前回ではクーデターを起こした朴正煕が権力を握る過程を解説しました。そこで今回は実際の朴正煕の施政とばかりに、彼の時代に「漢江の奇跡」と呼ばれるほど急成長した韓国経済を取り上げます。
まず初めに朴正煕についてもう少し説明します。彼は日本統治下の1917年に非常に貧しい家庭で生まれ、長じてからは3年間の教師生活を経てから新京(現在の吉林省長春市)に渡り、そこで満州国の陸軍士官学校に入りました。たまに朴正煕は「旧日本陸軍の軍人だった」と書かれていることがありますが、正確には「満州国軍人」であって自分が歴史テストの教官ならここでひっかけ問題を作ることでしょう。
第二次大戦終了後は母国の韓国に戻り、そこでも軍人として任官を受けます。ただ一時期に南朝鮮労働党(共産党)に参加していたことがあり、軍にばれて死刑まで宣告されておりますが、当局に情報を提供することによって執行を免れております。
こうした来歴を持つ朴正煕ですが、その私生活は清廉潔白であったことはどの研究者の間でも一致しております。死後に残された財産はほとんどなく、また変に疑われないようにと親戚関係者をソウルに一切近寄らせなかったというエピソードまであります。そうした姿勢はクーデター直後にも見られ、最高権力者に上るや反社会勢力の大規模摘発にすぐ乗り出しております。
そろそろ本題に入りますが、最高権力者(国家再建最高会議の議長、1963年からは大統領)となった朴正煕の最大の政治課題は国内の経済問題でした。以前にも書きましたが当時の韓国は世界の最貧国の一つで、国民の生活は非常に苦しかったそうです。かといって当時の韓国には産業と呼べるものはほとんどなく、米国の通商代表団も砂糖などといった作物以外にはなにも輸出するものはないと断じております。
このような状況下で朴正煕が取った行動というのは、海外からの経済援助をばねに投資を行うという戦略でした。クーデター直後の1961年に訪米してケネディ大統領と会い、自ら韓国軍のベトナム派兵を申し出たと言われております。実際の派兵はケネディが暗殺されジョンソンに大統領職が移った3年後の1964年ですが、この派兵によって韓国は膨大な金額の経済支援を米国から受けることとなります。
また米国からの帰途では日本に立ち寄り、当時の池田隼人首相と会って国交正常化の交渉を始めることで同意しております。日本とは国内の反対運動を押し切り最終的に1965年、日韓基本条約を結び国交を回復しますが、この時に日本が約束した韓国への経済支援額は当時の韓国の国家予算の約3倍にも迫る金額でした。朴正煕自身は日本に対してそれほど敵愾心を持っておらず、リアリストに徹した外交を展開したと研究者の間では言われております。
こうして得た膨大な資金を元に浦項製鉄所(現ポスコ)を創立したほか道路といった国内インフラを整備し、民間企業なども振興するなど、日本や中国と同じように国内建設によって主導する経済政策を実行しました。こうした政策の成果がわかるデータを引用すると、1961年の韓国人1人当たりの所得は80米ドルでしたが、1979年には1620米ドルと実に20倍もの成長を果たしております。また当時の経済成長は国家主導ではありましたが、この頃に韓国を代表するサムスン、そして今は亡きダエウーといった財閥も急伸し、書いてるこっちの身としても現代にようやく近づいてきたなという感じがします。
以上のように朴正煕は国内の経済回復という大きな問題の解決には見事成功しました。にもかかわらず彼への評価は今でも大きく二分しており、というのも国内では徹底的な情報統制、政治弾圧を行っていたからです。その弾圧、検閲ぶりは徹底されており、韓国版CIAことKCIAを創設し、無実の罪で投獄、処刑された人間は数え切れるものではありません。Wikipediaにも書かれてありますが朴正煕の政治姿勢は社会主義的な要素が非常に強く、彼のバックグラウンドを見るとあながち遠い話ではない気がします。
なお戦後直後の日本も同じように社会主義の色の強い経済政策(統制経済)を採っており、ソ連も5ヶ年計画で躍進したりお隣中国も改革・開放政策で一気に伸びてますが、案外どん底の経済状態から立て直すには社会主義経済政策に分があるのかもしれません。ある程度伸びたら使えなくなるでしょうが。
ざっと彼の経済政策を眺めてきましたが、この朴正煕政権期のどこが面白いのかというとこうしたマクロな話ではなく、ミクロなところです。なもんだから次回はより焦点を絞り、韓国軍のベトナム戦争派兵について取り上げます。