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2010年10月8日金曜日

今の日本に足りない「諦め」

 私は八月に「未来を見る視点距離」という記事を書きましたが、この記事は多分コメントとかもらえるだろうなと勝手に期待してて、コメントが来たらもう少し詳しくこの内容を掘り下げようと考えていました。生憎コメントは何一つ来ず終いで取らぬタヌキの皮算用となってしまったわけですが、改めて読み返すとあまり内容を整理していなかったのが手伝ってかまとまりを欠いているように見えるので、トピックスを日本社会に絞ってもう一回解説しようと思います。

 まずおさらいですが前回の記事で私は人それぞれ未来を見る視点距離があって、一年後や十年後などその視点距離はバラバラであるものの今の時代は変化が激しいのだから物凄く短いスパン、それこそ三ヵ月後まで資格取得の勉強をここまですすめておくなど「今」に集中して生きる方が案外正しいのではないかと訴えたわけです。
 とはいえそれは個人レベルの話であって国家レベルともなるとある程度長期スパンで未来を持ってもらわねばさすがに困る話なのですが、私の見立てだと今の政治家、ひいては大半の日本人は未だに過去のバブル時代を引きずっており、その政策方向や目標を見ているとどうも、「あのバブルの時代をどうやって取り戻すか」に終着するように思え、未来を見るどころかよかった時代の過去に未だにしがみつこうとしているのではないかという気がします。

 ここで断言しますが、私はどれだけ日本一国が努力したとしてもあのバブル時代にはもう戻れないと考えています。これはどういうことかというと、みんな正社員で働けて、所帯持って、ちょっと頑張れば子供を大学に行かせられて、老後は年金で暮らせて、こういう当たり前と考えられていた価値観、世の中はどれだけ頑張ってももう取り戻せないだろうということです。
 一体何故取り戻せないのかというと単純に、日本があの1990年前後みたいに栄える可能性が非常に低いからです。というのも経済学部の学生なら間違いなく知っているはずでしょうがあの時代はまだ冷戦が続いており、他の先進国が軍事費に大幅に予算を割く中で日本だけが経済政策に集中して金をつぎ込むことができました。これだけでも日本は有利な立場であった上、冷戦という世界が閉じられた構造であったために現在のように市場はグローバル化せず競争が激化する事も資本が国境を跨ぐ事も今ほど盛んではありませんでした。ついでに言えば、人材や労働力の国外流出も、工場の海外移転も少なかったです。

 私はあのバブル時代と高度経済成長というのは日本人の努力もあったでしょうが、それ以上に日本が置かれた幸運な状況があったからこそのものだったと考えています。それゆえに状況が一変した現在では仮に日本一国が努力したとして、さすがにまた大きな戦争やら国際情勢が変わるならば話は別ですが、あれほど右肩上がりの好景気はもうどうやったって来ないものだという諦めを持っています。

 そのため、私は当時に当たり前とされた条件のいくつかはもう取り戻せないと割り切ってある程度切り捨てねば日本は発展はおろか生き残る事も出来なくなると考えています。先ほども条件を挙げましたがもう一度ここでリストアップすると、

・全員が正社員
・高い大学進学率
・マイホーム
・高度な医療
・年金

 実際にはもっとあるでしょうけどここまでにしておいて、この中のいくつか、下手すりゃ全部をある程度切り捨てる覚悟というか諦めが今の日本社会に足りないと私は思います。特に誰もが望めば正社員になれるという価値観は現実でもすでに破綻しており、しかも新卒時に正社員になれた人間となれなかった人間でその後の人生に明確な分岐が生じる事は疑いもない事実です。

 敢えてダーティな友人の振りして話をすると、私自身(花園祐)は新卒時に正社員として就職することが出来たのでこの新卒問題について気にしなければ気にする必要のない立場です。私個人で生き残りを考えるのならばこの問題は何も関係がありません。
 ただもし将来の日本という国、日本の子供達のことを考えるのであれば考える必要があるでしょうが、私が今後どちらの立場に立つかは今もって測り難いです。

2010年10月7日木曜日

私が考える稀有な能力、重要な能力

 友人らからもう何年間にも渡り、こんな注意を私は受けています。

「いい加減に、人を常に値踏みしようとするのはよくないよ」

 何年間も言われながらも、ついぞ一度たりともやめることが出来ずにいます。
 人を値踏みするとは文字通り話している相手の力量、癖、能力を分析しようとかぎまわる事なのですが、自分でも意地汚い行為だと分かっていながらもどうしてもやめることが出来ません。

 具体的にどのような方法で値踏みするかというと本当に油断も隙もない話になるのでわざわざやりませんが、一つ今日はそうして培った経験を元に私が個人的に「レアだなぁ」と思う能力をちょっとここで紹介しようかなと思います。最初に断りを入れておきますがここでの話はあくまで私の主観での話しで、客観性もへったくれもないのでその点だけはご承知ください。

1、記憶の並列整理
 多分普通の人にとっては記憶というのは新しいものほどよくはっきりしていて、古いものほど曖昧だと思います。さすがに子供時代と大人時代の記憶を比べあうなら印象の強い子供時代の方がはっきりしている可能性が高いでしょうが、去年と一昨年の記憶を比べあうならまず以って前者の方がはっきりしているでしょう。
 私はこのような一般の記憶構造を表現するのに、「本の積み重ね」という言葉をよく用います。記憶を本にたとえて新しい情報を次から次へと縦に本を重ねて山にしていくように貯めていくのが記憶で、そのため新しい情報こと表面にある記憶は思い出しやすいものの山にうずもれた古い記憶は段々と思い出し辛くなるといった具合に。

 ここで紹介する「記憶の並列整理」というのはちょうど本棚にきれいに本を並べていくように情報を記憶する能力のことです。縦に本を重ねていくのに対して横並びにすることでどの本がどんな内容かを一目で背表紙で判断できるように、失われていない限り古い記憶も新しい記憶も区別なく処理し、思い出せる能力の事を指しております。
 この能力にはもちろん個人差があって完全に記憶を整理しきっている人は私もまだ見ませんが、ごくごく稀に、今までで二人だけしか私も見ていませんが、三年前の何月に何々ついて話した後、二年前の何月に関係する話題を口にしたなどという具合に時系列を無視するようにひょいっと細かな記憶をまるで昨日の記憶のように一瞬で出してくる人間がいます。どうやったらこんな人間できるのか、現在研究中です。

2、マルチ処理
 複雑な話題を議論する際に、どれだけ分かりやすく話をかいつまんでもどうしても複数のトピックを方程式のように同時に考えて話さなければなりません。最近の話題から例を取ると中国漁船衝突事件の場合、

・国内法
・領土問題
・地下資源争奪
・レアアースの輸入、調達
・国内の支持率
・中国に人質に取られたフジタ社員
・アメリカの出方
・中国政界の政治闘争
・国際会議の日程
・過去の対応の仕方
・こちらの対応に対する相手側の予想される反応

 と、ざっと挙げるだけでも菅首相に考えてもらうにはこれだけトピックがありました。恐らく大半の方はこの中から三つか四つを選んでそのトピックの中で意見を決めてたかと思いますが、理想を言うならば考えるべきトピックは多いに越した事はありません。ただ人間は基本的に物事を単純に処理したがるため、ひどい場合には一番重要だと思うトピック一つだけを選んでその中だけで意見を決めてしまうことも少なくありません。

 ここで挙げたマルチ処理とはその名の通りに複数の情報を同時に処理した上、それぞれの情報を重要度ごとに順位付けした上で自らの意見や結論をまとめる能力のことです。言う事は簡単そうに見えても意外と日常でもこれが出来る人間となると少なくて、私が見る限りだと先天的な要素も入っているんじゃないかと思います。私自身、後輩に対してこのマルチ処理を意識的に鍛えられるかどうか試してみましたが、一定の効果は見られたものの初めから出来る人と比べると大きな差がどうしても残ってしまっていました。

 因みに先に挙げた中国漁船衝突事件のトピックの中に敢えて「外国メディアの反応」と「中国の世論」は入れませんでした。これも順位付けの一つですが考えるべきでないトピックを敢えて無視するのも一つの処理だと私は考えており、何故私がこの二者を外したのかが分かる方とはゆっくり話をしてみたいものです。

3、文章力

 これは私が書くべきかどうかわかりませんが、読んで相手に意図を伝えられるだけの文章を書ける人が現在だと極端に少ない気がします。実際私も日常で他人の報告書を読んでたりすると思うことが多々あり、昔の祐筆じゃないですが文章作成の専門スタッフとかいてもいいと思います。
 特にこれを強く言いたいのは文学部の学生で、もっと文章というものに目を向けて世に需要を訴えてもいいと思います。ただそういいながらも、大学で書かされる論文の構成というものが私にはあれほど分かり辛くて書きにくいものはないと考えており、そういった文章の指導がなされている限りは何も望むべくものはないかもしれません。

2010年10月6日水曜日

私が期待するDQキャラのスピンオフ

 私が小学生の頃に大いにはまったゲームの一つに「トルネコの不思議なダンジョン」という物がありました。このゲームは未だにシリーズの続編が出ている「ドラゴンクエストシリーズ」の4に登場するトルネコというキャラクターを主人公にした一種のスピンオフゲームだったのですが、ゲームデザインの秀逸さが受けてこの「不思議なダンジョンシリーズ」も未だに新作が出続けております。

 ドラゴンクエストのキャラクターを下地にしたスピンオフゲームはこのほかにも「いただきストリート」とか「テリーのワンダーランド」などいろいろあるのですが、こういった新たなドラクエスピンオフを見るにつけ私がいつも思うことに、
「一体何故、ハッサンのスピンオフがないんだ!( ゚Д゚)」
 という思いがあります。

 さすがに権利関係にうるさそうな所なので画像を貼ったりしませんが、そのハッサンというのは「ドラゴンクエスト6」に登場する主人公の仲間キャラクターで、「モヒカン」、「マッチョ」、「せいけんづき」などと溢れんばかりの個性を多数持ち合わせた稀有なキャラクターで今現在もネット上の多くの人間に愛されているキャラクターです。
 ちなみにハッサン関係で最近の私が大いにツボにはまったのに、「リメイク版DQ6をハッサンとアモスの二人だけでクリアする」というチャレンジを行った下記サイトがあります。

DS版ドラゴンクエスト6 プレイ雑記 序(SoaR)

 すでにドラゴンクエスト6からは先のテリーというキャラクターがスピンオフしてゲームが作られていますが、私はテリーなんていう役にも立たないルイーダの酒場要員などではなくどうしてハッサンを使わなかったのか未だに強い疑問を持っています。第一、ハッサンほど強い個性を持ったキャラクターであればスピンオフなんていくらでも可能で、ざっとタイトルを思い浮かべるだけでも、

・ハッサンのイカしたダンジョン
・ハッサンのミステリーワールド
・ホーンテッドハッサン
・ハッサンブートキャンプ
・ロマンシングハッサン
・ハッサン・ザ・バトルマスター

 などなど、ハッサン一人でどれだけ夢が広がるんだと言いたくなるくらいの空想ぶりです。

 私は京都に一時在住していたものの関東育ちのため、味覚は比較的濃い味を好みます。それが関係しているかどうかまでは分かりませんがこうしたゲームや漫画においても濃いキャラクターを好む傾向があり、それがこのハッサン贔屓につながっていると自覚してます。

 ちなみにドラクエ6では途中でお城相手に戦う場面があるのですが、私の使用するハッサンは城に向かって「せいけんづき」や「がんせきなげ」を容赦なくかましてくれて、その光景を想像したらなんか笑えました。

2010年10月5日火曜日

小沢氏の強制起訴と検察について

 すでに昨日にニュースが流れて今日もあちこちでてんやわんやに報道されているのでもう知らない方はいないでしょうが、民主党の小沢氏に対する検察審査会の審議において二度連続して「起訴相当」の議決が下りた事から小沢氏の政治資金問題について強制的に起訴が行われる事となりました。
 仮に通常時であれば私もこのニュースは今日なんかじゃなく昨日の時点で取り上げていたでしょうが、なんとなく私の中でこのニュースは盛り上がらなかったために強行しておざなり程度に記事を書くこととなりました。一体何故私の中でこのニュースに対する興味が薄いのかというと、今の検察に小沢氏の捜査や裁判をきちんと行えるのかという不信感が強いからです。

 現在、日本の検察は野球賭博で大いに揺れた二ヶ月前の相撲界同様に大いにその信頼や立場が揺らいでいます。その原因は言うまでもなく前田恒彦容疑者による村木厚子氏の裁判における証拠改ざん問題で、目下の所当時の上司二人である佐賀元明容疑者(大阪地検特捜部前副部長)と大坪弘道容疑者(同前特捜部長)は否認しているようですが、いつもなら検察絡みの大メディアの情報は検察からのリークなので鵜呑みにしないよう注意するのですが今回の場合は敢えて鵜呑みにして分析している限りですと、恐らく両者共に前田容疑者の故意による証拠改ざんを知りながら敢えて隠蔽したのは間違いないと見ており、この事件は大阪地検特捜部という組織ぐるみの犯罪だったと考えています。

 私が何故このように判断するのかというと、前田容疑者が証拠を改ざんしたものの改ざん前のFDの記録が公判資料として裁判所に提出されていたことを知って慌てて同僚に改ざんを打ち明け、改ざん行為をその後に逮捕された二人の検事にも報告しているからです。普通の常識、というより捜査に携わる人間であればなおさらですが、改ざんという明確な犯罪行為を行っているのであればすぐさまその事実を公表しなければならないところをこの両者は「過失だと思ったので公表しなかった」と証言しています。
 仮に過失だったとしても事実と異なる記録証拠がそこに存在するにもかかわらずそれを公表しないというのは大馬鹿以外の何者でもなく、また前田容疑者が本当に過失で行ってしまったのかを何故その際にきちんと捜査しなかったのかという疑問も強く残ります。

 そして何より、すでに現時点で当時の状況について明確な証言を行う証言者が現れているからです。その証言者というのは週刊誌などの報道によると前田容疑者の同僚であった四人、もしくは二人の現職検事の方らで、前田容疑者から改ざんを打ち上げられるやすぐさま佐賀容疑者に掛け合って公表し、謝罪し、村木氏の無実を発表するべきだと涙ながらに訴えたそうです。しかし佐賀容疑者はその検事らの声を無視して改ざんを公表しなかったそうで、この検事らの話したとされる報道内容は見事に前田容疑者の供述と状況が一致します。
 この二点をとって私はその後に逮捕された二人の検事もこの改ざんという恐ろしい犯罪に関わっていたと断言してもいいです。

 こんな具合で未だに大揺れの検察界ですが、まだ数人の検事の方がすぐに改ざんを公表すべきだと行動していたのは救いだったとは思いますが、私は真面目にこの事件にケリをつけるのなら、組織ぐるみの犯罪であることを考慮するとこの際大阪地検特捜部は組織ごと廃止せざるを得ないと思います。東京地検特捜部も全く問題がないとは言えませんが、今の大阪特捜部が何を言った所で私は信用できません。

 そんな検察不信の中で今回小沢氏に強制起訴が行われる運びとなりましたが、果たして検察はきちんと捜査してまともな裁判を行えるのかやっぱり疑問に感じてます。そもそもこれまでの小沢氏への捜査も異例尽くしで、どうして秘書三人が逮捕されているにもかかわらず監督責任のある小沢氏本人についてはなかなか捜査が行われなかったのか、またそうやって捕まった秘書らと小沢氏の証言も呆れたものばかりで、「秘書が四億円の現金を小沢氏の了解を得ずに自宅金庫から持って行った」など、人を馬鹿にするのも大概にしろと言いたくなるような証言まで飛び出す始末です。

 私の友人も言っていましたが、今回の前田容疑者の逮捕で一番徳をしたのは小沢氏だと私も思います。仮に小沢氏が検察の捜査に問題があると言ったら現時点で私もその通りだと言うより他なく、かといって小沢氏の資金問題、特に政党助成金流用疑惑については黒以外のなにものでもなくてこんなの放っといていいのかよとも思います。

 それで今後の展望ですが、一応起訴はするだけして裁判はぐだぐだで進むんじゃないかと私は思います。もし小沢氏が前回の民主党代表選に勝っていたならともかく現在なら無役ですし、起訴されて有罪だろうが無罪だろうが政治的には何も影響がないですし、このまま小沢氏が政界引退するならもうほっといてもいいんじゃないかとすら私も思えてきました。本当はいけないんだろうけど。

Canonの電子辞書について

 今日時間があったのでキャノンのサービスセンターに行ってきました。訪問した目的は五年前に留学直前に購入して以降愛用していた私の中国語対応の電子辞書(型式:wordtank V70)が液晶の表示部が悪くなり、これの修理できないものかと思ってのことでした。具体的にどのような症状だったかというと、それまでは電源入れればすぐ表示されていたのが、恐らく液晶と本体を繋ぐ接続部のケーブルが断線しかかって、液晶の傾き方によっては映ったり映らなかったりという具合に悪くなってました。

 なもんだからケーブルさえ取り替えればすぐ直せるんじゃないかと思って行ったのですが、すでに購入から五年、しかも留学中はほぼ毎日開けては閉じてを繰り返していたので壊れるのも無理なく、もし修理できなかったり修理費用がそこそこかかるのであればこの際ついでに電気屋によって新しいのを選んで買ってしまおうかなとも考えてました。

 サービスセンターに着いて早速職員に電子辞書を見せたところ、案の定私が考えていたように接続部のケーブルに問題があると診断を受けたものの、完全密閉型の機種のため分解して修理は行えないとのことでした。ただ修理のかわりに費用を払うことで同型機の交換をやっているとあらかじめネットで調べており、職員の方も交換を行うか確認をしてきたので一体どの機種と交換なのと聞いた所、てっきり私は同じ商品と交換かと考えていたら現行の後期モデルとの交換と聞いてちょっと驚きました。
 早速その交換できる機種(型式:wordtank V823)を持ってきてもらったところ、V70と比べてやや大型化して重量も増しているものの機能的にも問題はなくデザインもまた私好みのシンプルなもので、もともと新しい電子辞書を買うことも辞さないつもりだったので即決で交換を求め、170,10円(税込み)を支払って交換してもらいました。

 ここで書いときますが、英語ならともかく中国語を学んだり使用する場合に電子辞書は大きな存在です。英語はスペルで単語を調べられますが中国語の場合は漢字から調べなければならず、画数や部首からいちいち調べていると結構な時間が取られます。
 ところが最近の電子辞書だと初めからNintendo DSみたいにタッチペンがついていて、直接画面に文字を書くことで発音や意味の分からない単語をすぐに検索できます。中国語をこれから学ぼうと考えている方は多少値段は張りますが、余裕があるなら私は最初に電子辞書を買っておいて損はないと思います。

 ちなみに今回Canonに電子辞書を交換してもらった後、その足でヨドバシカメラによって行って同じ電子辞書の値段を調べた所、25,000円でした。結構手ごろな価格で最新機種と交換してもらったのでCanonには今回感謝もひとしおで、いつも悪口ばかり(会長絡みで)書いてるので今日ばかりはすこし申し訳なく思いました。

 ちなみに留学中にCanonの社員の方と会う機会があって彼に私の電子辞書を見せたところ、「その電子辞書は恐らく、Canon本体の子会社の子会社のそのまた子会社あたりが作っている代物だろう」と言われました。企業のグループ化はCanonに限った事ではありませんが前回の電子辞書は使い勝手もよくいい品物だったと思うので、この話を聞いた時になんとなく残念に感じた事を今でも覚えています。

ランプの魔人の有名人当てクイズ


ランプの魔人があなたの心を見通します

 今更ながら、上記のサイトにこのところはまっています。差異と内容を簡単に説明すると有名人(漫画やアニメのキャラクターを含む)を頭に浮かべてランプの魔人の質問に答えていると、最終的には見事にその有名人を言い当てるというような内容です。
 このサイト自体を知ったのは数ヶ月前だったのですが最近になってちょっと思うところあってまたやり始めてみたところ大いにハマり、まさか知る人ぞ知る「serial experiments lain」というアニメの主人公、岩倉玲音を言い当てられた時は見事にドキッとしました。次いでに書いておく、この「serial experiments lain」が今じゃ売れっ子イラストレーターの安倍吉俊氏の出世作です。

 ただこの魔人の質問ですが、人物の特定がほぼなされている後半に入ってくるとまんまやないけと言いたくなるような質問が増えてきます。そんなこれまで私が思わず突っ込みたくなった質問は以下の通りです。

「(その人は)ジオン・ダイクンの息子?」(シャア・アズナブル)
「(その人は)唇が分厚い?」(井上和香)

 特に二番目の質問の次にはまたもしつこく「下唇が分厚い?」とまで聞いてきました。グラドルで唇が厚いと来たら択一じゃないか。

2010年10月4日月曜日

若者の保守化傾向について

 本店の方でリクエストをもらったので、前から自分もネタを集めていたので今日はこのテーマで解説を行います。

「日本女性は家庭に喜び」=中山政務官の発言に批判(時事通信)
なぜ、20代高学歴女子は「専業主婦」狙いなのか(プレジデント)

 上記二つのサイトはリクエストを頂いた方から紹介されたのですが、最初の中山政務官の発言は今日も一部ニュースにて取り上げられ他の政治家からもやや不用意な発言ではないのかなどというコメントが相次ぎました。確かに不用意っちゃ不用意だろうけど。
 二番目のプレジメントの記事は中山政務官の発言に準じているというか、最近の傾向として日本の若者、特に女性の間では専業主婦を望む人間が増えているなど保守化の傾向があるという記事です。

 まずこの二つのサイトを見比べて私が注目したのは、プレジメントの記事を書いた記者のプロフィールでした。執筆記者は白川桃子氏で私はこの方の記事をこれまで見たことはなかったのですが、プロフィール欄にある「山田昌弘中央大学教授とともに」という記述を見てああなるほどという気がしました。というのも、この日本人女性の専業主婦志向を始めとした若者の保守化傾向を最初に言い出したのは他でもなくこの山田昌弘氏だからです。

 何気に山田昌弘氏の名前は昨日にアップした「私の信頼度リスト(評論家編)」にて<半信半疑>の欄に入っています。この人の略歴を簡単に話すと、「パラサイトシングル」や「婚活」といったそこそこ長く使われる言葉を最初に提唱した人で、世の中一般に知られている社会学者の中でも有名な方です。山田氏の調査手法については一部で批判などもありますが私としては調査がどうであれ社会分析や予測がきちんとその後に当たっていれば問題ないと考えており、「パラサイトシングル」については見事にその後のフリーター、ニート問題を先読みしたと高く評価しております。

 話は戻ってその山田氏がその著書「なぜ若者は保守化するのか」で最近になって提唱し始めた若者の保守化についてですが、結論から言えば私も現実はそのようになっていると考えています。それは女性の未婚化、専業主婦志望の高まりといった現象に限らず、各種調査で現れている男性の職業観の変化などでも明確に窺えます。

 ここで先に保守化という言葉の意味を明確にしておくと、これは政治思想の「保守」とは全く関係なくただ単純に、「物事があれこれ変化するよりも今のまま、もしくは以前のままである方がいい」という価値観です。日本でこの保守という言葉が使われる場合は大体は昭和後期に一般的とされたモデルこと「終身雇用」、「専業主婦」、「年功序列」といった概念が適用される事が多いです。

 それで若者の保守化傾向ですが、いちいち細かくサイトの引用までは行いませんがリクルートなど人材系企業の調査によると近年の新卒就職者はそれ以前に比べて就職した企業で定年まで一生を終えたいと回答する率が増えており、また出世や昇進などといったものに興味を示さなくなっているようです。

 その上で私が個人的にショックを受けたのは産業能率大学により行われた「新入社員のグローバル意識調査」の結果で、今年行われたこの第四回の調査によるとなんと49%の新入社員が「海外では働きたくない」と答えており、参考までに2007年に行われた第三回の調査と見比べてみると当時は36.2%と、有意に海外勤務忌避傾向が高まっております。私としては会社から給料もらって海外で働ければ語学や経験上有意義ですし、その上で語学学校の金も会社からせしめればしめたものだと思ってしまうのですが、どうもこういう考え方をするのは少数派になりつつあるそうです。

 一体何故このように若者に保守化の傾向が現れてきたのか、私が考える理由としては第一に不況による影響が大きいと思います。具体的にどういうことかというと、好景気であれば就職や転職など人生に変化を起こす事で収入を上げ、生活水準も高める事が出来ますが、不況真っ只中の現在であれば今の生活水準を維持するだけでも大変です。
 私はこういうときによく、「今日より明日はもっといい日であるように」ではなく「今日も昨日と同じでいられますように」と表現しますが、まさに時代は後者で攻めよりも守りを重視して社会的変動の少ない保守的な性格を帯びるようになったのではないかと思います。山田昌弘氏の雑誌に寄稿している記事を読む限りだと、大体これと似たような考え方じゃないかな。

 こうした不況による影響もさることながら私が二番目に睨んでいる保守化した理由としては、本来新奇のものを好む若者自体が変化に対応する事に疲れを感じているのではないかと考えています。
 基本的にどの社会でも新しいメディアや技術が現れると偏見や既存知識が少ない若者ほど飛びつく傾向があり、日本においても90年代にインターネットや携帯電話が登場した際は高校生や大学生が真っ先に飛びついて行きました。

 しかし最近の日本では、私が強く注目したのは先日発売されたi-padやスマートフォンなどの発売でしたが、どうもここ最近は新しいメディアやツールが出ても真っ先に飛びつくのは若者というより30歳前後の大人たちのが多かったような気がします。人口比や値段の問題といえばそれまでですが、どうも高校生から大学生くらいの若者が何かに飛びつくというのがこのところ想像がし辛くなっている気がします。
 またそうやって飛びついているように見える30歳前後の大人たちもこれまでのブーム現象と比べるとやっぱり人数は少ないように思え、そもそもブーム自体がこのところ減っているような気までしてきます。

 一体これはどうしてなのかとあくまで私の主観で語らせてもらうと、近年はあまりにも技術革新などが激しすぎるために変化に追いつくだけでも一苦労です。自分なんかは比較的早くにブラインドタッチに慣れたのでインターネットやブログに対応するのはそれほど苦ではありませんでしたが、音楽機器についてはMDプレーヤー以降はMP3プレーヤーに移行することが出来なかったり、スマートフォンなんてiモードすら使いこなしてないのにこんなのもう結構ヾ(゚д゚;)とリアルに考えてます。
 要約すると、あまりにも社会や機器の進化や変化が激し過ぎて若者は追いつくどころか懐古的に勝手知ったものに固執するようになってきているんじゃないかということです。レトロゲームブームもこの延長だったのかな。

 あと補足としてたまに「若者が保守化してきたのは日本の保守的な教育の影響だ」という人もいますが、私はこの線はないと思います。その理由として以前はもっと女性の社会進出などに否定的な教育がなされていたのに、近年になってこの保守化傾向が強く見られてきたからです。

 最後にこの保守化についてちょこっと思うこととして、保守化する若者をいいとか悪いとか言うよりも、保守化している中で保守化しない若者を今後どう扱うかが非常に重要になるかと思います。ちょっと意味深ですけど。

2010年10月3日日曜日

週刊現代と週刊新潮の相撲関係の報道について

 信頼度リストに週刊現代と週刊新潮のことを書いたばかりなので、せっかくだからこの二誌の相撲報道を見ていて感じた事をちょっと紹介します。

 ここ数年、相撲界はまさに波乱というほどの不祥事の連続でした。それ以前にも不祥事は全くなかったわけじゃありませんがそれらの大体は今日断髪式を行った朝青龍関連のもので、これに限って言えば朝青龍個人の問題であって相撲界として考えればそれほど大きな不祥事にはなりませんでした。
 そんな相撲界が全体で大きく揺れる事となった最初の不祥事は時津風部屋で起きた力士暴行死事件で、この事件を機に旧態依然とした相撲界へ厳しい目が注がれる事となったのですが、この事件を逸早く報道したのはほかでもなく週刊現代でした。

 当初暴行されて殺された力士は病院での検死後にけいこ中の事故で死んだと愛知県警犬山署は発表したのですが、この検死結果を不審に思った力士の両親の依頼により新潟大学医学部で再検死を行った所、暴行死の疑いが強いと初めて伝えられたそうです。
 この事件は私自身が注目していたのもあって大まかに時系列も覚えていますが、当初力士の死亡が報じられた際はその遺体の凄惨さからなにかしらの暴行が疑われたものの、当初の事故死という発表からは大きな進展がありませんでした。

 自体が急展開したのは事件から約二ヶ月後、恐らくこの間に愛知県警などで詳しい鑑定が進められていたのでしょうが週刊現代が暴行の疑いを大々的に報じたのをきっかけに場相撲協会への批判が集まり、最終的には暴行を指示したとされる元親方の逮捕にまで事件は発展することとなりました。

 当時に私は週刊誌をいろいろと読み比べていたのですが週刊現代はそれまで毎号に載せていた女性のヌード写真を廃止し、誌面を作り変えるなどして傍目にもいい改革を続けていました。そこへきてこの力士暴行死事件のスクープで、こりゃ週刊現代は大したものだと目を見張ったのを覚えています。
 しかしこれで週刊現代は調子に乗ってしまったというべきでしょうか、続けて報じられた大相撲八百長疑惑は、私も見ていてちょっと呆れました。

 週刊現代による大相撲八百長疑惑の報道は実際には暴行死事件の報道より以前ですが、相撲協会から刑事告訴されたのが後だったので、私の記憶としては暴行死事件以降にこの問題が各方面で取り上げられるようになった気がします。
 それでこの報道の中身はというと朝青龍が対戦力士に金を渡して負けるように仕向けていたという内容なのですが、はっきり言ってこれはないと私は思いました。そう思う理由としては朝青龍の現役時代の取組は他の力士と比べて圧倒的に立合いが早く、どう見たって手を抜いているように見えない、というより「そこまでしなくとも(;´Д`)」と思うくらいの激しい立合いが多かったからです。相手力士も同様で、確かに朝青龍には負けますが八百長とはとても思えないほどの激しい取組がいくつもありました。

 更に言うと当時には、「朝青龍を疑う前にこいつを疑えよ( ゚Д゚)」と思う大関力士が何人か存在していました。その大関力士は大関の癖にしょっちゅう負け越したり怪我で休んだりを繰り返す割に、大関陥落のかかる角番の場所では何故か判で押したかのようにいつも8勝7敗で場所を終えていました。
 現在も活躍されている琴欧州は大関昇進後、事あるごとに評論家から優勝争いに絡むほど勝ち星を伸ばせないことに苦言を呈されていましたが、それでも場所によっては二桁勝利の実績をきちんと残していました。ですがその私が疑ってやまないある大関力士は、直近の数年間で一度も二桁勝利に達していないにもかかわらず誰からも苦言を呈されず、この点について週間現代の八百長報道は全くノータッチだったので多分この報道は偽だろうと判断しました。

 ちょっと話が横にそれましたが、この大相撲八百長疑惑の後に今度は力士の大麻吸引事件が起き、この事件で相撲協会から解雇された若ノ鵬が週刊現代にて、「八百長を強要された」という証言をしたと一時報じられたものの、後になって若ノ鵬は「証言をすれば相撲界に戻れると騙されてやってしまった」とこの証言を撤回し、ますますこの週刊現代の報道が疑わしく思えるようになりました。ちなみに若ノ鵬の証言撤回後、週間現代は「支離滅裂で、事実とは考えられない」と、お前は何を言っているんだと言いたくなるような訳の分からないコメントをしています。

 そんなわけで一時高めた週刊現代への私の評価はまた下がることとなったわけですが、その一方でまた別の相撲報道を機に評価を高めたのは週刊新潮でした。
 週刊新潮が報じたのは今も残火がくすぶっている相撲界の野球賭博の問題でした。最初の報道はこの問題で解雇されることとなる琴光喜が野球賭博の勝ち金を巡って恐喝を受けているという報道からでしたが、この報道をきっかけに芋づる式に親方を含めた力士らの野球賭博、並びに暴力団との関係が報じられることとなり相撲界はそれまでのどの不祥事よりも苦境に、また厳しい対応に追い込まれることとなりました。

 言ってはなんですが、この相撲界の人間らが野球賭博をやっていたと言うのは相撲関係を取材するジャーナリスト達にとっては皆知っていて当たり前だったと思います。普通に報道でも支度部屋などで賭け花札に興じる力士の写真が出てましたし、相撲部屋に出入りしていれば野球賭博の事実などすぐ分かったことでしょう。
 週刊新潮は琴光喜の恐喝事件があったからこそある意味タブーに近かったこの野球賭博を報じたのであって、肝心なのはどうして他の報道機関がそれまで野球賭博について誰も報じなかったということです。報じるまでもないほど報道関係者にとっても一般化していたといえばそれまでですが、私はあれだけ相撲界の不祥事報道に取り組んでいた週刊現代が野球賭博だけは報じなかったことを考えると、なんとなく週間現代は馬鹿やったなぁという気がします。

 とはいえ私は週刊新潮については以前の赤報隊事件の犯人でっち上げ報道があったことから現時点でも全く信用しておりません。当時この記事を載せた編集長は更迭されたそうですが、犯人だと偽の自白をした方はその後自殺した遺体で見つかっています。人間一人自殺に追いやってどれだけ稼いだのか、是非とも更迭された元編集長に聞いてみたいものです。

  補足
 時津風部屋の力士暴行死事件についての補足ですが、この事件で見逃してならないのは当初の愛知県犬山署の発表です。すでに書いたように犬山署は当初運ばれた病院医師の鑑定を受けて事故死と発表しましたが殺された力士の遺体は親族が目を覆うほど凄惨な姿をしていたらしく、それにもかかわらず事件性を当初疑わなかった愛知県警の検死というか捜査の仕方には不審さを感じずにはいられません。
 なんか調べてみると愛知県警絡みでは事件性が疑われるにもかかわらず自殺として遺体が処理されるケースが多いと言われているようで、昨今海堂尊氏が取り上げている「死因不明社会問題」と合わせて考えると問題の深刻さが窺えます。

 あと蛇足ですが別に愛知県に恨みを持っているわけじゃないけど前から思っていることとして、どうして愛知県は通り魔事件が多いのかがすごい気になります。愛知県に恨みは持ってないけど、愛知県のある大きな会社に大しては激しい逆恨みはしているけど。

私の信頼度リスト(評論家編)

 昨日に引き続き私の信頼度リストです。今回はちょっと気合入れて最近特に増えている各方面の評論家のリストです。くれぐれも申しておきますが、この信頼度リストというのはあくまで現時点での私の見方であって決して客観性に基づいて作成されているわけじゃありません。そういうことで早速行って見ましょう。

<信頼している>
田原総一郎(政治評論家)
屋山太郎(政治評論家)
赤坂太郎(政治評論家)
荻原博子(経済評論家)
浜矩子(経済評論家)
内橋克人(経済評論家)
武田邦彦(環境問題評論家)
富坂聰(中国評論家)
宮崎正弘(中国評論家)
与田剛(野球評論家)
池上彰(全方面評論家)
宮崎哲弥(全方面評論家)
内田樹(社会評論家)
半藤一利(歴史評論家)
保坂正康(歴史評論家)

<半信半疑>
上杉隆(政治評論家)
三宅久之(政治評論家)
佐藤優(政治評論家)
堺屋太一(経済評論家)
榊原英資(経済評論家)
竹中平蔵(経済評論家)
デーモン小暮(相撲評論家)
山田昌弘(社会評論家)
立花隆(全方面評論家)

<信頼していない>
宮台真司(社会評論家)
福田和也(社会評論家?)
田母神俊雄(軍事評論家)
浜村弘一(ゲーム評論家)
植草一秀(経済評論家)
勝間和代(経済評論家)
森永卓郎(経済評論家)
張本勲(野球評論家)
石平(中国評論家)

 疑り深い性格の自分なのに、意外に信頼している評論家が多かったのがびっくりです。
 さすがに前回みたいに一人一人細かい理由を説明しませんが、コメント欄に「この人がなんで?」と寄せてくれれば書いていくつもりです。

 ちなみに自分もこのブログを見てくれればわかる通りに情報を扱う幅が比較的広く、友人らから何か事が起こるたびにコメントを求められることが多かったのでこうしてブログで回答するようになりましたが、私が理想とする評論家は幅の広さで言えば宮崎哲也氏、専門の中国関係では富坂聰です。逆にこうはなりたくないと思うし最低だと考えている評論家は宮台真司です。

2010年10月2日土曜日

私の信頼度リスト(メディア編)

 友人には一ヶ月くらい前にこんなのブログでやってみたいと行っておきながら、今日ここで書くまでにえらく時間がかかりました。

 近年の日本の大きな特徴となると、かつてあった権威がどの分野においても失墜して信頼という物が各所で大きく揺らいでいる事もその一つとして挙げられるかと思います。私自身周囲の人間から不祥事発覚のニュースが報じられるたびに一体何を信頼すればいいのかという言葉を嘆息と共によく聞くことがあり、評価の基準を持つことが出来ず何を信じればいいのかと実際に相談を受けた事もありました。

 私に言わせてもらうと何を信じるか、相手の意見が正しいかどうかは自分で判断すべきで何か一つに自分の判断を丸ごと預けようというのはちょっと甘いのではという気もしないでもないのですが、誰もかもが一つ一つのニュースや商品の性能などに精通しているわけでもなく、なにか信頼できる情報発信元をあらかじめ決めておきたいと思うのは自然な感情なのかもしれません。

 そこで一つ今回やってみようと思ったのは、私自身が一つの指標となって各分野において信頼するものをそれぞれ、「信頼している」、「半信半疑」、「信頼していない」の三つにおおまかに分けてリストアップしてみようと考えてみました。
 あらかじめ申しておきますがここで紹介する信頼度リストはあくまで私がどの程度その対象を信頼しているかであって、必ずしも客観性に基づいたリストではなく、たとえ私のリストの中で信頼度が高かったとしても実際にその対象が信頼に基づく行動を行っているか、性能を有しているかどうかは保証しかねます。

 それにもかかわらず何故ここでこうしてリストアップしようとするのかというと、こうして皆で意見を言い合って議論を高める事がそれぞれの中で信頼度の指標を作る一助になるからではないかと考えたからです。
 そういうわけで一発目は、恐らく信頼という意味では一番肝心なメディアに対するリストです。百聞は一見に如かずというのでさっそくご覧下さい。

<信頼している>
NHK(テレビ局)
MBS(テレビ局)
文芸春秋(雑誌)
朝日新聞(新聞)

<半信半疑>
テレビ朝日(テレビ局)
テレビ東京(テレビ局)
読売新聞(新聞)
日経新聞(新聞)
週刊文春(週刊誌)

<信頼していない>
TBS(テレビ局)
毎日新聞(新聞)
産経新聞(新聞)
週刊現代(週刊誌)
週刊新潮(週刊誌)
バンキシャ(テレビ番組)

<論外>
アサヒ芸能(週刊誌)

<別格>
東スポ(新聞)

 一つ一つ詳しく説明すると、まず信頼しているリストに挙げた中でもNHKを私は特に強く信用しています。ここも過去に何度か不祥事を起こしていますがそれを補って余りある報道力に、ニュース番組でも民放と比べて余計でくだらない情報を流さない姿勢は高く評価しています。同じくテレビ局では関西放送局のMBSこと毎日放送もそのスクープを取り上げる取材力は群を抜いていることから高く評価しております。京都、大坂、神戸市役所の不祥事を全部暴いたのはほかならぬこの毎日放送だったし。
 次に雑誌メディアからは文芸春秋が入っていますが、分厚いだけあってなかなか硬派な情報が多く、なおかつ遠距離を見渡す上で重宝しております。ライバルの中央公論についてはただ単に私が購読していないだけなので信頼度は未定なだけです。
 最後の朝日新聞については「なにをっ(# ゚Д゚) ムッ!」と思われる方もいるかもしれませんが、今回の大阪地検特捜部検事の証拠偽装のスクープなどなんだかんだ言って世の中を動かす報道をよくしており、日々のニュースも最低限きちんと取り上げているので私は新聞メディアの中では朝日を評価しています。社説がくだらないのは仕方ないので、この点については見てみぬ振りしてますが。

 次の半信半疑のリストに挙げたリストについてですが、テレビ朝日については報道ステーションは嫌いだけど朝のニュースが好きなので入れて、その次のテレビ東京は同じくリストに入っている日経新聞同様、予算が少ないので事後報道が多くなりそれゆえに変な誤報が少ないということを評価しての事です。
 なお日経新聞は日本経済紙トップの意地から経済面のスクープには走りとも言われかねない報道が多かれ少なかれあり、それゆえに「日経は経済面以外がいい」と言われております。私自身もそう感じており、テレビ東京でよくやっている企業家の特集番組もええかっこしく映しており、意地の張ってない政治や文化面では逆にニュートラルに報道しているので半信半疑としております。
 読売新聞については対して特に何か強い報道姿勢を持っていないことからで、週刊文春については週刊誌の中ではまだマシと思うから入れました。実際は文春はほとんど信用してないけど。

 最後の信頼していないリストについては、TBS、毎日新聞についてはその不祥事の多さと頓珍漢な意見の連発から真っ先に入れました。次の産経新聞については政治に対する報道姿勢が異様に自民党支持に偏っており、ちょっと呆れるような意見も平気で載せてくる事から信頼していません。産経は日々のニュース報道も書き方下手だし。
 週刊現代は折角相撲界の大麻問題をスクープしたかと思ったら次に報道した八百長問題はどうも誤報の線が強まってきており、週刊新潮については以前の赤報隊事件犯人のでっち上げ記事から評価を落としました。こういうことばっかりやっているから、所詮は週刊誌と呼ばれというのに。
 最後のバンキシャについては敢えて日テレと書かずに番組名にしました。ここも異常な量の不祥事を起こしており、私はこの番組が存続しているという事実それだけで日テレに対して強い疑いを持ちます。

 あとおまけとして<別格>と<論外>を設けていますが、論外に入れたアサヒ芸能は直接手に取ることはないのですが電車の中の中吊り広告を見ると的外れもいいようなふざけた見出ししか書いておらず、以前にネットの掲示板でアサヒ芸能を情報ソースとしてスレ立てしてる人を見ましたがその際は本気で神経を疑いました。あとなんでこのアサヒ芸能はいつも暴力団内部の人事移動について詳しく取り上げるのかもよくわかりません。そういう広報誌なのだろうか?

 別格の東スポについてはちょっと理由があり、ここも「日付と天気予報以外は全部ウソ」とまで言われるほどとんでもない記事(UFOが電線に止まって盗電していた等)をよく載せてますが、この東スポのいいところはウソと分かる記事ははっきりウソだと分かる点で、娯楽として読む分には非常に出来のいい新聞だと評価しているからです。
 ちなみに東スポは変なところで硬派というか、以前に聞いた話だと昭和天皇の崩御の際にも一面の見出しは「ブッチャー、流血」だったそうです。すごい新聞だ。

2010年10月1日金曜日

特攻作戦の価値は

 特攻作戦というと二次大戦時に旧日本軍が行った作戦として日本人なら誰でも知っているかと思いますが、二次大戦時であればその決死性と共に特殊さが際立っていたものの現代ではイスラム過激派などの自爆テロが横行し、以前よりはこういった面の特殊性は薄れているかもしれません。
 そうした特殊性は置いておいて、この特攻作戦の価値や意義については未だに議論が強くなされております。戦後から60年以上経ったことでようやく感情的な議論は少なくなってきておりますが、それでも一部の前大戦賛美者からは日本の優れた精神性から生まれた作戦であったなどと反吐が出るような意見が出てくる事もあります。

 結論から言えば、私は特攻作戦は人間性と効率性を無視しただけの意味のない自己破滅的作戦であったと考えております。

 特攻が作戦としての戦術的価値がなかったことについては現在でも一般的な意見になりつつありますがこれについては調べれば調べるほど呆れた事実が出てきて、まず数百キロの爆弾を機体に括りつけて敵艦隊に対して胴体突撃を敢行すること自体が無茶もいい加減にしろというような内容です。これなんか私の後輩が昔に言っていましたが、二次大戦当時に日本は他国と比べて「弾幕」という無数の銃弾で壁を作る事によって攻防一体となす概念が薄かったといわれ、事実当時の日本陸軍参謀の堀栄三がパイロットらの意見を聞いた上で実際の戦闘を視察した際、上層部よりの敵艦に接近した上で攻撃せよという命令が現場ではほぼ実行不可能な意見であるものだと断じた上で報告しております。

 そんな銃弾の雨の中をただでさえ重たい爆弾を持って突っ込むなんて冗談もいいところなのですが、そんな無茶な作戦に対してただでさえ戦争後半に少なくなっていた訓練されたパイロットの命を消費するという発想自体も非常に馬鹿げております。
 通説、というより一部の礼賛者の意見では特攻作戦はすべて志願者によって行われたと言われておりますが、文芸春秋10月号の記事によると特攻隊の生き残り、または特攻隊員を指名した下士官らの意見を聞くと、実際の現場では志願を強制されたというのが実態だったようです。また私個人の意見としても、今も残る特攻隊員の遺書を見るととても自発的に特攻隊員が集められたとはとても思えません。

 その上で自分がこの作戦に腹立たしさを感じる点として、この作戦を指導した軍上層部自体がそもそもこの作戦に戦術的価値を見出していなかったという点です。はっきり言いますが、太平洋戦争は日本がサイパンをアメリカに奪取された時点でほぼ勝敗は決していました。ドイツもドイツで国土が蹂躙されるまで最後まで降伏しませんでしたが、賢明な指導者であれば、開戦はともかくサイパン陥落の時点で日本が降伏すべきだという事を十分に理解できたはずです。

 そんな劣勢下の中、特攻作戦は終戦の最後の最後の日まで実行されました。聞くところによると玉音放送のあった8/15に降伏宣言を知らずに出撃した特攻隊は、目標の沖縄上空に現れるや米軍基地へは突入せず次々と岩礁地帯へ突っ込んだそうです。好意的解釈を行うならば、上空から見下ろした米軍の様子を見た特攻隊員らは日本の降伏を察知し、自分達の攻撃が後に影響を及ぼさないように自決したとされています。

 さらにこの特攻作戦は終盤ともなると、通常戦闘使用機だけでなく性能の劣る訓練用機でも行われるようになります。ただでさえ正規機より突入が難しいと言われていながら訓練機も作戦に導入されたのは、一説では米軍の本土上陸時に特攻作戦がどれほど有効であるかを試すためだけであったとも言われています。

 これは太平洋戦争全般、特に沖縄戦において言えることですが、本来国民の生命や財産を守るべき軍隊が国民の生命や財産をないがしろにしてでも軍という組織を守ろうとしたのがあの戦争だったと私は考えています。因みに天皇制についてはポツダム宣言受諾を巡って争点となったと言われておりますが、私が見ている限りだとどうもそれはうそ臭い気がします。陸軍の過激派などはもし昭和天皇が降伏を受け入れようとする素振りを見せようならば強制的に退位させ、別の皇族を天皇を立てればいいと主張していたグループもありました。

 そういった意味ではこの特攻作戦も、国家が国民の命を弄んだ愚行以外の何者でもないと思います。なお今回ちょっと調べなおしていて意外だったのは、通説では特攻の生みの親とされている大西瀧治郎海軍中将は実際には特攻作戦を起案していないという意見が現代では強まっていたという事です。まだはっきりしないのでこの点については今後の研究を期待します。

2010年9月29日水曜日

昔に釣堀でやらかした事

 たしかあれは私が小学六年生くらいのことだったと思います。その年の夏に私は両親と姉との四人で国内旅行に出かけて温泉地へ赴いたのですが、一泊した帰りに観光地の釣堀に寄って行って釣りをする事にしました。釣りをすると言っても釣堀なので魚はすぐにかかってくれるのですが、引き上げるともなると細い竿を持ち上げねばならないので見た目ほど楽ではあらず、それが故に私はある悲劇を起こしてしまったのです。

 釣り糸を垂れて数分後、早速私の竿に魚が引っかかってくれたので私は釣り上げようと竿を持ち上げたのですが、情けないことに小学六年生の私の腕ではまっすぐ持ち上げる事が出来ず、魚が水面から飛び出して重量が竿にかかるや体勢がふらつき、私は持っていた竿を支え切ることが出来ず横に流すようにそれを振ってしまったのです。自分でも内心しまったと思ったのですが釣針に刺さった魚は離れず、そのままぐいーっと竿が右に流れていく方向に、何故かうちの姉が立っていたのは運命だったのかもしれません。

 私と同じく釣堀で釣りをしていた姉の目からすると、まさに空中を泳ぐように魚が迫ってきた様に見えたでしょう。しかもちょうどいい具合に姉の顔面くらいの位置に魚を持ち上げていたので、姉は咄嗟に顔を背けたものの体長20cmくらいの魚は姉のほっぺたにモロに直撃しました。しかも一回跳ねて魚が姉から離れればよかったのですが、運の悪いというか私が釣り糸で中途半端に魚を持ち上げていたからか、姉のほほを思い切りそのヒレで叩いた魚は釣堀に戻ることなくそのままの位置で跳ね続けて、ちょうど姉の首から鎖骨の辺りでビチビチと踊るように魚は跳ね返り続けました。

 姉の泣きそうな悲鳴をよそ目に、あまりの事態に私は竿を持ったまま呆然と立ち尽くして見ていました。その横では親父も笑ってるし。
 時間にして実に一分間以上、釣られたまま姉をしこたま叩き続けた魚はようやく針が抜けて再び釣堀に落ちることでこの悲劇は幕を閉じました。それにしても魚が落ちてからようやく気がついたのですが、姉に魚がぶつかった時点で私が竿を左に戻しとけばああも長く姉は魚に叩かれ続ける事はなかったことでしょう。

 今思うと、仮にあの位置に姉ではなく赤の他人が立っていたらえらい事になっていたでしょう。それと共に、実にいい位置に姉貴は立ってたなぁという気がします。ビデオに撮っとけば絶対投稿番組で採用されるような映像になっていただろうし。もちろんこの後、首の辺りにうろこをつけて戻ってきた姉に私はこっぴどく叱られましたが、未だにあの時の情景を思い出しては噴出してしまいます。
 はっきり言って我々はあまり仲のよくない姉弟でしたが、この件に関しては本当にいい思い出だったと胸を張って言えます。姉からすると嫌な思い出以外の何者でもないだろうが。

2010年9月28日火曜日

日本は外国人に死刑を行えるか

 どうでもいいですが今、以前に放映していた「ガンダムSEED」というアニメ番組の主題歌を聴いて懐かしんでいますが、この番組を見てた頃の私はボブ・サップにボコボコにされたアケボノの如く打ちひしがれていた時期だっただけにいろいろと胸に去来する物があります。これに限るわけじゃないですが、やっぱり辛い時に聴いていた音楽は良し悪しに関わらず後年も飽きずに聞き続けるものです。

 そういった前置きは置いといて、前回「社会的報復としての死刑の価値」の記事にて外国人犯罪者に対しても死刑は適用されるのかどうかという質問コメントを受けました。私自身も全く見落としていた問題ですが非常に重要な課題なので、本日一つの記事にしてまた私の考えを紹介しようと思います。

 まずこの問題に対して私が言えることは、死刑が下りてもおかしくない外国人による猟奇事件はそう遠くない未来の内に起こっておかしくないということです。ただでさえ人的移動が激しくなっているこの世の中、日本人ですらこのところ通り魔事件を起こす者が増えているのですから今後外国人が起こす事も十分にありえますし、実際にはもう起こっているかもしれません。そしてその際、日本は事件を起こした外国人犯罪者に対して果たして日本人同様に死刑判決を下せるかどうか、やや気が早いという気もしますが起こってから議論してはいろいろと問題なので、そういう意味ではこの課題は今のうちに議論を深めておくべきものかもしれません。

 これまでの記事でも私は何度か死刑を取り上げてきましたが、それらはあくまで日本人に適用すると仮定したものであって外国人に適用するという事は全く論外で話を進めてきております。というのも外国人への死刑適用ともなるとただでさえ西欧諸国や人権派団体などから日本は死刑が未だにあると叩かれているだけに、幕末の生麦事件じゃないですが外交問題に発展する事は必定です。
 実際にお隣の死刑大国中国では去年、中国法で死刑とはっきりと定められている麻薬密売を行っていたとされるイギリス人男性に死刑を執行した際にイギリスから激しい抗議を受け、すわ第三次アヘン戦争に発展するかと思うくらいに外交問題化しました。まぁもちろん戦争にはならなかったけど

 ちなみに中国は今年四月に同じく麻薬密売に関わっていたとして日本人男性数名に対しても死刑を執行しております。この死刑執行前に中国は日本側に事前連絡をした上、受刑者の家族に対して面会を許可するなど一定の配慮を見せましたが、当時の福島瑞穂消費者行政担当相はイギリス同様に執行中止をしてほしいと発言しました。福島氏の場合は政治的スタンスから発言しなきゃ党内支持が落ちるからしたのであって私はあまり気にしませんでしたが、一般世論はどんなものかと報道をチェックしていた限りでは日本人はそれほどこの死刑執行に対して特別な感情を持たなかったような気がします。
 報道によると死刑が執行された日本人男性らは皆日本の暴力団関係者でもあり、なおかつ所有していた麻薬の量も半端な量でなかったことからどちらかといえば冷淡というか、死刑になっても仕方ないのではという意見が多かった気がします。

 と、中国は現在も議論紛糾している日本との漁船衝突事件でも全く譲らず外交問題が何だってんだとばかりに外国人に対しても死刑を執行していますが、これが日本の場合だとどうなるかという事かです。結論を言えば、日本はあまり外交で揉めたがらないので外国人がいくら猟奇殺人事件を起こしたところで、国民から反発が起ころうとも死刑判決を下す事はないと思います。司法権の独立も始めからないし。

 ただ例外というか気になるケースが一つありまして、先に言ってしまうと「東電OL殺人事件」における容疑者の取り扱い方を見ていると、波風の立たない国の外国人に対してはありうるのではないかと見ております。この事件についてはもう大分古いですが佐野眞一氏の著作「東電OL殺人事件」を詳しく読んでもらうのが早いのですが、一体何が問題なのかというと犯人とされた容疑者がネパール人だったことで冤罪の線が極めて強く、事実一身では証拠不十分で無罪判決が下りております。

 通常、一審で無罪判決が下りた容疑者はたとえその後に検察から控訴されたとしても拘置所から身柄を解放されることになっているのですが、「拘置所から出したら国外逃亡する恐れがある」として、このネパール人容疑者はその後も身柄を拘束され続けました。恐らくこのような処置が行われたのは未だかつて彼だけでしょう。
 仮にこの容疑者が中国やアメリカといった強国、というよりかはうるさい国の人間であれば、母国から激しい非難を受けておいそれとこのような法を曲げるような身柄の拘束は行えなかったでしょう。彼が無罪判決を受けたにもかかわらずその後も身柄を拘束され続けたのは、ただ単に彼がネパールという発言力の弱い国出身であったことに限ります。

 この時の例を考えると、強国出身の外国人はいくら猟奇事件を起こしてもせいぜい懲役刑止まりでしょうが、弱小国出身の外国人に対しては日本は死刑を執行する可能性があるんじゃないかと私は思います。もちろんこんなのは最低な差別で、外国人犯罪者に対して死刑をやるならやる、やらないならやらないとはっきりと分けておく方がいいと思います。

 最後に仮に本当に外国人犯罪者が猟奇殺人事件を起こしたらどうするべきかというのであれば、今時治外法権じゃないのだから私は他の日本人と同様に裁くべきだと考えております。ただその前に正当な裁判をきちんと踏んであるという証拠を作るために、取調べの可視化と録画、並びにきちんとした裁判翻訳員の整備をしておくべきだと思います。外国人犯罪者に限る事ではないが。

2010年9月26日日曜日

マリー・アントワネットについて

 出張所のほうでリクエストがあったので、フランス革命で処刑されたマリー・アントワネットについて自分なりに軽くまとめてみようと思います。

 あまり歴史に興味がない人でもこのマリー・アントワネットについては「ベルサイユの薔薇」(うちのお袋は「ベルサイユのババア」と呼んでいた)などの影響で知っている方も多いことでしょうが、簡単な出自を説明するとこの人は今もゲルマン人女性の鏡と呼ばれるマリア・テレジアの末娘で、ハプスブルグ家とブルボン家の歴史的和解のために14歳でフランスのルイ16世に嫁いでその後フランス革命にて処刑された女性です。流転といえばまさにその通りと呼べるほどの上がり下がりの激しい人生で、それゆえに後世の批評家からは評価が大きく分かれて現代においても未だ定まっていないという有様です。

 さてそんなマリー・アントワネットですが、先にも触れたとおりに14歳で故国オーストリアから国も言葉も文化も違うフランス王宮へと嫁いでおります。心理学の研究だと大体14歳か15歳くらいまでであれば移住先の国にすんなり馴染む確率が高いとされていますが、果たしてアントワネットがフランスに定着することが出来たかとなるとやっぱり当初はいろいろと気苦労が多かったようです。
 まず私が話を聞いてて呆れてくるのは当時のフランス王宮の文化で、なんでも「王族はその私生活を広く公開すべし」という妙な概念がまかり通っていたらしく、なんとアントワネットはルイ16世との新婚初夜を他のフランス貴族からの衆人環視の元で行わなければならなかったそうです。14歳の身空でいきなりこんなことされるだけでも十分トラウマ物ですが、それ以外にも朝食のテーブルマナーから何から何までゴシップ好きの貴族たちに見られ続けていたそうです。

 その上当時のフランス社交界における女の争いも激しく、この辺は割愛しますが対立していたグループの抗争に巻き込まれて本人にその気はないのにいつの間にか片方のグループの頭目扱いされてしまうなど、普通の主婦なら卒倒せんばかりの荒波にもまれる事となります。
 そのストレスの反動からかアントワネットはフランスに来た当初、賭け事にはまっていたらしく実母のマリア・テレジアからその事を諌める手紙もまだ現存しています。このほか夜な夜な仮面舞踏会といって皆で仮面かぶって身分を隠して踊る舞踏会(声とか背格好でわかりそうなもんだが)に出没し、そこで気のあったスウェーデン貴族のフェルセンと知り合い後に愛人関係とまでなったと言われております。なおこのフェルセンとの出会いの際にはアントワネット自ら仮面を取って素顔を出したといわれ、この行為は「礼儀知らず」とか「革新的だ」などと評価が分かれたそうです。こういうところで言い合いをするあたりフランス人はよくわからない。

 そんなこんだで慣れない外国生活でいろいろと騒動を引き起こしていたアントワネットですが、もはや彼女の座右の銘とまでされている「パンがなければお菓子をお食べ」というセリフについてはこれは彼女の発言ではないと現在ではほぼ否定されております。このセリフは日々の生活すらままならない庶民の生活を省みず浪費を行っていたお馬鹿なアントワネットを表す言葉として伝えられていますが彼女がこのような発言を行ったという記録は全くと言っていいほどなく、また普通に考えてもルイ16世にならばともかく王妃に対して庶民の窮状を報告するというシチュエーション自体が不自然です。

 その上、確かに当時のフランスの国家財政は破綻していてアントワネットがファッションに力を入れて浪費していたというのは事実ですが王室の経費なんて所詮はたかが知れた程度で、当時のフランス財政が破綻した直接の原因は先代のルイ15世がでかい建物を次々と建築しては戦費のかかる戦争を次々と起こしていたことが真の理由であるため、上記の発言はアントワネットを貶めるために後世に作られたものだろうとされています。

 ただ当時のフランス人のアントワネットへの憎悪はやはり激しかったらしく、目の敵にし易い外国出身でもあり「首飾り事件」という妙な事件もあり、ルイ16世を贔屓目に「悪い人ではなかった」とするために半ばスケープゴート的に悪役とされた節があります。

 それが最後に爆発したとされるのがフランス革命であり、彼女への処刑でした。フランス革命が起きた当初は国王一家はまだ国民から強い支持があって軟禁される以上は何も追求されずにいましたが、王権奪回を図ってアントワネットの故国オーストリアへ先のフェルセンの助けを借りて逃亡しようとして失敗した「ヴァレンヌ逃亡事件」によって一挙にこの流れが変わることになり、国王一家は明確に国民から国家を裏切ったと言われ、特にアントワネットに対しては「国王を惑わした」、「オーストリアにフランスの情報を漏らしている」とも言われました。まぁあながち間違ってないけど。

 こうした国民の声を受けて、国王支持者はそれでも多かったとされますが階級廃止を強く訴えていたジャコバン派のロベスピエールによってルイ16世は断頭台へ送られます。その後アントワネットの処遇については議論が行われ、道義的には処刑したいものの仮に処刑すれば隣国オーストリアと全面戦争になるとして慎重論も出ていたようですが、最終的には革命裁判で死刑判決を受け、夫同様に断頭台へ送られる事となりました。
 その後、オーストリアとフランスの戦争は案の定激化し、一時オーストリアがフランスに侵入することになりましたがそれを撃退して講和条約まで持っていったのがナポレオン・ボナパルトという、次にフランスで主役となる男でした。

 結論を言えば、アントワネットは確かに一女性としてやや問題な部分を持っていましたがそれは平時であれば特段問題となるほどではなく、厄介な時期にフランス王室に嫁いでしまったがためにその名前を後世に大きく残してしまった運の悪い女性だったと私は評価しています。ただ全部が全部同情するわけでなく、「ヴァレンヌ逃亡事件」については彼女とフェルセンの主導で実行された事を考えると如何なものかと思う節があり、この事件があったかどうかでブルボン家の存亡が変わったであろう事を思うと批判を受ける事となっても仕方のない気がします。

 なおこの時代にルイ16世、マリー・アントワネット、果てにはこの二人を断頭台へ送ったロベスピエールをも直接断頭台にかけたのは、以前にも私が紹介したシャルル=アンリ・サンソンという人物です。この時代のフランスの人物はやはり面白い人が多く、このほかにも風呂入っている最中に刺されたということで日本の高校生から「おいおい」と突っ込まれたであろうジャン=ポール・マラーを刺した張本人であるシャルロット・コルデーなど、評伝書いてて中々飽きない時代です。
 個人的にもっと知名度があっていいと思うのはちょっと時代が下がるけど、ジョセフ・フーシェだけど。

2010年9月24日金曜日

尖閣諸島沖衝突中国漁船船長解放、及び中国の対抗措置について

 今日友人からフジタの社員が拘束されたニュースについて早速メールがあったので、恐らく期待されているかと思うのでこの件と合わせて今日立て続けに起こった尖閣諸島沖で衝突事故を起こした中国漁船の船長解放などと合わせて私の見方を紹介しようと思います。まず結論から言うと、やはり今回中国はなりふりかまわない行動を取ってきたなと私も感じました。

 本日早朝、中国河北省の石家庄市で日本の建設会社フジタの社員四名が中国の軍事施設の無断撮影(もしくは立ち入り)を行ったとして拘束され、取調べを受けているとの情報が突然入ってきました。またこのニュースとほぼ同時に日本の各商社から一斉に中国がレアアース資源の輸出に制限をかけて困っているという連絡が経済産業省に寄せられているということがメディアを通して報道されました。
 どちらのニュースも先日の中国漁船衝突事故で船長を拘束した日本への対抗措置ではないかと報道され、わりと距離を離して報道するNHKですらもはっきりと先の事件の影響ではないかと言及しました。

 まず前者の日本社員拘束の事件については、私はさほど特別な感傷を持ちませんでした。というのも中国で軍の基地に立ち入ったとかカメラのレンズを向けたとかで外国人が捕まるのは割とよくあることで、私も留学した当初にもわざわざ中国公安の人間が大学にやってきて、新規留学生を講堂に集めると決して軍の基地などに迂闊に立ち入らない事などを長々と説明していました。
 そのため今回の事件についてもそういった中のよくある事件の一つで、確かに時期が時期なだけに中国の人質報復ではないかと見ることも出来ますが売り言葉に買い言葉とも言いますし、ここは日本人は中国人みたいに熱くならずに冷静さを保つ事が大事ではあるがそうも行かないだろうという具合に見ていました。

 なお今回出てきたフジタという会社は旧日本軍が中国本土に遺棄した化学兵器の処理施設設置事業を行っており、今回石家庄市に社員らが訪れていたのも軍関係の拠点が数多い事から今後の受注を見込んでの視察目的だったらしく、内閣府や中国当局には特に申し出ずに行っていたようなので現時点でははっきりいえませんが偶発的に捕まってしまった可能性があります。
 ただそれにしても日本側に現在の捜査状況やフジタ側に何の通告も行わないというのはやはり異例で、偶発半分報復半分のような事件ではないかと私は見ています。

 それに対して先程のレアアースの輸出停止は間違いなく中国政府の確信犯的行動と私は断言できます。基本的に中国の石油や鉄、石炭といった資源会社はどこも国営みたいなもので中国政府の意向が強く反映されます。それゆえに中国の日本向けレアアース輸出が通関で一斉に止まるという事は中国政府の意向なしにはまず行えないことで、これほどまでに極端な行動は仮に中国が報復のつもりではないといった所で信じる日本人はまずいないでしょう。

 こんな予告なしの貿易取引停止は常識はずれもいいところで、訴えようによってはWTOから勧告や制裁を受けてもおかしくないほどの行動です。こう言ってはなんですが、領土問題が絡んでいるからといってたかだか漁船衝突事故一件のためにこれほどまで極端な行動を取ったというのは実に勿体無いというか、問題を無駄に大きくさせている気がしてなりません。

 こういった中国の行動が効を奏したというか、今晩事故を起こした船長を拘留している那覇地検は船長の解放を発表しました。この那覇地検、といっても実際は政府の意向による解放については私は支持をします。
 私が今回の解放を支持する理由としては単純に割に合わないからで、領土問題についてはオバマ大統領より「尖閣諸島は安保保障の範囲内」との発言を得た上でこれ以上お互い粘っても平行線であることから一区切りを得ており、レアアースを多く消費する日本の現況を見ると意地張って船長一人拘留するよりかは実利を得るべきだという判断からです。
 なお自民党の谷垣総裁や安倍氏などは今回の船長解放について政府を強く批判しているようですが、私はそういう自民党もかつて金正男氏と見られる男性を長く拘留せずに国外退去としていますし、領土問題にも悪影響が出ると連中は言ってますが近年の日中国境線問題で一番悪影響を作ったの福田政権での春暁ガス田共同開発合意だと私は見ているので、ちょっとこの批判のやりかたは虫が良過ぎるかと思います。

 今回の漁船衝突に始まる一連の外交は間違いなく中国の勝利と言えるでしょうが、その小さな勝利の代償として中国が支払うべきコストは後から重くのしかかってくることになると私は予想します。現在中国は米国から執拗に人民元の切り上げを行うよう要求されていますが、恐らく今後日本政府も米国と協調して切り上げ要求を強めることになる可能性があり、また単純に日本人の中国への感情もすこぶる悪くさせてしまいました。ついでに書くと、SMAPの公演を楽しみにしていた中国ファンもがっかりさせただろうな。

 ちなみに自分は来月から一ヶ月ほど上海に滞在する予定なので、今回の事件で周囲から「花園君は大丈夫?(´・д・`)」という具合でえらく心配されっぱなしで逆に困ってます。まぁ捕まったら捕まったでブログでネタになるから、死なない程度であれば少しはおいしいかな。

2010年9月23日木曜日

フィリップ四世(仏)について

 いきなりですが、昨日も更新を休んだにもかかわらず今日も何故か記事を書こうという気力が薄いです。書きたい内容はいくつかもう持っているのですが、前回前々回と割と重たい内容を一気に書き上げたので少し消化不良気味なのかもしれません。
 なので今日はまた少し息抜きがてらに歴史の話でも書いてみようと思います。いつも日本史や中国史ばかりなのでたまには西欧史で面白い人はいないかなと思索すると、ちょうどいい具合にこの前軽く調べた人物ことフランス王フィリップ四世が浮かんできたので浅薄な知識ですが紹介します。

 このフィリップ四世という人物は高校の世界史を履修すれば必ず勉強する必要のある人物なのですが、私が彼の業績を教科書で読んだ時に思った感想はというと、「なんて悪人なんだろう」という印象以外ありませんでした。もう初対面からして最悪ですね。
 そんなフィリップ四世が生きていた時代は日本で言うと鎌倉時代後期に当たる13世紀後半から14世紀前半です。彼は生まれつきかっこいい容姿をしていたことから「端麗王」と呼ばれていたそうで、イギリスに続き十字軍後の西欧世界でフランスで絶対王政を確立させます。

 そんなフィリップ四世が歴史に名を残す事となったのは、なんとそれまで西欧世界を支配していたローマ教皇を捕縛しようとした「アナーニ事件」からです。フィリップ四世はイギリスとの結びつきが強かったフランドル地方を制圧するために何度も戦争を起こしていたのですが、その戦費調達のためにそれまで絶対不可侵であった教会の持つ財産にも課税しようとしました。しかしこれに対して時の教皇ボニファティウス八世がその徴税に待ったをかけたところ、元々十字軍の失敗によって教皇権が失墜し国王の力が増していたのもありますが、なんとフィリップ四世は実力行使とばかりにイタリアに軍隊を派遣して教皇を誘拐しようとしたのでした。ボニファティウス八世は支援者の助けもあってなんとかフィリップ四世の軍隊から逃げ切る事が出来たものの、いきなり襲い掛かられたショックと高齢からかこの事件のわずか三週間後に死亡してしまいます。

 この教皇の死後、フィリップ四世はローマ教皇庁を南フランスのアヴィニヨンに移すと実質的に教皇庁を支配し、その後しばらくはフランスの意のかかったフランス人教皇が続くなどしてフランス王の下に教皇は置かれました。この期間は約70年続き、この間の事を「教皇のアヴィニヨン捕囚」と呼ばれております。
 このアヴィニヨン捕囚は1377年に教皇となったグレゴリウス十一世がローマに戻った事で終わりを告げるのですが、そしたら今度はまたフランスの肝煎りでグレゴリウス十一世に対抗する形でアヴィニヨンにクレメンス7世という教皇が立てられ、ちょうど日本の南北朝時代のように同じ時代に二人の教皇が並存するという「教会大分裂」の時代に突入します。

 このように西欧世界で大きな影響力を持ったキリスト教会をとことん混乱させる原因を作ったフィリップ四世なのですが、これだけでも随分とはた迷惑な奴だったなぁと思っていたらよくよく調べてみると、もうひとつキリスト教関係で大きな事件を起こしていました。

 先にも述べた通りにフィリップ四世は戦争ばかりして常に戦費調達のため金策に走っていましたが、そんな彼が目をつけたものの一つに「ダヴィンチ・コード」で一気に有名となった「テンプル騎士団」もありました。
 このテンプル騎士団というのは第一回十字軍後に聖地エルサレムへの巡礼者を保護するという目的のために作られた、いわば志願型の武装自警団のような組織でした。ただこのテンプル騎士団に入団するためにはその残りの人生をすべて信仰に捧ぐ証を立てるために所有する財産をすべて騎士団に寄付しなければならなかったとされ、そうして集まった財産を元手に騎士団は徐々に金融取引も行うようになっていったそうです。

 ちょっとこの辺は自分もあまり詳しくはないのですが、エルサレムという遠隔地に赴く巡礼者たちの旅先での送金、果てにはイスラム世界との通商などを手がけていたらしく、テンプル騎士団はフィリップ四世の時代には莫大な資産を保有していたとされます。
 そのためにこの騎士団はフィリップ四世に目を付けられる事となり、厚生労働省の村木さんの事件じゃありませんが、騎士団は無理矢理に罪を被せられた挙句に異端審問にかけられて幹部らは皆処刑され、騎士団も解散されることになりました。そしてそれまで騎士団が保有していた資産はまるまんまフィリップ四世が着服したとのことです。

 確かこの時の審問でかけられた容疑の一つに悪魔であるバフォメットを陰で信仰していたという話を聞いたことがあるのですがとにもかくにも強引な裁判であったのは間違いなく、元々テンプル騎士団は入団の際に秘密儀式を行うなど神秘性を秘めていた事から先程の「ダヴィンチ・コード」のように聖杯を所有していてそれが目当てで狙われていたのではないかという説などいろいろ溢れております。
 ちなみにテンプル騎士団と同時期に結成された「聖ヨハネ騎士団」は未だに存続しており、国連にも参加しているそうです。

 という具合にもう悪い事ばかりやっていたという悪代官みたいな印象しか覚えられないフィリップ四世ですが、その死の際にフィリップ四世を呪ったとされるテンプル騎士団最後の総長であったジャック・ド・モレーの力か聖杯の力か、テンプル騎士団解散のその年に彼も同じく死去しております。さらに彼の子らも跡継ぎを残す間もなく次々と死んで行き、後継者争いがもつれたことからイギリスの介入を招いて後の百年戦争につながる事になります。

 歴史というのは因果なもので、百年や二百年後に思わぬ形で報いが返ってくることがあります。日本だと関ヶ原の戦いと幕末の構図が代表的ですが、このフィリップ四世とその後のフランスの歴史はまさに神がそうさせたとすら感じさせられる内容です。
 やる気でないとか言っておきながら、20分でここまで書き上げられてしまった。やっぱ歴史が好きなんだなぁ、私って。

2010年9月21日火曜日

厚労相郵便不正事件、捜査検事逮捕について

 私は現在通勤時間が約二時間の職場に通っているため毎朝大体6:50くらいに家を出るのですが、毎日家を出る前にうちのポストに刺さっている朝日親新聞朝刊の見出しを刺さったままの状態でかがみこんで見るのが習慣となっています。うちが朝日新聞を取っているのはお袋が朝日の新聞屋で集金のパートをしているからなのですがそれは置いといて、今朝また怪しい格好で覗き込んだ一面見出しを見て私は思わず息を呑みました。

最高検、主任検事を証拠隠滅容疑で逮捕 郵便不正事件(朝日新聞)

 私も先日に「偽障害者団体郵便不正事件、村木厚子元局長の無罪判決について」の記事にて取り上げた郵便不正事件の捜査において、この事件を主導して捜査した大阪地検特捜部所属の前田恒彦検事が重要な証拠の改ざんを行った容疑でつい先程逮捕されました。

 まさに電光石火とはこういうことで、この前田容疑者逮捕へ至る発端は今朝の朝日新聞による「検事、押収資料改ざんか」という見出しの記事からで、報道が行われた今日の今日に前田容疑者は同じ身内の最高検察庁により逮捕されることになりました。因みに今朝通勤途中で読売など他紙の一面を確認しましたがこの朝日の報道はどこも触れておらず、事実上朝日新聞一社独占のスクープだったのでしょう。

 今回前田容疑者が逮捕された容疑をかいつまんで説明すると、この事件において検察により関与が疑われたために不当に逮捕され、すでに無罪判決を受けている村木厚子氏の無実を証明するに当たり重要な証拠となるフロッピーディスク内のデータの日付を自分達の都合のいいように改ざん、言い換えるなら村木氏を冤罪に陥れるために改ざんしたという、まさに前代未聞ともいえる容疑からでした。

 具体的にどのような改ざんが行われたかというと、村木氏の元部下の上村被告が偽障害者団体へ発行した偽造証明書の作成日を2004年の6/1から6/8へ改ざんしたと報道されております。この改ざんがどのような意味を持つのかというと検察は今回の捜査、裁判において村木氏は上村被告に対して六月上旬に証明書を偽造するよう指示したと主張して事件を組み立てていましたが、実際の偽造証明書は6/1に作成されているため、これでは村木氏が偽造を指示したとされるのは5/31以前でなければ不可能ということなり事実上検察の見立ては崩れてしまいます。
 ですがその作成日が6/8であればさきほどの六月上旬という検察、というよりは前田容疑者のストーリーに矛盾がなくなり、いわば事実を無理矢理に捻じ曲げて都合のいい証拠を作成しようと改ざんしたと見られております。

 結局この日付が改ざんされたデータの入っているフロッピーディスクは公判前に村木氏が日付の矛盾に気がつき指摘した事で検察も裁判中に証拠として使用せず、逆に弁護側が元の日付と検察のストーリーの矛盾を攻め立てた事で村木氏の無罪獲得への重要な証拠となったわけですが、仮にもし誰もこの日付の矛盾に気がつかず、検察が改ざんした日付のデータを証拠にして有罪が下されていればと思うと私も寒気を覚えずにはいられません。
 この改ざんについて当の前田容疑者は「遊んでいるうちに間違って変えてしまった」と同僚らに語っていたと報じられていますが、そもそも捜査に重要な証拠を私的に使用するなんて本来あってはならない話で、仮にそれが事実だとしても何故今の今まで自己申告しなかったのかと子供がつくような嘘も大概にしろと厳しく言いたいものです。

 またこの改ざんについても朝日新聞がその問題のデータ(どうやって手に入れたかまでは書いてないが)を大手情報セキュリティ会社に解析を依頼した事で改ざんの有無と改ざんが行われた日付を割り出したことで明らかになりましたが、これも朝日が報じていなければどうなっていたのか気になります。
 さすがに朝日新聞が報道したのを受けて検察もこの改ざんの事実を初めて知って今日の今日にすぐ前田容疑者を逮捕したというのは考えられず、恐らくは内々でこの問題の対応や処分が検討されている中で今朝の朝日新聞の報道があり、世間の批判を受ける前に慌てて前田容疑者を今夜逮捕するに至ったのではないかと思います。これは逆に言えば、世間に大きく報道されなければ大阪地検は前田容疑者を捜査担当から外す程度の内々の処分で済ましていたのではないかとも疑えるわけです。

 どちらにしろ今回のこの前田容疑者の行動は捜査機関の職員としてはあるまじき行為だけでなく、無実の人間に偽の証拠を偽造してまでも冤罪に陥れようという一人間としても最低極まりない畜生に等しい行為に他なりません。聞く所によるとこの前田容疑者はたまたま今日収監された守屋元防衛庁事務次官の収賄事件や小沢氏の資金管理団体の事件などいろんな事件の捜査に携わったとされており、言っちゃなんですがこれら前田容疑者が関わった事件は証拠が偽造されてないかすべて洗いなおす必要があるのではないかと思います。

 その上でノンフィクション作家の吉岡忍氏がNHKのインタビューで指摘していましたが、この検察内の不祥事を同じ身内の検察が逮捕、捜査してもいいのかという気もします。吉岡氏も当の本人でもある村木氏もこの前田容疑者の最低極まりない行為は第三者機関を交えて公平に調べる必要があると述べており、検察は外部の有識者団体を入れなければまず間違いなく失った信頼を取り戻す事は出来ないでしょう。

 私が検察に対して初めて不信感を覚えたのは2005年に発刊された佐藤優氏の「国家の罠」を読んでのが最初で、その後映画の「それでもボクはやっていない」を見てますます不信間に磨きがかかり、この村木氏の事件が取りざたされたのを見た際には初めからこの事件はおかしいと感じるようになっていました。その後足利事件で冤罪にあった菅谷さんの例もあり、誰がどう見ても真っ黒な小沢氏があんなふざけた供述をしているにもかかわらず起訴されないことに恐らく私以外にもたくさんの方が検察に対して恒常的に信頼しなくなってきているかと思います。

 そういう目で見ると、今回の前田容疑者の事件は偶発的に起こったという感覚よりやっぱりそういう検察って組織だったんだなと私は思わざるを得ません。相撲界もそうでしたが、この事件をきっかけにどれだけ血を流すかで検察組織は信頼回復以前にその存在理由が問われる事となるでしょう。

2010年9月20日月曜日

中国漁船、尖閣諸島沖衝突事件についての感想

 すでに各所で報じられている真っ最中なのでニュース記事のリンクは貼りませんが、先日、中国籍の漁船が日中双方で領有権を主張しあっている尖閣諸島沖で海上保安庁の巡視船に衝突したことにより日本側が領海侵犯の容疑で中国人船長を拘束し、かつての小泉政権時代が思い出されるかのように日中双方で関係者を批判しあうという具合にまた日中関係が荒れてきました。今回のこの一件の私の感想はというと、中国側が少し情勢を読み違えて内心焦っているのではないかと考えています。

 日本側の発表によると今回の衝突は中国側がわざと海上保安庁の船にぶつかってきたとしておりますが中国側はこの事故は偶発的な衝突としており、さすがに現場を見ていないので本当かどうかまでは私では判断しかねますが、中国側がわざとぶつけてくるのは内心ありそうだなという気はします。その上で中国側はそもそも衝突が起きたのは中国の領海内で日本側が船長を拘束する権限はないと主張し、船長の拘束は不当な行為であると批判して民間の伊藤忠商事会長から起用された丹羽宇一郎中国大使を呼びつけてまで抗議を行いました。
 注目すべきはその丹羽大使を呼びつけた時間帯で、なんと中国側は深夜零時に急に呼びつけたそうです。さすがに9.11テロのような大事件が起きた場合ならともかく、衝突事故一件でこのような行為に出るのは国際常識から外れていると言わざるを得ないでしょう。にしても就任早々、丹羽大使も面倒ごとに巻き込まれたもんだ。

 今回のこの中国側の強硬な主張、またもし漁船衝突が中国政府の意図が込められたものであれば本当の目的は間違いなく尖閣諸島の領有権争いを有利に進めようという魂胆からでしょう。私も「あの中国人、日本語上手だね」とリアルに言われたことがあるもののいちおうは日本人であるので、領土問題の専門家ではないものの尖閣諸島はやはり日本の領土だと考えており、こうした中国側の主張や行動にはあまり合点が行きません。また百歩譲って中国側の主張に幾らか正当性が感じられたとしても、先ほどの丹羽大使の呼びつけといい抗議の仕方といい、やはり今回の中国側の態度は過剰だという気がします。
 まぁそういいながらも、中国側がこのような態度に出ざるを得ないってのも分かってはいるのですが。

 ここから私の妄想というか多少加工した情報になりますが、私は今回の一見は最初にも書いたように中国側が情勢を読み違えたために意図に反して大事になってしまったと見ております。
 私以外の評論家らも述べていますが中国という国において民間の漁船が偶然にきわどい海域に入って事故を起こすという事は殆んど考えられず、恐らく衝突した漁船は政府や軍と何かしらつながりがあると見て間違いなく、衝突事故それ自体が明確な意図を持って行われたものでしょう。

 では何故中国側が衝突事故をわざと起こしたのかというとそれはやはり尖閣諸島を巡る領土問題でアドバンテージを握ろうという目的からでしょうが、今回の件で一番注目するべきなのは事故の中身より事故の起きた時期でしょう。というのもこの事故が起きたのは民主党の代表選挙の真っ最中で、総理が変わるかもしれないという政治的空白につけ込んでジャブでも喰らわそうという軽い気持ちだったのかもしれません。

 そんな中国側の最初の予測ミスは、これはなかなかに私も驚いたのですが官房長官である仙石氏が事故に対して強硬な態度を示した事です。私自身、菅直人政権は突然韓国に対して併合時代の圧政を謝罪するなど親亜的な態度をよく見せていたのでこの事故が起きた際は何が何でも早期幕引きを図ろうとするだろうと考えていたのですが、意外や意外に仙石氏は会見で抗議を行う中国に対して逆抗議を行い、船長の解放要求も突っぱねるなど強硬な態度を示しました。

 こうした菅政権からの思わぬ反撃に加えもう一つの中国側の予測ミスは、これは私の考え過ぎなのかもしれませんが、もしかしたら中国側は本気で小沢氏が民主党の代表選挙に勝つと信じていたのかもしれません。もし代表選で小沢氏が勝利していれば総理交代という事で次の国会まで事実上の政治的空白が生まれますし、その上小沢氏はかねてから中国に異常なまでにおもねっており、言い方は悪いですが中国側からすると言うことを聞く奴が総理に就任してラッキーってことになりますが、生憎そうは上手くは運びませんでした。人生と一緒だね。

 そんな中国側にとって更にマズイ事態になったというべきか、代表選を経た菅氏は内閣改造を行って外務大臣には恐らく日本一の中国脅威論者の前原誠二氏が就任する事が先日発表されました。
 かつて日中関係を底冷えさせた小泉元総理は明確な信条を持っていたわけでなく、ただ単に支持者を囲い込むという目的だけで靖国神社に参拝していましたが、今度外務大臣となる前原氏は安全保障などの強い政治信条の元で中国に対して並々ならぬ警戒心を持っております。案の定この衝突時件については早速、「そもそも日中の間に領土問題は存在しない」とパーフェクトな発言をしており、中国側にとって一番厄介な相手が立ってきたと言っていいでしょう。

 さらにさらに中国が目下困ってしまっているのが、愛国心に火のついた中国国民です。ここら辺は中国関係の専門家なら話は早いのですが、中国政府、もとい中国共産党にとって最大の脅威は同じ国内の中国人による反乱です。滅多に抗議活動を行わない日本人と比べて中国人はもともと熱くなりやすくてすぐに行動も移す人たちばかりなもんだから、中国政府が今回の事件の対応、並びに領土問題で下手な妥協でもすれば、「政府はなにをやっているんだ!」とすぐに国内から強い反発を受けてしまいますし、すでにもうそういう政府批判が始まりかけていると聞いております。
 そういった国内の世論を押さえ込むという背景があるために中国側は今回の事件でやや過剰とも取れる強硬な態度を取らざるを得ないのですが、はっきり言えばそれだけに日本側はこの事件に対して妥協したところで得るものもないのですから強気でいればいるほど中国側が困らせることができ、まぁ有利な状況ではないかと思います。

 現在中国側は日中閣僚級会談の中止を宣言し、更にSMAPの上海講演もどうなるのかまで取りざたされておりますが、この事件が何処まで発展するかは分かりませんが長引けば長引くほど中国側が損するだけだと私は見ています。企業などの経済交流に影響が出るのではと心配される方もいるかもしれませんが、小泉政権のあの時代でも一貫して経済交流は加速し続けたのですから、せいぜいあるといっても本当に一部の観光客が来なくなる程度でしょう。どのような幕引きとなるかまでは分かりませんが、まぁそれほど心配するほどの事件ではないというのが私の結論です。

2010年9月19日日曜日

昨日の一日

 昨日は休日にもかかわらずブログの更新をサボってしまいました。ほぼ毎日更新がなされているこのブログでお休みを取るまで一体何をしていたのかというと、ただ単に一日中プラモを作っていて日が暮れたのがその理由です。
 ツイッターでも少し書いていますが昨日作っていたのは99年バージョンのインプレッサのプラモだったのですが、これまで主に作ってきたフジミ模型のプラモと違ってプラモ界の王者タミヤ製なだけあり内装に至るまでこれほどこだわる必要あるのかというくらい細かく作られており、更にデカールこと水性シールの量も半端でないために非常に時間が取られました。組み立てよりシールの貼り付けのが時間掛かったし。

 そんな苦労もあってどうにかこうにか完成には漕ぎ着けましたが、出来は相変わらず私自身の腕が未熟という事もあって雑なものですが、部屋に置いとく分にはなかなか見栄えがいい代物は出来ました。一台をちょこっと置いとく位がいい感じです。

 ちなみに私の部屋のインテリアについてはかねてから良くも悪くも定評があり、これまで置いて来た代物でいろいろと突っ込みの多かったものをいくつか挙げると、まず第一に挙がってくるのは名古屋万博のマスコットキャラクターだったモリゾーのぬいぐるみです。みんな一言目には「これ、どうしたの?」と聞いてくるのですが、なんだかんだ言いながら触りだすのが微笑ましかったです。

 次によく、「なんでこんなもの置いてるの?」と聞かれ続けたものとしては、テレビの上に置いていたカレールーの箱です。一体何故テレビの上にカレールーの箱が置いてあるのかというと、下宿生活に入って初めてカレーを自分で作った時にえらく感動し、妙なテンションになって買ってきたカレールーの箱をいつも見える位置に置こうと考え付いたのが始まりです。ちなみに私の作るカレーは、「またいつもながら具材がゴロゴロ入ったカレーですね」と言われるほどじゃがいもなどといった野菜が大きめに切り分けられたものでした。実家ではそれが普通だったので。

2010年9月17日金曜日

良い消費者を作る価値

 菅総理の続投が決まって数日経ちましたが世の中は依然と景気をどうにかせねばという話ばかりが中心で、来る日も来る日も景気はどうすればよくなるかなど、ついには私の知り合いも潮風太子さんが批評した「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」を読み出してきました。あんま当てにならんよと忠告しておきましたが。

 さて通常、景気を良くする為にはどうすれば言いかという議論においてはまず初めは政府の景気対策などマクロな話が取り交わされますが、その次となると現実にある企業がどうするべきか、どのような経営をすればいいのかというミクロな話が槍玉に挙げられます。
 しかしこの二番目のミクロな話に対して私は逆説的に、物やサービスを販売する企業ではなくその反対に物やサービスを享受する消費者の側で革新を起こす事の方が、今の日本全体の景気向上につながるのではないかとこの頃よく思うようになってきました。

 あまり人に威張れるほどではありませんが、私も学生時代には接客業のバイトをいくつかやってきました。その時の自分の経験と接客業で働く方の話を読むにつけ、どうもこの手の仕事は手のかかる客、要するにクレーマーに会うか会わないかでその労力というか辛さが決まってくるように感じます。近年は学校などに無理な要求を行うモンスターペアレントや執拗なクレーマーなど徐々に「問題のある消費者」が取りざたされるようになって来ましたが、私の実感だともしこの手のクレーマーに捕まった場合、極端な話をすると全体の労力の九割くらいをそのクレーマー一人に割かざるを得なくなる気がします。
 言ってしまえばその変な客が一人いるだけでそのほかの一般の客に対して振り向ける労力が大幅に減り、供給者側からするとサービスの質の低下はおろか余計な人員が必要になってくるという悪循環が生まれてしまいます。実際に学校の教師の話ではモンスターペアレントに捕まると本来授業準備などに使う仕事を大幅に削られてしまい、普段の授業にも悪影響を及ぼしてしまうという話を聞いたことがあります。

 あんまり効率ばかりを優先するというのも問題ではありますが、私はこの手のクレーマーについては全体の利益のためにも思い切って市場から追い出すということが必要かと思います。先年に日本は消費者庁を発足してより消費者を保護する姿勢を打ち出しましたが、取引においては供給側が消費側に対して情報を秘匿しやすいなど有利な点が多いので消費者を守るという前提は崩してはならないものの、あまりに過保護になりすぎた現在の状況を見るにつけ真面目に頑張っている企業などを消費者からのいらないクレームから守る法律や機関も必要になってきたと考えています。それこそ過剰で執拗で理不尽な要求を行う人間には現状より厳しく罰する刑罰を作ってもいいですし、法的拘束力を持つ揉め事に対する調停機関を新たに作るもいいでしょう。

 ただこうした上からの改革以上に、消費者自身がサービスを受ける事に対してもっと自分自身に責任を持つように意識を変えるという、下からの改革も近頃急速に必要になってきているのではないかと考えるようになりました。

 私自身も全く経験がないとは言いませんが、マニュアルも見ずに明らかに誤った使い方をして物を壊し、それに対して実際にクレームを言わないまでも企業の物の作り方がおかしいなどすこしの欠陥で声高に供給者に文句を言うといったケースが世の中で増えているような気がします。
 卑近な例としていい年して未だに私が熱中し続けるゲームを取り上げると、昔のゲームはバグがあったり絶対にクリア不可能だと言えるような難易度設定で当たり前だったのですが、近頃はバグが全くなくともゲームの構成や演出、果てにはキャラデザなどに一部の人間が感じる不満点がありさえすればあちこちで激しく叩かれ批判されます。

 もし仮に消費者全員が、使用や享受するには問題ないけど商品やサービスを受け取る際に感じる不満点を少し我慢する事が出来れば、供給する側は製造時や提供時の品質チェックなどといった労力を大幅に減らす事ができます。もちろん厳しい日本人消費者の目があったからこそ日本の企業は高品質なサービスを提供できるようになったと言う方もおられるかと思いますが、私は今の日本社会はどこもサービス過剰もいいところで、大半の消費者は供給者でもある事を考えると非常に精神負担の重い作業を自ら作ることで自らの首を絞めているような状況に見えます。

 私がこんな風につくづく思う一つの理由としてアメリカの大型販売店「コストコ」の例があり、この店は完全会員制にすることで一見さんには商品を売りません。この会員制の何がいいのかというと妙な客やクレーマーに対して何か問題を起せば会員権を廃止することで入店や販売をいつでも拒否する事が出来、コストコの行うサービスの範囲内で満足する客だけ相手に出来るので余計な問題を回避できていると言われています。

 私は日本の経済、というより企業はあまりにも消費者におもねり過ぎ、全部が全部とは言いませんが何でもかんでも他人のせいにする無責任な消費者も一部で作ってしまったように思います。こういう風に私が思うのも笑顔一つ見せずに偉そうに物を売ってくる中国社会で生活したという経験からかもしれませんが、「店員の顔が気に食わない」といってクレームをつける人がいる日本社会も中国とどっこいどっこいな気がします。

 今の日本は如何に企業の業績を伸ばすか、サービスや品質の向上を挙げるかばかりが経済誌などで語られますが、むしろあまり細かい点にはこだわらず、正しい使用法をきちんと守る良い消費者を増やし、過度な要求をするクレーマーは思い切り突っぱねてもいいという風潮を作る事が今の日本経済全体を良くする手段としては有効な気がします。

2010年9月15日水曜日

転職は殺伐としているのか

 最近はそれほど聞かなくなりましたが小泉政権当時に竹中平蔵元総務相らへの批判として、高い給料を求めて次々と会社を転職する人間が増えている今の世の中は殺伐としているといった意見を多く耳にしました。確かに竹中氏は雇用の流動性は増した方がいいと常日頃から主張しては人材派遣の枠を拡大するために法改正したりしてましたが、こうした竹中氏の姿勢に対して守旧派、というか当時小泉元首相に抵抗勢力扱いされた側の人たちは一つの会社でこつこつやっていくのが日本人の美徳なのにそれを壊していると攻撃し続けていました。

 しかしこれはあくまで私の実感ですが、どうも巷で流れている転職体験談を聞いていると転職者の転職理由は竹中氏の言うキャリアアップというよりも会社での人間関係、労働内容の過重を理由としているケースの方が多いような気がします。実際にある会社で中途採用者の面接を行った方から直接話を聞いてみると、みんな最初はあれこれもっともらしい理由を転職理由として挙げて来るそうなのですが、しつこく聞くと最終的には誰もが人間関係の悪化、要するに社内の人間とぶつかった事から転職を希望するようになったと漏らすそうです。

 またこれはちょっと前にどこかで見た就職活動中の学生へのアンケート調査の結果ですが、大多数の学生はできることなら内定が得られた会社にずっと居続けたい、就職した後にまた転職したくないと答え、さらには転勤などもしたくないと答えたそうです。多少時間が経っているとはいえ世の中はかつて竹中氏を批判した人たち(まぁ亀井静香なんだけど)が言ったように変化しているわけでなく、むしろ他の社会調査でも報告されて徐々に明らかになってきていますが現在の日本は専業主婦を望む女性が増えるなど、徐々に保守化の傾向が現れています。

 転職者を選ぶ人数の比率が過去と現在でどれほど推移しているのかはちょっと手元にいいデータがないので増えているのか減っているのかはわかりませんが、私はキャリアアップ目的よりも人間関係を理由に転職する人間が多いことの方が世の中殺伐としてきた気がします。ただこの辺は以前と比べて転職するツールが増えた、終身雇用制が崩壊したなどいろいろと他の要因もあるので一概に昔と比較が出来るものではありませんが、なんとなく日本も住み辛くなったなぁという気がします。

2010年9月14日火曜日

ノーサイドかワンサイドか

 本日すでにニュースで報じられているので大半の方は知っておいででしょうが、現与党民主党の代表選挙にて小沢一郎元幹事長とその座を争っていた菅直人首相が見事当選し、首相続投を決めました。このブログは政治系ブログのくせして今回の代表選挙は私自身が興味が湧かずあまり取り上げてきませんでしたが、最後くらいは今後の展望を含めていくらか分析を紹介しようかと思います。

 まず今回の代表選の結果はなるべくして出た結果だったように私は思います。私は選挙戦最中の世論調査を見て国会議員票で小沢氏が上回ったとしても党員による地域票では恐らく菅氏が大量得票を得、どれほどの差をつけて勝利するかまではわかりませんでしたが最終的には菅氏が勝つのではという予測を立てていました。それで実際の得票数はどうだったかというと、

投票種類 菅氏票数:小沢氏票数
党員・サポーター票 249:51
地方議員表: 60:40
国会議員票: 412:400
合計:721:491


 という結果となり、菅氏が200票以上もの大差をつけて勝利し、国家議員票でも小沢氏を上回ることになったのはちょっと意外でした。しかしこの得票の内訳を見ると意外では会ったもののやはり地方議員、国会議員票では比較的両者が接近しており、事実上大差をつけさせたのは党員・サポーター票だったことでやはり一般有権者が小沢氏の一連の資金疑惑への根強い反感を持っていたのが出たのではないかと思わせられます。

 あと選挙戦の最中で私がすこし気になった点として、この選挙戦に対してどうもメディアの報道が及び腰な態度だったような気がします。このような及び腰な政治報道は今に始まった事ではなく数年くらい前から徐々にこの傾向が現れるようになって来ましたが、そのきっかけとなったのは2005年の郵政選挙で、小泉旋風といわれたあの選挙で大メディアは小泉元首相に利用されるだけ利用されたと感じているらしく政治報道に対して敢えて距離間を置くようになったと言われており、それが今回の代表選にも表れた気がします。
 ただこうしたメディアの及び腰についてはそれぞれの候補に対して突っ込んだ報道が行われずかえって政治が見え難くなったとの批判もあり、私もそのように考えていますが、今回の代表選も「誰が何処そこで演説した」とかどうでもいい内容ばかりで、あまり見ていて面白くありませんでした。

 ここで話は変わって菅首相が続投することとなった今後の展開に移りますが、まず結果論から言えば今回の代表選は菅首相にとって、ないよりもあってよかった選挙になったのは間違いありません。かねてから鳩山前首相と小沢氏が倒れた事で地滑り的、言い方を変えれば運がよくて首相になったと言われていたのがきちんと手続きを踏んだ民主党内の選挙で過半数の信任を得られ、なおかつ一般世論は対抗馬である小沢氏へのアレルギーが強いということがはっきりと数字に表れたことも見逃せません。
 仮に今回の代表選がなければ参議院選挙で大敗して責任論まで出ていた手前、ただでさえねじれ国会でもあるので国会運営はおろか党内運営も覚束ずに自滅する可能性もありましたが、少なくとも今回の選挙で菅首相は党内にある程度発言力を回復する事に成功したでしょう。

 その上で今後の民主党を占う上で重要になってくるのは、今回の記事の題でもある「ノーサイドかワンサイドか」という点です。今回の代表選での勝利演説で菅首相は、「民主党はこれからはノーサイド」と発言し、要するに派閥抗争のない挙党一致体勢でこれから民主党は望んでいくと言い張ったわけですが、代表選挙前ならともかく堂々と選挙で小沢氏と破ったことで人事については小沢氏の意見を仰がず自分である程度自由に決める権利を勝ち得たと言っていいでしょう。

 代表選挙前に鳩山前首相が役にも立たない伝書鳩となって菅首相と小沢氏の仲介を一時行いましたが、この仲介の過程で小沢氏側は菅首相に対して仙石現官房長官を罷免して幹事長職を小沢氏に委ねろと要求したと言われ、それに対して菅首相は小沢氏に対して名誉総裁など肩書きだけの名誉職しか認めないとしたことからこの手打ちは失敗したとされています。このように小沢氏は人事について前政権時より度々口を出していましたが、これで完全になくなるとは思えませんが代表選に勝った菅首相の方が今一分イニシアチブがある状態で、元々距離を起きたがっていたこともあるので場合によっては報復人事とばかりに小沢派議員を冷遇する人事を取る可能性もあります。

 少なくとも小沢氏について言えば国務大臣職にさえ就かせなければ、10月頃に出るといわれる検察審査会の二度目の議決がまたも「起訴相当」の場合に小沢氏は強制的に起訴されることとなります。そんな懐具合を見て小沢派で逃げ出しが起こる可能性も十分あり、上手くいけば人事については菅首相のワンサイドとなるのでは、というのが現時点での私の見方です。

2010年9月12日日曜日

偽障害者団体郵便不正事件、村木厚子元局長の無罪判決について

クローズアップ2010:障害者郵便割引不正 村木元局長無罪 暴走した特捜部(毎日新聞)

 一昨日の大阪地裁にて、実態がないにもかかわらず障害者団体を名乗りダイレクトメールの郵便料金割引を不正に受け取っていた「凛の会」の郵便不正事件において、この団体に障害者団体の証明書を偽造、発行したとして容疑がかけられていた厚生労働省所属の村木厚子元局長に対して無罪判決が下りました。この事件の私の感想はというと、首を吊るべき人間は二人、といった所です。

障害者団体向け割引郵便制度悪用事件(Wikipedia)

 ちょっとこの事件はややこしいので、私の理解の範囲で簡単に概要を説明します。
 まず事の起こりは「凛の会」が偽の障害者団体であったにもかかわらず郵便料金の障害者割引を受け取ってダイレクトメールを送っていた事がばれた事からでした。このダイレクトメールには「凛の会」を通してベスト電気など一部の業者が自社広告を混ぜていたことから、斡旋を行っていた広告代理店の博報堂子会社の関係者共々処罰を受けております。なおこの期末に博報堂では本来支払うべきであったにもかかわらず支払っていなかった郵便料金を「特別損失」として計上したことに一部でツッコミを受けてました。

 こうして不正が明らかになった後、そもそもどうして実体がないにもかかわらず「凛の会」が障害者団体として郵便料金の割引が受けられたのかについて検察内で捜査が進められ、その結果、詳細は現在も続けられている厚生労働省元係長の上村勉氏の裁判が終わるまではっきりしませんが、厚生労働省が「凛の会」に対して発行した障害者団体証明書が割引を受ける決め手になったと結論付けられました。
 このため捜査は厚生労働省へ焦点が向けられるようになり、先ほどの証明書発行を行った上村氏が逮捕され、その上村氏に上司として証明書発行の認可権限を持つ村木氏も捜査線上に浮かんだ事から逮捕されました。なお村木氏が逮捕された決め手となったのは発行された証明書が村木氏の名義で発行され、またその決済を行うための稟議書も見つかった事からでした。

 しかし逮捕された村木氏は捜査段階から一貫として容疑を否認し、また先に逮捕された部下の上村氏も捜査段階で村木氏の指示を受けて証明書を発行したと供述したものの村木氏の裁判にて証人として立った上村氏はその供述は検察によって作られたもので、証明書は上村氏一人によって偽造されたもので(村木氏の名前を上村氏が勝手に入れた)村木氏の指示は一切受けていなかったと証言しました。

 この後裁判では検察の杜撰な捜査内容が次々と明らかになり、なんと検察が提出した43通の調査書のうち34通が証拠として不採用となるという前代未聞の事態にまで発展し、下馬評どおりに一昨日に無事無罪判決が下りたというわけです。

 私はこの事件で村木氏への捜査が起こったのが去年の参議院選挙直前で、しかも偽の障害者団体「凛の会」へ障害者団体証明を発行するよう厚生労働省に口利きを行った政治家として当時報道された(検察のリークだろうが)のが民主党の石井一議員だったことから、恐らくこの事件は自民党が選挙戦を考慮して行った国策捜査だろうと見立てて初めから村木氏は冤罪の可能性が高いと見ていました。ただこの公算は一部間違えていたようで、捜査内容の杜撰さを考えると恐らく自民党の人間は誰も糸を引いておらず、大阪地検特捜部が勝手な妄想から捜査を行って村木氏の大切な時間や生活を大いに奪った事件だったようです。

 今月の文芸春秋にて村木氏本人が判決前の手記を載せておりますが、読んでみると改めてこの事件がどれだけ杜撰なものか見ていて呆れ返ってきます。
 一から挙げたら切りがないので幾つかだけを紹介しますが、何年も前から村木氏がいつどのような場所で誰と会うのかを詳細につけていた手帳に証明書を手渡した(通常は郵送であるが、これも検察が「手渡した」ことにした)とされる「凛の会」の代表者の名前が載っていなかった事について聴取を担当した國井検事は、代表者がアポなしでやってきたということにしようと村木氏を説得したそうです。

 さらにそもそもの発端である「凛の会」の代表者が石井一議員に口利きを依頼した日についても、当初検察が主張した日(代表者が聴取中に証言した日)に石井議員はゴルフに出かけており、ゴルフ場にもはっきりと記録が残っていて事実上会うことは不可能だったと石井氏本人が承認となって裁判に証言しました。すると検察は何を考えたのかすでに捜査が終わっている代表者に再度聴取を行い、「石井氏に会ったのはその日じゃなかったかもしれない」という証言を得た調書を裁判の途中にもかかわらず提出してきたそうです。さすがにこの調書は裁判所も受理しなかったそうですが、自分らが不利になるや証言を平然と変えるこの検察の行動には私も空いた口が塞がりません。

 今回この村木氏の手記を読むにつけ、やはり村木氏自身が只者ではないと感じました。普通の人間ならば逮捕、拘禁されたら結構弱るものなのですが、検察の聴取に対しても私が見る限りだと村木氏は毅然と対応し、何度となく検察から自ら作り上げた妄想のようなストーリーの調書にサインするよう求められながらもきちんと拒絶してます。さらには拘置所内のラジオで阪神戦が放送される事から阪神の選手名鑑を差し入れてもらい、ちゃっかりイケメンの能美選手にファンになってたりと。

 今回のこの事件で村木氏は実に163日も拘禁されております。拘禁される以前から多忙で知られ当時の桝添厚生労働大臣に「(逮捕が)非常に残念」とまで言わせたほどで、本人も手記で述べていますがやるべき仕事が残されていたにもかかわらずこのような事件に巻き込まれその失望たるや大きなものでしょう。

 それだけに今回の杜撰な捜査内容といい聴取中の態度といい、検察の側からきちんと責任者を処罰する必要があると私はとみに思います。今回の文芸春秋の記事できちんと実名が挙げられているので私からも紹介しますが、まず村木氏を最初に聴取した遠藤裕介検事については村木氏も「常識的な取調べだった」と述べており、また村木氏の要請に応えて調書の訂正に応じるなどまだまともな人だと思えますが、遠藤検事の次に聴取を担当した國井弘樹検事については村木氏の証言が本当だとすれば公職につくべき人間ではないでしょう。

 村木氏によると國井検事は村木氏が述べてもない内容をことごとく調書に盛り込んでは、関係のない会話同士を勝手に繋ぎ合わせて勝手な証言を作るなどしていたそうです。因みに上記の「凛の会」代表者がアポなしで村木氏から証明書を受け取ったという作文を作ったのも國井検事だそうです。

 人間誰しも間違いはあります。しかしこの事件についてはあってはならない間違いを幾重にも起こし、またそれに気づくチャンスがいくつもあったにもかかわらず見逃している事から、私は上記の國井検事、並びに一連の事件の捜査で主任を務めた前田恒彦検事は早々に検察という職から離れるべきではないかと思います。何も辞めることが責任を取ることだというつもりはありませんが、少なくともこんな杜撰な捜査をする人間はこんな職に就いていてはいけないと強く思います。

 最後に同じく国策捜査で巻き添え食った佐藤優氏がこの事件についてコラムを書いていますが村木氏について、無罪となったのは運がよかったからだ、と述べています。私もほぼ同感で、もし上村氏が供述を翻さなかったら、石井氏のスケジュールの確認が出来なければと考えると不安に思う案件でした。
 その上で佐藤氏は、証明書の偽造がどうして行われたかについてまだはっきりしていないと指摘しており、私としても今後の上村氏の裁判での供述をしっかりと見守る必要を感じます。

2010年9月11日土曜日

社会的報復としての死刑の価値

 大分日が空いてしまいましたが、前回「死刑は犯罪抑止につながるか」の記事からの続きで、今回は死刑を社会的報復としての観点から見た場合に価値があるかどうかについて私の意見を紹介しようかと思います。結論をまず申せば、やはり死刑には報復という意味で価値が少なからずあると思います。

 実はこの社会的報復という言葉はまるまんま私の造語なのですがその定義は簡単で、要は加害者に対して被害者が直接報復を行うのではなく、刑罰など法手続きを経て社会(治安機関)が被害者に代わりその犯罪ごとに一律の制裁を与える事で報復とするという意味です。前回の記事でも書きましたが江戸時代では一代限りの仇討ちは認められていましたが、これは被害者が加害者に対して直接報復を行う行為です。これに対して現代では親族が誰かに殺害された場合、犯人が捕まりさえすれば裁判を経た上で国家がその犯罪行為に対して一律の刑罰を与えるようになっております。

 両者の違いはなんといっても報復の実行が直接的か間接的かということで、前者であれば報復の度合いを決めるのは被害者本人ですが(つっても斬り殺すのにかわりないだろうけど)、後者だと被害者はその度合いを勝手に決める事が出来ず裁判などといった代理制裁者の間で自動的に決められます。たとえその犯人を殺したいほど憎んでいたとしてもです。

 すでに何度がこのブログでも書いていますが、私は人間というのは基本的にプラスかマイナスの損得勘定がすべての思考の原点になっていると考えていおり、そのためこの報復についても、被害に見合う制裁が加害者に対して実行されるかどうかに被害者は集中すると思います。法定された刑罰それ自体がその社会に属する被害者の感情を納得させる基準を作っているとも考えられますが、こと死刑に関しては少し話が違ってきます。

 それこそ大切な人間が無慈悲な理由で殺された場合、周囲の人間はなかなか自分の感情に踏ん切りをつける事は叶わないでしょう。あくまで私が耳にする範囲ですが、やはり親類が殺された遺族はそれがすべての救いとならないまでも犯人に対し死刑を強く望む声が大きいような気がします。またもし自分がそのような遺族の立場になったと仮定した場合、ハンムラビ法典ではないですが殺人に対する仕返しとして死刑と、仕返しが何も生まないと分かっているとしてもそれでもないよりはあったほうがいいのではと私も考えるでしょう。

 もちろん死刑にならなくとも殺人の場合はよっぽどの理由がない限りは無期懲役刑が下されますが、これはしばしば議論となっていますが死刑と無期懲役ではあまりにも大きな差があるといわざるを得ません。遺族側が死刑にこだわる理由も無理ではなく、そしてそれは遺族に止まらずその社会の人間全体にも少なからず影響する可能性も見捨てられません。

 現在の日本ではセンセーショナルな事件は必ずと言っていいほどメディアが全国に向かって大々的に報道し、また国民もそのようなゴシップを求めております。それゆえに大きな事件、過去だとオウム事件、最近だと秋葉原連続殺傷事件などはその裁判過程も細かく報道されて早くもその判決に注目されるようになります。
 詳しい統計もなくこれまたあくまで私の印象論ですが、やはりこういった事件内容が大々的に報道された場合、その報道を見る視聴者もいつの間にかその直接の被害者や遺族ほどではないにしろその犯人らに対して怒りを共有し、必要な刑罰を強く望むようになる傾向があるように思えます。

 江戸時代では磔などといった一部の死刑は公開で行われていましたが、これは庶民に対して「悪い事をしたらこうなる」という警告的な意味合いとともに、一種のショーのような具合で娯楽的な意味合いもあったと一説で述べられています。この死刑の娯楽的要素は日本に限らず世界各国で共通しており、恐らく一番華やかだったのはロベスピエールが居た頃のフランスだったでしょうが、一種のガス抜き的な効果は確かにあったと私も思います。
 現在の日本ではもちろん死刑は公開されていませんが、全国に報道された犯罪者が死刑判決を受ける、受けないで国民が持つ感情は変わってくるでしょう。

 最後に蛇足かもしれませんが、私は先ほど、刑罰それ自体が報復感情を納得させる基準を作っている節があると書きましたが、これは言い換えると、その犯罪にはどのような刑罰が課されるのかという基準意識をも作ってもいるとも言えます。
 全国的にも報道されたある有名な事件の犯人は逮捕後、オウム事件を見て犯人らが逮捕後にすぐ死刑とならなかった事を見て影響されたと語っており、また「市川一家4人殺人事件」の犯人は「女子高生コンクリート詰め殺人事件」の犯人らが死刑にならなかったのを見て自分も死刑になるはずがないと主張していたと報じられています。前回に死刑の犯罪抑止力は低いと書いておきながらですが。

 本筋の議論から大分外れた話になってしまいましたが、死刑があるかどうか、そして判決が下りるかで被害者の意識、並びに社会の規範意識に与える効果という意味においては死刑は存在価値があると私は考えているわけです。

2010年9月8日水曜日

日本ひげヅラ興亡史

市役所が男性職員のひげ禁止 群馬・伊勢崎、「市民に不快感」(産経新聞)
「ひげ」で手当減額…郵便事業会社員が勝訴(スポニチ)

 どちらもちょっと古いニュースですが、閲覧した時からなんとなく気になっていたニュースです。
 内容を簡単に説明すると、最初のニュースはヒゲを生やしていると市民に不快感を与えるという事から、群馬県伊勢崎市にて男性職員にヒゲを生やす事を禁止したというニュースで、もう一つは郵便事業会社にてひげを生やし続けてきた職員に対して手当てを減額したことに対しその職員が裁判で抗議を起こしたところ、結局郵便事業会社が勝訴したというニュースです。

 どちらのニュースを見ても近年の日本社会がひげ面に対して徐々に厳しい目を持ってきたという事をうかがわせる内容なのですが、ここで私が気になったのは一体いつ頃から日本はひげ面に対して厳しくなってきたのかということでした。改めて考えてみるとどうも日本社会ではひげ面に対して流行期と衰退期がちょくちょく起こっているような気がして、その辺をちょっと調べてみたので一つ今日は紹介しようと思います。

 まず日本の歴史スタート地点として飛鳥時代から考えてみたのですが、この時代の人物の肖像画で残っているもので代表的なものとなるとまず聖徳太子が挙がってきます。その一万円札にもなった聖徳太子の肖像画ではまるで中世の中国人貴族かのように鼻下と顎にそこそこのひげを蓄えた姿で描かれていますが、この肖像画自体がいつ頃に描かれたのかはっきりせず、私見ですが絵の特徴から言っても奈良時代っぽい感じなのでどちらかといえば奈良時代の風俗が影響しているかと思われます。

 ではその奈良時代はどうなのかというとこの頃は中国の影響が非常に強かったために、僧を除くとこの時代の人物の肖像画は(大抵がその後の時代に描かれているものの)やっぱり中国人貴族風なひげが目立ちます。平安時代も概ねこの流れの延長にあって藤原道長を始めとした貴族たちはそのままなひげで描かれていますが、平安時代から出現した武士によって初めてこの流れにストップがかかります。

 武士の中でも棟梁とされる平清盛を始めとした出自の者達はやっぱりまだ貴族風のひげで描かれていますが、生粋の武士とも言うべき地方豪族たちは見かけにも顎ひげが徐々に濃く描かれるようになり、鎌倉時代を通して武士らは貴族たちと比べて荒々しさを感じさせるひげになり、鎌倉時代末期ともなるとついにはこの流れが貴族にまで影響したのか後醍醐天皇は長くて濃い顎ひげを蓄えた姿で描かれております。まぁこの人は例外扱いすべきなのだろうが。

 この後時代は室町、そして戦国時代へと移り変わっていきますがこの頃になると風俗史などについても史料上でも言及されるようになり、武将たる者ひげがなくてどうする的な風潮が流行っていたとはっきりと言及され、元々ひげが薄かった豊臣秀吉は熊の毛で作った付け髭を付けていたという記述まで出てくるようになります。

 そんな男のステイタスと一時なったひげですが、不思議な事に次の江戸時代になると途端に肖像画から消えてしまいます。この突然のひげの消失についてはあるエピソードがあり、余りの出世の速さから徳川家康のご落胤ではないかと噂された初期徳川幕府ブレーンの土井利勝がある日突然ひげを剃って登城してきたのを周りが見て、「あの土井様が剃ったのだから……」と、いかにも日本人的右に倣え思考で一斉にひげが剃られるようになったと「落穂集」に記されております。
 これが本当かどうかまではわかりませんが、徳川将軍も三代家光まではひげがあるのに四代家綱からはこれがすっかりなくなり、暴れん坊将軍と言われた吉宗ですらつるっとした顔で描かれてます。ただこれにはもう一つきっかけがあったとして、四代家綱がある年に「大ひげ禁止令」といってひげを生やしすぎると処罰するという法令を出しているようです。実際にどれほど取り締まられたかまでは分かりませんが。

 そんな江戸時代が過ぎて明治時代に入ると、戦国時代さながらにまたも濃いひげの連中が続出するようになります。これの発端はほぼ間違いなく大久保利通を始めとした明治初期に欧米を視察した政府要人らで、ドイツでプロイセン宰相のビスマルクに心酔した彼らが西洋人に倣ってこぞってひげを生やすようになったことがきっかけでしょう。ただ確か榎本武明も早くからひげを蓄えていたと聞きますし、昔も今も西洋人のファッションに合わせようとするのは日本人の性なのかもしれません。

 この明治以降の濃いひげはその後も主に軍人らの間で続き、おそらく日本海海戦を指揮した東郷平八郎の影響もあって海軍ではいわゆるカイゼルひげを生やす人物が、私も以前に取り上げた木村昌福を始めとして昭和期にも見受けられます。
 その濃いひげからの転換期はやはり太平洋戦争での敗戦で、戦後は建前上は軍人がいなくなった上に先ほども言った通りに政治家もめっきりひげを生やさなくなり、平成に入った今では中には「不潔」とまで言われる始末です。

 私としてはここで書いていったように、ひげとか髪型なんていうものは長い目で見るとちょくちょく流行り廃りがあって生やすか生やさないかにこだわる事自体が馬鹿馬鹿しいと考えております。なもんだからさすがに全く手入れせず、感染症を起こしかねないくらいに不衛生に伸ばしっぱなしであれば話は別ですが、私はひげが濃い人に対しても特に悪い印象を覚える事はありません。むしろ最初のニュースでの群馬県伊勢崎市の例などを見ると帝政ロシア時代のひげ税のような印象を覚え、職員のひげをいちいち管理する前にもっとほかにやることあるんじゃないのという気を覚えます。
 ただもし住民票を取りにでも市役所に行ったら三国志の関羽みたいな立派なひげを生やした職員が窓口に座っていて、突然「ジャーンジャーン」って放送が鳴ったら「げえっ」とか言ってしまうかもしれませんが。それはそれで楽しそうだけど。

 最後に近年の日本人でベストオブひげ面を挙げるとしたら、すでに剃ってしまいましたが巨人の小笠原道大選手の日ハム時代のひげ面が一番かっこよかったと思います。小笠原選手は余りにもひげの印象が強かったもんだから、巨人移籍時にひげを剃ったら「誰?」って思ってしまったくらいだし。

2010年9月6日月曜日

私の保有するHard Rock CafeのTシャツ



 以前に書いた「かつて呼ばれた私の異名」の記事の中で、「ミスターHard Rock」と呼ばれていたということを書きました。この異名は私が全世界に展開している「Hard Rock Cafe」というレストランが販売しているTシャツを夏場はそれこそ毎日着ていることから呼ばれるようになった異名なのですが、では実際にどれだけ私がこのHard Rock CafeのTシャツを持っているか、具体的に調べてみました。その結果は以下の通りです。

上野(日本)
バンコク(タイ)×2枚
バリ(インドネシア)×2枚
マルタ(マルタ)
コペンハーゲン(デンマーク)
コナ(ハワイ)
ドバイ(ドバイ)
バルセロナ(スペイン)
アテネ(ギリシャ)
エジンバラ(イギリス)
カイロ(エジプト)
ミュンヘン(ドイツ)
ハイデルベルグ(ドイツ)
ザルツブルグ(ドイツ)
リスボン(ポルトガル)
メルボルン(オーストラリア)……これだけTシャツではなくセーター

  パチ物
イスタンブール(トルコ)
上海(中国)

 以上のように、正規品で18枚、パチ物を含めると20枚になります。
 確かイタリアのローマと韓国ソウルのもあったような気がしますけど、あまりにも量が多いせいか今回の調査(タンスの捜索)では見つかりませんでした。

 パチ物については結構世界各地で作られているようで、元々シンプルなデザインのために上記の上海、イスタンブールのTシャツも本物だと言い張れば見た人は信じると思います。ちなみに中国では北京に正規店が一軒あり、留学中に私も中心部からえらく外れた場所だったのでバスを何度も乗り継いで行って二着買って来たのですが、二着とも友人へのお土産に使用したために現在私の手元には残っていません。あと日本は上野駅以外にも大坂にもHard Rock Caféがあると聞きますが、こちらは京都時代には何故か行きませんでした。上野のも去年にようやく買ったばかりだし。

 これらHard Rock CaféのTシャツはすべて旅行狂いのうちのお袋が仕入れてきたものですが、改めて国名を見てみると本当にいろんな所に行っているんだなと思うと共に、この世代は本当に体力余ってるなという気がします。また明日から台湾に行くそうだし。

2010年9月5日日曜日

小売業での主役交代について

 この頃市井で気になっている事として、電器販売店のデパート化があります。一番デパート化が激しいのはヨドバシカメラを始めとした都市圏の巨大電器販売店で、全国規模でも石丸電気やヤマダ電機などもこの類に属します。このデパート化というのはどういう意味かというと、単純に専門とする営業品目以外にも幅広く商品を扱うようになってくるという事です。

 近年、大丸や三越、伊勢丹といった老舗のデパートらはどこも営業が苦しくて店舗の閉店が相次いでおり、私も一時期、といっても入って買い物をした事はそんなに多くないですが、京都の真ん中にあって街の大きなベンチマークとしてあった阪急デパート四条河原町店が先日に閉店したというニュースは正直にショックを覚えました。ちなみに京都市内でいえばそれ以前に京都駅前の近鉄百貨店も閉店しており、私が始めて京都に居を構えた頃と比べると随分と姿を変えているような気がします。さすがに大丸は居続けていますが。

 話は戻って電器店のデパート化についてですが、具体的な例を挙げるとヨドバシカメラ秋葉原店が一番分かりやすいです。秋葉原という場所はそれまで電気街口方面の賑わいに対して駅の反対側にある中欧改札口方面は控えめな場所であったのですが、こっち側にヨドバシカメラが新たな店舗を作ってから人の移動も徐々に変わり、現在に至っては電気街口に勝るとも劣らない人の入りとなっています。
 ではそれだけ人の流れを変えたヨドバシカメラ秋葉原店の中身はどうなっているかというと、ほとんどの階には通常通りのパソコンや家電といった商品が置かれているのですが上位階に行くと本屋や飲食店のテナントが入っており、そのほかの階にも旅行者向けのスーツケースやスポーツ用自転車などと、何で電器店にこんなものがと思わせられる商品が数多く置かれております。

 これはなにも秋葉原に限らず同じヨドバシカメラでは大坂の梅田店もほぼ同じような感じでしたし、また同じく都市圏に主に進出しているビックカメラでもいろんな物が売られています。さらにヨドバシカメラもビックカメラもこのところ店舗進出が相次いでいますから、今後もこの傾向に拍車がかかるだろうと予想できます。
 これに対して全国の主に郊外に店舗を出しているヤマダ電機や石丸電気はどうかというと、こちらもおおよそ電器店には似つかわしくない商品が置かれているのがこのところ目立ち、試しにヤマダ電機の通販用ホームページを見てみたら「ブランド時計」、「花、酒」といった商品分類がされています。

 ここでそもそものデパートの定義とその成り立ちについて考えてみましょう。
 デパートは「そこに行けば何でも買える物がある」と言われた様に、分野にとらわれない多品種の商品を扱っている販売店を指していると一般的には言われております。そんなデパートの成り立ちはというと大正期に先ほど挙げた老舗デパート店が出来始めたのが日本での成り立ちと言われ、これら老舗デパート店の本業は大丸や伊勢丹、三越など元々は呉服屋でした。その後阪急や阪神、近鉄など鉄道会社もデパート業に参入して大体ここまでが老舗デパートと呼ばれる区切りですが、その後バブル期にはダイエー、イオン、イトーヨーカドーといった企業が現れ彼らは老舗デパートと分けるために大型スーパーと呼ばれましたが、衣料品、食料品、雑貨など幅広く商品を扱っている事から広義では大型スーパーも十分にデパートと呼べるかと私は思います。

 一気に流しましたが、こういったデパートの変遷というのはそのまま小売業における主役の変遷ではないかと私は考えており、近年は電器販売店が徐々に主役になりつつあるのではないかというのが私の考えです。簡単にその変遷をまとめると、

  高級衣料品販売業→食料品、日常衣料品販売業→家電販売業
 =老舗デパート店→大型スーパー店→電器販売店

 ではこれから電器販売業の企業が大きくなっていくのかと問われるならば、私は必ずしもそうだとは思いません。元々小売業自体が競争の激しい分野であっていくらでも下克上が起こる業種でありますし、元来薄給激務と言われる職場が近年のワーキングプア問題さながらに飲食業と並んで何かと勤務待遇に問題が多いとよく聞きます。実際に風の噂で小学校時代の同級生がこんな不況期にもかかわらず、四年目でビックカメラを辞めるそうです。

 恐らく今後しばらくは家電販売店の力が増していきどんどんとデパート化していくことでしょうが近年は驚くくらいの早さで勢力図がどんどんと塗り替えられていくので、十年後にはまた別分野の小売店が主導権を握っているかもしれません。
 ただ老舗デパートについて言えば、個人的な体験から言っても今後日本での展開は辛さを増していくだけだと思います。何故そう思うのかというと、私は北京、上海の繁華街(王府井と南京路)をそれぞれ見てきましたが、はっきり言って日本の繁華街と比べても欧米などのブランド店の進出が多く、客層の高級品嗜好も日本とは比べ物にならないと感じました。これは見方を変えると、一時期にあった日本人のブランド狂いも落ち着きを見せて実用嗜好が高まったともいえるので、あながち悪いことではないでしょう。

  おまけ
 郊外系家電屋は親子連れがよく訪れることからこの頃はゲームやおもちゃをどこもよく取り揃えているように感じます。実際に私も先月買った「ランサーエボリューションⅤ」のプラモは石丸電器で購入しましたが、模型屋自体が少なくなってきているこの世の中なのでこれはこれでありかと……。

  おまけ2
 京都時代に私が一番通ったのはアルバイト先に近い近鉄百貨店で、よくバイト帰りにテナントで入っている本屋に寄っていました。ただ四条にある大丸について言うと私の通っていた大学によく短期バイト募集をしていたので、何度か応募して物産展の補助スタッフをやってました。物産展があるたびによく出入りはしていましたが、まさか中国に一年間留学して帰ってきてからまた応募した際、大丸の担当の人が電話口で私のことを覚えていたのはちょっと驚きました(;´Д`)

2010年9月4日土曜日

阿波踊りに人生を賭した家老

 阿波踊りと言えば徳島県の名物として全国的にも有名な踊りですが、その起源については確証がないものの江戸時代初期、豊臣秀吉の片腕であった蜂須賀正勝の息子、蜂須賀家政が開いた徳島藩の時代に成立したと言われております。阿波踊りは成立した当初から徳島藩内で大いに親しまれたものの、年を追って熱狂さを帯びてきたために暴動につながらないように徳島藩では藩内の武士に対しては外に出ず、屋敷内で踊るようにと布令を出していました。
 しかし十九世紀のある年、この禁令を破ってまで阿波踊りを踊った武士がいました。その武士の名は蜂須賀直孝といって、名前からも分かるとおりに藩主蜂須賀一族に連なる家老職にある人物でした。

 この蜂須賀直孝は家老という要職にありながら藩の命令を無視して群衆に混じり、阿波踊りに興じたのですが、家老であったゆえに顔がすぐに割れて連行されてしまってそのまま座敷牢へと入れられることとなりました。しかし直孝はこれに全く懲りてなかったのか、なんとその一年後の阿波踊りシーズンに入るや座敷牢を抜け出し、再び群集に混じって阿波踊りに興じたそうです。
 この直孝の二度の重大な法令違反には藩主もさすがに激怒し、参勤交代から戻るや直孝を追放したうえで改易(後に養子による相続は認めている)という厳罰で以って処分しています。

 この話は実業之日本社から出ている、大石慎三郎氏監修の「江戸大名 知れば知るほど」に載せられている話ですが、数ある載せられている話の中でも特に印象に残ったエピソードです。徳島の人にとって阿波踊りはなくてはならないものとよく聞きますが、わざわざ家老職を捨ててまでも踊りたいと思った人がいたとは驚くと共に非常に面白いです。

 ちなみに以前に私は阿波踊りのある徳島県出身の友人、よさこい踊りのある高知県出身の友人がいましたが、彼らに双方の踊りについて感想を求めると、

徳島「(よさこい踊りは)あんなん、ただ動きまわっとるだけの下品な踊りやろが (#゚Д゚)」
高知「(阿波踊りは)あんなん、スローすぎて止まっとるやろが(#゚Д゚)」

 やはりというかなんとなくそういう気がしてましたが、お互いに自分の踊りにプライドがあるらしくてあまり徳島の人と高知の人は引き合わせない方がいいとこの時実感しました。なお高知の友人によると、高知ではよさこい踊りからちょうど一ヵ月に中絶手術が集中するそうです(/ω\)

2010年9月3日金曜日

死刑は犯罪抑止につながるか

 前回、「刑法は何故必要なのか」の記事にて私は大雑把な刑法の必要性、意義についてあくまで私なりに説明しましたが、今回はその中で取り上げた「犯罪抑止力」が死刑にもあるのかどうかについて議論をしたいと思っております。結論から言えば、私は死刑にはあまり犯罪抑止力は期待できないと考えています。

 まずはおさらいですが、犯罪抑止力というのはそもそもどういった概念なのかを説明します。これは簡単に言えば犯罪に対して刑法によってリスク意識を持たせる概念で、犯罪によって得られる利益に対して捕縛された場合に受ける刑罰を意識させる事で迂闊に犯罪に走らせないようにするという考え方です。死刑でこれを説明するのは非常に簡単で、いくら殺したいほど憎い人間がいたとしても実際に殺人を犯したら死刑になる可能性があり、命惜しさに実際に殺人には踏み切らない……という風に死刑には犯罪抑止力があると言われます。

 確かに誰だって自分の命は惜しいですしわざわざ死刑にされる可能性がある行為なんて誰も率先して取らないだろうと思いますが、悲しい事にこれがまるきり通用しない人間は存在すると言わざるを得ません。それはどういった人間かというと単純に自暴自棄になった人間の事で、代表的な例はかつての池田小連続殺傷事件を引き起こした犯人の宅間守で、最近だと秋葉原連続殺傷事件を起こした加藤智大など、どうせ自分も死ぬつもりだからと割り切った人たちです。これらの事件に限らず近年の通り魔事件では犯人らが一様に、「自分が死刑になるためにやった」などと、本心かどうかまでは分かりませんが自分一人では死に切れないから死刑を自殺の手段として期待するかのような動機を語る人間が増えております。
 こうした死刑を覚悟して自暴自棄に殺人を犯す人間らには、残念ながら「死刑になるかも」という犯罪抑止力が働く事はまず考えられません。

 また現在の日本の死刑判決には永山則夫事件以降に作られた暗黙の条件があり、例外が全くないわけではありませんが二人以上の殺人にしか適用されないとされています。そのため下衆な言い方になってしまいますが、一人までなら死刑にならないとたかを括る人間が現れかねないのではと私はかねてから考えています。ただこの点については近年厳罰化の流があり、先ほどの永山条件はなくなって今後は一人の殺人容疑に対しても動機によっては死刑判決が下りるようになるのではないかと見ています。

 そして最後、果たして殺人を犯す人間はその殺人行為の際、「もしかしたら死刑になるかも」と考えるのかという点が疑問です。よっぽど冷徹な殺人者でない限りは人間は殺人を行う際には頭がいっぱいになるとされ、まともな思考は殆んど働かないと聞きます。それこそ「罪と罰」のラスコーリニコフじゃないですがあらかじめ計画していた殺人を実行している際に誰かに目撃され、咄嗟に口封じとばかりにその目撃者も殺してしまうことも十分に考えられ、こうした点を考慮するにつけて死刑はそれほど犯罪抑止力にならないのではと私は考えるわけです。

 では死刑はあまり犯罪抑止に効果がないのだから廃止すべきなのか。これだとあまりにも結論が早すぎると思うのですが、死刑存廃議論だと真面目にここまでで議論を終えて廃止すべきだという意見を言う人が数多く見受けられます。特に法家に。
 そういうわけで次回は、死刑を一種の社会的報復としてみる観点からその必要性について私の意見を紹介しようと思います。

2010年9月2日木曜日

上野動物園で見た外人

 ちょっと今日は時間がないので、この前行った上野動物園の話をします。

 八月の夏休みの最中、私はかねてから行きたかった上野動物園に行ってきました。何故上野動物園に行きたかったかというと、単純にこのところでかい動物を見ていなかったので無性に見に行きたかったからです。一緒に行ったのはうちの親父で、いい年した大の大人二人で辺りを気にすることなく堂々と入園して行きました。

 さて上野動物園というとこれまでの目玉動物となると中国最強の輸出兵器だったパンダなのですが、長らく上野動物園で活躍してきたパンダは数年前に死去しており、ある意味福田康夫政権の最大の功績ともいえる中国からのパンダレンタル(レンタル料年間一億円。けどそれに勝る経済効果があると私は信じている。)も現在着々と準備が進んではおりますがまだ上野にまではまだ届いていません。それでは空いたパンダの檻は今どうなっていたのかというと、なんとパンダはパンダでもレッサーパンダが入っておりました。レッサーパンダもかわいいけど、シャレで置くというのもなぁ……。ちなみにレッサーパンダは今のパンダが見つかるまではパンダと呼ばれていて、今のパンダが見つかってからレッサー(劣る)パンダと呼ばれるようになったと聞いた事があります。

 今年の夏は統計上でも最も暑い夏となっただけあって親父といったその日もシャレにならないくらい暑く、動物達も見た目にも暑くて辛そうでした。猿山では子供の猿はまだ動き回っていたものの大人の猿は日陰でじっとしており、キリンもなんかだれた感じでした。まぁ見た目が元々だれた感じだけど。

 その中でちょっと面白かった事が一つあり、上野公園でおなじみの蓮の葉でいっぱいに覆われた池を渡る橋の上を歩いていると、金髪の外人の姉さん二人組が向こうから歩いてきました。蓮の葉っぱを見ながら彼女等は英語で、

「まるで傘みたい(´∀`*)ウフフ」
「トトロだー!(゚∀゚)」
「キャー!(*´∀`*)」

 ってな会話してました。多分、トトロが葉っぱを傘にするシーンを見ての発言だと思います。
 なんていうか、見ていてこっちも和みました。

2010年9月1日水曜日

刑法は何故必要なのか

 ちょっとこれからまたややこしい関係の記事をしばらく投下して行こうかと思います。その第一発目として今日は、刑法の必要性について私の知る限りで解説します。前もって断っておくと私の専門は法学ではないので専門的知識を持った方からすると何だこれはと思う事も書いてしまうかもしれませんが、出来れば暖かい目でこんな考えを持つ素人がいるのだな程度に流していただければ助かります。

 刑法が何故必要なのか、恐らくこう問われると大半の方は「犯罪を抑止するのに必要だから」と答えるかと思います。この答えの意味を詳しく説明すると、例えば他人から一万円を盗んで警察に捕まると罰金を課されたり、前科がつくなどしてリスクに対して得られる金額が少ないと感じて悪い気が起こらないようにさせる。そういう風に刑法というものを犯罪行為に対するリスクとして意識させる事で犯罪を未然に防ぐ効果のことを「犯罪抑止力」と呼びます。
 私なんか専門が社会学なだけに人間というのは八割方打算的に行動すると考えておりますが、この犯罪抑止力なんかもまさにそのような考え方で刑法というものを規定しているように思えます。

 こうした一般的な犯罪抑止力という考え方に対し、刑法というものは無限の復讐を止める手段という考え方を以前に聞いた事があります。こちらはあまり一般的な考え方ではないと思うので詳しく解説しておくと、日本ではちょっと想像し辛いのですが中東の国では文字通り、「七代に渡って祟る」という概念があるそうです。
 なんでもある中東の国の中にある部族では伝統的に自分から数えて七世代上までの先祖の出自や人生などを覚えさせる風習があり、この七世代の祖先のうち誰かが殺害でもされていれば、その殺害した一族に対して復讐を行わなければならないという価値観まであるそうです。何処の国かまでははっきり覚えていませんが(確かトルクメニスタン)、それがために旧ソ連が侵攻した際には兵士達は一様に顔を隠して復讐の対象とならないようにしたそうです。

 こうした風習がどう刑法に関わってくるかですが、皆さんも子供の頃に経験があるかと思いますが、友達から小突かれてお返しとばかりに小突いたら、「お前のが俺より痛かったぞ」と言ってまた小突かれて、「今のはやりすぎだぞ」といってまた小突き返したりと。
 復讐、特に殺人ではこのループに陥りやすく、先ほどのある部族の例だと五世代上の先祖が誰かに殺されている一方で三世代上の先祖は誰かが殺している場合、その人間はある一族を復讐の対象とする一方で別の一族から復讐の対象になっているという事になります。またここまで極端でなくとも、親が殺されたからその殺害者を復讐して殺した場合、今度はその殺害した相手の子供に命を狙われる……そんな無限パターンもあったりするので、昔の中国の権力者なんかはよく三族皆殺しをして復讐の根を絶とうとしていました。

 そのため江戸幕府では「仇討ちは一代まで」として、親がなんらかの理由で殺害された場合はその殺害者に対して子が仇討ちをする権利が認められ、殺害者を斬り殺しても罪には問われませんでした(逆に返り討ちにあった場合でも、親共々子も殺した殺害者はその殺人については罪に問われない)。その代わり、仇討ちされた者の子は仇討ちを果たした相手を殺害する事は認められず、勝手に仇討ちとばかりに殺害した場合は容赦なく刑罰が課されていたそうです。

 普通に考えたってあちこちで復讐劇が繰り返されていたら殺伐として、お世辞にも住み易い社会とは言えないでしょう。そのため日本に限らず多くの社会では復讐に対して一定の制限をかけ、最終的には現在の日本を始めとした法治社会のようにいくら親類が殺されたとしても私的な復讐は認められず、裁判を通じて課される刑罰へ手段を統一していく事になりました。こうした背景から以前にあるコラムニストが、刑法というのは個人から復讐権を奪う概念であって、過度な報復となっては良くないが最低限犯罪被害者の溜飲を下げさせる効果がなくてはならないと主張しているのを見たことがあります。

 復讐を行った所で必ずしも気持ちが晴れるわけではないと言う人もいますが、それでもないよりはあった方がいいと主張する人もいます。ではどれくらいの報復がそれぞれの犯罪行為に見合うのか、これは時代によって変わったりしますが私はなんだかんだいって、「詐欺をしたら懲役○年」、「窃盗をしたら罰金○万円」というように、刑法で規定された内容にいつの間にかみんな慣らされていくような気がします。もっとも最近は厳罰化機運がどこでも高まっていますが、刑法はただ単に犯罪抑止力だけでなく、無限の報復を防ぐ、被害者の意識を和らげるといった面にも注目し、考えていくのが大事かと思います。

2010年8月31日火曜日

先月に死刑執行を受けた受刑者

 先月に千葉景子法相が従来の自説をひっくり返して二名の受刑者の死刑執行を行った事で議論を起こし、私も当時にパフォーマンス的要素が強い上に直前の参議院選挙で千葉法相が落選している事を受けて批判しましたが、今日ちょっと思うところがあって死刑が執行された二名の来歴を調べてみたところ、下記のサイトで詳しくまとめられていました。

宇都宮・宝石店放火殺人事件
熊谷男女4人殺傷事件(どちらも「事件史探求」より)

 思えば私もそうでしたが、死刑執行当時は千葉氏への批判ばかりで受刑者がどんな人物でどんな事件を起こして死刑判決を受けたかについてはあまり議論にならなかった気がします。
 こうして改めてみてみると、篠沢一男は宝石店にて店員を脅して貴金属を奪うと、店員らを縛りつけた上で店に火を放ち六人もの人間を殺害しています。尾形英紀は付き合ってた女性の要請を受け女性の二股相手だった男性を殺害し、さらには同じアパートに住んでいた何の関係もない男女三人を口封じのために殺傷しています。

 両方の事件とも調べなおすまではすっかり忘れていましたが、改めて上記サイトの記事を読んでみると、「そういえばこんな事件、あったなぁ」と記憶が持ち上がってきました。私が十代の頃、死刑執行が行われて受刑者がどんな人物だったかについてニュースで解説が行われるものの大抵の事件は私が生まれる前に起きていた事件だったためいまいち実感が覚えなかったのに対し、さすがに二十代の今ともなるとリアルタイムで事件を見ていることもあり刑罰の実感が感じられるようになってきました。

 それを踏まえた上で正直な感想をいえば、千葉氏が死刑執行を行った事について当然の行為を行っただけだったのではという思いが浮かんできました。それとともに、数ある死刑受刑者の中からどうしてこの二人が選ばれて死刑が執行されたのかも少し気になりました。まぁ恐らくは法務省が順番つけたリストを渡しただけでしょうが。

 死刑についてはまた連載で詳しく書こう書こうかと考えていながら未だになかなか書けないでおりますが、死刑が何故必要なのかという意見の一つに、「犯罪行為に応じて重い刑が課されることで、犯罪への抑止効果を作ると共に国民に公平感、納得感を持たせる」というものがありますが、かねてから日本の死刑は事件発生から執行まで時間がかかり過ぎ、そのような抑止効果は生まれないのではという批判がありました。図らずも今回の死刑執行ではまさにそのような印象を私は覚えたので、やはりこういったものは執行という事実報道共に死刑までの背景も詳しく取り上げておくべきでした。

円高の別の側面

 ちょっと前にこの関連で記事を書いたので、一つ私と同じような意見が書かれたこの記事を紹介しておきます。

「円高」で得をしているのは誰か?(msnマネー)

 書かれている内容は円高円高と大騒ぎの現在の日本ですが、円高で損だけではなく得する日本人もいるということが書かれ、実際にはそこまで問題は大きくないという主張です。私もこの意見にはほぼ同感で、記事を抜き出すと

 まず、日本のメディアについてはもう「為替病」としか言いようのない状況と筆者には見えます。もはや円高の損得や、はたして今の状況が円高なのか円安なのかまったく吟味せず、単純に(名目の)米ドル/円レートが過去と比べてくらべて数字が小さくなってきたので、条件反射的に「円高=日本にとって損」と決めつけ、何も考えずにそういっているだけのように思えます。

 あんまり持ち上げすぎてもしょうがないですけど、経済の原則論から言えば私は今の円高といわれる状態の方が自然だと思うし、むしろこの円高を食い止めようとするほうが史上をゆがめる事になるんじゃないかとすら思います。

 さて今回取り上げた記事の本題である「円高で得する人」についてですが、私が挙げるとしたらやっぱり中国から商品を輸入している小売業の人たちがメインかと思います。実際に大手スーパーなどではこのところ円高ということで円高還元セールなどをやっておりますが、私はこういうときくらいはいちいちこういうセールをせずに小売業の人間は利潤を稼いだ方がいいような気がします。

 その理由は二つあり、ひとつは現在の小売業は「バイトじゃなきゃ無理」と就活生にまで言われるほど厳しい競争でお互いでお互いが淘汰し合う共食い状態にあることと、円高セールを行う事でよりデフレが加速していく恐れがあるからです。
 二番目のデフレ加速についてはこれまでにも何人かが指摘しておりますが、国民も悪いですが波に乗る小売業も問題で、もはや自分達が稼ぐというよりは如何に他店を潰すかという経営方針では共倒れになる事は自明です。とはいってもデフレ下ではなかなか抜けられないもの事実なので、せめて円高で利潤が増えると言うのならお互い黙ってもらっとく方が全体にいいというのが私の意見です。

 あと前回の記事でも書きましたが、円高で損する人もいれば得する人もいて当たり前なのです。それをなんでもかんでも損損と後ろ向きに見ないで、もっとポジティブな面に目を向けないと日本全体で暗くなってしまいます。もう一つ突ついておくと、円安になると今日ここで取り上げた小売業の人はもちろん苦しくなりますがたとえそうなっても彼らが可哀想だとは誰も言いません。その一方、円高になると自動車産業の連中は大変だ大変だと言われ、わざわざ国からお金を出してもらって購買補助がなされます。いつまでもこんな事続けてちゃいけない気がするのですが、経団連はおそらく購買補助政策の継続を訴えてくんだろうな。

2010年8月29日日曜日

カー雑誌の悲哀

 私自身はそれほど自動車は運転しませんが(、暇な時や長時間の移動をする際にはよくカー雑誌を購入しては読んでたりします。そんなカー雑誌を読むたびにこの頃思うことなのですが、記事に登場する車がどれも古くてこれでは新規の読者、年代的には中学、高校生は手に取らずにおっさんにしか読まれないだろうと強く感じます。

 雑誌の種類にも由りますが、一般的にはカー雑誌はスポーツカーを多く取り上げる媒体です。しかしながら最近はスポーツカーに憧れる若者が減っており、またそういったかっこよさを追い求める車以上に燃費のよい車に注目が集まるようになり、どうにも読者の関心が雑誌のスタイルと適合していないように思われます。さらにいえば自動車メーカー自体がこのところ余力がなくなってきて、スポーツカーの販売数を減らしてきております
 カー雑誌編集部の方からすると取材で取り上げる車の数が減る事はそれだけでも大変なことでしょう。では現在のカー雑誌は主にどんな車を取り上げて記事を書いているのかというと、書いてて笑っちゃいますが全ページの半分以上にすでに生産が中止されている車の名前が出てきております。

 私がよく買っているのは「ベストカー」という雑誌ですが、この雑誌がよくやる特集記事に「○○対××」というように二台の車の性能を評論家が多方面から比較するものがあるのですが、こういった特集記事に頻出してくる車は「マツダRX-7」や「ホンダインテグラ」、果てには「トヨタAE86」など走り屋に愛されていたもののすでに生産が中止され、現在までニューモデルが出ていない生産中止車ばかりです。まぁ「ベストカー」について言えば明らかに他社の車より贔屓されて持ち上げられている「三菱ランサーエボリューション」が未だにニューモデルが出され続けている事は救いですが。

 カー雑誌記者の方でも特集するスポーツカーがメーカーから新規に販売されないために記事の書きようがないのはわかりますが、ただこういった特集する車に普通に「日産スカイラインGTR(R32)」が出てくるほど古いのばかりだと新規の読者はなかなか獲得できないでしょうし、おっさんばかり相手してても先細って行く一方でしょう。
 そういう意味では、ようやく発売日が今年の11月に決まった「グランツーリスモ5」といったゲームや「頭文字D」などといった漫画は、こういった古いスポーツカーなどを比較的若い世代に親しませられることができ、おっさん向けの雑誌を私のような20代でも手に取るきっかけになる事が出来ます。

 まぁこういうものはいくらメーカーや雑誌社がプッシュしてもヒット作が出るものじゃないので登場を期待するのは酷ですが、自動車業界に限らず現在何処の業界でもファン層の拡大よりターゲット顧客層の絞込みが行われてばかりなので、こういった夢が広がりそうな分野くらいはどんどんと外に訴えて行ってもらいたいものです。

 余談ですが、漫画の「頭文字D」で「三菱ランサーエボリューション」は大抵ガラの悪い敵役の車として登場し、ちょっと調べたらトヨタ系やマツダ系と比べてランエボだけ悪く書かれすぎじゃないかという意見まで出ているそうです。私個人の意見だとやっぱ良い意味でモノがモノだけにランエボは主役機にはなれず、こうした敵役の車にならざるを得ない気がします。ランエボでシビックとかに勝ってもだから何って話になるし。

2010年8月28日土曜日

石川啄木と金田一京助

  働けど働けどわが暮らし楽にならざりじっと手を見る

 格差社会、といってもそれ以前から何かしら貧困エピソードが出るたびに引用されておなじみのこの有名な和歌ですが、作者は言うまでもなく明治の詩人である石川啄木です。この和歌を始めとして暮らしの困窮について表現する和歌を多く作っていたことや、死後になって友人らから作成、出版された「一握の砂」によって名を残したという事から、石川啄木は生前には全く評価される事のなかったゴッホと比較されるなど一般的には不遇の詩人としてよく紹介されます。
 しかし事実はさにあらず、近年には大分浸透して来ましたが石川が生前に貧乏な生活をしていたということは本当ではあるものの、その困窮は不遇というよりは彼自身の放漫な性格による行動の結果だったと言われております。

 石川は元々、岩手県にある寺の住職の長男として生まれており、当時としては比較的裕福な家庭の出でした。しかもこの家での待望の長男であったために両親からは大いにかわいがられて食事なども一番良いものが優先して振舞われ、子供の頃からわがまま放題に育てられていたために妹の光子の証言によると何か気に入らない事があるとすぐに蹴ったり叩かれたりしたそうです。それでも妹はそんな兄が好きだったそうですが。

 ともあれ裕福な家ということで石川はきちんとした学校に通わせてもらうも遅刻、欠席、果てにはテストでのカンニング行為の結果、卒業を待たずに退学させられてしまも、その後はいろいろと転々とするもののある年に家族を置いて東京に向かい、朝日新聞社へ就職します。この東京での生活は彼自身が残したローマ字日記によって行跡が辿られるのですがその日記の内容となると破天荒そのもので、就職した朝日新聞社では遅刻、欠勤、給料前借は当たり前で、貧乏だといいながらもいろんな人間から次々とお金を借りてはすでに借りた借金の返済には殆んど使わず、娼妓との遊興費に惜しみなく費やしたということが赤裸々につづられております。ただ石川の変な所というか、お金を殆んど返そうとしないにも関わらず会う人皆が石川の新たな借金の申し出に答えており、石川の方でも律儀に日記でどこそこで誰からどれだけ借金したかを事細かに記録しています。

 そんな石川に最も金づるに使われたのはほかでもなく、彼と同郷で東京での生活も一緒だった金田一京助でした。金田一京助というといろんな辞書に編纂者として名前を連ねており、また小説のキャラクターである「金田一耕助」の名前のモデルとなった人物であるため皆さんもよく知っている人物でしょうが、彼は若い頃から石川の才能を買って東京に来た石川を自らの下宿に招き寄せては生活費など一切合財面倒を見ていました。

 ただこの金田一京助もあの放蕩三昧の石川を囲うだけあって相当な人物だったらしく、ことあるごとに借用を申し出る石川の願いに首を横に振ることなくいつも快く応じ、彼の希望をかなえるために次々と家財道具を質屋へ持って行ったそうです。そうやって献身的に支えられているにもかかわらず遊んでばかりの石川に対して金田一の妻の方が怒り、またも石川に金を貸して欲しいと言われて何か質草があるかと金田一が妻に尋ねると、「もうそんなものはありません」と一度、突っぱねたことがあったそうです。すると金田一は、

「お前の今着ている着物、まだ質屋に出せそうだな( ´ー`)」

 と言って、奥さんの着ていた服をひっぺはがして質屋に持って行きお金を受け取るとそれをそのまま石川に渡し、そして石川はそのお金を浅草で使い切ったそうです。そんな話を妻からよく聞かされていた金田一京助の息子である金田一春彦氏は、石川という姓だけに石川啄木は石川五右衛門の子孫に違いないと子供ながらに考えていたと語っています。

 こうした石川との絡みもさることながら金田一京助にはそのほかにも逸話が多く、前述の辞書の編纂者名についてもお人よしな性格ゆえに、権威付けのために人から頼まれるそばから二つ返事で快諾していただけで、実際には一冊の辞書にも編纂に携わった事がなかったそうです。
 またこれ以外にも自身のスピーチも予定してあった知人の結婚式に出席し、出された食事を平らげたもののなかなかスピーチの出番がなくて係員に確認すると、なんと赤の他人の結婚式に出席していた事が分かって慌てて帰ってきたという話や、息子の春彦氏に来ていた原稿の執筆依頼を自分宛に来ていたと勘違いして慌てて原稿を書いて出していたなど、お人好しで慌てん坊だったという人柄が窺える話が数多くあります。

 最後に蛇足かもしれませんが、知名度で言えば圧倒的に金田一京助の方が息子の金田一春彦氏より上ですが、私の中国語の恩師によると言語学における功績で言えば春彦氏の方が遥かに勝るそうです。本日この記事を書くために春彦氏の略歴を調べてみた所、なんと中国語発音で基本となる四声の研究を初め日本の方言などを詳しく調べており、すごい人物だったのだということに気づかされました。
 これは私の邪推ですが春彦氏は一年だけ京都産業大学に在籍していたそうで、京都なだけにもしかしたら私の恩師はその時期に春彦氏の知遇を得ていたのかもしれません。今度あったら聞いてみよう。

アントン・ヘーシンク氏の逝去

 本日、東京五輪柔道無差別級金メダリストのアントン・ヘーシンク氏が母国オランダで逝去されたとの報道がありました。

ヘーシンク氏が死去=東京五輪柔道金メダリスト(時事通信)

 ヘーシンク氏については過去に書いた「柔道の精神」の記事ですでに取り上げていますが、改めて彼の柔道国際化における功績や東京五輪で見せた柔道精神を考えるにつけ惜しい人物を亡くしたという気持ちが湧いてきます。

 自分はそれほど柔道の試合中継などを見ることは多くありませんが、一時代を彩るスポーツのエピソードとなると話が違ってあれこれ必死で覚えようとしております。ヘーシンク氏の東京五輪決勝もその一つですが、非常に引用しやすく含蓄のあるエピソードなだけに、当人がなくなった今後も出来うる限り語り継いでいきたいと思います。

  おまけ
 「柔道の精神」を書いたのは2008年ですが、その頃と今とを比べると随分とこのブログの記事の書き方も変わってきております。書いてる側の言い訳ですが、私は元々400字詰め原稿用紙に手書きで小説を書いてきており、句読点などのリズムもその頃に培いました。見ている側からすれば文字なんてどれも一緒に見えるかもしれませんが、フォントの大きさや縦書きか横書きか、そういった種々の要素によって案外文章というものは見方が変わってくるもので、比較的小さい文字で横書きで表示されるブログでは句読点は少なく流し読みしやすい形のがいいと思って現在の形になってきました。誤字、脱字は未だに多いけど。

2010年8月26日木曜日

小沢一郎氏の代表選出馬について

 前々からいろいろ取りざたされてきておりましたが、本日ついに小沢一郎氏が来月に行われる民主党代表選に自身が出馬する事を表明しました。のっけから私の意見を言わせてもらうと、またくだらない事が始まったなぁという風に感じました。

 そもそもの話、今の菅首相が総理職についたのは鳩山前首相の突然の辞任を受けた六月の事でした。それから今までまだ約三ヶ月、間に選挙を挟みましたがこの時点で総理がまた変わるかもしれない代表選を行う事自体まともな状態ではありません。
 第一、民主党は三ヶ月前の代表選で菅氏を自ら選んだにも関わらず選挙が終わるやまた引き摺り下ろしかねない行為を現在行っており、これでは民主党が政権を私物化していると言ってもおかしくないでしょう。民主党の中ではそれは問題ないかもしれませんが、自民党政権時以上に総理をかわるがわる変えてくるというのは国際的な信用をなくさせるだけで、さすがの私もこの始末にはいい加減にしろと言いたくなってきました。

 それで次回の代表選ですが、下馬評ではやはり小沢氏が有利とされています。私自身も現時点では小沢氏が勝つだろうと見ておりますが、まがいなりにも自ら担ぎ上げた菅総理を選挙で勝てなかったからという理由だけで自ら引き摺り下ろそうとするなんて組織として、人間としても民主党は疑わしく感じますし、資金問題で全く説明責任を果たしていない小沢氏がこうして堂々と総理になろうとする事一つとっても異常な気がします。

 私は何も菅総理を支持しているわけでなく、むしろ過去に彼が起こしたカイワレ騒動から資質を疑ってはおりますが、それ以上に小沢一郎氏の資質と人間性を私は疑っております。人間性については言わずもがなで資金問題から岩手めんこいテレビの私物化などからですが、資質についてはもう少し詳しく説明しておきます。

 この辺は姉妹サイトの「陽月旦」にも書いてありますが、かつて彼が導入を主張した政策は小選挙区制を始めとして現時点で大部分実現しております。では現在小沢氏はどのような政策を主張しているのかと言うと、はっきり言いますが小沢氏はここ数年は何一つ政策について公で発言した事はありません。政治的に何を導入したい、変えたいといった考えは恐らく、現在の小沢氏は本当に何も持っていないんじゃないかと思います。

 では小沢氏が総理になったらどうなるか。私の予想では多分すぐに自民党と大連立して主な政策運営は自民党の連中に任せて、本人はその政策の進行に合わせて私腹を肥やしていこうとすると思います。すでに沖縄普天間基地の移設先付近の土地は購入済みだそうですし。

 悪口ばっかであまりまとまりのよくない記事になりましたが、また政治が政策ではなく政局によって停滞する事となったのは非常に残念です。まだ政策論争で代表選が行われるならともかく、今回は初めから数取りゲームだしなぁ。

2010年8月25日水曜日

住宅ローン破産の増加について

 先日、つっても二週間前の朝日新聞の記事で、近年住宅ローン破産が増加しているとの報道がありました。

住宅ローン破綻増加、競売6万戸 甘い審査が落とし穴(朝日新聞)

 私がこのブログを始めた当初に書いた「日本版サブプライム問題」の記事にて、経済評論家の荻原博子氏が「ゆとりローン」の問題性を指摘しこのような住宅ローン破産が今後増えると指摘していた記事を紹介しておりますが、その予想は見事に当たり、その後のリーマンショックを受けて景気が大幅に悪化したのを受けてこのような住宅ローン破産は増えているそうです。

 今回朝日新聞の記事にて取り上げられたローン破産者のケースは住宅購入以前に消費者金融に借金があったにもかかわらずローンを組んでおりお世辞にも計画性があるとは思えず私はそこまで同情を覚えませんが、実態的には堅実な人生設計をされていた方でもローン破産に追い込まれて家を手放さざるを得ない人が多数いるかと思います。
 ただこれら住宅ローン破産で本当に怖いのは、家を手放さざるを得ないと言う事以上にその後も手放した住宅のローンを支払い続けなくてはならないという事です。

 わざわざ説明するまでもないかもしれませんが車にしろ住宅にしろ、新品で購入した時点でその財産の資産価値はどれも半減します。ですので2000万円で住宅を購入して500万円までローンを支払った後で手放したとしても、販売価格は多く見積もっても1000万円で、差し引き500万円を最初の住宅購入者はその後も支払い続けなくてはなりません。しかもローンは三者は家を手放したのだから今度また新たに自分が住む部屋を借りなくてはならず、その部屋の賃貸料も合わせて支払っていかねばなりません。これは姉歯元建築士の強度偽装事件でも同様で、強度の足りていない住宅を出た元居住者には二重ローンという大変重い負担がのしかかり社会問題となりました。

 そんな住宅ローン破産ですが、つい最近に知ったのですがアメリカではこのような事態は起こらないそうです。というのもアメリカでは住宅ローンが払えなくなった場合、居住者は担保となっているその住宅をローンを貸し付けている銀行に差し出す事で一切の返済を免除されるそうです。

 最初これを聞いた時は私も少し驚きましたが、後から冷静になって考えてみると日本の制度、というより日本の銀行が行っている住宅ローンのやり方のほうがいびつな様に思えてきました。
 日本の住宅ローンの場合ですと、銀行は住宅購入資金を購入者に貸し付けた時点で利息分の儲けがほぼ確定します。それゆえに今回の朝日新聞の記事で取り上げられた例やかつての住専問題のように、実際には支払能力のない、将来ローン破産を起こしかねない人間を半ば騙す形で貸し付けたとしても全く損害を受けるどころか安全に利益を得られます。それに対し住宅購入者はローン破産というリスクを持たされた上で銀行に対してローンの支払いと共に利息を払い続けねばなりません。

 私は商道というものは基本的に、リスクを持つ者が利潤を得るべきだという風に解釈しております。然るに日本の住宅ローンの場合はリスクを全く抱えない銀行が安全に利息を稼ぐ一方で、巨大なリスクを抱える住宅購入者が銀行に利息を払っており、どう考えても銀行がずるい商売をやっているようにしか見えません。実際にこのような制度ゆえに日本の銀行はローン開設者への審査が甘いといわれ、ローン破産者の発生を誘発させているという指摘もあります。

 こういう風に考えるのであれば、不用意に支払能力のない人間にローンを組ませると銀行がしっぺ返しを食らうというアメリカの制度の方がずっと理に適っている気がします。まぁそれゆえにサブプライムローン問題では銀行が一気に不良債権を抱える事となって大混乱となったわけですが、私はこの際日本の銀行もアメリカを見習って、ローン破産が起きた場合には残った債権額を破産者と折半させるくらいのリスクを持たせた方がいいと思います。

 こういうところがあるから、銀行屋はどうも好きになれない。

2010年8月24日火曜日

円高株安と日銀の対応について

 ちょうど昨日一昨日と友人とこの話題について話をしたので久々に時事ネタとばかりに、今日のトップニュースを飾った円高株安と無策と批判されている日銀の対応について私の意見を書こうかと思います。

 まず円高株安についてですが日本円は昨日の時点で1ドル85円と、まるで1ドルが100円以上だった時代が遠い昔のように感じられるまでに値上がりしております。言うまでもなく日本は自動車を始めとして工業製品の大量輸出によって経済を成り立たせており、対ドルレートが1円変動するだけでもその影響は凄まじく、去年くらいの情報ですが確かトヨタは1円円高になるたびに200億円、ソニーは40億円くらい差益が減少すると報じられてた気がします。任天堂はどうなんだろうか、イチローの給料は安くで済むようになるだろうけど。

 そんなわけで日本は建前としては円安に、それも1ドル100円前後で推移する事が一番望ましいとされているのですがここまで円高になってしまうとにっちもさっちも行かず、円高につられる形で株価も下がって今日はとうとう日経平均が9000円を割りました。このような事態を受けて日銀や政府が何かしら為替介入などといった強い経済対策を出すのではないかと取りざたされましたが、今に至るまで具体的な発表がなく市場関係者からも落胆する声が上がってきております。

 ここから私の意見になりますが、まず現段階で日本人はやや大騒ぎしすぎな気がします。確かに企業経営者にとっては頭の痛い事態ではあるでしょうが一般庶民はトレードでもしてない限りは株価がいきなり実生活に影響するわけでもなく、日本経済の行く末をいちいち心配しててもしょうがないでしょう。また円高についても確かに輸出については不利になりますがその逆の輸入に対しては全く逆で、円高となれば日本はこれまでより安くで外国から物資を購入する事が出来ます。日本は工業製品輸出国である一方で化石燃料といった資源の大量輸入国でもあり、それを反映してか今年上半期は円高が続いていたにもかかわらず貿易収支は一貫して黒字が拡大し続けておりました。まぁこれは一時的なものかもしれませんが。

 あくまでこれは私のざっくばらんな見解ですが、私は今の日本経済の実態に近い日経平均株価は実質的には8,800円くらいと見ております。この数字ははっきり言ってほぼ私の勘で出してますが、この数字を出した根拠としてはデフレが続いている事と、日本の財政に対して信頼性が減っている事、そしてなによりも未だに市場において排除と淘汰が進んでいないという事を考慮してのものです。なもんだから、今のこの株価の状況についても実態に近づいてきていて、8,800円を下回ったらむしろ日本株は買いかなぁとか呑気に思っています。

 円高についても似たような感覚で、日本と中国が必死で買い支えしてきたドルがようやく化けの皮が剥がれたというか、日本としては困るかもしれないけど本来あるべき数値になりつつあるという風に見ております。
 またこの円高に対して日銀の対応がよく批判されていますが、確かに日銀は五年位前から偉そうにしている割には何一つまともに動いておらず、利上げを行わなかった事で当時に竹中氏からもこっぴどく批判されていました。私もここ数年の日銀の対応には給料泥棒だと言いたくなる点が少なくありませんが、昨今の急激な円高については友人の、「今回のはFRBの発表を受けて起こった世界的な動きだから日銀一人が逆立ちした所で食い止められるものではない」という意見に同感で、日銀を攻めたところでしょうがない気がします。

 またすでにゼロ金利政策を長年やってきている事で日銀が取りうる手段がないというのも事実ですが、昨日の「テレビタックル」で勝谷誠彦氏が、

「日本には未だに大量のタンス預金があると言われているのだから、聖徳太子の肖像画が描かれている一万円札は今年までにしか使えないと期限を切ってデフォルトを行うと宣言すれば皆急いで銀行に預金するのでは。そうすれば一気に大量の資金が流通するようになるだろう」

 という意見を言っていて、これは聞いてて少し面白いと感じました。
 まぁ円高傾向はまだしばらく続くでしょうし、あんまり慌て過ぎずに嵐がやむのをゆっくり待つ落ち着きも必要かと思うのが今日の私の意見です。

2010年8月22日日曜日

未来を見る視点距離

 人間誰しも、人それぞれに未来を見る視点というか視野に入れている未来があるかと思います。例えば大学受験を控える受験生であればどの大学に入ってどんな生活をしたいか、就職を控える就活生ならばどんな会社でどんな仕事をしていきたいのか。またこうした進路に限らず漠然と何歳くらいで結婚して、何歳くらいで部長になって、何歳くらいで引退するなどの未来でも構いません。
 こうした未来を見る時間軸はそれこそ千差万別で同じ個人にとっても状況によっては違った未来図があるかと思います。ただこの時間軸はいうまでもなく長短があり、ありていに言えば遠い将来を見越して行動している人もいればその日をどうするかだけしか考えずに行動している人もいるでしょう。

 一般的には五年先、十年先など将来を遠く見越せる人の方が偉いような言われ方をしていますが、私に言わせるならば何でもかんでも予想通りに上手くいくことなんてほとんどないんだし、あんまりにも先のことを細々予想し過ぎる人もどうかと考えています。諸葛亮みたいにピタリピタリと当てられるなら話は違うけど。
 特に近年は社会変化がただでさえ早く、そういう意味では現代人は今と言うか近い未来に集中して素早く対応するようになってきて、十年先といった将来に対して強いビジョンを持たない人、特に若者の間で多くなっているような気がします。

 ただこの傾向は若者に止まらず、穿った見方をすれば社会全体、それも政治の世界でこそ強いのではないかと私は考えています。これはどういうことかというと、今の日本の政治は突き詰めていえば「バブル崩壊前のあの栄光の時代を如何に取り戻すか」という議論ばかりで、日本を今後どのような国に変えていくかという意見が全く見当たらないからです。

 バブル崩壊前の栄光の時代というのは言うまでもなく「経済力の強い日本」というイメージで、経済力が国として大事なのは間違いありませんがそれにしても他の国と比べて日本は経済力に対して強い執着がある気がします。これなんか以前に会った人が言っていたことですが、日本の株価や為替が一般的な庶民の生活にはほぼ直結しないにもかかわらず日本人はいちいち大騒ぎしすぎるきらいがあるとして、なんだか言われた自分も少しドキリとしました。

 私も何度かこのブログで書いていますが、人口が減り続けている社会は労働力がそれだけ減るので自然と経済力も低下していきますが、その分社会を支えるために必要とされる労働力も減るので日々の生活が即貧しくなっていくということはありません。ただ年金を始めとした社会保障などは計算方法が変わっていくので制度をいじる必要はありますが、ゼロ成長にはゼロ成長に対応すればいいだけで成長がないからといってすぐ国が破綻するわけではありません。
 それを今の日本の政治家はなんとしても昔のあの良かった時代を取り戻そうとしてあれこれ金をつぎ込み、結果的には借金だけを残してしまったのですが。

 この話が最初の未来を見る視点距離とどう関係しているのかと言うと、私は今の日本の政治家、並びに大半の日本人はもう失って取り戻す事の出来ない過去を無理に取り戻そうとして破滅しかかっている、言うなれば未来を見ずに過去だけしか見ていない状態なのではと言いたいわけです。また個人レベルでも何も考える必要のなかった子供時代、気楽にできた学生時代ばかりを懐かしんでは未来の幸福を追わないという、これは今に始まったわけじゃありませんが過去へのしがみつきがちらほら見られます。

 私は何も遠い将来を見越せとまでは言うつもりはなく、家に火のついたような状態であれば今をどうやって生きるかに集中する事の方がずっと大事です。ただ一番まずいのは過去を省みるのではなくしがみつくということで、これは時間だけを消費して何も残るものはないでしょう。

 ちなみに私は今、とある事情で「今」をどう生きるかに強く集中するようになっております。何もサバイバルな状況にあるというわけじゃありませんが、五年後、十年後をあまり考えず、今年と来年をどうやっていくかだけを考えて行動を取っております。まだまだ冒険したい年頃なのかもしれません。

2010年8月21日土曜日

中国工場でのストライキ続発について

 これまたちょっと古いニュースですが今年に入って中国の外資系工場でストライキが多発している事が報道されるようになり、中でもホンダの部品工場の例は日本の大メディアなどでも大きく取り上げられていましたが、この中国で起きたストライキに関する報道を見て私が感じたのは他のメディアが言っているような中国人労働者の待遇問題とかそういったものよりも、中国政府が外資に対して対応を変えてきたなという考えが一見して浮かびました。

中国、外資でスト多発 日系が7割、ネット・携帯で連鎖(朝日新聞)

 今月の文芸春秋でもこの中国のストライキ問題が取り上げられており、内容を簡単にまとめるとストライキの主役は20代前半の若者たちばかりで、彼らは上記リンクに貼った記事に書かれているように携帯電話やインターネットなどを駆使して互いに連携を取ってストライキを起こして雇用側に給料や待遇改善を要求した。これらのストライキが起こるようになった背景として中国での一般の若者の教育水準が上がり、労働に対価が見合っていないと感じると以前以上に不満を覚えるようになっている……といった感じです。
 この記事は実際に現地で取材された方が書いていて決して記事の内容が的外れだと言うつもりはありませんが(何故か記事の冒頭に記事を書いた女性記者の笑顔の顔写真があったのが気になったけど)、もう少し掘り下げた見方があってもよかったという気がしました。

 私もあまり偉そうに言える立場ではありませんが、このストライキ事件の報道を見て私がまず最初に気になったのは、ストライキが起きたとされる工場が全部外資系だったということです。
 当初の報道では外資系工場では本国の社員(ホンダだったら日本人社員)に対して中国人労働者の給料は著しく低く、そういった賃金格差からくる不満がストライキに繋がったと一部では言われていました。しかし賃金格差なんて何も外資系に限らず中国では沿岸部と内陸部では本当に同じ国かと思うくらい差があり、中国系工場であっても監督を行う工場長と労働者の間では中国人同士でも大きな差があるとも聞きます。それにもかかわらずどうして外資系だけでストライキが起こったのか、言ってしまえばどこかの外資系工場が発端となったとしても中国系の工場に波及することも十分考えられます。

 結論を言うと、今回のストライキ騒動は中国政府が格差に不満を覚える底辺労働者たちへのガス抜きとばかりに外資系工場でわざと誘発させたのではないかと私は考えました。もしくはストライキ自体は中国系工場を含めかねてから各所で起こっていたものの中国政府はこれまでそれを一切報道させなかったが、今回やはりガス抜きのために外資系工場でのストライキに限って報道を認めたのではないかと思います。

 そもそも中国ではストライキに対してちょっと特殊な事情があります。現在の中国は紛れもない資本主義国家ですが一応は社会主義国という建前のため、労働者主役の国でストライキが起こることはありえないと言い張ってて憲法でもこういう論法でストライキ権が認められてないそうです。そのため断言してもいいですがこれまで中国でストライキが起きたということは公式的にはないとされ、報道も「違反をした雇用者に対して労働者が対抗した」という事例以外は一切ないと思います。

 それが今回どうして報じられるようになったかと言うと、同じ中国国内であまりにも広がった格差とそれに対する不満を少しでも和らげるために、労働者側がスカッとできるようにストライキが一部成功したというニュースが必要だと中国政府が考えたのではないかと思います。ただそれが中国系企業だとやっぱりまずいので敢えて外資系に絞り、「ずるい外国人が中国人から搾取していた」という組み立てで報道を認めた、というのが私の大まかな見立てです。

 私がこう考える根拠はというと、最初にリンクを貼った朝日新聞の記事の内容です。見出しにもある通り今回のストライキはホンダを初め外資は外資でも日系の企業に七割も集中しています。これは何故かと言うと先ほどの考えに則ると、中国政府としては日本は叩きやすい存在で、元々中国国民は一部で反日感情を持っているからガス抜きに使いやすく、またストライキが大きな問題となっても欧米と比べてあまり文句を言って来ない、という風に中国政府が考えたんじゃないかなと。

 あくまで今日ここで展開した話は私の意見で必ずしも正しいという可能性はありませんが、仮にこの考えの通りであれば中国政府はこれまで割と積極的に受け入れてきた外資に対して対応を変えてきた、ストライキを誘発させてくるようになったとも考えられ、今後の日中貿易を考える上でも見捨てては置けない事件だったのではないかというのがいつもの通り回りくどい今日の私の意見です。

中学校時代の友人の作文

 私が中学生の頃、国語の授業でこれまでに何か感動した内容をテーマに作文を書かされたことがありました。この時に私がどんな作文を書いたのかは覚えていないのですが、当時の私の友人が書いた作文の題と書き出しは未だによく覚えています。その内容というのも、以下の通りです。

  K君の頭
 ある朝、学校に行くとK君の頭がウドカットになっていた。


 この話の内容を簡単に解説すると、作文を書いた友人と私とで共通する友人であるK君が日曜日に床屋に行って髪を切ってもらっている間に寝ていると、なんと起きてみたらお笑いコンビのキャイーンのボケ役であるウド鈴木氏と同じ髪型、俗に言うウドカットにリアルにされていたのです。もちろん当時からキャイーンは人気でしたから学校に来るなりK君の突然のイメチェンはあっと言う間に学年中に知れ渡り、噂を聞いて見に行ってみるとマジでウドカットだったので私も爆笑してました。

 しかもそのK君、かねてから眼鏡をかけている点などでキャイーンのツッコミ役である天野氏によく似ていると言われていたので、この時ウドカットになった際は「頭はウドで顔は天野」だということで、「一人キャイーン」というあだ名が一時期付けられる事となりました。もちろんK君も望んでウドカットになったわけじゃないので髪を元に伸ばしてからは二度とウドカットになる事はありませんでしたが、あの一時期限定のインパクトは今でも強く印象に残っております。

 それはさきほどの作文を書いた友人もそうだったらしくて、事件から一年位後に「お前どうしてあんな内容で作文書いたんだよ」と私が聞いたら、「だって俺、あの髪型に感動したんだもん!」と強く言い返されてしまいました。

2010年8月19日木曜日

韓国、中国とは対話が出来るか

 大分期間が空きましたが、菅首相が村山談話に続く形で菅談話を行って韓国に対して戦前の日本政府が行った行為を謝罪した一件を題材に取って、今日は東アジア外交の話を簡単にしようと思います。菅首相の談話の中身については私自身が詳細に検証していないので敢えてここでは触れずに謝罪をした対象の韓国、ひいてはこの関係でよく一緒に揉める中国が果たして対話が出来る相手なのかどうか、その点について自分の知る範囲で書いていきます。

 まず韓国についてですが、言ってはなんですが対話ができるかどうかとなると私はあまりこの国を信用しておりません。残念なことに韓国政府はこれまで一巻として日本を仮想敵国に仕立て上げ、そんな日本を批判することで政権の支持率維持をどの政権も図ってきている節があります。もちろんこのような政策は韓国に限らずどの国でも行っており、かくいう日本も小泉政権の頃は意図的に中国を相手にやっていた節がありますが、韓国に対して私が最も呆れたのは今も揉めている戦前の個人賠償請求問題についてです。

 内容をざっくばらんに話せば戦前の日本の統治下で強制連行といった非人道的行為(なかったという人もいますが、私はこういう行為はあったと考えております)を受けた方個人に対して日本政府が賠償をするべきだという韓国側の主張なのですが、日本側としては国交回復の際に結んだ日韓基本条約内にて、「日本政府は韓国政府に対して援助を行う変わりに、韓国政府は個人賠償請求を放棄する」という文言があるとして言い合いを続けてきました。
 少なくとも日本は国交回復後に韓国に対して当時の韓国のGDPの三倍にも及ぶ経済援助を行っているのは事実でそれにもかかわらずどうして韓国側は個人賠償請求をかたくなに主張するのかと疑問に思っていたら、なんと韓国側では支持率低下を恐れてこの文言を国民に対してひた隠しにして、つい最近の2005年になってようやく公開したそうです。でもって案の定支持率が落ちたそうだけど。

 そりゃどの政権だって支持率が落ちるようなことをわざわざしたくないという懐具合も分かりますが、これまで援助を行ってきたにも関わらず一方的に本来される必要のない請求で文句を言われ続けてきた日本人の私からするとやっぱり納得がいきません。第一国家同士で結ばれた正式な条約を国民に隠してきたなど言語道断、と言いたい所ですが、沖縄返還時や核持ち込みに関する密約の事を考えると日本もあながち強くは批判できないものです。

 ただ韓国は、これは中国でも同じですが日本が行ってきた経済援助やODAの事実を意図的に隠す政策を取っており、これまでの外交の経緯を考えると政府から政府への謝罪や賠償を行ってもなかった事にされてほとんど効果は望めないと私は見ております。
 これは実際に私が知り合いの中国人から聞いた話ですが、彼が言うには中国人は日本が一言謝ってくれさえすればいいのに日本は日中戦争をまるでなかったことにしようと振舞っているのが我慢できないと考えていたそうで、そんな彼に例の村山談話からこれまで日本が中国に対して行ってきたODAの話をするとこれらの事実を全く知らなかったために非常に驚いていました。ちなみにその中国人は日本に五年以上住んでて、自らを「京橋のキムタク」と自称していましたが。

 さすがに韓国人の知り合いは少ないのでこのような話をしたことはないのですが、どうも韓国人も中国人同様に日本の政府発表による謝罪や経済援助の事実を全く知らないんじゃないかと思います。これだけインターネットが発達した時代ではありますが私自身も日本語での情報しか常日頃は殆んど見ませんし、仮に相手側が正しい情報を主張していたとしてもそうは簡単に信じず母国側の情報に頼ってしまう可能性が高いでしょう。そうなるとここで私が展開する話もぼろぼろと崩れて行ってしまうのですが、国際政治をやるとなるとここら辺をどう料理するかで実力が決まってきます。

 話は戻って果たして対話ができるかどうかですが、やはり現時点でも韓国、中国共々この辺の問題ではあまり期待は出来ません。ただ以前と比べるのであれば、私は両国とも大分やりやすい相手にはなってきたとも考えております。
 韓国の李明白大統領は日本同様に北朝鮮に対して強硬派であり、前盧武鉉政権と比べても感情的というかその場凌ぎのような発言が少なく慎重で、ここしばらくの韓国大統領の中でもまだマシな交渉相手ではないかと見ています。ただ日本に対してはやっぱり厳しい目を持っているようなので、隙を見せずにやっていく必要があるでしょう。

 それに対して中国の胡錦濤総書記ですが、聞けば驚かれるかもしれませんが私はこの人は日本に対して相当我慢してくれているなといつも感心します。確かに靖国問題などで揉めはしましたが、仮にあの問題が江沢民前総書記(日本嫌いの日本語上手)の時代であれば反日デモはあんなもんじゃすまなかったでしょう。またガス田問題、領海侵犯問題などこのところ中国は日本に対し強硬な姿勢を見せていますが、これらの中国の行動は中国からしたら「付け入る隙があるから付け入っているだけ」とでもいうべきか、非常に合理的で利益に則して行動しています。これは逆に言えば日本側に付け入る隙がない、このような行動を取ると利益よりも損の方が大きいと思わせれば控えてくるのではないかと楽観的かもしれませんが私は考えております。
 元来中国の政治家は利に対して非常に貪欲で感情的な行動は少なく、譲歩に対して相応の見返りを用意する事でまだ話し合いが出来る相手ではないかと見ております。しかしこれまた逆に言えば、何もデメリットがなければ中国は国際常識を無視していくらでも日本に圧迫をかけてくる可能性も高いという事ですが。

 結論を言うと、韓国も中国も政府相手となるとあまり信用が出来ない相手で、政府も変な友愛精神とかで譲歩してもなにも日本の利益に結びつかないのではないかと私は考えています。ただ近年は昔と違って政府だけでなく民間レベルの交流がしやすくなり、本当に小さなエピソードとかで国民感情ががらっと変わってきたりするのでそういったところから攻めて行くのも悪くない気がします。
 そんな手段の一つとして以前に私が考えたのは、中国のアイドルは鶏がらのように痩せている女性が多いので、ここは一つグラマーな日本のアイドル陣を大挙して中国に送り込めば一気に見方が変わるのではと提案しましたが、友人らからは相手にされませんでした。
(ノД`)

2010年8月18日水曜日

記録に残る外国人野球選手 後編

 昨日の前編に引き続き私的外国人野球選手の特集です。今回は現役選手も何人か入れてきます。

6、宣銅烈(中日)
 韓国の至宝とまで呼ばれて鳴り物入りで中日に入団するも一年目は不調でしたが、二年目以降は日本のプロ野球に馴染んで当時横浜にいた大魔神こと佐々木主浩氏とともに38セーブの記録で最多セーブ賞に輝き、その後も中日の優勝を牽引するまでの活躍を見せてくれました。

7、ロバート・ローズ(横浜)
 今回私がこの記事を書こうと思ったきっかけとなった選手で、横浜ファンにとっては未だ忘れられないほどの活躍を残した名選手です。このローズ氏がいたころの横浜はまさに黄金期で、マシンガン打線とまで呼ばれた継ぎ目のない打線の中で鈴木尚典氏と共に中軸を担って98年の優勝に大きく貢献しました。
 ローズ氏を語る上で外せないのはプロ野球史上唯一の三度のサイクル安打という大記録で、その長打力はもとより確実にヒットを打つ打率も半端ではなく、99年には打率.369、打点153、本塁打37という恐ろしい記録を残しております。またこの打点153という記録が示している通りにチャンス時の勝負強さは圧倒的だったらしく、塁に走者を置いた状態でローズ氏を打席に立たせる場合は押し出しとなってでも敬遠する価値があるとまで解説者に言わしめております。

8、ロベルト・ペタジーニ(ヤクルト、巨人、ソフトバンク)
 かねてから外人スカウトの力量に定評のあったヤクルトが引っさげてきたのが、現在ソフトバンクに在籍するこのペタジーニ氏です。
 ペタジーニ氏は二度のホームラン王に輝いた長打力ひとつとっても特筆に価するのですが、それ以上に恐ろしいと言えるのが異常な出塁率です。よく日本にやってくる外人長距離打者は前回にも紹介したラルフ・ブライアント氏が「三振か本塁打か」と言われたようにその長打力に比して三振数が多いといわれがちですが、ペタジーニ氏はそのような外人長距離打者の割には選球眼が非常によくて四球を得て出塁する事が多く99年と01年には最高出塁率タイトルも獲得しております。またそうした選球眼のよさが効いているのか比較的直球を好む傾向が強い外国人打者の中でも変化球に強く、日本にいた時代は毎年安定した成績を残してスランプらしいスランプがないのも立派なものです。
 そんなペタジーニ氏ですが、2004年に巨人を退団してから六年後の今年になってまさかソフトバンクに移籍してくるとは夢にも思いませんでした。しかも移籍後初ホームランがサヨナラだし。

9、タフィ・ローズ(近鉄、巨人、オリックス)
 阪神に在籍したランディ・バース氏と並んで「史上最強の助っ人」との呼び声の高いこちらのローズ氏ですが、バース氏同様にその打撃力は驚異的と言わざるを得ません。01年の本塁打数は最後の試合がまた王監督のいるソフトバンクに当たったために記録更新こそならなかったもののシーズンタイ記録の55本を打ち、その他の年もシーズンを通して出場した年はほぼ毎年ホームラン王争いに絡む活躍をしております。特に近鉄時代は現楽天の中村紀洋氏と共に「いてまえ打線」を作り、持ち前の長打力を生かして見事優勝を勝ち取っています。
 ただローズ氏はこうした打撃面以外の記録と言うか、やや不名誉なものですが退場記録数が通算で14回とこちらは日本歴代最高記録です。悪い人ではないのでしょうが、やや血気盛ん過ぎるための記録と言えるでしょう。

10、ホセ・フェルナンデス
 多分私だけでしょうが、よくフェルナンデス選手のことを「球界渡り鳥」と呼んでおります。
 その打撃力はどの球団も認めるもののそれを失って余りある守備の稚拙さゆえにチーム構想から外れるや次々と球団を渡り歩き、その回数なんと日本球界だけでも五回という陳記録を作っております。ちなみにその移籍の経過はと言うと、

ロッテ→西武→楽天→オリックス→西武

 と、ある意味便利と言えば便利な存在ですけど、近年の日本球団はどこぞの馬の骨を連れてくる位なら日本で実績を残した外国人選手を招聘するようになっていることがこのフェルナンデス氏の移籍数に影響しているでしょう。

11、アレックス・ラミレス(ヤクルト、巨人)
 野球をあまり知らない人にとってもすでにおなじみのラミレス氏ですが、十年にも渡って日本球界で長くに安定して活躍するその実力はさすがいう他ないでしょう。ホームランは毎年30本前後打ち、また安打についても右打者としては史上初めてシーズン200本安打を打つだけあって抜群の成績ですが、その一方で外国人選手にありがちな三振数の多さも半端でないために出塁率が低いという欠点もあります。
 ただラミレス氏はそうした試合での活躍のほかに自ら率先して行うファンサービスやパフォーマンスの面での球団への功績は計り知れず、もはやお馴染みとなった「ゲッツ」がダンディ坂野氏の持ちネタとは思えないほど定着しております。それにしてもダンディ坂野氏もまさかプロ野球選手に持ちネタを奪われることになるとは思わなかったろうな。

2010年8月17日火曜日

記録に残る外国人野球選手 前編

 以前に「記憶に残る外国人野球選手」という記事にてこれまでに日本プロ野球にやってきた印象的な外国人野球選手を紹介しましたが、今回は「記憶」ではなく「記録」にこだわり、これまたインパクトの強い外国人選手をここで何人か紹介しようと思います。

1、チャーリー・マニエル(ヤクルト、近鉄)
 1973年、当時のヤクルトは補強として大リーグからジョー・ペピトーンという選手を獲得したものの、この人物は一癖ある人物でシーズン中にも関わらずしょっちゅう勝手に試合を休み、果てには来日してから二ヶ月で勝手に帰国してしまう問題人物でした。このペピトーン氏の行動に当時の日本球界も怒り、補強とはいえ今後は大リーグの選手を迂闊に呼んでいいものかという大騒動になったのをアメリカにも伝わり、ペピトーン氏の行動に対するお詫びを込めてドジャースが人物、能力ともに安心して任せられる人物としてヤクルトに送り込んできたのがこのチャーリー・マニエル氏です。
 その期待通りにマニエル氏の参加を受けてヤクルトは急成長し、マニエル氏は来日二年目には打率.316、42本塁打、97打点という成績を残してヤクルト悲願の初優勝に大きく貢献しました。しかしその年のオフに当時の広岡監督のチーム構想から外れて近鉄にトレードとして放出される事となりましたが、移った先の近鉄ではかねてから不安のあった守備でなくてもいい指名打者で大活躍して見事近鉄は優勝しています。
 因みにヤクルト、近鉄共にマニエル氏が退団した翌年は最下位に転落しており、如何にその実力が抜きん出ていたかが分かるエピソードです。

2、レロン・リーレオン・リー
 この二人は実の兄弟にして日本球界に大変長く貢献してくれた二選手です。
 兄のレロン・リー氏は実働11シーズンで、4000打数以上の打率は.320でこれは日本人選手を含めた歴代最高の記録で、外国人としての通団打数1579本はタフィ・ローズ氏に抜かれるまでずっと一位でした。
 対する弟のレオン・リー氏は兄のように本塁打王といったタイトルこそ縁がなかったものの実働十年間は終始安定した成績でロッテ、大洋、ヤクルトといった三球団を渡り歩き、それぞれの球団でシーズン30本塁打以上を打ったという特殊な記録を残しております。

3、ランディ・バース(阪神)
 未だ「史上最強の外国人助っ人」との呼び声も高く、阪神ファンにとっては神にも等しいこのランディ・バース氏ですがその在籍中の記録もその異名に違わず桁外れの記録を持っております。
 阪神が優勝した1985年はいわゆる「バース、掛布、岡田」のバックスクリーン三連発が語り草ですがこの年は打率、打点、本塁打、出塁率、勝利打点となんと打撃五部門で最高成績を残して実に五冠王となっております。本塁打については最終カードがあの曰くつきの巨人戦であったために王貞治氏の持つシーズン55本塁打に一本届かなかったものの、日本シリーズでもシーズン同様の活躍でMVPを取っております。
 翌1986年も打率.389、47本塁打、109打点という記録で前年に引き続き打撃主要三部門で三冠王となり、特に打率については未だ破られていない日本記録として君臨し続けております。

4、ウォーレン・クロマティ(巨人)
 巨人の黒くて強い人といったら未だに印象の強いこのクロマティ氏ですが、彼の特筆すべき記録はシーズン規定打席数を終えた時点で夢の打率四割を達成していたものの、その後の試合でこの四割を保てず.378でシーズンを終えたという事実でしょう。仮に規定打席数を達成した後の試合に出場しなければクロマティ氏は打率四割というシーズン記録を残していたということで、その長打率と相まって当時のピッチャーからは恐れられていたのだろうというすごい記録に思えます。

5、ラルフ・ブライアント(近鉄)
 ホームランか三振か、これほどまでに極端なバッターは恐らくブライアント氏以外には今後も出てこないかと思います。近鉄に在籍してチームの顔から優勝の立役者となり大いに球団に貢献したブライアント氏ですが、その記録を見ると実にとんでもない珍記録を連発しております。
 まずホームラン数についてはやはり異常な量で三度の本塁打王獲得はもとより、ここぞという打席でホームランを打ってくるその圧倒的な勝負強さには目を見張ります。まずその第一例目はプロ野球史に残る1988年の伝説の「10.19ダブルヘッダー」の第二試合でのホームランで、これはもはや試合自体が伝説なので今後も語り継がれていくでしょう。
 そして近鉄が優勝した翌1989年、この年もシーズン終盤まで優勝争いがもつれてまさに天王山となった西武とのダブルヘッダーの第一試合では郭泰源氏から二打席連続ホームランを放ち、変わってスクランブル登板した渡辺久信氏からは更にホームランを放ちこれがこの試合の決勝点となっております。しかもブライアント氏はこの年にすでに五度も一試合三本塁打を打っていたため、王貞治氏の記録を抜いてこのシーズンは合計六回という大記録を樹立しています。続く第二試合目は一打席目は四球で歩かされるも二打席目ではまたもホームランを放ち、なんと四打席連続ホームランを一日で達成しています。たださすがに四度のホームランは体への負担も大きかったらしく、その晩はブライアント氏の肩が上がらなくなったそうです。
 そうした華々しいホームランの記録の外で三振の数もまた異常な量で、なんと現在に至っても歴代シーズン三振記録では一位から四位までブライアント氏の記録です。見ているファンの側としては非常に楽しみな選手ですが、使っている監督からしたら扱いづらい選手この上ないでしょう。それにもかかわらず優勝に導いた故仰木彬氏はさすがと言うか。

 まだリストアップしている選手が何人かいますが、続きはまた明日にでも書きます。

2010年8月16日月曜日

「真相報道 バンキシャ」が続いている理由

「真相報道 バンキシャ」が何で続くの?

 上記リンクは去年に書いた記事ですが、何故だが今でも時々拍手を受けたりして読まれている不思議な記事です。まぁ書いた内容についてはどうにもならない日本の放送倫理についても触れているので満更でもないのですが、この記事で私が疑問に挙げた内容についてその後続報を受けているので折角なので紹介しておこうかと思います。

 この記事で私が疑問に挙げた内容というのは、この番組が大々的にも報じたにもかかわらず結局は根も葉もないデマだった岐阜県の裏金疑惑について、誤報道の責任を取って当時の日テレの社長が引責辞任をしたのですが問題のある放送を行ったこの番組事態は何故か続けられ、一年経った現在も報道が続けられております。普通に考えるなら社長が引責辞任するくらいの放送をしたのであれば番組自体が潰れて当然なのですが、どうしたわけかこの「バンキシャ」は続けられて結果的にはこの番組の打ち切りよりも日テレ社長の首のが軽かったわけですが、この奇妙な日テレの責任の取り方はちょっと裏があったようです。

 前回の記事を書いた直後にある放送関係者にこの問題を振ってみた所、なんでも当時の日テレの社長をナベツネこと渡辺恒夫読売新聞会長が気に入っておらず、あの岐阜県の裏金疑惑の誤報にかこつけて社長職から飛ばしたというのが実情だったそうです。
 日本のテレビ局と新聞会社は資本関係から他国と比べて別メディアながら密接な関係にありますが、日テレ読売グループに至ってはかねてよりその意見方針などの点で他局と比べても強い関係にあると言われておりました。しかしそれにしたって、かつてのプロ野球巨人軍の原監督の左遷を含めてこんなめちゃくちゃな人事がまかり通って問題ある番組が存続してしまうというのはもはや看過出来るレベルじゃないでしょう。まぁ誰かさんが老衰でくたばれば丸く収まる話かもしれないけど。

 ついでに書いとくと「バンキシャ」のメイン司会者の福澤朗氏ですが、この人は「バンキシャ」で自分のキャリアを潰してしまったんじゃないかなとこのところ思います。一応日テレからフリーに転進してからは「ピンポン!」など報道番組を持っていたけどこれも去年で終わっちゃったし、その後も何か特別番組などで司会を任されることもなければ他の番組でゲストとして出てくる姿もほとんど見ません。っていうか、「バンキシャ」でしか見ないし。

 ちなみにアナウンサーと言うかテレビ司会者業界はこれから結構荒れてくるような気がします。大分年いっているけど読売新聞の本来は解説員だけど司会を任せれば一流の辛坊治郎氏がとうとうフリーに転身したし、これまで全く主流にいなかった池上彰氏が各番組に引っ張りだこになっている点といい、これら新人材へのキャスター入れ替えを狙って各局で報道番組の再編が行われるかもしれません。
 ちなみ最後の大物とされているのは言わずと知れたTBSの安住紳一郎氏で、彼がフリーに転身する時が現状で予想しうる最大のビックバンになると私は見ています。

2010年8月14日土曜日

自分のクローンを作りたいと一緒に思った友人

 私が高校生だった頃、ある日の生物の授業で遺伝が取り上げられておりました。教師は遺伝の概要を説明するとともにすでにクローン羊を生み出す事に成功している事に触れ、理論上はもう人間もクローンを作れる状態にあると説明し、仮に作れるなら自分のクローンを作ってみたい人はこの中にいるのかと尋ねたところ、手を上げたのは私と私の友人の二人だけでした。

 この時何故私が自分のクローンを作ってみたいと思ったのかというと、仮に自分のクローンを自分で育てた場合、自分と同じ性質の人間に成長するのかどうかを試してみたいと思ったからでした。要は人間の性質は先天的な要素か後天的な要素、どちらの方が影響度が高いのかを試してみたいと率直に考えたからです。まぁ自分で育てたらあまり意味ないかもしれませんが、その辺も含めて比較しようと。

 ところがこんな風に考えるのはやっぱり少数派だったようで、案の定と言うか授業の後には見事に友人らから気味悪がられました。

「お前なんでクローンなんか作りたいと思うんだよ?」
「面白そうでいいじゃん。別にこんなの人それぞれじゃないか、気味悪がる事ないだろ」
「いや、お前がクローンを作りたいと思った事よりも、お前とあいつ(私と一緒に手を挙げた友人)の二人だけがクローンを作りたいと思った事が気持ち悪いんだよ」

 こういうのもなんですが、この時に私と一緒にクローンを作ってみたいと手を挙げたその私の友人は控えめに言ってもかなり変わった友人でした。性格ははっきり言ってわがままそのもので、よく授業が終わった後は資料集を持って延々と教師に対して質問を通り越して個人指導を申し込み、あんまりにもしつこくやるもんだから終いには教師に怒られる事もあった生徒でした。
 そんなこの友人ですが、何故だか私と馬が合って高校時代はよく一緒になって行動を起こしていました。確かセンター試験会場を下見に行く時も一緒に行った覚えがあります。

 現在、この友人は社会人経験を経て国立大学の医学部を目指して勉強をし続けております。この経歴自体が特筆に価するほどその友人は面白い人生を歩んでいるのですが、今思うとあの時私と一緒にクローンを作りたいと考えただけあって好奇心が人一倍強い性格は未だに変わりがないようです。対する私は理系ではなく文系に進みましたが、好奇心はともかくクローンを作ってしまえという無鉄砲さは未だに持ち続けているような気がします。

2010年8月11日水曜日

続、児童虐待致死の厳罰化機運について

母親を殺人容疑で再逮捕 2幼児遺棄 「食事与えず死んだ」(産経新聞)

 上記リンクに貼った大坂での二児放置事件の詳細についてはすでに各所で報じられているのでわざわざここで説明しませんが、何度もこんな事は繰り返してはならないと事件のたびに報道されるもののまたもこうして痛ましい事件が起きてしまったというのは残念な事この上ありません。

 さて以前に私は「児童虐待致死の厳罰化機運について」という記事にて近年次々と明らかになる児童虐待事件を受けて、社会的にも虐待を行った親に対して厳罰化、具体的にいうなら現在主に適用される「保護責任者遺棄致死罪」ではなく「殺人罪」、もしくはもっと重たい刑が課されるような法改正をすべきだという機運が高まっており、早晩法改正が行われるのではという意見を書きましたが、すでに現時点で司法界もそのように認識が切り替わってきているようです。

 先にも述べました通り、これまでの幼児や児童の虐待致死事件では上記リンク先のニュースにも書かれている通りこれまでは「保護責任者遺棄致死罪」という刑法によって虐待を行った親は裁かれるのが一般的だったのですが、今回のこの大坂の事件では幼児らに対して明確な殺意があったとして(死ぬとわかってやっていた)初めから「殺人罪」で起訴される事となりました。またこの事件が目立ってこちらはやや隠れがちですが、

女子高生、乳児殺害容疑で追送検へ 神戸・側溝遺棄事件(朝日新聞)

 こちらの事件は女子高生がトイレで生んだ赤子を放置して死なせたという悲しい事件ですが、こちらも大坂での事件同様に殺人罪で起訴される運びとなっております。

 なんだかんだ言って、検察も昨今の社会的影響を考えてか児童虐待に対して厳罰を以って望もうとしているように感じられます。全部が全部、社会的の空気に影響されて物事の基準が変わるというのは問題ではありますが、私はこの児童虐待については倫理上でも社会的観点からでも厳罰化は歓迎すべきだと考えております。

 ここで話は少し変わりますが、今回の大坂の事件とよく似たケースとして1988年にこんな事件がありました。

巣鴨・置き去り事件(オワリナキアクム)

 この事件は主演の柳楽優弥氏の好演で話題となった「誰も知らない」という映画のモデルとなった事件ですが、今回の大坂の事件同様に母親が幼い子供五人を部屋に残したまま殆んど家に帰らず、たまに長男にだけお金を渡して何年にも渡って置き去りにしていたという事件です。結果から言えばこの五人の兄弟のうち二人は死亡していたのですが、この事件の最も奇妙というか理解しがたいというべき点として、近所に住む大人たちが誰もこの家族の存在に気がつかなかったという点です。同じく親に見捨てられた子供の話でも死刑判決を受けた永山則夫の例では見かねた近所の住人が福祉事務所に連絡を行っていますが、大坂の事件でもこの巣鴨の事件でもそういったことはついには起こりえませんでした。

 別にそれで近所の連帯がどうたらこうたら言うつもりはありませんし、いまさらそんな牧歌的な時代に立ち戻ろうとするよりも目下の虐待を防ぐためにも児童相談所といった行政の権限を強める事の方が大事だと私は思いますが、100歳以上の高齢者で行方不明者が相次いでいる件と絡めて考えると、今の日本社会は誰とも付き合わなくともそれなりにやってけるようになったと感じます。それを退化と取るか進化と取るかは人それぞれですが。

 最後に巣鴨の置き去り事件について、この事件の裁判で子供を置き去りにした母親には「懲役3年、執行猶予4年」の判決が下りていますが、仮にこの事件が今年に起きていたらまず間違いなく執行猶予はつかなかったでしょう。この差についてちょっと表現し難い感情を持ちえますが、時代の違いだと言って割り切るしかないでしょうね。

2010年8月10日火曜日

日本の首相の選ばれ方

 近年、日本の首相は猫の目のようにめまぐるしく一年ごとに変わっておりますが、そもそも日本の首相はどういった基準で選ばれるのでしょうか。法的には日本の首相は国会議員の中から選ぶという制約以外は自由ですが、憲政の常道という事で与党の代表者が就任する事が戦後では慣例となっているため、日本の首相は基本的には与党の代表者とイコールだと考えてもいいです。ではその与党の代表者が選ばれる基準は一体何なのかというと、結論から言えば選挙を有利に運べるような知名度があってイメージのいい人間ということだけしかなく、この事実こそが近年の日本政治を最も混乱させている原因の一つだと私は考えております。

 話は昔に遡って戦後から平成に至るまで首相はどう決まっていたのかですが、この頃は数の力というか、自民党内の派閥の人数が首相を決める上で大きな指標となりました。それでも佐藤栄作の頃までは前任者が在任中に暗に後継者を指名するような形で決まっていましたが、田中角栄が首相になったあたりからは派閥を構成する力こと資金力が徐々に物をいうようになって行き、竹下登内閣でのリクルート事件発覚を受けてこうした金権政治に対して国民の倦んでいったような印象を覚えます。

 その後自民党の下野や社会党との村山富一連立内閣を経て橋本龍太郎内閣に至り、また元の自民党政治こと派閥で大勢が決まる政治体制に戻りかけたのですが、小渕敬三の急逝を受けてこの流れが大きく変わることとなりました。小渕敬三の後はこれまた派閥の兼ね合いから密室の談合を経て森喜朗氏が首相となったわけですが、これがまた結果が悪くかつてないほどの支持率を受けて当時はリアルに自民党は次の選挙でまた下野するだろうとみんな考えていました。そんな世論を自民党側もよく理解しており、ここで最大の奇手こと、従来の価値観からすると最も首相から遠いと思われていた小泉純一郎氏を総裁とすることでこの危機を見事に脱す事に成功しました。

 ここまでいえば分かると思いますが、日本の首相が国民受けがいいかどうかで決まるようになったのはまず間違いなく小泉内閣からです。ただ仮にこの小泉内閣が失敗していればこの動きはその後も続かなかったのかもしれませんが、皮肉な事に小泉内閣ががけっぷちだった自民党を見事に立ち直らせてしまったのでその後釜にも国民的人気の高かった安倍晋三氏が後継につくこととなってしまいました。

 もうそこからはあまり語る必要もありませんが安倍氏以降の日本の首相は、福田康夫氏は多少微妙ですが、どれだけ知名度が合って国民受けがいいかの基準でもってしか選ばれず、言ってしまえばそれ以外の面にについては全くと言っていいほど問われる事がありません。麻生太郎氏に至っては明らかに政治家としての資質が非常に疑わしかった人物にもかかわらず自民党は総裁に立て、案の定その資質のなさから自民党を本当の意味で壊してくれました。
 その麻生氏を選挙で下した民主党からは鳩山由紀夫氏が出て首相となりましたが、こちらの在任中は惨たるもので、政権末期には思わず「どうしてこうなった……」と言いたくなるような状況でした。この鳩山氏も麻生氏と同じく政治家としての資質、というよりも毎年1500万円も母親から金をもらっていながら知らぬ存ぜぬと言い張る辺りかねてから一般人として見ても相当に疑わしい資質の人間ではありましたが、そんな人間でも首相になってしまっています。まぁこの人について言えばその金の力でなれたんだろうけど。

 そんな鳩山前首相の後継が今の菅直人首相ですが、こちらも私の目からするとかつての「O-157カイワレ原因説」を過去に不用意に口にしているなど、やはり政治家としての資質に疑わしい点が多い人選だという気がします。もちろん他に首相を張れる様な政治家が現在いないというのも原因かもしれませんが、それにしたって知名度以外にももう少し選ぶ基準という物がある気がします。また知名度や国民受けがいいというだけで首相が選ばれるというのであれば、その時点で「選挙のための政治」というより他がない状態でしょう。

 かつての派閥の力関係で首相が決まる自民党のやり方が正しいと私はいうつもりはありません。ただ知名度だけで選ばれるという今の状況よりは、以前のやり方のほうが確実にマシだったとは主張します。またこうした議論となるとすぐ「首相公選制」の導入が叫ばれますが、首相公選制ではますます知名度だけで決まりかねないために私は反対です。

 さらに苦言を呈すと、日本国民も知らず知らずのうちに知名度だけで首相が選ばれる事に慣れてしまっている気がこのところします。ちょっと前に菅氏の後には誰が来るのかという論評をどっかのメディアが行い、仕分けで名を挙げた蓮舫氏を挙げたらそれに対してネット上でいくらなんでもそれはありえないなどと反応が起こり、なんだかんだ言って盛り上がっていたのを見たことがあります。
 別に蓮舫氏が悪いと言うつもりはさらさらありませんが、そのネット上の反応を含めて彼女がどのような政策案を持ってこれまでどのようなスタンスを取ってきたかについて言及がなく、ただ仕分けについてだけでしか議論がなかったのをみて私には物足りなさをどうにも感じました。中には蓮舫氏が台湾系日本人だからという意見を言う人もいたけど。

 じゃあ私は誰なら首相にいいかといえば、この際日本のためにまともにやってくれる人なら男性だろうが女性だろうが、少年だろうが年寄りだろうが、なんだったら外国人であっても構わないという考えをしています。そもそも戦後の日本で最も偉大な政治家を挙げるとしたら、いつもダグラス・マッカーサーを挙げてる位だし。