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2023年12月22日金曜日

イスラム教が定着したら離れない理由

 先日、ちょっと気になったこともあり島田裕巳氏の「帝国と宗教」という本を買って今日読み終えましたが、期待に違わず面白い内容でした。内容は領土拡大に積極的な国こと帝国が、これまでどのように宗教と関わってきたのか、また国内維持のためにどう宗教を利用してきたのかについていろいろ語っており、歴史も宗教も好きなので非常に楽しめました。

 わかりやすい話として、チンギスハンのモンゴル帝国は広大な領土を支配しながらその後継国(キプチュク・ハン国など)どれもその支配を維持できなかった理由について、モンゴル人は土着の信仰をもってはいたものの文字文化がなく体系化されておらず、それぞれの支配地域でキリスト教やらイスラム教を取り込まざるを得ず、結果的に分裂、崩壊していったと解説されています。
 それに対しイスラム帝国は税金さえ払えばキリスト教やユダヤ教などの信仰をそのまま維持することを認めつつも、イスラム教に改宗することによって税金が免除されるなど携帯電話の契約のようなお得なプランをたくさん用意して領土内でイスラム教徒への改修者を増やしてったそうです。なおかつ教えが体系化されていて国内統治の手段として使われた結果、現在のトルコのもとになったオスマン帝国も数百年という長寿命国家になったと説明されており、自分も同感します。

 そのイスラム教について島田氏は、「聖と俗が区別されていない宗教」と述べており、なかなか興味深い説明でした。これはどういう意味かというと、仏教やキリスト教では出家者は世俗と切り離された生活をし、浄土真宗やプロテスタントのように例外はありますが、妻帯を禁止するなど俗世間とは隔絶された生活を営むことになります。
 それに対しイスラム教は創立者のムハンマド自体が商人であり、俗世の人間であったことから、教えを布教する聖職者という区分がそもそもないそうです。もちろん、イスラム法学者のようにイスラム教内でで権威を持ち尊敬の対象となる指導者こそいるものの、仏教やキリスト教のように先任者が講やミサを主宰するのではなく、あくまで教徒の代表がモスクなどの礼拝をはじめとする一連の儀式を主導しており、「俗世と断った聖職者がいない」という、言われてみればそうだけど言われてみるまで意識していなかった点についてこの本でも詳しく解説されています。


 そのうえでこうした聖職者が明確に区分されていないことから、イスラム教は聖と俗の区別自体が非常にあいまいで、生活そのものが宗教信仰になっていると島田氏は指摘しています。仏教やキリスト教では信仰を行うにあたりある種特別な聖職者の話を聞いたり、寺院や教会といった特殊な施設に赴いたりするなど、宗派によって差はありますが一定の神秘主義的行為を行うことが多いですが、イスラム教もないわけではないものの、どちらかというとラマダンや豚肉禁止をはじめ、生活習慣を規定することそのものを信仰としていると説明されており、これも言われてみればまさにその通りです。

 そのため、イスラム教では生活そのものが信仰活動となり、いったん根付いてしまえばそれそのままライフスタイルとなるため、イスラム教は定着したら別の宗教へ改宗する人が少ないと説明されていました。これが自分の中で深く納得したというか、現代のインドをはじめイスラム教が広められた地域において先祖返り的に仏教やヒンズー教が復活しないのは、こうした生活に根差した信仰活動こそがイスラム教の根幹だということになかなか感じ入りました。
 逆に仏教、特に日本の密教は神秘主義的傾向が強いので、鞍替えが起こりやすそうとも感じます。

 オチらしいオチはないですが、イスラム教が信者を増やし続けるという背景に関しては信仰が広まっているというより、一度教えを受けた人間はライフスタイルレベルにまで信仰が入ってくるため信仰を変えず、信者が増えるというより減らないという特徴にこそその背景があるのではないかと思えます。教えが魅力的だとか現代にあっているとかではなく、底堅さこそがイスラム教の強みなのかもしれません。

2023年9月17日日曜日

自分の本質を見極める困難

 友人からとある自称進学校のプロモビデオが送られてきたので見ましたが、冒頭から生徒が「この学校では自己実現できます」と如何にも言わされているような感じで言っているのが痛々しい映像だなと正直感じました。それ以前に、自己実現という言葉を軽々に使用していることに強い違和感があります。っていうかカルト系サークルや新興宗教以外でも自己実現って言葉使う連中っているんだな。

 このように考えるのも、そもそもの話として実現以前として自分の本質を見極めることは非常に困難であると私は考えています。自分が何者であるか以前に、自分が何を求めているのか、それをはっきり自覚している人間というのはごく少数であるし、真に限られた存在であるとも考えています。

 こうした見方はいろいろな作品でも取り入れられており、ひとつ例を挙げると漫画「へうげもの」の中で秀吉から無理な命令を強要された際に主人公の古田織部が、「ああこんなことなら、もっと自分の本質を早く見極めておればよかった」と後悔するシーンがあります。少し解説すると、武士としては秀吉の命令を聞かざるを得ないのですが、風流人(数寄者)としてはその命令は絶対に受け入れられないものであり、齢40を超えながらも自分の将来を武士として生きるか、数寄者として生きるかを決めあぐねていたことからこの時に織部は大いに逡巡する羽目となります。この点、先に武士としての役目を降りていた織田有楽斎や荒木村重に対し、織部が羨む心情を見せることで対極的に動いています。
 もっとも最終的に織部は、秀吉から理解者になってほしいという懇願を受けてその命令を受けていますが。

 またもう一つの例として漫画の「ナポレオン」でもこうした自分の本質を見極めることの困難さを描いたシーンがあります。ナポレオンのロシア遠征の際、妻に不倫され人生の希望を失ったあるロシア人男性のセルゲイはほぼ自殺目的で志願兵となりますが、一次大戦以前の会戦としては最も戦傷者が多かったボロジノの戦いでも死なずに生き延びてしまいます。生き延びたセルゲイは不倫した妻と偶然出会い、最初はなじられるものの復縁を求められ受け入れるのですが、翌日にその妻は何か病気や怪我をしたわけでもなく、何故か亡くなっていました。
 この顛末についてセルゲイから話を聞いた老人は、ボロジノの戦いを生き抜いたセルゲイは本当は死にたいとは思っておらず、逆に復縁を求めた妻は後悔から死にたいと思っていたのが本音だったのではと述べ、「人の心というのは本人でもわからない、ましてや他人に至っては」と言ってセルゲイを慰めるのでした。

 このナポレオンの中のエピソードは小さいながらも非常に目を引くエピソードで、へうげもののエピソードと絡めると、自分の本心を理解することは本当に難しいと気づかされます。それを踏まえて言うと、自分の本心を理解しようとする努力を経ずに自己実現なんて言うのは、やはりおこがましいというか人生苦労していない人間の考えや発言だなと思え、軽々にいう言葉ではないと思います。

 などと自称進学校への批判をかましましたが、先ほど引用したナポレオンの最新巻ではこの自己の本質について再び振れる場面が出てきます。

 先月末に発売した最新巻は、一つ前の巻がワーテルローの戦いの前半であったことから今回で最終巻になるかと思っていましたが、敗戦後のナポレオンの退位までが描かれ、まだ物語は続いていました。この巻ではワーテルローの戦いの後半が描かれており、如何にナポレオンが凡ミスを連続して敗戦に至ったかが描かれていてこの点だけでも非常に読みごたえがありましたが、敗戦後に前線を指揮したフランス軍元帥のネイとナポレオンの会話がまた短いながらも見ごたえがありました。

 ナポレオンに会うなり敗戦の責を謝罪するネイでしたが、ナポレオンまずネイを労い、指揮官として不足する点はあったかもしれないが、敗戦の責にはそんなネイに指揮を任せた自分にあると語り掛けます。ただこの敗戦によって勢いづいた連合軍や王党派は自分たちからすべて奪い取っていくだろうと述べ、それには地位も、財産も、称号も、そして命すらも含まれるかもしれないと話します。
 ここで作者の長谷川哲也氏の見せ方のうまさというか、惹きつけるセリフが描かれています。

ナポレオン「だが奪えないものもある。
君がロシアで生還したとき、俺は君を『勇者の中の勇者』と呼んだ。
勇敢さは奪えない、それが君の本質だから
ネイ、お前は今でも勇者だろ」

 解説によると、これがナポレオンとネイの最後の会話だそうです。この後、歴史でネイはナポレオンの加担を理由に銃殺刑となりますが、執行の際に目隠しの布を渡された際に拒否し、「俺がこれまで銃弾の中を駆け巡っていたことを知らないのか」と述べたとされており、この場面が漫画でどのように描かれるのか今から楽しみです。

2022年12月17日土曜日

儒教的で老荘的な日本人の思想

 今日何故かエヴァの挿入歌の「魂のルフラン」で「私に還りなさい」という歌詞を「流しに還りなさい」と替え歌にして歌い始めました。その後に続く歌詞も「あなたと過ごした大地へと→あなたと過ごした流しへと」と、流し尽くしでした。

 話は本題ですが最近思想について何にも書いてないなとふと気づき、なんか書くものないかと考えていたら今の日本人の思想は儒教的且つ老荘的、っていうか二つのミックスでしょという結論に至りました。

 まず儒教的はどういう意味かというと、基本的に儒教というのは「過去のベストな時期を取り戻す」というのが究極目標になっています。いったいどの時期の過去を目指しているのかというと中国で二番目の王朝に当たる周代で、この周王朝が始まった際の最小であった周公旦が理想的人物であり、また当時の礼儀作法が最も優れているとして、この時代の礼儀作法に立ち返り周公旦を模範とすることがベストとされています。
 そのため儒教は伝統主義的なところがあり、思想的にはやや保守寄りで新規のものに対する意欲とかそういうのは確かに弱いと感じます。こうした点から社会主義中国が成立してからは発展を遅らせる思想として徹底的に排撃されましたが、「道徳教育には良くね(。´・ω・)?」的に最近はこの方面で見直されてきています。

 それで日本人についてですが、基本的に平成以降の日本政治というのは「如何にしてバブルを取り戻すのか?」というのが大きな政治目標としてついて回りました。小泉政権などの様に「もうバブルは来ないんだよ(´・ω・)」とあきらめた政権もなかったわけではありませんが、基本的にはもう一度バブル時代の契機と経済力を取り戻す方針で政治や社会が動かされていました。
 また一般市民の間でも、またバブル時代並みの経済力を日本が持つと信じる層は一定期間以降はそこまで多かったわけではないものの、それでも「日本が一番理想的だった時代」としてはほぼ間違いなくバブル期が連想され、あの頃に戻れるなら戻りたい的な価値観は支配的なほどに今も強い気がします。

 こうした点から、「過去のベストな時代に立ち返ろうとする」、というか「未来は昨日ほどには明るくならない」というあきらめ的な考え方から、ある意味儒教的だなと思ったわけです。

 もう一つの老荘的な価値観については、老荘的というより「無為自然」の考え方は元々日本人の間で強かったという風に考えています。よく私はこのブログで日本料理と中華料理を比較して、素材の味を生かすために加工は必要最低限に抑える日本料理に対し、中華料理は「どんなまずい素材でもおいしくして見せよう( ゚Д゚)」的にともかく調理加工を重視しています。この両者を比較するなら、無為自然的な価値観でいえば日本料理に軍配が上がるでしょう。

 加えてというか、これも前にブログで書いたように日本のヒーローは米国のヒーローと違い理想を持たず、昨日までの日常を守るためだけに戦う傾向があると考えています。これなんか日本人の思想が色濃く出ており、「昨日までの日常を維持することが最上の幸せ」、「変化はむしろ弊害」と思い込んでいる節が若干あり、「明日は今日より楽しくなる」的な価値観がやはり低い気がします。この点、先ほどの儒教思想にも被ってきますが。

 以上のように、「過去の方が現代、未来より(・∀・)イイ!!」、「変化しない方が(・∀・)イイ!!」的な考え方でいえば、儒教と老荘のミックスが一番それらしく説明できる気がします。まぁ言っちゃなんだけど、かなり後ろ向きな考え方だなぁという気もしますが。
 とにもかくにも未来を暗く考えすぎている気がします。特に年齢的感でも20代が人生においてベストとやばいくらい信じ込んでおり、三十路入ったらもう人生は落ちてくだけの底なし沼とやたら自虐的に考え、自らの可能性をかなり潰している気がします。

 なお自分はこのブログ開始当初は二十代前半でしたが、人生で一番辛かったのは十代で、次が二十代、でもって三十代後半の今が一番楽しかったりします。理由はある程度自由にお金使えるのと、それなりに業務能力高めて会社からも一定の裁量権をもらって業務でき、成果も上げられるようになり、ゲームにブログにコラム連載と好きなことする時間もあるからです。
 そういう意味では今後四十代になったらもっと楽しくなるのではと今からかなりワクワク感でいっぱいですが、この記事を書くにあたって「魔法少女♡三十路」を読んだのは内緒です。

2022年10月26日水曜日

富貴に溺れていると感じるΣ(゚Д゚;≡;゚д゚)

 普段夕食は会社近くの店で外食しているのですが、今日午後は半休を取って家にいたので、家の近くにあるマクドで食事取ってきました。もっとも会社に行ってる場合でもバーガーキングで済ますことが非常に多く、こうしたファーストフード、というより外食に対して今や一切何も抵抗がないです。

 それに対しかつての学生時代、あと中国来たばかりの頃はともかく金がなく、食費を徹底的に抑えるために外食は厳に慎んでいました。学生時代の昼食は130円のわかめうどん、たまにどうしてもおなかすいた時に250円のカレーという2択しかなく、夕食はウインナー、味噌汁、ごはん(2合)が一番多かったです。たまにごはんは3号だったが。
 その時と比べると現在こうして気にせず外食にお金を使う自分に対し、富貴に溺れていると深く恥じる思いをします。食事限らず普段の生活においても、他の駐在員らと違ってタクシーはほとんど乗らずに自転車か地下鉄にしか乗らないのは前と変わりありませんが、湯水のごとくプラモを買ったり、寝具を買ったりするのはかつてからすれば絶対あり得ませんでした。まぁゲームは昔からいっぱい買ってたけど。

 特に寝具に関しては自分の場合はダニに噛まれることが多いため、肌に合わないと思ったらすぐに使用を中止してしまう悪い癖があります。何気に去年買ったもこもこの寝間着はやばくて一晩で蜂の巣にされたもの、何度か洗いなおしたり、殺虫剤をかけたりしたけどどうにもならずすぐ捨ててしまい、今でも購入時の判断を深く悔いています。

 それこそ昔は起業資金を集めるために切り詰めていたこともありますが、かつてと比べるとそこそこまとまった給料を得られて前ほど切り詰めなくても前以上に貯金がたまっていくため、財布のひもが以前と比べるとめっぽう緩くなっています。日本で勤務していた頃は食費を除いた交遊費は月4万円以上は絶対使わなかったのに、今は普通に友人と300元(約6000円)くらいの夕食食べに行くこともあり、どうして俺はこうなってしまったんだ、あの頃の青雲の志はどこへ行ったのだという気すらします。

 もちろん、お金を使うこと自体は悪いことだとは思いません。特に上海の飲食店に関しては日本と違ってガチなロックダウンで営業を停止させられるだけでなく、支援金も一切送られないため、ロックダウン明けは応援するためにも馴染みの店で普段より多くお金を使うように意識しています。とはいえ、それでも節制意識の緩みは気になるところであり、自分自身でも以前のような切り詰めた生活ができなくなるほど人間として弱くなっているのではと思い、悩む日々が続いています。
 会社の同僚へのプレゼントにも、割と平気でスミスキー買って送ってしまうし……。以前だったら舌噛みたくなるような出費だというのに……。送った相手の反応はめちゃいいんだけど。

 以上のような浪費癖は気にしなければいいじゃんという方もいるでしょうし、実際私も若干そのようにも思う節はあるのですが、それでもやはり以前のような節制意識があった方がいいのではという考えも残っています。特にお金が自由に使えるようになった今、以前と比べると商品を購入した時の喜びが目に見えて小さくなっており、これは明らかなマイナスだと考えています。
 やはりお金に苦しい時ほどお金を使った時の喜びは大きく、得られるカタルシスも今とは段違いでした。もっとも、クソゲー掴まされた時の悔しさも段違いでしたが。

 やはり人間の欲望というものは抑えれば抑えるほど満たしやすくなり、満たせば満たすほど薄れていくものだとはっきり思います。富貴に溺れることを気にしなければいいと流すこともできますが、やはり節制する姿勢を忘れない方が豊かさという感覚を持つ上ではより有利であると言えるでしょう。
 それはそうとして、また新しいスミスキー買っちゃおうかな……。

2021年12月26日日曜日

とうに狂っていても「自分は正常」と言う

 日本も寒いでしょうが上海も寒波来てて寒く、今日なんか抜けるような青空したせいで放射冷却やばく、自分も高島屋と自宅しか往復してません。
 あと関係ないけどさっき「じぶんしか→自分鹿」と変換されましたが、Microsoft IMEは年月を経るごとに変換効率が悪化している気がします。前なんか一度も変換したことなかったのに「せっけい→雪渓」とされて会社で暴れそうになりました。

 話は本題ですが先ほどふと、自分の精神は正常な状態を保っているのだろうかと考えました。理由は何故かというと手に持ってたものを落としそうになって「アブドゥルっ!」と口走ったからです。

 アブドゥルというのはジョジョの奇妙な冒険に出てくる例の濃ゆいエジプト人の名ですが、自分が初めてジョジョ読んだのは幼児の頃で、しかもDIOの館でアブドゥルがゴゥンッされて片手だけ残して異次元に吹っ飛ばされる回で、激しく記憶に打ち付けられる場面でした。
 このゴゥンッの際にその場にいたポルナレフが必死な形相で「アブドゥルーー!」と叫ぶのですが、なんかこれが妙にハマったというか、何か驚くようなことがあった時に何気なく「アブドゥルっ!」とつぶやいてたらガチで「おっと!」という場面でも「アブドゥルっ」というようになっていました。しかも些細なミスを犯すことを「アブドゥる」という動詞で表現することもあり、「アブドゥっちった」みたいに言います。

 この癖、自分から見てもかなり変な癖で他の人には見せないようにしてますが、実際見られるというか聞かれたら「何この人(;´・ω・)」と思われることは必至です。そのため、ガチでこの癖については若干おかしいなと自分でも思っててて「正常」じゃないと思いました。

 そこからまた話が急展開するのですが、思えば傍目にも完全に頭がおかしくなっててまともな判断が下せられなくなっている人も、というよりそういう人ほど自分のことを「正常だ」と言い張る場面をよく見てきたことを思い出しました。具体的にどういう人かというと、明らかに支離滅裂な指示を連発したり、道理に合わないことを急に口走ったり、完全に公私混同な行為を会社や周りのための行為だと言い張ったりなど、まとも判断を期待することの方が難しいと感じさせられるような人たちです。
 一見するこういう人たちは正常に見えるのですが、何度も言う通りにまともな意思決断や取捨選択ができなくなっています。日常生活こそできるものの、集団の行動に係るような決断であっても自己保身を優先したり、どう考えてもその後不利にしかならない方針を選んだりなどと、単純に迷惑な存在です。しかもそうした誤った判断を止めようとするとやたら「自分は正常だ!」などと不必要なくらい正常アピールしてくるのも目立ちます。

 はっきりいえば脳機能が低下したからかどうかまではわかりかねますが、こういうのは本人の個性とかそういう以前にもうとっくに狂ってる人たちです。しかしそんな狂ってる人ほど周りの批判とかに対して正常アピールが強く、いうなれば、正常であろうが狂ってようが、人は自分のことを正常であると言うものなので、自分が狂っていてもほぼ確実に自分自身では気づけないものだと思います。それこそ、多重人格症を自己認識とかしているようなケースを除けば。

 そういう意味で冒頭に書いた通り、私自身が今の精神状態を正常であるかどうかを考えた際、自分自身ではどう頑張ったって判断のしようがないなと思い、それこそカウンセラーとか精神科医にでも相談しないとわからないなと思ったわけです。もっとも精神科医も、「日常生活でよく『アブトゥル』ってつぶやいちゃうんですけど」と相談されたら反応に困る気がしますが。

 その上で、自分自身はともかく他人がもう狂ってるかどうかを判断する指標はないかなと少し考えてみたのですが、やはりキーとなるのはさっきちょこっと書いた「自己保身」じゃないかという気がします。
 基本人間というのは、年を取れば取るほど欲が強くなると言いますが、中でも自己保身欲というものはこれまで自分が見て来た中で例外なく年齢とともに高まる心理だとみています。また私自身が見て来た「とうに狂ってる人」たちもまた、例外なく自己保身が常人より強い、というより自己保身の塊となっている人たちでした。そもそも彼らがめちゃくちゃな判断や行動を採る理由というのもほぼすべて自己保身に端を発するもので、自己保身そのものが人を狂わせているようにすら見えます。

 仮にそうだとした場合、その人が狂ってるかどうかの一つのベンチマークとしては、自己犠牲的な行動を採れるかどうかが大きくなるように思えます。自分が一端しか関わっていなくても全責任をおっ被るとか、助ける義理もなければ将来的なリターンも期待できないのに損失を負ってでも助けようとするなど、こうした行動を直近で大なり小なり採っているかどうかが、少なくとも自己保身に狂ってるか狂ってないかを見る上で大きな指標になるんじゃないかと思えます。
 でもって繰り返しになりますが、「自分は正常」というセリフには何の説得力も根拠もなく、むしろ正常な人は普通自分でそうは言わないだけに、このセリフを言う人ほどもう狂ってる可能性が高いとみるべきでしょう。

 途中で書いたように、人間は精神が狂ってしまっても自分自身で認識することは難しいものです。今これ書いてる自分自身もおかしくなっている可能性もあるし、何か夢見ながら書いてる可能性もあります。といっても、自分が狂ってることを前提にすると何も行動取れなくなるので、そういう意味では狂ってないと思い込んではいるのでしょう。
 それだけに、日常の判断とかで自分が狂ってる要素がないかという点についてはやっぱり注意していきたいものです。狂ってた場合、自分だけでなく周囲の足も引っ張ることとなりますし、精神ケアこそ自分自身でできないものの、体調を整えるなど体力方面から精神の回復を促すことはできるだけに、疲れなどで判断がおかしくなってきていると考えたら意識して休むようにしています。

 もっとも、私は必ずしも正常であり続けたいとは全く思っていません。特に芸術などの方面においては、思考的に狂っている要素が要求されることが多々あり、私に関しては文芸ですが、その作品の価値を高める上では自らが精神的に狂うことを厭いません。
 なお、「チェンソーマン」の作者の藤本タツキ氏の短編集をこの前買いましたが、あとがきで「死んだメダカ食っておなか痛くした」と書かれたエピソードみて、「やべぇこの人(;´・ω・)」と思いました。

2021年11月6日土曜日

日本人の自我形成における大学教育の重要性

 このところ少し見どころのある若い子といろいろ話すことが多く、先日も同じ大学出身者に共通するカラーというか学風について話すことがありました。これまでの社会人経験からして、やはり慶応出身者はどの人も安心して頼れるというかおかしな人はおらず、どうして慶応出身はこういうところで共通するのか見たいな話をしました。
 なお私の出身の関西私学出身者に関しては、はっきり言って仕事面においては全く信用が出来ません。どの人もポテンシャルは高いのですが独断専行型が多く、課題突破的な仕事だと頼りになるけど、自分を含めチームで連携して物事に取り組むというのはみんなして苦手です。これマジで不気味なくらい出身者に共通してるから怖い。

 話を戻すと、多かれ少なかれこういった同じ大学出身者に共通する大学カラーというか校風は存在するかと思います。しかし何故同じ大学出身者でこうした性格面の特徴が共通するのかこの点について少し議論したところ、日本の教育においては大学学部で初めて自我形成が進められるからではないかという結論に至りました。

 かねてからこのブログで私は、日本の教育は究極的には各人の自我を磨り潰すことが目的となっていると公言しています。自主性を重んじるとか豊かな発想を鍛えるなどという耳障りのいい文句がたまに主張されますが、こうした言葉を真に受けた人間からむしろ排除していくシステムとなっており、如何に集団に身と心を捧げ、自己を捨て去るかがあらゆる方面で強調されている教育システムだと考えています。部活動なんかまさにその典型ですし。
 ただ、こうした特徴は高校レベルまでで、大学以降になるとなりをひそめます。日本の大学教育に関してはその言葉通りに自由性が尊ばれ、単位取得条件なども緩いところが多く、それまでの束縛的教育から一転して開放的な感覚を恐らく誰もが感じるのではないかと思います。

 ここで自我形成の話に至りますが、基本的には裁量がないと自我は形成されません。そのため高校レベルまでは基本的には学校側や両親の影響が強く、その本人の主張や思想はむしろ学校側や両親の思想が大半となるのが自然かと思います。
 それが大学に入ると一転して自由な環境に置かれることから、意図せずに各自で自我を持つことが求められるようになります。また大学入学以降であればいわゆる教育ママも子供にあれこれ要求してくることもなくなり、こうした家庭面においても自由度が俄然高まります。そのようなそれまでにない自由な環境を得ることで、日本人の大半は自らの自我を大学学部時代に形成することが多いのではないかというのが私の見立てです。

 その結果というか、副次的にその自我は通った大学の影響を受けやすくなるのではないかと思います。社会学的な主張をすると、自我というのは本人のこうなりたいという「希望」以上に、周囲に求められる「役割」によって形作られやすいと言われています。そのため日本の教育システムにおいて唯一と言っていい自我形成の場である大学において、その大学が周囲から見られる特徴(校風、カラー)が各人の自我に取り込まれる面も少なくない気がします。
 この辺、「ファイアパンチ」っぽい内容ですが、事実そうだと思います。

 さらに付け加えると、それまでの人生にない初めての自我形成の場において、同じ大学の先輩や同級生からも直接的な影響を受けることとなるため、この辺でも同じ大学出身者の同質性が高められるのではないかと思います。さらにさらに付け加えると、そうして形作られた大学の評判が世間一般にも校風として定着し、受験時の段階でそうした校風を目指して(元より適性がある)入学してくるというサイクルもあるのかもしれません。

 ざっとこんな感じが私の意見ですが、改めて述べると日本人の自我形成に関して大学は非常に重要な場であるのではないかと考えるに至りました。特に女子学生に関してはいわゆる「大学レビュー」といって急に化粧やおしゃれに目覚める子が多いですが、この辺も通っている大学によって化粧パターンに違いがあるのかとか調べると結構面白い研究になる気がします。

 なおこの自我形成に関して、敢えてヤンキーについて言えば反抗的なだけ一般日本人よりも自我形成が早いのかもという気がします。そういう意味では不良が集まる学校は高校の時点で校風とかそういうものが出来上がっているかもしれません。

2021年4月30日金曜日

自我の強弱

 なんか思想っぽいこと書きたいので自我について少し触れます。

 まず大前提として、完全な意味での自我というのは少なくとも人間の思考には存在しはないと私は考えています。突き詰めれば人間の思考はコンピューター同様に、外部刺激に対する反応に過ぎず、経験(=過去データ)があればそれに乗っ取って反応し、なければ試行錯誤的にとりあえず実行可能な行動をとる、または反応をあきらめて何もしないに大別されます。こうした反応行為が極端に出るのはいわゆるエラー状態で、パニック状態とも言い換えられますが突発的な不測自体に合うと人間はかなり単純な行動に走りがちで、こうした点からも独立した自由な思考という定義になる自我というは案外脆いというか基本は過去データの累積でしかないという結論に自分は至っています。

 その自由独立思考の自我に関してですが、こんなこと言う人は少ないですがやはり強い人、弱い人ははっきり分かれる気がします。何を以って強いか弱いかの判断の仕方はいろいろありますが、私に関しては「他社の言動をどれだけ真に受けるか」がこの強弱を測る上での最大のバロメーターであるという風に考えます。
 ひとつ例を挙げると、思春期の女の子なんか好きになった男性のいうことや趣味に迎合しやすい傾向がはっきりと見られ、突然女の子が自動車に詳しくなったら十中八九男の影響だと思っていいでしょう。ただこの手の迎合は所詮は迎合に過ぎず、それ以前のパーソナリティや経験とは関連性が薄いことからその好きになった男と距離感が生まれるとあっさり放棄されることが多いです。まぁ逆パターンで男も女性の趣味に迎合することもありますが。

 こうしたごく単純な迎合を起こさず、尚且つ複雑な思考パターン及び経過を経て特定の趣味なり行動を持つようになると自我が強まっていると言え、言い換えるなら「他者に影響を受けることなく自らのパーソナリティを深めていく」ということが自我を強める、または強い自我を持つに至る過程だと私は考えています。もっとも、本とか読んで変な宗教にハマって迎合するパターンもあるので一概に自我が強いとも言えないですが。

 やや回りくどいい方をしましたが、もっと単純に言い返すと「他者の影響を受けやすく、尚且つ考えや価値観がコロコロ変わりやすい人」のことを私は自我が弱い人だと考えています。逆に影響を受け辛く過去から持ち続けている信念なり価値観が不動な頑固型の人が自我が強いと考えています。
 この両者を比べて、一体何を以って別れるのかがトピックとなりますが、これについてはいくつか要素があります。まず一番大きいのは成功体験で、過去の成功体験が強い人ほど自分のやり方なり価値観に自信を持つので自我が強まる傾向があります。逆を言えば自我が弱い人というのは自信が弱い人が多いとも言い換えられるかもしれません。

 次に、これはあまり主張する人は多くはないと思いますが、過去に決断に迫られた回数が多い人ほどやはり自我が強くなる気がします。具体的に言うと進路や業務選択などがありますが、もっと大きなものだと死にそうな二人のうちとぢらを助けるかとか、復讐に身をささげるか否かなどの大きなライブセレクションなんかを経験している人は、他人の意見を参考にすることはあっても、自分が何故、どうしてその決断を採るのかについて深く考える人が多い気がします。
 そういう意味では教育で「親の言うことを聞いておけばいい」的に親がほとんどすべて指図して育てられた人なんかは自我が弱くなりやすいかもしれません。自我の萌芽は反抗期だと言われますがそういう意味では間違いないものの、そうした反抗期も徹底的に押さえつけられると自我が全く育たなくなるというのも自然な話です。

2020年9月22日火曜日

精神と肉体の一致性について

グノーシス主義(Wikipedia)

 以前遊んだ「グノーシア」というゲームから派生して上のグノーシス主義というのにたどり着いたのですが、私の中途半端な理解で説明すると、キリスト教の完全普及以前に考えられた宗教観とのことです。大まかな内容としては、この世はちゃんとした神が作ったけど、今現在で人間に進行され、世界を統治しているのは実質悪魔っぽい偽の神で、だから世の中苦しみとかが蔓延しているとか、精神と肉体は完全別個の物で、精神は清いものだけど肉体はとにかく汚い的な、二項対立をはっきりさせた二元論が中心とのことです。

 これらの価値観が一つの塊となった宗教は存在せず(思想的系譜で言えばマニ教が近いそう)、あくまで神学論上の概念だそうです。とはいえ今までになかった概念と、「神の存在性を疑う」という概念がなかなか興味深くいろいろ調べていますが、ちょっと気になったのが先ほど挙げた精神と肉体の二元論です。地味にこれは宗教論を議論する上で外すことのできない重要な概念であるでしょう。

 一般的日本人はアニミズムの概念が強いこともさることながら、「魂」の概念をはっきり持っているため、精神と肉体は別個という概念に対してほぼ全く疑問を持たないと思います。肉体に魂が宿り、肉体が亡んだら(=死)魂は閻魔様のところを経由して天国が地獄に行くというのは、マルクス主義の日本人ですら疑わないでしょう。
 こうした概念は何も日本だけじゃなくキリスト教などの西洋の思想でもはっきりしています。敢えて知ってる範囲で述べるならば、古代エジプトのファラオ信仰はやや異なっており、魂と肉体は分離することはあっても基本的に両者は紐づいており、魂はいずれ元の肉体に戻り復活することもあるからわざわざ遺体をミイラにしてまで残してました。その辺、精神と肉体の一致性についてファラオ信仰は高いという気がします。

 話を戻すと、精神と肉体は別々と言いつつも、その主張における最大の矛盾点というか論点となるのが言わずと知れた脳の存在です。明確に思考を司る肉体器官であり、他のすべての器官は無事であっても、脳がなくなれば思考は止まるという意味で、「脳=魂」的な図式がある程度成り立ってしまいます。それでも科学技術の発達する前はあれこれ理由つけてどうにかしていましたが、脳の機能解析が進むにつれて、その辺の言い訳が段々と成り立たなくなってきているのも事実です。

 何気に面白いのが、脳の解析において一番進んだのは実は一次大戦の頃だそうです。というのも当時は戦闘で中途半端に脳が吹っ飛んだ患者が多く、脳のどの辺を失えばどうなるかとかそういったデータが一気に集まり、脳外科方面の研鑽が一気に進んだと聞きます。
 また脳関連で話を進めると、サイバーパンクの世界では脳を義体に移植して不老不死的に活躍するという攻殻な機動隊っぽい話も多く、これも脳=魂といった精神と肉体の一致性に対する現代の一つの見方といえるでしょう。

 ここまで言えばわかるでしょうが、私自身は精神と肉体は別個の存在というより、両者の一致性はむしろ高い、肉体あっての魂であり、魂なくして肉体なさないという価値観を持っています。こうした価値観の補強として近年、脳以外の内臓なども一部記憶を持ち、移植時にドナーの記憶が移植患者に渡るという研究が出ています。「シグルイ」という漫画に至っては、「筋肉だって記憶を保持するよ」というトンデモ理論を漫画の中でかましましたが、現代では観測できてないないだけで、案外その可能性もあったりするのではないかという気もします。

 このように肉体と精神は両者揃って初めてどちらも成り立つもので、不可分な要素であるというのが私の見方です。それ故に、どちらか一方が大きく落ち込む、具体的には体は健康だけど精神的ショックを受ける、または精神はハイだけど麻薬を打つみたいなことすると、最終的にもう片方も駄目になっていくのは自然で、逆に強い人間たらんとするならやっぱ精神と肉体を一緒に鍛えないとダメ的な話になってきます。

 その上で、肉体の死は精神の死で、肉体が亡んだ後に死後の世界があるかというと、あるかもしれないけど少なくとも現在の人格(霊魂)のままそこへたどり着くことはないと考えています。というのも肉体が亡んだら精神が今の状態のままを維持することは不可能であると考えるためで、何かよくわからない物質という要素になって別の人格というか生命となって出ることはあっても、現在の人格を維持することは元の肉体なしには不可能という風に考えます。
 同様に、肉体をサイボーグ化したらその時点でも精神は変容するとも見ています。許容可能な変容かどうかは議論の余地がありますが。もっともそれを言ったら、子供と大人で体つきも大きく変わることから、子供の頃の人格と大人の頃の人格は記憶こそ共通するものの、同一人格かと言ったらもはや別のものになっているのかもしれませんが。

2019年11月5日火曜日

高度な理性とは

 理性的な人物だと言われれば、恐らくまず褒め言葉として受け取られるでしょう。では理性的な人物とは、どんな人が当てはまるのか。
 恐らくこうした問いかけをした場合、一番多く帰ってくると思う答えとしては「常識的な人物」ではないかと思います。しかし私に言わせると、常識というのは時代や場所によって変わるものであり、それこそ貧困国や戦地において日本の常識を維持する人間が「理性的な人物」として取られるかは果たして疑問です。

 では単純に「理性」が多い人間だったらどうか。そもそも理性とは何かというメタな議論へと発展していきそうですが、要するに論理的に考える人のことを指していると私は考えており、その意味で言えば「感情に流されない人」こそが理性的と言えるかもしれません。この場合の「感情的」とは、特に現代日本だと「めったに怒らない人」がそうした代表として扱われると思え、確かにこういうタイプの人なら「理性的な人」と言われても自然ではないかと思います。
 でも、敢えて嫌な言い方をすれば、いついかなる時も怒りを見せない人間が果たして理性的なのかという逆説を問うこともできます。それこそ目の前で親や子供が殺されながらも怒りを見せない人間は理性的と言えるのか、という風に問うこともできます。ただこうしたケースであれば、「怒りではなく悲しみを出すことが自然」として、怒りを見せずとも涙を流すという感情を出しさえすれば、怒りを抑えつつも親類への情をきちんと備えているとして合格、晴れて理性的な人物に認定されるかもしれません。

 ただ上記ケースにおける怒りにしろ悲しみにしろ、それは理性というよりかは感情があるかないかの議論であると私は捉えており、理性の有無の議論とは敢えて分けて考えた方がわかりやすいように思います。目の前で虐殺されるのを見て怒りも悲しみも見せないのはただ単に感情がないだけで、それはそれでやはり不気味な人間だと私も考えます。
 ではこの場合の理性があるかないかはどの点を見るのかというと、端的に言って大きく取り乱すか否かでしょう。怒りや悲しみを見せるとしても、「てめぇこのやろ絶対許さねぇ!」などといって戦車に向かって体当たりをかける人は情が強いことは認めるものの、私の中では理性的ではありません。怒りであろうと悲しみであろうと、無謀な行為や、論理的に明らかに逸脱した行為を見せるというのが理性的ではなく、憎い相手を殺そうとするにしても、死んだ者に涙を流すとしても、その目的に合わせて適切な行為を行い、なおかつ我を失うような慌て方をしないということが理性的であると考えるわけです。

 以上が理性的という言葉に対する私の定義ですが、ではここで、「高度な理性」とは何を指すことになるのでしょうか。要するに、取り乱さないことの程度が高いということで、どんなショッキングな場面においても取り乱さない人が、高度な理性を備えていると言えるでしょう。
 そういう意味では昔にも書いた気がしますが「罪と罰」のラスコーリニコフとナポレオンの比較が好例といえ、何百万人を死に至らしめながら平然と自らの野心を追求したナポレオンに対し、誰からも嫌われる金貸しの老婆とその妹を殺しただけで前後不覚になるラスコーリニコフでは、ナポレオンのほうが理性的だったということになります。

 この「罪と罰」の例は自ら手にかけた場合ですが、他人に手をかけられるという意味では最初の例のように、親族が殺される、知人が殺される、赤の他人が殺される、この順番でどこで取り乱すかでその人の理性が測られることとなるでしょう。
 また無理に殺人を例にしなくても、ジェイソンに会う、フレディに会う、花子さんに会う、貞子に会うというドッキリ恐怖系でも、どこで恐怖から取り乱すかでも測れるかもしれません。もっともこのキャラたちの格付は私にもよくわかりませんが。

 なんでこんな話をするのかと言うと、実は今、超ゴア系アドベンチャーゲームを買うかどうか悩んでます。ネットでチラ見しただけで戦慄というか声が出なくなり、ガチで目を背けたというか画面切ったほどの内容なのですが、「俺の理性はそこまでなのか?」と変な負けん気だして、こんなんでビビんねぇぞとばかりに逆に購入してやってやろうかという気に今なっています。もっともそういいつつ、あれ程の内容ならば触れない方がいいのでは、触ってしまうと逆に歪むのではという懸念も持っています。
 そうした妙なせめぎ合いを感じている最中ですが、少なくとも言えることとしてはやはり私は幼少より、そうしたホラーをはじめとするゴア表現系の映像やらストーリーをよく求めてきて、そうした物に触れるにつれて徐々にですが理性的になってきたという自負はあります。この前も紹介した「シークレットゲーム」でもプレイ中、少なくとも私は目を背けたり映像や表現に慄いたりすることは一切なく、ホラー耐性みたいなものは幼少時と比べると格段に強くなっています。

 ホラーやスプラッタ描写に触れ過ぎると性格がおかしくなる、残虐になるという教育論は昔から多いし私も別に否定しませんが、自分に関してはホラーやスプラッタ描写の行為に憧れるとかそういうのはなく、ただ単に「怖い、だからこそ見てみたい」という単純な興味からであり、恐怖を克服したいとかそういう気も別にあるわけではありません。しかし結果的にそうした動機や行動が「高度な理性」につながってるとしたら、意識して高めているわけじゃないけど、私は割と高度な理性を追い求めて生きてるんだなと思ったわけです。
 
 そんなわけで、そのゲームを買うかどうかマジ悩んでるわけです。本気でここ数年でかつてないくらいにドン引きしたゴア表現でしたが、だからこそ惹かれるというか、久々に高くてもやってみたいと思ったゲームです。まぁこうなったのも、「シークレットゲーム」が少なくとも自分が思ってたよりかはマイルドだったことも少なからず影響している気がしますが。

2019年3月21日木曜日

賛成の多い意見よりも反対の少ない意見

 今日戦友と久しぶりに会って、戦友がこの前書いた記事について少し話してきました。単刀直入に言うと、「日本人は賛成の多い意見よりも反対の少ない意見を取ろうとする」ということを言ってきました。
 具体的に述べると、例えば100人で採決を取る場合、50人が賛成するけど40人が反対する意見よりも、30人が賛成するけど10人が反対する意見のほうを最終的には選びやすいのではと話しました。理由は何故かと言うと、反対者もそこそこいる前者の意見を採用した場合は採用後に対立が起きることが恐れるためで、それならばと賛成数は少ないけど反対者も少ない意見を取るんじゃないかと思ったからです。

 あくまで私の印象ですが、日本人は全体として自分がいいと思う意見よりも、波風の立たない意見の方を優先する気がします。またこれは意見表明しない段階においてより顕著ですが、意見のぶつからない議論や意見の方に傾くように見えます。良い意見を採用するよりも、意見によって分裂するのを避けようとすると言うべきか。
 なお、私についてはこういうことは余り気にしないと言うか、自分が少数派に回ろうとも、意見がこじれようとも反対意見があればはっきり言って、採決で別意見が取られたら素直に従うようにしています。というのも議論においては自分の意見を採用させるよりも、意見を比較しあうことが大事だと思うからですが、まぁこんな行動取ってれば目をつけられるのも自然の成り行きでしょう。

2019年3月2日土曜日

言語を介さない思考

 「外国語のできないやつは母国語もできていない」というのはゲーテの言葉ですが、これはあながち偏見の入ったセリフではありません。人間、たとえ人生にどんな出来事があったとしても幼児期に最初に習得した言語が思考する際に使われる言語として使われ、生涯それが変わることはないと各実験などからも証明されています。逆を言えば、母国語が充実していなければ思考言語も未熟なままとなり、思考能力もある一定の段階で限界を迎えそれ以上は発達しないというか、ハイレベルでの思考処理を行うことはまず不可能となります。

 もっとも、それはあくまで「言語を介して思考」する場合に限ります。「言語を介さずに思考」する場合はその限りではありません。

 そもそも言語を介する思考とはなにかといいますが、普通に言葉を喋ったり文字に起こしたりせずに黙って頭の中で考える作業がこれに当たります。例えば無言で「今日のご飯は何にしようか」とか、「ヒナまつりの15巻は絵がものすごく荒れてて心配だったが16巻はやや持ち直したものの、かつて程の勢いはもうない」などと、文字スクリプトを起こすような感じで頭の中で考えることがこれです。
 恐らく思考の99%くらいはこうした「言語を介する思考」に当たると思いますが、残り1%の範囲に「言語を介さない思考」が存在すると私は考えています。

 では「言語を介さない思考」とはなにか。そもそも言語にならない思考作業を言ってるんだから表現のしようもありませんが、いくつか実例でいうと、やはりめちゃくちゃ賢い人ほどこうした思考をやってのけていると私は思います。
 これまで私が見てきた中でも何人かいますが、ものすごい早口で喋りながら説明している最中、突然ピタッと言葉が止まるようなタイプがまさにこういった言語を介さない思考をやっている用に見えます。いわゆる、「頭の回転が早すぎて、考える内容に口が追いつかない」ような説明をする人がこれで、こうした人は大概にして、聞いてる側からすれば説明内容が意味不明なのに本人はやたら納得したように説明していて、説明を終えるとドヤ顔かましたりします。

 思うにこうした人達は、思考言語以上に頭の中の情報の連結や分解速度が早く、そのため言葉足らずとなったり、発声が遅れたりするのだと思います。この場合、彼らの頭の中では情報処理は実際に行われているものの、その情報処理において各情報は頭の中で言語化というプロセスを経ておらず、本来なら「カレー+ごはん=カレーライス」となるところを「情報A+情報B=情報Z」という風に処理して、それからしばらくしてから「情報Z=カレーライス」みたいに判別しているのでしょう。
 まぁ中には思考言語能力自体が低くて、こうした情報のラベリングがただ単に拙く、「あれがそれでこうなってな」みたいに元阪神・オリックス監督の岡田氏みたいな話し方になってる人も少なくはないでしょうが。

 と、ここまで説明しておきながらなんですが、上記のように「思考言語能力が追いつかないから言語を介さず思考する」パターン以外にも、言語を介さない思考は存在すると考えています。端的に言えばそれは、ひらめきです。

 自分においては、多分思考言語能力が人よりは高いこともあって、言語を介さず思考する際は圧倒的にこっちのパターンが多いです。ではどういう風に思考処理しているのかというと、はっきり言えば「問題Aに遭遇した→対処法を検索→対処法BとCを発見→BとCを比較→対処法Bを選択して実行」となるべき処理を、「問題Aに遭遇→対処法Bを実行」みたいに、主に「比較」に当たる箇所をすっ飛ばして対処法Bを選んで実行し、その後で、「そういえばCもあったけど比較するに値しないな」と思い起こすというようになります。
 もっともこうした思考処理は「反応」とも取れるので純粋にひらめきと言えるかは微妙です。自分の中で真にひらめきだと思うのは、問題と対応がセットで思い浮かんで、最後に過程が出てくるようなものがそれです。

 ではこうしたひらめきパターンの処理はどう行われているのかですが、私なりの仮説を述べるとやっぱり二次方程式のような代数計算パターンが一番適当な気がします。大体、変数が二つか三つくらいあって、それら変数が含まれる代数式が5、6個ある状況、具体例を挙げると日本の賃金問題を考える資料や材料を5、6例暗記、同時想起した段階で代数比較が自動実行され、それら5、6例に共通する変動要因(=変数)が一気に導き出される感じです。
 なので本人としては代数比較を行っている自覚はなく、ぽんと変数X、Y、Zに当てはまる数字が出され、むしろその数字を見てこれらの数字が何に影響を及ぼしているのかという風に帰納的に考えることが多いです。この段階にいたり、初めて先程の5、6例の材料の代数式が認識できているような気がします。

 なんでこんな訳のわからないことを突然書き出したのかというと、突き詰めると推理や推測、分析における思考は代数式のように頭の中で処理されていると日々強く感じるからです。真面目な話、人と議論する際に私は常に代数式のようにして論点を整理し、議論で結論に当たる部分を変数と仮定してその変数を解き明かすようにして話を進めています。で、この代数式ですが実際には計算するよりも、途中でぽんとひらめいた答えを軸というか仮定にして途中式を分解するパターンが多く、総じて帰納的に処理しており、どうしてなぜそれがファンクションするのかという、言語化した論の組み立ては後回しにしていることが多いです。はっきり言ってそんなの、喋りながらゆっくりやればいいだけですし、総じて説明というか理由は後付であるとも考えているからです。

 最後に何が言いたいのかというと、一定の段階、自分の中では変数が二つの二次方程式モデルまでは言語を介した思考でも間に合うものの、変数が三つとなる三次方程式モデル、つまり三つくらいの要素(=論点)を同時並行で分析思考する場合、思考内容をいちいち言語化処理しようと思っても間に合わず、それこそさっきのように「情報A、B、C」のように敢えて言語化しないまま、言語を介さずに思考していかなければ処理が間に合わないと思います。
 なので非常に複雑かつ大量な要因が絡みつく問題を議論、分析する際は、こうした言語を介さない思考がどれだけできるかにある程度かかってくると私は考えます。とはいっても、意識してトレーニングしている人はほぼいないので、主張するだけ無駄ですが。

 さらに言えば変数三つで議論について来れる人間はほとんど限られているので、敢えてこの三次方程式モデルを使うとしたら意図的に論点を三つに増やして、議論相手を大混乱に陥れようとするケースくらいです。これはこれで、非常に物足りなさをこの頃感じるわけですが。

2018年11月25日日曜日

流した量は裏切らない?

 よく「マネーロンダリング」のことを日本語では「資金洗浄」と訳されますが、この論で行くなら「禿頭洗浄」は「ハゲーロンダリング」、略して「ハゲロン」というのか最近気になっています。

 話は本題に移りますが、マネーロンダリング同様に「流した汗の量は裏切らない」、略して「流汗」とは言いませんが、さっきの言葉はよく出てきます。言うまでもなく努力は人を裏切らないという比喩に使われるのですが、たまに運動部とかでは比喩ではなくどれだけ運動量が多いかで決まるみたいに使う人もいるもの、こっちの意味だとこの言葉はウソになると私は考えています。
 何故かというとタダ運動量が多ければ運動能力が上がるとは限らず、きちんと科学的なトレーニング方法を踏んでいなければ徒労に終わり、下手すりゃ怪我のリスクも増します。なので汗をどれだけ流してきたかは、そのスポーツのためにどれだけ努力してきたかは、内実が伴っていなければ実質無意味だと感じるので「だから何?」と内心考えています。

 一方で、流した量を裏切らないものとして、密かに血の量ではないかと私は考えています。もちろんこれはこれまで何十リットル献血してきたかなど実際の流血量ではなく、修羅場をどれだけ経験してきたかという意味の比喩です。それこそ殺るか殺られるかといった命の駆引きとか、どっちを選んでも絶望的な救いのない選択を迫られた、危機を脱するために誰を犠牲にするかとか、こういった修羅場を経験しているか否かは非常に大きいし、この経験は絶対にその人を裏切らず、強くさせると信じています。

 私自身、大した修羅場を経験したと言えるような人間ではないものの、それでも先日たまたまアジア各国に散らばっているのにうまく上海で一堂に会せた友人らを前にして、「よくそんな波乱万丈な人生送ってきたね……(゚Д゚;)」と唖然とさせただけあり、平均的な日本人に比べればまだ経験した修羅場多いのではないかと思っています。
 そんな自分に言わせると、修羅場を経験していると何が強いのかというと、単純に決断の場面でブレないし動じないし冷静に判断できるようになります。例えば時間が限られている中、修羅場経験者とそうでない人間とを比べると決断時の落ち着き様に物凄い差があり、またややレベルの大きな決断、具体的には大金が動くような場面においても修羅場経験者は大根を買うのと同じように冷静に判断を下してきます。実際に自分から見て大方の日本人は、「何故この程度の決断に迷うんだ?」と思うことが多いです。

 そういう意味で修羅場を経験したか否か、いわばこれまでの人生でどれだけ血を流してきたかという経験はその人を決して裏切らず、確実に強くさせると考えるわけです。企業の就活でも恐らく本音ではこういうことを確認するためによく、「これまでに苦しかった体験は何でしょうか?」という質問をよくしてきますが、期待する応えとしては、「困難な課題に対して前向きに解決策を導き出した」というような答えとなるため、修羅場というよりかはやったぜ!体験であって、本筋からぶれていると私は考えています。
 それこそ例えば、「両親が離婚することとなったので父と母、どちらについていくか」とか、「友人がいじめられてて自分もターゲットになりかけ、保身のために友人を切るか否か」、「彼氏(彼女)が浮気をしていて、本人と浮気相手のどっちを殺るか」などという決断を話してくれる人間の方が自分としては将来性があるとみます。突き詰めるとこうした修羅場において何が求められるのかというと、自分がギリギリの状況で何を優先とするかという優先概念です。単純に保身なのか、自らの犠牲を問わないプライドなのか、全体の調和を取るバランスなのか、こうしたものが見えてきます。その上で、「どんな犠牲であれば負うことが出来るのか」というのもはっきりします。

2018年10月14日日曜日

地獄の風景

 最近、「お色気系かと思いきやガチなストーリーが展開される骨のあるRPG」という評判を聞きつけて「クリミナルガールズ」というゲームを購入して遊んでました。このゲームは女の子にお仕置きをして、能力を付けさせながら突き進むというなんやねんとか言いたくなるゲームなのですが、評判の通りに後半はかなり深刻でガチなストーリーが展開され、そこそこ面白かったです。何気に戦闘中のコマンドが、キャラクターがランダムに提案する内容しか選べないという不規則性があり、ゲーム性的にもなかなかよくできた仕組みのRPGです。
 それにしても最近、「閃乱カグラ」といい、色物なゲームばかりやっている気がします。

 話は戻りますが「クリミナルガールズ」はそれぞれ罪を抱えた少女たちとともに地獄を巡って、彼女らに自身の罪と向き合わせていくという内容となっています。その地獄の情景ですが、初めが沼地獄、次が炎地獄、そして氷結地獄とオーソドックスな地獄が続いていきます。そして四番目の地獄ですが、多少ネタバレとなってしまいますが明かしてしまうと、なんと学校そのものが舞台となります。
 実際にゲーム内の少女たちは学校絡みで心に葛藤を抱えているのですが、地獄の情景が学校そのものという演出には素直に舌を巻きました。妙に現実感があるというか、確かにいじめなどを受けた人間からすればこの世の地獄として学校を思い浮かべる人間も少なからずいるのではと感じます。

 恐らく大多数の人間からすれば、中学や高校といった学校は人生の花形、絶頂期として記憶しているかもしれません。しかしその一方で地獄だったと捉える人間もいると私には思え、そう思うと学校とは地獄にも天国にもなりうる舞台とも考えられ、良くも悪くも人の思念を糾合する場所なんだなと思えてきます。
 現実に私も中学高校時代はあまり楽しかったとは思えない側に入ります。学校そのものもそうですが、幸いにも金銭的な苦労こそ経験しなかったものの学校外、具体的には家庭内でも非常に窮屈な時期であり、私もこの世の地獄はどこかと言えば学校はあながちハズレでもない気がします。

 ここで私が何を言いたいのかというと、ある人にとっては天国のような場所でも、ある人にとっては地獄にもなりうるということです。これは学校に限らず職場、集会、サークル、家庭内にも当てはまりますが、天国のような場所としてステレオタイプのように使われる場所は必ずしも誰にとっても天国ではなく、下手したら地獄を想像させることとなるわけです。
 その天国と地獄を分ける基準についてはそれはもう個々人によるとしか言いようがありませんが、こうした天国と地獄が並存する場所というのは間違いなく人間の思い入れが強く持たれる場所であるでしょう。そうした思い入れとかなく機能的に使われる場所、具体的には映画館とかバッティングセンターはごく一部を除き、天国とか地獄になることはないはずです。

 このように考えると天国も地獄も表裏一体のように見えるわけで、なんか人生の教訓めいた話になってきます。最後に言いたいこととしては、このように天国と地獄が同居する場所において、天国の住人と地獄の住人に力関係はあるのか、具体的には地獄の住人がいるからこそ天国の住人は住人となるのかって点です。仮にそのようであれば、そこは現実には地獄そのものなんじゃないのかって気がしてきます。

2018年6月25日月曜日

生きる力を育てる教育とは?

 今日ニュースを見ていたら2020年から小学校で必修となるプログラミング教育について、学校側はどこも全く準備を進めていないというものがありました。私自身もこの方針については疑問に思うところがありさもありなんとか思ったのですが、これ見て昔言われた「生きる力を育てる教育」を思い出したので少し話します。
 っていうか一昨日に「地球防衛軍ポータブル3」買って死ぬほど遊んで今疲労がやばいです。よくできたゲームだし、やっぱこういう単純化された面白味が他のゲームは物足りないです。

 さて生きる力を育てる教育ですが、私の記憶が確かなら1990年代半ばに中学生の自殺が大きなニュースになり、当時の公立校で一時期叫ばれた教育論です。私自身も小学生の頃に生きる力云々とか言われたのを覚えていますが、はっきり言って掛け声倒れもいいところで、どんな教育を指すのか、どう指導するのか学校現場も何もわかってなかった気がします。案の定というか結局数ヶ月くらい叫ばれた後はすぐにフェードアウトして、そもそもの発端となった中学生の自殺事件についても触れられなくなり、それから数年してまた別の自殺事件が起きてから「自殺良くない」という同じような運動の展開が延々と繰り返されるわけです。

 一応というか私の記憶の範囲で言えば、生きる力を育てる教育としてまず挙げられていたのは「命を大事にする」というようなフレーズが飛び交っていました。狙いとしては自分の命も相手の命も大事にすることでいじめはなくなるし、生きる大切さに気付くだろうという腹積もりだったと思いますが、齢30を越した自分に言わせるとこんなの逆効果です。
 生きる力とは命を大事に思うとか、遭難時に役立つサバイバル能力とかではなく(後者はまぁ生きる力の一種だとは思いますが)、突き詰めて言えば「奪う力」だと思います。自分が欲しいもの、具体的な物質でもいいですし、立派な地位や安定した立場とか名誉など無形のものでもいいですが、そうした欲する対象を手段を選ばずに奪おう、得ようとする心構えと価値観、真剣さというのがこの奪う力の定義です。

 何故このように考えるのかというと結局は奪おうとすればガツガツ動かざるを得なくなり、自然とアクティブになるからです。逆にこの奪おうという意気込みが弱くなると、現状から何も手が出せなくなりどんどんと縮こまり、世界が小さくなっていくとともにどんどん消極化して自殺する可能性も生じてきます。
 具体例を挙げると、奪うという行為に対して「奪う対象に申し訳ない」という呵責を覚えることこそが、奪う力を萎えさせます。こんなことを言うとさも私が強盗めいた行為を奨励しているように見えるでしょうが言い訳しておくと、「奪われる覚悟がある者にのみ奪う行為は許される」という前提があります。

 社会において最小の労力と投資で最大の効果とリターンを得ようとするのは当たり前で、この際に相手のことを過度に慮り低い利益率で取引をすることは、まわりまわって社会全体の効率を落としてしまうことの方が多いです。ある意味、競争関係が維持されることで世の中は一番効率的に回り、そうした意味で「緊張感漂う奪い合う社会」こそが正常な社会状態だと私は考えます。
 こうした社会、というよりも普通の資本主義社会ではこれこそが一般的な世界観であり、奪うことに呵責を持つこと自体がこの社会において不利にしかなりません。特に、「奪うのではなく与えてもられるようにする」という価値観は私に言わせれば危険で、奪う側にとっては実質カモだし、他人に依存する価値観は精神を脆くさせるだけです。

 そういう意味で私は、小学生にはまだ早いかもしれませんが中学生くらいには、「暴力や詐欺といった非合法な手段は良くないが、世間的に合法とされる範囲であれば迷うことな効率的な手段を選び、仮借なく相手から奪え!」と教えてあげたいです。その一方で、「長期的な関係を見越して相手に奪わせるのも一つの手」だとして、「まず与え、そして奪う」という史記の管仲伝に出てくる政治概念を解説するでしょう。
 その上で、「一方的に奪い続けるのは、恨みを買うので良くない」ということも教えた上で、「いらないものを奪わせ、いる物は何としてでも奪え。どうやっても奪えないと諦めたその時点で、君の生きる力はマイナス1ポイントだ!」とまくし立てるでしょう。

 真面目にまとめると、奪う覚悟と奪われる覚悟のどっちもない人間は非常に脆いのですが、日本の教育はこうした人間を今量産している気がします。欲しいものを得るためには努力して、リスクを冒さなければならないという大事なことを教えず、「言われた通りにやっておけば与えられる」という間違った価値観を教えているように思えてなりません。だから生きる力が育たないんだと思うし、中国にいてその辺のリアルさを日本は社会全体でいまいち理解してない気がします。まぁ学校の教師ならそれこそ「言われた通りに……」でさもありなんなのですが。

2018年6月11日月曜日

廃墟的価値観について

 アルベルト・シュペーアと言われれば、ナチマニアからすれば非常に見知った名前であっても一般市民からしたら多分知られていない人物だと思います。この人はヒトラーの最側近と言ってもいい人物で、建築家という職業がヒトラー自身の好みにも合って、他のナチ幹部以上に信頼を持たれて終始身近に仕えさせた人物です。二次大戦後はヒトラー側近の中では早くからヒトラー批判へと転じ、その生前の距離感の近さから後年においてヒトラーの生活について非常に詳細かつ価値のある証言を残しています。

 私がこの人物を個人的に評価している点として、「廃墟価値の理論」を提唱したことにあります。これは具体的に言えば古代ギリシャ時代の神殿などが年月を経て風化の跡が見られるにもかかわらず、現代においても多くの人がその美しさを評価して参観しにくるということを例にとり、数千年という長い時間を経てもその美しさを維持する、もとい廃墟となった後も人を引き付けるような魅力こそが歴史的建築物を作る上で重要であるということを主張した理論であります。

 改めてこの理論について考えてみると、出来立てほやほやの建物や家具はそりゃ見栄えがいいに決まっていますが、一程度の時間を経過すると塗装の剥がれやほつれ等が見え始め、その見栄えは当初と比べると格段に落ちてしまいがちです。その一方、骨董や古家具と言われる物品は長い年月を経ながらも、一部メンテナンスのおかげによるものもありますが、その美しさを保ち長きにわたり評価され続け、物によってはその年月の長さ自体が評価アップ要因にすらなります。

 シュペーアはこの理論に則りベルリン市を年月を経ても、極端な話風化したあとも美しさを持つような街に設計することを考えていたようですが、この価値観はこと美を論ずるに当たっては非常に重要な要素だと私には思います。実際に私も家具や道具などを選んで買う際はその見栄えや機能性も考慮に入れるものの、一番重要視するのは「これ古くなった後はどんな感じになるんだろう」という一点です。マグカップにしろ急須にしろ、最初でこそ新しさもあって使ってて楽しいでしょうが、毎日何度も見ていて飽きを感じる頃にはどのように見えるのか、また汚れが付き始めたらどんな感じになるのか、そういったことを想像しながら選びます。
 特に重要なのは飽きが来るか来ないかで、派手な装飾のものほどやはり飽きるのも早いだけに、地味さの中でどれだけ個性を持たせた装飾や形をしているのかなども気にしています。

 日本は住宅にしろ、古いものは原則価値を失うという概念が強く、その点にあまり疑問を挟みません。しかしたまに使う道具ならまだしも、長期にわたり何度も使用する道具、さらにはファッションとかでも、飽きが来る長さはそれ自体が美を維持する要素であり、一撃の破壊力はなくても安定した攻撃力を持つような具合で、長期的に見ればこうした道具とかの方が価値があると私には思えます。
 使ってみたい、使ってみたら楽しそうも大事ですが、どれだけ飽きがこないだろうか、3年後も「ほんまええなぁこれ」と思って使えるか。そうした価値観で以って私は物を選びますが、この概念の下はシュペーアの廃墟価値から来たもので、この点でシュペーアはいいこと言ったと勝手に考えてます。

 もっともこう言いながらも、機能性やコストパフォーマンスに負けて妥協することも少なくありません。今使っているマウスコンピューターのノートPCなんかその最たる例で、機能的にはイヤホンジャックの接続が怪しいこととスピーカ一意外はほぼ満足していますが、このデザインには当初から愛着が持てず、「何故こんなダサいデザインで行こうと思ったのだろう?」といつも思います。
 一方、毎日見ていて飽きないのは南部鉄器の急須と、枕元に置いてあるユーロファイター・タイフーンのプラモです。タイフーンなんか他の戦闘機と比べると非常に保守的なデザインですが、だからこそ飽きない美しさを感じて気に入っています。まぁ一番はやはりMiG-29のままですが、こっちはたまに目に入れたくなくなる時もあり、やはり一発の破壊力に強い美しさな気がします。

  おまけ
 東京の建築物で言えば、東京タワーとスカイツリーがまさにこの点でいい対比な気がします。後年評価されるのはどっちなのでしょうかね。

2018年5月11日金曜日

物欲の科学

 電子書籍で「へうげもの」の1から3巻が無料配信していたので購入(つっても0円)して久々に読み返してみましたが、改めて面白い作品だと思え非常に楽しめました。作者の独特な感性と歴史漫画でありながら現代アートに通じるようなデフォルメされた描き方もさることながら、主人公の古田織部(佐介)の物欲全開な活躍というキャラクターには心動かされます。
 そんなこの作品を見ていて、よく人間の三大欲求は食欲、性欲、睡眠欲と言われますが、実際にはこれに「物欲」も入って四大欲求とするのが適切ではないかと思えてきました。ネットで見るとさらに名誉欲を加えた五代欲求を挙げる人もいますが、この名誉欲はちょっと外れるのではないかと思え私は支持しません。

 少しまじめな話をすると、科学技術の発達していない未開の部族間でも定期的に宝物を交換し合う行為は割とどこでも見受けられ、この「交換」という行為はある意味で物欲というものが人間の生理的欲求に根差していると伺える根拠となるように思えます。同様に教育を受ける前の子供たちを見ても他人が持っているものを欲しがったりする行動が見受けられ、この点もこうした考えを支持するように見えます。

 では食欲に対する食べ物の臭いに相当する、物欲を刺激するものとは何なのか。これなんて先ほどの子供の行動を観察すると見えやすいですが、まず「他人が持っているもの」は理由なく物欲を刺激されるポイントと言っていいでしょう。ましてやそれが「自分が持っていないもの」であればなおさらです。
 ここでのポイントとして「比較」という現象が働いているのが分かります。例えば同じ種類の物でも、他人の持っている物より自分が持っている物のランクやグレードが高ければ安心しますが、その逆だと不安というか落ち着かなくなり、単純に言って奪いたくなるわけです。少し話の発展が早いですが、ある意味でこれが「嫉妬」の原点かもなとも思え、物欲こそが嫉妬を生む張本人とも思えます。

 話を少し戻すと、物欲においては比較という仲介行為が凄い役割を果たしており、これは逆に言えば唯一無二の比較しづらいものだとあまり物欲は刺激されないということとなり、その点で言えば収集を競い合う「同好の士」という存在もまた物欲を刺激する要素となりうるでしょう。
 ただ、中には一人孤独にある特定種類の物品収集に精を出す人もいますが、こういう人も考えると次の要素に当たる「コレクション」というか、「完全網羅性」こと全種類を揃えたくなるコンプリート欲求も見えてきます。現在の私を例にとると、時間があるので軍事研究を兼ねて戦闘機のプラモを作り始めたところ、姉妹機がめっちゃ多いフランカーを全種類揃えたくなってきていますが、まさにこう言うコンプリートを自然と目指すのも何かの欲求と見るべきでしょう。

 このほか検討を深めればもっといろいろ見えてくるでしょうが、先に話をまとめると意外とこうした物欲に関する研究とか議論はあまり見ないなと思います。私自身以上の考えは今日帰りに歩きながら、あと途中で醤油ラーメン食いながら考えた内容で、多分似たような意見を言う人はいるでしょうが私のようなまとめ方をしている人は絶対いないでしょう。それにしても明後日の方向見ながらラーメン食べてる自分を店員はどう見てたんだろう。
 こうした物欲に対する考え方は使い方によってはマーケティングにもすごい活用できると思うし、また「へうげもの」のように人心掌握のツールとしても活用できるはずですが、あまりそうした使い方を提唱する人は見ません。そもそも体系的にまとめようとしている人もいませんし、なんていうかもったいない気がします。

 最後にこちらはまだあまり自分の中で検証をしきっていませんが、先ほどの「物欲からくる嫉妬」について、男性は形の無い物、女性は形の有る物に覚えやすい傾向があるのではないかと思います。この男女差はどっから来るのか、また暇になったら考えます。

2018年4月29日日曜日

異色学部の出身者たち

エンジニア・投資家・サッカー選手という3つの顔を持つ男の『超戦略的生存戦略』(SiliconValleyWorkers)

 同志社大学神学部卒で元外交官且つ「ラスプーチン」だった佐藤優氏のファンだということを察して、友人が上記記事を紹介してくれました。この記事で紹介されているのは同志社大学神学部卒で、サッカーの元学生日本代表である酒井潤氏ですが、こうした記事で紹介されるだけあってなかなか面白い価値観を持った人だと私も感じます。
 特に「米国で働こうというのなら取得できるビザの種類をきちんと調べておいた方がいい」というアドバイスに関しては、重要そうでありながら意外と誰も指摘しない点だと思え、唸らされました。

 そうした酒井氏自身のバックグラウンドも十分面白いですが、友人とともに話題になったのは同志社神学部教授の酒井氏へのアドバイスです。酒井氏自身はスポーツ推薦で入学して且つ信仰も持っていないというそうなのですが、怪我でサッカーを断念した酒井氏(本人はあまり気にしてなかったようだが)に対し、「今後はITと英語ができれば食っていけるよ」と、神学部らしくないやけに現実的なアドバイスをしてきたそうです。間違ってはいないですが、割とストレートなこと言うなと対談でもやや盛り上がっています。

 これに限らずと言っては何ですが佐藤優氏に関しても神学部受験時のエピソードで、当時はまだ裏口入学があった関係から面接試験もあり、その際に何故この学部を志望したのかと聞かれて当時ガチガチの左翼思想だった佐藤氏が、「無神論を研究したいからです」と思わず本音を言って「正直すぎてしまった(;´・ω・)」とか思ってたら、「他の学校に受かったとしても、ぜひうちの学部に来てくださいね( ・∀・)」と帰り際に言われたそうです。あとでその時の面接官だった教授に話を聞くと、「君みたいに最初反発してる奴ほど、信仰にハマるとこれがまたすごいんだよ( ・´ー・`)」と、また割とリアルな価値観を見せつけられたそうです。

 話は本題に戻りますが、こうした神学部や哲学部、あと理系なら天文学部とか現実から結構遠い学問系出身の人間について、大半は理屈っぽかったり愚痴が多かったりして社会人としてはやや扱いづらいなと思う人が多いものの、この手の出身者のごく一部はとんでもなく優秀な人が多いのではとこのところよく思います。現実離れした学問を専攻しただけあって考え方が深く、また他の人にはない視点を突然持ち出してくることがあり、 ハマれば化けるタイプを何度か私も見てきました。そういう意味では専攻までとはいかずとも、小中学生くらいの子供にこの手の天文や哲学をしっかりと学ばせておくのはメリットが多いと断言できます。私はあんまやらず、何故かセンターで地学を受験したのでその際に一気にケプラーの法則とか学びなおしましたが。

 最後にこれは私が直接聞いたわけでは、上記の同志社大学のある授業にてある講師が、「キリスト教は虐殺を繰り返して信者を増やしていったような宗教だ」と普通に発言したそうです。こういう発言をしても誰も咎めない環境を始め、アナーキーすぎる学校だなと常々思います。

2018年4月22日日曜日

てんかんとデジャブ

 今月初めに極端に体調が悪くなったのですがその原因ははっきりしていて、仕事中に「ああ、ここだったのか」と感じたからです。なにが「ここだったのか」というと、大体去年の夏頃に見たデジャブというかイメージが今月初めの勤務中の自分の姿だったということです。
 いきなり訳の分からないことを言い出していますが、こういった予知夢めいた未来のイメージを白昼夢のように見ることは自分にとってはよくあり、去年の夏に今回のイメージというかデジャブを見た時には、「とりあえず来年の春までは今の職場にいるということか。勤続2年は達成できそうだ」なんていう感想を覚えたこともあり、割としっかり覚えていたイメージでした。

 またこの時見たイメージは特徴があり、というのも今年2月から職場での自分の座席が変わって窓際、それもかなり隅っこで割と個室っぽい空間となりました。この座席ですが窓からその風景を一望出来て、この外の風景がデジャブにもはっきり出ていたので記憶面でもあまり離れなかったのだと思います。
 その上で、こうしたデジャブを見る、そして思い出すとほぼ確実に軽いてんかん発作が起こります。むしろ私にとっててんかん発作はデジャブとほぼセットであり、最初に発作を意識した小学四年生時においてすらも「(発作によって)急に気持ち悪くなって吐き気を催すと、なんか懐かしいような気持ちがする」と自分の口で言っています。

 一応書いておきますがてんかん発作と言っても自分のは軽度なもので、最後に気絶にまで至ったのは6年前で、法律上でも過去3年間に気絶を伴わなければ申告義務も発生しません。っていうかここ数年は軽度の発作もほとんどなかったのですが、今年2月から4月にかけては激務もあってかこの時のデジャブを含め何度か吐きそうになりました。

既視感(Wikipedia)

 今まで知りませんでしたがデジャブは側頭葉てんかんと関係が深いことは前から見られていたものの、都合よく再現実験ができないこともあって詳しい研究はまだ進んでいないようです。そういう背景もあって自分の体験を書き残そうと今書いているのですが、私の場合はデジャブを感じる→ああそろそろ来る→てんかん発作(吐き気、頭痛)という流れがほぼ確立されています。そのためデジャブというか、「あれ、この状況前にも見たような……」という考えがよぎるとぞくぞくするというか、意識的にそれ以上あまり深く考えないようにしたり他の方に意識を向けたりすることもあります。

 また思い出す方向とは逆に、先ほども書いたように白昼夢のように妙な自分の未来っぽいイメージが浮かぶ時も大体同じ流れです。この状態でも、「ああ、発作来たな」と内心思うのですが、割とこういう時は流れに任せるというか、発作の感覚をむしろ進んで受け入れることが多いです。なんでそんなことするのかっていうと、はっきり言えば発作起きている時の自分は当社比120%みたいな感じで勘が冴え渡り、予測や分析をさせたらほぼピタリと的中させられるくらい頭が回るようになるからです。このブログに関しても、てんかん発作真っただ中の間は書くの休んだりしますが、治まった直後なんかは自分が見てもいい視点で記事が書かれてあったりします。
 そういうこともあってかこういう発作の時に、自分が未来を見ているという感覚は普通に持っています。先ほどにも書いたように、今回のデジャブのイメージを持った時も「来年春まで残留はほぼ確定」と確信しましたし、現実に周りから「今回の職場は珍しく花園さんにとっては長続きしますね」と驚かれるくらいもっています。逆を言えば、自分の賞味期限は約二年ってことになるのですが。

 この記事で何が言いたいのかというと、デジャブはてんかんと非常に密接な関係があると言いたいわけで、頻繁にデジャブを見たりする人に関しては自分同様にてんかんの可能性も疑った方がいいと思います。特にデジャブを見た直後に頭痛、吐き気を覚えるのであれば、ほぼ確実だと思え、平常時の診断ではなかなか出ないのでそのような状態の時に診断を受けるべきです。
 なお自分も最初気絶した際は原因不明、二回目の際にスキャン受けながらデジャブ見た時にはっきりと診断データが出て、晴れててんかんキャリアとなりました。

 もう一つ言いたいことを挙げると、てんかん発作時に見るイメージは未来透視というよりかは未来の可能性の中でも割とあり得そうな、確率の高いイメージ、若しくはこうあってほしい願望的なイメージが出やすいのではないかとも思います。私が見るイメージは確率で言えばまさに将来その通りの状況が出るなど高い実現率に達していると思いますが、中には結局実現せずに終わったイメージもあり、数ある可能性の一つだとは思うものの必ずしもそうなるとは限らないイメージだと考えています。
 こうした点を踏まえると、未来予知をする巫女とか予言者などは多分この手のてんかん発作を利用してイメージを見ていたのではと私には思えます。やろうと思えば多分私にもできるんじゃないか、具体的にはてんかんを引き起こしやすそうな環境や状態(三半規管を揺さぶるなど)に追い込んで発作を起こし、あとはひたすら見ようと思うイメージの関連物を頭の中でぐるぐる回せば一つや二つのイメージは作り出せる気がします。もっともすっげー吐きそうになるので実際にはやりませんが。

 逆に今個人的に気になっている点として、他の人はどういう状況でどんなデジャブを見るのか。自分とどう違うのかに興味があります。自分の場合は先ほど書いたように「デジャブだ」と思う総毛立つのですが、他のみんなはどないなんやろう(´・ω・`)

2018年4月8日日曜日

現実を歪める人の3タイプ

 昨日書いた「昨今の表現規制」にてコメントをもらったので、「監獄学園」の最終巻には大幅加筆すると本誌で予告されていたのに実際ほとんど加筆はありませんでしたが、先の記事に関して私は加筆をしようかと思います。
 つうか「監獄学園」の件はページ飛びもあるし真面目に詐欺もいいところな気がする。俺も金返してもらおうかな。

 早速書いていきますが私は先の記事にて「血液を赤く描いてはならない」とするゲームにおける表現規制を例に取り、現実には赤いのにそれを否定する行為はもはや現実を否定する行為に等しいしこうした表現規制はむしろおかしいという主張を行いました。その上で現実は直視するべきものであり、現実をありのままに描こうとすることを否定もしくは妨害する行為はあってはならないし、この面での表現の自由は何人たりとも犯してはならないし、自分もこの件に関しては全力で抵抗するということを書きました。
 この記事について知人から、実際にこうした表現規制を行う人間の特徴として以下のようなコメントを受けました。

「規制したがる人たちは、自分達はキレイな世界に生きていると思いたいから、実際には存在しているが、汚いものを私たちに見せて、私たちの世界観を壊してほしくないという考えで、そういう考えを持っている人たちのエゴなのではないでしょうか?」

 基本的にこの知人の意見に関しては私も同意するのですが敢えてもう少し掘り下げると、表現規制する人(=現実を歪める人)はその特徴で分けると3タイプに分類できるのではないかと考えています。というわけで早速、実質的に私と敵対する立場の「現実を歪める人」の3タイプを順に説明してきます。

タイプ1、過度に反応、忖度して表現規制を強化、増加する人たち
 このタイプは主にマイノリティらに関する表現規制を作る人で、古いものだと「ちびくろサンボ」を廃刊に追い込んだ連中や、最近だと何故か「お父さん」、「お母さん」という言葉を使ってはならないと言い出した千葉市が当てはまります。
 この手の連中は規制する言葉や表現が差別につながると主張して使用を禁じようとしますが、むしろ彼らがそう主張するから差別用語とかになっているとしか思えません。それどころかこうした主張を援用するならより多くの言葉や表現が規制されかねず、いわば限度のない議論へと発展しかねないリスクもはらんでいます。そもそも、こうした連中が規制する言葉や表現が差別的かと言われればそうとは思えないものばかりです。

 ある意味、最初に挙げた赤い血液を描いてはならないとする連中もこのタイプに属すでしょう。この手のタイプはその表現が差別的だとか問題があるかを真剣に考える前に、「とりあえず当たり障りないよう批判が来そうなものは全部排除」的に過度に反応して決めていることが多いように見えます。私に言わせれば、現実を否定すること以上の差別はないとは思うのですが。

タイプ2、現実を直視したくない、対策を取りたくない人たち
 表現というよりかはこちらは実務面に近い話となります。でもって、知人が指摘した特徴はこのタイプに属すでしょう。
 まず大前提として、現実というのは基本的に見るに堪えないもので、直視すればするほど苦痛を催す物象であります(例:「アイドルはおしっこをしないわけがない」)。また厳しい現実を突きつけられ、その状況から脱するためには現実に即した対策を取る必要がありますが、基本的にそうした対策というのも身を切らざるを得ないものばかり、というかものしかなく、対策の実施によって失うものも少なくありません(例:リストラ、口封じ)。

 そうした厳しい現実と迫られる対策から逃れるためにはどうすればいいかとなると、現実から目をそらし、夢想の世界へ逃げることこそが一番安直な道であることに間違いありません。私が見るに日本人はこの手の現実逃避が非常に得意で、高齢化問題を初め厳しい現実があっても目をそらし、やるべき必要な対策もはっきりわかっていながら実行するのは大変だからと、簡単即座にすぐできるやってもやらなくてもいいようなどうでもいい対策を打って、「対策打ったからこれでもう大丈夫!」と精神の安定を図ります。
 最も偉そうに言う私もそうした思考や行動がないわけではなく、また日本人でなくても人類すべてが「現実から目をそらす」という行為を多かれ少なかれやってしまうものだと思います。日本の場合、エリートまでもがそれやってしまうのは問題だとは思いますが。

 以上の2つのタイプはどちらもその言動によって現実をゆがめる可能性のある人の特徴を説明していますが、はっきり言えばこの2つは現実を歪めるのは消極的な動機からなのでまだ救いがあります。
 特にタイプ2は人類の現実に対する弱さ的なもので、旧日本軍指導者のような集団を束ねるエリートがやってしまうのは大問題ですが、近くにいたらはっきり言って迷惑であるものの個々人でこうした言動を取ってしまうのはある程度仕方のないところがあります。第一、冷たい性格した人の表現として「現実的(リアリスト)な性格」というのですから、現実を追えば必然的に孤高となるのでしょう。

 一方、以下のタイプ3については別問題です。

タイプ3、自己利益拡大のためにわかっていながらわざと現実を歪める
 具体例としては出所不明の新ルールを作って流布するマナー教室、同様に明らかに合理性のない説明で何かを貶める記事を流布するメディアです。マナー教室については先にも書いた「了解という言葉は不敬」だとか、「ハンコは斜めになるよう押印する」、「訪問先で出されたコーヒーを飲んではならない」などと、コミュニケーションを阻害するようなそれまでになかった新ルールを出す連中で、後者のメディアは最近だとオフィス北野社員を偽装した上でその発言を報じたフジテレビです。あれも恐らく劇団員だろうな。

 このタイプ3は完全に自己利益の拡大のために敢えて現実とは一致しない情報を流布したり、表現規制を作ったりすることで注目を浴びようとするタイプです。このタイプは紛れもない悪であり、その言動のみならず存在自体が社会にとって有害であり、たとえどのような手段を取ってでも排除すべき対象だと私はみなしています。彼らがいることでそれまで誰も気にしなかった行動や発言がある日突然人を不愉快にさせる者になったり、もしくは誤った情報で批判される必要のない無辜の人や団体を批判に晒したりと、現実を歪める行為の結果として歪な事態を招きます。

 ここだけの話、最近私が係っている中国関連報道などもいい例でしょう。仮に私がそれこそ中国について見下す、馬鹿にする、あげつらう記事をなるべく理不尽且つ不合理な理由をつけて量産していたら、今頃は「中国報道の第一人者」と言われるくらいに売れっ子ライターになっていたかもしれません。まぁでっかく出ると「派遣マージン率の第一人者」であるという自覚は内心あるけど。
 しかし言うまでもなく、私はそうした報道を行えば収入も社会地位的も向上することが分かっていながら、そうした行為に手を染めてきたことはありません。何故なら理由のない批判や現実に即していない報道は巡り巡って自分にとってマイナスとなることが分かっているから、などと大層な理由を付けずとも、普通にそんなことする奴は頭がおかしいでしょう。けど現実のところ、「中国は崩壊する」とノストラダムスのように毎年本出しているライターがいて、売れっ子となっているのは事実です。

 しかしそれこそ前述の通りに自らの精神安定のために現実を歪めて見ているだけに過ぎません。第一、敵を侮らせるほどの利敵行為はなく、現実から遠ざかれば遠ざかるほど単純に弱くなります。そうした概念もあってか、私がJBpressで書く記事は「如何に現実を見せるか」に重点を置いていつも書いています。

 多少脱線しましたが、自己利益のために現実を歪める、ましてや表現を規制するような輩はたとえどのような理由があろうとも私の敵以外ほかならず、決して同じ天は戴けないと考えています。そしてあくまで私の立場から言えば、こうした連中は本当にどうしようもなく足を引っ張る存在であり、なるべくなら社会から排除した上で見せしめもかねて徹底的に攻撃するべき対象でもあると主張させてもらいます。
 その上で、これも先に書きましたが現実を直視するということは基本、苦痛を伴います。見なければ済む現実であれば正直、見ないに越したことはありません。しかし「見なければならない現実」に関しては、たとえどれだけ苦痛を感じようとも見る必要があります。というのも、目をそらしても一瞬だけ苦痛から逃れるだけで、あとでもっと大きな苦痛に襲われることになるだけだからです。

 さらに書くと、現実というのは見ようと思ってもなかなか見れるものではなく、死ぬ気で追いかけて初めてその一端が見れるものだと私は思っています。自分はライターという立場……っていうか本業記者じゃないですが、芸術家などはやはりそうした現実をどれだけ直視したかが作品に現れるようにも感じ、自分も可能な限り自分が見た現実を文章に反映させようとする立場を取っています。

2018年4月5日木曜日

能力の成長する様

名越稔洋が選んだ修羅の道【若ゲのいたり】(電ファミニコゲーマー)

 上の漫画に出てくる、ヤクザが主人公のゲームを出す際に倫理規定担当者とのやり取りで、

「人間が赤い血を吹いて倒れるのはまずい。モンスターかクリーチャーであれば問題ないんですが」
「じゃあアレか?ピ〇チュウが断末魔に血を吹いて倒れたらOKなのかよ?」

 というやり取りが変にツボにはまりました。それにしてもこのセガの名越稔洋氏、どの人の取材マンガでも下手な漫画のキャラクターよりマンガらしく描かれるのが面白いです。

 話は変わりますが私は前回の記事で人間がその能力を衰退させていく様は見ていて苦しいものがあると指摘しました。ではその逆はと言っては何ですが、人間がその能力を成長させていく様は逆に見ていて最高に楽しいものと断言できます。
 以前ゲームの「面白さ」はどこにあるかというテーマで、重要な要素の一つに「成長の実感」を私は上げました。これはRPGにおけるゲームのキャラクターのレベルだけでなく、プレイヤー自身の技量や知識も当てはまり、ゲームで遊んでて「前よりうまくなった」、「前よりキャラが強くなった」と感じることそれ自体が面白さに直接つながるという意味です。従ってゲームにおける育成要素は意図的に多く盛り込めば盛り込むほどゲームとしては面白くなっていくと言い切ることが出来ます。

 これは現実でも同じことだと言えます。私個人の体験で言っても後輩らに指導してそれをきちんと実行できるようになるなど実力が高まっていく様子は見ていて楽しく、物覚えのいい相手だったらこっちもどんどんいろんなことを教えたくなってきます。また最近予備校での激務、ブラック企業化が問題となり始めてきていますが、予備校業務の激務は以前からあったものの何故これほどまでに取り上げられず、尚且つそれでも予備校講師を目指す人間が後を絶たなかったのは、林先生のように当たればめちゃくちゃでかいということもあるでしょうが、人間の成長する様がそのままモチベーションにつながる、やる気を生み出しやすい業務であることも大きいのではないかと考えています。
 実際に予備校講師をバイトでしていた知人などからはそういう話をよく聞きます。逆に「何から教えていいかわからない……」という結構やばげな生徒を受け持ってしまった苦労も効いたりしますが。

 割と結論がはっきりしている分、これ以上書くことがないので私の例を述べていきますが、多分周りから見たら私の成長過程ほど見ていてつまらないものはないでしょう。私の場合、言われたことはやらないくせに言われてない分野でガンガン能力を引き上げようとする傾向が強く、学校の勉強もそんな大してできない時代が長かったですが、興味を持ち出すとある日突然成績が跳ね上がるということが多々ありました。
 このように私の能力向上に関しては指導云々よりも私自身が興味を持つか否かに左右され、必要だと認めたり、ある日突然「そうだ、俺は戦前に生まれていたらエースパイロットになっていただろう」などと考え始めたら最後、割と短期間でその分野の知識の吸収なり関係者への聞き込みを始めたりします。こうした傾向は、依然見てもらったスピリチュアリストにも指摘されていたので筋金入りでしょう。

 だとすれば指導側の人間にとってはつまらないことこの上なく、必死こいて教えた内容はなかなか身につけないくせに関係ない方面ではグングン力を伸ばしていくのですから。現実に、勤務先でもそういう傾向を見せているので、過去の上司からは「お前ほどいうこと聞かない奴は初めてだった」と口裏合わせているんじゃないかと思うくらい同じこと言われます。
 ただ少し言い訳をすると、日本人は指導者の教えは絶対だと信じてその指導に無条件で従うことが多いですが、私の場合はそうではなく、指導内容はもとより指導方法に対しても疑問を持つことがあり、なまじっか表現力が高いこともあってか「もっといい教え方があるのでは。というより、もっといい指導者絶対いるだろ」と思ったらもう言うこと聞きません。変な指導に耳を貸す暇あったら、誰も指導してくれないような分野で自己研鑽している方が絶対効率的です。

 無論こんな厄介な人間が日本社会で評価されるわけがありませんが、最近時代がようやく自分に追いついてきたなと思うときがあります。具体的には学校の部活動とかで、明らかに生徒の疲労や運動量を考慮せず、また体を痛めつけるだけで何のプラスにもならないトレーニングを課されるのを見て何度か部活を辞めたことがありましたが、成人になってから改めて当時を見直すと判断的には明らかに間違っていなかったと確信することが多いです。
 また最近の部活動教育改革を見ても、明らかに科学的理論を無視したトレーニングに警鐘が行われ始めており、やはり唯々諾々と指導者の教えを絶対視するのは良くない、まともな指導者を教えられる側も選ばないといけないなと反省のなさを見せるわけです。