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2008年10月5日日曜日

文化大革命とは~結び、文革は何故起きたか~

 ちょっと試しに前回までのこの連載の文字数を数えてみたら、三万字弱ほどありました。原稿用紙に換算すると七十五枚で、よくもまぁこんなに書いたもんだと我ながら呆れました。
 そんなもんでこの連載も今回が最終回です。もう書くことは大体書いており、最後の今回では文化大革命の総論的なことをちゃちゃっと書いて行きます。

 まず文化大革命は中国にその後どんな影響を与えたかですが、結論から言って中国はこの文化大革命によって発展が三十年は遅れたとまで言われております。中でも最大の損失ともいえるのが知識人で、この連載の最初の記事でも書きましたが、ちょうど日本での団塊の世代に当たる年齢に、中国の大学では教授などの人間がすっぽり抜けてほとんど存在しません。これはこの世代ががまさに文革で排斥される対象となった世代で、文革期に殺されるか、社会的に抹殺されたかのどちらかで存在していません。

 前回のカンボジアの大虐殺でも触れましたが、文革期には中国でも知識人が文字通り根絶される勢いで摘み取られていきました。ここでちょっと想像してほしいのですが、たとえば今、当たり前のようにいる設計士、技術者、熟練工といった人たちがこの社会から突然いなくなってしまうとしたら。もちろんそうなればあらゆる工事から工場の作業、開発製造といった行為がすべてストップしてしまいます。しかも、いざそういった人材をまた育てようと思っても、技術や知識を一から教えてくれる教員すらいない状況であればなおさら悲惨です。

 70年代の中国はまさにこうでした。一度は育てたあらゆる人材がいなくなり、技術や知識の継承をまた一からやり直す羽目となったのです。ただ中国はこれを奇貨として文革後に優秀な学生を選抜して、一気に東大など海外の大学へ留学させて建て直しをはかったりしています。今、中国の経済界ではそのような留学帰りの人たちが大きな力を持っているらしいです。

 中国が文革から受けた損失はなにもこの人材だけではありません。連載中にも書いていますけど何の計画もない土地開発のために自然環境は徹底的に破壊され、また歴史的遺物も「過去の残滓」として数多く破壊されています。
 そして元紅衛兵だったたくさんの若者たちも地方に下放されたまま、故郷へ戻ることすら叶わなくなりました。

 こうしてみると、何故これほどの悲劇が繰り広げられたのか、誰も止めることが出来なかったのかと疑問に思えてきます。敢えて私の分析を披露すると、この文化大革命は毛沢東の手によって引き起こされたものの、中期以降は一般民衆もむしろ率先してこの混乱を加速させ、いうなれば集団パニック、もしくは集団ヒステリーのような現象だったと思います。日本も戦前は教育上は軍部が国民を扇動させたことになっていますが、実際にはかなりの部分で国民も戦争へ突入するのを応援していました。何でも、朝日新聞が当時に反戦の記事を書いたら部数が一気に5%にまで落ちて、慌てて戦争賛美へと論調を変えたほど民衆も戦争一色だったらしいです。

 よく集団ヒステリーというと、大体二、三十人くらいの小集団で起こるもの、大きさにすると学校のクラス単位くらいなものと思いがちですが、歴史的に見ると日本を始めとした国家単位でも起こっていますが、さすがに中国という巨大人口国でも起こるというのはなかなかに驚きです。まぁ実際、集団ヒステリーに人数は関係ないのかもしれませんけど。

 では何故、そこまで混乱が発展したのでしょうか。いくつか理由があり、恐らくは複合原因によるものだと思いますが、その中で挙げられる原因を出すとしたらやはり、文革発生以前に中国人の愛国心が異常に高かったせいだと思います。戦前の日本、そして今の韓国もそうですが、なんだかんだいって愛国心というのは非常に扱いの難しい感情だと思います。低すぎても駄目ですし、高すぎても駄目です。では高すぎると何故駄目なのかですが、ちょっと前に書いた記事の被害者意識のように、国のためになることだったら何をしてもいいんだという風に思う輩が出てくるからです。

 今の中国でも「愛国無罪」という言葉が出るくらいに、国のための行為なら犯罪行為すら許されると主張する人間がおり、日本への批判、外交施設への投石も認めるべきだと過激なことをやる人がいます。恐らく、文革以前は今以上にこういった愛国心が強かったと予想されます。というのも当時の中国はまだできた手の国家で、政府も「皆で国を支えよう」と強く檄を飛ばしていました。そうして高められたまま毛沢東の扇動がおき、国のためならばと紅衛兵が立ち上がって法律を無視し、私的なリンチや密告合戦が起こっていったのだと思います。

 被害者意識の「被害者なら加害者に対してどんな抵抗をしても許される」とか、愛国心の「国のための行為なら何をしても許される」という意識の背景で最も大きいのは、個人の責任というのが乖離されることです。両方とも行為の責任主体を自らに置かず社会に対して置き、この行為は相手に迷惑(被害)をかけるが、自分は本当はやりたくはないのだけれど社会がそう要求する、というような具合で、心の一部で確かに悪いことをやっている気はするものの、なんとはなしにそれを許容するように自己弁護をやってしまうということです。

 戦前の日本でも軍隊内などで、「天皇の意思に背く」という理由でリンチや略奪行為などが許容されたことがありましたが、そもそも天皇がいちいち軍隊内でのビンタなどに意思を持つかどうか、しかもそれが各部隊長が判断できるのかというのは疑問です。一部の評論家たちも言っていますが、当時の軍隊は天皇という言葉を私的に利用しては自分たちの行為に正当性を無理やり持たせていたのでしょう。こんな感じで、「国のため」という言葉が自己を正当化するに至るまで愛国心が中国全体で高かったのが、この文革が起きた大きな理由だと私は感じます。

 最後にこの文化大革命について個人的な感想を述べると、他山の石のように思えないということに尽きます。ドイツでもそうですが、ユダヤ人虐殺などの戦争犯罪はナチスという狂った集団が行ったのだと自分たちと切り分け、我々日本人でも、太平洋戦争という無謀な戦争に至ったのは軍部(主に陸軍の)が国民を欺いたためと、こちらでも一般民衆は加害者ではなく被害者として切り分けています。
 しかし、私はいつもこう思います。

「虐殺もなにもかも、行ったのは自分と同じ人間だ。ちょっと間違えれば、今の自分もこういったことに加担するかもしれない」

 文化大革命も同様で、自分には関係ない、自分なら絶対こういう馬鹿なことはしないと切り分けることが出来ません。もちろんこんな悲劇は起こしてはならないので、常に注意しつつ、可能な限り周囲にこの事実を周りへと広げ歴史への反省を促していきたいと思います。

2008年10月4日土曜日

文化大革命とは~その十三、毛沢東思想の伝播~

 これから書くことは内容が内容だけに、すこし手が震えます。書くことの重大さもさることながら、そのあまりの内容からだと思います。

 さてこの連載の中の「その五、毛沢東思想」の中で、通称マオイズムと呼ばれる毛沢東の思想について、非常にお粗末ながら解説させていただきました。この毛沢東思想ですが、よく勘違いされがちですが伝播した範囲というのは中国国内に限定されておらず、なんだかんだいって欧米でも研究者が出るなど世界的に大きく広がりを見せ、現在でも大まかな範囲で否定されつつも、共産主義と農民主義を合体させたことなど限定的な面で評価されています。
 ここで更に注意してもらいたいのは、この毛沢東思想は決して過去の遺物ではなく、現在もなお影響を持ち続けている思想であるということです。その影響が未だに続いている場所というのは他でもなく、東南アジアに位置するカンボジアです。

 注意してみている人だけかもしれませんが、よく海外政治ニュースなどでカンボジアの情勢が伝えられる際、「毛派」という言葉が出てきます。この毛派というのは文字通り、毛沢東主義を第一に掲げている政治集団のことを指しており、その勢力が大きく衰えたとはいえ現在もなお活動している団体です。もちろん、その活動は非合法なテロなどが多いのですが。

 話は毛沢東が生きていた時代、そしてベトナム戦争が行われていた時代です。当時のカンボジアはシアヌーク国王による王政国家だったのですが、国王が外国に出ている隙に親米派のロン・ノルがクーデターを起こして政権をとりました。当時はベトナム戦争真っ只中ということもあり、ロン・ノルは国内にいるベトナム人や共産主義勢力に弾圧を加えた(カンボジアとベトナムは国境を接している)のですが、それに対して反動が大きくなり、最終的にはポル・ポト率いる共産主義勢力であるクメール・ルージュがゲリラ戦を展開して内戦を起こし、逆にロン・ノルを国外へ追い出すことに成功しました。

 まぁなんていうか、ここで話が終わればそれなりによかったのですが、皮肉なことにこの結果が後にカンボジア、ひいては20世紀の一つの悲劇を生むことになります。
 この時政権を奪取したクメール・ルージュですが、これはフランス語で「カンボジアの真紅」という意味で、カンボジア共産党ともいう意味です。この時の指導者はフランスへの留学帰りが多く、それから名づけられた名前です。
 ついでに余談ですが、中国で私と相部屋であったルーマニア人はフランスのことを、「あそこは共産主義国だから」と評していました。まぁそれとなくそんな感じはするけど。

 それでこのクメール・ルージュですが、内戦時に主に支援を受けていたのは中国からでした。中国としては共産圏を広がることでこの地域への発言力を強めようという意図があったのだと思いますが、この時に中国に影響を受けたことからクメール・ルージュの掲げる思想というのは毛沢東思想に準拠したものになりました。そしてそんな集団がカンボジア首都、プノンペンを占領すると、早速その思想を実行に移します。

 出来れば先にリンクにあげた過去の記事を読み返してもらいたいのですが、毛沢東思想の最も代表的な特徴というのは、「知識人は搾取階級であり悪である」ということです。そのため、この思想を掲げるクメール・ルージュが真っ先に行ったのは知識人の一方的な殺戮でした。聞くところによると、英語をほんのすこし話すだけでも、仏教を修行していただけでも知識人とみなされ一方的に殺戮されたそうです。またそうでなくとも、途方もなく極端な政策が無理やり実行されて強制労働が各所で行われ、文字通り死ぬまで人を酷使した上で逃げ出そうものなら容赦なく射殺していったようです。

 そうして知識人を社会からはじくかわりに持ち上げられたのが、まだ年端もいかない子供たちでした。毛沢東思想の反復になりますが、まだ何の教育にも染まっていない子供たちこそ新たな時代が切り開けるという考えの下でクメール・ルージュは子供に銃を持たせ、政策への不満を漏らしていないかスパイ活動を行わせ、挙句に大人たちの処刑を行わせたのです。このあたりは中国の文化大革命時の紅衛兵を想像してもらえばいいでしょう。まぁさすがに毛沢東も紅衛兵に銃は持たせませんでしたが。

 その結果、このクメール・ルージュ政権時に虐殺された人数は200万人から300万人とも言われ、当時のカンボジア全体の人口の実に四分の一もの人間が殺害されたと言われています。これは一つの政権による虐殺としては過去最大で、あのナチスドイツのユダヤ人虐殺の人数をも越えます。
 にもかかわらず、こちらは日本でユダヤ人虐殺ほどあまり取り上げられません。その理由は恐らく、ユダヤ人には政治家や金持ちが多くいるために世界的に発言力が大きく、それに対してカンボジア人はそれほど発言力がないからと、同じ共産主義国といってもソ連の支援を受けていたベトナムに対する防波堤としてこのクメール・ルージュを中国同様に間接的にアメリカが支援したということが影響していると思います。

 最終的にこのクメール・ルージュは対立していたベトナムと戦争状態になり、実力に優れるベトナム軍にコテンパンにやられ国外から追放され、この虐殺の責任を追及されないことを条件にベトナムに従うという政府関係者によって新たに政権が作られることにより虐殺が終わりました。このことが後々に問題となってくるのですが、こちらはちょっと範囲外なので取り扱いません。

 このカンボジアの虐殺については「不思議館~ポル・ポトの大虐殺~」に非常に詳しく書かれているので、勝手ながらリンクを貼らせていただきます。このページでも冒頭に書かれていますが、この虐殺について詳しく知りたいのなら最もよいのは「キリング・フィールド」という、実話を基に作られた映画を見ることをお勧めします。これはアメリカ人記者とそのカンボジア人通訳の人の話で、作中後者の通訳の方が英語を使える事を悟られまいと必死で隠す姿と、その彼に対して12~3歳くらいの少年が無機質な顔で銃を向ける映像が印象に深く残っています。

 結論を言うと、文化大革命は中国だけでなくカンボジアでも行われたということです。そして両国ともおびただしい犠牲者を生み出し、毛沢東思想というのは事実的にも悲劇の歴史を複数も生んでしまったということです。思想という言葉について最近あまり私が本を買わなくなった佐藤優氏によると、「普段何気なく、当たり前だとみんなが思っていること」と言い、日本人が意識しなくとも仏壇で手を合わせるような事が思想だと説明していますが、この毛沢東思想の例を考えるにつけ、集団を方向付ける非常に大きな要素なのだと思うようになりました。よく教育議論などで思想思想とあれこれ議論になりますが、そんな簡単に扱っていいものか、そんなあいまいな議論でいいものかなどと、軽々しくそれを口にするものに対して強く不快に私は思います。

2008年10月2日木曜日

文化大革命とは~その十二、浅間山荘と紅衛兵~

 この連載の中の「その六、紅衛兵」の中で、紅衛兵たちが大人やかつての権力者たちに対して、「自分の思想、価値観が間違っていたことをここで認めろ」と、反省大会を繰り返して根拠なき暴力を繰り返していた話を私は紹介しました。見る人が見たら、「だから中国は……」と思うかもしれませんが、ちょうどこの時期、海を隔てた日本でも全く同じような光景が各所で行われていました。その最も代表的な例といえるのが、日本の浅間山荘事件です。

 もう私くらいの年代だとこの事件の詳細について知らない人間も数多くいると思うので、できればウィキペディアのページをみてもらいたいのですが私なりに簡単に説明します。
 この事件は山中にて、左翼過激派に属す若者たちが内ゲバの果てに仲間を集団でリンチして殺害し、その後に浅間山荘に逃げ込んで人質を取って篭城した事件です。この事件が当時に与えた衝撃というのは後者の篭城事件よりも前者の集団リンチの方で、もともとこの左翼過激派は日本を共産主義社会にするために来るべき暴力革命に備えて軍事訓練を行っていました。その訓練過程で、この事件を象徴する言葉となる「総括」が行われたのです。

 この「総括」、内容は文字通りこれまでの自分の人生を総括、反省を行ってこれまでの自分と決別することで革命戦士として自らを完成させることを言い、それを周りの援助を以って行うことを差します。この周りの援助、というか補助ですが、ここまで言ってればわかると思いますが罵倒と暴力です。
 この総括を指揮したのは実質的に森恒夫と永田洋子の二人で、二人はこの事件が起こる以前にあらかじめ自分たちは総括を終えて革命戦士として完成しているために、まだ完成していないものを指導する義務(権利)があるとして、一方的に総括対象者を選んでは私的なリンチを繰り返しました。

 今ウィキペディアで見ると、この総括については「山岳ベース事件」の項目の中で解説されていますが、総括の対象者に選ばれる人間の根拠というのは妬みとか、接吻といった不純な行為、また伝え聞くところでは女性が指輪をしていただけでも覚悟が足りないといって殺されています。

 少し長くなりましたがこの総括の内容が恐らく、共産主義者同士とはいえそれほど交流のなかったはずの中国で紅衛兵が行った行為と不思議なくらいに酷似しております。
 基本的なやり方は逆らえないように批判対象者を集団で囲み、その対象者に対して周りが一方的に批判します。紅衛兵なら「お前の報告書の出し方が毛首席の指導と違う」、総括なら「髪を伸ばして革命戦士としての心構えがない」などなど、何を言っても批判するネタになります。それに対して対象者は否定しようが肯定しようが、基本的に暴行されます。まず、「その通りだ、すまなかった」と言えば「反省が足りない!」と殴られ、「いや、そのつもりはなかった」と言えば、「まだわからないのか」と言われ蹴られます。

 両者に共通するのは、何をどうすれば自己批判、反省が達成されるかという基準がないということです。紅衛兵もなにが最も理想的な毛沢東主義者で、何が毛沢東主義に反しているかは毎回変わり、総括でも既に完成したという森と永田の二人の私的な感情が満たされるかどうかで、言ってしまえば批判対象者が何をどう言っても無駄だったと言うことです。
 暴行を加える側の理論からすると、自分たちは連中に真に反省を促すために愛の鞭を振るっている(恐らく、そういう気は一切なかっただろうが)という理屈を持っており、よくこの手の史料を見ていると「お前のためを思ってやっているんだぞ」という脅し文句が見受けられます。

 紅衛兵も総括も殴打による内臓破裂や失血によって批判対象者は次々と殺されましたが、一体何故交流のなかったこの二つの集団でこれほど酷似した暴行が行われたのか、個人的には興味が尽きません。まぁその答えというのは簡単で、単にこの暴力行為を行った集団が共産主義集団だったことに尽きます。

 共産主義の集団というのは基本的に教条主義で、既に理論は完成されているのだから余計な疑問、異論を持つな、持つ人間がいれば集団の統率が崩れるからそいつは叩き潰せ……という、比喩としては中世のキリスト教組織のような価値観を持っております。そのため組織は疑問を徹底して話し合う民主主義とは真逆の体制となり、異論派は徹底的に叩き潰されていきます。細かくまでは言いませんが、共産主義組織はこのように破綻した構造を持っており、スターリン時代のソ連や北朝鮮の例を持ち出すまでもなく権力の暴走を必然的に招きます。またその暴走は基本的に暴力を伴っており、人権というのは徹底的に無視されることが過去の歴史から言って確実です。

 この際だから徹底的に私から批判させてもらいますが、最近「蟹工船」ブームで共産党の入党者が若者の間で増えていると言いますが、今時の若者は本当に馬鹿揃いだと毎日せせら笑っています。何を期待して入るかまでは知りませんが、恐らく共産党は彼らの考えている組織から最も遠い組織、福祉や人権に対して一切無視する組織であることに間違いありません。今の委員長の志位和夫も、かつての委員長に対して反旗を翻そうとした東大内の下部組織の行動を防いだ事から出世して今の地位についていますし、組織として完璧にいかれています。

 敢えて厳しくも優しい言葉を共産党に変なの期待して入党した方に言うとすれば、この格差社会で大変だということも、誰かに何とかしてもらいたいという気持ちはよくわかります。しかし「誰か」に依存している限り、自分自身でこの社会をどうにかしようと行動しない限り、きっと何も変わらないと思います。共産党に入って世直しをしようと思うくらいなら、自分たちで集団を作ってデモなり意見交換なり行動するほうがずっと変革への近道です。私も三山木会で何かしようと思って、ずっと放っているけど。

2008年9月30日火曜日

文化大革命とは~その十一、現在の中国の評価~

 前回までで文化大革命の通史の解説は終わりです。今回からは文革の影響や周辺事項など抽象的な話を中心にまだしばらくやってこうと思います。まずやるのはほかならぬ当該者である中国の、現在の文革への評価です。

 結論から言って、現中国共産党および中国人はこの文化大革命を明らかな失敗、悲劇の時代だったと認めています。餃子に毒が入っていようが遊園地にドラえもんがいようが決して自分たちが悪いとは言わず、下手したらガチャピンの中に人は絶対入っていないとまで言い出しそうな頭の固い中国共産党にとって、こうはっきりと失敗を認めるというのはとてつもなく異例です。

 前回の記事でも最後の方に書きましたが、毛沢東の死後に華国鋒などはまだ失敗だったと認めようとはしませんでしたが、鄧小平ははっきりとこれを失敗と認めました。これは政治的な駆け引きでもあるのですが、鄧小平としては最低限の市場経済的要素を必ず中国にも導入せねばならないと考えており、そのためには国内、ひいては共産党のこれまでの価値観を変える必要がありました。
 そこで、最も共産党らしく平等主義が謳われた中で行われたこの文化大革命をはっきりと失敗、悪い政治の見本として置く事によって、この文化大革命と真逆の政策である、彼の言によると、「共産主義にも、市場経済があってもいいじゃないか。ないなら我々で新しく社会主義市場経済を作ろうじゃないか」と訴えることによって、自らの正当性を中国全土にアピールしました。

 この鄧小平の目論見は見事に当たり、恐らく文革の混乱に国民が疲れきっていたというのもあるでしょうが、中国全土で鄧小平への支持が集まるようになりました。
 とはいっても、鄧小平個人で見るなら学者たちの見方としてはやはり彼は生粋の共産主義者であったという声が非常に強いです。というのも鄧小平は急激な市場経済への傾倒は中国で大混乱を引き起こし、ひいては国を滅ぼすと考えており、市場経済を完璧に認める「経済特区」を当初は中央から遠く離れた、香港と接するシンセンから行い、あくまで限定的に徐々に徐々に市場経済へと移行してきました。そしてこの際一挙に市場経済の波に乗って政治も民主化すべきだと立ち上がった学生たちに対しては、第二次天安門事件で容赦なく叩き伏せ、鎮圧しています。これもいつか解説しないといけませんが、この事件の際に鄧小平は天安門に戦車を繰り出し、学生たちを情けなく踏み潰しています。これに対して「ワイルドスワン」の作者のユン・チアンは、あの地獄の時代を終わらせてくれた鄧小平がこんな残酷なことをするなんてとても信じられなかったと述べています。

 話は戻りますが中国のように広い国ではスローガンというか大きな政策目標くらいしか全国へ回らないために、こうした言葉が非常に政権維持にとって重要になってきます。第二回でも確か少し触れていますが、鄧小平は日本の小泉元首相のように文革=悪、市場経済=善と二項対立を国民に謳って、彼の政策を推し進めていきました。まぁ結果論から言えば、文革は明らかに悪でそれ以外だったらなんだって善になりそうなんだけどね。
 今の胡錦濤政権も基本的にこの路線を引き継いでおり、「市場主義は守っていくべき。でも共産党が政治を見ることも中国にとって大事」という風にやっています。私が最初に文化大革命を否定することで現在の共産党政権の存在意義が成り立っていると言ったのは、こういうことです。

 ついでに書くと中国研究家の高島俊夫氏などは著書にて、中世に長い間政権を保った明は建国者の朱元璋(農民出身で毛沢東は大好きだった)の後に帝位継承争いが起こり、見事勝利して即位した次の永楽帝は首都を南京から北京に移したり、政策も根本からすべて改めたことを例に取り、現在の中国も毛沢東が国を興して次の鄧小平がすべてひっくり返したから意外と長期政権となるのではと言っていますが、なかなか含蓄のある意見です。

 次にこの政府の見方に対し、中国国民は文革をどう見ているのかですが、基本的には政府と同じで悲劇の時代だったと総括しているようです。ただ少し気になる点として、私が以前に知り合った中国人の方が毛沢東についてこんな風に言っていました。

「彼は最後の方は腹心に騙されて変なこと(文化大革命)をしてしまったけど、やっぱり偉大な人物であることに間違いないわ。私の両親も今でも大好きよ」

 もしこれが対話だったら今の会話文のどこに気になる点があるか相手に答えさせて、それで相手の洞察力や知力を測るのですが、まぁここでやってもねぇ。友人からはもうこういう風に相手を値踏みするなと毎回怒られているのですが……。

 それで今の会話ですが、重要な部分というのは「最後の方は腹心に騙されて」のところです。これははっきりと断言はできないのですが、恐らく中国共産党としてはこの文革の責任を毛沢東に負わせずに、彼の周りの腹心、彼の妻である江青を含む「四人組」と呼ばれた人間が彼をそそのかして起こしたのだと国民に教えているのだと思います。つまり毛沢東自身は率先して文革を行わず、毛沢東の威を借りた狐である四人組が起こしたのだとして、毛沢東の権威を現在も保持、利用し続けているのではないかと私は思います。

 実際に地方などでは今でも毛沢東の支持者は非常に多く、彼らを取り込むために毛沢東の権威を守る必要があったのは想像に難くありません。前回でも言ったように鄧小平も「七割が功績、三割が失政」と言って、徹底的に毛沢東を否定することはありませんでした。
 しかし歴史的に見るのなら文化大革命はやはり毛沢東が明確な意図を持って推し進めた混乱で、その責任も毛沢東が最も大きいと私は断言できます。しかし現共産党幹部の苦労も知っているので、彼らがこのような姿勢をとるということにはしょうがないと強く理解できます。

 幸いというか、現在ではかつてほど毛沢東の強い神格化や崇拝の強制は行われなくなり、現代の中国の若者は文化大革命について知らない人間が増える一方、上の世代ほど毛沢東へ強い意識を持たなくなったと言われています。恐らく中国共産党としては、第二次天安門事件同様に早く全部忘れてもらいたいというのが本音だと思います。

2008年9月28日日曜日

文化大革命とは~その十、毛沢東の死と文革の終わり~

 いよいよ文化大革命の通史の大詰めです。この後は文革についてその後の影響や思想について書くので連載はまだ続きますが、ひとまず今回で大まかな話は終わります。

 さて前回では周恩来が死んだ時期について解説しましたが、よく周恩来と毛沢東はセットで語られることが多いのですが、彼ら二人が建国以後文字通り二人三脚で中国を背負っていたということはもちろん、こうして同じ年に死んだこともそのように語られている原因だと思います。

 1976年、周恩来の死から八ヵ月後についに毛沢東も病気で死亡します。その臨終の様については諸説入り乱れており、中には「日本の三木首相の選挙のことを心配していた」とかいうとんでもない話まであり、どれが本当かはまだ研究する時間を待たねばなりません。しかし約半世紀にわたって中国を引っ張り続けた彼の死はそれはもう大きな影響を後に残しました。

 毛沢東は死の間際、数年前から中央指導部に引っ張り側近に取り立てた華国鋒を次の後継者として指名していました。何故この華国鋒が毛沢東によって突然の抜擢を受けたかというと、それも今のところよくわかっていません。ただ中央指導部に抜擢されたのは派閥人事のなかでバランスを取るためだといわれており、事実この人はどうにもキャラが薄く、これというはっきりした政策案とか色を持っていなかったようです。

 それがために死後に混乱を恐れた毛沢東が、どこにも派閥に属していないという理由だけで華国鋒を取り上げたのかもしれませんが、毛沢東の死後、残った華国鋒はたまったもんじゃなかったと思います。というのも権謀術数渦巻く中央政界において何の後ろ盾も持たない自分だけが形だけの最高権力者として放り込まれ、案の定毛沢東の側近として文革を推し進めた「四人組」がより大きな権力を求め(四人組の中の一人である毛沢東の妻の江青は国家主席の地位をねらってたと言われている)、華国鋒の追放を画策し始めてきました。

 そんな状況下で、華国鋒には恐らく二つ選択肢があったと思います。一つは四人組に従い、国家主席の地位を投げ出すか、四人組に唯一対抗できる「猛虎」を自分の下へ引っ張り込むかという選択肢です。結果から言うと、彼は後者の選択肢を選び、第一次天安門事件にて再び追放された鄧小平を招聘するに至るのです。

 ちょっとややこしいことを先に書いちゃいましたが、時系列的には華国鋒は先に四人組を軍隊の幹部である葉剣英と組んで毛沢東の死から一ヵ月後に電撃的に逮捕、死刑宣告を行って一掃し、その後に鄧小平を中央指導部へ招聘しています。恐らく彼は鄧小平の力を借りながら自らの地位を守っていこうと考えたのだと思いますが、虎はやはり虎で、案の定自ら招聘した鄧小平によって失脚させられます。

 事の次第はこうです。四人組の逮捕後、恐らく鄧小平への牽制として華国鋒は自分の新たなスローガン、その名も「二つのすべて」を発表します。これは単純に言って、「毛沢東の言ったこと、やったことは何一つ間違いがない」という内容で、要するに毛沢東の目指した路線を守っていこうという政治信条で、これを発表することによって毛沢東の支持層を取り込もうと考えたのだと思います。しかしこれに対して毛沢東がいなくなって怖いものがなくなった鄧小平は猛然と真っ向から否定し、こう言いました。

「毛沢東の言ったことにも、中には間違いもある」

 華国鋒はあくまで毛沢東路線を引き継ごうとしたのに対し、鄧小平ははっきりと毛沢東の後年に行った文化大革命などの一連の政策は間違いだったと主張したのです。しかしここが鄧小平のうまいところで、彼はそれに加えて、「毛首席は確かに間違ったことをした。しかしそれでも功績七割、失政三割で、やはり彼は偉大な指導者であった」と毛沢東を全否定せずに文革のみを否定し、毛沢東の支持層を含めて民衆を大きく取り込んだのです。

 この論争は民衆の感覚をどう捉えていたかの両者の違いがはっきり出ています。華国鋒も鄧小平も文革の混乱をどうにかせねばと考えていたのは間違いありませんが、民衆がどれだけ毛沢東に傾倒しているか、文化大革命にどれだけ憎悪を燃やしているかを華国鋒よりも鄧小平の方がしっかりと計算できていたようです。「ワイルドスワン」のユン・チアンもこの鄧小平の打ち出した路線を知った時に、地獄に仏のように思ったとつづり、だからこそ後年の第二次天安門事件で虐殺を行ったとは信じられなかったと述べています。

 その後、華国鋒は鄧小平の批判を受けて次第に権力がなくなり、最終的に指導部からかなり早くに追い出されることになりました。しかし文革期のように集団リンチを受けたり強制労働をされるわけでもなく、一定の地位と収入をもらって余生を過ごしていたようです。その一つの証拠として、この華国鋒は87歳で、つい先月の八月二十日に天寿を全うして亡くなっています。

 実はこの連載を始めるきっかけというのが、この華国鋒の死でした。これによって文化大革命中の中心人物はほぼすべて世を去ったことになり、当事者たちがいなくなったことによって、これから恐らくこの時代についての様々な史料が公開されることだろうと思いますが、その前に中国の今の若者にとってもそうですが、隣国でこれほどの大事件が起きていたことを知らない日本の若者が多いということを改めて痛感し、私自身もまだ未熟な理解ではありますが中国を理解するうえで決して外せないだけに、何かしら役に立てないかと思って連載を書くことにしました。

 長くはなるだろうとは思っていましたが、十回を越えてまだなお書く記事があるというのは我ながら予想だにしませんでした。もっと簡潔に書くべきだったかもとは思いますが、第二回に既に概要は書いてあるので、むしろここまで細かく書いておいたほうがよいのかもしれません。今までのどの回も呆れるくらいに長い記事となっていますが、きちんと読んでいる方がおられれば、この場を借りて深くお礼を言わせてもらいます。ありがとうございました。

文化大革命とは~その九、周恩来の死~

 前回の林彪事件の記事は私自身あまり詳しくないのもあって、どうも後から読んでみるとやっぱり文章のリズムがよくありませんでした。まぁ今回の周恩来はいろいろあるからそんなことはないと思うけど。

 さてこの周恩来、日本からすると田中角栄との日中共同声明に調印した人物として有名ですが、何気に戦前には台湾の李登輝元大統領と同じように京都大学に留学に来ており、帰国の際に嵐山に立ちよって詩を詠んだ事から現地に記念碑ができており、京都にくる中国人の観光スポットとしてそこが有名になっています。
 実は中国人からすると、この周恩来は今でも非常に人気のある人物です。毛沢東に対しては畏敬の対象として恐れ多いもの、なんと言うか天皇に対する右翼の態度みたいなものですが、周恩来へは日本人の萩元欽一氏への態度みたいに誰からにでも好かれています。私の友人の中国人(♀)なんて日本人だと玉木宏、中国人だと周恩来が一番好きだといって豪語してやみません。

 その周恩来、数々の建国時の元勲までもが追放された文革期において一度として毛沢東から迫害を受けませんでした。周恩来は建国以後ずっと政務院総理(現在の国務院総理)という行政の長、日本で言う内閣総理大臣の職に位置しました。何故彼だけが毛沢東に目をつけられなかったかというと、この職位が関係しているといわれています。
 どういう意味かというと、毛沢東自身も恐らくは大躍進政策の失敗から行政政策を執り行う能力が自分にないということを自認していた節があります。なので、どうしても外すことのできないこの職に限っては専門家、つまり行政手腕に長けた人材を囲っておかねばならないという必要性から、周恩来を追放しなかったのだと言われています。

 では、同じように行政手腕に長けた劉少奇と鄧小平ではなく、何故周恩来だったのかというと、それは恐らく先の二人に比べて毛沢東の意のままに従う人物であったからだと私は思います。もともと毛沢東が抗日戦争の最中に党内部で権力を掌握するに至った遵義会議にてこれまでの幹部を裏切り毛沢東についたという経緯があり、また文革初期に至っても先の国家主席の劉少奇に対してスパイ容疑を出して、迫害に至る決定的な一打をぶつけています。その後も文革期は一貫として毛沢東の指示に従い続けました。

 しかし、こうした彼の行動については追放された鄧小平自身も理解を示しています。鄧小平に言わせると、あの時代は毛沢東に逆らえばどうしようもなかった時代で、敢えて毛沢東に従いながら文化大革命の被害を最低限に抑えようと実務面で周恩来は努力したのだと評価しています。実際に、あの文革期に国内の政務を一手に取り仕切っていたというのは実務家として大した手腕だと私も評価しており、取り仕切れるのが自分しかいないと自覚していたが故の行動だったのではないかと、好意的にみております。

 その周恩来ですが、とうとう1976年に死去することになります。ちょっと前に発売した「毛沢東秘録」という本によると、毛沢東は病気となった周恩来に対してわざと医者に診させないように手配して、暗に周恩来を死なせようと仕向けたと書かれています。それが本当かどうかはわかりませんが、この周恩来の死は当時の中国人も大いに悲しみ、その悲しみが第一次天安門事件につながることとなりました。

 日本人は「天安門事件」というと1989年に起きた民主化デモを中国政府が軍隊を使って押しつぶした「六四天安門事件」、私は「第二次天安門事件」と呼んでいますが、こっちの方しか思い浮かばないと思いますが、実は天安門事件は二つあって、一般に知られているほうが後で、最初のはこの周恩来の死の直後に起きています。

 その第一次天安門事件ですが、これは天安門広場前に民衆が死去した周恩来へ向けて花輪を捧げたところ、北京市当局によって即撤去されたことから起きた事件です。それ以前から文革を主導してきた毛沢東の腹心四人、通称「四人組」への批判が高まっており、周恩来の死によってますます彼らの専横が広がると考えた民衆らが花輪事件を契機に政府に対して四人組を批判するデモを大々的に行ったところ、これを危険視した政府によってその後の天安門事件同様に軍隊を使って強圧的に運動を押さえつけられました。

 その後、この事件の責任が問われ、林彪事件失脚後に復帰していた鄧小平がまたも失脚することになります。なお「ワイルドスワン」の作者のユン・チアンによると、毛沢東が劉少奇を殺して鄧小平は追放はしても殺しまではしなかったのは、最低限周恩来の代わりになる政治実務の担当者を用意しておく必要があったからだと分析しており、私もこの説に同意します。まぁ皮肉なことにいざ必要になったところでまた追放されちゃったんだけど。

 しかし、この鄧小平の追放は今度のは比較的短期に終わりました。何故かというとそれから八ヵ月後、彼を追放した張本人がいなくなったからです。もはや隠すまでもありません、文化大革命の主人公、毛沢東がこの世を去ったからです。

2008年9月27日土曜日

文化大革命とは~その八、林彪事件~

 前回までは文化大革命に翻弄される国民目線の解説でしたが、今回から指導者たちの権力争いについての解説になります。文革期の後半に至ると、なにもこの文化大革命のみならず建国時からの元勲たちが次々と世を去っていくことになりました。

 文化大革命初期に、これら元勲メンバーの中でいち早く毛沢東支持を表明したのが林彪でした。彼は抗日戦争の頃から活躍した将軍でしたが、年が他の元勲より若いということもあってこの時期には軍隊内で元帥とは言っても最高権力者にはなれずにいました。そんな時、毛沢東が文化大革命を引き起こし、それに乗ずる形で毛沢東に接近し、彼の威光を使うことによってライバルたちを次々と引きずりおろして軍隊内での地位を固めていきました。
 毛沢東が何故文化大革命を引き起こせたのか、その最大の要因となったのは軍隊、この林彪が毛沢東の行動を支持、協力したのが大きいといわれています。そのせいか毛沢東の林彪への信任は厚く、生前にははっきりと自分の後継者だと明言しております。

 そんな林彪が、文革末期の1971年に突然亡くなります。しかも、暗殺でです。事の起こりはこうです。この年のある日、中国とソ連の国境付近で飛行機が墜落しました。墜落現場をソ連の調査団が調べたところ、現場にある焼死体のうちの一つが林彪のものだと確認されたのです。
 この事件が発覚した際は各所で大きく事件が取り上げられました。何故毛沢東の後継者とまで呼ばれている林彪が墜落死したのか。しかも墜落したのが中ソの国境付近ということから林彪ががソ連への亡命を行おうとしていたことがわかります。

 この事件の最大の謎は、毛沢東の後継者として思われていた林彪が何故ソ連へと亡命を謀ったのかです。それについては諸説あり、まず一つが毛沢東の暗殺を謀ったためという説が今現在で最も強いです。毛沢東との関係は非常に深かったものの、猜疑心の強い毛沢東に次第に疑われこのままでは遅かれ早かれ他の幹部のように殺されると考えた林彪が、逆に相手を討ち取れとばかりに暗殺計画を練ったのが毛沢東にばれ、亡命を図ったもののその途中で毛沢東の追っ手によって飛行機が打ち落とされたというのがこの説です。また林彪自身は暗殺を計画しなかったまでも、息子の林立果が計画し、それが漏れたという説もあります。

 この説に対する対論として、暗殺を謀ったのが林彪ではなく毛沢東だったという説があります。なぜなら林彪は既に毛沢東の後継者として指名されてあるので、遅かれ早かれ何もしなければ最高権力者につけるはずなので、毛沢東の暗殺を謀るのは矛盾しているという説に立ち、一方的に猜疑心の強い毛沢東が林彪に対して暗殺を謀り、それから逃亡しようとしたところを結局打ち落とされてしまった、という説です。

 この事件については現状でもまだまだ明らかになっていない事実が多く、真相が明らかになるにはまだまだ時間がかかると思います。ただ一つ明らかなのは、この事件がきっかけで毛沢東はその後急速に方針を転換するに至っています。
 残っている記録によるとこの事件は毛沢東にとっても相当ショックだったようです。真偽はどうだかわかりませんが林彪機墜落の報を受けて毛沢東は、「逃げなければ殺さなかったものの」とつぶやいたという話があります。
 恐らく、毛沢東としては文化大革命の初期からの自分の支持者だった林彪の、少なくとも亡命にまで至る裏切りは相当堪えたようです。またこれまでの自分の採ってきた政策にも疑問を持ったのか、一度は自らの手で追放した実務派の鄧小平をわざわざ復権させて政務を取らせるようになっています。

 私の考えを述べさせてもらえば、その後の毛沢東の慌てぶりを見ると彼が率先して林彪を殺害しようとしたとは思いづらいです。とはいえ林彪を廃した後、毛沢東は急速にアメリカ、ひいては日本と急接近するなど外交路線でも大きな転換をしており、この事件が彼の政策を転換するに至る象徴的な事件であることは間違いありません。
 文化大革命全体を通しても、この事件が果たした役割は非常に大きいといわれております。しかしながら先ほどにも述べたようにこの事件にはまだまだ明らかになっていな事実が数多いため、具体的な分析に至れないのが現状というところでしょう。

2008年9月26日金曜日

文化大革命とは~その七、下放~

 前回、自分の権力奪還のために散々若者を煽り、あまりに運動に熱を帯びて毛沢東も危機感を感じ始めたところまで解説しました。聞くところによると田中角栄が日中共同声明のために北京に来た際、会見場には厳戒警備をしいていたそうらしいです。あれほど崇拝された毛沢東ですら、この時期にあまりにも熱を持ってしまった若者を自分の権勢だけで押さえつけられる自信はなく、散々若者に敵視させた日本の首相と会う際には慎重にならざるを得なかったそうです。
 そんな具合で紅衛兵に代表される若者が邪魔になってきた毛沢東は、ある政策でこの問題に片をつけようとしました。その政策というのも「上山下郷運動」、通称「下放」です。

 ある日、毛沢東はこんな声明を発表しました。
「若者は直に地方の農村で働き、農民の生活を直接学び革命に役立てるべきである」
 もともと毛沢東は自分の権力の基盤を常に農民においており、日本の安藤昌益のように「万人直耕」みたいなことを昔から言っていました。何もこの文革の前から農村で学び、考えることの重要性を訴えていたので政策自体は突然ぱっと出したものではないと私は思っています。

 しかし、この下放には明らかに別の意図がありました。この時代ごろから今の中国にとっても最大の懸案である人口問題が起こり出し、都市部の人口密度が桁外れなものにまで膨れ上がってきていました。こうした人口を外に分散させるとともに、手を焼かせる若者を一挙に片付ける一石二鳥の策としてこの下放が実行されたのです。若者も、毛沢東の言葉と新たな大地を自分が拓くのだという強い意欲とともに、この下放政策を受け入れ率先して地方へと下って行ったようです。

 さて農村で働くといって、日本の田園風景の中でのどかな生活を送る、みたいなのは想像してはいけません。日本でも最近になって問題化してきましたが、基本的に日本の農家は世界的にも裕福な方です。中国や韓国の農村は日本とは比べ物にならないほど貧困が激しく、以前の時代ならばなおさらのことです。なのでこの下放もイメージ的にはシベリア抑留みたいなものの方が近いと思います。都市部の近くの農村に行けた者は幸運だったらしく、大半は西南の密林地域や、東北の極寒地域に放り込まれていったそうです。

 資料に使っている「私の紅衛兵時代」の作者である陳凱歌は雲南省の密林地帯へと十六歳の頃に行き、そこで七年も過ごしたそうです。行った先にはもちろん電気などなく、鍬と鉈と毛沢東選集だけを現地の事務所で受け取り、掘っ立て小屋にて他の下放者と一緒に暮らし、毎日延々と密林の木を切り倒していたそうです。
 この本によると、下放者の中には過酷な労働で病気になる者も多く、作業中に木に潰されて亡くなった者も数多くおり、そして発狂する者までもいたそうです。
 下放されたのは何も男子だけでなく、たくさんの女子も同じように下放されています。資料ではある女子の発狂するに至る過程が描かれていますが、あまりの生々しさにここでは紹介することを遠慮させてもらいます。

 陳氏はこの下放を振り返り、何が一番印象的だったかというと木を切り倒したことだと述べています。結局、自分たちは大いなる自然に対して一方的に攻撃を加えていただけなのではと、成人後に現地へ赴いた際に強く思ったそうです。なにも木を切り倒すだけでなく焼き畑も数多く行い、あれだけあった密林もほとんどなくなってしまったことに強い後悔の念を抱いております。

 もう一つの資料の「ワイルドスワン」に至っては、この下放についてより生々しく描かれています。作者のユン・チアンも南方の密林地域に下放されたのですが、現地の農民とは言葉が全く違っていて何も会話することができず、これまで農作業など全くやってきていないのに突然農村へ放り込まれ、慣れない作業に体を何度も壊したり、病気になる過程が事細かに書かれています。
 その上でユン氏は、資本主義の国ではブルジョアとプロレタリアートの間で格差が広がり地獄のような世界が広がっていると教えられてきたが、果たしてそれは本当なのか。それよりも、この国の現状以上の地獄があるのだろうかなどと、これまで教えられてきたことや自分が紅衛兵として行ってきた事に対して疑問を持ち始めたと述べています。しかしそれでも、ユン氏も強調していますがそれまでの教育の成果というべきか、とうとうこの時代には毛沢東を疑うことはなかったそうです。

 前回の記事で、この下放こそが文化大革命の最大の悲劇と私は評しましたが、実はこの下放問題は現在進行で未だに続いている問題なのです。どういうことかというと、この後に文革は終了するのですが、下放された若者たちは下放された時点で都市戸籍から農村戸籍へと変更されてしまい、故郷へ帰ろうと思っても帰ることができなかくなった者が続出したのです。

 ちょっと簡単に説明すると、中国では「都市戸籍」と「農村戸籍」と分けられ、都市の人口をむやみに増やさないためにも農村戸籍の人間は都市に引っ越すことができないようになっています。つまり先ほどの下放された若者らは、事実上この時期に都市から追い出されて二度と故郷に住むことができなくなったのです(短期滞在は可能)。

 先ほどの両氏によると、無事故郷に戻ることができた人間は非常に幸運だったそうです。下放された者の中には現地で死亡した者も多く、また下放者同士で子供を作ってしまった者はそれがネックになって帰郷が許されなかったり、それがために子供を現地に置いて帰郷するものもいたりなどと。
 現在でも、この時期に下放された人の多くが地方に取り残されたままでいるそうです。
 陳氏などは軍隊に入ることで帰郷が叶ったそうですが、彼の友人などは東北部で凍死したなどと書かれています。それがため、この時代に若者だった中国人の大半は世にも凄惨な歴史に翻弄されて今に至ります。

 これほど多くの被害者が出た文化大革命ですが、その後半には急転直下とも言える政治事件が続発し、大きく情勢が動くことになります。今までの解説は国民目線のが多かったのですが、次回からは政治の中枢にいた、いわゆる文革の役者たちの解説になります。そういうわけで次回は、二十世紀中国史最大の謎と言われる、「林彪事件」を解説します。

2008年9月24日水曜日

文化大革命とは~その六、紅衛兵~

 いよいよくるところまで来ちゃったかなというのが正直な感想です。当初は軽い気持ちで書いていましたけど、改めて資料などを読み返すと、この時代の中国の激動さについて日本人はしっかりと見つめなおすべきだと思うようになり、書く方も気合が入って来ました。

 さて前回では毛沢東思想について軽く解説しましたが、二つ前の本解説では毛沢東が若者を煽動して自身の権力奪還に利用したところまで説明しました。その際に毛沢東は、共産党内部に修正主義に走った裏切り者がいると発言し、中国全土でまだ何の悪い教育に染まっていない末端の人間らに下克上を促しました。
 その中で最も狂信的に毛沢東を支持したのが、今回のお題となっている「紅衛兵」でした。これは都市部の中学校かから大学に至るまでの各学校ごとに、少年少女らが自発的に組織した団体のことを指します。

 彼らは「孤立無援の毛首席を救え」とばかりに、片っ端からこれという大人を攻撃し始めました。具体的にどんな風に攻撃するかというと、文字通り殴る蹴るのリンチです。いちおう名目は自分の間違いを改めさせることですから「反省大会」と称し、攻撃対象を大衆の前まで無理やり引っ張ってきて、額から血が出るまで地面に頭をこすり付けたりさせることもざらだったようです。
 何故こんなことが十代の少年少女らにできたかというと、まずは最初にも言っているように毛沢東のお墨付きがあったことと、本来このような混乱から治安を守るべき軍隊が逆にこの動きを後押ししたからです。

 何故軍がこれら紅衛兵の活動を後押ししたかというと、この時に一挙に軍隊内で地位を向上させた林彪の存在が原因でした。彼は文革当初は軍隊内でも中途半端な位置にいたのですが、いち早く毛沢東への支持を表明することによって軍隊内のライバルを裏切り者だと密告することによって根こそぎ追放し、最終的には最高位の元帥にまで昇進しています。林彪自身が毛沢東の強烈な支持者で毛沢東の権勢を利用して下克上を実行したのもあり、軍隊は紅衛兵の活動を逆に応援するようになったのです。

 こうして、無茶なことやら法律を守っても軍や警察がなにもしないとわかるや紅衛兵はますますその行動をエスカレートしていきました。彼ら紅衛兵は具体的にどんな大人を対象に攻撃していたかですが、単純に言って明確な基準は一切ありませんでした。言ってしまえば、「あいつは反革命的なことを言っていた」とか、毛沢東選集の中に入っている毛沢東の言葉と何かしら矛盾した発言(行動)をあげつらうか、それでも見つからないなら適当なレッテルを貼り付ければいいだけです。後は反撃できないように集団で取り囲むだけで舞台は整います。ようは気に入らない人間がいれば、好きなだけ集団で攻撃できたということです。

 私が今回資料としている陳凱歌氏の「私の紅衛兵時代」によると、彼のいた中学校でも紅衛兵が組織され、真っ先にターゲットにされたのは嫌われていた担任の教師だったそうです。その学校の中学生たちは教師を無理やり教室の一番前に立たせると、
「貴様は毛首席の指導と別の指導を生徒に行っていただろ!」
「この場で俺たちに謝れ!」
「思想を洗い直し、真っ当な人間へなるのを俺たちが手伝ってやる!」
 といったように、激しい言葉で糾弾されたと書かれています。前回の記事でも書きましたが、毛沢東は若者らを煽動する際に、「知識のある人間は間違った教育に毒されている。何も教育を受けていない君たち若者らが思うことこそが正しいのだ」と吹き込んでいるので、一見無茶苦茶とも思えるこれらの発言が出てくるのです。

 それにしても、なんていうか少々不謹慎ですが、もし私がこの場にいたらどれだけ気持ちがいいのだろうかと考えずにはおれません。私も、一人や二人はこれくらいの年齢の頃には嫌いな教師が学校にいました。そうした人間に反論を許さず一方的になじり、ののしり、吊るし上げられるのであれば、見境がない反抗期だった頃の自分だったら嬉々としてやったと思います。恐らく紅衛兵たちも、同じような感情だったのではないかと思います。先ほどの毛沢東の言葉である、「大人は間違っている、君たちこそ正しいのだ」というようなことを反抗期の中学生なんかに聞かせたら、尾崎豊じゃないけどそりゃあ崇拝するようにもなると思います。

 この吊るし上げは徐々にエスカレートしていき、先ほども言ったように取り締まる人間がいないために法律は事実上機能しなくなり、証拠もなくともレッテルを貼る、つまり密告さえすれば誰でも集団で攻撃することができるので、当初からそうでしたが次第に本来の目的とはかけ離れた感情の捌け口だけのものへと固定されていきました。
 もう一つの資料の「ワイルドスワン」の作者のユン・チアン氏の作者の父も、共産党の地方幹部であったために紅衛兵らから激しく攻撃されたと書かれています。この時代は何度も書いているように下克上が学校から職場、果てには共産党や軍隊内部でも奨励され、基本的に階級の高い人間ほど密告の対象になりやすく、一方的に攻撃を受けました。それは建国の元勲からほんの少し前までの最高権力者でも変わりがなく、抗日戦争から国民党との戦争にて共産党を勝利に導いた彭徳壊、と毛沢東の後に国家主席となっていた劉少奇の二人は、紅衛兵から激しい身体麻痺に至るまで暴行を受け、医者にもかからせてもらえず粗悪な部屋で死に絶えています。二人とも毛沢東にひどく嫌われていたのが原因です。

 この一連の吊るし上げは、恐らく言語に絶するまでに激しかったというべきでしょう。延々と自分の子供くらいの十代の若者に殴られ、「謝れ!」とか「自分がろくでなしであることを認めろ!」などと言われ続け、自分が間違っていたと言葉に出しても暴行され続けるのですから、考えるだに絶望する気持ちがします。リンチで死んだとしても、殺人として扱われないのですからやりたい放題だったのでしょう。
 またこの時代の知識人はその属性ゆえに粛清対象に選ばれやすく、一流の学者でありながら自殺した人間も数多くいました。有名な作家の老舎もその一人です。

 これは全体の解説が一段落ついた後で独立して解説しますが、これら紅衛兵の一連の行動は日本で言うとあの「浅間山荘事件」に酷似しています。何故酷似したのかというと、それは言うまでもなく密告合戦の上にリンチになるのが共産党のお家芸だからです。ですからこの後に起こる紅衛兵となった若者らの運命も、「浅間山荘事件」と同じ末路となったことに私は疑問を感じません。その末路というのも、いわゆる内ゲバです。

 またまた「私の紅衛兵時代」の記述を引用しますが、紅衛兵をやっていた陳凱歌氏も、同じ学校の生徒に密告されたためにある日突然多勢の紅衛兵に自宅に押しかけられ、昨日まで仲のよかった同級生らに反革命的だという理由の下に片っ端から家の中の本を焼かれ、家具なども滅茶苦茶に壊されたと書いています。陳氏はそうやって密告しあったり、仲の良かった同士で暴行しあった行動に何故自分も加担したのかというと、加担しなければ自分が仲間はずれに遭うという脅迫感があったからだと述べています。いうなればいじめと一緒で、一緒にやらなければ自分が攻撃の対象に遭うというのが、こんな密告社会を生んだ理由だと私は考えています。

 こうして片っ端から年齢を問わずに中国では攻撃し合い、知人を含めて全員無事でいるものなど誰もいないほどに中国人は互いに傷つけ合いました。大人に至っては思想改造をするために家族を置いて僻地の労働作業場へと無理やり送られ、死ぬ間際になるまで酷使されるかそのまま衰弱死に追い込まれる者が多く、ユン・チアン氏の父親も陳氏の父親も、ボロボロの状態になって帰ってきて、前者はそのまま息絶えることとなりました。

 しかし、こうした混乱をよしとしない者が現れました。何を隠そう、この混乱によって自らの権力を奪回した毛沢東でした。
 若者から絶対的な崇拝を受けていた毛沢東でしたが、これら暴力的な若者たちがいつ自分へと牙を剥くか、またその際に攻撃を防ぎきることができるかと次第に不安に感じたようで、途中からは逆に紅衛兵の解散を自ら説得するように活動し始めました。実際に派閥抗争といった内ゲバが激しくなり、この時の北京は事実上無政府状態と言っていい状態だったので、毛沢東が不安に感じた気持ちも良くわかります。

 そうして、最終的に毛沢東はある名案を思いつくに至ったのです。こうした若者を思想改造の名の下に農村へ追い出すという、文化大革命の中で最大の悲劇となる「上山下郷運動」、通称「下放」を推し進めるに至るのです。続きは次回にて。

2008年9月22日月曜日

文化大革命とは~その五、毛沢東思想~

 今回は本筋の話から少し外れて毛沢東思想、通称マオイズムについて解説しようと思います。本当はこの辺りの解説は最後まで連載を終わらせてから追記のような形で書こうと思っていたのですが、これから本格的に文化大革命の経過について解説するにはやはり最初に説明していたほうがよいだろうと判断し、こうして書くことを決めました。

 最初に言っておきますが、私はこの毛沢東思想については専門的に勉強したことはありません。毛沢東語録も読んだことはありませんし、何かしら取り上げる授業すら受けたこともありません。いいわけじみたことを言いますが、恐らく日本で毛沢東思想の教育なんてする場所なんてまずありませんし、解説する人も少ないと思います。そんなのしてたら変な人みたいに思われるし。
 なので、今回書く話は正当な解釈ではなくあくまで私の解釈と前提してください。私が聞く限り、理解する限りの毛沢東思想なので、くれぐれも他人にこの情報を分ける場合は最初に今の注意を行ってから伝えてください。それなら最初からいい加減なことを書かなければいいじゃないかという人もおられるかもしれませんが、自分の理解を確かめる、まとめるという意味で本音では書いてみたいというのが素直な気持ちなので、どうかご勘弁ください。

 さてそれでは早速本解説に移りますが、まず基本的に毛沢東は反骨の士でした。これはどの評論家からも、この文革の時代を生きた人間の目にも共通した認識です。とにかく何かあったら何でもいいから反抗したい、まるで反抗期の中学生がそのまま大人になったような人間でした。

 特に彼が生涯強く反抗し続けた代表的な対象というのが、知識人でした。これは彼の学歴コンプレックスが影響しているといわれており、なんか今詳しく確認できないのですが、毛沢東は若い頃に北京にて滞在した際にどうもどっかの大学(確か北京大学)の入学試験の面接に受からなかったそうなのです。かといって全く勉強ができなかったというわけではなく、読書量や詩の創作技術では歴代中国君主の中でもトップクラスと、「中国の大盗賊」という本の著者で中国研究家の高島俊夫氏は評しております。
 できたばかりの中国共産党に入党した後も、当初の指導部はソ連からの留学帰国組によって幹部席が占められたのを恨めしく思ってたらしく、抗日戦争の最中に自分が主導権を握ってくると、最終的に周恩来を除いて留学組をほぼすべて指導部から追い出しております。ちなみに周恩来は言い方は悪いですが、毎回絶妙のところで味方を裏切り毛沢東に従っております。だから長生きしたんだけどね。

 このように、毛沢東は徹底的に知識人を否定し、それが毛沢東思想の大綱となっている「実事求是」につながっています。この実事求是というのは、「現実から理論を作れ」という意味で、机上で理論を組み立てても現実には適用できない理論が出来上がるので、それよりも実際に自ら農場や工場で働いて物事の実感を積んで正しい理論を作るべきだという主張で、大学等にいる知識人は手を動かさないで労働者をこき使っているから悪だと、文革時に効力を発揮した大綱です。

 私の解釈だと、毛沢東は個人的な感情で知識人の締め出しを行ったのでしょうが、この主張を正当化した言い訳というのはいくつかあり、まず一つは先ほども言ったとおりに手を動かさずに頭だけ働かすというのは現実から乖離した理論を作ってしまい誤りを犯すというもので、もう一つがこの次に説明する永久革命の必要性からだと考えています。

 この「永久革命」という考え方が、ある意味毛沢東思想の最も危険な箇所です。毛沢東は生前にも前漢の劉邦や明の朱元璋といった、一農民という出身から才気一つで中国を支配した君主を誉めそやしており、世の中というのは常に古い既成概念に対して新しい改革的思想が打ち破ることによって徐々によくなるというようなことを主張していました。この概念を応用し毛沢東は、知識人というのは基本的に既成概念を守る保守主義者であって、新たな時代を作るのはかえって古い既成概念に染まっていない無学の意欲ある徒、つまり農民であると説明したのです。なので、劉邦や朱元璋が天下を取ったのは自明であるとまで説いたのです。

 この考え方を毛沢東はさらにさらに援用し、共産主義思想では労働者VS資本家という二項対立の構図で物をすべて考えますが、これを農民VS知識人にすげ替え、労働者が資本家を打ち倒すことで理想の共産社会(ユートピア)が達成されるという理論を先ほどの劉邦、朱元璋の例を持ち出してやはり正しいのだと証明された……的なことを言っているのだと私は思います。正直、この辺は書いてて結構きわどいのですけど。

 なので、世の中というのはザリガニの脱皮みたく農民(労働者)による革命を繰り返すごとにどんどんよくなるという、「永久革命」を維持することが社会の発展につながると主張したのです。通常の共産主義思想でも確かに「労働者による社会主義革命」の必要性が強く叫ばれていますが、基本的に革命が成功した後はもうそれで万々歳、後は他の国へも革命を支援せよ言っているくらいで、「革命で作ったものをまた新たな革命でぶっ潰せ!」みたいなこの毛沢東思想ほど過激ではありません。

 こうして自分で書いててなんですけど、一見、筋は通っているように見えないこともありません。とまぁこんな具合に毛沢東は教育をあまり受けていない農民や中高生のやろうとしていること、考えていることの方が下手な知識人、果てには既に教育を受けてしまった大人より正しいのだと後押ししたのです。その結果が、次に詳しく説明する紅衛兵などの悲劇歴史を生んでしまうのです。ちなみにこういった考えは、今のフランスの教育制度における積極的自由論にもなんだか近い気がします。シュルレアリスムとでも言うべきか。

 ここで終わるとまるで毛沢東思想の礼賛者っぽくみられそうなので最後にケチをいくつかつけておきますが、私に言わせると毛沢東の思想の最大の欠陥は劉邦と朱元璋を過大に見たという点にあると思います。朱元璋はあまり詳しくありませんが、劉邦の場合は確かに彼自身は特に教育を受けたわけじゃなく無学でありましたが、彼の傍には軍師の張良や策士家と呼ばれた陳平、そして国士無双と謳われた韓信が控えておりました。また三国時代の劉備もまた農民出身ではありましたが、諸葛亮や法正といった知識人を保護し、活用しております。このように、知識人というのは確かにそれだけだと古今東西の官僚制度のように腐敗する恐れもありますが、全くいないというのもまた問題なのです。この知識人の軽視がこの思想の欠陥、ひいては文化大革命やカンボジアのポルポト派による虐殺という悲劇を引き起こしてしまったのだと、私は解釈しております。

 さて、次回からいよいよ文革の本番だ(*゚∀゚)=3

2008年9月20日土曜日

文化大革命とは~その四、始まり~

 前回では毛沢東が一時政治的に失脚するところまで解説しました。失脚後、毛沢東は南方で趣味の釣りにいそしんでいると言われ、毛沢東のかわりに実権を握った劉少奇と鄧小平が実質的に中国の指導者となりました。彼らちゃんとやり方のわかっている指導者の行政手腕により、大飢饉によって混乱した中国経済は徐々にではありますが立て直されていきました。

 しかしそうして経済が立て直っていく一方、ある言論がまことしやかに全土で語られるようになってきました。その言論というのも、「今の共産党指導部は修正主義者たちに乗っ取られている」という、今見ても不穏当な言論でした。
 この時期、ソ連はスターリンからフルシチョフの時代を経て、中国との蜜月関係も終わりを告げていました。中国共産党はこのフルシチョフによるソ連の第一次デタント(雪解け)といわれる、西側国家との協調路線を打ち出す外交政策を共産主義の精神を根幹から覆す愚挙だとして「走資派」や「修正主義者」と呼んで激しく非難しました。

 恐らく当時の考え方としては、共産主義国家の建設は非常に困難が伴うものであるため、この困難から抜け出すためとか、自分だけいい思いをしようと安易に資本主義に走る卑怯な輩がいるという具合で憎悪をたぎらせたのだと思います。この「修正主義者」という言葉が、1960年代の中国の流行語であったのは間違いないでしょう。

 当時、中国に流布したのはこうしたソ連の輩のような裏切り者が中国共産党内部、それもかなりの上位階級に潜りこんでいるという言質でした。彼ら修正主義者は謀略をめぐらし、偉大なる指導者である毛沢東を追放したのだ、と毛沢東の政治失脚は彼らに原因があるというような言葉が共産党の機関紙である「人民日報」などのメディアで激しく展開されていきました。
 もちろん劉少奇を初めとする指導部はそんなはずはないと否定しつつ、このようなデマがどこから出ているのかなどと調べたそうですが、一向に確たる根源が見つからずにいました。元ネタを一気に明らかにすると、このような言論を広めたのは毛沢東の指示で動いていた彼の腹心たちで、後に四人組と呼ばれる幹部たちでした。皮肉なことに、内からの敵に当時の指導部は気づかなかったのです。

 こうした言論を一番真に受けたのは当時の大学生たちでした。北京大学では壁新聞が張られて公然と指導部が批判され、精華大学では孤立無援の毛沢東閣下を救えとばかりに、後に中国全土で猛威を奮い、この文化大革命の代名詞となる「紅衛兵」という、青年たちによる私兵団が全国で初めて組織されました。
 
 こうした中、これは出所が明らかでなくちょっと確証に欠けるどこかで聞いた話ですが、何でも劉少奇らが北京にてこうした動きに対し、自分たちは決して修正主義者ではないということを説明する一般人を交えた会合を開いて弁舌をしている最中に、なんとその場に南方にいるはずの毛沢東が予告なしで突然現れたそうです。このような演出はこれだけでなく、これは陳凱歌の「私の紅衛兵時代」で書かれていますが、北京四中での会合の際も、毛沢東は劉少奇が弁舌を終えていないにもかかわらず突然壇上に出てきたそうです。そうなってしまうと観衆は大喝采してしまいますので、まだ弁舌を終えていない劉少奇はどうすることもなく、かといってそそくさと壇から降りるわけにも行かなくなり、このように毛沢東は相手を追いつめる演出が非常にうまかったと陳凱歌は評しています。

 そのうち毛沢東も公然と、「共産党の指導部内に裏切り者がいる」と主張するようになり、先ほどの紅衛兵という少年少女らで組織される私兵団も毛沢東の応援を受けて各学校ごとに作られて増加の一途を辿り、自体は徐々に深刻化していきました。

 今回はちょっと短いですが、ここで終わりです。なぜなら書いててそろそろ、毛沢東思想の解説を始めないとまずいなと思い始めたからです。私なども全然毛沢東思想を勉強していませんが、多少なりともこの思想の骨組みがなければこの文化大革命はただの騒動で終わってしまうので、次の回ではつたないながらも毛沢東思想をやります。せっかく話が盛り上がってきたところなんだけど。

2008年9月18日木曜日

文化大革命とは~その三、革命前夜~

 文化大革命についての三回目の連載です。そろそろ書いててしんどくなってくるところです。
 さて今回は文化大革命が起こる前の、中国が置かれていた状況について解説します。

 まず第二次大戦後、現中国を支配している中国共産党と現在台湾を支配している国民党との間で戦闘が始まりました。当初は双方共同で国を治めようという話もあったのですが、もともと戦闘しあっていた者同士で、目下の敵の日本軍がいなくなるやすぐさま内戦を始めました。因みに、その際の戦闘に使われた兵器の大半は日本軍が置いていった兵器だったようです。北京にある軍事博物館によると、中国で初の戦車は日本軍からの分捕り品だったくらいですし。

 そうして戦い合う中、恐らく組織戦としては相当早い段階でゲリラ戦を確立した共産党の人民解放軍が徐々に勝利していき、最終的に国民党を台湾へ追い出して1949年に現在の中華人民共和国が成立します。戦争に勝利後、文化大革命の主役である毛沢東は天安門広場にて「中華人民共和国、成立了!」と宣言して、この時を持って正式にこの国は建国されたとされます。 
 もっとも建国直後に朝鮮戦争が勃発し、当初はソ連一辺倒ではなくアメリカとも交流を続けようと考えていた指導部は悩んだ末に北朝鮮に味方してアメリカと袂を分かつ羽目になるなど、いろいろと困難もありましたが、当初は共産党内部の高い士気とともにそこそこうまくやっていきました。この歯車がおかしくなり始めるのは1950年代の後半からです。

 この時期から中国はソ連の「五ヵ年計画」を真似た、あの悪名高き「大躍進政策」を行い始めます。これはその名の通り、数年の期間内に農業や工業の分野で一気に先進国に追いつくという国家政策のことです。ソ連の五ヵ年計画も内実は結構ひどかったらしいですが、一応は工業面で大幅な前進が見られて二次大戦でドイツと戦うだけの土台ができたのに対して、中国のこの大躍進政策は破壊と荒廃しかもたらしませんでした。
 ソ連では「コルホーズ」といって、農民を一箇所に集めて強制的に作業をさせる集団農場を作りましたが、それに対して中国では「人民公社」といって、事実上個人の自由を奪う集団体制へと国を整えていきました。

 この大躍進政策の中で工業政策では鉄鋼の生産量でイギリスを追い抜くという目標があったのですが、各地域の責任者には目標生産高の達成が義務付けられたため、実際には鉄を作ろうにも鉄鉱石が不足するもんだから、片っ端からまだ使える鉄製の農具などを溶かして粗鋼を作っていき、確かにイギリスの鉄鋼生産量を追い抜いたものの、その作られた鉄のほとんどは役に立たないくず鉄ばかりだったそうです。更に鉄の精製技術も低いものだから延々と土方高炉という、原始的な精製方法でその燃料として木材を燃やし続けたため、今に至る中国の水不足、環境破壊という問題を作る羽目となりました。

 農業政策でも、なんと言うか今の北朝鮮のように明らかに農業について知識がないにもかかわらず、素人の浅知恵のような政策が強行されてしまった例があります。最も有名なのは雀の駆除で、雀は稲穂をついばむから害鳥だといって毛沢東の指示の元、中国全土で一大雀駆除キャンペーンがこの時期に行われました。これなんか私も中国の博物館で見たことがあるのですが、雀を驚かしたり追い詰めたりするわけのわからない器具が全国に配られ、結果的に雀の大幅な駆除に成功するのですが、その代わりに雀が食べていた害虫が異常繁殖してしまい、収穫期になるとすべての作物が大不作になるという事態を引き起こしてしまいました。

 一説によると、この時の大飢饉で数千万の人間が餓死したと言われています。昔読んだ記事によると、誰だか名前を忘れましたが、確か李鵬だったけな、子供の頃は夢の中で満腹になるまでものを食べては目を覚ますという事がこの時期何度もあったと言ってました。
 「ワイルドスワン」の作者によると、当時の人間でもこの大飢饉が天災によるものではなく、明らかに人災によるものだとわかっていたそうです。それでも共産党政権の転覆、そこまでいかなくとも民衆の反乱が起こらなかったのは先ほどの作者によると、この飢饉の時期には共産党員も一般民衆同様に飢えていたからだと分析しています。

 なんでも、国民党がブイブイ言わせていた時代は飢饉だろうと何だろうと、国民党の人間は毎日大量のご馳走を食べて贅沢な暮らしをしていたそうです。それに対してこの時期の共産党は先ほども言ったとおりに士気は高かったらしく、横領や独占が非常に少なかったそうです。もしかしたらそんなことをするほどの食料すらなかったのかもしれませんが、今の共産党からするととても信じられない話ですがそうらしいです。

 このようにシャレにならないほどの政策の大失敗を犯してしまい、さすがの毛沢東もしょげていたそうです。自身の食事にも国民が飢えているのだからといって豚肉の量を減らしたそうですが、これは確かアメリカの記者の評論ですが、国民が飢える中で毛沢東は個人的なダイエットをしていたと、何の問題の解決になっていないことを指摘されていました。
 そして共産党の幹部も、この惨状に対して毛沢東を追及するに至りました。これは先ほどウィキペディアを見ていて私も始めて知ったのですが、後に実権派として名を馳せる劉少奇が、この時に毛沢東に対して、
「地方では人肉を食べて飢えをしのぐ者まで現れたことを記録に残せ」と詰め寄ったらしいです。

 こうして毛沢東は実権を追われることになり、その代わりに経済政策などに実績のある劉少奇と鄧小平が政権の中枢に立つことになりました。彼ら二人のコンビの活躍もあり、大飢饉の後は穏やかではありますが、比較的政治的にも社会的に安定した時期が過ぎていったのですが、それを毛沢東が快く思うわけありません。
 これは陳凱歌やその他大勢の人間が評していますが、毛沢東というのは生まれながらの反逆児で、常に何かに抵抗しなければ気がすまない性格だったそうです。歴史的に見ても、最初は両親、次に初期共産党内のリーダー、そして日本、国民党と抵抗相手を変えていき、最後には自らが関わった共産党を抵抗相手に選んだと見るべきでしょう。

 この時期、毛沢東は政界を引退して中国の南方で優雅な年金生活のようなものを表面上は送っていました。しかしその間、未だ中央に残る腹心を使って徐々に、それも目立たずに工作を続けていました。続きはまた次回に。

  追記
 本文中で「雀」と書いてある箇所をアップロード時は「燕」と間違えて書いてしまっており、コメントでの指摘を受けて修正してあります。なんで間違っちゃったんだろう……。

2008年9月16日火曜日

文化大革命とは~その二、概略~

 のびのびになっていましたが、連載二回目です。

 早速文化大革命についてあれこれ書いていこうと思いますが、前回の記事でも書いたように、この文化大革命は本当に複雑な事件なのです。私も今こうしてウィキペディアの記事を読み返していますが、何度も読んだはずなのになんかいまいちピンとこれずにいます。
 そこで今回は最初の方ということもあり、文化大革命の概略とその流れについて書いてみようと思います。今後の連載でも恐らく読んでいる方は何度もわけがわからなくなると思いますが、そのたびにこの記事を読み返してくれればというつもりで書きます。

 まずこの文化大革命は誰によって起こされたのかというと、それは間違いなく毛沢東です。こんなことを言うと中国では捕まるんじゃないか、という思われる方も多いでしょうが、今じゃちょっとわからなくなりましたがちょっと前だったらニュアンス的には間違っていないんじゃないというように、中国人にもちゃんと受け取ってもらえたと思います。ここで書いておきますが、日本の方は中国人を必ずしも侮らないように。きちんと彼らも隠し様のない事実くらいは理解しております。

 日本の歴史教育だと毛沢東は中華人民共和国が成立して以降、一貫して権力者であったかのように誤解されがちなのですが、実際には彼は一度失脚しています。何故失脚したかというと、農業政策や社会政策などで明らかな失政を犯してしまい、一度鄧小平といった経済政策などに明るい政治家らに引退を迫られ、一旦は政権の中枢から降りています。しかし彼自身は未だ引退する気はさらさらなく、表面上は穏やかに政権の座を譲ったかのように見えましたが、その後自らは隠遁したふりを見せ、未だ政権に残っている自らの腹心を使い徐々に世論を誘導して、「鄧小平らは毛沢東を騙して政権から追い出した」、というような世論を作っていきました。

 以前に大学の授業にて中国政治の先生がこの文化大革命のことを、毛沢東が権力を奪回させるために敢えて社会を混乱させたところ、終いには自分にも手がつけられなくなったと評しましたが、まさに的確な表現でしょう。毛沢東は民衆、特に精神的に純粋な十代の少年少女らを使い、自らを神格化させることによって見事鄧小平を追放し、政権の奪回に成功します。しかし少年少女らを扇動する際に毛沢東は、

「お前たちが正しい。しかし大人は間違っているから、お前たちが修正してやらなければならない」

 といったような言葉で動員し、この言葉を真に受けた若者たちは一切権威を信じず、自ららが組織した団体の決定を強引に推し進め、更には本来それを取り締まる警察や軍隊は毛沢東らの中央政府の命令によって鎮圧ができずに静観するだけという、悪循環な環境を生んでいくことになります。
 この時代について私に中国語を教えてくれた中国人教師の方などは、当時は軍隊が全く機能しておらず、子供だった先生は勝手に基地の中に忍び込んでは手榴弾を取ってきて投げて遊んでいたというくらいですから、その混乱振りがうかがえます。
 このように、ごくごく一般の社会機能がほぼすべて失われ、当時の中国はさながら無政府状態のように、殺人があっても誰も気に留めず、また好き勝手に泥棒や強奪が頻発したらしいです。

 毛沢東も途中からはこうした暴徒と化した若者を押さえにかかり、あの悪名高き農村への下放を推し進めていくのですが、それでも彼の存命中はこの混乱が収まることはありませんでした。
 しかし毛沢東が死んで鄧小平が復権すると、やはり中国の民衆は当時の状態が間違っているということはきちんとわかっていたのか、鄧小平の指示の元に一気に体勢を立て直していくに至りました。

 一説によると、この文化大革命の死者は1000万人を越し、生きていても社会的に大きな打撃を受けた者となると当時の中国人の半数以上とまで言われています。私の日本人の中国語の恩師は60歳を少し過ぎた年齢ですが、先生によると、中国には先生と同じ年代の学者はいないそうです。文化大革命中、少しでも学識のある人間は「知識分子」と呼ばれ、激しい批判や暴力を受けて社会的にほぼすべてが抹殺されたと言われ、ちょうどこの年代に当たる知識人層が何十年も立った今でもすっぽりと抜けているということを知った時、寒気にも似た気持ちを覚えました。

2008年9月14日日曜日

文化大革命とは~その一~

 私が中国に留学中、授業時間が余ったのである程度中国での生活を過ごしてきた私たち外国人学生に対して、中国人の先生がある日、「あなたたちから見て、中国人はどんな風に映る?」と尋ねてきました。すると一人の学生が「行列に並ばない」、とお決まりのセリフを言いました。それに対し、他の数人の学生もうんうんと無言でうなずきました。
 先生も苦笑しながらその通りねと言いながら続けて、「何で中国人は行列に並ばないのかしらね」と、逆に聞いてきました。すると間髪をいれずにドイツ人の学生(チャイニーズネームなら「郭焼磊」)が、「並んだところで、目当ての物が手に入らないことがわかっているからだ」と答え、先生も再びその通りと頷きました。
 ここまで話すと先生は改めて私たち学生に向かって、こう話しました。

「少し前の中国は文化大革命といって、非常に社会が混乱した時期がありました。その頃は今言ったように、お金を持って並んでも何も手に入らない生活を中国人は強いられ、その時の体験から中国人は行列に並ばなくなったのだと、私は思っています」

 この先生の言ったことは間違いなく正しいと私も考えています。よく中国人が行列に並ばなかったり信号を守らなかったり、果てには商取引上の約束を守らないことを中国人の大昔からの民族性だと言う人もいますが、日本人が古くから民族性と思っている習慣や行動形式の大半というのは、案外歴史が意外に浅かったりします。
 たとえば日本人は逆によく自分たちは行列好きと自認している節がありますが、これもあれこれ調べてみたところ、どうも戦中の配給制で行列を作ることを強いられたことから始まったようです。イギリス人も全く同じですし。

 このように、思考方法や行動形式はそれほど大きく歴史を掘り下げなくとも、割と近現代史をみることによって形成過程を追うことができます。そこで中国の場合ですが、現在の中国人に最も影響を与えたのはほかならぬ、これから連載して解説していくこの文化大革命に間違いありません。行列を守らないことから相手の意見に対する反応など、さらには現中国の国家体制からその存在意義もこの文化大革命を否定することで成り立っています。それほどまでに、文化大革命が中国に与えた影響は計り知れないのです。

 それほど現代中国に大きな影響を与えた文化大革命ですが、その内実を詳しく知っている日本人というのは非常に少ないと私は思っています。私は留学中、中国に来た日本人の多くが中国に対する知識をほとんど持っておらず、中には満州事変すら何のことだかわからない日本人がいた事に怒りすら感じましたが、この文化大革命についてはわからなくてもしょうがないと納得します。何故そんな風に思うのかというと、それほどまでにこの文化大革命は問題が複雑で、大まかな流れだけでも政治学、歴史学、私の専門とする社会学のそれぞれの見地からで全然構造が変わってきてしまうからです。大学のある中国政治に関する授業においても講師が、もしこの文化大革命を取り上げるならば授業時間が一年あっても足りないと言うくらい、非常に理解が難しい問題であります。

 実際のところ、私もどこまでこの問題を理解しているか自分でも疑問です。しかし中国との関わりが増えていく中、日本人でもこの文化大革命の知識を持つことは非常に重要になってきますし、また解説サイトはいくつか見受けられますが、やはり非常に読みづらいし理解し辛いものが多いので、自分の表現力で可能な限りわかりやすくできるように挑戦してみようと思います。

 解説は基本、私の専門とする社会学的な見地で進めていきます。私の理解でも、この文化大革命は一大政治事件というよりは人類史上最高のモラルパニックというように見ております。参考資料はまたも安直にウィキペディアの「文化大革命」の解説ページと、現在も活動なされている中国人映画監督の陳凱歌氏の著作「私の紅衛兵時代」と、同じくこの時期に青春時代をすごしたユン・チアン氏のベストセラー作の「ワイルド・スワン」に拠ります。特に「ワイルド・スワン」は文化大革命の資料としては簡単に手に入れることができ、内容も一級品といってよい作品なので、もし本格的に調べたい方などがおられれば手にとることをお薦めします。

 皮肉な話ですが、この連載は日本に来ている中国人留学生の方々に一番読んでもらいたいです。先ほども行った通りに現中国政権はこの文化大革命を否定することで成り立っており、比較的国内でも検証が進んでいるのですが、それでも聞くところによると、現代の中国の若者はこの辺の知識が全くないと言われています。個人的な見解ですが、やはり文革を経験した方からするとこの歴史は口をつぐみたくなる内容だからなじゃないからだと思います。また先ほどに挙げた「ワイルド・スワン」は世界中で売られていますが、中国語版は未だ出版されていません。なので一つの礎石という具合に、私のブログを活用していただければと思います。