し、中国の場合はそれ以降の辛亥革命までの過程でかなり多くの人材が死んでいて、それらもまた後の混乱に拍車をかけたような気がします。

2 件のコメント:

片倉(焼くとタイプ さんのコメント...

よい人材と言えば 江戸時代末期に佐藤一斎という江戸幕府の儒学者がいました。彼は言志四録という書物を書き残しました。言志四録は小泉純一郎元総理が引用した事でも有名です。佐藤一斎の弟子には 山田方谷、佐久間象山、渡辺崋山、横井小楠等の幕末に活躍した有名人がいます。そして一斎の孫弟子には勝海舟、坂本竜馬、吉田松陰、高杉晋作、木戸孝允、伊藤博文、西郷隆盛などそうそうたる幕末の志士たちがいます。 もっとも孫弟子たちは 一斎の勤務先である江戸幕府を 粉砕、解体してしまうのですが。

花園祐 さんのコメント...

 佐藤一斎は今まで知りませんでしたが、直弟子は何かしらで遭難しているものの、孫弟子の代ではきちんと花開いていますね。中国と同じ儒学が世の中のベースでありながら、こうも結果が変わるもんかなぁと思ったりもします。