尼港(にこう)事件と聞いて何のことかすぐに言えるような人は私と同じで恐らくどこか頭のおかしい人でしょう。私自身ですら復習しなければすぐに記憶から飛ぶような事件だし、一応大学受験の参考書にはちょこっとだけ書かれているけど実際の入試に出題された例は見受けません。
・尼港事件(どちらもWikipediaより)
尼港事件とは、第一次大戦期に日本が行ったシベリア出兵中に起きた虐殺事件のことを指します。この事件について解説する前にまず、シベリア出兵について話をしましょう。シベリア出兵とは何か端的に述べるなら、一次大戦の末期に社会主義革命が起きたロシア(ソ連)に対する列強による干渉戦争、いわば社会主義革命を潰すために行われた侵略と言ってもいいでしょう。
<ロシア国内の革命戦争>
一次大戦末期の1917年、ロシアでは十月革命が起こりレーニン率いるボリシェビキこと共産主義勢力が政権を握りました。こうした動きを懸念したのはほかでもなくイギリス、フランスをはじめとした列強各国というか連合国側で、彼らは対戦中のドイツとボリシェビキ政権が単独講和して東部戦線が解消されたことと、社会主義革命が他国に広がるのを恐れ、まだロシア領内でボリシェビキと主導権争いを続けていた勢力こと白軍を支援しようと企図しました。
ここでまた二度説明ですがレーニン率いるボリシェビキ勢力は「赤軍」と呼ばれ、これに対しボリシェビキに抵抗していたロシア国内の勢力をまとめて「白軍」と呼んでました。何故この白軍は「まとめて」というのかですが、実態としては「反ボリシェビキ」を掲げていた勢力を一括してこう呼んでいたため実体としては同床異夢な民主党のような存在だったらしく、共和制主義者、王政復古主義者、反レーニンな社会主義者などごった煮な状態で、説明するまでもなくまとまった行動が取れず歴史では結局赤軍に敗北することとなります。もっとも、勢いに乗じた赤軍が何故かフィンランドに攻め込んできたのですが、それに対して祖国防衛のために動いたフィンランド軍も白軍に数えられ、この中には二次大戦で活躍するマンネルハイムも指揮官として参加しており、一時は首都ヘルシンキを奪われたものの最終的には見事赤軍の撃退に成功しています。
<チェコ軍団>
話は本題に入りますが、このシベリア出兵が行われた理由は一に連合国による対戦国ドイツへの牽制、二にロシアの社会主義革命の粉砕でしたが、さすがにこんな理由を正直に出しては大義名分が立ちません。そこで取られたのが、ロシア領内で孤立していた「チェコ軍団」の保護、救出でした。
当時のチェコ(スロバキアを含む)はオーストリアによって統治されていて独立を果たせていませんでした。そこに目をつけたロシアは国内にチェコ独立を目指す義勇兵組織を起ち上げ、主に戦時中にオーストリアとの戦闘で捕まえたチェコ人、スロバキア人の捕虜を組み入れ、オーストリア軍との戦闘に出兵させていました。しかし十月革命の後、このチェコ軍団は所属先はおろか行先も決まらず、そもそも祖国もまだなかったことから行き場に困りシベリア地方で孤立することとなりました。
モスクワのボリシェビキ政権はこのチェコ軍団の取り扱いについて当初、武装解除の上でウラジオストクからアメリカへ移動することを認めますが、チェコ軍団の兵士が移動の過程でハンガリー兵と乱闘事件を起こしたことによりボリシェビキ政権は態度を硬化させチェコ軍団の移動を一時中止させます。これに対してチェコ軍団も現地に指揮官、最高責任者がが存在していなかったこともあって苛立ち、ボリシェビキ政権に対して蜂起し、再武装を始め、結果的に赤軍との戦闘を始めることとなりました。
このようにシベリア地方で孤立しながら赤軍と戦うチェコ軍団を英仏は「連合国の一員」であり救助の対象でもあるとし、ボリシェビキ政権へ干渉戦争を起こすいい口実になるとして兵士の派遣を決断します。しかしチェコ軍団のいるシベリアは欧州からみれば地球の反対側にあり、なおかつドイツとの戦争もまだ続いていたことから、地理的にシベリアに派兵しやすい位置にある日本と米国に対して出兵を要請します。
<日本の出兵と狙い>
日本は英仏からの要請に対して当初、「アメリカが出兵するのであれば兵を派遣する」と、アメリカの顔を立てる形で答え、その後アメリカが派兵を決定すると約束通り、1918年に出兵を内外に発表します。しかし遠慮がちな態度と裏腹に日本側は当初からやる気は満々だったと言われ、狙いとしては満州、シベリア地域で新たな領土を獲得するとともに現地に傀儡政権を立てて日本本土の防衛、領土拡張を最初から狙っていました。
事実、英仏の派兵規模が1000人前後、日本に次いで規模の大きかったアメリカが約8000人だったのに対し、日本は最終的に約7万3000人という異常な量の兵員を派遣しております。またその行動もエキセントリックというよりほかなく、当初はウラジオストックより先には進軍しないという規約があったにもかかわらず平気で破り、北樺太や満州地域はおろか、バイカル湖周辺にまで占領地域を拡大します。
こうした日本の行動に派遣国はほぼすべて懸念を示します。というのも派遣をしたその年の1918年11月に連合国と戦っていたドイツで革命が起こり一次大戦が終結し、背後(東部戦線)からドイツを牽制するという目的が無意味と化していたからです。しかもチェコスロバキアもこの際に独立を果たし、英米仏はしばらくは駐留を続けてましたがチェコ軍団もロシア領内から出た1920年にはみんな撤兵したのに対し、日本は上記のような目的もあって1922年まで一人で延々と残り続けました。
しかも日本国内ではシベリア出兵を機に需要が高まると見られた米が商人によって買占めが行われ、それ以前から高騰していた米価がさらなら高騰を見せたことによって「米騒動」が起こります。結局、日本軍はシベリア地域で動き回りましたが領土を獲得する大義も得られなければ傀儡政権の樹立も果たせず、兵員や物資の損害を生むだけ生んで何も得ることなく撤退することとなります。
<尼港事件>
上記が高校で教えられる範囲のシベリア出兵の中身、と言ってもこんなに詳しくやる教師はいないでしょうが、大体が米騒動とセットで教えられます。米騒動のほかにもう一つしべリサ出兵と共に一緒に関連付けられるキーワードとしてもう一つの本題であるこの「尼港事件」があるのですが、この事件はシベリア出兵中の1920年にアムール川河口の港湾都市、ニコラエフスクで赤軍パルチザンによって起こされた虐殺事件を指します。
非常にきわどい内容なので簡潔に説明することに努めますが、当時ニコラエフスクには多数の日本人居留民とユダヤ人、白ロシア人が住んでおり、ボリシェビキ政権に抵抗する白軍の部隊とシベリア出兵によって派遣された日本軍守備隊も合わせて駐屯しておりました。当時漁業事業を営む日系企業がこの町に進出しており日本人居留民(約700人)も数多く居住していたことから、日本の領事館も設置されていました。
この街にロシア人を中心として中国系、朝鮮系を内包した赤軍パルチザン部隊約4000人が白軍を追って1920年1月に進撃してきたのですが、日本軍守備隊(約300人)は日本人居留民保護を目的に駐屯していたものの白軍司令官とともに赤軍と交渉に当たり、居留民の安全、白軍関係者に対する不当な処罰をしないこと、一定期間の移動の自由を条件にニコラエフスクを赤軍パルチザンに明け渡しました。なお開城時に白軍の最高指揮官三名が自決していますが彼らについてこの事件をまとめた記者、グートマンは「彼らは、仲間の将校や、ニコラエフスクの市民より幸福であった」と書き残しています。
こうしてニコラエフスクに赤軍パルチザンが入城しますが、残っている証言によると彼らは当初の約束を守らず市民への略奪や暴行、白軍兵士への迫害や投獄、殺害を繰り返したため日本守備隊と対立を深めます。そうした最中、パルチザンの司令官は日本軍に対して武器弾薬の引き渡し(武装解除)を要求し、事態悪化を恐れた日本守備隊は引き渡す前にパルチザンに対して決起を行ったものの兵力の差は埋められず敗北し、全滅します。
日本軍の決起後にパルチザンは日本軍に協力したとして日本領事館を攻撃しただけでなく日本人居留民を一方的に殺害し、その後事態を知った日本軍がニコラエフスクへの派兵準備を始めると日本軍の報復を恐れたのか、証拠隠滅と日本軍への進軍妨害を兼ねて今度は日本人だけでなく、中国系を除いたロシア人やユダヤ人などあらゆる街の人間の殺害を始め、被虐殺者数は街の全人口の半分に当たる6000人以上に上ったと言われています。なおこの時にパルチザン内部でも虐殺を批判する幹部がいたものの、ほかの居留民殺害に紛れて一緒に殺されたようです。
この事態に日本軍は救援隊を派遣しますが、アムール河の解氷を待って到着した頃にはパルチザンは逃げ出しており、既にニコラエフスクは焦土と化していました。またソ連側でもこの時のパルチザンを監督していたハバロフスク革命員会が事態を知り、パルチザン兵士への聞き取りを行っています。唯一溜飲が下がることとしては、ハバロフスクの革命員会はパルチザン兵士と接触した上で指令をだし、虐殺時のパルチザン指揮官であるトリャピーツィン以下幹部全員を捕縛した上で処刑している点でしょう。この時の容疑は「同士、同胞に対する虐殺」だったそうです。
以上がシベリア出兵と尼港事件に関する顛末ですが、この事件は当時の日本国内においても衝撃と共に受け止められ、時の原敬政権が部隊を派遣しながらみすみす居留民を見殺しにしたと強く批判されています。また日本側はこの事件の報復としてその後しばらく北樺太を占領し続ける行動に出ています。
という具合でいつものようにロシアは恐ろしあという結論で片づけたいところなのですが、そうは言いきれない点がこのシベリア出兵にはまだ隠されています。この記事だけでも非常にしんどかったですが、続きはまた次回にて頑張って書きます。我ながら、歴史学者でも文化部記者でもないのによくやるよ。