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2014年4月6日日曜日

ゲームにおける「面白味」

 今現在、日本で一番勢いのあるゲームとくればガンホー擁する「パズル&ドラゴンズ」で間違いなく、ご多分に漏れず自分もよくこのゲームを遊んでおります。現在ランクは110ちょっとで、パーティは望月千代女というリーダースキルが「バランスタイプのHPが2倍、攻撃力が2.5倍」というモンスターを使い、サブメンバーには「ヴァーチェ」などいわゆる「魔剣士」と呼ばれるカテゴリー(どれもバランスタイプ)のモンスターで組んでます。進化形態はほとんどが究極進化を遂げていますが、ここまでの道のりは結構長かったなぁ。
  そんな私のパーティ自慢はここまでにしておきますが、私がいわゆるソーシャルゲームというスマホ向けゲームを遊ぶのは実はこの「パズドラ」が初めてでした。それとともに今回こうやって遊んでいて普通のPS3などに代表される据え置きゲームと異なっている点、共通している点というのにいくらか気が付き、特に後者の共通している点こと「ゲームの面白味」についていくらか思考し、友人らとも議論を重ねてそこそこ手ごたえを得る内容が練り上げられたので、今日はこのテーマについて書いてきます。

 まず前提論として述べると各ゲームはRPGやシミュレーション、パズルなど様々なジャンルに分かれますが、どのジャンルにも共通する面白さを決定づける要素というものがあると私は考えております。それぞれのジャンルによってそれらの面白さを決める要素がどのように盛り込まれるかはもちろん異なっておりますが、旧曲亭にはこれらの要素をどのように組み合わせてどれだけ多く含めるか、それがユーザーに対して「面白い!」と思わせる決定要因になるのではないかと見ているわけです。ではそれら面白さの要素は具体的にはどんなものがあるのか早速並べて解説していきます。

1、成長要素
 この要素が含まれるゲームジャンルとしてはRPGがある意味代表的かと思いますが、要するにユーザーが遊んでいて成長したと実感できる要素があるかないかです。ドラクエやファイナルファンタジーであればわかりやすく各キャラクターにレベルという設定が付与されており、スタート当初がレベル1だったキャラが高レベルになるにつ入れて高い攻撃力や強力な魔法が使えるようになると否応にも成長を実感し、少なからぬ優越感を覚えるかと思います。またかつては苦戦した敵キャラを一撃で楽々に倒せるようになると、こういっては何ですが言いようのないカタルシスがあるように思え、昔コメント欄にこのような内容を一度書いてもらいましたが、かつては倒すのが難しかったボス敵に対して圧倒的と言えるほど強くなってから挑み、じわじわとなぶり殺しにして楽しんだという遊び方をした人は私以外にも多分いるでしょう。傍から見ると酷い倒し方ですがこれがすごい爽快で、この時ばかりはフリーザ様の気持ちもわかる。
 RPG以外のどのジャンルにもこの成長要素はほとんど含まれており、マリオなどのアクションゲームでは要領よくキャラを動かせたり、レースゲームでも過去のタイムより早く走れるようになると気持ちがいいものです。最近のゲームだと「モンスターハンターシリーズ」がこの成長要素をある意味で最も含んでおり、純粋にプレイヤーのキャラの動かし方次第でどんな強敵にも勝てるだけに成長が強く実感でき、それが評価されてヒットしたのではないかと密かに見ております。

2、コレクション要素
 これもRPGだと説明しやすいですが、要するにレアアイテムなどの貴重なアイテムを集める楽しみです。最近だとアイテムに限らず「スーパーロボット大戦シリーズ」などであるように条件次第で仲間になるレアキャラとか、ステージクリア後に手に入れられるレア画像、ムービーなど幅広く広がっているため、「何かの条件達成によって得られるご褒美」というものがあると面白味が増すのではというのがこの要素です。
 さっきの成長要素同様にこれも「モンスターハンターシリーズ」が持っている要素で、このゲームは素材となるレアアイテムをステージクリア、または特定条件達成によって集め、一定量集めることによってレアな武器や防具を作っていく過程が重要です。私ももちろん遊んでいますがこうしたレアなものを集める過程というのはなかなか思い通りにはいかないですが、うまく目的のアイテムがドロップした際は文字通りジャンプしそうな位にうれしく、それまでの苦労が報われるようなカタルシスが得られます。
 今私がやっている「パズドラ」も同じで、レアな進化素材をかき集め、進化させるモンスターのレベルを進化させて新たなモンスターを作るという過程が重要なのですが、これなんかさっきの成長要素とこのコレクション要素の集合みたいな作業と言えます。まぁ源流を辿れば「ポケットモンスターシリーズ」に行きつくのですが。

3、難易度
 当たり前と言えば当たり前ですが、地味に面白さを決める上で深く考えなければならない上に調整が難しい要素としてこの難易度が挙がってきます。まず私の「パズドラ」の体験で述べると、難しいステージに挑むにつれてやはり詰まるというか簡単にはクリアできず、途中で負けてやり直しとなる場面が増えていきます。もちろんサクサク進めばそれはそれで楽しいのでしょうが、ゲームを進められなくて詰まる瞬間というのは「じゃあどうすれば攻略できるのか」ということを結構真剣に考えられ、こういってはなんですがこの考えている瞬間というのは案外楽しいです。手早いもので言えば攻略サイトを眺めることですが、それ以外にも自分のパーティ編成を弄ったりして攻略の糸口を探り、そうした試行錯誤の末にリトライして攻略が出来ると最初の成長要素にもつながりますが、苦労した分だけの気持ち良さが待っていてくれます。
 ただ極端に難易度が高いゲーム、具体的にはやっている人だけわかればいいですが「ニンジャガイデンΣ」とかあまりのハードっぷりに私も最初はプレイしていて不快感しか覚えませんでした。 それ以外にも「パワフルプロ野球シリーズ」でも難易度が最大だともはやクリアさせるつもりがないほど難しいというか投げる傍から片っ端にホームラン運ばれるので、コントローラを強く握りしめた回数はもはや数えきれません。
 このように難易度というのは調整が難しいですが、ユーザーに対して場面ごとに「壁」を作ることによって面白さというか気持ちよさをググッと高める要素だと思います。改めて考えると難易度の高いと言われるゲームほどそのゲームを深く愛するコアなユーザーというのがいるように思え、初期の「バイオハザードシリーズ」なんかはこの点で成功したんじゃないかな。

4、交流要素
 これは言わばほかのプレイヤーと一緒にプレイできるか否かという要素です。格闘ゲームの対戦よろしくリアルなほかの人間と協力プレイなり対戦なり、果てにはポケモンの様にモンスターの交換といった交流が出来るかどうかというのも面白さを決定づける重要な要素でしょう。スーパーファミコン時代なんかはこの交流要素が最も重要視されてたように思え、「ボンバーマン」や「桃太郎電鉄」、そして「マリオカート」なんかは私も友人と時には笑い、時にはつかみ合ったりするほど一緒にプレイしました。本来ゲームというのは対人で行うのが基本で、将棋や囲碁、麻雀などを考えると一緒に遊べるからこそゲームと呼べるのかもしれません。

5、ワンプレイ時間
 最後のこの要素はちょっと特別というか、現代の事情が深く絡んでおります。現代人はネット、インフラの発達に伴って自由な時間が明らかに減っており、十年前と比べれば小学生から大人に至るまで連続して娯楽に費やせる時間は確実に少なくなっているかと思います。それだけにゲームする時間もとり辛く、空いた時間にそのゲームを少しでもいいから遊べるかどうかというのが大きなファクターになってきたと考えています。また「パズドラ」 を持ってきますが、このゲームに代表されるソーシャルゲームが何故はやるのかというと一番大きいのは「ワンプレイが十分以下」という、電車の乗り換え時間とかほんのちょっと空いた時間でも区切りをつけて遊べるということが大きいでしょう。
 このワンプレイ時間で言えば現代は据え置き機が圧倒的に不利で、遊べる時間は自宅にいる間かつ暇であることが条件で、なおかつセーブなど一区切りつけるのに30分以上かかるゲームだと気軽にとはなかなか手に取り辛いです。長いRPGとかでもクリアまでに合計50時間以上かかるなんて言われた日には社会人なら手に取ることすらためらいかねず、クリアまでとは言わずとも起動して終わらせるまでの一回のプレイで1時間はノンストップにならざるを得ないとなると私ももう手に取らないかもしれません。昔の「スーパーロボット大戦F」なんて絶対にやらないだろうな。
 この要素に関しては結論を述べるとワンプレイ30分以下というのが現代のゲームにおける絶対的な条件で、この条件を満たすか否かは売り上げに大きく影響すると思います。昔はゲームは一日一時間とかいったが、むしろ作る側が時間に縛られるっていうのも皮肉なもんです。


 以上がざっと私が考える、ジャンルにとらわれずゲームをユーザーに面白いと思わせるのに必要な要素の数々です。これらの要素をどう組み合わせ、またどれだけ多く盛り込むかが重要なように思え、逆を言えばグラフィックやムービーにこだわるのもいいけど、これらの要素をきちんと含まないとあんま売れないのではと言いたいわけです。
 自分の主観ですが、ここに挙げた要素をバランスよく取り入れているゲームとして最高峰に挙がるのは既に挙げているように「ポケットモンスター」で、遊びの要素としては完璧に近い気がします。次点に同じく名前を挙げている「モンスターハンターシリーズ」で、これもどの要素も過不足なく含まれていて意図的かどうかはわからないにしろバランスの良さが際立っています。改めてこれらの要素に注目してヒットしているゲームを見ると違った視点も見えてくるので、ゲーム選びをする前にこうした点を考えることをちょっとおすすめして筆を終えます。

2014年4月5日土曜日

メールでのブログ投稿機能を試してみる

 さっき家の近くの車の下に野良猫が寝ていたので写真を撮ろうとカメラ向けたらすぐに逃げられました。警戒心が強い上にサービス精神の少ない猫だと思う一方、人間でもカメラ向けられたらやっぱり避けると思って納得することにしました。折角だからこのブログに載せようと思ったのに(ーー;)

 そういうどうでもいいことは置いといて本題ですが、実はここ最近、このブログでメール投稿機能を人知れず試しておりました。このブログはGoogle社のBloggerというソフトを使用して運営しておりますが、このBloggerではあらかじめ設定でメールアドレスを指定しておくとそのアドレスにメールを送るだけで記事が投稿できる機能が備え付けられております。くだらないことですがそのメール投稿用の指定アドレスに何故か「baniku」という単語を指定しており、どうしてこんな単語を指定したのか我ながら理解に苦しみます。

 このメール投稿ですがやり方は簡単で先ほども言ったように記事をメールで書いて送るだけです。メールのタイトルがそのまま記事の見出しとなり、メール本文はそのまま記事本文となり、太字にしたりリンクアドレスもメール文で指定しておけばそのまま反映してくれます。ただ試してみたところどうもメールソフトによって本文の書式は変わるようで、実際に書いた記事とメールソフトの組み合わせは下記の通りです。

  Yahooメール
みんなの党・渡辺代表の献金疑惑について
勉強のできる奴は仕事が出来ないのか?

  Windows liveメール
 ・漫画レビュー「激マン!」

 実際に書いた記事を見比べてみればわかりますが、Windows liveメールで書いた記事は何故だか行間、文字間がやけに広いです。実はこれでも直した方で最初は一行空けた空間が三行くらい空いてたりしていて、お世辞にもまともな仕上がりにはなっておりませんでした。またAmazonの広告バナーも実験的に敢えて突っこんでみましたが、リッチテキスト形式にそのままバナー広告のHTMLを入れてみたものの反映されず、しょうがないから後でBloggerの編集機能でバナー広告を追加せざるを得ませんでした。
 一方というかYahooメールでの投稿はほぼパーフェクトで、普段の投稿と同じような書式で記事が掲載できております。バナー広告に関してはWindows liveメールと同じように上手くいきませんでしたが 、画像に関しては添付ファイルに入れるだけでちゃんと一番上に表示してくれてるし、同じ機能を使いたいという方はYahooメールを優先することをお勧めします。

 ただやっぱりというか、きちんと記事を書くならBlogger本体で書くのが一番楽です。たとえば先ほどの画像の表示も一番上にしか置けず、好きな位置に置いたり真ん中寄りとか右寄りとかは指定出来なさそうです。そのほか、多分テキスト形式で書いて送れればバナー広告とか、リンクアドレスも別ページで開くとか指定できそうなのですが、Yahooメールだとリッチテキスト形式からテキスト形式に変えると書式が全部リセットされるので、まぁぶっちゃけ面倒くさいです。あと記事ラベルの指定もどうやら絶対に出来なさそうだし。

 もう少しこの機能に関しては実験を続けてみるつもりですが、使わないなら使わないで越したものの、ちょっとやむにやまれぬ理由で今後使ってく必要があるだけに今のうちに試せることは試しておかないとといったところです。

PSVitaの付属品に伴う懊悩( 一一)

 少し前の記事でソニーの携帯ゲーム機、PSVitaを購入したことをちょこっと書きました。私はこれ以前に同じソニーの携帯ゲーム機でPSVitaの前身にあたるPSPを持ってて、中国での生活中は文字通り苦楽を共にしたゲーム機だっただけに大事にしていたのですが、残念なことに恐らくリフォーム中に入り込んだ業者の人間に盗まれて紛失してしまいました。今回PSVitaを購入したのもこうした背景があったのと、新しい携帯ゲームが必要になる時期が迫ってきたためです。

 そんなわけで購入して早速いろいろ昨日とか確かめたり以前のPSPの時に購入したゲームアーカイブスのゲームを再びダウンロードしたりしていますが、ちょこっとだけ感想を述べるとタッチパネルなだけにタブレットPCとなんかそれほど差のないようなインターフェース画面で、もう少しVitaならでは要素が欲しいななんて思いました。あくまで個人的意見ですが。
 それと本体と同時に「忍道弐」という忍者ステルスゲームを買いましたがそこそこ面白く、中でもゲーム中のプレゼントグッズとして「暗殺は晩餐の後で」という、「謎解きはディナーの後で」を中途半端にパクったアイテムが出てきたときは素直に笑いました。

 と、順風満帆にVitaを楽しんでいるかのような記述をしましたが、実はちょっと附属品でトラブルがありました。トラブルは二つあってそのうち一つは液晶を保護するフィルムで、結論から言うと貼るのに失敗して買い直す羽目となりました。私が購入したのはサイバーガジェット社の保護フィルムでしたがいざ貼ろうとして何に驚いたかというと、フィルムのどちらの面を液晶に張り付けるか説明書に書かれていなかったという点です。フィルムを見ると片側だけになにやら引きはがすための白いシールが付いておりますが、果たしてこれは液晶に貼りつける側なのか、外面側なのかが全く書かれておらず、しょうがないからフィルムの両面を覆うシートをそーっと引きはがして確かめたりしましたがそうしている間に埃がやたらついて、結局使い物にならなくなりました。これまで保護フィルムを色んなものに貼ってきましたが失敗したのはこれが初めてで、最終的にほかのフィルムを買い直してそちらを貼りつけることとなりました。今度は一発できちんと決められたし貼り方も書かれていたからよかったものの、なんだったんだ最初のフィルムは。

 このフィルムだけでトラブルはもうこりごりという感じでしたが、 もう一つ別の附属品でもトラブルに見舞われました。
 フィルムを貼り直してようやくVitaで遊べるようになったのですが、なんだか遊んでて妙な臭いがずっとして、まだ買ったばかりだからプラスチックに臭いがついているのかなと思ってしばらく使い続けたものの全く解消されずくさいまま。敢えて言うなら砂利をまぶしたかのような臭いで一体何なのかといい加減原因を探り始めたところ、本体を収納するために買ったポーチが臭いの発生源であることを突き止めました。

 からくりはこうです。ポーチは文字通りVitaの本体を収納するケースなのですが、このポーチの臭いが凄まじく 、Vita本体を入れているとその臭いが移って遊んでて不快感を煽ってくれていたのです。原因に気が付いたところでどうにか対策出来ないかと思い、まず消臭剤ファブリーズをまるでゾンビの頭めがけてガンガン弾丸を撃ち込むようにガスガス噴霧してやりましたがまるで効果がなく、だったら丸洗いだとばかりに石鹸や洗剤で本気でゴシゴシ洗いましたが乾くと元通りに砂利の臭いしかせず、ならばと数日間空気ににさらして臭いが無くなるのを待ちましたが、臭いが無くなるどころか気が付いたら部屋の中にこのポーチの砂利っぽい臭いが立ち込めてて愕然としました。

 先ほどのフィルムの顛末と同じくこのポーチの問題は多分このブログを開設して以来初めて、私が体調不良から予告なしに一週間更新を休止した時期に起こっており、ただでさえ神経病んでて自分でも危なかったと思う状態だったというのに激しく神経を擦り減らしてくれて腹立たしいことこの上ありませんでした。

 ただフィルムはともかくとしてポーチに関しては多少体調が戻って正常な判断が出来るようになってから販売会社のデイテルジャパンに直接相談した所、臭いに関するクレームはこれまでないもののひとまず現品を送ってくれないかとすぐに返信が来ました。指示通りに現品のポーチを着払いで郵送したら数日経ってデイテルジャパンより荷物が送られ、中には「確かに通常の製品とはまた異なる匂いであるように思われました(原文そのまま)と書かれた手紙と共に、交換品として同じ色のポーチが同封されておりました。送られてきた交換品は受け取ってすぐマタタビを吸う猫の如く臭いをかぎましたが変な臭いは一切なく、この一件に関するデイテルジャパンの対応には満足していて今後も倍プッシュしてこうと考えてます。

  それにしても悪いことは重なるというか本気で体調悪い時に面倒な問題が立て続けに起こり、かなり神経がやられて文字通り頭が変な風になってました。また明日記事にしようかと思いますがこの時期の平均睡眠時間は5時間で、自宅に帰ってからもブログ書いたりサイト作ったりとかなり追い込んで作業していたため本気で辛かった時期でした。今週からは平日の睡眠時間がガチで+2時間となり、余裕綽々でブログも作業もかければ気持ちに余裕もあり、恐らく人より数倍は頭を回転させている気がするだけに自分にとって睡眠は本当に重要だと感じた体験でした。

2014年4月4日金曜日

勉強のできる奴は仕事が出来ないのか?

 本当に本題と全く関係がないですが、こちらの画像はさっきネットで見つけた物でツボにはまったのでここにも貼り付けることにしました。それにしてもよく似てる。
 ちなみにグーグルの画像検索で「陽月秘話」と検索すると今まで貼り付けたわけのわからない画像がドバっと出てきて、自分のブログながらカオスな印象を覚えます。きっとこの画像もこれからヒットするんだろうな。

 というわけで本題に入りますが、たまにネット、時にはリアル社会で見出しに掲げたような「勉強が出来る奴はあまり仕事が出来ない」というような意見を見受けます。使い方としては「一流大の奴は〜」とか「東大卒の癖に〜」なんていう使われ方が多く、仕事が出来ない理由としては「教科書に書いてあ ることしかできないから言われたこと以外出来ない」など、パターン通りにしか動けない頭でっかちみたいな言われ方をよく見ます。

 結論から述べると、私自身はこういう意見はあまり賛同できないというか、勉強が出来る出来ない以前にもっと見るべき特徴があるような気がしてなりません。

 まず私の視点で述べると、確かに高学歴の人間でもいい加減で果たしてどんなものかと思う人間がいないことはありませんが、それを言ったら学歴の低い人も同じようなもんで、学歴が高かろうが低かろうが頼りになる人は頼りになるし当てにならない人間は全く当てになりません。強いて言えば、仕事で指示を仰ぐ際だと学歴の高い人の方が指示がはっきりしていてわかりやすく、こっちも動きやすいって ところはある気がします。
 きつい言い方をするとこのような意見が出回るのは少なからず嫉妬の感情があるせいでしょう。自分もそんないい大学を出ているわけじゃありませんが最初の職場にいた同僚に変に嫉妬され、今でも呆れますが会社に請われて休日出勤して引っ越し作業を手伝うことになったら「花園は会社を舐めている」などと意味の分からないことを言われ、さすがに黙っているのはおかしいと思って抗議したら喚き立てられ、入社年次が下だったことから周囲も私に謝れというのでついてられないと思い退職しましたが。

 ここで話を終えてもいいですがもう少し続けると、そもそもなんでこういう「頭のいいやつは使えない」なんて意見が出てきたのか、ちょっと考えてみようと思います 。あくまで個人的な意見なのですが、私が子供だった頃にこうした意見の代表格として使われていたのは国家官僚で、どことなく官僚に対する批判意見として生まれてきたような気がしないでもありません。私が子供だった頃はちょうど大蔵官僚がノーパンしゃぶしゃぶとか官官接待を受けていた頃で批判が激しく、そうした空気が影響していたのかもしれません。もっとも、農水省と元社保庁の人たちは私は今でも馬鹿ばかりだと思うけど。

 同じく官僚への批判としてちょっと思い当たるのは、戦前の軍部こと陸大出身者に対しても同じような批判のされ方がされてて、出所はもしかしてこっちが本命かななんて勝手に推量しています。戦前の軍部はほぼ全員が陸軍のエリート選抜校である陸大の出身者で 占められていて実際に呆れた戦況予測をしたり無茶な作戦立てたりして正気を疑う軍人も少なくありませんでした。
 その中でもよく槍玉に挙げられるのが東条英機で、私の予備校の講師も「こいつはカミソリと呼ばれるほど頭の切れる奴だったのだが総大将には向いていなかったんだろうな」などと説明してましたが事実は差に非ず、陸大の受験では二回落っこちており、確かに受かるだけでも大したものですが「エリートの中のエリート」と言えるほど頭がよかったわけではないと私は見ています。むしろ当時の軍人で言えば、東條が陸大卒業時成績が11位だったのに対し同期で首席だった今村均とか、暇だからという理由で中国語をマスターした永田鉄山とかが際限知らずに頭がよかった人だったんじゃな いかと思えます。

2014年4月3日木曜日

何故、帝国は強いのか

 アメリカではなんでも「ポーランド人は馬鹿だ」という内容のジョークがあると聞きます。また二次大戦前に何度も国土が分割され、二次大戦中もユダヤ人を始めとした死者数が500万人以上も出すという(国別死者数では4位という説も)悲劇的な歴史を持ちながらも何故か同じヨーロッパの国々からポーランドはそれほど同情されず、それどころかそのような歴史を歩んだのもやや自業自得みたいに言われているなどとも聞きます。
 なんでポーランドがこんな風に馬鹿にされるのか理由はわかりませんが、以前にちょっとこの辺で気になったのでポーランドの歴史をこの前ネットで調べました。西欧史については一通りやっていて大まかな流れはわかっているものの個別の国々の歴史となるとまだまだ勉強不足であることを痛感したのですが、改めてポーランドの歴史を見てみると意外に面白く、さすがにブログでまとめることはしませんけどドイツ騎士団とプロイセンの歴史くらいなら一つのテーマでまとめてもありかもしれません。

 折角なのでポーランドの歴史について簡単に触れると、あまり知られていませんが中世、具体的には13~16世紀くらいまでは間違いなく欧州最強国家と読んでいいほどの繁栄ぶりをみせております。当時のポーランドはヤゲウォ朝と呼ばれる国家体制で他のヨーロッパ諸国に先駆けて絶対王権を確立し、軍事力においてもポーランド騎士団と呼ばれる軍勢を保有して文字通りに現在のロシア地域にいたスラブ民族、並びにオスマントルコを筆頭としたイスラム勢力との抗争でキリスト教勢力の最前線を担う役割を果たしておりました。
 残念ながらというか16世紀以降はロシアやプロイセン、オーストリアが勢力を拡大した上に内戦もやらかしてしまったことからポーランドは国力を落としてしまうわけですが、それ以前のポーランドがまさに帝国と呼ぶほどの繁栄を誇った理由については様々な要素が挙げられており、私の視点で述べるとそれらは「寛容性」という言葉にまとめられるように思えます。

 当時のポーランドは一応はキリスト教を国教とする国であったのですが他のヨーロッパ諸国と比べてその強制性は非常に弱く、むしろ他の宗教や民族に対して非常に寛容であったことはほぼ意見が一致します。一番代表的なのはユダヤ人に対する態度で、13世紀の時点でユダヤ人の人権並びに政治的自治を認める法令を出しており、それを聞きつけたことによって他のヨーロッパ諸国で弾圧を受けたユダヤ人が移民してきたことによって学術的にも文化的にも発展したそうです。
 そのほか現在のリトアニアに存在した、ギリシャ正教を国教とするリトアニア大公国と14世紀に連合を結び「ポーランド=リトアニア連合」という国家連合を作ってポーランド王家は領土や権力を大きく高めたのですが、この際にポーランド王国にやられてばっかだったドイツ騎士団が「異教徒と手を組んでいる」などとバチカンに訴えてきます。この際にポーランドは、「異教徒とはいえリトアニアの人間も同じ人間で我々と同じ人権を持つ」なんてかっこいいことを語ってバチカンにもその正当性を認めることに成功します。にしてもドイツ騎士団はカッコ悪いな。

 このように異教徒、異文化、異民族に対してとにもかくにも寛容に受け入れていったことがポーランドの躍進に買ったと現在では評価されているのですが、こうした寛容性は何もポーランドに限らなくてもほかの歴史でも同じ傾向がある気がします。

 一番卑近な例は現代の米国で、20世紀には黒人差別問題が大きく残っておりましたがそれでもほかの国々に比べればそうした民族的差別はまだ小さいように私には思え、黒人のオバマ氏が大統領になれたり、有色人種の人口が白人を追い抜いたりなどとしている状況を見るにつけ帝国と呼ばれるだけの多文化性、多様性を孕んだ国と言っていいでしょう。同じく帝国とくれば「テルマエ・ロマエ」で同じものローマ帝国も同じで、奴隷制によって成り立った経済構造でしたが植民州出身の人間でも兵役を終えればローマ市民権を与えたりして、いわば異質な文化の地域を取り込むような政策を実施しております。

 私は帝国と呼ばれる国というのは歴史的に、異質な文化や民族を取り込むから帝国であって単独の文化を保持し続けハイ手的な主義を取る国は帝国とはなり得ないと前々から考えております。その上でさらに続けると、やはり発展性という意味では帝国の方が圧倒的な強さを持ち得ます。
 現代の米国がいろいろな意見があるもののそれでも最強国として君臨し続けているのは毎年大量の移民を受け入れ、また学術や文化面で多くのものを取り込みつつ変化しているからだと思います。もちろんこんな帝国性を持つのは生半可な努力じゃ出来るわけなく日本なんて島国という特徴からもまず慣れるわけありませんが、それでももっと寛容性というものを意識し、異質な文化や概念を取り込むことで国家として民族として強くなれるということを少しは考えてほしいと陰ながら思います。

2014年4月1日火曜日

STAP細胞問題の最終報告について

<STAP細胞>「小保方さんに不正行為」認定 失望大きく(毎日新聞)

 これまでに何度もこの問題で記事を書いておりますが、以前の記事に書いた通りにようやく理研も小保方氏の論文に捏造や不正があると認めました。肝心の小保方氏は今回も記者会見には出てこず、報道では理研側の発表に対して反論を述べ不服申し立てをする予定だなどとされて本当に懲りない奴だなとか思います。今回の発表に対する私の感想は、当初でこそ妙なかばいだてこそしたものの途中からは理研は割ときちんと対応したかなと思え、これまで同様に小保方氏は確信犯で捏造をしていたのだろうという考えに変わりありません。

 理研の発表内容に関してはもう細かく感想を述べませんが小保方氏がメディアへ配布したコメントについていくつか意見を述べると、 画像を切り貼りしたのは見やすくするための処置だったとか、自分の卒論と同じ画像が論文に使われていたのは単純ミスで悪意はなかったと主張しているようですが、そんなたわごとを信じる奴はマジで精神病ものだと呆れるレベルの反論としか言いようがありません。そして最も重要な、共同研究者の依頼で作成したSTAP細胞とされるマウスの細胞が、共同研究者が送ったマウスとは別系統の遺伝子を持つ細胞だったことに関して触れていないという時点で、まぁ色んな意味で確信犯なことがわかります。

 この事件において第一義的に重要な論点は言うまでもなSTAP細胞論文は捏造だったのかそうでないのかということに間違いありませんが、第二の論点として何故これほどまで人格的に明らかな問題のある人物を理研が採用したのか、この点についてもっとみんなで考えるべきじゃないかと私は思います。私がこのように考えるのもいわゆるポストドクター問題こと、日本で博士号を取得した研究者が研究職に就職できず、大半が培った知識や技術を活かせないまま苦しい生活を送っているとよく聞くからです。
 報道によると理研の研究職の待遇はほかの研究機関と比べて非常に良いらしいのですがそれは置いといて、何故ほかにもたくさん博士号取得者がいるにも関わらず平気でコピペ論文を出すような人間を理研は採用したのか、そして研究リーダーにまでして捏造を見過ごしたのか。別に研究職に限るわけじゃないですけど日本は人材採用のプロセス、そして昇進プロセスがどこかおかしい気がしてならず、政治家に白企業経営者にしろ、「よりによってなんでこんな人間が」と言いたくなるほど人格疑う人間が上に上ってくることがやけに多いです。何故こんなことが起きたのかその原因についてこれを機にもっと考えるべきじゃないか、なんてちょっと言いたくなります。

 さっきから私は文字通りに人格否定発言を繰り返しておりますが、今回の捏造によって日本が世界に対してリードしている再生医療研究に大きな不信感を招いたという点で、本気で小保方氏には強い怒りを覚えます。日本がこの分野で何故リードしているのかと言えばノーベル賞も受賞した京都大学の山中伸弥教授がIPS細胞の作製に成功したためですが、そんな山中教授と小保方氏を比較したいい社説が先日、産経新聞に載せられておりました。

推敲が足りない? 3月13日(産経新聞)

 この社説では同じくノーベル賞受賞者の益川敏英氏と山中氏の業績を引用し、下記の様に小保方氏と比較しています。

「冒頭の2人の業績を振り返れば、ノーベル賞級の発見は、一人の天才の力だけではなし得ないことがわかる。益川さんは、ノーベル賞を同時に受賞し た小林誠さんとの議論の末に、新理論を打ち立てた。山中さんは、受賞記念講演のなかで、ともにiPS細胞開発に取り組んできた仲間の名前を挙げてたたえて いる。
 STAP細胞の論文の共同執筆者の間では、論文の撤回をめぐって、意見の対立もあるようだ。一連の騒動のニュースに接していて、小保方さんにとって、「同志」と呼べる研究者の姿が見えないことも気にかかる。」

 この問題は突き詰めると、結局この一言に尽きるような気がします。この社説に書かれている通りに山中氏はIPS細胞発表後の会見、そしてノーベル賞の授賞式やそのほかのあらゆる場面で、自分の研究室にいる研究員が奮闘してくれた結果で自分だけの力ではないとこれでもかと言わんばかりに褒め称えていました。
 それに対して小保方氏ですが、ネイチャー掲載後の会見では自分の研究を認めない科学界への腹立たしさばかり主張し、共同研究者たちに関してはほぼ全く触れられていなかったように私は記憶しております。今となってしまえばやはり自己主張が間違った方向に発展してしまった人だったということと、こんなイカサマばかりやっているから周りは認めなかったんだよと吐き捨てて言いたくなるような感情しか覚えませんが。

 私は昨日の記事で漫画家の永井豪氏が若かりし頃の自分を追った「激マン!」という漫画のレビューを書きましたが、永井氏はこの漫画の中で当時の自分のアシスタントたちに対して非常に事細かくかつ好意的に紹介していて、実際に彼らなくして当時の仕事はこなせなかったという風に述懐していることを指摘しました。山中氏にしろ永井氏にしろ真に世の中に功績を残し評価されるべきはこういう人たちであり、にもかかわらず何故こんな採用前からいろいろと問題を抱えてそうな人間を理研が採用してしまったのか、そうしたてんについてくどいようですがもっとかんがえるべきでしょう。

2014年3月31日月曜日

漫画レビュー「激マン!」

 このブログについてよく、「どうして記事にするネタが切れないの?」と不思議そうに知人から尋ねられることが多いのですが、実体は逆で書きたいネタ外たくさんあるにもかかわらずほとんど書き切れていないのが実情です。今日書く子のレビューも約一ヶ月前に書こうと企画しておきながらずるずると遅れ、明日のタイミングに合わせるために今日この日に書くこととしました。

激マン!(Wikipedia)

 本題に入る前に簡単に永井氏について紹介しますが、永井氏は大学受験中に漫画家になることを志し、確かどっかの出版社に持ち込みしたところすぐに才能が認められてひとまず誰かのアシスタントにならないかと言われ、「じゃあ手塚先生」と言ったところその時に手塚治虫の職場に空きがなく、そのかわりとして石ノ森章太郎のアシスタントなり漫画家生活をスタートします。アシスタントとして多忙な生活を送る中でひとまずデビューしようと自分の作品を作ることを考え、すぐにストーリが組めるという理由からギャグ漫画を作りはじめ、それらの作品が後にチャンピオン編集長となり「ブラックジャック」などを連載させる名物編集者、壁村耐三によって見出されてプロ漫画家としてデビューします。

 こうして永井氏はギャグ漫画家としてデビューしてすぐに人気作家となり、続けざまに少年ジャンプで連載を始めた「ハレンチ学園」でその人気を不動のものとしますが、本人としてはギャグ漫画よりもストーリー漫画を以前から書きたいと考えており、そうした本人の願いからテレビアニメの企画と同時進行で始められたのが「デビルマン」でした。

 デビルマンについてこのままネタバレ覚悟で解説を続けますが、ある意味で観世懲悪に終わらないダークヒーローストーリーの作品として嚆矢となるような作品で、連載期間が短くそれほど長編ではないものの、逆に長編ではないからこそその話のインパクトは凄まじく、まだ読んでない人には強く一読することをお勧めします。この作品は「週刊少年マガジン」においてテレビアニメと同時並行で漫画が連載されたのですが、その時の状況についてこの「激マン!」は事細かに描写しています。それにしてもこのタイトル、漫画家を目指す少年二人と漫画編集の裏側を描いた「バクマン。」を露骨にパクってるな。

 話は戻りますが当初、デビルマンは普通のヒーロー物として企画が立てられたそうで実際に漫画の連載より先に放送されたテレビアニメ版はそうした描かれ方がされています。ただ漫画版において永井氏は深いテーマ性、具体的には戦争というものを暗喩させる作品として描き始め、テレビアニメ版の企画になかった飛鳥了というキャラクターを勝手に作ったりして徐々に別の方向へと突き進んでいきます。
 このデビルマンを執筆していた状況についてもこの「激マン!」の中では詳しく描かれているのですが、その中でひときわ目を引いたのは当時の永井氏の多忙ぶりです。なんでも週刊連載を三本も抱えていて一週間に執筆する原稿枚数はなんと100ページも超えていたそうです。もちろんこんなページ数を一人で書けるわけがなく自身のプロダクションで多くのアシスタントを抱え、日程を管理するため兄弟を始めとしたマネージャーも多く雇っておりました。そんな状況について永井氏は担当編集者に対して、「実は僕の今の手取り収入は同世代のサラリーマンよりも少ないんですよ」と語るシーンがあります。

 漫画の中のセリフによると、連載なんて一本か二本くらい抱える方が一番収入に良く、当時の連載本数だと執筆を維持するためのスタッフの人件費がかかりすぎて実質マイナスに近い作業量だったそうです。それでも連載を抱えたのは収入以上に漫画作品を残したいという永井氏の信念からで、また当時は体力にも自信があって二、三日の徹夜も苦にせずやれたと描かれてあります。まあなんというか、恐ろしい執念だと読んでて感じました。
 ただそんなタフな永井氏であっても、それまでのギャグ路線からシリアスなストーリーのデビルマンは執筆していて苦労が多かったらしく、その執筆にかかる労力はこれまでの漫画作品の数倍だったとしています。ただそれでもこの作品にかけたいという思いは強かったらしく、なんとデビルマンに心血を注ぐために人気絶頂だった「ハレンチ学園」を始めとした主だった当時の連載作品を終了させることにしたそうです。これには各漫画雑誌の担当も驚いて何とか連載を続けるように説得したものの永井氏は譲らず、実際に次回作を書くことを条件にして複数作品の連載を切りました。

 そうやってデビルマンの執筆態勢を整えた永井氏でしたが、徐々に作品が独り歩きし始めたというか、自分の想定とは勝手にストーリーが変わっていったと作品中で述懐しています。その動きに拍車をかけたのは漫画雑誌からの連載打ち切り連絡で、連動企画だったテレビアニメが終了することから漫画版のデビルマンもすぐに終了させるように通告されたことからでした。

 この時の状況について「激マン!」では非常に詳しく描かれており、マネージャーをしていた兄と共に編集部を訪れて何度も連載を続けるように交渉し、実際に読者人気も上がっていったことから当初の予定より終了までの連載回数を増やすことに何度か成功させます。とはいえ執筆できるページ数は限られていることからそれまで以上に展開を早めてなんとか結末へ落そうと努力するわけなのですが、漫画の中の展開がハイスペースなのと同様に当時の永井氏の近況もなんと慌ただしかったことかと思わせられるばかりでした。 

 このような背景があったことから実際にデビルマンの後半部は非常にハイスピードで展開が進んでいくのですが、その中で異色を放つのは主人公の不動明を悪魔と戦うために悪魔と合体することを提案する、飛鳥了というキャラクターです。このキャラについて永井氏は当初、不動明をデビルマンへ導く役割を終えたら死亡して途中退場するキャラクターとして用意したらしいですが、登場させたところ人気が出たためそのまま生存フラグを歩み続投し、折々でキーポイントとなっていくキャラになってくのですが、後半に至って「一体何故この飛鳥了がここにいるのか」などと、作者の思惑を外れた活躍をするようになったと描かれています。彼の正体についてはぜひ原作の「デビルマン」を読んでもらいたいのですが、彼の役割が意図したものではなくストーリーの展開から独り歩きして出来上がったものだったという事実には私自身非常に驚き、同時に永井氏は本当に勢いでストーリーを進めていく人なんだなぁなどと感じました。 

 という具合で「激マン!」の解説なのか「デビルマン」の解説なのかよくわからない記事となりましたが、当時の漫画界と永井氏の近況、そして編集部と漫画家の作品にこだわる余りの深い交渉は見ていてなかなか面白いです。ただ敢えて苦言を呈せば、作者自身が自分の伝記的作品を書くことが恥ずかしくてこの「激マン!」について、「ノンフィクションに限りなく近いフィクション」と紹介しており、作中ではややオーバーな表現も目立ちます。そのため冷静かつ怜悧な目線に欠け、その面でこの「激マン!」はその価値をやや落としているようにも見えます。恥ずかしいとは思うものの、恥を忍んで淡々と当時の状況を追っておけばよかったのにとちょっと残念な点です。 

 最後に読んでてほかに気になった点として二つ挙げると、「デビルマン」でヒロインの母親が同じ人間によって拷問されて殺されて、その死体が出てくるシーンで永井氏は最初、逆さ吊りにされた上に体が左右に真っ二つに引き裂かれた死体を描いたところ、「逆さ吊りはいいけど真っ二つは駄目」と編集部に駄目だしされてしぶしぶ修正したシーンがあります。そのシーンで永井氏は、「どうせ残酷な描写なんだからあんまり変わらないような」と書いてますが私も同感です。

 もう一つの気になるシーンですが、当時の永井氏の状況説明としてこ「激マン!」の中では数多くの彼のアシスタント作家の名前が出てきます。それも名前だけでなく各人の特徴や経歴、そして後の活躍まで事細かに書いており、本当に仲間思いの人なんだなぁと素直に感じました。その中でもひときわ高い評価をされているのが「ゲッターロボ」で主軸を担う石川賢で、彼に対して永井氏はアシスタントというよりまさに相棒と言っていいような最大級の評価がされております。 

 永井氏のプロダクションは「ダイナミック企画」という名で、ここは通常の漫画プロダクションとは明らかに趣が異なり永井氏自身も自分の作品の制作機関というよりは気の合う漫画家同士の製作集団だと述べており、実に数多くの漫画家がここから巣立っております。こうした目的を同じく行動する集団というかチームが案外二本にはないと日系アメリカ人が書いた本をこの前友人から借りて読んだのですが、明日最終報告する理研にはそうしたチームがあったのかなと思うわけで、何も問題なければこのテーマで明日記事を書く予定です。