恐らくこれが今年最後の記事となります。今年は何気に投稿本数が多く293本に上り、2010年以降としては最高の投稿数となりました。まぁ贅沢言えば300本に載せとけばよかったかもしれません。そこで最後となる今回は、心情的にも体力的にもハード打た一年を振り返って今年に自分が体験した様々な嫌な出来事を一気に暴露しようと思います。年末にこれだけ後ろ向きな人物も珍しいだろうな。
今年嫌なこと第5位:円安による為替損(´;ω;`)
二月ごろの記事に書いていますが、私は今年になって日本で起業するために中国での勤務を辞して帰国しました。起業するための資金はそれなりにためていたのですが、過去二年間は中国での勤務が続いていたために人民元で貯金を持っていたのですが、起業するともなると見せ金が必要なため、アベノミクスで為替が円安に動くことがわかっていながらもある程度まとまった額を換金せざるを得ませんでした。
その結果というか、仮に二月ではなく現時点で日本円に換金していたらどのくらいの日本円を得ていたのか大雑把に計算した所、ざっと約40万円くらい損している計算となります。40万円あったらあんなこと、こんなことをドラえもんがいなくたってできるじゃん、もう……(ノД`)
今年嫌なこと第4位:スマイルサーバー(´;ω;`)
詳細は以前に語った通りです。詳しくは「スマイルサーバーに対する不満と不信」を閲覧ください。ちなみに今、Googleで「スマイルサーバー」と検索をかけるとこの記事が1ページ目に来てくれるのでなんだかうれしいです。
今年嫌なこと第3位:自分の会社の清算(´;ω;`)
知ってる人は知っていますが、このブログでは初公開の情報です。
上にも書いていますが私は今年二月に起業しようと日本に帰ってきましたが、まさに会社登記を終えた直後、ある身内から根も葉もない言いがかりをつけられたことにより、当初事務所代わりに使用しようとしていた実家から出て行かざるを得なくなりました。既に登記で会社登録地、並びに税務登録として実家の住所を入れていたというのにこっからどうしようか、それどころか外に事務所を借りるとなると家賃、光熱費、通信費がかかり、手持ちの資金では1年も戦えないぞなどと非常に悩まさせられましたが、最初はそれでもバイトを始めるなどしても会社を続けるつもりでありました。
そんな気持ちが吹っ飛んだのはまた例の身内で、有り得ない言いがかり、ぶっちゃけ自分が「野菜炒めを食べたい」と言ったらそれが非難の言葉だと罵ってきて私が折れる形で家を出て行くことになったのですが、あろうことかほかのありとあらゆる親戚に対して自分が暴言を吐いたなどと悪評をばらまいていたことがわかり、元からそんなタフな方じゃないけどなんかもう馬鹿馬鹿しくなってきて会社を続けるというか挑戦する気力が全部なくなってしまいました。
前からその身内の頭がおかしいのはわかっていたことだし、内心、会社を潰すことになるとしたらきっとその身内が起こす騒動からだろうと去年から想定していましたが、まさか何も始める前に面倒起こされて潰されるとは思っていませんでした。もっともそう言いながら、最大のリスクであると認識しておきながら自分が折れればきっと何とかなるだろうなどという甘い考えを持っていたこと自体に我ながら反吐が出る。
その身内とは既に距離を置いており、運が良ければもう浮世で会うことはないでしょう。惜しむらくは上記の理由上、その身内の血縁とも理解が得られる見込みがないため全部絶縁せざる得ず、この年で准天涯孤独となったことです。ただ繰り返しになりますが、何故5年前の時点でこうしなかったのか、甘い考えを持っていた自分に対して何より腹が立ちます。
今年嫌なこと第2位:苦しい就活(´;ω;`)
上の様な顛末があり、自分の会社をやめるのであれば早く心機一転して再就職した方がいいだろうと清算を進めながら再就職活動を始めました。いくら不況の世の中とはいえ貿易も出来るし中国語も得意だし何とかなるだろう、なんて自分の気持ちを落ち着かすために言い聞かせていましたがこれがなかなかうまくいきませんでした。それでも活動を始めて約一ヶ月後、中国への進出を考えているというとある空調機器メーカーの正社員職を得ました。職種は営業でしたが自分なら何でもできるだろうということと、精神的にかなり堪えてきてたので条件とかそういうのは度外視で入社を決めました。
結果論から言うとその会社は二ヶ月でさよなライオンしました。というのも職種は営業というもの、やることは設計事務所、並びに介護施設などへの電話セールスしかなかったからです。しかも電話セールスを始めるに当たってネットのタウンページから電話番号を探せというので探してリスト作ったら、「なんでこんな少ないんや」とかいうので東京都の建築士組合のサイトから数百件のリストを持ってきて見せたら、明らかにそのサイトの存在を知らない反応を見せました。電話セールスをもう十年以上やってるというのに、基本となるリストすら作っていないしこういうサイトの存在も知らないことに対して、「真面目に商売やる気あるのか?」という感慨を素直に持ちました。そもそも電話セールスじゃ売れるわけないし。
それと介護施設、具体的には老人ホームなどへですが、ここへも一日中電話かけろと指示され、夕方とか明らかに職員が夕食の準備とかで忙しい時間帯にもかけさせられ、電話口でも慌てているのがわかるだけに内心相手に悪いなぁって罪悪感でいっぱいでした。一応拾ってもらっといて悪口ばかり書くのもあれですが、入社一か月後に正式採用手続きを取ってその際に給与額について改めて相談すると入社前に説明受けてましたが、あっさりスルーされたので「もう辞めます」と伝えたわけです。
なもんだからまた夏頃から再び転職サイトに登録してあれこれ探し、面接に行ったら募集条件とは明らかに異なる待遇や仕事内容を説明されたりと腹立たしいことでお腹いっぱいな日々を過ごしましたが、また約一ヶ月後に今度は部材メーカーの内定採って、現在はそこでお世話になってて来年にもそこの中国法人へと出向く予定です。ちなみに会社には「起業してた」ってことはもちろん今も内緒です(∀`*ゞ)エヘヘ
今年嫌なこと第1位:PSPの盗難被害(´;ω;`)
栄えある第1位は、自分と苦楽を共にしたPSP、そうソニーが販売しているプレイステーションポータブルという携帯ゲーム機の盗難です。
本当に盗難されたのかという証拠はありませんが、実家のリフォーム中にソフトを残し、突然本体と電源コンセントだけなくなったので、施工業者の誰かが盗んだんだろうと思います。この手のゲーム機って換金しやすいので地味に盗みがいあるし。
無くなった当日は京都の方に出向いていたため自分は留守にしており、自室の目立つところに置きっぱなしにしてました。というのもリフォームで自分の部屋も壁紙とかはがす予定だったから特に弄らない物置に入れといたところ、例の身内が自分の部屋は後で施工するのだから勝手に物置に物を置くなと一方的に言ってきたので戻したところ、自分の部屋が真っ先に施工されてPSPも消えてしまいました。
たかがゲーム機、しかも後継機のPSVitaも既に発売されているのでありますが、このPSPは私が中国へ働きに行く前に購入したもので、向こうでの苦しい日々を慰める最大の娯楽として大活躍してくれてました。しかも杭州、上海、香港と結構距離のある土地を転々とする間に肌身離さず持っており、プライベートにおける相棒と言ってもいいくらいに愛用していた品です。こいつで遊んだモンハンP2Gの日々(インザ香港)は忘れない。
ソニーのゲーム戦略はこのところあれこれ批判されたり、なんでPS4の日本発売を遅らせるんだなどという声もありますが私個人として言わせてもらうと、素晴らしいゲーム機を提供してくれてありがとう。そしてそれをなくしてしまって本当に申し訳ないということを声を大にして言いたいです。
ってことで、来年の中国凱旋に備えてPSVitaを買っとかないとなぁ……。
今年うれしかったこと
よくもまぁこんだけ暗い内容を年末に書くもんだと自分でも思うので、最後にポジティブなことも書いておくことにします。まぁ見方を変えれば、上に書いた暗い内容はこうしてネタにできるくらい整理就いたってことでもあるんだけど。
今年うれしかったこととしてはこのまえ記事にも書きましたが、中国語の資格であるHSK6級に受かったことが真っ先に浮かびます。飽きっぽい自分ながら一応意識してずっと鍛え続けた中国語でギリギリとはいえ最上級を取得し一つの区切りを迎えられたのは感慨深く、なんか書いてて言葉が出てきません。
あと今年、このブログの読者数人と直接お会いして知り合いになれましたが、どの方も自分から見て「スゴイ∑(゜∀゜)」と思う人ばかりで、こういう人たちに自分の書く、かなり癖のある記事を毎日読んでもらえているんだと考えるだにタイプ打つ指が震えてきます。友人にもたびたび言われていますが、このブログは文章量が長いし書いてることもわかり辛いのばっかなので明らかに読者を選ぶブログとなってますが、その分だけいい読者に恵まれてると思います。シャレ抜きでしんどかったこの一年を乗り越えられたのもそういった読者の方の励ましがあってこそで、来年はまだ気持ちに余裕もあると思うのでもっといい記事書いて娯楽の足しになれればと、来年の目標を書いて結びとします。
ここは日々のニュースや事件に対して、解説なり私の意見を紹介するブログです。主に扱うのは政治ニュースや社会問題などで、私の意見に対して思うことがあれば、コメント欄にそれを残していただければ幸いです。
2013年12月31日火曜日
寒かった北京
これまでにアップしているため記事にも書いていますが、昨日まで北京に友人と旅行に行っていました。私にとっては実に6年ぶりの北京訪問で、いろいろとカルチャーショックも受けてきたのでその有様を写真と共に解説していこうと思います。
まずこちらの写真ですが、ここは北京一の繁華街である王府井(ワンフーチン)です。12/25を過ぎていますが細かいことは気にしない中国なだけに、クリスマスムード一色なライトアップで、あちこちのショッピングセンター内にもツリーが飾られていたままでした。でも逆に言うと、12/25を過ぎたら一斉に撤去し始める日本が神経質すぎるのかもしれません。
こちらは同じく王府井の中にある、「全聚徳」という名前の北京ダック料理店です。ここは数ある北京ダック屋の中でも最も知名度が高い上に店舗数も多く、王府井に限らずとも北京市内ならどこにだってあるお店です。同行した友人は今回が北京初訪問だったので、有名どころに連れて行った方がいいだろうとの判断からここに来ることにしました。
で、実際の料理の方ですが大手なだけにやはりちゃんとしていておいしかったです。しかし中華レストランなだけに出される量が桁違いに多く、二人向けコースに大の男でかかったのに結局全部食べきれず一部残しちゃいました。
続いてこちらの写真はお馴染みの万里の長城。 写真を見てもらえばわかりますが、PM2.5を期待していったのに滞在中の北京の空気は有り得ないくらいに綺麗で、ご覧の通りに青い空が満面に広がっていたし、実際に空気吸ってておいしかったです。これはこれで期待外れだ。
で、この万里の長城ですが、本当に寒かったです。北京にいる知り合いの中国人にこの日に行ったことを話すと、「凍死するほど寒かったんじゃない?」と言われましたが、実際に投資するんじゃないかと何度か思いました。
北京のこの時期の気温は一日中氷点下を下回っており、なおかつ風も強く吹きます。北京市内ならまだしも、山の上のこの長城は市内よりもさらに気温が低くて風も体ごと持ってかれるほど強くて、移動に使ったタクシーから降りるや「マジやべぇ!」と、渋谷のギャルみたいな言葉が友人と共に口を突いて出てきました。
しかも友人はともかく私は普段のノリで行ってしまったため、周囲が全員ダウンジャケットを着こんでいた中、ただ一人だけGジャン一枚で長城を駆け廻りました。呆れるくらいに寒さに強い自分もこの日はさすがに参って、長城手前の入り口で慌てて20元の帽子を買ったくらいでした。なお散々寒い思いしてホテルに帰ると入り口手前でタクシーの手配をするボーイにも、「そんな恰好じゃさすがに寒いでしょ」とツッコまれてしまいました。
もう少しだけ万里の長城について書くと、この上の写真で見える範囲はすべて昇り降りしています。私はこれまでにこの長城を2回訪れていますが、三回目の今回でもその高低差の激しさ、あと微妙に滑りやすい床、そして油断したら吹っ飛びかねない横風に難儀して、息も絶え絶えになりながら全行程を踏破しました。
写真で見るとそうでもなさそうですが、体力に自信のない人は真面目に万里の長城を訪れるべきではありません。軽いコースを通るにしても傾斜が急で、下り坂で転ぼうものなら大怪我を負ってもおかしくありません。今回同行した友人は比較的体力自慢な輩でありますが、そいつですら「マジやべぇ」を繰り返しつつなんとか踏破を完遂出来たくらいだし。
この写真は万里の長城に併設してある「熊楽園」にいた熊です。なんか座り方が様になっていたので撮りましたが、そもそもこの時期に熊は冬眠しているというのに働かされてて「熊も大変だなぁ」としみじみ思います。
所変わってこの写真は地下鉄構内に置かれた広告の写真ですが、ロックフックがリラックマとコラボしていたことに驚いたので写真に収めました。決して「熊楽園」との関連はありません。ロックフックについて知ってる人はそのままで、知らない人はいい機会なのでググってみましょう。ついでにチョウサンサンも覚えておけば香港通です。
続いてここは北京市内にある「天壇」という世界遺産です。いまいち写真だと伝わり辛いですが桁違いにでかくて高い建物で、友人と一緒に「中国は何でも十倍サイズだよなぁ」と言いながら見学してました。
最後はお馴染みの天安門の故宮博物館(紫禁城)前です。中央に毛沢東の写真が貼られていますが、そろそろこれも3Dにしないと駄目だよなぁと友人と話してました。さらには、「毛沢東はグッズといいこの写真といい、中国の観光収入にどれだけ寄与しているんだろうか」などと経済チックな話でも盛り上がってました。
それにしてもこの日も青空がやけにまぶしかった。こうしてみるとPM2.5で大気汚染がと映している映像は、暗い空の日を選んで撮影してるんじゃないかとすら思えてきます。
この旅行で得たインスピレーションについてはまた別の機会に詳しく書きます。
2013年12月29日日曜日
長平の戦いについて
この冬の歴史まつりも三日目ですが、日本史、西欧史と来たもんだから今日は中国史だなと考えていいネタはないかと考えたところ、過去二日間が戦争に関する話題だったのでこの際それに合わせ、中国の戦国時代における最大規模の野戦である長平の戦いについて私なりに紹介しようと思います。
・長平の戦い(Wikipedia)
この戦いは元々有名だし、このところ人気で私も読んでいる「キングダム」という漫画でも簡単に説明されているので知ってる人も多いかもしれません。
この戦いがあったのは古代中国紀元前260年。当時、中国は各地に国々が乱立してそれぞれが覇権を争う戦国時代だったのですが、時代の趨勢は後に中国を初めて統一する秦が徐々に勢力を増し、敢えて例えると現代の米国の様にほかの全世界の国々が束になってかかっても抑えきれないほど強さを増しておりました。そんな秦に対して唯一対抗できるというか、対抗せざるを得なかったのが秦と国境を接する隣国の趙という国です。この国は元々は晋という国でしたがお家騒動から韓、魏、趙の三国に分かれたものの、比較的強い勢力を保ちながら戦国末期まで影響力を持ち続けておりました。
この趙が大きく躍進したのは長平の戦いに至る数十年前の武霊王の時代です。武霊王は当時、蛮族が着る衣装と蔑まれていた胡服という、現代のズボンのような衣装を兵士の服として採用します。当時の漢民族の衣装は裾の長いもので騎馬に乗るのには向いていなかったのですが、武霊王は国内の反対を押し切り胡服を取り入れたことによって軍事力の大きな向上に成功します。この軍事改革によって最強国の秦も趙にはなかなか侵攻することが出来なかったそうです。
話を長平の戦いに戻しますが、この当時の秦は優秀な将軍が綺羅星の如く集まり、特に当時、というより戦国時代を通して最強の司令官とも言われる白起が文字通り縦横無尽に暴れ回り領土を拡張し続けておりました。この時代に秦と趙は領土争いのもつれから秦側が攻め込む形で戦争となるのですが、趙側は「刎頸の交わり」で有名な廉頗を防衛の将として送り込みます。
秦の強さもさることながら老練な廉頗の指揮も見事で秦側はたちまち攻めあぐねてしまいます。この時代に白起は打開策を練り、まずは面倒な廉頗を遠ざけるため趙の首都で「秦は相手が年寄りの廉頗であることに安心している」という噂と、「逆に若くて才能高い趙括がやってくることを恐れている」という噂を流しました。
趙括という人物は父親が有名な将軍で、本人も幼いころから軍学を学んでいた青年でした。彼は若い頃から軍学にかけては右に出るものがないほど賢く、議論でも父親をしばしば打ち負かせるほどで評判が高かったのですが、その父親と母親は息子は自惚れが強く大将としては大成しないと早くから予言していたそうです。
話を戻すと、趙の国王は秦が流したその噂を真に受けて廉頗に変えて趙括を総大将として長平へ送り込みます。なお趙括にとってこの時初めて軍の指揮を任されたのですが、いきなり大将は無理だとこれまた「刎頸の交わり」のエピソードにおけるもう一人の主人公である蘭相如は、病床からわざわざ国王に総大将の交代をやめるよう諫言しています。そして夫に先立たれた趙括の母親も、息子は総大将の器ではないからと国王に諫言した上で、どうしても総大将にするのならば趙活が敗北したとしても親類を連座で罰しないよう約束を取り付けました。
そうしてやってきました長平の戦い。両者の兵力は趙が40万以上だったのに対して秦は数万程度だったと言われ、総大将に着任した趙括は兵力で勝っているのだから一息に飲みこむべきだとして、廉頗が城から一歩も出ずに防戦をし続けたのとは逆に全兵力で一気に打って出ました。仮に相手が並の将軍だったらこれでもよかったもしれませんが、秦軍には秘密裏に白起が将軍として着任しており、趙が打って出るのを虎視眈々と待ち構えていました。
結末は本当にあっさりと出ました。数を頼みに趙軍は城から打って出ましたが、秦軍は巧みにこの攻撃を防ぐと別働隊が趙軍の退路を塞ぐことによって趙軍を食料や予備の武器といった補給物資のない状態で包囲してしまいます。この包囲を打ち破ろうと趙軍は何度も攻撃を仕掛けるもののその攻撃はすべて白起が先読みし、適切に部隊を配置されていたためにすべて失敗に終わりました。
こうして数十日間包囲された趙軍の中から餓死者も現れたため、最終的に趙軍は全滅覚悟で最後の突撃を敢行します。この突撃によって司令官の趙括は戦死し、残った兵士は全員が降伏します。
ここからがこの戦争のハイライトなのですが、降伏した趙軍の兵士は約40万人いたとされ、白起はこれほど大量の捕虜となると連れ帰ろうにも食料がなく、かといって無傷で趙に戻してはこの戦争で勝利した意味がなくなると考え、なんと一部の少年兵を除き全て生き埋めにして殺してしまいました。
私の考えとしては当時の中国の人口で40万人も兵士を動員できるかと言ったら疑問で、また戦争で戦ってるのにほとんどの兵士が戦死せずそのまま降伏するってのはさすがに有り得す、この数字はさすがに盛っているように思えます。ただ大量の兵士が降伏したにもかかわらず生き埋めにされたのはどうやら事実だったらしく、なんでも近年にこの戦いの戦場だったと思しき場所を発掘した所、有り得ないくらいに大量の人骨が出土したそうです。軽いホラーだ。
この戦いの故事から趙括の名前はいわゆる「論語読みの論語知らず」という、「勉強はできるけど実戦はからきしな頭でっかち」という意味を表すようになりました。そしてこの戦いで勝利した白起ですが、この戦争の後の戦後処理に不満を持って出仕せず自宅に引きこもるようになり、この態度に腹を立てた秦の国王によって自害する様にと命令されこの世を去っております。
たった一つの戦いとはいえあまりの敗戦ぶりによって趙の勢力はガクンと落ち、その滅亡を早めたと言われております。天下分け目の戦いとまではいきませんが、実にドラマチックな展開で結局の勝者は誰だったのかと考えさせられるエピソードです。
・長平の戦い(Wikipedia)
この戦いは元々有名だし、このところ人気で私も読んでいる「キングダム」という漫画でも簡単に説明されているので知ってる人も多いかもしれません。
この戦いがあったのは古代中国紀元前260年。当時、中国は各地に国々が乱立してそれぞれが覇権を争う戦国時代だったのですが、時代の趨勢は後に中国を初めて統一する秦が徐々に勢力を増し、敢えて例えると現代の米国の様にほかの全世界の国々が束になってかかっても抑えきれないほど強さを増しておりました。そんな秦に対して唯一対抗できるというか、対抗せざるを得なかったのが秦と国境を接する隣国の趙という国です。この国は元々は晋という国でしたがお家騒動から韓、魏、趙の三国に分かれたものの、比較的強い勢力を保ちながら戦国末期まで影響力を持ち続けておりました。
この趙が大きく躍進したのは長平の戦いに至る数十年前の武霊王の時代です。武霊王は当時、蛮族が着る衣装と蔑まれていた胡服という、現代のズボンのような衣装を兵士の服として採用します。当時の漢民族の衣装は裾の長いもので騎馬に乗るのには向いていなかったのですが、武霊王は国内の反対を押し切り胡服を取り入れたことによって軍事力の大きな向上に成功します。この軍事改革によって最強国の秦も趙にはなかなか侵攻することが出来なかったそうです。
話を長平の戦いに戻しますが、この当時の秦は優秀な将軍が綺羅星の如く集まり、特に当時、というより戦国時代を通して最強の司令官とも言われる白起が文字通り縦横無尽に暴れ回り領土を拡張し続けておりました。この時代に秦と趙は領土争いのもつれから秦側が攻め込む形で戦争となるのですが、趙側は「刎頸の交わり」で有名な廉頗を防衛の将として送り込みます。
秦の強さもさることながら老練な廉頗の指揮も見事で秦側はたちまち攻めあぐねてしまいます。この時代に白起は打開策を練り、まずは面倒な廉頗を遠ざけるため趙の首都で「秦は相手が年寄りの廉頗であることに安心している」という噂と、「逆に若くて才能高い趙括がやってくることを恐れている」という噂を流しました。
趙括という人物は父親が有名な将軍で、本人も幼いころから軍学を学んでいた青年でした。彼は若い頃から軍学にかけては右に出るものがないほど賢く、議論でも父親をしばしば打ち負かせるほどで評判が高かったのですが、その父親と母親は息子は自惚れが強く大将としては大成しないと早くから予言していたそうです。
話を戻すと、趙の国王は秦が流したその噂を真に受けて廉頗に変えて趙括を総大将として長平へ送り込みます。なお趙括にとってこの時初めて軍の指揮を任されたのですが、いきなり大将は無理だとこれまた「刎頸の交わり」のエピソードにおけるもう一人の主人公である蘭相如は、病床からわざわざ国王に総大将の交代をやめるよう諫言しています。そして夫に先立たれた趙括の母親も、息子は総大将の器ではないからと国王に諫言した上で、どうしても総大将にするのならば趙活が敗北したとしても親類を連座で罰しないよう約束を取り付けました。
そうしてやってきました長平の戦い。両者の兵力は趙が40万以上だったのに対して秦は数万程度だったと言われ、総大将に着任した趙括は兵力で勝っているのだから一息に飲みこむべきだとして、廉頗が城から一歩も出ずに防戦をし続けたのとは逆に全兵力で一気に打って出ました。仮に相手が並の将軍だったらこれでもよかったもしれませんが、秦軍には秘密裏に白起が将軍として着任しており、趙が打って出るのを虎視眈々と待ち構えていました。
結末は本当にあっさりと出ました。数を頼みに趙軍は城から打って出ましたが、秦軍は巧みにこの攻撃を防ぐと別働隊が趙軍の退路を塞ぐことによって趙軍を食料や予備の武器といった補給物資のない状態で包囲してしまいます。この包囲を打ち破ろうと趙軍は何度も攻撃を仕掛けるもののその攻撃はすべて白起が先読みし、適切に部隊を配置されていたためにすべて失敗に終わりました。
こうして数十日間包囲された趙軍の中から餓死者も現れたため、最終的に趙軍は全滅覚悟で最後の突撃を敢行します。この突撃によって司令官の趙括は戦死し、残った兵士は全員が降伏します。
ここからがこの戦争のハイライトなのですが、降伏した趙軍の兵士は約40万人いたとされ、白起はこれほど大量の捕虜となると連れ帰ろうにも食料がなく、かといって無傷で趙に戻してはこの戦争で勝利した意味がなくなると考え、なんと一部の少年兵を除き全て生き埋めにして殺してしまいました。
私の考えとしては当時の中国の人口で40万人も兵士を動員できるかと言ったら疑問で、また戦争で戦ってるのにほとんどの兵士が戦死せずそのまま降伏するってのはさすがに有り得す、この数字はさすがに盛っているように思えます。ただ大量の兵士が降伏したにもかかわらず生き埋めにされたのはどうやら事実だったらしく、なんでも近年にこの戦いの戦場だったと思しき場所を発掘した所、有り得ないくらいに大量の人骨が出土したそうです。軽いホラーだ。
この戦いの故事から趙括の名前はいわゆる「論語読みの論語知らず」という、「勉強はできるけど実戦はからきしな頭でっかち」という意味を表すようになりました。そしてこの戦いで勝利した白起ですが、この戦争の後の戦後処理に不満を持って出仕せず自宅に引きこもるようになり、この態度に腹を立てた秦の国王によって自害する様にと命令されこの世を去っております。
たった一つの戦いとはいえあまりの敗戦ぶりによって趙の勢力はガクンと落ち、その滅亡を早めたと言われております。天下分け目の戦いとまではいきませんが、実にドラマチックな展開で結局の勝者は誰だったのかと考えさせられるエピソードです。
2013年12月28日土曜日
欧州の騎兵の歴史
最近興味を沸いたことから、ウィキペディアの「騎兵」の項目をやけに調べていました。日本で騎兵というと武田騎馬軍団がすぐ出てくるでしょうがこれは実際にどれほど運用されていたのかがやや不明瞭であるのに対し、サラブレッドの本場である欧州ではかなり面白い使われ方というかごく近い時代まで主力の舞台として使われていたようです。
騎兵は騎士道が発達した中世、具体的には十字軍の時代には早くも戦場の花形となっており、重装騎兵隊による突撃は当時最強の戦術の一つに数えられました。しかし重装騎兵は十字軍以降はどうも鳴りを潜めたようで、火砲の発達とともに徐々に軽装、というより機動力を重視した騎兵隊が編成されるようになり、騎兵自身が火砲を持つ銃士や竜騎兵というものも登場してきます。
騎兵が全盛となるのは近世から近代、具体的にはドイツ30年戦争が行われているあたりからナポレオン戦争の時代までです。この時代になると騎兵は胸を覆うプレートを付けるくらいで完全に機動力重視となり、またサーベルを持って突撃したりするなどとどめの一撃などに主に使われたようです。
で、実際に騎兵がどれほど戦場で活躍したのかというと、ナポレオン旗下で騎馬隊率いりゃ当時の欧州一と呼ばれたミュラなどは敵軍が鉄砲を撃ってくる中でも果敢に突撃し、しょっちゅう敵陣を崩したり敗走する敵軍を散々に打ち負かしていたと言われます。当時の鉄砲はまだマスケット銃もいい所で、一回撃ったら弾込などタイムラグが必要なため、200メートルくらいの距離であれば相手が打ち終わった隙に一気に間合いを詰めて突撃することが出来たようで、勝敗の趨勢を決める一撃として各軍で温存し、活用されていました。
この騎兵突撃なのですが、その効果は馬の圧力による威力と共に心理的な効果も非常に高かったと言われます。冷静に考えてみると、でかい馬に乗ってサーベルや鉄砲持った人が猛スピードでこっちに向かってくるわけですから、実際に向かい合った兵隊からすると恐怖以外の何物でもないでしょう。また仮に向かい合えるだけの勇気を持っていたとしても、隣の兵士が恐怖に臆して身を引こうものならあっという間に自分だけ踏みつぶされるわけですから、騎兵が近づいてくることでばたと陣が崩れていくというのもよくわかります。
そのように19世紀初頭まで普通に活用されていた騎兵ですが、その退場の歴史は鮮やかだったというかあまりにも突然でした。きっかけは機関銃の登場で、どれだけ突撃をかけても突破することのできない兵器によって騎兵はあっという間に衰退していきます。
これは最近知ったのですが、一応今でも騎兵は警備隊みたいな形で残っているのですが、第二次大戦の頃のポーランド軍には普通に騎兵が編成されており、ナチスドイツの戦車部隊に突撃していたという話がまことしやかにネット上で出回っております。これはポーランド人は馬鹿だということを示すエピソードとしてよく使われるそうですが、実際に当時騎兵が編成されナチスドイツの機甲部隊と戦闘したことは事実であるものの、真正面から突撃したわけではなく側面や後方から攪乱したりなどして上々の戦果を挙げたというのが事実だそうです。とはいえ、現代においてはもはや通用しないだろうな。
最後に騎兵が退場することになった機関銃のエピソードを見て思ったことなのですが、それ以前の戦争はあくまで人間同志が武器を用いて戦う戦争だったのに対し、機関銃の登場からは兵器同士がぶつかり合う戦争となり、むしろ人間はその兵器を取り回す部品みたいに変わってしまった印象を覚えました。現代においてはむしろその傾向が顕著で、兵数は補給など後方部隊ならともかく、もはや戦争の勝敗を決する要因としては非常に小さく、どれだけ質の高い兵器を保有しているかどうかの方が大きな要因となっています。そのうち兵器はどんどん無人化するでしょうが、チャーチルが言った、「二次大戦はもはやナポレオンが戦った頃の戦争とは異なる。今の時代の英雄は戦場で指揮するものではなく、会議室でミサイルの発射を許可する人間だ」と話したのもうなずける話です。
騎兵は騎士道が発達した中世、具体的には十字軍の時代には早くも戦場の花形となっており、重装騎兵隊による突撃は当時最強の戦術の一つに数えられました。しかし重装騎兵は十字軍以降はどうも鳴りを潜めたようで、火砲の発達とともに徐々に軽装、というより機動力を重視した騎兵隊が編成されるようになり、騎兵自身が火砲を持つ銃士や竜騎兵というものも登場してきます。
騎兵が全盛となるのは近世から近代、具体的にはドイツ30年戦争が行われているあたりからナポレオン戦争の時代までです。この時代になると騎兵は胸を覆うプレートを付けるくらいで完全に機動力重視となり、またサーベルを持って突撃したりするなどとどめの一撃などに主に使われたようです。
で、実際に騎兵がどれほど戦場で活躍したのかというと、ナポレオン旗下で騎馬隊率いりゃ当時の欧州一と呼ばれたミュラなどは敵軍が鉄砲を撃ってくる中でも果敢に突撃し、しょっちゅう敵陣を崩したり敗走する敵軍を散々に打ち負かしていたと言われます。当時の鉄砲はまだマスケット銃もいい所で、一回撃ったら弾込などタイムラグが必要なため、200メートルくらいの距離であれば相手が打ち終わった隙に一気に間合いを詰めて突撃することが出来たようで、勝敗の趨勢を決める一撃として各軍で温存し、活用されていました。
この騎兵突撃なのですが、その効果は馬の圧力による威力と共に心理的な効果も非常に高かったと言われます。冷静に考えてみると、でかい馬に乗ってサーベルや鉄砲持った人が猛スピードでこっちに向かってくるわけですから、実際に向かい合った兵隊からすると恐怖以外の何物でもないでしょう。また仮に向かい合えるだけの勇気を持っていたとしても、隣の兵士が恐怖に臆して身を引こうものならあっという間に自分だけ踏みつぶされるわけですから、騎兵が近づいてくることでばたと陣が崩れていくというのもよくわかります。
そのように19世紀初頭まで普通に活用されていた騎兵ですが、その退場の歴史は鮮やかだったというかあまりにも突然でした。きっかけは機関銃の登場で、どれだけ突撃をかけても突破することのできない兵器によって騎兵はあっという間に衰退していきます。
これは最近知ったのですが、一応今でも騎兵は警備隊みたいな形で残っているのですが、第二次大戦の頃のポーランド軍には普通に騎兵が編成されており、ナチスドイツの戦車部隊に突撃していたという話がまことしやかにネット上で出回っております。これはポーランド人は馬鹿だということを示すエピソードとしてよく使われるそうですが、実際に当時騎兵が編成されナチスドイツの機甲部隊と戦闘したことは事実であるものの、真正面から突撃したわけではなく側面や後方から攪乱したりなどして上々の戦果を挙げたというのが事実だそうです。とはいえ、現代においてはもはや通用しないだろうな。
最後に騎兵が退場することになった機関銃のエピソードを見て思ったことなのですが、それ以前の戦争はあくまで人間同志が武器を用いて戦う戦争だったのに対し、機関銃の登場からは兵器同士がぶつかり合う戦争となり、むしろ人間はその兵器を取り回す部品みたいに変わってしまった印象を覚えました。現代においてはむしろその傾向が顕著で、兵数は補給など後方部隊ならともかく、もはや戦争の勝敗を決する要因としては非常に小さく、どれだけ質の高い兵器を保有しているかどうかの方が大きな要因となっています。そのうち兵器はどんどん無人化するでしょうが、チャーチルが言った、「二次大戦はもはやナポレオンが戦った頃の戦争とは異なる。今の時代の英雄は戦場で指揮するものではなく、会議室でミサイルの発射を許可する人間だ」と話したのもうなずける話です。
2013年12月27日金曜日
日本海軍のラッキーシップ「瑞鶴」
今日から30日まで友人のクーロンズゲートと共に北京へ取材旅行に出かけるので、このブログの更新が出来なくなります。更新が出来ないと言っている傍からなんでこの記事が出ているのかというと、記者時代に培ったため記事放出の技術を使い、予約投稿をあらかじめセットしておいたからです。今この記事は12/24に書いておりますが、せっかくため記事を数日間連続で出すんだから何か一つのテーマで書いてみようと思い、真冬の歴史まつりと称して歴史ネタを連続で書いてくことにします。そこで一発目の今日は、私が大好きな航空母艦こと瑞鶴について触れていきます。
・瑞鶴(Wikipedia)
最近、「艦隊これくしょん」というゲームが流行って様々な二次大戦中における日本の感染が擬人化(美少女化)されており、この辺の分野に興味を持つ人も増えているかと思います。私自身はこの「艦これ」はやっていないのですが、この瑞鶴だけはどんな女の子に描かれているのかが気になって昨日(12/23)調べました。
それほどまでに私が強いこだわりを持つ瑞鶴とはどんな艦船なのかというと、通称が「ラッキーシップ」と呼ばれるほどに圧倒的な生還率を誇り、真珠湾攻撃から事実上の日本軍最後の艦隊戦であるレイテ沖海戦まで戦い抜いた唯一の航空母艦です。
瑞鶴は連合艦隊の一翼を担う空母として1941年9月、姉妹艦である翔鶴とともに就航します。「艦隊これくしょん」だと何故か翔鶴が姉で瑞鶴が妹設定にされていましたが、なんとなく私もわかる気がします。
話を真面目な方向に戻すと就航からわずか三ヶ月後には真珠湾攻撃に参加し、赤城、加賀、蒼龍、飛龍、翔鶴の五つの空母と共にこの攻撃を成功させます。真珠湾攻撃後も瑞鶴は太平洋各地を転戦し続けるのですが、注目すべきはミッドウェー海戦を始めとする大規模な戦いにほぼ確実に参加しつつも、なんと1944年3月のマリアナ沖海戦まで一発も被弾することなく戦い抜いていることです。
ほかの、というか普通の艦船は撃沈されるまでには至らないまでも、普通の戦闘で一発や二発の攻撃を受けることは珍しくありません。にもかかわらず瑞鶴は開戦から三年四カ月間もの間に一発も攻撃を受けることなく元気に、というかうざいくらいに戦い続けています。仮に勝ち戦だけに参加しているならまだしも、ミッドウェー海戦の様に他の空母が撃沈されるほどの敗戦でもノーダメージだったというのは有り得ないほどの強運ぶりです。その強運ぶりは戦時中にも認知されており、いつしか「ラッキーシップ」というあだ名がついたと言われています。
ちなみに初めての被弾はさっきから何度も書いているマリアナ沖海戦ですが、この被弾では艦橋を小破する程度にとどまっており、喰らってもやっぱり強運でした。一方、姉妹艦の翔鶴はこの戦いで撃沈されてます。バイバイお姉ちゃんって感じです。
しかしそんなラッキーシップにも最後の時がやってきます。その最後の時はマリアナ沖海戦の次に参加した1944年7月のレイテ沖海戦で、この戦いで瑞鶴は囮部隊として米軍を引き付ける役割を受けます。さすがに囮ともなればこれまでの強運ぶりも発揮できず米軍の攻撃が開始されるや散々に被弾し、囮の役割をしっかり果たした上で海へと沈没していきました。瑞鶴の撃沈によって真珠湾攻撃に参加した空母はなくなり、同時に日本海軍が運用できる正規空母も完全粉砕されることとなったわけで、仮に船が欧米の価値観の様に女性の性質を持つのであれば瑞鶴は空母姉妹の末妹だったような印象を覚えます(つД`)
私が瑞鶴を何故こよなく愛するのかというと、その数奇な戦歴に興味が引かれるとともに、小学生の頃に読んだ従軍体験者の小説で瑞鶴がメインの舞台として登場していたからです。生憎その本の名前は失念したのですが、作者は瑞鶴航空部隊のパイロットで、戦後はテレビ界に身を置いていた人だった気がします。この小説は淡々とした内容でしたが、パイロット隊員の訓練風景を濃密に描いた上で彼らが徐々に戦死する様を描いており、戦争小説でありながらゆっくりと悲しみが満ちてくる不思議な小説でした。
先日、NHKが「永遠の0」の映画公開に合わせたのかゼロ戦の特集番組を放映したのですが、その番組にゼロ戦搭乗者としてインタビューに答えた人物の中になんとこの瑞鶴所属の航空部隊にいた方が登場しました。もちろん話す内容はゼロ戦がメインで瑞鶴なんて一言も触れませんでしたが、私にとってはあの瑞鶴を知る人がまだ生き残られていたのかとこれまた不思議な感慨に打たれました。同時にたとえ沈んだとはいえ幸運の女神はまだこの方を見守っていたのかと思い、今年は際限なく運が悪かっただけに自分にもそういう幸運の女神が欲しいもんだなどと言うことが頭に浮かんだというわけです。
今度プラモ買って作ってみようかなぁ、瑞鶴。
・瑞鶴(Wikipedia)
最近、「艦隊これくしょん」というゲームが流行って様々な二次大戦中における日本の感染が擬人化(美少女化)されており、この辺の分野に興味を持つ人も増えているかと思います。私自身はこの「艦これ」はやっていないのですが、この瑞鶴だけはどんな女の子に描かれているのかが気になって昨日(12/23)調べました。
それほどまでに私が強いこだわりを持つ瑞鶴とはどんな艦船なのかというと、通称が「ラッキーシップ」と呼ばれるほどに圧倒的な生還率を誇り、真珠湾攻撃から事実上の日本軍最後の艦隊戦であるレイテ沖海戦まで戦い抜いた唯一の航空母艦です。
瑞鶴は連合艦隊の一翼を担う空母として1941年9月、姉妹艦である翔鶴とともに就航します。「艦隊これくしょん」だと何故か翔鶴が姉で瑞鶴が妹設定にされていましたが、なんとなく私もわかる気がします。
話を真面目な方向に戻すと就航からわずか三ヶ月後には真珠湾攻撃に参加し、赤城、加賀、蒼龍、飛龍、翔鶴の五つの空母と共にこの攻撃を成功させます。真珠湾攻撃後も瑞鶴は太平洋各地を転戦し続けるのですが、注目すべきはミッドウェー海戦を始めとする大規模な戦いにほぼ確実に参加しつつも、なんと1944年3月のマリアナ沖海戦まで一発も被弾することなく戦い抜いていることです。
ほかの、というか普通の艦船は撃沈されるまでには至らないまでも、普通の戦闘で一発や二発の攻撃を受けることは珍しくありません。にもかかわらず瑞鶴は開戦から三年四カ月間もの間に一発も攻撃を受けることなく元気に、というかうざいくらいに戦い続けています。仮に勝ち戦だけに参加しているならまだしも、ミッドウェー海戦の様に他の空母が撃沈されるほどの敗戦でもノーダメージだったというのは有り得ないほどの強運ぶりです。その強運ぶりは戦時中にも認知されており、いつしか「ラッキーシップ」というあだ名がついたと言われています。
ちなみに初めての被弾はさっきから何度も書いているマリアナ沖海戦ですが、この被弾では艦橋を小破する程度にとどまっており、喰らってもやっぱり強運でした。一方、姉妹艦の翔鶴はこの戦いで撃沈されてます。バイバイお姉ちゃんって感じです。
しかしそんなラッキーシップにも最後の時がやってきます。その最後の時はマリアナ沖海戦の次に参加した1944年7月のレイテ沖海戦で、この戦いで瑞鶴は囮部隊として米軍を引き付ける役割を受けます。さすがに囮ともなればこれまでの強運ぶりも発揮できず米軍の攻撃が開始されるや散々に被弾し、囮の役割をしっかり果たした上で海へと沈没していきました。瑞鶴の撃沈によって真珠湾攻撃に参加した空母はなくなり、同時に日本海軍が運用できる正規空母も完全粉砕されることとなったわけで、仮に船が欧米の価値観の様に女性の性質を持つのであれば瑞鶴は空母姉妹の末妹だったような印象を覚えます(つД`)
私が瑞鶴を何故こよなく愛するのかというと、その数奇な戦歴に興味が引かれるとともに、小学生の頃に読んだ従軍体験者の小説で瑞鶴がメインの舞台として登場していたからです。生憎その本の名前は失念したのですが、作者は瑞鶴航空部隊のパイロットで、戦後はテレビ界に身を置いていた人だった気がします。この小説は淡々とした内容でしたが、パイロット隊員の訓練風景を濃密に描いた上で彼らが徐々に戦死する様を描いており、戦争小説でありながらゆっくりと悲しみが満ちてくる不思議な小説でした。
先日、NHKが「永遠の0」の映画公開に合わせたのかゼロ戦の特集番組を放映したのですが、その番組にゼロ戦搭乗者としてインタビューに答えた人物の中になんとこの瑞鶴所属の航空部隊にいた方が登場しました。もちろん話す内容はゼロ戦がメインで瑞鶴なんて一言も触れませんでしたが、私にとってはあの瑞鶴を知る人がまだ生き残られていたのかとこれまた不思議な感慨に打たれました。同時にたとえ沈んだとはいえ幸運の女神はまだこの方を見守っていたのかと思い、今年は際限なく運が悪かっただけに自分にもそういう幸運の女神が欲しいもんだなどと言うことが頭に浮かんだというわけです。
今度プラモ買って作ってみようかなぁ、瑞鶴。
2013年12月26日木曜日
色々な社会ニュース雑感
今晩は忙しいのといろいろ書きたい話題が細かく散らばっているので、それぞれ個別に雑感を書いていきます。
まず本日、安倍首相が靖国神社に参拝した件についてです。靖国問題についてはこれまでの記事で議論すべきことも自分のいいたいことも全部書ききった感があるのでスルーしますが、周辺国の反応について書くと韓国はまたあれこれ言ってくるでしょうが、中国に関してはもうそれほど大きな問題にならないかと思います。私の実感ですが中国人としてももう靖国神社に関しては「どうでもいいよ」っていう感覚を持っているように思え、中国政府も形だけの批判をして深くは追及してこないと思います。深く追及して困るのはかえって中国政府だし。
ただタイミングがいいというか、明日から北京に行ってくる予定が入ってたりします。折角だから天安門前で「アイムフリーダム!」って叫ぼうかなと考えているのですが、靖国問題とは全く関係ないですね。でもこれ叫んだらきっと捕まるんだろうなぁ、自由であることを主張して捕まるというのもなんかいろいろあれですが。
次の話題に移りますが、ここ数日のプレスリリースを見ていてちょっと目を引いたものがありました。
・ジャックス、業界初の「入居者の自殺・孤独死保険」付き家賃保証システムを取扱い開始(PDF)
ジャックスカードのジャックスが何でも、賃貸オーナー向けに入居者が自殺したり孤独死した際の損害や原状回復費用を保証する保険を始めるそうです。別にジャックスを批判するつもりは全くなく、むしろ世の中で確かに需要がありそうなサービスを始めたのでなかなか目の付け所があると感心するくらいなのですが、逆を言えばこういうサービスが出るほど日本は自殺や孤独死が増えていると言えるのでなんだか複雑な気分になります。
ぶっちゃけ、うちの親戚でもこれやらかした人がいるんですがね。社会が病んでいるという定義はいくらでもありますが、果たして日本社会はどの程度病んでいるのか、そしてそれを日本人がどの程度認識しているのかということについては考えが尽きません。
ちなみに上海で働いていた時、上海の地下鉄に痴漢が現れたというニュースがありました。このニュースを見て同僚は、「痴漢が出るってことは、中国の社会も病んできたのかな」と言ってましたが、「それ言ったら日本はずっと病んでるってことになりますよ」って言って二人で大笑いしてました。でも冷静に考えると、痴漢が電車の中に存在することを誰もが当たり前と思っているんだから病み具合としてみたら結構根深いかもしれません。
・“全裸にリュック”の中学教師…あきれた供述とは?(テレビ朝日)
痴漢ネタで思い出したけど昨日またすごいレベルの変態が現れたこのニュースに注目してました。報道見て知ってる人も多いでしょうが、中学校の教師が全裸にリュックを背負い、スニーカーを履いて悠々と歩いているところ捕まったというニュースですが、捕まった際の言い訳が「酔いを醒ますためだった」と話してて、「全裸で歩けば酔いが覚めるの?っていうかお前いつもそうやって酔い覚ましてるの?」なんて質問が振りたくなってくる香ばしさです。
更にこれ見てまた思い出したことですが、SAMPの草彅強氏が以前にこれまた酔っぱらって全裸で捕まった際、「裸になって何が悪い!」と言い切りましたが、このセリフを聞くたびに、「言われてみると何故人は服を着るのだろうか?」などと妙に哲学的に考え込んでしまいます。こんなこと考える当たり自分も病んでるのかもしれません。
まず本日、安倍首相が靖国神社に参拝した件についてです。靖国問題についてはこれまでの記事で議論すべきことも自分のいいたいことも全部書ききった感があるのでスルーしますが、周辺国の反応について書くと韓国はまたあれこれ言ってくるでしょうが、中国に関してはもうそれほど大きな問題にならないかと思います。私の実感ですが中国人としてももう靖国神社に関しては「どうでもいいよ」っていう感覚を持っているように思え、中国政府も形だけの批判をして深くは追及してこないと思います。深く追及して困るのはかえって中国政府だし。
ただタイミングがいいというか、明日から北京に行ってくる予定が入ってたりします。折角だから天安門前で「アイムフリーダム!」って叫ぼうかなと考えているのですが、靖国問題とは全く関係ないですね。でもこれ叫んだらきっと捕まるんだろうなぁ、自由であることを主張して捕まるというのもなんかいろいろあれですが。
次の話題に移りますが、ここ数日のプレスリリースを見ていてちょっと目を引いたものがありました。
・ジャックス、業界初の「入居者の自殺・孤独死保険」付き家賃保証システムを取扱い開始(PDF)
ジャックスカードのジャックスが何でも、賃貸オーナー向けに入居者が自殺したり孤独死した際の損害や原状回復費用を保証する保険を始めるそうです。別にジャックスを批判するつもりは全くなく、むしろ世の中で確かに需要がありそうなサービスを始めたのでなかなか目の付け所があると感心するくらいなのですが、逆を言えばこういうサービスが出るほど日本は自殺や孤独死が増えていると言えるのでなんだか複雑な気分になります。
ぶっちゃけ、うちの親戚でもこれやらかした人がいるんですがね。社会が病んでいるという定義はいくらでもありますが、果たして日本社会はどの程度病んでいるのか、そしてそれを日本人がどの程度認識しているのかということについては考えが尽きません。
ちなみに上海で働いていた時、上海の地下鉄に痴漢が現れたというニュースがありました。このニュースを見て同僚は、「痴漢が出るってことは、中国の社会も病んできたのかな」と言ってましたが、「それ言ったら日本はずっと病んでるってことになりますよ」って言って二人で大笑いしてました。でも冷静に考えると、痴漢が電車の中に存在することを誰もが当たり前と思っているんだから病み具合としてみたら結構根深いかもしれません。
・“全裸にリュック”の中学教師…あきれた供述とは?(テレビ朝日)
痴漢ネタで思い出したけど昨日またすごいレベルの変態が現れたこのニュースに注目してました。報道見て知ってる人も多いでしょうが、中学校の教師が全裸にリュックを背負い、スニーカーを履いて悠々と歩いているところ捕まったというニュースですが、捕まった際の言い訳が「酔いを醒ますためだった」と話してて、「全裸で歩けば酔いが覚めるの?っていうかお前いつもそうやって酔い覚ましてるの?」なんて質問が振りたくなってくる香ばしさです。
更にこれ見てまた思い出したことですが、SAMPの草彅強氏が以前にこれまた酔っぱらって全裸で捕まった際、「裸になって何が悪い!」と言い切りましたが、このセリフを聞くたびに、「言われてみると何故人は服を着るのだろうか?」などと妙に哲学的に考え込んでしまいます。こんなこと考える当たり自分も病んでるのかもしれません。
2013年12月25日水曜日
自動販売機の設置台数規制の提案
先日、とあるまとめサイトで見たある記事が妙に印象に残りました。その記事というのも自動販売機を回って飲料を補充する仕事の方が自分の仕事内容を語るもので、率直に言ってそのあまりのハードさにのけぞりました。どれだけハードなのかというと、その話し手によると一人で一日数百台の自動販売機を回って飲料を補充、代金の回収をしなければならず、ただでさえ重たい飲料を補充の際に持ち運ばなければならないことに加え、一人が抱える台数があまりにも多いためにほぼ一日中車を運転するか、補充するかをしなければならないそうです。
また冬場ならともかく夏場のこの作業は特にきついそうで、汗だくになりながら一台一台を回っている状況だとも書かれてありました。そのため話し手自身、この仕事は三十代になったら体力的に決して持たないと考えており、中高年はおろか体力に自信のない人間はやるべきではないとまとめられています。
現在、日本国内に限ると自動販売機は本当にどんなところにも設置してあると言って過言ではありません。都心部に至っては数メートルおきに置かれているような状況で、利用者にとっては確かに便利かもしれませんが、これらをメンテナンスする側に立ってみるとこの台数は空恐ろしく、果たしてこれほどまでに設置する必要はあるのかという疑問を先程の記事を見て湧いてきました。
そんな事を考えていた矢先、こんな事件があったことを知りました。
・キリンビバレッジ自販機配送、最低賃金で2人分働かせる「過労死を生み出す」給与制度(マイニュースジャパン)
あまりいいまとめ方をしている記事ではありませんが、これしかないので我慢します。
この事件は自動販売機関連のビジネスをやっているキリンビバレッジで、呆れるほど過酷な勤務を強いられた挙句に23歳で自殺した男性に対して過労死認定されたというものです。詳しくはリンク先を見てもらいたいのですが、どれだけ作業に時間がかかっても残業代は払わず、この男性は自殺する直前は毎日4時間程度しか睡眠をとっていなかったそうです。
私が見たのは確か今年の秋頃にこの事件の裁判で、改めて男性に過労死認定されたという内容の報道でしたが、なんかさっきからうまいことこの報道記事を見つけられないのでもしかしたら削除されているのかもしれません。もっとも、「キリンビバレッジ」と検索するとすぐ「ブラック」という候補が追加で表示されるので意味ないでしょうが。
話は戻りますが、このように自動販売機の側に立つ労働者の現況は過酷というよりほかがありません。こういってはなんですが、多少の不自由を許容して自動販売機の台数を減らした方が社会全体にとっていいのではないかと思います。そもそも自動販売機は外部に置かれた冷蔵庫(冬は保温庫)と言ってもよく、詳しく調べていませんが消費電力も多いような気がします。それであるならば設置台数を地区や面積ごとに制限をかけ、オークション形式で設置する業者を決めるような方式で規制をかけるべきではないでしょうか。
消費者の生活が便利になる裏ではほぼ確実にサービス提供者の側で負担が増します。社会全体の負担を考え、サービス提供者の負担が過度にならないよう、消費者は多少の不便を許容する必要が出てきたのではないかと思え、その嚆矢として今回自販機の問題を取り上げました。
また冬場ならともかく夏場のこの作業は特にきついそうで、汗だくになりながら一台一台を回っている状況だとも書かれてありました。そのため話し手自身、この仕事は三十代になったら体力的に決して持たないと考えており、中高年はおろか体力に自信のない人間はやるべきではないとまとめられています。
現在、日本国内に限ると自動販売機は本当にどんなところにも設置してあると言って過言ではありません。都心部に至っては数メートルおきに置かれているような状況で、利用者にとっては確かに便利かもしれませんが、これらをメンテナンスする側に立ってみるとこの台数は空恐ろしく、果たしてこれほどまでに設置する必要はあるのかという疑問を先程の記事を見て湧いてきました。
そんな事を考えていた矢先、こんな事件があったことを知りました。
・キリンビバレッジ自販機配送、最低賃金で2人分働かせる「過労死を生み出す」給与制度(マイニュースジャパン)
あまりいいまとめ方をしている記事ではありませんが、これしかないので我慢します。
この事件は自動販売機関連のビジネスをやっているキリンビバレッジで、呆れるほど過酷な勤務を強いられた挙句に23歳で自殺した男性に対して過労死認定されたというものです。詳しくはリンク先を見てもらいたいのですが、どれだけ作業に時間がかかっても残業代は払わず、この男性は自殺する直前は毎日4時間程度しか睡眠をとっていなかったそうです。
私が見たのは確か今年の秋頃にこの事件の裁判で、改めて男性に過労死認定されたという内容の報道でしたが、なんかさっきからうまいことこの報道記事を見つけられないのでもしかしたら削除されているのかもしれません。もっとも、「キリンビバレッジ」と検索するとすぐ「ブラック」という候補が追加で表示されるので意味ないでしょうが。
話は戻りますが、このように自動販売機の側に立つ労働者の現況は過酷というよりほかがありません。こういってはなんですが、多少の不自由を許容して自動販売機の台数を減らした方が社会全体にとっていいのではないかと思います。そもそも自動販売機は外部に置かれた冷蔵庫(冬は保温庫)と言ってもよく、詳しく調べていませんが消費電力も多いような気がします。それであるならば設置台数を地区や面積ごとに制限をかけ、オークション形式で設置する業者を決めるような方式で規制をかけるべきではないでしょうか。
消費者の生活が便利になる裏ではほぼ確実にサービス提供者の側で負担が増します。社会全体の負担を考え、サービス提供者の負担が過度にならないよう、消費者は多少の不便を許容する必要が出てきたのではないかと思え、その嚆矢として今回自販機の問題を取り上げました。
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