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2024年6月9日日曜日

秋葉原通り魔殺人事件の救命現場

「血液が両手の指の間から大量に溢れ出して…」2人の命を救った”通りがかりの民間人”が見た、壮絶すぎる光景《秋葉原通り魔事件から今日で16年》(文春オンライン)

 今年に入ってから読んだ記事の中でばこの記事と、その続きの後半記事が一番というくらい印象の強い内容でした。書かれている内容は約16年目となる2008年の秋葉原連続通り魔殺人事件の糾明現場におられた方のインタビュー内容で、当時の凄絶な現場とその後も思い悩む日々などが綴られています。

 この事件に関してはもう若い人の間では知らないという人も出てくるくらい年月が経っており、また犯人であった男もすでに死刑が執行されており、徐々に過去の歴史となりつつある事件です。確か当時のブログにも書いていたかと思いますが、たまたまですがこの事件で亡くなった大学生が自分の実家近くに住んでおり、別の用事で仏具屋に線香を買いに行った際に「もしかしてご友人ですか?」とお店の方に言われています。
 はっきりとその大学生だった方である裏付けは取れてはいないものの、公判記事で亡くなった方の友人の証言では車に轢かれて亡くなられたことが書かれており、家族や友人などからその死が惜しまれていたことを見るにつけ自分もいろいろ思うところがありました。

 話を戻すと、その前の地下鉄サリン事件の現場でもそうでしたが、救命現場では「誰を優先して治療するのか」という判断が医療従事者に求められます。言ってしまえば助かる見込みのない人間を見捨てる判断も要求されるわけで、その結果救える命が増えたとしても、実際の現場の方からすればぬぐい切れない感情を持つのも無理がありません。
 実際に上記奇異のインタビューアーの方も大きな精神障害を負ったようで、記事へのコメントなどを見るとこの方面の精神治療やバックアップ体制が必要だという声も見られます。これが米国ともなるとシェルショックこと戦場帰りの軍人の精神衛生問題を常に抱えており、もし有効な制度や対策があるなら日本もこの際学んでおいた方がいいかもしれません。

 その上で、この秋葉原の事件が起きた当時は通り魔をどう防ぐかが散々議論されましたが、結論から言えばそんな方法はまずないでしょう。どんなに安定した世の中でも価値観がおかしかったり、自分に都合のいい考えを外部に強制する人間っていうのは出てくるものです。強いて言えば、この手の人間があまり出ないよう社会のストレス環境を下げる、精神衛生環境をマシな状態に保つことが最善策に思えますが、自分で言っててできるならとっくにやってるって思います。
 もっとも被害を減らす方法としては、無責任な言い方をすれば通り魔現場では即射殺を警察に奨励するのも一つの手かと思います。ほかの事件でもそうですが、犯行が警察官を含む大勢の目の前で行われ疑いようがない状況の場合、裁判なんてまどろっこしいことする必要あるのかと前から思っています。裁判せずに犯人を射殺する、または裁判するにしても非常に簡素な審理で終えるなどは、してもいいのではないか思っています。

2 件のコメント:

ルロイ さんのコメント...

犯人の家庭環境を知る限りでは、隔離された家庭で酷すぎる教育を受けた子供が大人になって暴走した時に止める方法があるかということで、赤の他人にはどうしようもないんですよね。そもそもその教育を施した親もまたろくでもない教育の被害者だったりするので、世代を重ねた怨念の爆発が非常に危険としか言えないのが苦しいところです。
そう考えると、出生率は高ければよいものでもないとも思ってしまいます。

花園祐 さんのコメント...

 歪な家庭教育から解放するために学校としての公教育が整備されてきましたが、現在のように整備されてもこれだからという気持ちはありますね。子供の出生率に関してはハンガリーがかつて中絶禁止をして大量のストリートチルドレンを生んだ歴史があるだけに、人口比に合わせて出生数もある程度国がコントロールしないと、かえって不幸な子供を増やすことになるのでしょう。