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2008年4月29日火曜日

150件突破

 今日見てみたら、今書いた分でこのブログの投稿記事数が150件を突破していました。思えば結構書いているんだと、自分で再確認です。

 もともと、私は文章を書くのが好きで授業のレポートなども大抵ストレスなく嬉々として書いていました。当初、最も好きなのは小説を書くことでしたが、大体高校生くらいの頃でしたか、その頃くらいから現在のこのブログのようにエッセイを書く方が好きになっていきました。それで数年前に、そのエッセイの技術を向上させるため、「一日一エッセイ」を実行しようとしてしばらく書き続けましたが、大体一ヶ月を過ぎたくらいで、面倒ということでやめてしまいました。

 なので、このブログもそんな風にならないかなと心配していましたが、去年の12月から初めてもうすぐ半年です。なんでここまで続いたのかというと、断言こそ出来ないものの、おそらくきちんと記録され、公開されるせいだと思います。
 ひとまずの目標として、今年の12月まで、つまり一周年を達成するまでは継続したいと思います。

 今日また体調悪かったから、文体がちょっと前までと比べて一気に変化してるなぁ。

百年前に起こった日本の葬式文化の変化

 ちょうど中国の約百年前の話を書いたので、ついでに日本の百年前の話を書こうと思います。

 現在、日本の葬式では黒一色の喪服を着ることが礼儀とされています。しかし同じ文化圏に属す中国や韓国は葬式の際は白一色の服の喪服です。実は、日本も百年前は同じく白一色でした。

 詳しい起こりはわかりませんが、多分葬式で白一色を着るのは儒教の影響だと思います。そのため日本も明治時代までは白一色で葬式を行ってきていたのですが、日露戦争の頃、先進国との初の戦争と言うこともあり、日本軍はこれまでの戦争以上に多くの死者を出しました。その前の日清戦争と比較すると、日清戦争では約1万8千人だった死者が日露戦争では8万7千人と、実に日清戦争の5倍弱も亡くなっています。

 そのため日本国内では毎日あちこちで葬式が営まれていたのですが、当時も今と同じく喪服は主にレンタルで使いまわされていたようです。しかし何度もあちこちで起こるもんだからレンタル業者さんも回しきれない、とてもじゃないが洗っている余裕すらない。それならばと言うことで、この際汚れが目立たない黒にしちゃおうじゃないか。そんなノリで、いつしか喪服には黒一色が使われるようになっていき、現在に至るらしいです。

 この話は何かの本で読んだだけで詳しく確認は取っていませんが、事実としたら日本の黒一色で葬式に望むという伝統は意外に歴史が短いということになります。別に歴史が短いから今更それ以前の白一色に戻せとは言いませんが、必ずしも黒一色で望まなくともいいんじゃないかという気はします。もっとも、これだけ普及しているのならば逆にわざわざまた変えなくともいいのですが。

 ですがこの喪服以上に強く主張したいのに、実は背広があります。現在、社会人はいつでもどこでも仕事中は背広を着ることを要求されますが、この背広とて普及したのは明治以後で、しかも今みたいにどこでもクーラーがあったわけでもないほんの30年くらい前は、今の高校生みたいに真夏は暑いということで上着は脱ぐことが許されYシャツ一枚でもよかったそうです。にもかかわらず数年前より始まったクールビズが取り上げられるや、「サラリーマン文化が壊れる」、「だらしない格好だ」、「お上になんでそんなことまで言われなければならないんだ(古館一郎)」といった意見が続出していました。
 たかだか30年前にはなかった歴史の短いものに伝統文化なんて見出されても、ましてや不効率この上ない服の着方を固辞されても困るだけです。葬式の際の喪服はともかく、こっちの方くらいはとっとと変える、というよりは戻すべきでしょう。

百年前の中国で起こった不買運動

 さてまた飽きもせず中国ネタです。もはやカテゴリーを作ってもいいくらいだな。

 現在、向こうではチベットの人権問題について非難し、北京五輪開会式ボイコットを匂わせているフランスに対してあてつけとばかりに、フランス系スーパーのカルフールが現地で不買運動に遭っているようです。
 なおこの不買運動が行われているとしてテレビなどで報道される際、私が確認する限りどうも武漢しか映されていないように見えます。この場所はかつて2004年にサッカーアジアカップが行われた場所で、その際のジャパンパッシングが大きく取り上げられた事によって、この年から急激に日本人の中国に対する親近感が内閣府の「外交に対する意識調査」によると激減しています。
 それくらい武漢は反骨心が強い場所と言われ、この不買運動もそういったものが影響しているのかもしれません。しかし日本のマスコミを見ていてどうかと思うのは、恐らく北京や上海のカルフール(私が北京にいた2005年は人の入りも多くて大人気だった)ではこのような問題は起こっていないと思うのですが、不買運動が起こっている武漢だけを映し、日本人に妙なステレオタイプを植えつけるのはあまり賢くないと思います。

 そんな不買運動なのですが、実は百年位前にも中国では不買運動が起こっていました。その対象となったのは、実は日本の製品です。
 事の起こりは大正時代、辛亥革命によって清帝国が滅び、一時的に袁世凱が臨時大総統をやっていた時です。そのとき日本はどさくさにまぎれて第一次世界大戦に参戦し、中国にてドイツが権益を持つ山東省を奪い取っています。その上で台所事情が大変だった袁世凱に対して、強圧的とも取れる対華21ヶ条を要求しました。はっきり言って日本にとって都合がいいだけの要求でしたが、権力基盤の弱い袁世凱はこれを受けざるを得ませんでした。しかし中国国民はこれを恥だとして、もう日本の製品は買わないと言い合い、日本製品に対して展開したのが当時の不買運動でした。

 この時、朝日新聞社の社友であった芥川龍之介は新聞社の計らいで確か上海にいました。そしてこのような不買運動を行っている中国人を見て、
「中国人は日常の不便を我慢して、日本の製品を買わないでいる。中国はきっとすごい国になるだろうよ」
 と、評しています。

 私の感想を言うと、確かにあんなめちゃくちゃな外交要求を出されて黙っている国民はいないと思いますが、それに対してきちんと行動を起こすということは、アメリカにあれこれせっつかれてもなにも反論しない日本人としては確かに見習うぐらい立派な行動かと思います。しかし現在のカルフールの不買運動については、すでに報道されているようにカルフール店内にて働いている中国人もたくさんいるということと、チベット問題のことを考えると少しどうかなというものがあります。

 それにしても、百年経っても同じ不買運動を起こすんだなぁ中国って。

2008年4月27日日曜日

山口補欠選挙結果と今後の展望

 本日行われた山口県補欠選選挙の結果が、午後八時の投票締め切りと同時に選挙結果予測が先ほど、どの局でもすぐに伝えられました。結果は民主党の当選確実と、午後八時の段階で伝えられたことを考えると恐らく圧勝でしょう。

 この結果から予想されるのは、今後も民主党は世論を得ていることを確信し、より強硬にかつ強気な態度に出て行くことでしょう。まぁ表現があれですが、別にそれは悪いことだとは私は思いません。むしろこれまでの自民党の迷走振りを考えると、アレだけ民主党を嫌っていた私ですらこの際勝たせたく思っているくらいです。

 具体的なスケジュールは以前に予想したとおり、自民党が暫定税率を復活させた時点で民主党は問責決議案を提出、その後、福田内閣はかなりの確立で解散へと迫られるでしょう。この状況を自民党の立場でどうにかするならば、それこそよっぽどのスキャンダルを暴露せねばなりませんが、何かいいネタでもあったりするのかな。

2008年4月26日土曜日

伊達政宗と茶碗、の巻

 なんか最近歴史関係の話が多くなっているけど、今日もそんなお話です。

 今日、友人と一緒にゲームを買いに行き、友人が「みんなのGOLF4」を買おうとしてレジに並んだら、レジ前にて張られている紙に、「2本まとめて買ったら500円引き」という言葉が書かれており、それを見た友人は、「それならもう一本選んどいた方が良かったかな」と洩らしました。逆に自分はと言うと、「こういうおまけ的なもので判断が鈍ったりする方が嫌だ。第一、こういうときにまとめて買った物ってすぐにいらなくなるし」と言い返すのと同時に、ちょっと以前に別の友人と話した内容を思い出しました。

 その友人と話したのは、スーパーなどのスタンプクーポンの話でした。ああいうのを常に持ち歩いていると財布がすぐにいっぱいになるし、第一、なかなかたまらないからあんまり持ち歩かないと私が言ったところ、友人も同じく持たないと言い、そもそもそのほんのわずかな特典に引かれてなにか買い物をする際に、毎回判断が固定されたり行動が制限されることの方がデメリットが大きいと続けてきました。
 私もこの友人の意見に同感で、ほかにもその商品が安い店があるかもしれないのに、「カード持っているからここでいいや」とか、逆に別の店で安い商品を見つけても、「でもあそこならポイントつくしなぁ」とか考えるのが、私もなんとなく嫌です。

 それで本題に移るのですが、戦国武将でKOEIさん贔屓の伊達政宗は、京都で千利休に教わってから茶道にえらくはまったらしく、領国の仙台でもお茶を無理やり栽培し始めて、現在も日本のお茶栽培は仙台市が北限とされています。
 そんなんだから茶会なども何度も開いていたそうなのですが、ある日、茶会で高級な茶碗を手から危うく落としそうになり、はっとしてそれを受け止めたのですが、受け止めてしばらくすると、
「そもそも、たかが茶碗の癖に俺を焦らせやがってっ!!」
 と言って、わけのわからない逆ぎれを起こしてその場でその茶碗を粉々に叩き壊したそうです。

 まぁ逆ぎれとか書きましたが、私はこの伊達政宗の感情がわかるような気がします。私自身、自分の決断やら判断をなにかに邪魔されるのが無性に嫌で、先ほどのようなクーポンやポイントカードはなんか乗せられているような気がして、一応作ったものの大抵はそのままゴミ箱行きにさせています。ソフマップカードも、ほとんど使わずに捨てたしなぁ。

 さらに詳しくやるとこの話はマルクスの「疎外論」につながってくるのですがそれはまた今度やるとして、こんな性格だから物への八つ当たりが激しいのかと、少し自分の性格を反省するしだいです。

2008年4月25日金曜日

孫子の兵法は本当に強いのか?

 さて今日のお題の孫子の兵法ときたら中国人なら誰でも知っていますし、向こうのビジネスマンは冗談抜きでみんな読んでいます。実際に私が向こうにいたときも、常に本屋で孫子の兵法のビジネス解説本がおいてありました。

 しかしこの孫氏の兵法ですが、果たして軍学としてレベルが高いかどうかについて私は少し疑問を感じています。実際に漢文で私も読んだことはありますが、書いてある内容は非常に質が高いです。ただ問題なのは、この兵法にのっとって戦争をやっても実際に弱いんじゃないかということです。

 と言うのも、中国、と言うより漢民族は対外戦争においては非常に弱いからです。
 古くは漢の時代の異民族である匈奴。漢は毎年莫大な贈り物を送ってまで和平策を取りました。そしてその後に漢が滅んで三国志の魏が出て、魏も滅んで晋の時代には異民族が大挙してやってきて、中国の北半分が取られちゃいました。
 その後も唐の時代には元通りになり、逆に異民族を破って版図を広げるものの、唐が滅ぶと五代十国時代でまたやられ放題。宋に変わってもまた北半分取られてしまいにゃモンゴルの元になるし、明の頃にまた復活するもその後は満州族にやられてしまう。

 もっとも、ここまではまだいいでしょう。当時の民族状況はまだ今とは違いますし。しかし時代が近現代にはいっても、なんか中国は対外戦争に弱いような気がします。
 まず最初にあったのはアヘン戦争、欧米にめちゃくちゃやられます。次は日清戦争、これに負けちゃって眠れる獅子じゃないと言われちゃいます。そして日中戦争、これは内部抗争もあったけどね。

 そうこうしているうちに現在の中華人民共和国になりましたが、今問題になっているチベットの侵略には成功したものの、あまり知られてませんけどアメリカとの戦争のどさくさにまぎれて進軍したベトナムにはコテンパンにやられています。因みにこのときの開戦理由は、「お仕置きを与える」という妙な内容で、実際には仲が悪くなりだしたソ連への牽制だった。

 こんな具合で、どうもはたから見ていると中国は対外戦争にやけに弱いような気がします。なにも孫子の兵法だけのせいじゃないと思いますけど、ここんところはどうなんでしょうかね。
 なお、今日のネタはわざとふざけて、なおかつデフォルメして書いているのであまり真に受けないように。

2008年4月22日火曜日

首相候補について

 結構政界も騒がしくなったので、ちょっとこの辺りで自分の好きな候補でもあげておきます。

 まず今月末にでも自民党が暫定税率を再可決する予定らしいですが、どうもその後に以前の福田首相の一般財源化発言を反故にするような、道路税を道路にしか使わないと言う法律を自民党が用意しているようです。それに対して民主党は暫定税率を再可決しようものならば首相に対する問責決議案を提出すると主張しており、私の予想では恐らくそこま現実も運ぶであろうと思います。

 ただ与野党ともにも世論の動向を気にしているようです。これは週刊誌などでも報じられていますが、もし問責決議案が出された場合、世論の風がどっちに吹くかで解散か現状維持かが決まるでしょう。それこそ決議案を出したところで、「民主党はまたなんにでも反対か」となれば、自民党は強気になって政権を維持し続けるでしょうが、逆に「まだ民意を無視するのか」となれば、よっぽどのスキャンダルがない限り、福田首相の支持率は10%台にまで落ち込み解散にまで運ぶことが予想されます。恐らく、次の週末に行われる山口補選が一つの試金石になるのに間違いないでしょう。

 もっとも、自民党内でも福田おろしのような動きはすでに始まっており、遅くともサミット後に解散か辞任が示唆されています。私としてはここまでおたおたしているようなら、さっさとやめたほうがいいと思いますが。

 さてさて、では私は福田首相の後には誰に首相になってもらいたいかですが、まず世論調査で一番人気の小泉元首相ですが、正直なとこ、いまごたごたしているのはこの人の負の遺産のせいですからまず除外されるべきです。次に人気なのは麻生氏ですが、私はどうもこの人にははっきりとしたビジョンを感じられません。また政策についても、普段見ているとそれほど大した事は言っていませんし、安倍前首相とまではいかないまでも、人気取りだけやってなにも政治は動かない、かつての細川内閣みたいになるんじゃないかと思うのであまりすすめられません。

 じゃあ民主党ではどうかですが、前原氏はすでに一回やってあきれるほどの凡ミスをやらかしているのでまず却下。ついでの代表の小沢氏もすでに古いし体調悪そうだし却下。となると世間でも言われているように岡田氏しかいなくなりますが、意外と無難でいいんじゃないかと思います。まぁ政権とった時点で民主党は分裂すると思うけど。

 結局、一体誰がいいってことなのかですが、私はずばり自民党の与謝野馨氏が現段階では最も良いのではないかと思います。この人の場合、普段の発言から聞いていて政策能力も高そうですし、なおかつ敵がいなくて毒がないと言うのが、小泉元首相の負の遺産を片付けるこの段階では最も適任なような気がします。本人もその気なのか、この前に本を出しましたし。

2008年4月20日日曜日

猛将列伝~島津義弘~ と日韓の歴史の違い

 多分信長の野望とかやった人ならこの人は知っていると思います。島津家の次男坊で鬼島津こと島津義弘です。ゲーム中でも、戦闘能力はどのシリーズでもトップの上杉謙信には及ばないものの最上位に食い込む高さを誇っています。

 一般に習う範囲の歴史だと関が原の決戦においての活躍がまず紹介されています。すでに西軍にとって敗色が濃厚だった頃、残った島津軍に対して東軍が攻撃を仕掛けると、なんと島津軍が逆に突撃をかけてきたといいます。本来ならば退却する戦況であるにもかかわらず、この時島津義弘は追撃を免れるためにあえて敵軍突破を採用し、見事関が原から撤退をしております。まぁ、兵士はほとんど死んだらしいけど。

 この人はこのようにとにもかくにも戦闘のエピソードが多い人です。九州での戦いから朝鮮の役までともかくいっぱい。特に朝鮮出兵では寡兵にて何度も朝鮮軍を撃退し、最終的には朝鮮軍の名将李舜臣も討ち取っており、そのあまりの活躍ぶりに朝鮮の歴史でも「シーマンズ」という名が残り、長い間恐れられたらしいです。
 ただ晩年にはボケてしまったらしいですが、家臣が「殿、戦ですぞ」と言うと、目の色変えて鎧を着けだしていたようです。最後の最後まで戦のエピソードです。

 ついでに言及しておくと、何の作品だかは忘れてしまいましたが、芥川龍之介が歴史について考察を書いており、
「朝鮮の歴史では二人の英雄が日本軍の本陣に乗り込み、朝鮮出兵中に総大将の小西行長を撃ったというように記されているが、小西行長は知っての通りにその後に起こった関が原の合戦で敗戦した後に徳川に首をはねられている。このように、二つの国で歴史を一致させるのは非常に難しい」

 と、まるで現在の教科書問題を筆頭とする日韓の歴史問題を見透かしたようなことを書いております。実際に日中についても、片方が自国の歴史で当たり前と思っている事実が無効では全然別にとられていることもあり、表ざたになっている問題などより実際にはずっと大きな誤解がそれぞれに横たわっていると思います。
 あえて私から提言するなら、それぞれのややこしい問題にならない範囲から両国の歴史を一致させていく必要があるのではないかと思います。一例を言うと、中国での革命の父である孫文は中国では一般的に「孫中山(ソンチョンシャン)」と呼ばれていますが、これは孫文が日本に亡命中に近くにあった家の苗字が「中山」さんで、それが気に入って使っていたというらしいです。こんな風に日本とのエピソードが結構あることはあまり日本人も中国人も知りません。

2008年4月19日土曜日

日本経済の効率の話

 結構この関係のネタがたまってきたので、今日あたり一気に放出しようと思います。

 さて経済効率の話ですが、要するに如何に少ないものから多くを生むかという指標のことを効率といいます。日本はGDP、生産高で見るならば世界二位ですが、果たしてその世界二位の価値を生むためにどのような効率を持っているのかを紹介します。

 まず最近何かと話題の環境問題ですが、日本は単位あたりGDPを作るのに必要なエネルギー量の少なさを表す、エネルギー効率という点では世界でもトップクラスです。簡単に調べてみたところ、ちょっと古いデータだと原子力による発電を入れると世界一位、抜くと韓国についで二位です。その要因は言うまでもなく、燃費効率の高い日本の自動車や家電製品が普及しているおかげだといわれています。実際に「不都合な真実」のアル・ゴア元副大統領もこの点で日本を誉めています。在任中は冷たかったくせに。
 以前に紹介した武田邦彦氏もこの点に着目し、日本は二酸化炭素の排出権を他国で買うようなまねをせず、国際会議などでこの効率の良い製品自体に排出権を持たせるべきだと主張しており、私もこの主張を支持します。

 そんな感じで意外に日本はエコな国なのですが、その一方で労働時間についてはあれこれ議論の種になっております。OECD(経済協力開発機構)の調査による労働時間の国際比較を見ると、まずダントツに一人当たりの年間労働時間が高いのは韓国で2006年で2357時間働いています。そして二位はアメリカで1797時間、三位になって日本が現れ1784時間です。
 結構この話をすると周りに驚かれるのですが、日本が一番労働時間が多いと思われている人が多いようで、この三位という順位をなかなか信じてもらえません。ちなみに、韓国には韓国が調査対象に加わって以降はずっと負けており、アメリカには2000年くらいからほとんど差がなくなって2004年以降はずっと負けております。

 これを見せると、「日本人は世界で最も働き者」、というアイデンティティが揺らぐ方も多いです。まぁそんなアイデンティティなんて知ったことはないのですが、この統計にはずっと裏があるといわれております。というのも、カウントされる労働時間というのは雇用側が給料を支払うのを認めている正規の労働時間なだけで、帰宅後の作業やいわゆるサービス残業などは全く含まれていないからです。実際に日本では雇用側が提出した労働時間の平均と、労働者自身に行うインタビュー調査の平均は毎度の如く大きな隔たりがあり、決まって後者の方が多くなります。
 そのためさきほどのOECDの順位も、韓国までとは行かないまでもアメリカはまず上回っているだろうと言われています。

 そこで今日の話の味噌になりますが、生み出したGDPに対してそれをどれだけ効率よく生んだかという指標こと、「生産性」という指標があります。これはさまざまなものに対して使える指標ですが、その中の一つに労働生産性というものがあり、これは単位あたりの労働力に対してどれだけ効率よく価値を作り出したかというものがあります。
 簡単に説明すると、ピザを作るのに入ったばかりのバイトの人では一時間に十枚しか作れないのに対して、その道30年の達人は一時間に六十枚作ってしまいます。この例だと後者の達人はバイトに対して六倍も労働生産性が高いということになります。

 そこでこの労働生産性をマクロな国際比較がなされたOECDの調査によると、2004年の段階で日本は加盟国中なんと19位にランクインしています。因みにトップからはルクセンブルク、アメリカ、ノルウェーの順番になっています。
 この結果からあれこれネットで調べてみると、日経新聞などは「先進国中最低」だと報じていますが、もし日本が先進国中最低だと日本より下の韓国やロシアは先進国じゃないことになるんだけど、これはどうなのかな。はっきり言わせてもらうと、ちょっと日経さんは偏向報道になるんじゃないかな。

 それはともかくとして、とにもかくにもGDPは二位の癖に労働生産性、つまり働き方の効率は非常に悪いというのは間違いない事実です。そして先に説明した、その計測のために使われる労働時間の統計結果は現実より下回っている可能性が高いことを考慮すると、実際にはもっと低い可能性すらあります。単純に言って、日本人は非効率的に無駄に長く働いているということです。

 なぜこのような結果になるのかについてはあれこれ議論があります。効率や採算の悪い既得利権団体が多いだの、日本全体で競争が歪んでるだの、闇社会に資金が流れ過ぎだの(ロシアほどではないだろうが)。
 私から言えることは、全体での数値であるGDPを如何に上げるかということに議論を尽くすより、こういった効率を上げることのほうが意義はあるのではないか、どうすれば効率が良くなるのかを全体で行えないのかという風に思えます。それこそ、たとえGDPは下がったとしても、この効率が良くなれば国民的にはあまり好きじゃないけど今流行りのQOLことクオリティーオブライフも良くなるのではないか、また効率が上がることによってGDP自体も上がる可能性も多分に含んでいます。しかしこうした議論は未だに私はよく聞きません。

2008年4月18日金曜日

自身への評価について

 人間、国が違えば色々価値観も変わってきます。たとえば一家心中事件などは日本では同情的に報じられることが多いですが、欧米では狂気の沙汰として精神病に分類されます。これなどは日本と欧米の死生観の違いを表すもので、私もルーマニア人の友人と何度も切腹の価値観について議論を取り交わしました。ルーマニア人の彼から見ると、切腹はどう考えてもおかしい、責任の取り方にも何にもならないと常に言っており、この点に他国との死生観の違いがあることは間違いないでしょう。

 その逆に、国が違っても同じ見方がなされる価値観もあります。その代表的な例はずばり、「謙虚」だと私は思っています。そのルーマニア人から自己主張の激しいアメリカ人も、modify、謙虚の英語訳ですがこれは等しく美徳だと母国で見られていると言い、割とグローバルな価値観だと私は考えています。

 しかしその割に、私自身はというと自他共に認めるくらいに自信過剰な性格をプライベートで振舞っています。なにせ、普通に常日頃から自分より賢いやつはほとんどいないと言う位だし。
 ただ、言い訳をするとそれには理由があり、その理由というのも自身を過小にも過大にも評価してはならないという鉄則を持っているからです。ではなぜそんな妙な価値観を持ったのかというと、これは今まで学んだ歴史の逸話が大きく影響しています。

 歴史上、それこそ運がいいだけで権力者になったのもいれば、逆に力があるにもかかわらずほとんど評価されずに悲劇的な末路を終える人間が数多くいました。しかし中には優秀な能力を持っているにもかかわらず、自ら表舞台へ出ることを拒否し、文字通り隠者として世を去った人間もいました。
 一例を出すと日本では上杉謙信がこの例だといわれ、天下を取る実力があったにもかかわらず自ら領国をすすんで広げようとはしませんでした。また中国史ではハクイ、シュクセイという二人の兄弟が王位をお互いに譲り合い、最終的に両方とも国から出て行ったという話もあります。

 こういった話は単体で見るならばそれこそ謙虚で高潔な話だと感心するのですが、よくよく考えてみると結果的にはその謙虚っぷりに振り回されて、周りが結構不幸な目にあっていることも多いです。また細かいエピソードだと、周りから嘱望されているにもかかわらず権力の座に就かず、結果的に暗君がついてその優秀な人間までも誅殺されて国が滅ぶということまであります。

 このような逸話から私が導き出した教訓は、自らを過大評価するのはもとより、過小評価をすれば自らだけでなく周りまでも不幸にしてしまうということでした。そのため、今の自分は全く不得手な分野は人の意見を出来るだけ聞くようにして、逆に自信を持っている分野では強く前に出て意見をするように心がけています。もちろん、得意な分野ですら上には上がいるものです。もしそのような人間が出てきたら、そこは謙虚にその人の意見に従うようにしています。

 とまぁ、こんな風に考えていたらいつの間にか自信過剰な状態になっていました。しかしそれはそれで、「あいつはでかい口を叩いているが、俺だってあいつには負けない」と周りが思ってくれればそれもありかとも思っています。なぜなら、そうすることによって自分より優秀な人間が前に出てくれて、結果的に全体の幸福に繋がっていくのだと思うからです。逆に、自分と比べて大した能力もないのに自分を引きずり下ろそうという人間には、自分だけでなく周りまでも巻き込んでしまうことから絶対に負けまいと心に誓っています。

 結論を言うと、人間は能力に対して分相応に社会で役目を果たすことが、その人にとっても周りに対しても良い結果を生むのだと思います。私自身は自分を優秀かどうかははっきり言ってわかりません。しかし同じステージで出るところまで出て、はっきり敵わないと思う相手や、自分とそう大して能力に差がないと思う人間と会った時点ですっと引こうと思いますし、私自身そうなること願っています。なぜなら、なんだかんだいって権力や責任を背負い込むのは肩が重そうなので、結局のところ、私も隠者でありたいと思っているからです。

2008年4月17日木曜日

後期高齢者医療制度について

 さってさて、えらくニッチな内容を取り扱うことになりました。もしかしたら間違えて書いているかもしれませんから、そのときはゴメンね。

 実は医療問題について、私は去年一年間に友人のT君(通称ツッチー)とともによくしてもらった先生から相当学んだつもりだったのですが、この後期高齢者医療制度についてはすでに成立していたにもかかわらず、全くノーマークでした。別の、廃止すると何度も言われておきながらまだ続いている障害者自立支援法等については相当深い内容まであれこれ話せるのですが、こっちは今のように施行されだしてニュースになってからわかったので、個人的には悔しい思いをしました。

 で、この後期高齢者医療制度ですが、現在把握しているところだと、これまで子供らの世帯に「扶養家族」として保険料の支払いを免除されてきた75歳以上の老人が、この制度によって新たに月々の保険料を支払わねばならなくなったのが肝のようです。しかもあざといことに、今も問題になっている月々に支給される年金から天引き、つまり支払いを拒否することが出来ないということです。

 私自身は、将来の年金や財政の観点から高齢者世代にも多少の負担を受けてもらうことが必要だとは思っていますが、今回の制度のように「75歳以上」という、社会的に弱い世代だけを狙い撃ちにするやり方は好きにはなれません。第一、このような事態を避けるために作られたのが現在も40歳以上に課せられている介護保険制度なのに、そのうえにこのような制度を作るなんてもってのほかです。
 まだこの制度も「60歳以上」、もしくは年金世帯の「65歳以上」というくくりなら私も考えますが、いかにも「死んでくれ」というようなこの年齢範囲は問題でしょう。そんなことより、早く自立支援法も廃止しないといけないのに。

評価の逆輸入

 まずは取って来たコピペから見てもらいます。これは最近ネット上で良く流行っているギャグですが、

『アメリカのNASAは、宇宙飛行士を最初に宇宙に送り込んだとき、無重力状態ではボールペンが書けないこ とを発見した。
 これではボールペンを持って行っても役に立たない。
 NASAの科学者たちはこの問題に立ち向かうべく、10年の歳月と120億ドルの開発費をかけて研究を重ねた。
 その結果ついに、無重力でも上下逆にしても水の中でも氷点下でも摂氏300度でも、どんな状況下でもどん な表面にでも書けるボールペンを開発した!!

 一方ロシアは鉛筆を使った』

 という内容なのですが、まぁ普通に見る分には面白いけど、どうも私はこの話を素直に面白がることが出来ませんでした。
 まず無重力下でのボールペンですが、他のサイトなどでもあれこれ説明されていますが、その構造から実際に使いづらくなるようです。そのため、NASAはかなり以前に無重力下でどのペンが最も使用に適しているのかを研究したというのも事実です。そしてその際、NASAが採用したのはなんと日本のサインペンだったのです。

 ボールペンというのはペン先のベアリングの回転によって中のインクを紙につけるという構造ですが、サインペンというのはペン先が繊維で出来ており、その繊維と紙の浸透圧の差によってインクをつけるという画期的な構造で、これが宇宙空間だとボールペンのようにインクが飛び出したりかけなかったりすることもなく自由に書けるということで、NASAに採用されたという経緯がありました。
 しかし先ほどのコピペを引用するならば、「一方日本はまるでサインペンを評価していなかった」とでも言うべきでしょうか。このサインペンはNASAに採用された当時、全く日本では評価されていなかったようです。私自身、今でもサインペンを愛用しておりその構造と使いやすさに毎回感動するのですが、日本人が全く評価せず、アメリカ人が評価したことによって普及したという歴史を考えると、どうにも複雑な気持ちになり、最初のコピペを見る度にも、「見るところが違うだろっ!」と、なんというかやるせなさを覚えます。

 ついでに書くと、日本はこのような評価の逆輸入とも言うべきケースが度々あります。現在の電波放送の基礎を生んだ八木秀次氏の八木アンテナは日本で全く評価されずに、アメリカなどの国が先にこれを応用し、航空機用レーダーを作ったという歴史もあります。なお二次大戦中、相手の極秘文書を奪った日本軍が捕虜に対して、「この、何度も出てくる『YAGI』というのは何なんだ?」と聞いて、相手の度肝を抜いたというエピソードすらあります。

2008年4月15日火曜日

中国のチベット問題について

 最近やけに人から聞かれるので、このチベット問題について私の意見を載せておきます。

 人に聞かれる点は、なぜ中国はチベットを中国の領土としようとするのかで、チベットと漢族の中国は文化的にも歴史的にも背景が異なるのに、なぜ同じ中国とするのかというように聞かれますが、その回答は実は簡単で、単純に中華思想から来るものです。
 中国の中華思想はわざわざここで説明するまでもなく、漢族の文化や歴史が世界で最高だ、ひいては中国は世界で最も偉大な国だと考える思想で、まぁ隣国にとってすれば厄介この上ない代物なのですが、この世界最高という考え方のほかに、「大きいことはいいことだ」と、昔のグリコでやってたCM張りの考え方も含んでいます。今でこそ一人っ子政策の下で人口を抑制していますが、昔の中国はそれこそ生めよ増やせよで、毛沢東も人口がこのまま行くと大変なことになるといった学者に対して、「人口が多ければいいことづくめじゃないか」といって、当時から餓死者が出ていたにも関わらずに相手にしなかったくらいです。

 この考え方はそのまま領土にも当てはまり、領土はでかければでかいほどいいという考え方が未だに根強いと私は見ています。はっきり言って、恐らく素人目でもわかるくらいに、中国政府の反乱を無理やり抑え、チベットを占領し続けるコストはチベットから得られる収入やメリットと比べても遙かに高いでしょう。いわばチベットを占領することで中国は余計な出費を払っているということですが、それでも先ほどの中華思想からチベットを分離や委任統治させることはありえないでしょう。
 特に、現首席の胡錦濤氏は江沢民が香港返還によって歴史に名を残したのならば、自分は台湾を帰属させて歴史に名を残したいがために台湾に対して辛辣だと言われるくらいですから、チベットを離して領土を失ったという評価は絶対に拒否するでしょう。

 ただこのチベットに対する考え方は中国人の中でも分かれそうです。私の上海人の友人は、外国のオリンピックボイコットなどの批判についてうれしく思わず、それならばいっその事チベットなんて独立させてしまえと言っており、多分大半の日本人に近い考え方を持っているように思えます。恐らく彼に限らず、都市部に住んでいる中国人は少なからずそう思っていることでしょう。

 ただ、中国政府がチベット独立を認めない気持ちは私にも痛いほどわかります。というのも、中国国内、漢族の文化圏の中ですら分離独立の意識は未だ根強いからです。言ってしまえば広東や福建などの南方や、内陸部の人間達は反北京の意識が強いといいますし、それこそチベットの独立を認めてしまえば、一挙にこれらの地域からチベット以上に激しく独立運動を展開しているウイグル自治区の人間らは勢いづくでしょう。現政府もそれを認識し、抑えるだけでなくソフトランディングする手法を考えていないわけではないらしいです。

 と、ちょっと今日は専門的なネタを展開しました。まぁ自分の真骨頂だけど。

2008年4月13日日曜日

NTTドコモについて

 確か去年のソフトバンクが正式に携帯事業に参入してきた頃かな、
「そろそろ反撃してもいいですか ドコモ2.0」
 という、かなり挑戦的なキャッチコピーを打ってきましたが、現在の状況を見ると言うこと言った割には一人負けの様相を示してきています。

 私自身はあまり携帯に執着しない、言ってしまえばメールと電話が出来ればそれでいいので、五年前に契約した頃からずっとドコモで変わりはないのですが、なんというか宣伝で見るならば圧倒的に他者の方が上回っているように見えます。細かくは言わないけど。

 そんななので、今後ドコモが打ちそうなキャッチコピーを私なりに考えてみました。

「いい加減、本気になっちゃいますよ ドコモ3.0」
「いいんですか、怒らせて ドコモ4.0」
「もうどうなっても知りませんよ ドコモ5.0」
「お前は俺を怒らせた ドコモ6.0」
「そろそろ撤退してもいいですか ドコモ9.99」

 てな感じになっていくのかな。個人的には、なんで「ドコモ2.0」って、妙な数字をつけるのかが気になります。野球でもストレートが好きな自分はいっその事、「ドコモ改!」とか「ドコモZ」とかつけてくれたほうがうれしかったです。

猛将列伝~韓信~

 また歴史関係のを書こうと思うので、今日は韓信について解説します。

 さて韓信という人物を知っているでしょうか。恐らく一般の方には、「あの背水の陣という言葉を作った人だよ」といえば通りがいいでしょう。この人は前2世紀あたりの人で、中国の漢楚攻防時代の将軍です。
 まず率直に言って、あらゆる歴史を私は勉強してきた自負がありますが、この韓信以上に強いと思われる軍人はまだ見たことがありません。それこそあらゆる戦いにおいて窮地らしい窮地に落ちることなく、文字通り一度進軍すると電光石火の如く敵軍をことごとく倒していっています。

 この韓信本人も、自分の指揮能力に相当自負があったのか自分の主人である劉邦との宴会中に、
「殿は軍を率いるとしても、せいぜい十万人ぐらいが限界でしょう」
「なら、お前はどれほどまでいける?」
「あればあるほどいけます」
 と述べています。
 実際に、漢楚の最終決戦である垓下の戦いにおいて、各地域からやってきた軍団をまとめて率いており、それも見事な統率振りだったと記されています。

 ただこの韓信について、「背水の陣」という言葉はやや独り歩きしているように思えます。この言葉は韓信が趙を攻めた北伐の最中に、敵軍は自軍より多い数を頼みにして自分から攻めてくる。なおかつ、謀略を謀れる人物がいないという状況を見定めて、陣を敷いたという背景があります。そしていざ実際の戦闘が起こると、その伝えられているように川を背にした韓信の軍隊は必死で防戦し敵の攻撃を持ちこたえていましたが、その間に韓信は別働隊を放っており、すっかりもぬけの殻となっていた敵軍の城を奪い取り、その上で改めて挟み撃ちにし、敵軍を破っております。

 一般に、背水の陣というと死中に身を置いて逆転するという意味として捉えられがちですが、実際には必勝の布陣の上での一つの要素にしか過ぎません。ただやたらと危機感を煽ったり逆境にいればいいというわけではなく、きちっとした勝算をもって物事を謀るべきだと私は思います。

2008年4月12日土曜日

ガソリン税一般財源化問題の報道について

 先日漫画喫茶に行ったらカイジの最新刊が発売されているのに置いていませんでした。明日朝一でもう一回行こうと思います。

 そんなかんだで政治ネタです。あまり意識していませんが、やっぱり政治関係がこのブログの中で最も多くなっていますね。今日のネタは何度もやっているガソリン税問題ですが、このガソリン税自体については散々解説しているので以前の記事を見てください。今日ネタにしたいのはこの問題に対する昨今の報道についてです。

 すでに知っての通り、福田首相はトップダウンで自民党内の反対を無視してガソリン税の来年度からの一般財源化を明言しました。しかしすでに解説したように、自民党内では古賀誠選対委員長を筆頭に、いわゆる道路族議員が未だに反対しており、同様に党内が一致していないといわれる民主党もあいなかばといった状態が続いています。

 そういった、明言はしたものの実際に実行されるのかといった状況なだけに、各報道を見ているとこの一般財源化の討論の記事はどれも決定打を欠くような、どうにも論点のつかめない記事や報道がこのところ目立ちます。
 たとえばスポーツ新聞などだと、「自民党、造反議員七人」とか、「民主、造反者続出」などと、誰が何に対して造反しているのか、そして何で自民と民主双方で起こっているのか疑問符が浮かんできそうな見出しが躍っています。同様に全国紙などでも、きちんとチェックは最近出来ていないのですが、討論の中身や各党内の情勢などよりも、周辺人物ばかり挙げたり、果てには解散総選挙があるとかやや抽象的な記事が目立つように思えます。 テレビ報道に至ってはこの一般財源化自体取り上げず、あまり解説なども行われていません。

 別にこういった報道が悪いというわけではありません。いい加減なことを言うくらいなら、はっきりしない情勢で何も言わないという方が正しい報道でしょう。それは逆に言えば、これから情勢がどうなるか、みんなそろってあまりわかっていないという可能性があります。
 しかししかし疑り深い性格なのか、私はというとちょっとうがった考えを持っています。それはさっきもちょっと言った解散総選挙です。場合によっては解散がありうるため、どこも慎重になって報道した結果が今の状態という可能性です。実際に、今日家でだらだらしていたら外から選挙カーがなにやら演説していました。議員らも、そろそろ活動を始めないと覚悟しているのかもしれません。

 どっちにしろ、ちょっと今の状況は不気味です。週刊誌などは「麻生クーデター」説をとる雑誌が多いですが、それもどうなるかわかりません。目下の所、私がほしいのはガソリン代が再び戻ったらどれだけの混乱が起こるかという予想くらいです。

2ちゃんねらーの死生観

 かなり以前の記事で、基本的に人間は比較しないと対象を理解できないので、生死についても生の側面ばかり教えても全く効果がなく、生と死をそろって教えないと生のありがたみがわからない。にも関わらず、小中学生向けの自殺防止教育などは生の側面しか取り上げないので、今の子供達は生きる実感がわかないのではと書きましたが、ちょっと面白い続報がはいったのでそれを紹介します。

 先日、この以前の記事の内容を友人らとの話の種にしたところ、友人の一人がネット界の住人こと「2ちゃんねらー」について、
「あいつらは逆に死しか見ていない」
 と、評しました。
 一般に今の日本社会では死という事実を出来るだけ隠そうとしており、大人から子供まで死生観というよりは、現在の生のことしか話題にしません。収入が足らず、生活保護世帯がふえているにもかかわらず、ホームレス問題が全く改善していないにもかかわらず、そのような事実が報道されないのはこういったところに原因があると思います。実際に、この哲学の根幹とも言うべき死生観について私が議論しようとすると、大抵が「そんな話はよそうよ」と言って拒否されます。

 それがネット上だと、先ほどの友人の通りに逆に死の側面ばかり強調されています。たとえば、大型掲示板の2ちゃんねるだとどの掲示板に行っても「ニート」という言葉が飛び交い、「鬱だ氏のう」や「オワッタ」といった、表現が活発に使われます。まぁ「逝ってよし」という言葉は最近あまり見ませんが。
 言われてみて、確かにネット上では生死の死の側面ばかり強調されているような気がします。率直に言ってこれはよくないことだと思いますが、それは強調されるのが死だからというわけじゃなく、一つに偏っていることが問題で、生の側面ばかり強調されるのと同等の意味で悪いという意味です。

 私自身、思想面で捉えるなら儒学徒とも言うほど論語マニアで、世の中を捉える際にいわゆる中庸の状態、何事もほどほどな状態が最も良いと考えています。中途半端は良くないけど。
 なので死生観についても、死のことばかり考えるのも良くないし、生のことばかり考えるのも良くなく、双方をバランスよく考えることが死生観を持つ上で一番正しいと考えています。逆に、生と死のどっちか一つを偏って考えてばかりいるのは、下手をしたら全く生死について考えない状態より良くない可能性すらあります。

2008年4月9日水曜日

また新しく買ったマンガ

 あちこちでうわさになっているので、鈴木央の「金剛番長」を購入。この鈴木央氏は以前は週刊少年ジャンプで「ライジングインパクト」を書いていたのですが、回りまわって一つ前の作品からサンデーで書いています。この人は「ライジングインパクト」の頃から好きだったのですが、去年完結したサンデーで書いてた「ブリザードアクセル」が一番好きです。いまどき珍しいスポ根物で、呼んでて何度涙を流したことか。

 それともう一冊、「ノノノノ」も購入。作者は岡本倫。読者を裏切る漫画家としたら、相当上位に上る人でしょう。この人は前作の「エルフェンリート」が、個人的にかなり来た作品だったので新連載のこの「ノノノノ」もこれからも読んでこうと思います。さすがに、前作ほどの暴力表現はないが。

日銀総裁不在について

 今回も、マスコミがどこも突っ込まないので私が一応突っ込んでおきます。

 ようやくまた動き出した日銀総裁人事ですが、前福井総裁が任期切れになる直前に自民党側は、
「日銀総裁が不在となると、世界のトレーダーから日本のマーケットの信用が下がる」
 と言っていましたが、なお不在の現在でも、はっきりと総裁不在による株価等への影響は見られません。肝心要の為替相場も、そのような辺土の原因指摘は全くされてきていません。

 まぁ影響がなかったといえばそれはそれでよかったというべきなのでしょうが、裏を返して言うと、日銀総裁人事はそれほどまでに世界から相手にされていないということになります。それに対して危機感も持たなければ対策も考えず、未だにあれこれ人事でもめているというのも呆れた話です。そしてなにより、この点を追求しないマスコミが一番私を呆れさせます。

2008年4月8日火曜日

ヘキサゴンを見て

 このところよく「クイズヘキサゴンⅡ」という番組を見ています。もっともこの番組は私に限らず番組内容を改編して以降は視聴者が増え、他の放送局もこれに習ってクイズ番組を新たに始めるくらいの人気振りです。
 自分が見ていてこの番組は、構成が非常にうまいように思えます。というのも、クイズ番組ではややもするとクイズに勝ちやすい、ラサール石井のような賢い人間ばかりが目立ちがちなところをチームバトルにすることにより、クイズであまり正解を出さない、いわゆるおバカ組もアピールさせた点は評価されるべきでしょう。まぁ昔から野々村真はいるけど。

 そんなこの番組でちょっと前の放送にて、賢い人とおバカな人が二人一組になり、問題の回答を前後に分けて回答するコーナーがやってました。たとえば問題が「釣りで釣り上げた魚を戻すことは」でしたら答えが「キャッチ」「アンドリリース」というように分けて答えるようなシステムです。
 するとこの回答方法だと普段は珍回答を連発するゲストがびっくりするくらい正解率が高くなりました。その正解率に司会の島田伸介も、「こいつら一応しっとる事はしっとるんや。けど問題と回答が頭の中で結びつかへんねん」と見立てていました。

 この伸介の言葉はなかなか納得させられるものがあります。私自身、よく人に何でも知っているとよく言われますが、その源泉はというと、短いキーワードから適切な言葉を抜き出す技術の差だと常日頃から感じます。たとえば「レモン」という言葉をきくと、多分一般の人は果物を考えると思いますが、自分なんかは梶井基次郎の小説「檸檬」が浮かび、その舞台となった丸善とかをすぐに考え始めます。こんなんだからよく考えが空回りもするんだけど。

2008年4月5日土曜日

野球について

 今まであまりスポーツとしてはやってきてはいませんが、私はそこそこのプロ野球ファンです。なったきっかけは大学時代の友人でえらいヤクルトファンがおり、彼の話を聞く傍でゲームのパワプロをやりはじめたことにより愛好者となりました。

 そんな自分の好きな球団はというとソフトバンクホークスです。理由はバランスのよさと、総合力の高さからで、ホークスの中では和田、川崎選手が好きだと、割と面食いなんだなと自覚させられます。
 しかし全球団で見るなら、阪神の藤川球児選手がダントツで好きです。理由はテレビで初めて彼のストレートを見たとき、一瞬変化球かと見間違えるほどの軌道に一度に魅せられたのがきっかけです。ついでに同じ阪神だと、現在売り出し中の岩田投手も応援しています。

 往年の選手だと、この前もちょこっと書きましたが桑田投手もとても好きです。この前も同じことを書きましたが、本当に去年の今頃は心身ともにえらく落ち込んだ頃で、その中で桑田投手が怪我から復帰し、メジャー昇格を果たしたというニュースに勇気付けられ、毎日大泣きしながらテレビを見ていたほどです。

高校教育での歴史

 以前にニュースになっていましたが、一部の自治体で高校科目の「日本史」を必修化しようという動きが始まったらしいです。最初に結論を言うと、私もこの動きを支持します。

 現在の日本の教育制度では、高校生は社会科でまず「世界史」が必修となっており、確か一年か半年は科目として受けないと卒業資格を得られないはずです。そのため、確か2004年度に各学校で受験科目として必要としない文系の生徒らが受講しておらず、卒業できないということで大騒動になりました。まぁぶっちゃけ、今まで文部科学省も見て見ぬふりを明らかにしていたけど。私の知り合いの公立高校の出身者は文系だけど、やっぱりやっていなかったし。

 この世界史ですが、私自身は私立高校の出身者ですけどちゃんと受講していたのでしたが、その世界史の先生が授業中に、「自国の歴史が必修になっていない国なんて、日本くらいだ」とつぶやいていました。
 私自身は自他共に認める歴史マニアなのでそうではないのですが、確かに中にはいい年した大人なのに、全く日本史がわかっていない人をよく見かけます。また大学生レベルでも、前述の問題の影響なのか、受験時に世界史や地理を選択していた人は驚くくらいに日本史をわかっていません。もちろんその逆に、日本史の選択者は世界史をよく知りませんが。
 一例を挙げると、日本史選択者はイスラム教がよくわからず、シーア派とスンナ派が区別できずにニュースがわからなくなり、世界史選択者は日本文化史の話になると全くわからなくなるので、奈良や京都の偉大さが理解できないというような具合で。

 確かに冷静に考えてみると、先ほどの先生のように自国の歴史も学んでいない大学生が量産されるというのは一体どんなに国なのかと改めて不気味に感じます。そもそもなぜこのようなカリキュラムになったのかというと、建前上はグローバル社会に対応するために世界史が最も必要とされるとのことらしいですが、本当は日本史も必修にしたいのだがそうしたら同じ社会科の地理だけが不公平を食らうから、なんだかわけのわからないうちに世界史だけ必修となったようです。

 私は歴史が好きなことと、とある事情で大学受験時に社会科目が二つ必要だったということから世界史と日本史を両方学んで、それぞれで自分で言うのもなんですが相当な点数を毎回の模試であげていました。その一方で数学などはぼろぼろでしたが両方の歴史を勉強した身の上で言うと、やはり片方同士では非常に中途半端な気がします。理想としては両方を一つの科目にして「歴史」という科目にまとめるべきだと思うのですが、歴史の得意な自分が言っても、苦手な人のことを無視しているようであまり説得力はありませんね。

 妥協点としては両方を一応一通りやる中学生の間に、もう少し範囲を広げてしっかり学ばせるの、もしくは最初に挙げた自治体のように、せめて一年間は必修にして学ばせるというのがよいと思います。
 そしたら地理は? ということになりますが、ちょっと厳しいですが倫理や現代社会と同じ部類に落とすのも仕方ないと思います。だって、やろうと思えば中学時代に詰め込めそうだし……。

2008年4月3日木曜日

邪悪とは

 もし誰かに、何が善で何が悪なのかと聞いても、あまりはっきりとした返事は返ってこないでしょう。それこそ中には、「見方によって変わるのでは」というような意見を言われるかもしれません。
 この「見方によって変わる」ですが、至極その通りだと私も思います。昔に私が書いたエッセイの「善悪二元論」においても、「光があるから影があるように、善の概念なくして悪の概念はない」というように、相対的であるがゆえに逆転もままあるという定義の仕方をしています。

 しかし、あるマンガにおいては言い訳の仕様もない悪の定義がはっきりと示されています。そのマンガというのも、マンガ好きなら何かしら触れた事のあるであろう「ジョジョの奇妙な冒険」です。

 では、何がその「悪」なのでしょうか。それがはっきりと示されたのは第五部にて、組織のボスの命令に従っていたところ、肝心なところで裏切られたキャラクター、ってかブチャラティが、
「吐き気をもよおす『邪悪』とはッ!何も知らぬ無知なる者を利用する事だ!自分の利益だけの為に利用する事だ!父親が何も知らぬ“娘”を!てめーだけの都合でッ!許さねえッ!あんたは今、再びッ!オレの心を裏切ったッ!」
 と、言うシーンです。
 作者の荒木氏も、「悪の定義は人それぞれに違うし状況で変わってくるけど、“他人を踏み台にする人”、これは絶対に、誰が何と言おうと悪だと思う」と言っており、この主張は作品全体を通して貫かれています。
 
 この考え方に私も同意です。他人を自分の利益のために利用する、これだけは何が何でもやってはいけないし、そんな考え方をする人間は絶対に許してはならない。自分は長生きをするつもりはありませんから、せめてそんな邪悪な人間を道連れにして死ねればいいと、常日頃から考えて生きています。

なぜ中国をかばうのか

 何もここで取り上げなくとも、各所でチベットの暴動問題に端を発した五輪開会式ボイコットの議論がかまびすしく行われています。しかしこれらの動きに対して反動ももちろんあり、主に政治家などが中国をかばうような発言をして、それに対してネット上ではあれこれ非難の応酬が続いています。

 さて今日のお題の中国をかばうですが、2ちゃんねる等を見ていると自民党の加藤紘一議員などは「媚中派」等といわれて常に批判されていますが、私は以前に友人から、「なぜ自民党の政治家達はあれほど中国のことを良く言うのかな」という質問をされたことがあります。これに対する回答は実ははっきりしていて、私が見るに中国の文化力にあると思います。

 以前、あるアメリカ在住の中国人が自身のブログにて、「日中戦争は中国共産党も日本軍と同罪だ」という内容の記事を発表したことがありました。この人が言うに、「日本軍は中国で散々虐殺をやってきたが、共産党も戦時中に国民党と内戦したりして同じ中国人を大量に虐殺した。日本は言うまでもなく有罪だが、それならば共産党も同罪だ」という内容で、発表された当初は予想通りに中国国内から激しく批判されました。
 しかしこのブログはその後、「たとえ日本が中国全土を占領したとしても、結局は中国化しただろう」というようにまとめており、かなり重要なポイントをついていました。

 かつて、中国において漢民族を支配した異民族はたくさんいました。それこそモンゴル人や満州人、マイナーどころだと契丹人など。こうした異民族はそれぞれ中国国内に王朝なども作りましたが、結局は滅んで今は中国国内の少数民族としてそれぞれ扱われています。彼らが滅んでしまったのはなぜか、それは中国の文化に次第に染まっていってしまったことにあると指摘されています。
 それこそ「元」を作ったモンゴル人など、当初でこそ中国人お構いなしに彼らが使っていた言語を宮廷で話して独自の文字などを作ったのですが、時間の経過とともにそれらは段々と用いられなくなり、最後にはみんなで中国語と漢字を使うようになっていきました。満州人も同様で、彼らなんて後期には満州語までわからなくなったとまで言われています。

 このように、中国の文化力というのは他の文化を自然消滅させるほどにあくが強いとされています。そのため征服した王朝は知らず知らずのうちに中国人化してしまい、最後には内部崩壊を起こして中国人の基に天下は帰ってくると言われています。
 なぜこれほど強いのかは単純で、中国語と漢字を使う漢民族の人数が果てしなく多いからでしょう。まぁそれ以外にも文化的な色々な要素がたくさんあるでしょうが、私自身、この中国文化の強さを実際に目の当たりにしています。中国に来る日本人留学生は大体三ヶ月もすると、最初は中国のマナーの悪さなどを批判するのですが、最後には歴史のある国だとか、やはりたいした所だなどと、急に褒め始めたりします。

 よく国会議員のぶら下がり新聞記者などは、人間的魅力にあふれる国会議員について回るうちに、いつの間にかその議員を贔屓した目で見るようになり、中立的な記事が書けなくなるようでそのことを「政治家に淫する」というらしいのですが、どうも中国についてもそんな気がします。現自民党の「媚中派」と呼ばれる政治家も、政策やら使節やらで中国と関わっていくうちにそれこそ段々と「淫して」、現在のように異様にかばい立てするようになったのだと考えています。ちなみに、加藤紘一議員は外務省時代はチャイナスクール、つまり中国方面の外交官だったという経歴の持ち主です。

2008年4月2日水曜日

兵隊の一割に関する話

 いきなりですが、2:8の法則を皆さんご存知でしょうか。通称パレートの法則といってあちこちで語られているようですが、どうやらそのほとんどは通説の域を出ない、元の法則から乖離したデマのようです。
 たとえば、働きアリは全体の二割が巣穴の中で働き、残りの八割はほとんど働いていないが、その働いていないアリだけを集めると、またそのうちの二割が今度は働き出すとか。この説を使って、企業組織内でも社員の二割が実際には働いていて、残りは働いていないとか。まぁこう書いていて、うそ臭い話だと思います。

 しかし、この考え方がうまく適合できる例もあります。
 かつてのアメリカの調査によると、太平洋戦争中に実際に銃の引き金を引いたアメリカ兵は全体のほんの一割程度だったようです。それ以外は全くといっていいほど銃を撃たないか、そのまま敵に撃ち殺されるだけだったらしいです。この統計は日本軍でもほぼ同様に起こっており、言ってしまえば兵隊の中の勇ましい一割の兵士同士がドンパチやっていたというのが、過去の戦争の実情だったようです。

 しかしこれではほとんどの兵士がつれてくだけ無駄だ。そういうことでアメリカ軍はこの反省を生かし、心理学的見地による軍隊教育を施し、ベトナム戦争ではこの割合を四割以上にまで引き上げたという話を聞いたことがあります。ちなみに、この軍隊教育というのは単純に映画「フルメタルジャケット」の中で行われているようなもので、要するに自分も他人の命も守るに値しない、殺して奪い取ってもかまわないという概念を無理やり植えつけるというやり方です。

 ここで私が何が言いたいのかというと、それこそ特別な意識や逆境に追い込まれ、普段は全体の一割程度の兵士しか戦わない軍隊が本気になって十割全員で戦った場合はどうなるか。もしそうなった場合、理論上は十倍もの兵力差のある敵軍に対して勝利することもありうるということになります。歴史上に数多くある寡兵にて大軍を破る史実も、それこそ背水の陣ではないですが状況次第ではありうると私は考えています。

 なお、さらにさらに話を深めると、基本的に同種の生物同士はリチャード・ドーキンスの「利己的遺伝子論」の言うとおりに、種の保存目的の観点から互いに殺しあうと深いストレスを感じるらしいのですが、人間はどうも全体の一割程度、殺人を犯してもそのようなストレスを感じないタイプが生まれてくるらしいのです。そのほとんどは殺人なんて滅多な体験をせずに、己のそのような特性を自覚せずに死んでいくのですが、ひょうなこと、それこそ戦争などを経験することによってその特性を自覚してしまい、そのまま殺し屋とか戦争屋となったり、精神に異常を持つようになるそうです。
 この話も、先ほどの太平洋戦争の一割の話ときれいに一致します。また、そうした特性のない人間に無理やり殺人を冒させる、先ほどのベトナム戦争の例などを行うと、大抵はその後に精神面で問題を起こし、生活が破綻していくようです。

 自分は心理学という学問が大嫌いなのですが、この話は数字的にも他の説と一致することも多く、また説得力の高い精緻な意見なので非常に気にいっている上、含蓄の深い話だとして解説することが多い話です。