また例によって「風雲児たち」を読み返して幕末を調べなおしていますが、「どうすれば幕府を延命できたのか」という視点に立って色々考えてみると、
・公武合体を進めるべきじゃなかった
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・日米通商条約の締結勅許を朝廷に求めるべきじゃなかった
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・14代将軍を家茂ではなく慶喜にすべきだった
などなどとなっていき、結局は井伊直弼を大老にすべきじゃなかったに行き着くことが多いです。彼自身は幕府の権威を再び高めようと色々努力しましたが、結果的にそれは空回りし、最後には自分が暗殺されることでその権威を大きく貶めてしまっています。極論を言えばあの時点で大政奉還に近いような政策を採り、公武合体は推し進めず雄藩連合のみ成立させておけばまだ徳川の時代がまだしばらく続いたでしょう。
それだけに、本人の意思とは裏腹に幕府崩壊を早めた井伊直弼は典型的な「やる気のある無能」だというのが自分の評価です。あんまほかの人は言わないけど、彼がやろうとした公武合体こそが徳川幕府にとってかなり致命的な一打にもなっているし。
そんなやらかしまくっている井伊直弼ですが、敢えて彼の事跡の中で最大の失敗ムーブを挙げるとすれば、自分の中では安政の大獄における吉田松陰の処刑であるような気がします。一体これは何故かというと、長州藩を倒幕に回しているからです。
安政の大獄では吉田松陰に限らず数多くの人物が捕縛、処刑されており、中でも水戸藩が最も弾圧を受けたほか、越前藩もその指導者であった橋本佐内が処刑されています。しかし、水戸藩も越前藩も徳川親藩であり、これらの弾圧によって井伊直弼個人へのヘイトは高まり、後の桜田門外の変につながってはいるものの、両藩ともに親藩ゆえか倒幕にまで頭が回ることはありませんでした。
一方、吉田松陰の出身である長州藩、特に彼の門下である松下村塾出身者はその処刑をきっかけに、明確にその意識を尊王攘夷から攘夷倒幕へと変えています。長州藩は外様であるだけでなく、元々関ヶ原の戦後処理で辛酸をなめさせられていて倒幕意識がかねてより高かった藩なだけに、松陰処刑による倒幕意識の高まりがかなり影響した気がしてなりません。それこそ仮に松陰を処刑しておかなかったら、第二次長州征伐自体起きなかったかもしれません。
もっとも松陰自体がこうした展開を狙い、安政の大獄で敢えて自ら処刑されようと動いた節があります。知ってる人には早いですが、彼は井伊直弼がターゲットにした梅田雲浜と長州で会っていたことから出頭命令が出たものの、雲浜とは本当にあっただけでそんな交流はありませんでした。そもそも長州の一軍学者なだけに尋問する側もそんな期待してなかったそうですが、ここで松陰は何を思ったか、自ら幕府老中の間部詮勝を暗殺しようとした計画を自白し、これが原因となって死刑判決を受けています。
また仮に死刑とならなくても、密航をはじめ過激な行動を繰り返していた松陰なだけに、生き残ったとしても何かしらやらかして藩論を倒幕へと変えていたかもしれません。そう考えると、「処刑しようがしまいがどっちも同じじゃんか(;´・ω・)」と思えそこまでの失敗ムーブじゃなかったかもと逆に思いなおしてしまいます。まぁ長州を敵に回したっていうのが、直弼の失敗ってことで話まとめます。
あと関係ないけど、井伊直弼の肖像画の顔ってなんか石破総理に似てる気がする……。
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