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2010年4月29日木曜日

新司法試験合格者の債務問題

 昔まだ私が学生だった頃、法学部に在籍していたある友人にこんな事を話しました。

「言っちゃなんだが、今度ロースクール(法科大学院)が出来るけど去年の司法試験合格者はそれほど増えておらず、俺はこの制度は必ず破綻すると思うから君は行っちゃだめだよ」

 図らずも、この時の私の予言がどうも現実味を帯び始めてきているようです。

 今月の文芸春秋にて、あの宮部みゆき原作の小説、「火車」に出てくる多重債務者の救済を専門に手がける弁護士キャラのモデルとなった、現日弁連会長の宇都宮健児氏がこの問題について寄稿しており、あまりの内容に私も一読して絶句しました。そもそも弁護士会において無派閥者であった宇都宮健児氏が日弁連会長に選出された自体がこれまでからすると非常にイレギュラーな事だったらしく、それだけ司法改革以降の法曹界に問題が噴出していることの表れだと本人も述べております。

 それで具体的にどのような問題が起きているのかというと、一言で言うなれば司法試験合格者の貧困問題です。司法試験の受験者ならともかく合格者であれば後の人生はバラ色なのではないかと私は思っていたわけなのですが、実態はさにあらず、スタートしたての弁護士は身動きも取れないほどに経済的に追い詰められているそうなのです。

 まず現在の主流な弁護士への道というのは法科大学院、いわゆるロースクールでの教育を終えた後に司法試験を受けて弁護士資格を得るというやり方なのですが、この法科大学院での高額な学費を払うために現状で多くの受験者は奨学金などの借金を抱える事となります。そのため司法試験合格後、合格者は基本的な業務や知識を習得するために裁判所にて司法修習生という身分で一年間(以前は二年間)働きながら合格後教育を受けるのですが、現在この司法修習生は平均で400万円もの借金を抱えているそうで、多い人に至っては1000万円にも登るそうです。

 これまでこの司法修習生は公務員身分として在籍中は給与が支払われていたのですが、これが今度からは貸与制、つまり借金として返済義務が課されるように法改正がされようとしているのです。しかもこの司法修習生中は法律で習得専念の義務が課されているためにアルバイトは禁止されており、言わば国から無理やり借金を握らされようとしているわけで、すでに述べたように司法修習生は司法試験に合格する時点で大量に借金を抱えているため、このままだと合格後もまた借金を重ねて司法試験合格者はみんな多重債務者からスタートするという笑えない事態になりかけているそうなのです。

 実際に宇都宮氏は今回の論文にて、このような厳しい現状を反映してか問題があると認識しつつも、多重債務者に高利金融業者からかつてのグレーゾーン金利で支払った余剰金を返還させる代わりに多額の手数料を要求する悪徳弁護士事務所へ就職する新人弁護士が増えていると述べています。新人弁護士からすると自らの理想とかけ離れた現場である事が分かっていながらも、いきなり独立開業など出来るはずもなく、抱えてしまった借金を返すためにこのような稼ぎのいい弁護士事務所へ就職するそうです。またまともな弁護士事務所も司法改革以降の合格者の増加によってどこも人員は満杯状態らしく、ますます問題ある事務所に人が流れるという悪循環に陥りつつあるそうです。

 このような厳しい新人弁護士の現状など今後改革すべき課題が非常に多いと宇都宮氏は主張しているわけなのですが、私としてもこのところの債務返済を行うという弁護士事務所の過剰な広告が目についており、傍目にも今の法曹界が異常な状態なのではないかとかねてより危惧していました。具体的にどのように解決して行けばいいのかとなるとあいにく不勉強のために解決案を持ち合わせていませんが、少なくとも司法修習生の給与問題については宇都宮氏同様に現行の給与制を維持して貸与制へは移行してはならないという意見に賛成です。

 更に言えば、宇都宮氏はこの司法修習生の期間も数年前に二年から一年半、そして今の一年へと徐々に短縮されてきている事も新人教育上問題で、可能ならば昔通りに二年に戻すべきだと主張されてます。あまり専門ではないのですが、以上のような問題点に気をつけ今後もこの問題を見守っていこうかと思います。

2010年4月28日水曜日

国家公務員、採用半減指示について

 本当は昨日に書きたかった内容なのですが、検察審査会の小沢氏起訴相当議決ニュースが入ってきたのでそちらを優先して取り上げたために今日に書くこととなりました。それにしても、予想はしていましたが昨夜のニュース番組は小沢氏の報道ばかりで今日取り上げる話題はついぞ見ることはありませんでした。

国家公務員の採用半減、首相が指示 閣僚懇(朝日新聞)

 私はこのニュースを昨日の朝刊一面で知りましたが、一目見てなんだこれはと大きく呆れさせられました。

 概要を簡単に説明すると、民主党は今後各省庁の官僚に対して天下り斡旋を禁止する措置を、本気かどうかわかりませんが取る予定なのですが、天下りを全面廃止するとなるとこれまで天下りで出て行っていた退職者が出て行かなくなるため、これまでより多くの国家公務員を定年まで面倒を見る必要になり、このままいくと現状より遥かに多い人員を省庁は抱える事になります。
 すると結果的には人件費が増大する事になり、これでは民主党がマニフェストに掲げた「国家公務員の総人件費の2割削減」ができなくなります。そのため鳩山首相は関係閣僚らに対し、この増える人件費の分だけこれから新規に採用する人員を減らしていこう、そのためにまず来年度の新規採用数を半減、実数にして約4500人程度抑制させるよう指示したと、このニュースは報じております。

 このニュースを見てまず私が感じたのは、ますます現代の若者を追い込むつもりかという怒りでした。
 現在、日本の若者は不況の影響から各企業が採用数を減らしているため、どれだけ真面目で能力のある若者でも職に就く事が出来ないという厳しい状況下に置かれております。そんな若者ら、というより学生が最後の希望として持っているのがまさに今回取り上げている公務員職で、仕事が楽で身分も保証されるとのことで、恐らく少子化で人数は減っているにもかかわらず過去かつてないほどの志望者数となっていると思います。

 私は昔から反権力志向が強いために周りからは政治家や官僚が向いているとよく言われてはいたものの、たとえ簀巻きにされて琵琶湖に投げ入れられても公務員にだけは絶対になるまいとかねてより考えていましたが、こんな時代ゆえかやはり周りの同年代の知り合いや後輩らは公務員志望者が圧倒的に多く、専門の予備校に通う人間も珍しくありませんでした。
 実際に今の就職事情を見ていると普通に就職活動してもなかなか内定が得られず、またそうやって苦労して得た内定でも足元を見られてか、いわゆるブラック企業と呼ばれるような所で寿命を縮めるような働き方を強いられたりする事も珍しくなく、若者が高い倍率となることが見えていても公務員を志望するのも無理はないと思っていました。

 それが今回、天下りをやめさせる代わりに新規採用を半減させるというこの鳩山首相の指示は、見方を変えればただでさえ狭くなっている若者の就職間口を更に狭めて追い込みかねない指示です。しかもその採用数を半減させる理由というのも現役の官僚を定年まで雇うためという、これまた見方を変えて言えば若者を犠牲にして上の世代を温存するというやり方で、公務員は嫌ってはいるが一応は若者の味方のつもりの私からするととても承服できない案です。

 元々民主党の支持母体は公務員によって組織される労働組合であって、今回のような天下り廃止(これ自体本当にやる気があるのが非常に疑わしいのですが)のかわりの条件にこのような新規採用数半減が出てくるのもある意味自明であったのかもしれません。しかしそもそもの話、これまで天下りで職員が出て行っても省庁という組織が成り立ってきていたという事を考えると、現役の公務員数は明らかに余剰であるはずです。だったら新規採用をいきなり半減なんてことはせず、給料は高いが仕事のない、天下りで出て行くような50代の職員らを最後まで面倒なんか見たりせずにとっととリストラで首を切ってしまった方が人件費も浮くしずっと効率的なような気がします。第一、不況の今こそ若者の就職口をそれこそ国費で以ってある程度確保しなければならないというのに。

 もし本気で天下り廃止をするかわりに定年まで面倒を見るという手法に切り替えるというのであれば、上位世代のリストラなしに新規採用数の削減を私は決して認められません。また新規採用を絞るというのであれば、いきなり半減などといわずもう少し段階を経て少しずつ減らしていくやり方でないとこれもまた認めることができません。

 最近友人に借りた本に書かれていましたが、ネットはテレビで取り上げられた話題には大きく反応しますが、新聞だけだとたとえ一面に載ったとしてもあまり反応しない傾向があるそうです。今回のこの一件もまだあまり大きくなっていないように思え、というよりすっかり小沢氏の騒動に隠れてしまっちゃっている所があるので、もし共感される方があれば宣伝を兼ねてこのブログを紹介していただければ幸いです。

  おまけ
 なお、キャリア職員の採用数は例年通り600人程度を確保する予定だそうです。

2010年4月27日火曜日

検察審査会、小沢氏を起訴相当と決定

小沢氏は「起訴相当」 検審が議決 土地購入事件(産経新聞)

 本日午後、一連の四億円の土地購入に関わる疑惑において元秘書は起訴となったのをよそ目に不起訴となった小沢一郎民主党幹事長に対し、東京地裁の検察審査会が起訴相当という議決を採りました。
 この検察審査会については私もかつて、「検察審査会と二階大臣の西松事件について」の記事にて取り上げ、将来的には一般市民の意見をより司法に反映する大きな手段となるのではと期待しておりましたが、今回早くもこのように大きく取り上げられるようになってなかなか驚きです。

 まずはおさらいですが、この検察審査会とはそもそもどういったものなのかをここで軽く説明します。
 検察審査会というのは一般有権者の中から無作為に選ばれた十一人の市民によって構成される会議のことで、過去に捜査が行われたものの裁判の開始となる起訴までに至らなかった事件に対し、事件の当事者や被害者から不服申し立てを受けることで再び起訴すべきかどうか審査します。

 この検察審査会が発足した背景として、一般市民感情と司法があまりにも隔たり過ぎてないよう、市民の感覚をより司法に反映させるようにという目的から作られました。しかしながら他の日本の組織同様に所詮はポーズのみで、たとえ検察審査会が起訴相当という議決を出してもこれまでの日本の裁判所を初めとする司法はあまり相手にしてきませんでした。

 これに変化がおきたのは去年の裁判員制度の開始からで、裁判員制度とともにこの検察審査会も権限が強められ、これまでいくら起訴相当の議決を出しても検察が実際に起訴手続きを行わなければ裁判が行われなかったのに対し、起訴相当議決が二回出た場合は問答無用で裁判が開始されるように権限が強化されました。
 この結果、今月初めに起訴相当が連続して出た事で、2001年に起こった明石花火大会歩道橋事故の際に現場責任者の一人であった当時の副署長がこの度強制的に起訴されることとなりました。なお余談ですが堺屋太一氏はこの時の警備担当者らについて、催事警備のイロハも知らない奴らだと述べております。

 話は戻り小沢氏の今回の一件ですが、これまでならば笑って見過ごせる検察審査会でしたが、仮にもう一回起訴相当議決が出てしまえば強制的に起訴となることもあって民主党内は早くも大慌てのようです。夜七時ごろに小沢氏も会見を行いましたが、それほど慌てた素振りこそなかったものの以前のような自信満々な態度は少しなくなってやや大人しくなったように私には見えました。また他の閣僚らもコメントは様々で、最近小沢氏としっくりいっていない前原氏はノーコメントでしたが、素直に「ヤッターヽ(*´∀`)ノ」とか言えばいいのに。

 また同じく秘書がらみの問題を抱えていてもう一人の当事者とも言える鳩山首相は、検察の捜査に影響を与える事になるためコメントは出来ないと、記者からの質問には特に自分の意見を述べませんでした。前回、小沢氏に「戦ってください」と党大会で言った傍から散々に叩かれた事を踏まえての発言でしょうが、まぁ適当と言えば適当な対応で特に問題はないと思います。
 しかし先日、鳩山首相の秘書が例の政治資金収支報告書偽装の件で有罪となったばかりで、もし小沢氏が強制的に起訴となる場合、いやそれ以前に鳩山首相が起訴されないことに対しても検察審査会が議論する事となれば、内心では他山の火どころではないのかと思います。

 今月の文芸春秋において田原総一郎氏が今の鳩山首相について、普天間問題でゴタゴタしているが今の彼の頭の中は自分の資金問題で一杯だからこの問題はまだまだ片付かないだろうと述べていますが、私も見ていてどうもそんな気がします。だとすると今回の一件でますます頭が回らなくなる可能性も高いとも思え、普天間ももっとややこしくなるのかもしれません。

 最後に小沢氏の疑惑について私の意見を書いておくと、日本の警察や司法は状況証拠だけでも簡単に有罪を取ってくるのに政治家に対してはやけに具体的な証拠を必要とするのはどう見たって不公平な気がしますし、資金の出所についての供述をコロコロ変えている時点で明らかに問題があると思います。恐らくこれで起訴とならなくとも再び検察審査会に申し立てが行われ、早ければ七月くらいにはまた起訴相当が出て強制起訴が行われる公算が高いと私は見ているのですが、今日の審査会の決定理由おいて、「秘書の問題に政治家が一切責任を負わないというのは、一般市民感覚から大きく逸脱している」という一文こそが、この事件の問題性を一番うまく言い表しているように思えます。

2010年4月26日月曜日

死神に名づけられた子供

 今日の関東地方は昨日は暖かかったのに昼過ぎから急激に冷え込み、このあまりの気温の落差に体も音を上げたか、私も夕方に激しい嘔吐感を伴う頭痛を起こしました。そういうわけで昨日も休んだ上に今日も長い記事を書けないということで、一つ私が気に入っているとある寓話を紹介しようと思います。

 題名は忘れましたが話の元ネタは欧州の寓話集からで、中世頃のある村の夫婦に一人の子供が生まれました。父親はその子供に世界で最も平等な人に名前を授けてもらいたいと考えていると、父親の前に悪魔が現れて私が名付け親になってやろうと申し出てきました。しかし父親は、
「いや、あんたが人間に配る不幸は個別に違っているから、平等じゃない」
 と言って、この悪魔の申し出を断りました。

 すると今度は父親の前に神様が現れ、私が名付け親になってやろうと申し出てきました。しかしこの神様からの申し出に対しても父親は、
「いや、あんたが人間に配る幸福は個別に違っているから、平等じゃない」
 といって、神様からの申し出も断りました。

 こうして名付け親になろうという悪魔と神様からの申し出を続けざまに断った父親に対し、最後に死神が現れてまたも名付け親になろうと申し出てきました。すると父親は、
「あんたはどの人間にも最後に平等に死を配る。あんたが一番平等だから、あんたに子供の名付け親になってもらおう」
 そういって、この父親の子供は死神に名前をつけてもらったそうです。肝心のつけられた名前までは書いていないのが残念ですが……。

 この寓話は人によって不幸、幸福の度合いは異なれど、最後の死は誰にも平等に訪れるということを説明しております。なかなか良く出来た寓話だと思うのでドラクエ6の主人公張りに心に深く刻み込み続けているのですが、これとは別にまた作者の名前を忘れてしまいましたが欧州の絵画にて、生まれたばかりの赤ん坊が天使に祝福される横で死神と将来死ぬ契約書にサインするという絵がありましたが、誕生の祝福とともに死の宿命を人は受けるという意味が暗示されていて非常に気に入っております。

 割と東洋思想は死んでも輪廻転生してもう一回生き返るという思想が強い分、死について見てみぬふりをするようなところがある気がします。そういう意味では生と死を深く対比させて考える面については、寓話や芸術に出るだけあって欧州の方がずっと進んでいるのかもしれません。

2010年4月24日土曜日

私と船岡温泉

 最近分不相応にも休日は朝から銭湯に行って朝風呂をするという贅沢を覚え、今日も雨がやんだ事もあってひとつ行ってきました。行ってきたのは家から自転車で20分くらいの銭湯で、朝九時の開店とともに600円の入場料を払ってゆっくり浸かり、帰る前に軽食コーナーにおいてある「スラムダンク」で一番好きな翔陽戦を見てから帰りました。

 これだけならスイーツ的に言うと、「ちょっぴり贅沢だけど、ワタシだけのオリジナルで優雅な休日」とまとめきれるのですが、どうものこのところの気温変動の激しさが体にきていたか、帰宅後に昼食を食べると猛烈な眠気に襲われ、昨夜もちゃんと睡眠をとっているにもかかわらず午後一時か五時まで実に四時間も完全に熟睡していてついさっき目を覚ましました。寝覚めもいいんだから気にする必要はないんですけど、どうにも休日を無駄に過ごしているような気がして複雑です。

 さてここで話は変わって銭湯についてですが、やっぱり本場と呼べる場所と来たら私が一時期住んでいた京都市内です。京都市は今でも風呂のついていない古い家やアパートが多いため、この時代にあっても市内の各所にこれでもかというくらいに銭湯が乱立し続けております。その銭湯群の中でも際立っていたというか、私が一番通っていたのが今日のお題にもなっている船岡温泉です。

船岡温泉ホームページ

 この船岡温泉は京都市の北西部(紫野)、やや奥まった通りにある銭湯ですが、昔からある銭湯だけあって建物のつくりなどが半端じゃなく年季が入っております。あいにくリンクに貼ったシンプルさも極まっているホームページでは写真が少ないですが、入り口の趣深さは言うに及ばず、脱衣所の欄間などは一見の価値があります。

 当時、私が住んでいた下宿というのがまさにこの船岡温泉の真ん前(徒歩一分)にあるということで、料金も安いし、深夜早朝にもやっていることから下宿にも風呂はついているのにわざわざうちの親父と組んでよく一緒に入っていました。当時から高く評価していた銭湯でしたが、インターネットで検索を掛けてみると「日本最強の銭湯」という物々しい異名があちこちで書かれており、改めてすごい場所に出入りしていたんだと気がつかされました。しかもこの船岡温泉の話を各所でしていると、なんと奈良に住んでいる私の親父の従兄弟もここに行った事があることが分かり、その知名度といい実力といい、強豪多い京都市の銭湯業界においても最強といわれる由縁が判ったような気がしました。

 ちなみにこの船岡温泉の近く、同じ鞍馬口通りには元銭湯だった店舗を改装した喫茶店もあります。ここもまた赴き深い店舗で金がないにもかかわらず当時はよく通っていました、親父の金で。

2010年4月23日金曜日

私流の優秀な人材の集め方

 昨日のブログ記事はブラウザの印刷機能が上手くいかずイライラした状態で書いたのが響いたのか、非常に荒れたままでアップされていたので先ほど一部文章を訂正しました。よく文章は人の心を映すなどど言う人もいますが、少なくともこうも毎日書いていればその日ごとの調子は私自身で手に取るように分かってきます。今週は睡眠時間が減っていて全体的にカリカリしているとか。

 そういうことはさておいて、今日はちょっと思うところがあって昔の記事の、「まず隗より始めよについて」の記事を読み返して見ました。それにしてもこの記事、冒頭が朝日新聞のトヨタヨイショから始まっていますが、今になって改めてみてみるといろいろとこみ上げてくるものがあります。

 この記事は中国の故事である「隗より始めよ」、つまり物事を始めるには手近な所から始めるべきだという教訓を含めた逸話を紹介しております。内容は元記事を読んでもらえば分かるとおりに、この自分をより遇すことで自分以上の人材も評判を聞いて喜んでやってくるだろうと郭隗がうまいこと燕王に言っておいしい思いをしたという話ですが、この逸話に限らず人材募集の逸話というものは中国史において数限りがありません。

 私が知る中で最も古い逸話だと、中国古代の周王朝(封神演義に出てくる)の建国期において活躍し、孔子が最も理想の君子として挙げていた周公旦には、「周公、哺を吐く」という逸話があります。これは賢者が近くに来ていると聞くと周公旦は食事を中断してでも会いに行ったほど人材募集に熱心だったという逸話ですが、三国志の曹操もところどころこの周公旦を意識している所があったので彼の人材収集癖もここから始まったのかもしれません。

 中国に限らず日本でも歴史上の偉人が熱心に人材を集めようとする話がたくさんありますが、そういった逸話を多く見てきたことが影響してか、この私もかなり小さい頃から優秀な人たちと知り合いになりたい、切磋琢磨したいという思いが強かったと自覚しております。特にそれが強く現れたのは大学時代で、新たに友人が増える傍から、「もしあなたの知り合いの中でこれはと思う人材がいたら、是非自分に紹介して欲しい」などと言っては、たくさんの相手をきょとんとさせてきました。

 そんな感じで一人でも多く優秀な人材を見つけよう、知り合いになろうと長年努力してきたわけですが、色々試してきて一体どんな方法が効果があったというか実際に自分に良い影響を与えてくれる友人の発掘につながったとのかというと、自分自身を鍛錬することがやはり一番だったような気がします。

 何でいい人材を見つけるのに自らを鍛える事が関係するのかというと、一つ目の理由としては相手が優秀な人材かどうかを見分けられるようになるからです。よく、ってほどでもないですが「愚者はかえって智者を馬鹿にする」と言いますが、ここまで言わないにしろやっぱり相手が賢いかどうかを理解するためにはこちらも一定度の知識と知力が必要になってきます。実際に私も知識のなかった頃はそれほど評価していなかった友人でも、ある程度その方面の勉強をした上で改めて話してみるとまるで人が変わったかのような印象を覚えて、それまでの自らの不明を恥じつつ以後いろいろと教えを請うようになったことがあります。

 二つ目の理由として、自らも一芸ある人材となることで優秀な人材が自然と寄ってくるようになるからです。こう書くとなんか自分でも偉そうに言ってるよう見えますが、私が高く評価している友人らに対してどうして自分なんかを相手にするのだと聞いてみると、向こうからしても私自身と話していて面白い、勉強になると思うからだそうで、図らずも自分自身の能力が別の人材を呼んでいたということにその時気がつきました。

 よく後輩などを指導している際、「自分にも、花園さんみたいに政治とか経済をいろいろ教えてくれる人がいたら助かるんですけど……」という言葉を聞かせられますが、もしそのような色々教えてくれる友人が欲しいと思うのなら、私はやはりまず自分自身を鍛えることが一番の近道のように思えます。

 最後に究極的な人材の発掘の仕方として、新たに人材を見つけるのではなく、今いる友人や後輩を徹底的に教育して議論し合えるレベルまで知識を教え込むという方法もあります。実際にこれをやるとなると教え方とか時間が必要になってきますが、下手な偶然に頼るよりかはずっと確実な方法なので私はこの方法で何人かを星野仙一監督ばりに育ててきたという自負があります。

 人材を見つけるにしろ育てるにしろ、ただ待っているだけで運命のように出会える事はほとんどありません。少なくとも活発に行動を起さなければ意味がなく、もし何かしらの方面に詳しい人と付き合いたいと思うのならそれを強く発信する事をお勧めします。
 そういうわけで、政経でも倫哲関係でもいいので、我こそはと思う人は是非メールなりコメントを下さい。

2010年4月22日木曜日

新党乱立が政局に及ぼす影響

 本日、かねてより新党を結成すると見られていた桝添要一氏が自民党に離党届を出し、公式に新党結成を表明しました。
 今回の離党に至るまで桝添氏は自民党執行部を厳しく批判し続け、公の場では新党結成をするつもりはないと言いながらもどっからどう見たってそんな風には見えないことから狼中年とまで揶揄されてきましたが、案の定というか早速改革クラブの連中と行動を共にすると発表するあたりやっぱり初めから新党結成をするつもりだったのでしょう。だとすると先週の東国原宮崎県知事との会談でも恐らくこの話題が出ており、何かしらそっちでも動きがあるかもしれません。

 ただ今回の桝添氏の新党結成は、私の見方だと政局に対してそれほど大きな影響を与えないかと思います。その理由を一つ一つ説明していくと、まず桝添氏は各世論調査などで総理に相応しい人物としてこのところ常に一位を取るなど人気のある人物でしたが、私はこの結果は桝添氏が自民党にいてこその結果だったと考えております。
 現在民主党は普天間問題を初めとした諸問題において文字通り迷走を続けているものの、相対する野党の自民党はというと総裁の谷垣氏を筆頭としてこちらもみんな頼りない。仮に今の民主党を選挙等でどうにかしようにも肝心の対抗馬である自民党の方がもっと情けない状況で、そんな自民党を桝添氏が率いるのであればまだ期待が持てる、そういうような意識から首相に相応しいと評判になったのではないかと思います。

 これは逆に言えば政権与党、もしくは与党になりうる政党に桝添氏がいないのであればあまり期待が募らないという事になります。ですので今回新党結成をするために自民党を離脱し小政党の党首なり幹事長を桝添氏が勤めるのであれば、桝添氏が首相となる可能性は自民党時代より低下し、それに伴い彼への支持も落ちていくのではないかというのが私の見方です。

 それにしても、90年代の自民党が下野した頃を髣髴させるかの如く今月に入り一挙に新党が乱立する事態となっております。与謝野氏、平沼氏の「立ち上がれ日本」に、橋本大阪府知事の「大坂維新の会」、地方首長らが集まった「日本創新党」など、かねてからあった「みんなの党」がかすむくらいにこのところはラッシュが続いております。

 この中で私がまだ期待しているのは「日本創新党」で、この新党の発起人に名を連ねている山田宏杉並区長は区長就任時に940億円あった債務を、なんと十年で170億円にまで縮小し、160億円あった基金も500億円まで増やす事に成功しております。同じく発起人となっている前横浜市長の中田宏氏はあまり好きではないのですが、この新党の主張となっている、「今の地方の問題は国の問題」という内容には共感するものがあり、規模が国家より小さいとはいえ実際に予算を切り盛りした経験のある首長経験者の方が即戦力という意味では期待できます。

 しかしこうも新党が乱立してはお互いに票を奪うことになり、返って与党民主党を利する結果となりかねない状態です。各政治評論家も述べていますが、どこかの党が、それこそ自民党が一時下野した90年代に野党を結集して出来た細川護煕政権のように一本にまとまらなければ新党はお互いに足を引っ張るだけで、それこそ鳩山邦夫氏が本人の主張通りに坂本龍馬みたいに橋渡し役を果たすのなら話は別ですが、彼にあのキャラはまず無理でしょう。

 そしてなによりも、現在新党が乱立される背景として参議院選挙が今夏にあるためだと言われていますが、仮に次回の参議院選挙で民主党が大敗する事となっても政局は大きく動かないかと思います。以前であれば選挙大敗の責任論などが飛び交いましたが安倍政権以降の自民党政権はいくら選挙で負けようが、いくら支持率が下がろうが、衆参でねじれ現象が起きようが要の衆議院での議席数の優越を盾に一切解散総選挙に応じてきませんでした。

 確かに参議院選挙で大敗すれば鳩山首相が退陣することくらいはあるかもしれませんが、その場合でも次に総理になるのは民主党内の別の幹部で、おまけに前回衆議院選挙で大勝しているためそうそう簡単には野党の解散要求にも応じないでしょう。

 ではどのような時に政局が動くのかですが、次の総選挙がある三年後か、民主党内から離党者が続出した時のいずれかではないかと思います。いくら自民党から離党者が続出しても政局にはなんの影響もなく、現与党である民主党内から離党者が出ない限りはそうそう大きくは動かないことが予想され、しかも与党でいる限りは去年の自民党みたいにそうそう離党者なんてでることがなく、何か突発的な大きな事件、それこそ新小沢派と反小沢派が大きく激突しない限りはまだまだ民主党政権は続くというのが私の見方です。

2010年4月21日水曜日

賤ヶ岳の合戦の価値

 戦国時代における決戦とくれば何が来るか。恐らく大半の方は徳川家の繁栄を決定付けた関ヶ原の戦いか、信長亡き後に秀吉が主導権を握るきっかけとなったうえに山場の代名詞である「天王山」という言葉の始まりともなった山崎の戦いを挙げると思いますが、私はこれらの合戦よりも賤ヶ岳の合戦の方が決戦としては意義深いのではないかと見ております。

賤ヶ岳の戦い(Wikipedia)

 賤ヶ岳の合戦というのは後の太閤秀吉(当時はまだ羽柴秀吉)と、織田家中でも年季の古さといい実力といいナンバー1だった柴田勝家が、織田家残党の主導権を奪い合った戦いです。詳しいくだりは省きますがこの合戦、詳細に経過を眺めると双方が実に複雑な駆け引きをしており、またその駆け引きが裏目に出たり逆に思わぬところで効果を発揮したりなど、短い時間で大きく形勢が動きあう戦争で実に興味深い内容です。

 最終的には、恐らくこの合戦を実質取り仕切っていた黒田官兵衛を要する秀吉側が勝利を得ますが、結果論からだと柴田勝家側が勝っていても全然おかしくない戦闘内容でした。言い切ってしまえば、前田利家さえ裏切らなければ多分勝っていたような気もします。
 同じく関ヶ原の重要な局面で裏切った小早川秀秋は批判的に語られていても、前田家はその後も江戸時代に残り続けたせいかこの時の裏切りが激しく批判されることはないように見えます。ただ前田家のチキンぶりはその後も健在だったようで、明治維新の際は賤ヶ岳での利家の行動を見習って、幕府側にも薩長側にもつかず、全国最大の雄藩だったにもかかわらず後の時代で主導権を握る事はありませんでした。

2010年4月20日火曜日

何回言えばわかるんだ?

 我ながら今日は随分と挑発的なタイトルになりましたが、最近また友人に薦められた本でブログのアクセスはタイトルで決まる部分が多いと書かれていたので、たまにはこういう風なタイトルも悪くないかと思ってつけてみました。内容はいつもどおりにくどくどしたものだけど。

 もう随分と前、確か私が中学生だった頃、実時間にして十年以上も前の話ですが、ある日授業中に国語の先生が気分転換とばかりに雑談を始めました。なんでもどっかの雑誌かなんかに載っていた話だそうですが、当時「声に出して読みたい日本語」を出版して名が売れ始めていた斉藤孝明治大学教授がある日、自分ところの学生を使って暗記に関するあるテストを行ったそうです。
 テスト方法は完全に脈絡のない座席順を学生に一旦見せて、それを隠した状態でどれだけ覚えているかを調べるというものだったそうですが、テストを終えて結果を分析すると、平均にして約七回、「覚える」と「忘れる」を繰り返すことで初めて記憶がしっかりと固定されるようになることが分かったそうです。

 この話を聞いた当初、なんとなくですが私もその通りなんじゃないかと思いました。というのも私自身、「覚える」と「忘れる」を何度も繰り返す事で記憶というものは強化されるものだと考えており、特にこの実験で使われたような席順といった何かと関連して覚えるわけでもない独立している暗記物などはそうした繰り返しが重要だと思っていたからです。

 斉藤孝氏が実験を行った明治大学は日本中の誰もが認める名門大学で、そこの学生は一般的な日本人よりも頭脳が優秀であると考えられます。その明治大学生ですら約七回も、「覚える」と「忘れる」を繰り返さなければ記憶を固定化できないのであれば、よっぽど記憶力のいい人でも五回程度、逆に普通の人ならそれこそ十回程度はこの繰り返しを経なければ記憶が固定化できないと私は推測しております。少なくとも、一回言ってパッと覚えられる人間は超稀少と言っていいでしょう。

 そのためか、今ではすっかり機会が減ってしまいましたが数年前まで私はよく後輩を指導する事が多く、その際によくこんなことを言っていました。

「今言った事をちゃんと覚えてね。覚えたら出来る限り早く忘れて、もう一回自分の所に聞きに来るように」

 聞いてる方からすると何を言っているのかと思われていたかもしれませんが、私の方からすると大真面目で、人間ってのは一回聞いて何でもかんでも覚えられるわけじゃなく少しずつ覚えては忘れるもので、忘れた後にまた繰り返し教えることで初めて相手に理解させることができると考えての指導でした。

 このように私は基本的に一回教えた所で相手は絶対に暗記、理解は出来ないという前提を持っているのですが、この前提があることで何がプラスかといえば、教えていてイライラしなくなることです。あらかじめ相手には噛んで含めるように何度も言わなければならないと前提しているので相手が二回、三回と教えたことを忘れても、これが普通なんだと割り切れます。周りを見ていると、怒りっぽい人なんかは一回言って分からない人に対しても怒鳴りつける人もいますが、私自身用具の置き場所などは一回教えてもらったくらいじゃなかなか覚えられないので、あまりこういう人が社会に多いというのは望ましくありません。

 そういうもんだから、よく先輩や上司から覚えの悪い事を注意された場合、こんな風に言い返せればいいのではないかと思います。

「何回言えばわかるんだ (`A´)!?」
「平均にして、約七回であります(#゚Д゚)!!」
「……………(゚Д゚;)」

 いや、実際には私もこうは言い返さないですけどね。

 逆にこの話を個人単位で考えるのならば、試験前や語学の勉強において何か暗記するべき内容があるとしたら、七回は覚えて忘れてを繰り返す必要があるという風にも考える事が出来ます。もっとも、関連した内容や語呂合わせなどを組み合わせる事でこの回数はいくらでも減少させる事が出来ますが、一回や二回で覚えられないからって自分は記憶力が悪いなどと考えず、繰り返し覚えて忘れることが勉強には必要だと肝に銘じておくとストレスが溜まらずに済むかもしれません。

 うちのお袋なんかパソコンの操作をなかなか覚えられないことを歳のせいだと言い訳しますが、私が見ていてそれほど歳の影響は大きくないと思います。私とてパソコンの各機能を今より若い時分に覚える際には何度も覚えては忘れていたので、単純に何度繰り返してでも覚えようとする忍耐力の低下こそが年寄りの記憶力低下の原因ではないかと見ております。忍耐がないと、よく言われる私が言う事ではないのですが。

2010年4月19日月曜日

高齢者層は本当に金融資産を蓄えているのか?

 もう二年も前の「日経ヴェリタス」の記事ですが、今でもよく引用され続けているデータとして日本人の世代別総金融資産のデータがあります。具体的にそれはどのようなデータなのかというと、下記サイトにて大まかに内容がまとめられております。

FP寺井のマネー雑感

 なんかそのままの引用になってしまいますが、こだわっていると話が進まないのでとっととデータの法をコピー&ペーストさせてもらい、生年を十年で区切った各世代が保有する当時の金融資産の総額は下記の通りとなります。

29歳以下     10兆円
30~39歳     86兆円
40~49歳     172兆円
50~59歳     330兆円
60~69歳     494兆円
70歳以上     452兆円


 見て分かるとおりに、世代年齢が上昇するとともに金融資産額は大きくなり、60~69歳の間でピークを迎えます。もちろんこういう金融資産云々以前に収入というのは基本的に年齢とともに挙がっていくものなので年齢に比例して金融資産額が上がるのも自然といえば自然なのですが、それにしたって50歳以上の金融資産額が全体の80%を占めるというのは素人目的には大き過ぎる気がします。

 そんなわけでこのデータは年寄りらは最近の若者はお金を全然使おうとしないと言うが、一番消費をしないで溜め込んで、言い方を変えると経済に不効率な役割を果たしているのはほかならぬ年寄り達だという意見に用いられております。確かに額面どおりにこのデータの内容を見ればその通りとしか言いようがなく、いくら老後に不安があるから、世代別人口が多いからといってもこの数字はあんまりじゃないかと若者の立場からすると思ってしまうのですが、実は私は内心このデータは実態をきちんと反映しているのかとかねてより疑問に感じておりました。

 日経ヴェリタスの記者の取材を疑っているわけではないのですが、どうも私が近くで見聞きするような年寄りたちの実相と比べるとこのデータはどうにもしっくりきません。私が話を聞いたりする年寄りは生活が苦しい方が多く、とてもじゃないですがこれほど金融資産を持っているようには見えません。
 そういうわけで私はこのデータに対し、全体でまとめて統計を取ればこうなるかもしれないが、このデータはごく一部の超富裕層とも言うべき年寄りが全体の数値を押し上げてできたデータであり、平均的な老人の資産実態を表していないのではないかと思ったわけです。

 じゃあ実態はどんなものだろうかと改めて調べてみた所、更に現在より遡る事四年前の読売新聞の記事に目を引く内容がありました。

「世代が上がるほど資産保有額が高く、資産運用に積極的。情報源は主に新聞から」
—— 団塊世代調査⑦ 資産運用
(読売新聞)

 この記事では50歳から65歳までの各世代別の金融資産をわざわざ金額ごとに区分してまとめております。このデータで無回答者を除外してみると、団塊世代以上は意外にも全体的に裕福な人間が多くてちょっと驚きました。60~65歳では約半数が1000万円以上の資産を保有しており、一番集中している金額層も「2000万円~5000万円」でした。
 さすがにこの記事はアンケート調査だからなにかデータをいじくっているんじゃないかと人口数と平均資産額などを私の方で計算することで検証してみたのですが、こちらも意外や意外に、一番最初の日経ヴェリタスの記事に出てた世代別保有資産額のデータに通ずる結果となってしまいました。

 そういうことで、少なくとも私が見立てた、一部の超富裕層が世代別総資産額のデータを押し上げているというのは間違っている可能性が高いようです。だからといって保有資産額の少ない老人がほとんどいないというわけではなく、若者の側も年寄り全員が金持ちだと食って掛かるのではなく、ばらつきがあることを認識した上で年寄りに金持ちが多いと踏まえるべきなのかもしれません。

2010年4月18日日曜日

私の自転車のこだわり

 このところのこのブログの検索ワードを調べてみると、朝ドラの影響か「水木布枝」が上位に食い込んできております。これまで人物名に関するワードだと「宮崎繁三郎」、「竹中平蔵」がポイントゲッターとして活躍してきていたのですが、「水木布枝」とともに「広瀬健一」もこのところ急上昇中です。どちらもアクセス数アップを狙って書いた記事ではなかったのですが。

 その一方、根強いというかなんというか、自転車関連の検索ワードもやはり上位に食い込んできております。対象となる記事はあの房総半島一周と琵琶湖一周の顛末記の記事ですが、あんな無計画な自転車旅の記事を見て何の参考になるのか、自分で書いておきながらもアクセスがあるのがかえって不安に感じてしまいます。
 とはいえ、自転車はやはり私の唯一の真っ当な趣味であるため(他の趣味はあまり口外できない)、今日もそれほど長距離ではありませんが休日と言うこともあって適当に漕いできました。

 走ってきたのは市街地と河原沿いのサイクリングロードで往復でわずか20キロ程度でしたが、その間に五軒の古本屋に寄っては「GANTZ」を安くまとめ買い出来ないかと見回ってきたので出発から一時間半で家に帰ってきました。結局「GANTZ」はどこも高くてあきらめたけど。
 私はサイクリングにおいてあまりトップスピードにこだわるよりも周りの風景を眺めながら走るのが好きなので、いつも乗る自転車は六段変速ギアではありますが普通のシティサイクルです。このところうちの親父が自転車に凝っていて競技仕様のロードバイクも部品から組み立ててもらったのですが、今でも初対面の人にびびられるくらい姿勢が良すぎるためリアルに猫背になれない私が乗るとすぐに腰が痛くなるのでこれにはほとんど乗りません。因みに高校時代、猫背になれないのに授業中に居眠りをしようとすると、背中はびしっと直立なのに首だけ大きく前に曲げていて傍目にも苦しそうに私は居眠りしていたそうです(実際苦しかった)。

 私がサイクリングをする際に気をつけていることとしては、まずは信号をきちんと守る事です。このところサイクリングブームで普通っぽい女の子でもやけにいい自転車に乗っているのを見かけるのですが、それとともにマナーの悪い自転車乗りもよく見かけるようになってきております。具体的にどのようにマナーが悪いかというと、ちょっとくらいの信号すら守らない、歩道を速度を上げて走る、無理な追越をする、道を譲らないといったところです。

 私も意識しない所でこのようなマナー違反をやっているかもしれないのですが、自分としては出来る限りこのようなことはせず、歩道では速度を落とし(上げる時は車道に出て、最低30km/時を維持する)、小学生くらいの子供がいたらほぼ停止に近いくらいまでブレーキをかけます。そして歩道が狭いところで前方に人や別の自転車がいたら、速度を落とすとともになるべく自分から道を譲るようにしております。

 ただ唯一マナーが悪いというか、そこまでこだわらなくてもいいのにやってしまうこととして、信号待ちの間でも地面に足をつけようとしないことがあります。時間にして一分程度なら確実に自転車を静止させたままバランスを維持し続ける事が出来るので、信号待ちのほかの歩行者と一緒になって自転車に乗ったまま信号が青に変わるのをいつも待っています。別に足をつけたっていいのですが、なんか気がついたらいつのまにかこういうことが出来るようになってしまっていたので今では意識することなく自然と乗ったまま、それこそいつも自宅を出発して目的地に着くまで一度も足を地面につかずにサドルに乗り続けております。

 こういうのもなんですが、私は自転車に乗る技術というのは最速ではなく最遅にあると考えております。自転車は二輪という特性上、高い速度でいるよりも低い速度でいる方が左右にふらついて不安定になります。その不安定な状態でもバランスを保って走り続ける事が出来る、言い換えるならどこまで低い速度で走行し続けられるかにその人の技術が現れるのではないかと思ってるわけです。
 そうは言っても乗る自転車によってバランス性は変わってきますし(ママチャリは非常に安定性が高い)、ロードレーサーのように高い速度で走る事を前提とした自転車ではこの分野は圧倒的に不利になります。

 ただ「頭文字D」の高橋涼介ではないですが、「公道には公道の、サーキットとは違うテクニックがある」と私は信じており、市街地用自転車で如何に技術のある走り方ができるのあと常に走りながら探求しており、さすがにドリフトには手を出しませんが、カーブでの体の傾き、入り口速度と出口速度のどっちに重きを置くか、ペダルワークをどうするかなどよく考えながら走っております。

 理想を言えば市販のママチャリでどこまで労力が少なく、かつ速い移動が出来るのかを突きつめてみたいものです。なお前述の通りに私は背筋がやけにまっすぐ伸びているので、風の抵抗を受けるものの、サドルに乗車時に背筋を直立に伸ばせる自転車の方が体に合っています。もちろんかがんで座るロードレーサーの方が出せる速度は高く、自動車はペーパードライバーなので40km/時を出すと恐くなるのですが、自転車だと平気で走り続ける事が出来ます。

近頃の異常気象、自然災害、及び国際情勢の変化について

 このところあちこちで自然の猛威とも言うべき災害のニュースが入ってきております。昨日今日の二日間だけでも、アイスランドの火山噴火で出てきた噴煙によるヨーロッパ各地の空港封鎖、四月としては観測史上最も遅い関東地方での降雪があり、またもう少し範囲を広げて今年に入ってからのニュースですと、中国青海省での地震、地理での地震と日本にまで来た津波、鹿児島県桜島火山の噴火活動の活発化と、まるで世紀末を連想させるかのような自然災害がすでに何度も起こっております。

 さすがにこれだけいっぺんに色々起こるとちょっと前まであれだけ騒がれていた地球温暖化もどこ吹く風か、特に今年は冬から春への季節以降が特に不気味で、昨日の関東地方の降雪に限らず三寒四温というにはあまりにも寒暖の落差が激しい初春ぶりで、傍目にも温暖化は説得力が日に日に落ちてきているように思えます。
 この日本国内の異常気象は農作物にもすでに大きな影響を及ぼしており、報道されている内容ですとキャベツやレタスといった高原野菜が特にひどくやられたために国内の仕入れ価格も例年を大きく上回っており、スーパーなどの小売において価格が上昇してきております。

 ただこうした農作物への影響ですが、どうも報道を見ていると日本国内だけではないようです。昨日の朝日新聞において北朝鮮の金正日総書記が当初の予定を数ヶ月繰り上げて来月に北京を訪問する事となったと報じられていましたが、その背景には昨年に実施したデノミによって北朝鮮経済が大きく混乱しているのと、このところの異常気象によって農作物の生産量が大きく減少し、大飢饉が近いうちに予想されていることが原因だそうです。
 実際にこのところの天気図を見ていると寒気がいつまでも東アジアに居座り続けており、暑気との激しい攻防が繰り広げられている日本とより北にある朝鮮半島では一向に春の気配が見えてこない状態なのではないかと思います。

 現在の北朝鮮はすでに述べたようにデノミによって経済が大きく混乱しており、また金正日の健康も明らかに悪化して後継者問題も控えている事から、これに飢饉が加わると考えるとこれまでにないほど不安定な状態になるのではないかと思います。もちろんこのような環境は北朝鮮を六カ国会議に復帰させるには望ましい状態で、日本としても間隙をつかず北朝鮮へ交渉を行う事が望ましいでしょう。

 それにしてもアイスランドの火山噴火のニュースを見ていると、ヨーロッパへ帰る予定だった外国人の方々が不憫で仕方ありません。ヨーロッパから輸出される予定だった農作物も全部駄目になるそうで、ひょっとしたら思いもつかぬ意外なところにも更なる悪影響を及ぼすかもしれません。

2010年4月17日土曜日

日本人の労働力としての価値

 よく日本人労働者は賃金が高過ぎると言われますが、必ずしもそうなのかこのところ少し疑問に感じております。というのも欧米やアジアの労働管理の話を聞いていると、やはり日本人労働者は優秀なように思えるからです。
 ではどのような点で日本人労働者が他国の労働者が優れているのかというと、私が思いつくのを挙げると下記の通りになります。

・遅刻、欠勤が少ない(無断でのを含む)
・ストライキを滅多に起さない
・異動、転勤の際に不服申し立てをしない
・超過勤務に文句言わないし、耐えられる
・実力をつけてもなかなか転職しない
・日本国内において読み書き計算はなんの問題もない


 上記項目についてもうすこし詳しく解説すると、まずはなんと言っても遅刻や欠勤が少ない点が挙げられます。欧米などでは家族が病気になったり、下手すりゃペットが体調不良になるたびに休みを取るとまで言われていますが、日本でもさすがに冠婚葬祭に関することでは何も言いませんが、家族の看護や介護で一回ならともかく何度も休みを取るとなると早く辞めてくれと解雇宣告が飛んで来ます。またそうした正当な理由での休日取得に限らず時間にルーズな国だと、始業時刻にみんな平気で遅刻してきたり、作業中に勝手に休憩を取る労働者も珍しくありません。まぁ日本も最近は大分減ったけど煙草休憩がありますが。

 そして二番目の項目のストライキについてですが、これは主にフランスを初めとしたヨーロッパ諸国では非常に盛んです。ヨーロッパの企業では何か企業側が新しい規定や就業規則の改定を行うたびにストライキが行われるのに対し、日本ではかなり無茶苦茶な要求や超過勤務が強制されたとしても今となってはストライキを起こす社員なんてほとんどいません。ましてや三番目の異動や転勤についても、事前通告なしに配置転換されたとしてもほぼ確実に文句も言わず行ってくれます。

 残りの項目については言わずもがなで、韓国を除くとこれだけ企業側に従順な労働者なのは日本くらいな気がします。同じアジアでも韓国の労働環境の劣悪さは今も進行中の「東方神起」の契約問題などのように相当ひどいものらしいですが、中国については従業員側も雇われる傍から独立したり転職したりするので日本よりはマシなような気がします。

 このように日本人労働者は他国と比べて優位な点が多く、唯一英語が話せない点を除くと優秀な労働群のように私は思えます。確かに日本人の賃金は円高の今だとドル換算で比較すれば他国よりもそれなりに高いですが、それでもそのポテンシャルを考慮するならば今の平均賃金、特に若年労働者層の収入はいくらなんでも低過ぎるような気がします。

 それだけに、私は今の日本企業の経営者達がどうして利益を上げられないのか疑問に感じます。そのポテンシャルに対して低い賃金でそれこそ死ぬまで働いてくれる労働者達を行使できるにも関わらず必ずしも儲けられない、厳しい見方をすると経営者達の資質を疑います。

 もっとも今日友人にも指摘された通りに、日本企業の大半は国内にしか市場を持たないがゆえにこの利点を生かせないというのも一理あるのですが、少なくとも大企業の幹部が不振の理由を日本人賃金の高さのせいにするのは間違いなように感じるので、こうして一筆したためる事にしました。

2010年4月15日木曜日

ダブルスクールについて

 以前商学部出身の友人に、こんな事を聞いてみました。

「あのさ、もし仮に俺が君に会社の設立から登記を今ここで頼んだらすぐできるかい?」
「いや、無理だって」
「でもさ、君の専門って商学部だろ。会社の設立手続きが大変なのは分るしこういったことは本来行政書士の担当範囲だから法学部のものかもしれないが、商学部を卒業した人間が会社の設立法を知らないってなんだかおかしな話じゃないか?」
「じゃあ逆に君だって社会学科の出身だけど、何か社会調査をすぐにやれる?」
「いい加減なものならともかく、SPSSを駆使した立派な調査報告書を作れって言われても無理だね」

 友人の名誉のために言っておきますが、この友人は非常に勉強熱心で多方面の知識に富んでいる立派な人間です。それにもかかわらず商学部で学んでいながら会社の設立法が分からないというのは、彼の個人的な資質以前に大学がきちんと教えるべきことを教えないゆえだと私は考えております。

 普通に考えるならば、企業の運営法を学ぶ商学からすると会社の設立の仕方は基礎的に学ぶべきものだと思うし、商学部の人間でないなら一体誰がそういったことを勉強するのかと思います。しかし私の友人に限らず、商学部を卒業する大半の人間は会社の設立の仕方なんて全く知らないどころか下手すりゃ基本的な会社法の知識すら危うい人間も数多くいるかと思います。

悲しい事に、これは商学や社会学に限らずどの文系学部学科においても言える内容です。一応それぞれの学科ごとに専門性は分けられているものの、その分野の勉強において必要とされる基礎的な内容は置き去りにされたまま、結構枝葉末節な部分をそれぞれで研究する事になったりします。私もあまり他人のこといえないけど。

 どうも大学の講師陣たちから話を聞いていると、学部生にそんなところまで求めたらにっちもさっちも行かないので、まともに教えるのは大学院生からだという風に割り切っている人が多いように思えます。確かに講師陣がそう思いたくなるほど大半の日本の学生が無気力であるのは私もまだ理解できてしまうのですが、これだと可哀想な事になるのは真面目に勉強したいと思っている学生達です。

 そんな状況を反映してか、このところすっかり珍しくなくなったのは大学に通いながら予備校に通うという、大学生のダブルスクールという行為です。近年の大学生は資格取得を目指して大学入学とともにそうした資格専門の予備校に通う人間が多く、私の友人らも就職を意識し始める三回生頃から急に公務員資格の予備校に通い出していました。
 もちろん大学は資格取得のための場ではないし専門分野だけ学ぶ場所でもありません。しかしあまりにも空辣なことばかりを教え過ぎて、社会に必要とされる人材を送り出す教育がないがしろにされているのも事実だと思います。

 これを話すと非常に長くなるのでやめますが、そもそも資格という言葉と権威が大氾濫し過ぎている今の社会も問題があると感じます。とはいえ大学に通いながら別に予備校に通うというのも無駄にしか思えず、もう少し大学もそれぞれの専門分野ごとに実学的な知識を教育してくれればと感じます。

 もっとも、こんなこといいながら一回生の頃は調査法ばかり教えられて、もっと理論を教えやがれと講師に楯突いたことがあるのですが。

2010年4月14日水曜日

標的なき近年の犯罪について

 近年の犯罪の中で際立った特徴を挙げるとすれば、私はやはり殺人や傷害といった行為が無関係の人間に対して行われる事件が頻発しているという事に尽きると思います。

岡山駅突き落とし事件(Wikipedia)

 この標的なき殺人の代表格と私が目しているのが、上記の「岡山駅突き落とし事件」です。この事件は父親へ不満を持った19歳少年が帰宅途中の38歳男性を電車が来る直前の駅のホームで突き落として殺害したという事件ですが、この事件の特殊性は言うまでもなく殺害者と被害者が何の縁のゆかりもない人間同士だったということです。殺害者の少年は犯行後、「誰でもいいから殺して刑務所に行きたかった」と動機を話しているのですが、それならば何故殺人を決意させる原因となった父親ではなく無関係の人間が対象となったのかがはっきりと説明できず、私はこの少年の動機はむしろ、「殺人という大問題を起して父親を困らせてやろう」という理由の方が素人目ではありますが適当な気がします。

 仮に上記のような事件が一回こっきりのものであれば、言い方は悪いですが犯人の少年がやや特殊な人格であったという事でそれほど心配する必要はないのですが、残念ながらこのような無関係の相手にある日突然暴力を振るうという事件がこのところ頻発しております。
 まず同じようなホームの突き落とし事件であれば去年の三月に、動機もまた「死刑になりたいから」という理由で24歳の男が60歳代の女性を突き落とすという事件が起きております。こちらは幸いにして女性は列車に轢かれずに済みましたが、それでも頭蓋骨を骨折するという大怪我を負わされております。

 また列車関係に限らず無関係の人間を標的にする事件といえば、なんといっても通り魔事件でしょう。つい最近でも東京都で27歳の女性が35歳の女性にナイフで切りつけるという事件が起きており(産経新聞)、この時逮捕された犯人が語る動機というのが、「男性に振られて誰でもいいから傷つけたかった」という、聞いていて呆れさせられる内容だったのも含めて驚かされた事件です。

 そして通り魔事件と来れば、こちらは少し前にも現在も続けられている公判模様の記事をこのブログでも取り上げた、2008年の「秋葉原連続通り魔殺傷事件」も外す事が出来ないでしょう。この事件でも犯人は標的については誰でもよかったと述べ、殺害を決意した理由についてはもてないだの正社員になれないだの社会への不満だと話しておりますが、今のところはまだはっきりしていないと見るべきかと思います。

 確かに昔からあったものの表沙汰になってなかっただけなのかもしれませんが、私はこのような標的なき犯罪がこのところ頻発していることをとみに憂慮しております。これら標的なき犯罪事件の特徴はというと、まずはなんといっても殺害対象が犯人とは全く無関係の縁もゆかりもない人間たちということで、しかもその動機の大半が通常からだととても殺人に結びつくとは思えない、はっきり言えばくだらない理由ばかりだということです。

 これは心理学でもはっきりと検証が済まされている報告ですが、基本的に人間は遺伝子からの刷り込みからか、殺人という行為を犯す際には大きなストレスを覚えるように出来ております。それゆえに殺害を行おうものなら先天的に精神に異常性のある人物以外だと普通は大きなためらいが生じ、そのためらいを乗り越えて実行に移すためには激しい憎悪や殺されるかもしれないと思うほどの危機意識が必要なのですが、上記の事件の犯人らが語る内容からはそのような切迫した心理が一切感じられません。

 更に言えば、仔細に事件の内容を見てみるともう一つ大きな共通点があります。それは何かというと、犯人の行為が不満を持つきっかけとなった対象に直接的に向かっていないという点です。
 最初の岡山の電車突き落とし事件では犯人が殺害を決意する原因となった父親にその行為が向けられるのではなく無関係の男性へと向かい、東京都の女性の通り魔事件においては自らを振った元彼ではなくこちらも関係のない通りかかりの女性にその暴力の矛先が向かっています。そして秋葉原の連続通り魔事件では、まだ犯人の動機がはっきりしていないものの仮に犯人が事件実行直前にネットの掲示板で書いた理由がそうであるとしたら、不満を持つ対象は本来ならばそれまで働いていた派遣先の企業や派遣会社であるはずで、秋葉原を訪れていた人が対象になる理由などどこにもありません。

 秋葉原の事件直後に文芸春秋で読んだ評論にてある評論家が、この事件の犯人は社会への不満を口にしながらもその怒りを直接社会へ向けず、むしろ自分が親近感を持つ秋葉原の、しかも自分より弱い対象に向けられていると指摘しておりました。前半部の社会への不満についてはまだ検討の余地があるものの、後半の自分より弱い対象へ向けられたというくだりは私も同感です。
この傾向は他の事件も同様で、基本的に犯人は被害者に対して体力的、武装的にも優位な立場で、一切反撃を恐れる必要のない相手に対して行為を起しており、犯人皆が「誰でもよかった」と言っておきながらも敢えて自分より弱い対象を狙っていたのは明らかでしょう。

 私が懸念しているのはまさにこの、自らの不満を自分より弱い対象へ向けられるという構図が今後も更に一般化していくということです。この構図は言い換えればイジメの構図にほかならず、このような行為を正当化する風潮が強まってきているのではないかとこのところ懸念しております。ちょっと大袈裟に言うと、「自分はこんなに苦しくて大変な思いをしているのだから、苦しい思いをさせている張本人はちょっと恐いから、その不満を自分より弱い誰かにぶつけたっていい」と思う人が増えてきているようにも見え、なんとなく社会が退廃的になってきているような実感があります。

 もちろん殺人という行為は何がどうあっても正当化される行為ではないですが、殺人ではなく正当な抗議活動や拒否行為といった抵抗であればむしろ健全な社会では存在するべきです。そういう意味で怒りや不満の矛先が関係ない人に向けられるという事は、問題の根本的解決に結びつかないばかりか弱者同士での殺し合いにしかならず、このような風潮をもっと日本の社会は認識した上で早く対処策を講じるべきではないかとこのところ思うわけです。

2010年4月13日火曜日

ジェネラリストとスペシャリスト

 よく企業の求人欄などを見てみると、「弊社は多彩な分野に挑戦の出来る、スペシャリストよりもジェネラリスト的な人材を求めております」という記述をよく見ますが、結論を言うと日本企業においてこういっているところはみんな嘘をついていると私は思います。これなんか城繁幸氏などがこっぴどく批判していますが、日本のどの企業も社員を可能な限り、経理なら経理、営業なら営業と専門馬鹿にすることで転職などといった雇用の流動化を抑えようとする所があり、現実に日本の転職市場の幅の狭さと官公庁を初めとした縦割り行政を見ていると私もその通りだと日々感じます。

 そういう意味では日本は素晴らしくスペシャリスト的人材に溢れた国であるはずなのですが、どうも一般の世論などを聞いているとむしろスペシャリストが不足しているという言質をよく聞きます。この点についてはスペシャリストが不足しているというよりも痒い所に手が届くような人材というか、必要とされる職種の人材が不足している一方ですでに飽和している市場に人が集まっているがゆえにそのように見えるかと私は考えています。今の雇用問題も不況の影響が強いというのは否めませんが、介護や溶接といった人材が不足している分野に人が集まるように誘導してこずミスマッチを引き起こした政府の無策も原因しているでしょう。

 では私が日本で少ないとされるジェネラリストはどのような人材かといえば、私の中の定義を述べると分野を横断した思考が出来る人材だと考えております。
 いくつか例を出すと、企業活動においてある部門への投資を行う際、まず投資を行えるだけの余剰資金があるのかと考え、続いてその投資からどれだけ見返りが受けられるかと続き、さらには投資を円滑に運ぶための人材が目下の所いるのかと、すでにこの時点で経理、販売、人事と三つの分野それぞれに立って考える必要が出てきます。さらに実際に行うとなると投資を行う分野とそれ以外の分野との比較も考えねばならず、どこの分野への投資を優先するべきかという風にも考える必要が出てきます。

 この様に派閥横断的に、ある程度自身の利害を超えた思考が出来る人材の事をジェネラリストと私は考えているのですが、今の日本は政治から経済、果てには一般社会においてもこの手の人材がありえないくらいに不足しているように思えます。一体何故不足しているのかという理由を挙げれば切りがなく、国が理系を初めとしたスペシャリストばかり育てようとしている政策然り、企業の社内教育然りと主だった理由はあるのですが、そういった事情に加えて本来ジェネラリスト的な役割が期待される文系大学生の教育があまりにもお粗末な点も見逃せません。

 私は本来、文系学生たるものなんでもかんでもすべてやれとまで言うつもりはありませんが、自分の専門科目や分野に加えて少なくとも二つか三つは一定度の知識を持つ分野を持って当然だと考えております。なにも専門の学生に引けをとらないほど他分野の知識を詰め込む必要はありませんが、その分野がどのような学問で、ある程度専門の学生の話を聞いて理解できる程度に知識があるとないとでは人間性に大きな違いが出てくるかと思います。

 本来、総合大学というのは様々な学部に所属する学生が一同に集まって互いの知識を分け合う場所であるはずなのですが、残念ながら近年は就職事情も厳しいという事もあって入学から自らの専門分野を勝手に決めて資格取得の勉強にばかり走る学生が多く見受けられます。確かにそれぞれの専門分野のレベルを見るととても自分じゃ為し得ないほどの成長速度で近年の学生は学んでいるのですが、その専門分野以外となるとてんで話しにならないほどの知識しか持っておらず、そのあまりのギャップにこのところ閉口することが増えてきております。

 理系学生であれば専門の勉強が厳しいということでまだ私も理解できるのですが、本来総合性を期待される上に時間的余力も多い文系学生までもスペシャリストに走ろうとする近年の風潮はあまり好ましいとは思えません。年寄り臭い言い回しですが、私が学生だった頃は一応の専門を社会学と中国語に置き、それ以外はこれと見かけた他分野の学生や講師に教えを請う事で自分の幅を広げるだけ広げる事に努め、現在振り返ってみてある程度その目標に見合った形で自分への教育を達成する事は出来たと考えております。

 私は文系学問については麻雀の国士無双の十三面待ちばりに幅広く、経済学、商学、史学、政治学、哲学、社会学と学びましたが、法学だけはどうも他より専門性が高くて手が出せませんでした。というよりも法学を教えてもらおうと期待していた友人が、あまりにも人に物を教えることの出来ない天才タイプの人間であったため、最初の時点で躓いたのが誤算でした。
 唯一、その彼から教わったと法学の概念として、刑罰における社会的制裁の概念があります。この社会的制裁という概念をひとつの題材に取った、「犯罪者の家族への社会的制裁について」の記事が本日FC2の方でまた拍手を貰えたのですが、ちゃんと人の話は聞いとくものだとつくづく思います。

2010年4月12日月曜日

荀子の知足論について

 このところ同じ切り口から始まることが多いですが、また友人と会ってきた時の話です。
 ひょんなことからその日に会った友人に倫理、哲学の講義を突然する事となり、友人が持ってきた高校用の補助教材を一緒にめくりながらそれぞれの哲学家の主張や経歴を片っ端から説明してきたのですが、その中でちょっと気になったのが今回のお題となっている荀子の記述です。

 高校レベルの授業に深いのを求めるべきではないとは分っているのですが、その補助教材で荀子は、

「孔子から始まった儒学の流派の中で、人間の性根は善であるという性善説を唱えた孟子に対して人間の性根は欲望が根幹であるとする性悪説を唱えた」

 という風にまとめられていて、ちょっとカチンときたというか、もうすこししっかり教えろよと一緒にいた友人相手に無闇に吠えてしまいました。

 孔子に続く儒学の二大流派の創始者という事もあってか孟子と荀子はよく比較され、この性善説と性悪説もほぼセットのように取り扱われますが、孟子の性善説に対して荀子の性悪説は見かけからかどうもダーティなイメージが付きまとってしまいます。しかし両者の主張をきちんと比べてみるならばアプローチの仕方が違うだけで実際にはほとんど似通った内容で、荀子もパンクロックみたいに、「世の中、お人好しばかりじゃねぇんだよ」と言っているわけじゃありません。

 性善説も性悪説も生涯をかけて義や礼といった儒学の要素を学ぶ事の重要性を謳っているのですが、孟子の性善説は人間の性根は元々善ではあるものの、世間や世の中の様々な影響を受けるうちに悪の要素に染まっていく可能性があり、そのようにならないために儒学をきちんと学んでいくべきだと主張しています。それに対して荀子の性悪説は人間の性根は欲望に代表される打算的なものであると割り切り、みんながみんな好き勝手に生きていたら世の中すごく殺伐としてしまって生き辛いので、きちんと儒学を学んで善なる人間になれるよう努めるべきだと主張しています。

 確かに両者で人間は善か悪かでスタート地点こそ異なるものの、何も学ばずに生きると存在として悪になってしまうというのは一致しています。もちろん荀子の方が孟子よりは現実的というか冷徹な意見ではあるものの、儒学をみんなで学んで世の中を良くしようという思いは全く一緒で、性悪説を唱えたからといって荀子が冷たい性格の人間だったと考えるのはやや早計でしょう。
 なお性悪説は見方によれば欧州でルソーらが唱えた社会契約説にも通じる価値観で、現行法がルソーの影響を強く受けていると考えると今の世界の主流の価値観に近いのは荀子だと私は思います。

 こんな風に荀子のことを書くあたりからわかるでしょうが、私もどちらかといえば荀子の方を贔屓にしております。ただ私が荀子を評価するのはこの性悪説の概念というよりも、彼の唱えた「知足論」という価値観に納得させられる所があり、件の高校の教材においてこの知足論について全く触れられていなかったというのも私が最も怒った原因です。

 その知足論というのはどういう内容かというと、まず前提として人間の欲望というものは基本的に飽くなき物で、放っておいたらどんどんと膨張してしまうと荀子は定義しております。
 一つ例えを用いると、社会学ではマズローが「自己実現論」の中で欲求段階説と呼んで説明していますが、毎日野菜を食べたいと願っていた人が野菜を食べられるようになると今度は魚を食べたいと思い、魚を食べられるようになると今度は肉を食べたいと思うようになり、肉を食べられるようになったら今度はもっと高級な肉を食べたいと思うように、欲求が一つ一つ達成させられるごとにどんどんと大きくなっていくということです。そしてこの様な欲求は一度大きくなると以前の欲求では満足できなくなり、先ほどの例えだと肉を食べられるようになるともう野菜を食べても満足できなくなるとされています。

 この様に最初は野菜で満足できたものが最後には肉でも満足できなくなるという、欲求を追及するごとに人間は幸福を感じる力が徐々に薄れていく事を荀子は指摘し、果てなき快感を求め続けるよりもむしろ、今自分の身の回りにある環境に満足するように努めることこそが人生全体で一番幸福に生きる道だと説いております。そしてこれを漢文調に一言でまとめると「足ることを知る」となり、荀子が残した「知足」という言葉になるというわけです。

 こうしてみると荀子というのは、世間一般で思われているよりずっと優しい人間だったのではないかと私は思います。競争したり追い求めたりすることよりも今の自分に満足しなさいという言葉を残すなんて、競争してなんぼの現代社会においてはなんだかほろりとさせられる言葉です。老荘思想的といえばそうですが、自分の境遇に不満を覚える度にこの言葉を思い出しては私は自制する様に努めております。

2010年4月10日土曜日

私立大学における入学試験の問題性について

 このところ友人からよく、「国立大出身の奴らは信用が置ける」という話をよく聞きます。一見するとまるで私大出身の自分を揶揄するような発言(その友人も同門だけど)ですが、聞いてる私としてもこの友人の意見には納得する部分もあり、この前こんな風に応答しました。

「俺が進学の際に関東から関西に来た時、周りの学生の優秀さに目を見張ったよ。ほんのちょっと前まで同じ高校生だった人間でも、関東時代の俺の周りにいたのと比べて関西の学生らは会話をしていても明らかに知識や反応が良く、どうしてこんな差があるのかと考えてみたのだが、やっぱり五教科をしっかりやっているかどうかの違いじゃないかと思うんだ」
「五教科っつっても、うちらの大学は試験が三教科の私大やん」
「でも関西って、大坂、神戸、京都大学などと国立大学が多いだけあってうちの大学に来る学生っていったらみんなこのどれかの落第組で、大学受験時にみんな五教科を学んできているじゃん。俺も君も、その口だろ」
「まぁ、そやろな」
「それが関東だと慶應、早稲田を筆頭として私大が多いせいか、高三になった時点で私大専願とばかりに三教科しか勉強しない奴が多いんだ。やっぱ受験時に五教科か三教科って違いはその人の適応力に大きく影響を及ぼすと思うし、国立の連中は必然的に五教科をやっているから君も国立出身の奴らにそう思うんじゃないかな」

 上記の会話で私が語った内容はあくまで私個人の実感ですが、やっぱり文系だと数学、理系だと国語をやっているかやっていないかの違いというのは人間性や能力にも出てくるような気がします。関連するといえば、文系出身者で受験時に数学をやっているかやっていないかでその後の年収に大きく差がつくというデータがあり、これを聞いた時には心底数学を勉強しといてよかったとほっとしました。

 そんな私立大学の試験ですが、近年、私から見ていて看過できない事態が起こり始めています。上記の三教科試験ならまだともかく、近年は自分の得意な科目でだけ受験できる一科目入試などというものも増えており、さらには以前にも取り上げた事がありますがAO入試など選抜方法として如何なものかと思う試験が非常に増えてきました。実際に教育関係の報道を見ていると、上記のような特別な入試形態で入学してきた学生はやはり学力が追いつかず留年や退学する割合が普通受験者より明らかに多いらしく、AO入試については廃止する大学がこのところ増えてきております。

 しかし最近だと、というより以前からでもありますが、近年の私立大学は試験云々以前に内部校からの無試験での進学者割合があまりにも多くなってきつつあります。
 有名私立大ほどこの傾向は以前から高かったのですが、近年は少子化に伴い、定員割れなど起こさぬように学生数をあらかじめ確保せんと中堅私大もそれまで縁もゆかりもなかった高校と提携を結ぶことが増えてきております。実際に私も近くにある高校がある日突然、「○○大学付属××高等学校」という風に看板が変わったのを目撃しています。

 こうした無試験で大学に入学する内部進学者の問題は教育界というより就職業界においてこのところ問題視され始め、同じ大学出身者でも大学受験を経て入学してきた学生と内部進学者とでは明らかに能力に差があり、今後就職希望者の履歴書には入学方法も書かかせるべきだという意見が出始めてきています。
 実際に私が通った大学も系列高校の多い学校で、しかも進学先が文学部と来たもんだから周りは内部生ばかりでその割合は四割五分程度にも上りました。

 こうした事態について大学時代の恩師に直接話を聞いてみたのですが、大学としては確実に学生を確保するという目的とともに、受験での入試偏差値を下げたくないという目的からこうした行為を行っているという返事を聞きました。内部進学者と入試偏差値がどう関係するのかというと、単純に志望者の少ない学部や学科に内部進学者を振り分ける事でそこの定員を減らし、外部から受験を経て入学してくる学生数を調節することで入試の難易度を上げることが出来、名門校としての地位を守りつつ受験者を集めて受験料をかき集められるという魂胆です。

 具体的に私のいた学科で説明すると、その学科の学生数は180人でしたが実質この中の約半分こと90人は内部進学者で、残り90人の枠を外部受験者が入試で争ったというわけです。もちろん外には180人募集と言ってはいるのですが実際にはその半分で、入試には合格したものの別の大学に進学する学生を考慮して試験では大体200人程度に合格通知を出すそうです。
 なおその恩師によるとこうした偏差値の水増しは心理学科ほどよく行われており、どの大学でも心理学部や心理学科は偏差値が比較的に高いのですが、それは人気があるからというより内部生の割合が高いせいだそうです。実際にうちの大学ではそうだったし。

 こういう風に見てみると、現代の大学入試というものが如何に形骸化しているか色々と思い悩まされます。入試の難易度が志望者の多さとかレベルに関係なく大学側の意図的な操作によって決められ、またその大学の学生の半分近くが無試験で入学してきているなどと、なんでもかんでも試験が重要だというつもりはありませんがこれだと外から試験で入ろうとする人間だけが馬鹿を見ているような気がします。
 逆に国立出身者は特別な事情がない限りはきちんと入学試験を経てきているため、最初に友人が述べたようにその人材性に信頼がおけるというのもあながち五教科というだけとじゃないのでしょう。

 この前どこかが発表したデータによると、系列校からの内部進学者と指定校推薦での推薦入学者の割合が全大学生の半分以上にも登ってきているといい、私の実感でもそれくらいの割合と見ており、今や時代はどこの大学に進学できるのかは系列校に入る中学、高校入試にかかってきていると言っても過言じゃないでしょう。
 多少偏見もありますが小学生や中学生の時点で、その後の学力や能力が分るかといったらやっぱり疑問です。大学までついていると自由に勉強できるだの、勉強以外の活動もできるなどといいますが、勉強する機会くらいはせめて平等に与えてもらいたいと逆に私は私大関係者に問いたいものです。

  補足
 文系についてはこの記事で書いたように内部進学者による偏差値の改変が行われているのですが、理系だとやっぱり一定度の学力がないと進学してもすぐに落第してしまうので、あまりこういった行為は行われないそうです。逆を言えば落第し辛い、させ辛いような文系学部、それこそ文学部や経済学部ほどこの行為が行われる傾向が高いそうです。
 にもかかわらず内部進学者であった知り合いの女の子は卒業単位が危うかった上、卒業論文も私に半分以上も書かせました。まぁ文章書くのは好きだからいいんだけどさ……。

2010年4月9日金曜日

マンガ表現における女性の立ち位置の変化

 昔、暇だから取ったジェンダー論の授業(何気に音信の取れなくなった先輩と感動の再会を果たしたけど)にてこんな事がありました。
その授業は各時代ごとのテレビドラマを取り上げては女性の社会的地位の変化を問うという授業で、「初代 白い巨塔」と「現代版 白い巨塔」、そして「東京ラヴストーリー」から「アットホームダディ」などのドラマを取り上げては時代が下るごとに向上していった女性の社会的地位がこうした娯楽作品にも現れて来ていると解説し、その一方、よく見てみると男性陣らより一段下に置かれていて未だ立場を完全に逆転するにまでは至っていないという具合でまとめていました。

 この授業のテスト方式は講師がゆるいということもあってドラマでもマンガでもいいから何かしら題材を取ってその中の男女の描かれ方をまとめよという内容だったのですが、私はちょっと試しに「夜王」という、一応ホストマンガなんだけどいろんな所に突っ込みどころが満載な素晴らしいギャグマンガを取り上げ(詳細は「夜王 用語辞典」を参照)、このマンガに出てくる男性キャラは基本的に学歴も何もないホスト達ばかりで客としてやってくる女性キャラ達よりも明らかに社会的地位が低いものの、ホスト達は自分より地位も名誉もついでにお金もある女性を固定客にすることでホスト界での地位向上を図ろうとしており、いわば女性を手段としてみなしている節があると書いたところ、なんと92点もの高得点をいただけました。

 こういったジェンダーの描かれ方というのは案外意識しないとその変化というか変遷というものは分り辛く、私もこの授業を受けてからいろいろと過去と現代の男女の描かれ方に注意してみるようになったのですが、結論から言えばやはり年代が下るごとにこうしたサブカルチャーにおいて描かれる女性の地位は明らかに向上していると思います。特に近年、私が強く感じるのはマンガやゲームにおけるヒロインの立ち位置で、これなんか私が子供だった頃と比べると明らかに女性はパワフルになっております。

 具体的にどのようなところが変化しているのかというと、恋愛マンガや推理マンガならまだともかく、バトルマンガや冒険マンガにおいては現代のヒロインはほぼ確実といっていいほど男性主人公と同じく戦うなり前に出るなりしており、ただ守られたり見守っているだけのヒロインというのはもはや皆無に近くなっております。それこそゲームだとドラクエ1におけるローラ姫や、さらわれるだけのピーチ姫みたいなキャラを今の作品で挙げろと言われてもすぐにはピンと来ません。まぁピーチ姫はスマブラで戦ったり、マリオカートではキノコも投げつけてはきますけど。

 この言うなれば戦う女性ヒロインの存在ですが、過去の作品においても全くいなかったわけではありません。私くらいの年齢の男の子なら子供の頃に「ダイの大冒険」とか読んでいると思いますが、この作品においては基本的に女性キャラもみんな前線で平気で戦ったりしていますが、やっぱり思い起こすとこういうのは当時はまだ例外扱いで、一時的な参戦やサポート役としての出撃、このほかサブキャラクターの女性が戦うのならまだしもメインヒロインは前に出て戦うというよりも主人公を見守るというケースのが多かったという気がします。古いのを挙げると、戦闘力こそ高かったものの「CITY HUNTER」の槇村香や「乱馬1/2」の天道茜など。

 ではいつから現代の戦うヒロイン像が現れるようになったのかというと、私が思うにターニングポイントとなったのはやっぱり「セーラームーン」、そしてこちらは小説ですが「スレイヤーズ」じゃないかと思います。前者は少女漫画ながら少年漫画の要素だと捉えられていたバトル的要素を取り込んだところ女性読者の中で思わぬ大ヒットを引き起こし、後者は好戦的な女性キャラがヒロインどころか主人公となってアニメ化までして大ヒットした作品です。

 当時としてはまだ女性キャラがメインとなって戦うというのが物珍しく、そのギャップを物語の面白さとして売り出すためにこの様な作品が出て行ったのかと思われます。然るに現代においては先にも述べたとおりにこの様な戦うヒロイン像、下手すりゃ男性主人公より戦闘力のある女性ヒロインも珍しくなく、守られたり見守るだけのヒロインの方が珍しくなるというほど見事に逆転しているように私には思え、かえってそのような弱々しいヒロインを出したりした方が売れる作品が出来るんじゃないかなとこの頃考えているわけであります。

 このようなヒロイン像の変化について友人と話をしたところ、やはり実社会における女性の社会進出が進んだ結果だからではないかという結論に落ち着きました。私としては女性が強くなったとというよりも、それまでも見栄だけだったかもしれませんが男性が弱くなり過ぎたということの方が大きいと思え、体育会系のノリは大嫌いですが一応はもう少し男らしさというものを定義しなおして責任感ある強い男が日本でも増えていってくれればいいなと思います。


  おまけ
 なお今連載中のマンガで私が一番好きなヒロインを挙げるとしたら、ヤングジャンプで連載中の「GANTZ」に出てくるレイカが一番お気に入りです。このキャラも一応戦ったりするけど。

  おまけ2
 戦う女性ヒロインは昔は少なかったと書いたものの、昔から今にいたらるまで「攻殻機動隊」の士郎正宗氏は延々とそういった強い女性をメインに書き続けております。SFやサイバーパンクの世界では昔から女性キャラが強かったけど、それってやっぱり未来を暗示しているのだろうか……。

2010年4月8日木曜日

食糧自給率100%は不可能という仮説

 昨日に引き続き友人から借り受けた本の話になりますが、今日は堺屋太一氏の「東大講義録 ―文明を解く―」という本とその中で述べられているある考えを紹介します。

 はっきり言って、これまで私は堺屋太一氏のことをあまり評価しておりませんでした。堺屋氏の小説は何度か読んだのですがお世辞にもあまり面白いとは思えず、またどこかの雑誌で読んだ論評にて、「現代のアメリカとモンゴル帝国はどちらも女性の権威が高くて似通っている」という、ちょっと共感し難い意見などを述べられていてどんなものかと思っていました。

 それが今回友人が貸してくれたこの本は、確か2002年の出版ですが八年も前の本とは思えないほどに示唆に富んだ内容で、その後の世相を見事に言い当てていることに驚きを感じずにはいられませんでした。この本はその題の通りに堺屋氏が東大で講義した際の内容を編集しなおしたものなのですが、歴史に沿って文明の成り立ち、そして変遷をわかりやすく且つ知見に富んだ目線で説明されております。

 その文明の成り立ちについてここで簡単に抜粋して説明すると、堺屋氏は文明の発展とともに人間の交友範囲が変化していったと唱え、大まかに表にすると下記の通りになるとしています。

始代:採集社会=血縁社会
古代:農耕社会=地縁社会
近代:産業社会=職縁社会
現代:知価社会=知縁社会

 読んだのが一ヶ月くらい前なのでちょっと記憶が曖昧ですが、大体この様な具合で文明の発展とともに人々の交友範囲、いわゆる縁の持ち方が変わってきたというわけです。なお最後の知縁社会というのは堺屋氏の造語で、共通した目的を持つもの同士で交友を持っていくという社会を意味しており、簡単な例だとこういうブログが縁で連絡を取り合う中のようなものです。

 この文明論だけでも十分におなか一杯の内容なのですが、短いながら日本の食糧政策についてもドキリとすることを堺屋氏はこの本の中で述べており、それはどのような内容かというとこのようなものでした。

「現在、農水省の官僚は日本の自給率を100%にしようなどと言っていますが、私が子供だった戦後直後は山の斜面からの石の多い河原に至るまで、日本中の土地という土地にサツマイモを植えたにもかかわらず当時の日本の人口7000万人を食べさせる事が出来なかったのですから、根本的に日本で食糧を自給する事は不可能なのです。
 だからこそ私は質の低い作物を日本で植えて作るよりも海外で高く取引される作物を栽培し、それを売って得たお金で海外の安い作物を輸入すべきだと考えるのです」(この会話文内容は私の解釈によるもので、原書からの抜粋にあらず)

 言われてみる事まさにその通りで、今よりも人口が低く、国会議事堂前ですら作付けが行われたほど耕地も多かった戦後直後で支えきれなかった食糧自給が、一億二千万にも膨れ上がった現代においてどうして支えられるものかとまさに頭をがんと殴られたような気がした一言でした。

 さらに私のほうからこの堺屋氏の主張に付け加えると、現代は戦後直後よりも農業技術から作物の品種改良も飛躍的に向上しており一概に60年以上前のデータと比較するべきでないという意見も十分理解できるのですが、その一方で現代農業には近い将来に大きなリスクが予想されております。そのリスクというのは環境問題の欺瞞性を指摘して一躍名を轟かせた中部大学の武田邦彦教授がこれまた指摘しているもので、現代農業に必須とも言える農薬原料の有機リンが確実に枯渇し始めてきているというものです。武田氏が言うにはこの有機リンが完全に枯渇しないでも現在よりも産出量が減れば価格は高騰し、農薬に頼りきった現代農業では直にコストに跳ね返ってくると予想しております。

 もちろんエコロジスト張りに、「有機リンがないなら、自然肥料に頼ればいいじゃない」などと主張するのは簡単ですが、私も伝え聞く限りでは化学肥料なしでは日本の農業、下手すりゃ世界中の農業は立ち行かないとまでされており、とてもじゃないですが自然肥料で代替出来るとは信じられません。
 この様に考えると、堺屋氏の言うとおりに下手に数字上の自給率の達成ばかりを追い求めるのではなく、いかに日本人の食糧を繋ぎとめるかという視点から少数精鋭とばかりに高級作物をより支援していくという方針の方が正しいのかもしれません。なんか真に受けすぎな気が、自分でもするけど。

2010年4月7日水曜日

書評「無理」

 先日友人より、「これ、長いけど」といってまた一冊の本を借り受けました。特に特定の本を当時読み進めていたわけでもないものの、4/10になると文芸春秋の最新号が発売されてそっちに忙殺される事から、小説とはいえ543ページもの厚さもあることだし読み終わるのは恐らく一ヶ月くらい先だろうと受け取った際に私は想定しました。
 しかしそれが、わずか三日で読み終わってしまうとは夢想だにもしませんでした。

 そんな借り受けた本というのは、直木賞作家でもある奥田英朗氏著の「無理」(原題「ゆめの」)という小説です。元々この奥田氏の本は出世作ともなった精神科医シリーズの「空中ブランコ」は買って読んだ事はあり、この作品は私も贔屓にしている堺雅人氏も出演してのドラマ化までされましたが、読んだ当時は確かにつまらなくはない小説であったものの果たして直木賞受賞作品と言えるほど面白いかとなると首を傾げる内容でした。なんていうか、話の締まり方がワンパターンだったし。

 それが今回の「無理」では文字通り、貪りつくくらいの面白さで読み始めると一気にページが進んでわずか三日、一日平均180ページのペースで読了まであっという間に持っていかれました。
 この小説のあらすじを簡単に説明すると、市町村合併によって新たに出来た地方都市の「ゆめの市」を舞台に、年齢も職業も性別も全く異なる五人の男女がそれぞれの生活の中でお互いに全く接点を持ち合わずにそれぞれの事件に遭遇していくという内容です。

 読み始めてすぐの頃、この小説の形式はかつてチュンソフトから発売された「街」という、これまた全然接点のない八人の男女の渋谷における五日間を読み進めるというゲームに近いなという印象を覚えました。この「無理」を貸してくれた友人も「街」が好きだったからわざわざ私にも貸してきたのだろうと考えたのですが、確かに「街」のように各主人公らが微妙に接点を持つというなどは共通してはいるものの、それ以上に「ゆめの市」という、架空の地方都市における生活の描写がまさに絶妙でした。

 地方公務員の主人公は後を絶たない生活補助申請の処理に手をあぐね、女子高生の主人公はなんとしても東京の大学に進学して田舎だと考える故郷を脱出しようと画策し、詐欺商品のセールス販売員である主人公は仕事のないその地域ゆえに自らの行為を正当化し、孤独な主婦の主人公は新興宗教にすがり、市議会議員の主人公はより大きな県政へ打って出るため地元ヤクザとつるむなど、それぞれの生活者の視点がやや誇張した話の中とはいえ実に生活観に溢れて生き生きと書かれております。

 しかしそうした描写の良さもさることながら、この作品で私が最も惹きつけられたのは地方都市特有の閉塞感です。私は人生の大半を現在も住んでいる関東のベッドタウンにて東京圏の文化を受けながら過ごしており、お世辞にもあまり地方の現状や生活に触れてきたとは言えない人間ではあります。しかし大学生になった当初、キャンパスの設置地の関係で一応行政区分は市ではあるものの田舎の間隔が抜け切れないようなある地方都市に数年の間生活しましたが、その際に覚えた閉塞感というのはそれまでの自分が如何に恵まれた場所、文化圏で生活してきたのかを思い知らされるには十分なものでした。

 まず何が一番辛かったといえば、自分が情報に取り残されていくという様な感覚です。それこそ関東圏で東京キー局のテレビ番組を毎日見ていたころは意識せずとも現在の流行や注目を集める情報が入ってきていたのが、地方に行くとNHKを除いてローカル局のテレビ放送となってしまってこうした情報も意識してもなかなか手に入らなくなりました。しかもその地での生活を始めた当初はインターネットも繋いでいなかったので二次媒体で補完する事も出来ず、時たま電話で話す関東圏の友人の情報を聞く度に自分が置いていかれていくように感じて心細さを日々感じていました。
 ついでに書くと、年齢がばれるかもしれませんが当時すでに関東では一般的となっていたICカード式定期券が関西では誰も知らなかったというのも激しくショックを受けました。

 更に言えば、当時はなにぶんお金がなかったもので進学に合わせてすぐにでもとアルバイト先を探したものの、関東であればそれこそちょこっと歩けばどこの店頭にもアルバイト募集の看板があるのに対し、その地域ではアルバイト情報誌をいくらひっくり返しても電車で30分くらいかけなければ募集先などなく、交通費だってあまり持ちたくないのにどないすればええねんと言いたくなるような状況でした。結局見つけたのは電車で40分の場所だったし……。

 そのときに感じた感傷というか閉塞感が、今回この「無理」を読んで一度にまとめて呼び起こされたわけです。ちょこっと地方に住んでいただけでえらそうに言うべきではないと分ってはいますが、近年の日本の地方都市には東京や大坂近辺にずっと住んでいる人間にはとてもじゃないですが理解のしようのない、絶望感にも近い閉塞間は確かにあると私は思います。それら閉塞感が何故生まれるのかといえばネットを初めとした情報通信の発達や、不況による失業者の増加、地方格差などいくらでも理由をあげる事は出来ますが、実際にはどのような閉塞感があるのかとなるとこれまで納得させられるような表現や説明は今まで見てきませんでした。

 それが今回、多少持ち上げすぎな気もしますが「無理」の中では各主人公を通して彼らの抱える閉塞感が如何なく書かれており、徐々に地方都市に適応していった自分に対して最後まで閉塞感と戦い続けた別の友人には是非読んでもらいたい作品です。

  おまけ
 今回「無理」を貸してくれた友人は類稀な読書家で、「少年H」は嘘八百ばかりだということも教えてくれた友人でした。会う度にいろいろと本を貸してくれるので、恐らく去年に私が読んだ本の八割は彼からの提供によるものです。

2010年4月6日火曜日

続・平沼、与謝野新党について

 友人からこの件について質問のメールが来たので、今日はそれに答える形でまた新党について解説します。

今回作られる新党には現代の爆弾男といってよい鳩山邦夫氏が参加しないとすでに報じられており、本人もそう語っている事から少なくとも設立メンバーには加わらない事は確実でしょう。今日来た友人からの質問は邦夫氏が自民党を離党する際に与謝野氏と何らかの打ち合わせをしていなかったのかという質問だったのですが、恐らく彼の性格と行動振りを考えるとそういうものは一切なく、離党してはみたものの与謝野氏からはやっぱり相手にされなかったのが実情だと思います。

 それで与謝野氏と平沼氏が何故邦夫氏を相手にしなかったかというと、まず第一に邦夫氏も兄の由紀夫氏同様に実母から献金を受けるという問題のある行動を取っていたことと、邦夫氏の破天荒な性格による行動によって新党の規律が緩んだりするのを恐れたのかと思います。ただこうした邦夫氏への処遇はまったく理解できないわけではないのですが、今回こうして明確に拒絶したことで新たに賛同者、特に自民党からの離党者を受け入れるに当たって「人を選ぶ」という印象が付きまとってしまい、参院選までの組織拡大においてしこりとなっていく可能性があります。もっとも、後述する理由からそんなことをあまり考える必要はないのかもしれませんが。

 実はこの平沼、与謝野新党について日曜日の朝日新聞にて、面白い論評が書かれてありました。
 概要を簡単に説明すると、現在民主党を不支持とする層が増加しているものの現在の自民党ではそのような反民主層の受け皿にはなりきれず、このままだとそうした票が丸々「みんなの党」といった第三局の政党へ票が流れていく事が予想されます。そこで自民党としては敢えて与謝野氏を平沼氏とも打ち合わせをした上で自民党の外に新党を作らせ、みんなの党へと流れる票を新党で吸収し、票の確保に努めるという作戦に出たという論評です。いわば、参院選に向けて自民党は自身の支部政党を与謝野氏と平沼氏に作らせたというわけです。

 あまり持ち上げるのもなんですが、これが全く根拠のない説だとは私は思いません。というのも新党立ち上げに至る過程で与謝野氏が何故自民党を離れる必要があるのか、これまで通りに頼りない執行部の刷新を求めていくだけじゃ何で駄目なのかがはっきりしません。また新党がどのような政策を訴えていくのかも全く見えてこず、むしろ与謝野氏や平沼氏のかねてからの主張を考えると今の自民党が主張する政策と全く同じことを主張する可能性が非常に高いです。

 そして新党の構成メンバーを見ても、どう見ても古い自民党を捨てて新しい船出を乗り出していこうという風には全く見えない高齢の、しかもかなりずぶずぶに古い自民党に染まりきった政治家ばかりです。まだ河野太郎氏や塩崎恭久氏のような人が離党して新党を作るのなら理解できるにしろ、どうしてこのメンバーが新党をわざわざ作るのか、藤井孝雄氏なんて私があまり知らないせいかも知れないけど考えれば考えるほど分らなくなってくる人物です。

 こうした疑問も、上記に上げた自民の支部政党として票を集める、議員を受からせるだけの見せ掛けの組織だというのであればある程度納得できます。無論確証は未だありませんが、政局を判断していくのに参考にはなる考え方だと思います。

2010年4月5日月曜日

私が高校進学を拒否しようとしたわけ

 またちょっと時間がないのと頭痛があるため短くまとめられる自分の近況についてですが、先日、実に七年ぶりに母校の中学、高校に友人とともに尋ねて行きました。中高一貫校のその学校はこのブログでも何度か書いておりますが私にとってはあまりいい場所ではなく、はっきり言って中学高校時代はもう一度過ごせと言われても心からお断りしたいような嫌な時代でしたが、教えてもらった教師らに対しては親身に相談に乗ってもらっていたので人並みに敬意を持っていたことから今回友人にくっついて訪問する事にしました。
 具体的にその恩師らに何をどうこう話したかまでは書きませんでしたが、恐らく一番厄介な問題を吹っかけた恩師と久々に会った際に、私が中学三年の頃に言い出したとんでもない発言をお互い振り返っていました。

 具体的にどんな事を過去の私は言い出したのかというと、なんと付属の高校には進学せず、高校生にはならないと言い出したのです。というのもすでに当時から文章で身を立てる作家になろうと目標を持っており、その目標に対して高校は時間の制約も大きい上に何のプラスにもならないと判断し、作家となれるよう文章力を磨きつついろんなことを経験していく上では高校に行かない方が自分にはいいだろうと考えたからです。当時から私は学校の授業を受けるより自分で勉強した方が効率がよくなっており、大学には専門的な知識や活動を行う上で進学する必要はあると考えていたので高校は行かずに大検を取得する道のほうがいいと思ったわけです。

 もちろんこんなの両親は許さないだろうし自分がいくら願った所で叶うまいということは分っていたのですが、時の担任には一応念のためにこういう風に考えていると相談し、案の定というか高校くらいは行っとけと言われたわけです。結局私は高校にそのまま進級してきちんと卒業するまで変にぐれることなく通い続けたわけですが、今思いなおしても多分行っても行かなくってもそんなに大きな人生の変化はなかったんじゃないかと思います。あんまりこういうことは大きな声で言うべきだとは思いませんが、本人にやりたいことがはっきりと定まっているのであれば変に世間体を気にせずその道に進んだ方がずっといいんじゃないかと思います。見つからない人は見つからない人でどう知れば一番まだ妥協できるか、割がいいのかを考えればいいのだし、すくなくとも人生を後ろ向きに考えるよりリスクテイクをしてでも前向きに見ていった方が何事も楽しいんじゃないでしょうか。
 少なくとも私にとっては、あの高校時代は無意味以外の何者でもなかったしなぁ。

2010年4月4日日曜日

コヴェントリーのゴディバのエピソード

 先日に地元の友人と会って話しをしてきたのですが、その友人は私と同じくイギリスに行った経験がある友人だったのでふとしたことからイギリスの話になりました。イギリスというと一般にはイギリス紳士ばかりが浮かんできますが、なんだかんだいって個性が強い国なのでイギリス紳士に限らず知っている物同士では話題にするネタが次から次へと湧いて来る国です。恐らく最も話題になるのは、「メシがまずい」、「それなのに物価が高い」ことでしょうが。

 それでその友人とのイギリス会話の際、一番盛り上がったのは今日取り上げる「ピーピング・トム」の話でした。このピーピング・トムというのは今も高級チョコとして名高い「ゴディバ」のブランド名に使われたエピソードに出てくる男の話で、概要をWikipediaからそのまま引用すると下記のようになります。

 領主レオフリックとゴダイヴァ夫人については有名な伝説がある。重税に苦しむ領民を気の毒に思ったゴダイヴァが、夫レオフリックに税を軽くするように申し述べたところ、レオフリックはゴダイヴァが慎み深い女性であることを知りながら「お前が全裸で馬に乗って町を一周したら考えてやろう」と言った。悩んだ末にゴダイヴァは決意し、町中の民に外を見ないように命じた上、長い髪だけを身にまとって馬で町を一周したのである。町民はみな、このゴダイヴァのふるまいに心を打たれ、窓を閉めて閉じこもった。これにより、レオフリックはやむを得ず税を軽くしたという(なお、このときにただ1人外を覗いた男がおり、これがピーピング・トム(Peeping Tom)という言葉の由来になったという)。

 このエピソードから例のチョコレート会社は「ゴディバ(ゴダイヴァ)」という名前をとったわけなのですが、最後に書かれている不心得者の「Peeping Tom」を直訳すると「覗き屋トム」といったところで、和訳として私はよく、「英語版の田代という意味だ」と周りには説明しております。
 実は私はイギリスに旅行に行った際、何故かこのゴディバのエピソードの舞台となったコヴェントリーで一泊しました。当初はバーミンガムで宿を取ろうと思っていたところ、たまたまその日は当地でイベントがあって宿がすべて埋まっておりコヴェントリーに行き着いたわけなのですが、元々ゴディバのエピソードも知っていたので着いた場所があの話の舞台と聞いていろいろと思う事がありながら街中にあるゴディバ像とかも見て周りました。

 それにしてもこのエピソードは裸の女性が馬に乗るという暴れん坊将軍も真っ青なエピソードぶりといい、ピーピング・トムというお約束なキャラといいすこぶる面白い内容です。なお伝説によるピーピング・トムは神の天罰によってゴディバを見るや失明したそうなのですが、このエピソードを私がよく訪れるイラストサイトの方も引用しておりましたので紹介しておきます。

レディ・ゴディバでぐぐれギャングスター

 一番トップには裸のゴディバ婦人の絵が描かれていますが、ページ下部ではピーピング・トムの想像図として素晴らしいキャラを紹介してくれております。
 結構いろいろとイラストサイトのブックマークを私は持っているのですが、ここのサイト管理人、腹八分味之介氏ほどキワモノ系の悪役を書ける人は未だにお目にかかれておりません。普通に美少女イラストも十分に上手なのですが、腹八分氏曰く「モヒカン系」を書かせたら恐らくこの人の右に出てくるのは北斗の拳の原哲夫氏くらいなものでしょう。このほかホラー映画系にもやけに詳しいので、興味がある方は是非別ページもピーピング・トムばりに覗いていってください。

  おまけ
 京都の嵐山にて、「ピーピング・トム」というカフェレストランがありました。通る度に気になっていたのですが、なにぶんお金のない頃でしたので結局ここも「中国料理 ほあんほあん」同様に一度も訪れず終いでした。今度京都に行ったらちゃんと行って見ようかな。

2010年4月3日土曜日

平沼、与謝野新党について

 先日、参議院にて自民党の若林元農水大臣(最初、「元の薄い大臣」と変換されたよ)が、採決の際に退席していた青木参議院議員の投票ボタンを勝手に押すというとんでもない行動の責任を取って辞任しました。はっきり言って現在の政局は与党民主党が一向に普天間問題の決着案を見出せないばかりか早くも子供手当ての外国人への配布を巡って問題が起き始めており、野党自民党としてはこれ以上ないくらい与党を攻撃できる材料が揃っているにもかかわらずこの始末なのだからしばらく政権を取り返す事は出来ないでしょう。よく自民党と民主党を比較していろいろ話す方がおりますが、私に言わせるなら今は自民も民主もあまりにも情けない状況で、民主党の若手を中心とした政界再編を期待する意味ではまだ民主党が与党の方が自民党よりかはよかったかなと思います。

 そんな空中分解気味の自民党で今日ようやく動きがあり、元自民党議員で郵政民営化論争の際に袂を分った平沼赳夫氏が新党を結成する事を昨日発表し、それに続く形でこちらも新党結成をかねてより公言してはばからなかった与謝野馨氏も、自民党を正式に離党して本日平沼氏の新党に合流すると発表しました。

与謝野・平沼氏が共同代表…新党合意(読売新聞)

 このニュースについて私の感想を述べるなら、この平沼新党は恐らく次の選挙時に大きな勢力とはなりきれずに終わるかと思います。

 その理由を一つ一つ説明していくと、まず構成議員の問題があります。
 今回与謝野氏は現在の自民党には問題が多いということで離党をしましたが、今度新しく出来る平沼新党も基本的には元自民党の重鎮議員、しかも高齢者ばかりで占められる可能性が非常に高いです。たとえ本人らにその気はなくとも有権者からは昔の自民党への回帰のように受け取られて、よっぽど面白い提言をしない限りは支持者を広げる事は出来ずにただ間口を狭くするだけに終わる可能性が高いでしょう。第一、掲げる政策自体が恐らく古い自民、今の民主と同じバラマキと郵政復古しかないでしょうし。

 第二の理由として、多少ネガキャンが入ってしまいますが平沼氏の人間性があります。まだ与謝野氏は病気持ちで高齢であることを除けば私も高く評価しており申し分もないのですが、平沼氏については私はかねてよりその人格を疑っております。具体的にどのようなところに問題があるのかというとどうもこの人は自分の考えは公の考えに適っていると亀井静香のように信じきっている節があり、平気でとんでもない発言を行ってきております。

 いくつか例を出すと、自らが自民党を離脱する事になった2005年の郵政選挙においては小泉元首相は民意を無視して郵政民営化を推し進めようとしていると言いながらも自民党が大勝するや、国民は何も分っていないと国民の無能をあげつらいました。政治家であればそういう風に思いたくなるのも分らないわけではないのですが、それを公然と言い放つのとそうでないのでは大きな差があるでしょう
 ただ平沼氏はその後、安倍政権において郵政造反組みの復党処分が行われた際には一人だけ今後は執行部に従うという誓約書を提出せずに筋は通した事は私も評価しております。

 もう一つ平沼氏に対して私が不信感を覚えずにいられない発言として、かつて自民党の山本一太議員に対して面と向って、「お前、抹殺するぞ!」と言い放った発言があります。詳しい詳細はWikipediaにも書いてあり、本人も発言後にあれは言い過ぎたと確か述べていたと思いますが、このような不穏当な発言をテレビカメラが回っている前で行うというのは政治家というより人間としてもどうかと疑わずにはおれません。恐らく今後新党を作って平沼氏が代表となれば報道される回数も増加し、このような暴言癖が度々出てくるであろうことを予想すれば今度できる新党も軌道には乗らないかと考えるわけです。

 そういうわけで結論としては、この平沼新党は第二の国民新党のように古い自民党議員の集合で終わる可能性が高いというのが私の意見です。仮に可能性があるとしたら未だ国民の人気が根強い自民党の桝添要一氏を党首に迎えた上で、彼を参議院から衆議院議員へと鞍替えさせて首班指名を行うという方法くらいなものでしょう。ただ桝添氏としては死に体の自民党をそっくりそのまま引き受けるというほうに心が動いているようにも見え、そうのように持って行くのは難しいでしょう。

2010年4月2日金曜日

中国がどうしても先進国になれない理由

 世の中、考えればすぐわかる事でもはっきり言われるまで誤解しているということがよくあります。今の地球が温暖化することで海水面が上昇する事なんてありえないということ然り、若者は車離れしてるというが今の若者はそもそも車に興味を持った事がないということ然り。
その中でも中国関係の仕事なり研究なりをしている人にとっては当たり前でもそうでない人には意外と知られていない事実として、たとえ中国がどんなに、何十年努力したとしても絶対に先進国にはなれないという事実があります。

 先月、モナコの提案で地中海産マグロを絶滅危惧種を保護するワシントン条約によって禁輸すべしという決議が行われましたが、結果は日本国内の下馬評を大きく覆して大差で否決となりました。日本人は世界で最もマグロを食べているというだけあってこのニュースは国際ニュースの割には会議前から連日大きく取り上げられており、その注目も高かっただけに結果が出るや、まるで戦争にでも勝ったかのような会議否決を歓迎する報道があちこちで見られました。

 そのようなニュースでは一体何故予想を覆して否決が賛成票を大きく上回ったのかというと、会議直前まで続けられた日本による他の会議参加国へのロビー活動が実を結んだと大きく報道されていましたが、私はというとこの報道は実は怪しいと考えていました。というのも日本はこれまでの国際会議では空気を一切読まずに地雷禁止条約に反対するなどほとんどアメリカに追従しているだけで自国の思惑に他国を引っ張るというロビー活動など出来るものかと甚だ疑わしい外交しかしておらず、また会議前の国内報道では否決させるのは難しいなどと弱気な意見ばかりが出ていたなどロビー活動が功を奏していたというのならやや矛盾している状況があったからです。

 ではどうして否決国が多くなったのかとなると、もちろん証拠なんてどこにもありませんが、私はあのマグロ禁輸の会議で否決に持ち込んだのは他でもなく中国だったと思います。そう思う理由をいくつか挙げるとあの会議で否決票を投じた国には日本にはあまり縁がないけれどもこのところ中国が援助をバンバンと行って影響力を強めているアフリカ諸国が多く、当の中国自身もこのところマグロの消費量が増えてきている事から日本や韓国とともに提案がなされてから一貫として反対を続けてきていました。
 一部週刊誌のみがこうした見方を呈して赤松農水大臣は中国の手柄を自分のものとして喧伝していると指摘していましたが、私もこの週刊誌の報道を見る前から同じ見方を持っていました。

 ちょっと話が大きく外れましたが、このように国際会議の場においても日増しに発言力を増してもはや自ら先進国の域に達したとまで自称する中国(都合のいいところでは発展途上国と自称するけど)がどうして先進国にはなれないのかというと、先ほどのマグロの話とも関係があります。結論を言ってしまうと、中国は人口があまりにも多過ぎるために先進国並の生活を行うと地球の資源が持たないからです。

 最近はちょっと落ち着きましたが、三年前頃から中国のあまりの経済成長によって日本からくず鉄と古紙が急激に不足するようになりました。これらくず鉄と古紙はほぼすべて北京オリンピックを控えて活発な生産活動が行われていた中国へ持っていかれたために日本で不足したのですが、これら二つの資源に限らずこのところ中国人が手を出すようになった資源はどれも世界中で一挙に不足するという事態がこのところ頻発しております。前にはワインを飲むようになってつまみのチーズが急に不足したというし。

 我々日本人からするとイメージしにくいですが、資源というものは基本的には有限で、需要が低い資源ならともかく需要が高い資源は文字通り奪い合いになります。これまで中国を初めとした発展途上国の指導者らは先進国が富を独占するから発展途上国は豊かになれないと批判してきましたがこれはまさにその通りで、経済力の強い上位数パーセントの先進国が世界の過半数以上の資源を独占してきたのがこれまでの世界です。

 しかしこうした体制も、近年の中国やインドといった急速に経済成長を果たした急成長国らの登場によってほころびが生じ、石油から鉄、そして今回槍玉に挙がったマグロを含む食料といった資源が徐々に戦国サバイバル的な様相を見せ始めております。特に中国やインドはそれぞれの人口が半端でないために、その影響力も生半可なものではありません。

 ここまで言えばもう大体察しが着くと思いますが、少なくとも現時点において、中国人全員が先進国並の生活を行うに足る資源が地球にないため、一部の富裕層ならともかく中国は国全体としては絶対に先進国になれないのです。たとえどんなに中国が努力して経済成長を果たしたとしても。
 もちろんこの事実は中国政府も十分に理解しているでしょうが、今の中国の貧困層を支えているのは、「頑張れば、みんな裕福になれる」という希望であるために、絶対にこんな事は口にせずむしろ希望があるかのように宣伝しております。幾ら頑張っても一部の人しか裕福にならないなんて言ったら、多分暴動起こるだろうし。

 これは逆に言えば、そろそろ資源の枯渇などについて日本人もいろいろと考えるべき時期に来ていることになります。経済力が低下して他国から資源が買えなくなるのは言うまでもありませんが、たとえ現状の経済力を維持したとしても中国のような国が一定度の成長を果たすだけで資源は確実に世界からなくなります。そのような時代にはどうなるか、私がわざわざ言うまでもないのでここでは書きませんが、せめて自分が生きている間くらいは資源も持って欲しいなと思います。