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2009年2月10日火曜日

湾岸戦争直前における人質事件

 いきなりですが、現在めちゃくちゃブルーな気分です。例えるならビデオに録っていた番組を家族に勝手に上書きされてしまったような喪失感のようなもので、ちょっと元気がないのですが気を取り直して頑張って書こうと思います。

 さて皆さん、いきなりですが「イラク、人質」と聞いて何を連想するでしょうか。恐らく九割以上の方が2004年に起きた三人の日本人がテロリストにより拘束された人質事件を連想するでしょうが、実はこの二つのキーワード上にはもう一つの、私が思うに日本人は絶対に忘れるべきでなく、また現代において再考する必要が大いにある大きな事件があるのです。その事件というのも1990年、イラクのフセイン政権下で起きた国家的人質事件です。

 まずおさらいですが、私がこのブログを始めた初期に書いた「今更ながらフセインさん」の記事でもすこし触れていますが、1990年にフセイン政権下のイラクは隣国のクウェートに侵攻したことにより、翌年にはアメリカを中心とした国連軍による攻撃を受ける形で湾岸戦争が勃発しました。このクウェート侵攻を何故フセインが強行したかについて補足しておくと、なんでも在イラクのアメリカ大使に前もってフセインはクウェートに侵攻する意図を伝えたところそれに対してアメリカは何の干渉もしないような答えをして、それを真に受けたフセインがいざ侵攻を実行をしたらアメリカは大使の返答とは裏腹に猛烈な抗議を行うとともに武力攻撃も辞さないという強硬な態度を取りました。

 このアメリカの態度の急変に、フセインは大きく慌てたそうです。というのもそれまでのイラン・イラク戦争などでアメリカは一貫してイラクを応援し続けており、当時は中東でも随一の親米国家であったほど両国の関係は良好だったからです。もちろんそんな具合だったのでアメリカが強硬な態度を取るとは全く予想しておらず、国内の防衛計画も何もなかった上に国際世界で急に孤立するなど、この時期にフセインは一挙に窮地に追い込まれました。
 そこでフセインが窮余の策として取ったのは、今でこそいい響きのする言葉のように扱われていますが「人間の盾」こと、当時クウェートとイラクに在留していた外国人の国外脱出を禁止することによって人質を取るという卑劣な手段でした。

 この人質には在イラクのアメリカ人はもとより、アメリカ寄りの日本やイギリスといった国の人間が特にターゲットにされ、合計すると約400人強もの日本人がこの年の8月からイラク政府によって人質にされてその後イラク政府が人質の全員解放を行う12月までの四ヶ月間も不安な状態に留め置かれていました。
 あんまり詳しく調査していない私が言うのもなんですが、この時期の各部署の対応の詳細はあまり明らかにされていないような気がします。明らかになっていない理由として、この事件自体がちょうどエアポケットみたいな大きな歴史と歴史の間にあることと、中途半端に新しい歴史ということもあってまだあまり検証が為されていないというのが原因だと思いますが、この事件について私が知りえる情報といったら当時のニュースを見ていたうちの両親やわずかな伝聞ぐらいしかありません。そのせいか、ここ一ヶ月であちこちに「この事件を知ってる?」と尋ねまわったものの、私と同世代のほとんどの方は全く知っていませんでした。

 そんなわずかな情報の中から当時の動きを私なりに組み立てていくと、まず目に付くのが日本外務省の不作為です。
 その辺の詳しい内容は当時の外交白書に大まかに書かれていますが、まずイラクのクウェート侵攻を受けて在クウェート日本大使館はクウェート内の日本人を大使館に保護しましたが、その後何を思ったのか保護した日本人を在イラク大使館へと移動させています。この辺の意図や実行に至る過程が未だに曖昧でよくわからないのですが、結果的にはこれが致命的になり、その後にフセインによってイラク国内の外国人の渡航が禁止されたことによってイラクにいた日本人と合わせて人質状態に置かれる事になりました。
 そしてその後も先ほどの外交白書で外務省は必死に交渉したと自己弁護しているのですが、当時のニュースを見ていたうちのお袋によると、その後に開放されて帰国した方が成田空港にて、「外務省は何もしなかった!」と凄い剣幕で怒っていたのを覚えているあたり、先ほどの外務省の言い分はどうも怪しいのではないかと思います。

 もうひとつ外務省の言い分を私が怪しむ理由として、当時のアントニオ猪木氏の行動があります。
 今の若い世代なんか想像しづらいでしょうが、当時アントニオ猪木氏は参議院議員をしており、折も折でこの中東方面の委員会にも出ていたそうです。その猪木氏がこの時の人質事件発生の際、かねてよりイラクでプロレス興行を行っていた関係もあり直接イラクに出向いて人質解放の交渉を行おうと外務省にかけあったのですが、外務省は危険だとか交渉が面倒になるなどの理由をつけては猪木氏の申し出を拒否し、果てには個人として交渉に行こうとする猪木氏に対して日本の各航空会社に働きかけるなど様々な方法で渡航を妨害していたそうです。

 最終的に猪木氏はトルコ航空(イラン・イラク戦争の折も日本人はお世話になっている)のチャーター便を猪木氏が自腹で費用を出すことで渡航が決まり、また人質となっていた方らの家族も外務省からいろいろ言われたそうですが、イラクにいる家族と会うために猪木氏に賭けてこのチャーター便に同乗してバグダッドを訪問しました。
 表向きこの訪問はスポーツ交流の一環ということで行われ、猪木氏が連れてきたレスラーの試合や日本の伝統文化などがイベントとして数日間演じられ、その間に猪木氏とともに訪れた家族らは再開を果たし、猪木氏はイラク政府と人質解放の交渉を行ったそうです。
 しかし交渉ははかどらず、帰国日になっても人質解放は達成されずあきらめかけて帰国の飛行機が飛ぼうとする直前、突然イラク政府から猪木氏に会談の申し込みがあり、その後イラク政府より日本人の人質解放が発表され、その二日後にはすべての外国人人質が解放されることが発表される運びとなりました。

 このくだりについてはいろいろと疑問の声も挙げられており、猪木氏の売名行為に近いただのパフォーマンスだったり人質解放はすでに決まっていたなどという意見もあってこの時の猪木氏の功績については未だ評価がはっきりしていませんが、少なくとも自腹でチャーター便を取って家族らを再会させたという事実については私は高く評価してもいいと考えています。

 その後は教科書に載っている歴史どおりに、アメリカ軍の攻撃によって湾岸戦争が勃発し、その後もフセインは行き続け、つい最近のイラク戦争へと物事は運んでいくのですが、私はこの時の人質事件はぜひとも今の日本は再考をして議論をしなければいけない歴史だと考えています。
 というのも、日本という国家はいざという時に本気で国民を守るのか、この点について白黒をはっきりさせるわけじゃありませんが、緊急時の対応として何が政府に求められ何をどう実行するのかをはっきりさせておく必要があると思います。

 詳細がはっきりしていないということでこの時の事件については私もあまり強く言う気はありませんが、やはり歴史的に見ても日本の政府、ひいては外務省は国民を守る意識が低いとしか私は思えません。古くは太平洋戦争中の沖縄戦にて、現地の沖縄の人を戦闘でまるで盾のように使ったり、米軍に解放された人をスパイだと疑って殺害するなど、本来国民を守るべき軍隊が国民を逆に害す行為があったり、どうも守るべき矛先が国民というより実態のはっきりしない国とか国体の方に向いてばかりいた気がします。
 またそれほど昔じゃなくて先の2004年のイラク人質事件でも、毎日新聞が当時に流行した自己責任論について反論する形で書いた社説にて、

「国民が平時において税金を国家に納めているのは、いざという時に国家に国民を守らせるためである。確かに渡航の危険性が伝えられている中でイラクに入った三人の人質経験者は軽率だったかもしれないが、命の危機に瀕した際に政府が彼ら国民を守るのは当然の行為で、それについて自己責任とか帰国に使用した航空機の費用を彼らに負担させるべきだなどという議論は全くもって必要ない」

 さすがに五年も前なのでちょっと曖昧ではありますが、大まかにこんな内容の社説が毎日新聞に載ってあるのを書いているのをみてなるほどと私は思いました。またそれと同時に、本当に日本政府は国民を守る気があるのか、北朝鮮の拉致事件でもそうでしたが外務省はどっちを向いているのか、改めて当時にいろいろ考えました。

 今回取り上げた湾岸戦争勃発直前のこの人質事件でも、私が知りえた情報の範囲内では外務省は本気で国民を守ろうとしたのか、何度もいいますが詳細が曖昧ではあるもののやはり疑問を感じずにはいられません。
 そこでこの事件の詳細を得ようと、ちょっと細い伝手を頼ってこの時にイラクで人質に遭われた方へ手紙で直接インタビューを申し込んだのですが、本日その方からインタビューを辞退する返信を受けたので冒頭に書いたようにブルーな気分となった次第であります。まぁこんな事件に巻き込まれて、その際の顛末を赤の他人の私に話そうとするなんて普通じゃ考えられないことですし、恐らくあまり思い出されたくない過去であることも考えれば無理もないことです。

 そういうわけで、もしこの事件について何かしら当時のニュースを見て覚えていることがある方や、情報を持っている方がおられれば是非コメント欄に一筆お願いいたします。

6 件のコメント:

Madeleine Sophie さんのコメント...

アメリカの求めていた「完全で検証可能かつ不可逆的な廃棄、“complete, irreversible and verifiable elimination of nuclear weapons"」なんてどうやって証明するんでしょうね。完全であるか検証可能であるかについては客観的な指標はないので、結局は、アメリカが完全と認めて、検鏡可能であると認めるということになりますよね。さらに不可逆かどうかなんて未来になってみないと分かりません。証明するのは不可能とも思えます。

査察を受け入れても、結果の証明はアメリカの意のままとなり、フセインはアメリカに永遠に譲歩しなければならなくなります。フセインの意見にも一分の里があったように思えますね。

Madeleine Sophie さんのコメント...

上のコメントは、「今更ながらフセインさん」の方のエントリを読んだ感想です。投稿するエントリを間違えてしまいました。

匿名 さんのコメント...

今自衛隊のソマリア沖派遣について揉めているようですが、これに対して、私は本当に強い憤りを感じます。

一部の政治家がは今さら「海賊の定義」やら「民間船の自己責任」といってつっかかっていますが、本当にあきれてしまいます。

人命に危害が加えられる非常事態において、しょーもないことで議論してる場合ですか?

イラク派兵とは話が違います、直接危害が加えられているのですよ。本当に腹が立ちます。

花園祐 さんのコメント...

>Sophieさんへ
 お気になさらず、読んでる方も内容をすぐに理解しますよ。
 私もいろいろ考えるにつけ、フセインのやってきたことはともかく当時の言い分は確かに筋が通る気がして、その辺をもっと日本のメディアや歴史家が突いてくれればと思っているのですが、あまり大量破壊兵器の検証については議論がされないのは残念です。

>ロックマンさん
 イラク派兵が実行できて、今後はこの手の海外派兵であまりじたばたしないで済むかと思いきや、ソマリアの海賊対策では呆れるほど対応が鈍いですね。自衛隊はなんのためにあるのか、ヤクザの役に立たない用心棒じゃないんだからほとほと考えさせられます。

Yasuo Ito さんのコメント...

全く同感です。私はA猪木の長年のファンですが彼が参議院議員でなかったなら当時のイラク人質事件は解決していなかったと思います。それが証拠に北朝鮮の拉致被害者は未だに解決されていません。日本と言う国はいかにも良い国と外国人から思われていますが、貴兄のいうようにいざという時には国民を見捨てる国です。東日本震災や熊本震災も地方に復興を押しつけて国は見て見ぬふりです。私は仙台が実家ですが雪が舞う時の大地震や大津波で多くの人が亡くなったのに国はなにもしてくれませんでした。海外からの莫大な義捐金はどこに行ったのでしょうかと思っていたら国がまだ大事に保存していたことが明らかに、驚いて開いた口がふさがりません。役人のすることは本当に酷いと思いました。

花園祐 さんのコメント...

 コメントありがとうございます。
 この記事を書いてから大分時間が立っているのもありますが、読み返してみて改めて猪木氏は大した行動力と政治勘を持っていたなと感じ入ります。同時に、この時に問題提起した内容が現代においてもなお続いているという現状は正直に嘆かわしい状態です。
 仙台がご実家ですと震災で大変な被害を被られたかと思います。災害復興基金も、多少は仕方ないとはいえ、その支出の仕方には私も疑問を感じる点があり、具体的にはゼネコンが取り過ぎる一方で被災者、特に商工業者に届いていないように感じます。私も今海外で生活していますが、結局頼れるのは自分の腕力のみだという現状をつくづく覚えます。