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2015年5月31日日曜日

千葉のマッドシティ~ラーメン屋「とみ田」

 先日に私は松戸市にある有名ラーメン屋さんとして、私の潜伏地近くにある「兎に角」というお店を紹介いたしました。ここの店先は常に行列が出来ていてさぞ有名なラーメン屋なのだろうと思い紹介したのですが、「『兎に角』も有名店だが、それ以上に『とみ田』のが有名だぞ」と、リアルマッドシティ市民の友人が何をかいわんやと言ってきました。
 誠に恥ずかしながらそれほどラーメン、というより食に対してそれほど興味を抱かない性分なため有名ラーメン店のチェックなどほとんどしたことがなく、この「とみ田」というお店についても全く知識を持っておりませんでした。そうした反省を兼ね、先日日本に一時帰国した際にこちらのお店をちょこっと訪問してきたので、一つこのブログでも紹介しようと思います。



 まず「とみ田」がどれだけ有名なお店なのかというと、飲食店ランキングサイトの「なんとかデータベース」のラーメンランキングの項目を見てみると、なんとこの「とみ田」はこの記事の執筆時点で堂々の2位に入っております。先日見た時は3位、ついさっき見た時は1位だったので小幅ながら順位に変動はあるものの、間違いなくランキング上位の常連とも言っていいお店で全国的にも有名なお店のようです。なお先日紹介した「兎に角」は37位に入っており、全国ランキングとことを考えるとこちらも相当な有名店でしょう。



 そうした下調べを経て、空いた時間に松戸駅からやや東南側にある「とみ田」の店先へ行ってみました。時間は昼過ぎの2時くらいで、なんでこの時間帯にしたのかというと訪問してラーメンを食べるつもりが全くなかったからです。なんでラーメン店の取材なのにラーメンを食べる気が全くなかったのかという、友人情報だとこの店はガチな有名店で常に行列が出来ていると聞いており、さすがに長時間並んでまで食べたいとまでは思わず、ひとまず写真だけ撮って記事書こうと考えていたからです。
 そう考えながら店についてみると、上の写真の様に実際には誰も並んでおりませんでした。一体何でやねんと思いつつ入り口前の看板を見てみると、どうもこの日は休業日で、自宅でも作れる麺とスープがセットのお土産品しか販売していませんでした。


 できればごっつい行列でも撮っておきたかったなと思いつつカメラを回していると店の中から店員が私に近づいてきました。「げっ、撮影で注意されるかな(;´Д`)」と思ってやや身構えたところ店員はこの日は休業であるとまず謝罪し、「もしよければ上記のお土産品など如何でしょうか( ^ω^ )」と話しかけてきました。偏見かもしれませんが有名ラーメン店の店員は横柄な人が多いように思っていただけに、この店員の親切な対応を変に感じ入ってしまって言われるがままお土産品の「つけそば」を購入することにしました。
 なおこの購入時に店員へいくつか質問をしたのですが、なんでも店長がお店にこれない日は原則的に休業となってお土産品の販売だけになるそうです。また普段はどれくらい行列が出来るのかと聞いたところ、「土日であれば3時間待ちということもありますね」と話しており、なんかいろいろと考えさせられました。


 そんなやり取りを経て買ってきたお土産の「つけそば」が上記写真です。右上のラップはトッピングのねぎで、他にはスープと麺がそれぞれ入っておりました。なおこの日はお昼に「日高屋」の味噌ラーメンを既にというか2時間前に食べていましたが、時間置くのが妙に嫌だったから結局潜伏地帰ってすぐ作って食べることにしました。なんでこう変にせっかちなんだろう。
 作り方は普通の即席麺と同じでスープを温めた後に麺をお湯でほぐし、それぞれお皿に盛って完成です。


 盛りつけ後の配膳が上記写真です。スープの中にはトッピングのねぎのほか、やや見え辛いですが分厚いチャーシューも入っております。あと左上にある時計は友人が置いているものですが、実際時間より5分ほど早く設定してあるのでちょいちょい鬱陶しいです。

 準備万端整えて試食してみたところ、一言で言えば「一線を画すラーメン」という感想を最初に覚えました。一番変わっているなと思ったのは麺で、写真でもわかる通り比較的太くうどんっぽい見た目をしているのでちゃんと中までほぐれているか心配でしたが、不思議なくらいに麺の中心までほぐれており、それでいて歯応えが全く失われていないくて何で作っているのか気になりました。
 スープことつけ汁は濃い目の味つけがされており、私の舌感覚で言えばおいしいかったです。ただスープの味に関しては人によって多少好みが分かれるかなと思え、やっぱり私が気になったのは麺の方でした。

 あまり大した試食レビューになっていませんがこれは私が本当に食に興味が薄い事に端を発するため、どうかご容赦ください。ただ「とみ田」のラーメンは即席麺になって一般小売店などにも手広く販売されているため、それでよければ手に取ることはそれほど難しくはありません。実際、ヨーカドーでも売ってたし。
 最後のまとめとして、本当に今の今まで知らなかったのですがマッドシティこと松戸と、隣接する柏市のエリアは有名ラーメン店の激戦地だとラーメン通の間で見られているそうです。そこそこ長く住んでたけど案外知らなかったもんだ。

2015年5月30日土曜日

どうすれば日本は二次大戦に参戦しなかったのか

 先日、大学の先輩からアニメ「シュタインズゲート」を見るようやけに猛プッシュされました。どうもGW中が暇だったのかこのアニメを全部見て気に入ったようだったようで、ひとまず付き合う形で自分はアニメの原作となったゲームからやると言って、日本に一時帰国した際に購入し、つい先ほどエンディングを見ました。
 このゲームはどんな内容かというと端的に言ってアドベンチャーゲームで、基本はシナリオを楽しむだけのゲームです。ではどんなシナリオかというと悲惨な結末を迎える未来を変えるために何度もタイムリープして過去に戻るといういわゆるタイムトラベル物です。話自体はよく出来ていてそこそこ骨のあるシナリオでしたが、敢えて苦言を呈すと主題歌がちょっと悪いなという気がします。

 ここで話は変わりますが、歴史議論において「もし○○だったら」という仮定の話がよく出てきます。小説なんかだと「歴史IF物」としてジャンルも固まっている程ですが、二次大戦に関するものだと「どうすれば日本は米国に勝てたか?」という視点でよく語られることが多いような気がします。
 しかし本当に検討すべきはそこではないのでは、具体的に言えばどうすれば日本はあの無謀な戦争に参戦しなかったという点こそ議論すべきではないかとふと思え、今日は仮に自分がタイムトラベラーとなるのであればどうすれば参戦を回避できたのかという視点でもって、当時の未来改変ポイントを探ってみようと思います。

ポイント1、東条英機がいなかったら
× 東条の代わりはいくらでもいた
 これは断言してもいいですが、開戦時の首相である東条英機は確かに熱心な開戦論者であったものの、彼以外の陸軍幹部らもほぼ全員が同じ思想を持っていました。そのため仮に東条が存在しない、もしくは開戦以前に暗殺されていたとしても、山田風太郎のいうように「東条の代わりはいくらでもいた」というのがオチだったでしょう。
 ただ開戦後であれば、東条がいない、または暗殺されていればもう少し早く終戦できた可能性はあるかと思えます。実際に暗殺しようとした人たちも多かったし。

ポイント2、満州事変が起こらなければ
× 満州事変以前から日米間で中国市場の権益競争は起こっている
 日本が本格的に帝国主義でもって侵略を開始する第一歩となった満州事変ですが、これ自体は関東軍の独断専行による陰謀で、少しテコ入れすれば阻止できた可能性は高いです。しかし仮に満州事変が起こっていなくても日米は日露戦争以降から中国市場の権益を巡って競争しており、遅かれ早かれ何らかの形で衝突が起こったのではないかと私は考えます。これと同様に、盧溝橋事件に伴う日中開戦が無くても同じでしょう。
 もし本気で中国権益において日米の衝突を避けようものなら、日露戦争直後に満鉄経営でハリマンの出資を受け入れることしかなかったかもしれません。っていか、この出資拒否こそが日米戦争の根源たる原因だったと私は思います。

ポイント3、ソ連と開戦していたら
× 漁夫の利を得るタイミングで米国は参戦してくると思える
 日米開戦以前、具体的には独ソ戦開始と共に日本が日ソ中立条約を破ってソ連と開戦していたらという仮定です。仮にこのタイミングで日本がソ連領内に進撃していたらさしものソ連もスターリングランド戦はおろかモスクワまでドイツに占領されていたと断言してもいいでしょう。ただこのような状況になればさすがに米国もドイツを叩かねばと腹をくくる可能性が高く、何らかの口実でもって連合国側として参戦してきたのではと私には思えます。でもってソ連もモスクワを奪われた後も結構しぶとく戦ってきそうですし、大戦の結果も大きく変わらなかったのではと思えます。

ポイント4、軍部の暴走を抑え政党政治が続いていれば
× むしろ政党議員の方が好戦的だった
 はっきり言ってこれは論外もいい所ですが、軍部が台頭せず政党政治が続いていたとしても日米戦は確実に起こっていたでしょう。というのも当時の政党は贈賄が横行するなど激しく腐敗していた上に、下手な軍人よりも外交において好戦的で米国にも勝てると信じ込んでいた議員が多かったと聞きます。結局、手をかけるのが軍人か議員かの違いだけになるでしょう。

ポイント5、日独伊三国軍事同盟を結んでいなければ
△ 断言こそできないものの回避できた可能性がある
 当時の外交で一番致命的だったと言えるのがまさにこの日独伊三国軍事同盟で、ファシズム国家のドイツ、イタリアと結んだことによって英国やフランス、米国との関係を日本は一気に悪化させています。仮にこの同盟が結ばれず米英との関係を多少なりとも維持できていれば国民感情も違ってたでしょうし、場合によっては欧州の大戦勃発を受けて軍需による経済恩恵を日本が得ることも出来たかと思えると、日米戦は回避できたのかもという期待はもてます。
 ただ日本の中国への侵略はこの時既に始まっており、米国にとっては日本のこの行動は許し難い物であったことに間違いありません。そのため回避できたかどうかに関しては半々ではないかというのが私の見方です。

ポイント6、日本がハル・ノートを受諾していれば
〇 開戦する理由が日米間でなくなる
 敢えて象徴的な意味合いを汲んでハル・ノートという言葉を使いましたが、要するに日米交渉が妥結していればという仮定です。通商や中国問題を巡って日米間で協議が持たれ、最終的にこの交渉が決裂というか日本が投げるに至って真珠湾奇襲が行われることとなりますが、仮にこの交渉が妥結していれば日米の通商も復活し、また欧州大戦の特需も受けられて日米開戦は回避できた可能性が高いのではと思います。
 だた妥結した場合、日本は侵略した中国の領土、及び仏領インドシナからすべて撤退せざるを得なかったのは間違いありません。これは当時の日本から見れば大きな損失で、そのような条件を呑んだ場合は書く量の一人や二人は確実に暴動や暗殺によって死ぬこととなったでしょう。しかしそれでも、日米戦によって失われた損失に比べればそれは本当に小さな小さな損失でしかなく、日清戦争後の三国干渉を受け入れる度量があの時の日本にあればとつくづく思えます。

 以上が私が考えられる、主だった未来改変に至る重要なポイントというか歴史の分岐点です。いろいろ意見はあるでしょうが日本がもう少し粘り強く米国と交渉していれば、大局を見て中国から撤退していればあの戦争は起きなかったのではというのが私の見方です。
 ただこれらとは別に、大きな歴史の分岐点がもう一つ存在しています。

ポイントX、ヒトラーがいなければ
◎ 日米戦どころか二次大戦も起こらなかった
 また山田風太郎からの引用ですが、「東条はいなくても戦争は起こったが、ヒトラーがいなければあの大戦は起こらなかった」というのは恐らくどの歴史家の間でも一致する意見ではないかと思います。それほどまでにヒトラー一人の歴史における影響力は桁違いに大きく、彼一人の存在の有無だけで当時いた数千万、下手すれば億単位の人間の生き死にが変わったことでしょう。ヒトラーの代わりはおらず、ヒトラーはヒトラーでしかなれなかったと考えるとまさしく魔人といってもいい人間といえ、あれほどまでに世界史に影響を与えた人物はほかにはチンギス・ハンくらいかもしれません。
 となると私がタイムトラベラーとなる場合、なるべく早い時期にヒトラー暗殺をもくろんで過去へと渡ることになりそうです。なんかターミネーターっぽくなるけど、そもそもドイツ語出来ないから行くの面倒くさいなぁ。

2015年5月29日金曜日

食品ブランドに見るジェンダー

 今日帰宅中に何故か、雪男と雪女はいるのに何で雪オカマはいないんだろう、ジェンダーフリーじゃねぇのかよちくしょうという考えがよぎり、カウンセリングでも受けた方がいいのではと自分で心配になってきました。

 ここで出てきたジェンダーですがつい先ほど友人と話をしていたら食べ物のジェンダーの話になり、具体的に言えばお米のブランド名はどうして女性名が多いのかというの疑問が持ち上がってきました。実際に私が日本でお米を買う際は山形県の「つや姫」、秋田県の「あきたこまち」を選ぶことが多いのですが、どちらも女性を表すブランド名となっております。なお「つや姫」は以前に山形県知事から猛プッシュされてから選ぶようになりました。

ブランド米一覧

 上記リンク先で主要なブランド米の名前が載っていますが、こちらの一覧を見ても「ふさおとめ」、「きぬむすめ」、「ひとめぼれ」など女性をイメージさせるような名前がやはり多いです。もっとも、熊本県の「くまさんの力」、「森のくまさん」など異彩を放つブランド名も散見されますが……。
 業界の慣習なのかどうなのかまではわかりませんが、少なくともこうして眺める限りだとお米のブランド名には女性をイメージさせる名前をつけることが多いようです。しかしここは敢えてジェンダーフリーの精神でもって、どっかしらで男臭さ満点のブランド名をつけるところがあってもいいんじゃないかと思え、ないなら俺たちで考えようと友人としばし提案し合いました。

 まず真っ先に出てきたのは九州産のお米に「九州男児」。九州に関連するものだったら「九州男児」って付けとけば大丈夫だろうという安直さです。同じ九州なら私の生まれ故郷である鹿児島であれば「西郷札」にならって「西郷米」もアリではないかとも思えます。こっちも鹿児島なら西郷さん付けとけばとりあえずOKだろうって感じです。
 歴史人物で名前を付けるとしたら、迫力ある名前としてはお米の産地でもある新潟県出身の山本五十六が使いやすそうに思え、ここからもじるなら「五十六米」というなんか読み間違えそうな感じの配列になってしまうので、そのなんま「五十六」でいいんじゃないかとも思えてきました。この案を提示した所友人からは、「それだとむしろ日本酒の名前になってないか」とツッコまれました。

 この友人のツッコミからさらに発展したのですが、お米とは逆に日本酒には男性をイメージする商品名が付けられることが多いように思えます。いちいち名前までは挙げませんが地名を絡めるパターンが多いのですが「鶴」とか「鷹」って文字が加わる当たり、そこはかとなく男臭い加齢臭を感じる名前です。購買層が男性メインということからこれはこれで自然でしょうが、もうちょっと女の子らしい名前もあっていいように思えます。
 じゃあつけるとしたら何か、有名な女性名をつけるとしたら何かと話しになって真っ先に出てきたのは、「清酒 小保方 アルコール度数30%ありまぁす」だった当たり、あまり真剣ではなかったのでしょう。その延長で友人からは「佐村河内」という名称が挙げられ、ラベルにはもちろん「私が作りました」というメッセージをつけようということで一致しました。

 久々にふざけ切った記事内容ですが、要するに食べ物のブランド名にはそこはかとなくジェンダーイメージが固定されているということが言いたかっただけです。アメリカの台風は女性のヒステリーな性格と絡めて以前は女性名を付けることが慣習でしたが、ジェンダーフリーな世の中なんだし誰も想像できないような斬新なブランド名もあっていいかと思え、こうしたジェンダーの壁を越える思想実験もたまには悪くないと思えました。

2015年5月28日木曜日

千葉のマッドシティ~創学舎

 昨日の記事の流れというべきか、今日は大学受験時に私が通っていた「創学舎」という予備校について紹介します。

創学舎ホームページ

 この創学舎というのは松戸市や柏市などの地域に教室を置く、言ってしまえば地方予備校です。今は恐らく柏教室で行っていると聞きますが、以前は高校生向けの授業は新松戸教室で行われており、私もこの新松戸教室に大学受験時は通っておりました。
 そもそも何故この創学舎に入ったのかというと、高校に進学して親から予備校は入れ、ここなら近くて比較的安いと言われたので言われるがままに入りました。自転車で通える範囲内だったし。

 講義科目は高校生向けに限れば高一と高二は英数の二教科、高三からはこれに現代文、古典、漢文、日本史、物理、化学、小論文が加わってきますが、私の時代もこれと同じでした。私は高一から入学して最初は英数、でもって高三からはたしか国語系科目と日本史、それと小論文を取っていた気がします。
 授業はここもお手製のテキスト、っていうかコピー機で印刷したものを無理やり閉じた手作り感溢れるテキストが使用されてましたが、テキスト内容は今思い返してもよく整理されていた内容で、大学に進学した後も英語なんかは折に触れて読み返したくらいです。また市販されている受験参考書についてもどれを使うべきか講師に相談すると熱心に教えてくれて、その参考書でわからない点があるとこちらもすぐ相談に乗ってくれました。

 私個人の主観で述べると、地方予備校とはいえなかなかしっかりした指導体制で、こと受験に臨むに当たっては信頼が置けるいい予備校だと思います。どの講師も毎年有名大学の受験問題を研究しており、また癖があるというかかなりキャラが濃い面々ですが、一人一人の生徒に対して非常に熱心に受験指導や相談に乗ってくれて、むしろここまで肩入れすると精神的に疲れないのかと逆に心配になるくらいの熱意でした。
 私もご多分に漏れず色々指導してもらい、特に京都の大学に通いたいと相談した所、「お前の場合は確かに一回家を出た方が良いかもな」と背中を押してくれて、決断に当たって大きな要因にもなりました。

 で、そんな創学舎ですが、多分私の本名を言えば何人かの講師は確実に私のことを覚えていることでしょう。別に目立つ気は全くなかったのですが、生来の性分というか何もしなくてもやたら目立つ傾向があり、通っていた頃はこの予備校でもかなり有名人になっていたと思います。
 具体的にどんなことをやらかしていたのかというと、授業中になんかのきっかけでプライベートの趣味はそれぞれなんだという話になり、「小説を書くこと」と自分が話したらじゃあその小説持ってきてと言われ、翌週の授業にでっかいケースの中びっしり原稿用紙積めて持って行ったら、しばらく講師の間で私の小説なりエッセイが回し読みされたそうです。なお読んだ講師の感想はというと、「どことなく坂口安吾のような雰囲気が感じられる」だそうです。多分斜に構えた態度だったからだろうな。

 こうした小説の話だけでなくてもどうも普段の授業態度や行動が目に留まっていたらしく、ある日ある講師から、「ついさっきも職員室でお前のことが話題になっていた」と言われ、どんな内容だったのかと聞いたところ、「あいつは頭がいい、でもノートに何も書かないっていう点で一致した」と言われました。
 これも私の行動の中でかなり顕著な行動で、授業中で教えられた内容はおろか、数学の途中計算式をやたらと省いてノートに書こうとしない所があります。具体的には数学の問題で出された式の後、途中式はなるべく暗算してすぐにイコールで回答を書こうとします。
 このような行動を見られて何度も講師からは途中式を書けと言われましたが、はっきり言ってその度に無視してました。別にその講師が嫌いだったわけじゃないのですが、なんかだらだらと計算式を書くのが面倒くさくて、「結果があってればそれでいい」とばかりに抵抗をし続けました。

 そんでもって極め付けは日本史の授業です。知ってる人には有名ですが私は日本史、というより歴史科目は昔からやたらと強く、小学校からずっと歴史だけは何も勉強しなくてもいつもハイスコアを叩きだしていました。多分日本史、世界史の両方をまとめていいなら、この予備校の中でも通っていた高校の中でも成績は私が一番よかったと思います。
 なもんだから、日本史の授業では実質的に私がペースメーカーとして扱われました。具体的にどんなかというと講師が授業中に誰かを当てて何か質問すると、

講師「○○、この時の人物は誰だ?」
生徒「わかりません」
講師「じゃあ××はどうだ?」
生徒「わかりません」
講師「よし、花園答えてやれ」
花園「□□です」

 という具合に、大体前二人が答えられなかったら私が最後に正しい答えを言って授業は進む形で、一種の進行役みたいな役割を演じてました。なお聞かれた質問には一回も打ち洩らさず、全部正しい答えを言っていたと記憶しています。
 またある日の日本史授業の際にも、一回だけおかしなことを言ったことがあります。

講師「このような過程を経て、アジア初の憲法である大日本帝国憲法が生まれたわけだ」
花園「先生、アジア初の憲法はオスマントルコのミドハト憲法です」

 というように、妙な釘刺しを一回やりました。後で講師も、「今まで日本史の授業を行ってきて一番ビビった」と言っていました。

 こんな具合で、割と好き放題にやらせてもらったこともあってか、まぁ楽しい予備校生活を送らせてもらいました。そういう恩もあってか大学に合格した後は購入した赤本を全て寄贈して、新年度の生徒募集を呼び掛けるチラシにも「お前の文章力が必要だ」と言われてこっちもやる気で宣伝文というか合格体験記を書いてよこしました。

 最後にちょっと本題とは外れるかもしれませんが、この創学舎ではどの講師にもとても親身に接してくれてこちらとしては本当にありがたかったのですが、こちらからしたら大学受験は一回こっきりの経験であっても、講師の側からしたら毎年のイベントで、その度に各年度の生徒たちに親身に接するとなると身が持たないのではないか、燃え尽き症候群にならないのかなと、大学に進学してから思うようになりました。親身に接してくれるのは確かにありがたいですが、生徒の側もそれに甘え続けてはならないのではないか、相談は受けつつも頼り過ぎてはならないという事実に、大学合格後に気が付いたのが私の失敗です。


 上のバナー広告の本は仲の良かった講師が書いた教育理念本です。私も読みましたが興味があればぜひ手に取っていただきたいのと、改めてみると男臭いタイトルだなぁって気がします。

2015年5月27日水曜日

千葉のマッドシティ~青沼英語塾

 地元民以外はすべて切り捨てているこの連載ですが、今日もまたマッドシティの周辺住民なら「ああ、あそこね」とわかるもののそれ以外だとちんぷんかんぷんな所を取り上げようと思います。そんな今日取り上げる場所というのも、松戸伊勢丹近くにある青沼英語塾という私塾です。

入っているビルとその周辺 


アップ写真

 青沼英語塾というのは松戸駅から徒歩数分の距離にある英語科目専門の予備校です。この塾は松戸市とその周辺では非常に有名で、以前見たネットの掲示板だと松戸周辺の現役生は市進予備校とこの青沼英語塾を掛け持ちするのが手っ取り早い受験攻略法だなどとか書かれてもいました。

 具体的にどういう塾かというと、今は増やしているようですが昔は講師が塾長ともう一人の二人だけしかおらず、受け入れる生徒数も定員が決まってて先着順でした。でもって授業はどんなかというとはっきり言えばスパルタ形式で、非常に厳しい言葉でガンガン授業を進めていくようなやり方で、質問に答えられなかった生徒に対しては「なんで答えられない!」と本気で怒鳴ることもありました。
 あと特徴的なのは使用する教材で、どれもこの塾オリジナルの教材が使われているのですがその中でも特に英単語帳は異彩を放っています。詳しくはこのリンク先を見てもらえば早いのですが、書名が何と「Final weapon」という若干中二病めいた名前で、中の内容もゴロ合わせの紹介が多かったりします。今でも覚えているのだと「Merge」の説明で、「合併?マジかよ」というフランクな言葉が確か載っていました。

 ここまで書けば見てわかる通り、ご多分に漏れず私もこの塾に通っていた時期がありました。ここは高校二年生から生徒の募集を行うのですが、英語が苦手だった私を慮ってかうちのお袋が朝一で並んで願書を出して入塾したのですが、私だけでなく同じ高校に通う近所の同級生も数人入塾してました。
 当時、クラスはAクラスとSクラスがあり英語がそんな好きでもないし得意でなかった私はAクラスを希望して入って授業にもそこそこついていけてたのですが、確か6月になって講師の塾長が授業開始と共に現れると、

「大変申し訳ないのですが、私の体調不良により今年度の授業を休講とします」

 という、かなり衝撃的なアナウンスと共に解散させられました。
 なんでも神経症の病気にかかって外に出るのも大変な状態だったそうなのですが、もう一人の講師が受け持つSクラスは通常通りに授業が進行されたのを考えると、クラス選択でミスったのかなと当時は思ったものです。ただ次年度、高校三年時は無条件で入塾できるようにするとも言われ、多少は納得いかないもののその場はそれで済ませました。

 ただ、面倒なことはこれだけではありませんでした。授業が休講となってから約二ヶ月後、確か8月だったと思いますが、青沼英語塾から休講となった代わりに市進予備校で代替の授業を行うという連絡が来ました。その連絡では市進予備校にいる講師に生徒を受け入れてくれるよう話しを済ませており、中断した箇所から英語科目を教えるよう特別クラスを作ってもらったと書いてありました。講師も適任となる人物を選んでいるということで休講中はここに通うようにと言われたので、既にほかの塾にも通っていましたが黙って市進予備校に行くことにしました。
 それで9月から通い始めたのですが、はっきり言って最初の連絡はでたらめもいい所でした。入塾料自体は連絡通りに無料でしたが、肝心の授業は中断した箇所とは全く関係なく、講師も大学生のアルバイト講師でした。別に悪い講師ではなかったものの教えられる内容はほかに通っていた塾で履修した内容がほとんどで、真新しく学ぶ内容はほぼ皆無と言ってもよかったです。そのため真実を知ってか毎週行くたびに授業に来る生徒は減っていき、私も2ヶ月くらい通って学ぶものはないと判断してやめました。

 そして翌年、高校三年となって前年の休講を詫びる手紙と共に入塾の案内が届けられました。内心この時点で結構胡散臭いと思うようにはなっていたものの親が通えと言うのでとりあえず入塾しましたが、私が入ったクラスを受け持つ講師は新しく入ってきた講師でした。
 授業自体は前年受けた塾長の物と比べるとピリピリした空気はなかったものの、何度も書いている通りによそに通っていた塾で履修済みの内容がほとんどだったためあまり学ぶものはありませんでした。そしたら一ヶ月後の確か5月、授業開始時間になったらそれまで受け持っていた講師ではなくいきなり塾長が来て、

「あの講師の授業進行は遅れが目立つのでやめてもらいました」

 と話し、別クラスを受け持っていた講師がこれからこのクラスも受け持つという事だけ伝え、新しい講師にバトンタッチして去っていきました。

 はっきり書きますがこの時点で心底見下げました。病気のため仕方がなかったとはいえ一年間の授業を休講し、通う必要のない予備校へ通わせた挙句に新クラスを受け持つ講師をいきなり引き摺り下ろすなど、なんで自分の通うクラスにばかりトラブルを起こすんだという具合に。
 何度も書きますがほかに通っていた塾の方が履修内容は既に大きく進んでました。しかし青沼英語塾の授業日とその塾の英語科目Sクラスの授業日が重なっていたため、その塾の英語科目で別の授業日にあるAクラスに私は在籍していました。塾内のクラス分けテストでは上位にいたためSクラスに行く資格は得ていたものの、このような理由から下のクラスに居続けなければならないのはおかしいと判断し、やたら引き留める親を説得し(さすがに殴ったりはしなかったが)て青沼英語塾を退塾することとしました。

 その後、私は別の塾、というか塾長とは今でもマブダチ(だとこっちは思っている)なのでもう名前出しちゃいますが「創学舎」で英語はSクラスに移籍し、そのまま大学受験を終えるまでそこに在籍し続けました。創学舎についてはまた今度記事を書きますが、青沼英語塾に関しては少なくとも私はあまりいい思い出がありません。むしろ当時はもっと怒ってもよかったかなと今でも思います。
 ただ通っていた生徒の話を聞くと英語の実力が上がったという人は多いので、通いたい人は通えばいいと思います。通いたければね。

 これで締めると愚痴っぽい内容で終わるので最後に英語教育について少し話すと、日本人が英語を苦手とするのは日本語と英語が明らかに相性が悪いということも大きいですが、それ以上に英語教育自体に問題があると私も感じます。たまに中学生向けのテキストを見るとかえって文法理解で混乱を引き起こしかねない説明の仕方がされているのを散見され、真面目に外務省と文部科学省がタッグを組むなどして英語教育の指針やノウハウを作るべきでしょう。まぁそんなこと言ってる暇あったら、自分ももっと勉強するべきなのでしょうが。

2015年5月25日月曜日

インパール作戦から帰還したプロ野球選手

 先週日本に一時帰国していた際にたまたま「報道ステーション」を見ていたところ、安倍政権への皮肉なのかインパール作戦の特集が組まれていました。これまた偶然ですがちょうどその頃、うちの名古屋に左遷された親父が持ってきた本の中に野戦指揮においては旧日本陸軍最強の呼び声高い宮崎繁三郎の本を読んでいたこともあり、インパール作戦についてネットで再び調べてみました。
 最初に呼んだのはWikipediaの記事だったのですが、その中でこの作戦に従軍していたプロ野球選手がいたと知り、興味を持ったことからそのまま調べてみたところかなり面白い人物だったので今日はこの方を紹介しようと思います。どうでもいいですが「知ってるつもり?!」のようなナレーションの仕方であるものの、そもそもこの番組を覚えている人は今どれくらいいるのやら。

川崎徳次(伝説のプレーヤー)

<来歴>
 川崎徳次は1921年に佐賀県で生まれ、高校を出た後はその野球の才能を高く評価した満州撫順炭鉱から誘われ、この会社が保有する社会人野球チームで投手として選手生活をスタートさせます。このチームで活躍したことから1940年には南海へと移籍してここでも剛速球を武器に活躍しましたが、1943年には陸軍に徴兵され、上述のインパール作戦に従軍する形でビルマに渡ります。

<インパール作戦への従軍>
 インパール作戦についてはほかの記事でも何度も紹介しておりますが、補給を完全に無視した無謀極まりない作戦で、膨大な数の死者が出ていますがその死亡原因の大半は銃弾によるものではなく餓死だったとされ、撤退路には死体が連なり「白骨街道」とも言われたほど悲惨な戦闘でした。この戦闘で部下を最後まで見捨てずに善戦したのが先程の宮崎繁三郎です。
 川崎もこのインパール作戦に従軍していたそうですが、戦地では偶然にも巨人の正捕手をかつて務め現役時代に川崎と交流のあった吉原正喜という人物と再会することとなります。階級が上だった吉原は川崎に食料や薬を優遇するなどしていたそうですが、彼は川崎とは異なり戦死し、遺骨も発見されませんでした。
 激しい戦争を生き抜いて終戦を迎えた川崎は戦後約1年間はビルマの強制収容所で過ごし、1946年に日本へと帰国します。帰国した川崎は当時の巨人の監督から誘いがあったことと、上述の吉原への恩義などから巨人への入団を決意し、プロ野球の現役にも復帰します。

<戦後の現役復帰>
 現役復帰した川崎は戦場でのブランクを感じさせないほどの活躍ぶりを見せ、1948年には最多勝利のタイトルを獲得し、翌1949年の戦後としては初めての巨人優勝にも実質的なエースとして大きく貢献します。巨人で優勝を決めた翌年の1950年にはプロ野球が2リーグに分裂したことを受け西鉄へ移籍し、ここでも名選手として活躍して1953年には5年ぶりの最多勝+最優秀防御率のタイトルを獲得しました。
 当時の川崎のピッチングは球速の速さもさることながら現代においても使い手の少ないナックルボールを使用していたそうです。ナックルを使い始めたのは西鉄に移籍してからだそうですが、それでも仮に戦時中の徴兵が無ければ生涯250勝も達成していたとまで言われています。

 その後、川崎は西鉄でプレイし続けましたが登板機会は徐々に減り、1957年に現役を引退します。引退後は西鉄でコーチや監督を務めたほか、阪神の投手コーチも務めたこともありこの時には当時新人だった江夏豊氏も指導したそうです。
 球界を離れた後は東京でうどん屋、ついで故郷の佐賀県鳥栖市で喫茶店などを経営し、2006年に福岡県内の病院で84歳の人生を終えておられます。

<珍記録満載の野球人生>
 以上の様に川崎は一選手として傑出した活躍ぶりを見せておりますが、彼の本領はそういったこととかではなく、とにもかくにもおかしな記録を数多く残していることです

 もっとも有名なのは1949年4月26日の巨人対大映戦で、この試合は小さい球場でなおかつ風が強かったこともあって両チームでホームランが量産されたのですが、飛び交ったホームラン数は両チーム合計で13本塁打にもなり、得点結果も15対13(巨人勝利)というハイスコアゲームでした。
 この試合で巨人から先発したのはまさにこの川崎なのですが、川崎がこの試合で打たれたホームラン数は8本で、失点数は13失点にも上ります。にもかかわらずなんと川崎はこの試合を最後まで投げ切り完投しており、この時の「13失点完投勝利」という記録は未だ誰にも破られていない日本記録で、恐らく今後も破られることはまずないでしょう。
 しかもこの試合にはもう一つおかしい点があり、というのも投手の川崎が4安打中3本塁打9打点を打ち出しており、自分が打たれた分だけ自分で見事に打ち返すという離れ業も決めております。川崎は元々、投手にしては打撃にも秀でた選手ではありましたが、このシーズンで本塁打を打ったのはこの試合だけで、なんていうか神が乗り移ったかのような記録を残しました。

 このほかにも日本プロ野球史上初の「1球での敗戦投手」にもなったかと思えば、同じく日本プロ野球史上で二番目となる投手によるサヨナラホームスチールも記録しています。なお史上初の投手によるホームスチールは阪神の御園生崇男が1942年に記録していますが、この時にホームスチールを決められた投手は川崎でした

2015年5月24日日曜日

取引先で出されたお茶のマナー

 最近記事に書きたい話が非常に多く溜まっており、ハイペースで書き綴っているものの準備しているネタをなかなか表に出せない状態です。この記事も今日二本目ですが、なんか最近一日二本書くのがやけに多いような。

取引先で出されたお茶、飲んではいけない? ネットで大激論(痛いニュース)

 そんなわけで本題ですが、ちょっと上記リンク先の話が気になったので私も一言書こうと思います。上記リンク先のまとめ掲示板では何が書かれているのかというと、訪問した取引先で出されたお茶を飲むか飲まないか、マナーとしてどうなのかというのが議論となっています。
 結論から言うと、出されたお茶はちゃんと飲むのが当たり前だと思うし、そもそもお茶程度でマナー云々を持ち出す時点でいろいろとどうかと思います。

 そもそもお茶が出されるということはホスト側からのもてなしであって、それをきちんと受け取らないというのはやはり避けるべきでしょう。第一、飲まなかったお茶はどうせそのまま捨てられることになるんだし、それであればちゃんと飲んであげる方が茶葉を作ってくれた農家に対しても礼儀を果たせるってもんでしょう。
 それこそお茶でなく手作り料理だった場合、それに手を付けずに帰るっていうのは逆に失礼なようにもみえます。もっとも、訪問先で手作り料理出されたらちょっと引くけど。

 その上で根本的な話をすると、こんな飲むか飲まないか些細なことでマナーを引っ張り出すなんて、疎外もいい所です。疎外とは簡単に言えば生活を便利にするために人間が作ったシステムがかえって人間の生活を縛って不便にさせるという概念ですが、マナーというのは本来、コミュニケーションを円滑にするために作られたシステムです。しかしこのお茶の議論だと本当に細かいどうでもいいような点で「マナーだからこうしなければならない。逆の行動を取る人間は駄目な人間だ」とすら言わんとする主張は、かえって人の行動を縛り付けなけない言い方で、はっきり一言で言えば聞くだけに不快です。

 なお私は以前いた会社で上司などと食事する際、出された料理は上司を差し置いて真っ先に箸をつけることでちょっと有名でした。「なんでお前そんな急いで食おうとするんだ?」と聞かれたこともありその際には、「単純に腹減っているのと、冷めないうちにすぐ食べることが作ってくれた人への礼儀になると思うからです」と言って不問にされました。
 まだ理解ある上司で助かったのと、自分の敬意の向け先はいつも遠いなって気がします。

取引先で出されたお茶飲んだ結果wwwww(アルファルファモザイク)

 ちょっと本題とは違いますが、たまたま今日上記の記事も見つかったので一応リンク付けときます。上でも書いている通りに出されたお茶は飲むべきだと私は思いますが、職業が忍者、もしくは以前に忍者の修行をした人なら飲まないのもまだ理解できるなと、この記事読んで思いました。