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2024年3月16日土曜日

島津四兄弟

 再来年の大河ドラマが秀吉の弟の羽柴秀長が主役ということが先日発表されましたが、これに対するネットの反応を見ていると、秀長という題材は悪くないもののまた秀吉というか、信長、家康などといった主要人物周りのネタになるとして、新奇性が低いという意見がよく見られました。自分も全く持って同感で、いくら人気のある戦国時代であってもこうも似たような題材を何度も取り上げていては見ている方も飽きるのが道理でしょう。
 そのうえで、ネット上ではどうせ大河ドラマにするならとこの前自分も提唱した北条氏とか、全く取り上げられない東北や九州の戦国武将を取り上げるべきだという意見も見られました。そしてその中に、鹿児島の大名である島津氏、特に戦国時代の島津四兄弟を使ってはどうかという意見もありました。

 この島津四兄弟とは、知ってる人には早いですが島津貴久の息子の義久、義弘、歳久、家久の四人を指します。貴久の代に基盤を築いた島津氏は長男の義久が家督を継ぐと、その優秀な弟たちを使って九州地方の攻略を一気に進めることとなります。
 特に次男の義弘はこの前も関ヶ原における「島津の退き口」を取り上げましたが、日本国内はおろか朝鮮出兵においても多大な活躍を残しており、島津家の筆頭軍指揮官として、島津家はおろか戦国時代全体で見ても屈指の軍略家と評価されています。

 この義弘と義久の関係ですが、一見すると大将の長男、軍事の次男という理想的な組み合わせに見られるものの、実は仲は険悪だったのではないかという説もあります。というのも秀吉の九州征伐に島津家が降伏した際、抵抗した責任を取る形で義久は当主の座から降り、義弘がその跡を継ぐと秀吉に伝えているのですが、実際にはその後も義久が渦中で実権を握り続け、当主としてあり続けたという説があります。
 九州征伐後の朝鮮出兵では島津代表として義弘が出陣し、関ヶ原においても同様なのですが、これは対外的(豊臣政権)には義弘が当主として振舞ったためで、島津家中では前述の通り義久が当主であったとも言われています。この点に関しては今後の研究を待たなければなりませんが、以上のような状況から当時の島津家は二重権力状態になっていたともする見方もあり、義久と義弘の関係もマリオとルイージのように決してうまくいってなかったのではないかとする人もいます。自分も何となく、そんな感じだったんじゃないかと推測しています。

 話を四兄弟に戻すと、次男の義弘に負けず劣らずなのが四男の家久で、最年少ながらも島津家の九州攻略戦後期においてはほとんどの戦で大勝を収めており、秀吉の九州征伐における先発部隊も散々に破り、秀吉軍から非常に恐れられたと言われます。ただ九州征伐後間もなく病死しており、そのあまりのタイミングの良さから才能を恐れた秀吉に毒殺されたのではないかともいわれています。
 なお彼の息子の豊久は、上記の関ヶ原の退き口で殿を務め、叔父である義弘の脱出を見事成功させた上で亡くなっています。

 で、最後に残った三男の歳久ですが、こいつはちょっとなんていうかいわゆるトラブルメーカー的な人物です。割と戦場では兄らと同様に活躍してはいるのですが、秀吉の九州征伐の前に四兄弟の中で唯一秀吉を高く評価し、降伏を主張したそうです。これだけ見るとよく時節をわきまえている様に見えなくもないのですが、その後の戦闘で島津軍が敗北を重ねそろそろ降伏しようかとみんなで話し始めると、「まだ降伏するような時間じゃない」とスラムダンクの仙道みたいなことを言いだし、ここにきて抵抗を見せます。
 挙句に、秀吉本人の暗殺を図ったりするなどして降伏工作を無茶苦茶にするような行動を取っています。どうも降伏後にも暗殺を謀っていたようで、朝鮮出兵にも病と称して応じなかったことから秀吉より追悼命令が出され、島津家本隊が差し向けられる中で内戦を避けるため切腹しています。

 以上のようになんか言ってることとやってることがちぐはぐで空気が読めない節があるのですが、実際にそんないい加減な人柄を窺わせるエピソードがほかにもあります。なんでも四兄弟で生まれたばかりの馬を見に行った際、「馬ってのは母親に似るもんだね。きっと人間も同じだろうね(^ω^)」と言ったそうです。
 これはどういう意味かというと、唯一母親の違う四男・家久を当てこすった発言だったと言われます。これに対し長男・義久はその言わんとしていることを察した上で、「母親に似ることもあれば父親に似ることもある。問題は、本にがどう努力するかだ」と言って家久のことをさりげなくフォローして挙げたそうです。もっとも当の家久はよっぽど悔しかったのか、それから物凄く勉強に力入れるようになったと言われます。

 以上の母親発言といい、歳久に関して自分は評価してないというかきっと嫌な奴だったんだろうなという印象を覚えています。ただこれには下地があって、昔「信長の野望 天翔記」で島津家をプレイした際、一門集なので歳久に一つの軍団を任せたことがありました。
 そしたらこいつ、何を思ったのか本家の軍団と一切連携せずに単独で大友家に対していきなり戦闘をしかけ、案の定というかやばいくらい大敗して逃げ帰ってきました。しかもこいつ戦闘前に有り金はたいて大量の鉄砲を買って、鉄砲隊率いるのに慣れていない武将に配っており、結果的に敗北したことでこれらの鉄砲も大友家にみすみす渡す羽目となりました。

 この大失態にマジ切れして一瞬リセットしようかと思いましたが自分の任命責任を認めるため、その後もプレイを続けました。ただ歳久に対してはどうしても許す気になれず、ゲーム上で一切のメリットがないものの、天翔記には「切腹」のコマンドがなかったため、彼を家中から追放することとしました。
 追放したものの、当主が一門集ということもあってかその後何度も歳久は自らを売り込んでは再雇用するよう訴えてきましたが、やっぱり許すことができず、ずっとはねのけ続けるのですが歳久の方もあきらめず、何度も売り込み続けてきました。この時のやり取りがまた非常に鬱陶しく、何なんだこいつと物凄い悪印象を抱くようになったのですが、その後に上記の空気を読まないエピソードを知るにつけ、変な感じでゲームでも史実っぽいキャラクターとなっていました。

 そういうわけでそんな、長男と次男の見えざる対立、優秀ながら早世した四男と叔父を助けたその息子、空気読まずに騒動ばかり引き起こすトラブルメーカーな三男とった内容を盛り込むことで、実際にドラマ作ったら結構面白くなるような気がします。タイトルも「バブルシマヅブラザーズ」とか、「ウエスト・シマヅ・ストーリー」とかでいいんじゃないかな。

2024年3月3日日曜日

日本の勇者

 先日、「ナポレオン-覇道進撃」の最新刊にあたる26巻が販売されて発売即日に電子書籍で購入してすぐ読みました。前の巻ですでにナポレオンが指揮を執った最後の戦いであるワーテルローが終わっていたこともありこの巻が最終巻になるかと思っていたところ、セントヘレナ島に流されるところで終わっており、最終派は次の巻に持ち越されていました。
 実際、当初の予定ではここで最終回を迎える予定だったらしいですが、編集側よりもう半年連載を伸ばそうとの提案があったことから終わりが延びたと作者も語っています。その延びた関係で、ワーテルローの後に処刑されたナポレオン旗下の元帥であるミュラとネイの処刑にはそれぞれ1話ずつ使われるようになり、特に後者のネイの処刑はこの26巻におけるハイライトでもありました。

ミシェル・ネイ(Wikipedia)

 知ってる人には早いですがこのネイはナポレオンの元帥の中でも最も早く戦死したランヌと並んで屈指の人気を誇り、現代においてもパリ市内の彼の銅像を見に訪れる人は絶えないと言います。具体的にどんな人物だったかというと勇猛さで言えば並み居る元帥の中でもずぬけており、猪突猛進ともいうべき突破力と豪胆ぶりは大軍団での指揮には向いていなかったものの、中規模の舞台を率いた際の戦闘力はすさまじいものがありました。

 そんな彼の最大の見せ場はロシア遠征で、撤退の最中に殿を務めた際に本体との連絡がロシア軍に遮断され、孤立無援の状況に陥っています。この際にネイは、進軍先に待ち構えているロシア軍を避け、来た道を戻って大きく迂回し、氷河を乗り越えて本体への合流を図ります。言うは簡単ですが洗浄はマイナス何十度というロシアという土地で、また部隊も戦傷者が多くまともに戦える兵士や装備にすら事欠く有様でしたが、ネイは自らが小銃を取りながら何日間も不眠不休で指揮を執り、時には自分一人で大砲を打って敵軍を足止めしていたとさえ言われます。

 この超人的なネイの活躍に兵士も打たれ、絶望的な状況ながら最後まで統率を守り、結果的に率いていた部隊は8割がた戦死したものの、ナポレオンのいる本体への合流に成功しました。そしてこの時に生き残った兵らはその後も、「ネイのおかげで生きて帰ってこれた」と、彼の死後もそのロシア遠征における伝説を語り続けたと言われます。
 そんなネイですが前述の通り大軍団の指揮はひどく、ワーテルローの戦いでは前線総指揮官を任されたものの判断ミスを連発し、フランス軍の大きな敗因の一つとなっています。この敗戦後、復権した王党派によって捕らえられましたが、その際に身内の多い軍事法廷ではなく、逆に不利な貴族院での裁判を自ら望み、堂々と自らの正当性を語りましたが敵多く死刑判決が下されます。死刑の際もネイは目隠しを進められるも「俺が銃弾や砲弾を前に何年戦ってきたと思っているのだ」と拒否し、堂々と銃殺刑を受けたそうです。

 話を少し戻すと、ロシア遠征時にネイが生還した際にナポレオンは彼を「勇者の中の勇者だ!」と褒め称えたと言われます。この勇者という言葉ですが、日本だと基本的にドラクエをイメージする言葉となっているものの、仮にこのネイのような豪胆であり超人的な判断だと行動を起こせるような人物として当てはめるなら、日本にそのような勇者はいるのかとふと気になりました。色々考えあぐねた挙句、唯一ネイに近いと言えるのは、あの島津義弘しかいないという結論に至りました。

 島津義弘といえば「島津の退き口」でおなじみの戦国武将です。これは関ヶ原の合戦時、西軍の敗北がはっきりして東軍が残党を潰すための追撃態勢に入る中、それまで戦闘を行ってこなかった島津軍が味方が逃げている西側にではなく、敵軍の真ん前を通過して東側へと突っ込み、退却したというエピソードです。
 一見すると無茶苦茶ですが結果から言えばこれは非常に合理的な判断だったと言われます。というのも、すでに大阪方面へと向かう西口は撤退している他の味方軍で込み合い、これから逃げようにも後ろから東軍の追撃を受けることは必死でした。逆に東側は突破にさえ成功すれば伊勢街道に出て、東軍の追撃を振り切りやすい方角でありました。

 とはいえ、実際にこれをやるとなったら敵中突破をしなくてはなりません。またいくら合理的に正しいといっても、数百の兵隊で数万の敵軍が居並ぶ陣を突破しようなんて普通は決断できないところですが、島津義弘はこの道を決断し、見事突破に成功して脱出しています。もっとも犠牲は大きく、甥っ子をはじめ多くの島津兵が味方を逃がすために文字通りの死守にて敵軍を阻むための犠牲となっています。

 この島津義弘のエピソードなら、ネイに負けず劣らずの豪胆ぶり、そして勇猛ぶりが十分評価される、というよりこれ以外にネイに匹敵するようなエピソードは日本国内では見当たらず、そういう意味で「日本の勇者」と呼べるのは島津義弘かなという気がします。何も伝説の剣を扱えるだけが勇者ではなく、多くの敵兵にひるまず豪胆な決断をやってのける人物だって勇者って呼んでもいいじゃないかというのが、今日の話のオチです。

2024年2月21日水曜日

中国側から見た倭寇

 この前デザインをリニューアルしたヤン坊とマー坊は「ヤクザのヤン坊、マッポのマー坊」で、二人はおいつ終われる関係にあると脳内設定しています。

倭寇(Wikipedia)

 それはさておき今日のお題ですが、この前ふと気になったことから中国語媒体で倭寇について調べてみました。なんで調べようと思ったのかというと、日本側の倭寇に対する見方や解釈で中国側と相違がないかという風に思ったのと、自分の経験からもしかしたら、中国側の方がこの手の解説が充実しているからじゃないかと思ったかからです。結果から言えば、自分の想定通りでした。

 まず日本側の見解、特に前期倭寇は日本人が主体であったのに対し後期倭寇は中国人(当時は明)が主体であったとする学説に関しては、中国側もほぼ全く同じ見解を持っているようです。後期倭寇に関して中国でも具体的な中国人指導者名を挙げ、日本人もいただろうが末端の構成員に過ぎないという風に解説していました。

 次に中国側の解説を見てなるほどと思った点を挙げると、日本人が主体であった前期倭寇に関して、その正体は海賊というよりも南朝方の残党だったのではという説明がありました。
 倭寇が活動した室町時代初期、日本は南北朝の動乱時代にあり、九州は特に南朝の勢力が強い地域でした。その南北朝時代は三代将軍の足利義満によって終止符が打たれますが、敗北して土地を取られたり、中央地域から逃れてきた残党らが海賊となり倭寇となった説を挙げていました。

 この説の真実味がある点として、足利義満が日明貿易を開始するにあたり、明側からの倭寇取り締まりの要請に応じた点が挙げられていました。義満にとってすれば明との貿易で得られる利益は非常に大きいうえに、倭寇を取り締まることは南朝の残党勢力掃討にもつながるだけに、一石二鳥だったからこそ明側の要請に快く応えのではという風に説明されていて、私としては非常に納得感のある説明に思えます。

 一方、この前期倭寇の段階でも中国人主体の倭寇団体が存在していたという風に中国側では説明しています。その勢力というのは明、正確にはその開祖の朱元璋と中国統一前に天下を争った張士誠の残党たちで、彼らも日本人らと組んで海賊行為を行っていたとしています。

 そんな前期倭寇ですが日明貿易の開始とともに幕府の取り締まり、恐らく名将と名高い今川貞世の九州統治が働くようになって一時消失したそうですが、義満が死んで四代目の義持の時代になると日明貿易が打ち切られ、それに伴い倭寇取り締まりもなくなって再び活動するようになったそうです。その後倭寇は後期倭寇へと変わっていくのですが、最終的には豊臣秀吉の九州平定が成ったことで治安が回復され、倭寇の拠点であった九州の島々でも取り締まりが行われて完全に消失したとされています。
 なお中国の歴史書では豊臣秀頼の朝鮮出兵も「倭寇」と表現していたそうですが、単純に当時の日本蔑視からくる言葉で、海賊としての倭寇を表しているわけではないと中国側でも解説されています。

 それでこの倭寇ですが、まぁ単純に食うに困って海賊行為をしていたのはわかるのですが、その実入りはどんなものなのかというのがちょっと前から気になっていました。この点について中国側の解説(百度百科)によると、中国と比べて当時の日本ではまだ工業が発達しておらず、衣類などの軽工業製品が異常に高値で売買されていたそうです。具体的には、恐らく銀本位での価値でしょうが、中国での売値に比べ日本での売値は十倍くらいも差があったそうで、だからこそ中国沿岸で強奪してでも日本に物を売りに行こうという海賊が現れたということになります。

 またこれは倭寇について、日本国内ではあまりその被害について触れられないという理由の裏付けにもなると思います。中国側での倭寇の被害は相当なもので、単純な経済的損失だけじゃなく鎮圧に向かった軍隊が逆襲にあって指揮官が何人も死んでたりするそうです。そうした被害の話は日本国内ではあまり聞かれないだけに、「倭寇を止めて」という明側が室町幕府に要請した話も私は子供の頃、いまいちピンときませんでした。
 倭寇からすると日本は強奪した品物の販売先にあたるため、盗難品を横流しすることはあっても襲うことはなかったのでしょう。むしろ襲うことに何のメリットもなく、また日本側からしたら正規の貿易で仕入れるよりも盗難品を安く手に入れられたであろうことから、倭寇取り締まりに対し抵抗する商人や勢力もいた可能性があります。

 このように考えると倭寇というのは、当時の経済貿易を見るうえでも非常に重要な指標足りうる気がします。また倭寇自体、私は日本人とか朝鮮人、中国人のどれであったかという議論はそもそも大きなトピックだとは思えず、現代のように国家意識がはっきりなかった時代なのだし、もっと単純に環東シナ海系住民として捉え、当時のこの地域における人や物の流動を調べる対象として研究すべきじゃないかと思います。

 しかし日本側において、ほぼ確実に倭寇の根拠地であったと推察される対馬や壱峻島はあまりこうした倭寇関連の研究に熱心ではない、というより博物館などを見る限りだとむしろ隠そうとする傾向すらあります。やはり海賊行為だから後ろめたさがあるのではないかと思いますが、当時のあの一帯がどうであったのかを調べるためにも、ありったけの夢をかき集めて研究を盛り上げてもらいたいです。
 もっともこれは対馬と壱峻島に限るわけじゃありません。色々な解説を読む限りだと、沖縄などの島々も倭寇がいたとされ、恐らく九州の沿岸地域においても倭寇の拠点があったと思われます。こうした地域でも探し物探しに行くように、地域の海賊史を調べてほしいです。

 以上のような後ろめたさからやや乗り気でない日本と比べると、被害記録も残している中国の方が倭寇に関して詳しく調べられる気がします。私自身も結構関心を持っているテーマなだけに、今後も何か中国語媒体で発見があったらどんどんここで書いていくつもりです。

2024年2月4日日曜日

知られざる北条家のあれこれ

 先々週に日本に行った際、比較的近場ながら一度も行ったことがなかった小田原城と、その先にある戦国時代の北条家のふるさとこと伊豆半島を回ってきました。このうち小田原城に関しては城の中が博物館となっており、なかなかお金をかけてきれいにされている上に展示内容も素晴らしく、一見の価値がありました。中でも解説に関しては、それまで自分でも知らなかったような記述も多く、参考になる点が数多くありました。

 そんな小田原城の解説の中であの三角形を三つ重ねた北条家の家紋について、あの形は「三つ鱗(みつうろこ)」と呼称するという説明がありました。これで何が納得いったかって、いろいろ事業やってていまいち本業がなんだかわからないけど、一応エネルギー事業が本業であろうミツウロコという会社が、何故ミツウロコと呼ぶのかが非常に得心しました。子供のころからよくここのガスボンベを目にしてたけど、北条家と同じ三つ鱗の家紋を会社商標にしているあたり、これがその名用の由来で間違いないでしょう。

 このほか北条家、というより小田原城について知らなかった事実として、よく小田原城は街ごと堀で囲んだ日本にしては珍しく非常に大規模な城郭であった背景がありました。私はてっきり小田原城は初めからそのような総囲い(総構え)だと思っており、だからこそ上杉謙信に攻め込まれても持ちこたえられたんだろうとも思っていたのですが、実はこれは間違いでした。
 小田原城が総構えとなったのは実は秀吉の小田原攻めの直前だったそうです。それまでは確かに敷地の広い城だったけど総構えっていうほどではなく、秀吉が来るってんで防御機能を高めるためあのように総構えになったそうです。

 そんな小田原城を見て学んだあと、そのまま親父と伊豆方面へとドライブに行ったのですが、改めて思ったこととして伊豆半島はやはり交通事情が悪いということでした。熱海までなら割と行きやすいですがそこから伊東に行くならハトヤ、じゃなくて伊東まで行こうとなると海岸沿いの道だと有料道路となって距離の割に結構お金がかかり、海沿いの切り立った崖の道を延々と走ることとなります。
 この崖沿いの道だけでなく、山間部を縫うようにして源頼家も暗殺された修善寺を経由するルートもあるのですがこちらも道が険しく、周りは覆うような山ばかり。なお山の中でもおわん型した大室山は遠目にもわかり一見の価値があります。親父が高所恐怖症のため、上までリフトで上らなかったけど。

 このような伊豆半島を巡ってみて思ったこととして、現在地震の影響で交通が寸断されている能登半島と同じく、半島の交通の険しさというもの改めて感じました。元々、半島というのは地盤が隆起または沈降してできることから、必然的に海側は切り立った崖ばかりとなり、陸地は大小の山々で平地が寸断される形状となりやすいです。能登半島は訪れたことがないのですが、報道や今回の伊豆半島周遊を巡ってみて考えると、その交通手段というか移動路はかなり限定されていたのではないかと思えます。
 それだけに、道が限られていることから源頼家が修善寺に押し込められたのもよく理解できました。道がないので出ようとしても関所に阻まれるし、逃げようとしても山に阻まれるので幽閉にはうってつけだと思います。かのように半島というのは道路において制限が多いと痛感するとともに、北条氏が韮山から小田原へ本拠を移したというのもよく理解できました。

2024年1月7日日曜日

大河でやるべきなのは北条氏では?

 このところのテレビ離れも反映しているのか、NHKの大河ドラマは年を追うごとに評判が悪くなっている気がします。朝ドラも「あまちゃん」あたりがピークで近年はニュースの話題にすらならなくなっており、視聴者もどんどん縮小していることを考えると今後もさらなる縮小を続けるのではないかとみています。

 さてそんな今年の大河ドラマは全然内容を調べていませんが、源氏物語の作者である紫式部が主人公とのことです。
 関係ないけど源氏物語大好きな日本語に堪能な知り合いの中国人OLがある日源氏物語の話題を振ってきたので、「あの作者、日記に同時代の女流コラムニスト(清少納言)は高慢ちきでいけ好かない奴だとめっちゃ悪口書いてたよ(´・ω・)」と教えてあげたら軽く引いていました。

 話は戻しますが今年の大河は内容が余り史実に沿わず、また篤姫以外の女性主人公の大河ドラマは朝ドラを意識したファンタジーな展開が多くてあまり評判が良くないこともあり、前評判はあんまいいように見えません。かといって毎年ファンが付いてきやすい戦国時代ばかり取り上げるわけにもいかず、なんかよくわからないノリでファンタジーでもいいから平安時代をやるようになった感がある気がします。

 なら一体どんな大河ドラマだったら受けるのかですが、個人的には近年徐々に研究が深まり、関心も高まっている後北条こと、戦国時代に小田原を拠点とした北条氏一族を取り上げるのがベターなんじゃないかとひそかにみています。
 戦国時代は基本的に近畿と東海に注目が集まり関東はあまり取り上げられないのですが、もう一つの理由として当時の関東は非常に勢力争いが激しいうえに群雄割拠が続いており、あまりまとまりがないというのも関心が低くなる理由だと思います。そんな中で北条氏が徐々に勢力を拡大し、一時は上杉謙信と激しい攻防を繰り広げますが、こちらがひと段落ついてからというものは関東支配をほぼ確立しています。

 最終的には秀吉の小田原征伐によってその歴史を閉じることとなったものの、北条氏の時代の関東地方は非常に治安が行き届き、また検地が熱心に行われていたことから当時の各地の石高なども事細かに記録が残されているといわれます。実際、小田原征伐の際に住民らはこぞって北条氏に味方したといわれ、領民の信頼を強く得ていたそうです。
 それ以上に、伊勢新九郎こと北条早雲はかつては素浪人から大名になりあがったといわれていましたが、実際は京都の室町幕府直参、つまり中央官僚で、関東の混乱を視察し、収拾するために派遣されてきたことが近年になってわかってきました。その中央官僚が何故関東に覇を唱えるようになったのか、この辺は親戚関係にある今川氏との絡みを含め今後の研究を待たねばなりませんが、こうした最新の知見を一般に広めるうえでも北条氏で大河ドラマを作る価値はあるような気がします。

 もっとも北条氏を主役に取り上げた場合、如何に武田信玄が信用のならない奴だということがはっきり見えてくるため、山梨県辺りは制作に反対するかもしれません。マジで北条市の視点で見ると、武田信玄は藤原竜也氏が演じてばかりいるクズにしか見えなくなってきます。

2023年12月13日水曜日

医師は転じて革命家となる

 初めてクソゲーと呼ばれたゲームはファミコンの「いっき」ですが、農民反乱をテーマにした作品なだけに中国共産党からお墨付きをもらってもいい内容のはずですが、周りにいる中国人にゲーム画面見せながら聞いたら、「遊んだことあるかもしれないけど覚えていない(´・ω・)」とつれない反応でした。
 もっとも農民反乱といいながら戦うのは一人だけで(二人プレイなら二人)、「一揆」ではなく「一騎」と呼ばれるほど狂った世界観ゆえかもしれませんが。ちなみに中国での呼び名は「農夫忍者」のようです。

 そんな中国における近代化の幕開けとなる反乱を率いたのは言わずもがなの孫文ですが、先日会社の同僚に孫文について解説した際、彼はもともとは医者であったことを教えたら大いに驚かれました。恐らく政治家、反乱指導者としてのイメージが強かったためかと思われますが、彼は若いころに出稼ぎしていた兄を追いかける形でハワイに行き、香港で医学を学び、マカオで医師として開業してたりします。
 そのような孫文の人生を解説していた際にふと、「そういえばゲパラも医者だったな」ということを思い出しました。南米、いや世界において彼を嫌う人間なんているのかと思うくらい世界的革命スターのチェ・ゲパラですが、彼も母国アルゼンチンで医学を学んでいました。

 ここまで思うに至り、孫文といいゲパラといい、何故二人とも医者から革命家に転じたのだろうかという点が気になり始めました。さらに掘り起こすと、日本の幕末期においても橋本佐内を筆頭に医師出身の志士も数多くいた、っていうか数多くの志士を輩出した緒方洪庵の適塾が医学を教えていたのもありますが、なんか医師から革命家になる率は他の職業に比べて高いような気がしてきました。

 ただこのからくりですが、当時の時代情勢を考えればある意味で自然な結果だといえるのではないかと思います。スパイファミリーのアーニャの声優をしている種崎敦美氏の口癖をまねて「Becauseなぜなら」というと、上記革命家が活躍した時代において医師というのは、国外の情報に深くアクセスできる特異な立場にあったというのが原因だと推察されます。

 封建制が続く近代化以前の国家は鎖国時代の日本よろしく、大抵どこも外国に対して排他的であったり、国外から入ってくる情報を制限する傾向がありました。しかしこと医学に関してはどの国も寛容で、日本も江戸時代に蘭学として真っ先に研究を解放したのは医学でした。
 これは何故かというと、どれだけ独裁的な封建主義の権力者であっても、自らの健康と命を永らえさせる医学に関しては最先端の技術を欲しがるためと言い切れるでしょう。国家として役立つか以前に、権力者が個人として優れた医学を求めることから、排他的な価値観であっても医学だけは例外的に外部から優れた技術や知識を取り込もうと動くため、鎖国下にあっても比較的自由に学ぶことができれば、国外の情報にもアクセスしやすくなるというわけです。

 ただそうして医学を学ぶ者たちはというと、国外の情報にアクセスできることから次第に自国と他国の違いに気づくようになり、場合によってはその矛盾にすら気づいてしまうわけです。実際、孫文もゲパラも他国に比べ自国の政治体制の古さや問題点に気づくようになり、革命家を志すようになったとみられる過程が存在します。
 こうして矛盾に気づくどころか、封建制が続いていた日本や中国においては西欧の民主主義に触れたりなんかした場合、「うちの国めっちゃおかしいじゃん(;゚Д゚)」と思うのが自然な成り行きです。これは多分医師に限らず当時国外の情報に触れた人間なら誰もが気づいたでしょうが、そもそも情報に触れること自体が制限されているため、必然的に早くから気づけるのは国外にアクセスできる医師に限られてくるでしょう。

 こうした成り立ちというか経緯から、鎖国的な国家体制にの中でも国外情報にアクセスしやすい医師というのは得てして革命家に転じやすいのではないかと私は思います。もっとも情報統制がなされていない国の場合はさにあらずですが、北朝鮮やロシアなんかのような情報統制が激しい国だと、今後も医師から代表的な革命家が生まれてくるかもしれません。
 まぁ現代において国外情報にアクセスしやすいのはギークことIT技術者のほうが立場的に強いし、反国家主義者も現代ではこの界隈に多いので、医師から革命家というパターンはもう成立しないかもしれません。しかし19世紀や20世紀において医師というのは国家に仕える外交官以上にインターナショナルな職業で、それが革命家としての下地を作っていたのではないかというのが自分の見方です。

2023年9月23日土曜日

英海軍の奇跡の作戦「サン=ナゼール強襲」

ウクライナが露セバストポリ海軍基地への攻撃で狙った大きな成果(Forbes)

 先日、ウクライナ軍はクリミア半島にあるロシアのセバストポリ基地をミサイル攻撃し、収容中だった揚陸船と潜水艦を撃破するとともに、軍艦の修理、メンテナンスを行う乾ドックにも火災を起こすことに成功しました。潜水艦の撃破もさることながら、軍艦の補修を行う乾ドックに損害を与えたことは黒海艦隊の今後の活動にも大きく影響を与えるとされ、ロシア側もその被害の大きさを認めるほどのウクライナの大戦果となりました。
 上記リンク先はその今回の攻撃について報道、解説した記事なのですが、この記事の中で「サン・ナゼール」という単語が出てきます。この単語こそ、自分が今回のウクライナの攻撃を初めてみたときに頭に浮かべた単語でした。

サン=ナゼール強襲(Wikipedia)

 サン・ナゼールとはフランスにある港町です。二次大戦中、フランスを占領したナチスドイツはこの三・ナゼールを大西洋における主要な軍港として扱い、海軍基地を置くとともに大きなドックも設置していました。これに対し向き合う英国は、ドイツ潜水艦Uボートの主な発進拠点であり、またブリテン島から目と鼻の先にあることから、非常に厄介な拠点だと認識しており、大戦の途中からこの軍港を占領とまではいかずとも、破壊することを検討し続けていました。
 最終的に英国作戦本部は、この軍港をとんでもない作戦で破壊することを計画します。その作戦名は「チャリオッツ作戦」といい、爆薬を満載して偽装した軍艦をサン・ナゼールに突っ込ませるというものでした。

 この作戦に英国は米国から供与されたキャンベルタウンという駆逐艦を使用することにし、可能な限りギリギリまで敵の攻撃を受けずに接近できるよう、ドイツ艦に見せる偽装を施します。その上で、突入に至るまでの地上施設破壊、そして突入後の爆破などを果たすため、まだその概念すらなかった時代において後の特殊部隊の原型となる「コマンドス」と呼ばれる特殊な訓練を受けた部隊を投入しました。
 このコマンドスはキャンベルタウンの縁などに身を潜め、突入時に妨害を行うドイツ軍兵器を破壊し、突入後は敵基地施設を破壊するという任務を帯びていました。当然、言うまでもなく非常に危険な作戦であり、また撤退方法も突入後に軍港に入る高速艇に乗り換えるという成功確率の大変低いものでした。それにもかかわらずこの作戦にコマンドスたちは果敢に臨み、後に称賛されるような大きな活躍を見せます。

 以上のような作戦を立てて準備を進めた英軍は、ついに結構の日である1942年3月28日を迎えます。この日の夜間にひっそりと出航したキャンベルタウンは、随行する駆逐艦2隻と脱出用の高速艇を伴ってサン・ナゼールをへと向かい、途中から単独で接近を図ります。途中、ドイツ軍の警備艇に見つかるも偽装が効果を発揮して見事やり過ごし、軍港入り口までほぼ無傷で近づくことに成功しました。
 ただ入り口付近で怪しまれたことから軍港の守備隊より攻撃を受けることとなります。その際、キャンベルタウンは通信で「友軍より攻撃を受けている。直ちに止められたし」と伝え、これにドイツ軍はまんまと騙されて攻撃を止めてしまい、みすみすキャンベルタウンを軍港内に入れることとなりました。

 こうして夜中1時頃、目標とする乾ドックまで約1.6キロまで近づいたサンナゼールは、ドイツ軍旗から英軍旗へと文字通り旗印を翻し、全速で一気にドックまで突っ込みます。これを見て敵艦だとようやく気が付いたドイツ軍はキャンベルタウンの突入を阻止すべく猛烈な攻撃を浴びせますが、これには乗り込んでいたコマンドスが応戦し、その妨害をはねのけ続けます。
 その結果、キャンベルタウンは見事目標地に突っ込むことに成功します。なお突っ込んだ時間は計画していた時間に対し3分しか遅れない非常に正確なものだったそうです。

 キャンベルタウンがドックに突っ込むと、乗り込んでいたコマンドスは地上に降りて任務となっていた基地施設の破壊活動を開始します。しかしドイツ軍の猛烈な反撃に遭い、破壊という目標自体は大半が達成できたものの、戦闘に従事した隊員からは多くの死者を出すこととなりました。また生き残った隊員も脱出に使う高速艇の多くが途中で撃沈されたことにより逃げられず、脱出をあきらめ市街戦を展開するも大半が死亡するか捕虜となって捕まり、622名のうち169名が戦死、215名が捕虜となり、計画通りに帰還できたのは228名にとどまりました。
 なお脱出したうち5名は、市街地からドイツ軍の追手を振り切り、第三国のスペインを経由して英国に帰還するという離れ業を見せており、この5名には全員ヴィクトリア十字賞が授与されています。

 こうした嵐のような夜が過ぎ、作戦開始から十数時間を経た同日正午頃、あらかじめ起爆措置が施されていたキャンベルタウンが満を持して爆発します。この際、突入して乗り上げていたキャンベルタウンを調査していたり、一夜過ぎて見に来たドイツ軍人を300名超も巻き添えにして吹き飛んだとされ、相当な規模の爆発であったことが伺えます。
 それだけの爆発であったことから、サン・ナゼールの乾ドックは完膚なきまでに破壊され、その後二次大戦期間中は一切使用することができなくなりました。多大な犠牲を払いながらも、この英国の強襲作戦は当初の目標を完全に達成したと言えます。

 この作戦について自分は以前に何かをきっかけに知りましたが、敵艦に偽装して突っ込んで爆破するというまるで映画のような作戦内容と、これほど危険な作戦を遂行したコマンドスの活躍に心底恐れ入りました。このような奇抜な作戦は英国に限らず多くの国でも企画はされるものの大半は実施されず、また実施したとしても大失敗に終わることが常ですが、先ほどの正確な突入時刻といい、綿密に計画して見事成功に至らせた英国には、その国家としての強さを大いに感じさせられます。この点、日本の空虚妄動的だったインパール作戦とは大違いです。
 英国本国でもこのサン・ナゼール強襲は大いに誇りに思われており、その成功を讃える賞や記念碑も数多く設けられているそうです。

 前述の通り、突飛な発想ともいえる計画を見事成功に導いた英国の準備、そして人材には強く感じるものがあり、この国が世界で覇権を取ったのもごく自然な成り行きだったのだろうと深く納得させられます。それにしても英国の発想と行動力は舌を巻かせられることが多く、さすがある意味で神風ドローンの始祖ともいうべき、あのパンジャンドラムを企画だけじゃなく本当に作った国なだけあります。

2023年8月27日日曜日

中国の清朝が維新に失敗した背景

 例によって「蒼穹の昴」を世に続けていますが、この作品は戊戌の変法)(1898年)と言われる、中国清朝末期に行われた政治改革とその失敗を主なテーマとしています。

 簡単に戊戌の変法について説明すると、中国は1840年代のアヘン戦争などを経て西洋技術の導入が必要だと考え、李鴻章らが主導する形で西洋式軍隊をはじめとする改革を行いました(洋務運動)。しかし政治体制は古いまま、官僚も中国の古典の丸暗記で登用する科挙を使用し続けたことからこの改革は当初より限界がありました。
 その限界が露呈したのは何を隠そう日清戦争で、西洋列強ならまだしも同じ東アジアの日本に見るも無残な惨敗を喫し、日本が行った明治維新との差をまざまざと見せつけられることとなりました。

 この結果を経て、康有為をはじめとする急進的な改革派は時の皇帝であった光緒帝に対し、日本に範を取った改革の必要性を強く主張します。これに対し光緒帝も、かねてから叔母である西太后に実権を握られ続けていて自分でも親政を行いたいと考えたことから利害が一致し、西太后が紫禁城から頤和園に引っ越して影響力を弱めたその日からこの戊戌の変法は始められ、約100日後に失敗に終わります。

 失敗に至った原因は守旧派の反発でした。康有為らは科挙も一気に廃止するなど急激に改革を進め、これにより既得権益を失うと恐れた満州貴族、そして漢民族官僚らが大きく反発し、当初は改革に協力的だった人物も距離を置くようになり、西太后を頼るようになります。
 こうした動きを受け西太后も守旧派に祭り上げられるまま光緒帝の妨害を開始するようになる、具体的には日本で上皇が天皇の頭越しに院宣を出すように光緒帝の出した布令と真逆の指示を出し続け、二重権力状態を作りました。こうした状況に光緒帝側は西太后の捕縛も検討しますが、ここで頼ってしまったのが袁世凱で、彼は光緒帝より西太后の捕縛を命ぜられるやそれをそのまま西太后に報告し、逆に西太后の手先として光緒帝を捕縛するに至ります。

 こうして光緒帝の改革はとん挫し、そのまま幽閉され、最後には毒殺されるという末路になっています。

 この一連の改革の流れを見て少し感じたこととして、仮に当時の中国の王朝が清朝じゃなかったら、また違ったのかもなという印象を覚えました。言うまでもなく清朝は満州人による王朝で、数十万人の満州人が数億の漢民族を支配する征服王朝でした。
 それでも統治自体は安定していて漢民族の既得権益や文化も守ったことから、アヘン戦争までは平和にやってこれてましたが、帝国主義時代にあってはかえって古い体制を守り続けたことから国家としては弱くなっており、上記の様な顛末に至ることとなっています。

 日本も中国の西洋列強にどう対抗し、どう独立を守るかという立脚点から改革を進めようとした点は共通していたものの、日本の場合は天皇と徳川幕府のどちらをトップにして政治改革を行うかで対立が起こりました。結果的には幕府を取り潰し、既得権益層をほぼ可能な限りに叩き潰してから新体制の設立へと至り、廃藩置県を経て完全なる既得権益層打破に成功しています。
 これに対し中国では、既得権益層は科挙出身の士大夫層だけでなく、その上に満州人貴族も存在するという二重箱状態でした。またそうした体制もあって、康有為や梁啓超のように「清朝を主体に改革を進める」という勢力もいれば、「古くなり切った清朝を廃止して一から国会を作るべし」という孫文のような勢力もありました。日本の明治維新と比較するなら、やはり孫文の方針が近いでしょう。

 このように、確かに日本でも尊王派と佐幕派が存在しましたが、中国の場合はトップ争いにおいて満州族と漢民族の民族対立もやや絡んでおり、いまいち人材が一つの改革勢力に結集しきれなかったのではないかと思う節があります。それだけにもし当時の王朝が征服王朝ではなく漢民族王朝だったら、もう少し既存政体を中心に改革を進めようとする勢力がまとまりを見せ、改革ももっと円滑に進んだのではないかという気がします。もとより、満州貴族という既得権益層もこの場合はいないんだし。

 そう考えると、当時の中国が征服王朝であった清朝であったというのはかなり大きな不幸であったように見えます。清朝の統治は末期を除けば非常に安定していて悪くはない王朝と言えるのですが、如何せんあの時代にあっては征服王朝であったのはあらゆる方面でマイナスに働いており、実際に戊戌の変法を見ていても漢民族に対する革命への懸念もいくらか見て取れます。
 ただ仮に漢民族の王朝であっても、果たして日本の明治維新のようにうまくいったかと言えば話は別です。日本と比べると中国は広くてでかいし、それだけに西洋列強の干渉も強かっただけに、そっちはそっちでうまくいかない要素がたくさんあります。

 何気にこの手の革命で思うことは、革命に成功するか否かより、革命の過程でどれだけいい人材を輩出するか、生き残らせられるかの方が大きい気がします。日本の場合は坂本龍馬と高杉晋作、久坂玄瑞が途中脱落となっていますがそれ以外はうまく生き残ったのに対し、中国の場合はそれ以降の辛亥革命までの過程でかなり多くの人材が死んでいて、それらもまた後の混乱に拍車をかけたような気がします。

2023年8月17日木曜日

大体「太閤記」が悪い

 先週、というより6月から続く激務ゆえか、なんか最近左手がキーボード叩いているときに固まるような感覚を覚えるようになりました。試しに手を広げたりしてみたら左腕全体痛くなったりして、多分、酷使し過ぎて神経痛んできたんだと思います。
 なお自分だけかもしれませんが、手、特に指の神経は視神経と物凄い関連が深いように思えます。指を伸ばしたり手のひらを広げる運動をすると、途端に目がしばしばするようになりそのまま涙があふれてくることもあります。でもってその後、やたら視界がよくなるというか見えやすくもなってきます。若干思い当たる人なんかは、胸の前で合掌して、そのまま合掌した手を合わせたまま腹のあたりまで下げてみるのを試してみるといいです。

 あとストレスたまっているせいか、今日会社でスマホ弄ってまた戦車注文しました。なんか午後の紅茶を午前に飲むかのような悪いことをやっちまった気がします。

 話は本題ですが、時期にして2000年代前半に入ったあたりからこれまで定説というか常識扱いされてきた戦国時代のエピソードが、否定されるケースが増えてきました。その代表格は信長関連のエピソードで、「桶狭間の戦いは奇襲ではなかった」、「長篠の鉄砲三段撃ちはなかった」など、これまでこうしたエピソードをもとに作られた小説とかドラマをどうしてくれんだよ的なくらいにひっくり変わる新説がどんどん出てきました。
 でもってこうした新説は徐々に勢いを持って行ったというか、従来の説は信憑性が低いという見解が広まり、2020年を越した現在においてはもはやほぼ否定されつつあります。

 ではそもそも何故、三段撃ちをはじめとしたエピソードは信憑性が低いにもかかわらず、日本人の常識と化すまで普及していったのか。結論から言えば、小瀬甫庵が書いた「太閤記」が大体の原因です。

太閤記(Wikipedia)

 太閤記という本はいくつかありますが、もっとも代表的なのは江戸時代に儒学者であった小瀬甫庵が本とされています。この太閤記が、戦国時代をある意味で講談のパラダイスと化させ、フィクションまみれにした張本人、っていうか張本本と言っていいでしょう。

 作者の小瀬甫庵は1564年生まれの元医者で、秀吉の甥である豊臣秀次らに仕えたとされます。その後、紆余曲折合って晩年は加賀前田藩に仕え、大坂の陣も過ぎた江戸時代に初期に太閤記を執筆したとされていますが、この本の中に前述の桶狭間や長篠のいかにも小説っぽいエピソードが入っている、っていうか、この本以前にそうしたエピソードは誰も書物に記録していませんでした。それどころか書かれてある事件の日時もいい加減で、話の都合で発生の前後すらも入れ替えたりするほどのファンタジスタぶりを見せています。

 以上のような怪しさプンプンな点は明治や大正期の歴史家も認識していたそうですが、それでもこの本に書かれた如何にも小説っぽいエピソードは否定されることなくそのまま浸透し続けました。これは何故かというと、この太閤記は発刊当時に活版印刷によって世の中に大いに流通したというのが原因として何よりも大きいです。
 ほかのまっとうな歴史書と比べると、講談本としてながら大衆の目に触れる歴史本であり、尚且つ演劇などにも取り入れられたもんだから嘘から出た誠とばかりに、そのままフィクションの内容が史実であると思い込まれた模様です。

 確かに、発刊当時においても「嘘くせー( ゚д゚)、ペッ」と批判する人もいたし、近現代においても信憑性に異議を呈す学者もいましたが、やはり大衆にエピソードなどが浸透してしまうとなかなか「ヾ(*´∀`)ノ゙ うそです」なんて言いづらい雰囲気もあり、最終的にきちんと否定されるまで約300年かかったということとなります。
 ただ歴史に対する実証的な研究がこの20年の間でも強まっており、そうした現場の奮闘もあってか内容が否定され始めた20年くらい前以降、この「太閤記」という書名を世の中で見ることはほぼ全くなくなりました。逆に信長の事績に関する評論などでは「信長記」の引用が増え、もはやこちらが太閤記のお株を奪位のスタンダートと化しています。

 以上のように大衆に普及し過ぎたフィクションがリアルになるという過程は、現代においてもままあります。代表格は言うまでもないでしょうが幕末の坂本龍馬で、彼に関しても近年、数多くあるエピソードが年々否定され、どっかの教科書会社に至っては彼の名前を教科書から外したとも聞きます。薩長同盟も坂本龍馬の仲立ち以前に既に密約として成立していたとか、船中八策も龍馬が考えたものじゃないなど、いろいろと新説が出てきています。

 このほかだと東条英機や山本五十六に関しても虚実織り交ぜた見方が一時広がっていましたが、近年、特に山本五十六に関しては一発屋であったなど評価が急落しつつあります。あとネットで見ると壊血病の一件だけでやたら森鴎外を貶める記述をこのところよく見るようになり、なんか評価が落ちつつあるような気がします。

 こういうのを見ると、ふとしたことをきっかけに歴史というのは誤った見方が広がるものだなという気がします。逆に地上の星じゃないですが地味ながら立派なことを成した人がなかなかスポット当たらなかったりもするので、歴史を生かすも殺すもやはり講談次第であると思わせられます。先の太閤記といい坂本龍馬といい、司馬遼太郎の影響がともに強く、司馬史観が弱まってきたことが龍馬の評価急落にも大きくつながっているでしょう。

 そういうのを踏まえてもっと世の中に知られてほしいと自分が思うのは、最近評価が上がりつつあるけど樋口季一郎、戦国時代だと甲斐宗運、現代作家なら三浦綾子あたりです。

2023年7月30日日曜日

なんでも「(´・д・`)ヤダ」だった谷干城

 最近、明治のテクノクラートという観点から批判閥でありながら政権中枢で徴用されてきた人材について着目し初め、一通りこれらに該当する人材について伝記を読み漁っています。具体的な人物としては、前回にも取り上げた原敬もそうですが、最も知名度の高い人物となると紀伊藩出身で外務大臣を務めた陸奥宗光でしょう。そして陸奥に続く形で元幕臣の榎本武明、土佐藩出身の谷干城がこれに続き、このうち谷干城についてはあんま調べたことがないので以下の本を買って読んでみました。



 谷干城と言えば西南戦争で熊本城に籠り、事実上、西郷軍撃退において最も功績の高い働きをした軍人として有名ですが、第一次伊藤博文内閣で初代農商務大臣になるなど、政治家としても要職を務めました。そんな経歴ながら陸軍の非主流派として政権や長州閥に度々楯突いたりするなど反骨精神のある人物であったと聞いていたので、改めてどんな人物であったのか伝記で読んでみたら、自分の想像以上に反骨の相に溢れた人物でした。
 なお谷干城の「干城」は戸籍名だと「たてき」ですが、本人はよく「かんじょう」と呼んでいたそうです。名前の由来は中国の古典の一説にある「干(=盾)となり城となり」という意味の文章からだそうです。

 話を戻すと、坂本龍馬の二歳下という同年代で谷干城は土佐藩に生まれており、代々の神道学者という家でした。長じて本人も当初は学者として採用されますが、神道の家計なだけあって徐々に尊王攘夷運動にのめりこむようになり、公武合体派で土佐藩の政治を仕切っていた吉田東洋を目の敵にしていたそうです。
 そのため吉田東洋が暗殺された際は真っ先に犯人と疑われたそうですが、暗殺直前に東洋と面談した際は普段から悪口言っている自分に快く時間を割いてくれ、またその主張も筋が経っており評価を見直したと述べています。ある意味、これ以降の彼を暗示しているかのような変節の一端が見えます。

 その後、土佐藩を尊王攘夷へと政策を変えさせようと動きつつ、途中で薩摩や長州と連携して徐々に尊王討幕へと方針を変え、土佐藩兵を京都に出兵させて無理やり討幕に加担させようとするなど過激な行動を取るようになります。大政奉還を経て討幕路線が固まると、同じ土佐藩の板垣退助らとともに土佐藩兵を率いて各地を転戦し、元新選組を甲州で殲滅するなど高い軍功を挙げていきます。
 その後、明治時代に入ると当初は土佐藩の執政として班内改革を進めますが、廃藩置県を経て中央政府に合流し、軍事指揮官として各地に赴任し、西南戦争直前に熊本鎮台司令として赴任します。なおこの人事の裏には、土佐出身で且つ天皇への忠誠が強い谷なら西郷軍に裏切らないという思惑があったそうで、その期待に応え見事西郷軍を撃退します。

 その後、しばらくは軍人として活動するも徐々に政治家に転身し、農商務大臣就任後は主に貴族院議員として活動しています。

 以上が主な彼の経歴ですが、改めて細かく政治思想や言動を追っていくと以上に変節の激しい人物であったというのが正直な感想です。具体的な変節ぶりを如何にまとめます。

・尊王攘夷→尊王討幕→攘夷はやっぱ不可能
・台湾出兵(1874年)に出陣→この際、清と戦争してやっつけろ!→日清戦争(1894年)反対!
・政党なんてカスの集まり→(国会開設以降)政党を中心に議論すべきで政府は勝手に決めるな!
(最後の政党に対する評価は当時の人からも「前と言っていることが違う」と突っ込まれている)

 以上は主だった変節で、細かいところを探ればもっといっぱい「前と言っていることが違う(;´・ω・)」と思わせられる発言のオンパレードです。こうした変節は何も谷に限るわけじゃないですが、彼の場合は変節前に自分の主張を激しく展開しては猛批判した挙句、自分の主張が通らないとわかるや「だったらもう辞める!(# ゚Д゚)」とすぐ辞表を叩きつけるなど、極端な行動が目立ちます。
 特に第一次伊藤政権では外務大臣であった井上馨の条約改正交渉を激しく批判し、内閣不一致を招いて井上馨の辞職を誘引するほどでした。

 以上のようなイヤイヤを繰り返したことから明治政府内では何度も辞職、復職を繰り返しているものの、主張に首尾一貫したものはほぼないものの、神道学者の家だけあって天皇家、ひいては国家に対する忠誠心は誰もが認めるものがあったことから、「谷君、また一緒にやろうよ(´・ω・)」と辞職しても誰かが復職の世話してくれるので、なんだかんだ言いつつ野に埋もれることはありませんでした。
 もっともそうした復職も、野に放っておけば西郷隆盛のように反乱を起こすかもしれないという懸念から、政権内に取り込んでおくという思惑も強かったそうです。それで反抗心が異常に強かったそうです。

 なお明治天皇からは「西南戦争の英雄」と高く評価され、谷の復職についても明治天皇の意向が強かったそうです。それだけに農商務大臣を辞めた際は「復職してくれるならどのポストでもいい、教育とか好きだったから教育大臣とかどう?」(過去に学習院院長もしている)などと、優先的にポストが提示されています。ただこの時は、議会の中で暴走を食い止めるべく貴族院議員を選んでいます。

 その後、貴族院議員の重鎮として名を馳せますが、ここでもほかの華族を率いて政府の方針に反発しまくり、あまりにも反発しまくることから当初は谷と行動を共にしたメンバーも、後期には彼と距離を置くようになっています。この時に限らず、「悪い奴じゃないんだけど」といろいろ世話して食える人は周りにいたものの、伊藤博文や山縣有朋らのように独自の派閥を形成するほど谷の周りでは徒党が形成されなかったように見えます。

 以上のように自分の見立てでは、主張や反発が激しいながら行動や発言に一貫性がまるでなく、政権にとってすればなんにでも反対してくる厄介な奴でしかなかったんだろうなという評価です。天皇家への忠誠心があったからこそ周りも大分理解してくれていますが、恐らくこれがなければ厄介な人物として暗殺されていたのではと思う節があります。
 概して大局観が一切なく、目先の問題にとらわれて過激な反対運動を展開する人間だったとしか自分には見えません。もっとも西南戦争で見せた軍事指揮や、議論においては理路整然と話すなど能力が高かったのも間違いないですが、その能力を大局観なく奮うもんだからいろいろ迷惑な人間だったようにも見えます。何か処理しなければならない課題が目の前にあれば活躍したでしょうが、なんにでも反対するもんだから反対派のシンボルに担ぎ上げられることも少なくなく、伊藤や山縣と比べるとその評価が低くなるのも自然な結果かなと思います。

2023年7月23日日曜日

比類なきゼネラリストであった原敬

 以前に何かの記事で、「原敬が暗殺された際に元老であった山縣有朋は大いに嘆いた」という記述を見て、強い違和感を覚えました。何故かというと、山縣はかねてより政党嫌いの超然主義者であり、また政敵(最初「性的」と表示されたがこれはこれで間違ってない気がする)であった伊藤博文に引き立てられる形で立憲政友会を引き継いだという立場からも、山縣にとっては完全に線対称でむしろ嫌われる立場にある人間ではないかと考えたからです。
 何故山縣はこのような立場的に対立するしかないような原敬にかような感情を抱いたのか、そうした疑問から以下の「原敬-「平民宰相」の虚像と実像 」(中公新書)を手に取ってみました。


 そもそも原敬について自分は、薩長閥でない初の平民出身の総理となったものの普通選挙法の実施にはやや否定的で、また財閥など大勢力を贔屓にする政策を取ったことから人気を亡くし最終的には暗殺された人物だとみていました。そのほか人柄に関してはやや怜悧な人物で、頭は切れるがやや人望が薄く、慕う人間もそんなに多くなかったという風な印象を覚えていました。

 上記のような私の印象は根本的なところで間違ってはいないものの、あまり語られることが少ない人物でもあることから、その人物の本質については自分はあまり理解できていないかったと今回この本を読んで感じました。具体的には見出しにも掲げている通り、原敬は同時代において比類なきゼネラリストともいうべき人物で、総理になるべくしてなったというような凄まじい経歴と能力の持ち主であったという風に考えを改めています。

 具体的にはその経歴を追う方が早いです。
 盛岡藩の家老の家として生まれるも戊辰戦争後に父はなくなり、家は傾き、立身出世を目指して東京に出てあちこちの学校に入ってはやめてを繰り返して、最終的には法曹官僚育成学校であった司法省報学校に通うようになります。ただここで騒動に巻き込まれたことから退学を余儀なくされ、官界への道は一時絶たれるのですが、伝手を頼りに新聞社(郵便報知新聞)に就職することとなります。

 その後、しばらくはジャーナリストとして活動し、財界ともこの時期にパイプを作ります。ただ新聞社内の派閥抗争に巻き込まれてまた退社を余儀なくされますが、井上馨との縁があり、彼の引き立てでフランス語が使えることから外務省へ入省し、外交官となります。この外交官時代に伊藤博文とも知己を得て、有能ぶりが各所から認められたのですが、その後に外務大臣となり後に政敵となる大隈重信には嫌われ、外務省を追い出される形で今度は農商務省に移ります。そこで新たに上司となったのが、陸奥宗光でした。
 陸奥から信頼されるとともに高く引き上げられた原敬はそのまま陸奥の秘書のような立場となり、陸奥が官界にいる間はずっとサポートし続けます。ただ陸奥が病気となって官界を去るや原もいったんは官僚をやめ、再び新聞社の経営者となりますが、政界、財界、官界にパイプを持ち、尚且つ有能と認めていた伊藤博文の引きにより、立憲政友会の創設メンバーに引き入れられます。

 こうして政治家となった原は伊藤、次いで西園寺公望の片腕となり自他ともに認める政友会の幹部として明治後半期を過ごします。西園寺が政界から引いた後は、自らの人望のなさを自覚してか政友会を集団合議体制にしますが、徐々に党内からも信頼を得たのと、同じ党内のライバルであった松田正久が逝去してからは正式に党首となり、持ち前の頭脳を使って政友会を引っ張り、選挙で度々勝利を収めていきます。

 ただ、総理になるに当たっては当時は元老の指名が絶対必要であり、実質的に藩閥出身者にまだ限られていました。しかし藩閥出身者のうち児玉源太郎や桂太郎などが早くに亡くなり、これという後継もなくなったことで徐々に人選に事欠くようになってきました。チャンスは近いと考えた原は驚くことに、ここで総理就任に当たっての最難関となる山縣有朋を度々訪問し、関係の悪さを率先して修復するように動いたそうです。
 実際、山縣は政党出身者、というより政党に政権を任せてはポピュリズムに走ると懸念していたそうなのですが、原と会って話をするうちに原のことを信頼するようになり、何より政界、官界、財界、果てには貴族院ともパイプを持ちつつ利害調整に長けていた原のことを、物事を総合的に判断できる人物であると信頼するようになったそうです。

 その後、大隈内閣、寺内内閣が世論の批判を受け倒れた後、山縣は当初は西園寺に再登板を促したものの本人が固辞し、またその西園寺からの推薦を受け、原を総理とすることを決断したそうです。

 以上の原の経歴を追っていくと、ジャーナリスト、官僚、(新聞社)経営者、政党政治家といくつもの経歴を渡り歩いており、また官僚時代は外交や経済分野に携わり、政党に入党してからは党内運営や他党との交渉や対策もこなすなど、マジで何でもかんでもやってきています。唯一、本人が苦手と自覚していたのは財税政策で、「過去に要請があったのだから財務大臣をやっとけばよかった」と述べていたそうです。
 そんなもんだから自分が総理の時は財税においては高橋是清にほぼ一任していたそうです。

 実際に原の総理時代の功績を見ると、非常に利に適っているというか高所的判断による施策が多いです。ただマクロ過ぎる政策のため末端の一般市民からすればないがしろにされているとみられたのも無理なく、それが彼の暗殺を招いたというのは真に不幸というよりほかないです。
 地味に驚いたのは、晩年に特に力を入れていたのは後に昭和天皇となる皇太子の摂政就任だったそうです。前準備として皇太子を欧州歴訪に送り出すなどしており、病気がちな大正天皇に変わる執行システムとして、皇室の継続と運営にもかなり気を配っていたことがわかります。
 なお大正天皇と原敬はかなり仲が良く、大正天皇からは頼りにされていたそうです。

 やはり心があったまるようなホットなエピソードが少なく、怜悧で有能な官僚としてのイメージが強いですが、こと政治家、それ以前にトップ運営者としての才能と実力で原敬は明らかに抜きんでた人物であったと、今回思い知らされました。近年の総理でいえば、福田康夫総理に近かったような気がします。
 一方、同時代の原の政敵であり後に普通選挙法を実現する加藤高明に関しては、完全なポピュリストであり、別に崇高な自由平等思想があったわけじゃなく党利党略のためだけに生きてきた人物だったのだなとやや見下げた印象を覚えました。実際、普通選挙法の施行により藩閥勢力は衰えたけど、その代わり軍部が台頭して日本はおかしな方向に向くことになったのだし。

2023年7月7日金曜日

反省文を書きまくった皇帝

 また本題と関係ないけど「アクション対魔忍」の中国語名は「動作対魔忍」でした。なんか少し違うような気がする。

孝文帝(Wikipedia)

 話は本題ですが、日本において「北魏」というと多分世界史を習った人は「大仏」と答えるかと思います。というのも、この北魏(5~6世紀)という中国の王朝に関しては「中国で仏教が盛んになった王朝」で、この時代の大仏を「北魏式」と呼ぶことしかテストに出ないからです。しかし実際には混乱極まった中国の南北朝時代(五胡十六国時代)において、華北地域で初めて安定を得た王朝で、後の隋、そして唐による統一のきっかけにもなるなどかなり重要な王朝だったりします。
 またこの北魏の時代から口分田こと均田制が始まり、これら政策や税制はそのまま日本の奈良時代に引用されています。そういう意味では、日本にとっても影響力の深い王朝です。

 そんな北魏において最盛期を築いたのが上記リンク先の孝文帝です。北魏の王朝は拓跋氏という、鮮卑族による王朝で、孝文帝の本名も「拓跋宏(たくばつ・ひろし)」といいました。しかし彼は早期に漢民族系の文化に染まり、首都を洛陽に移したほか、生活や制度まで漢民族風に一気に切り替えたことで有名です。
 そのため苗字に関しても、わざわざ「拓跋→元」と改名し、途中からは「元宏(もと・ひろし)」と名乗ったりします。

 そんな孝文帝ですが、祖母(実母であった説もある)の馮太后から英才教育を受け、非常に勉強熱心な皇帝としてデビューを果たします。わずか5歳で帝位に就いて当初は馮太后が摂政となったものの、馮太后の死後からは申請を開始し、善政を敷いて北魏の勢いを高めています。その過程で、漢民族と自分の出身である鮮卑族の融和も進めるなど、かなりマルチな活躍ぶりを見せています。

 性格も非常によくできた、物分かりのいい人だったとされているのですが、そうした一端をうかがわせるエピソードとして、反省文の話があります。なんでも、孝文帝は反省文を書くのが大好きで、ことあるごとに「世の中が飢饉なのは僕のせいです」、「中国が統一されないのは僕の努力が足りないせいです」、「皇太子が反乱を起こしたのも僕のせいです(でも討伐する)」などと文書にしたためては、「天よ、罪深い僕を罰したまえ」などと書き続けたと言われています。恐らく、反省文の執筆数でいえば歴代皇帝ナンバーワンでしょう。

 自分は猫の歴史漫画で初めて孝文帝について知りましたが、さっきの「おばあちゃんが実は母親だった?」などといい、こんな面白い人をなんで詳しく教えてくれなかったんだという思いが決行します。割と五胡十六国時代は穴場というかこういうのが多いので、いつかまとめる本でも出そうかな。

2023年6月17日土曜日

現代に転生してきたらやばい三国志キャラ

 今月の新刊漫画を一通り読み終えた感想としては相変わらず「よふかしのうた」が凄く面白く、この作者は以前からもそうでしたがすごく印象的な1枚絵を描くなと改めて感じさせられました。その反対に「五等分の花嫁」の作者が描いている「戦隊大失格」はもうこれ以上はどうあがいても面白くならないように思え、なんかアニメ化すると発表されていましたが早まったんじゃないのと本気で思います。この作者もかつてはドキッとする1枚絵を描くのがうまかったですが、現在はそれが見る影もなく、もう単行本買うのもやめようかなと検討しているくらいです。
 このほか面白さがだんだんと上がってきていると感じたのは「烈海王は異世界転生しても一向にかまわんッッ」で、スピンオフ元のバキのネタをいい感じに利用していて、また「烈海王ならこう言うだろう」とみていて納得せざるを得ないセリフ回しが凄くいいです。

 その「烈海王は異世界転生しても一向にかまわんッッ」ですが、めちゃ強い中国人格闘家がファンタジー世界に転生してきたらという設定の漫画ですが、転生先とくればこの作品に限らず基本的にファンタジー世界です。またファンタジーじゃなくても未来から過去へと転生するのが常道ですが、「パリピ孔明」では三国時代から現代の東京に孔明が転生してくる話で、流行りとは逆方向になっています。
 この作品は無料公開されている序盤だけ読みましたが、思っていたよりは面白かった一方、孔明だったら基本何でもできてしまうというのがちょっとした物語の物足りなさを感じました。むしろ現代に転生してくるならなんでも好き勝手出来る点で張飛のがいいように思え、「ブラック企業社員、張飛翼徳」みたいなタイトルで、現代に転生してブラック企業に勤めるも、パワハラ上司を圧倒して逆にこき使うようになり、客先にも脅迫しまくってブラックの限りを尽くす張飛とか見たい気がします。

 このほか現代に転生できそうな三国志キャラとなると、浮かんでくるのは関羽、と思いきやその養子の関平あたりが意外と生きるような気がします。彼なら「寛平」と日本で呼ばれても全く違和感ないし、養子ながら親子関係を大事にするアットホームキャラでもあり、現代世界でジョッキーとして活躍していたところ、某呂蒙も転生してくる話とか短編ならいける気がします。

 このほかやるんなら「キャバ嬢 貂蝉」とか「エリートヤンキー曹操」とかかなぁ。改めて考えてみると結構選択肢の幅狭かったりする。

2023年6月11日日曜日

石橋湛山は未来人だったのでは?

 最近ちょっと興味があったことから、戦前に東洋経済新報社にて日本の帝国主義を批判し続け、戦後は総理に就任するも病気ですぐ退任を余儀なくされた石橋湛山の伝記を読んでいますが、読んでて「この人はタイムリープで過去に戻ってきた未来人なのでは?」と思うようになりました。何故かというと、彼が主張していた内容は現代日本人の歴史観にほぼ則しているからです。

 かつて自分の大学にいた講師は常々、「戦前の日本を批判していいのは石橋湛山だけだ」といっていました。その心というのも、大衆に一切迎合せず、当時の日本政府、特に中国大陸における外交や政策を激しく批判し続け、米国との開戦も一貫して批判し続けていたというのが理由です。これは本当のことで、戦時中は当局というか東条英機が直々に「東洋経済新報を潰せ」と指示があったようですが、当局関係者の恩情により直接取り潰されることはなく、発行に要する紙の配給を制限されるという措置だけで済んだそうです。

 具体的に湛山はどのような批判をしていたのかというと、第一に挙げられるのは植民地放棄主義です。中国、特に満州に対する日本の政策や謀略を批判し続けたことはもとより、朝鮮半島も日本は放棄して、本州や九州四国北海道などを除きあらゆる外地領土の所有権を放棄すべききだと一貫して主張してきました。
 いったいどうしてこのような主張をしてきたかというと、どうも英国の植民地経営について早期から研究していたことが大きいとその伝記では指摘されています。元々湛山は経済誌のライターということで経済学に造詣が深く、比較的早い時期、具体的には明治の段階で当時の英国国内で流通していた経済論文も読んでおり、その時点でも叫ばれていた英国植民地、特にインドにおける投資費用と得られたリターンを比較すると、損失の方が大きいなどという分析を見ていたそうです。

 そうした単純な経済学原理に則った観点だけでなく、植民地は保有するだけで現地の住人のみならず、米国をはじめとする外国の日本に対する反感を買うと指摘しており、「蓋然性を持たない領土は放棄した方が絶対得」みたいな価値観で以って批判していたようです。一見すると、特に当時の帝国主義時代における観点からするとやや理想に偏った平和主義者にも見える主張ですが、突き詰めると国益に対する徹底した合理主義から主張しており、その他の主張と合わせてみても現実的な利益を追求していたように見えます。
 特に戦後、吉田内閣において経済政策を担当した際、後の傾斜生産方式につながる石炭産業への一極投資を主張して手配しています。何気にビビったのはこの時、現代でいう思いやり予算というべきか、GHQに対する日本政府の予算も「払い過ぎだ」といって削減しようと手を付けていたそうです。これがGHQの反感を買い、吉田茂も湛山を疎んじ始めていたこともあって、戦前に一貫して軍国主義に抵抗していたにもかかわらず湛山は公職追放の憂き目に遭っています。

 話を戻すと、湛山の主張や予言はほとんどすべて後の時代に的中というか、懸念すべきと批判していた内容もそのまま懸念が実現するなど、異常な的中率となっています。ましてや軍国主義一直線となった時代にあってもずっと政府を批判し続けた点といい、なんか破滅へと向かう未来をあらかじめわかっていて、それを食い止めるように過去へやってきた未来人かのような振舞い方に見えなくもないです。もっとも未来人だとしたら、あの時代に政府に抵抗する危険性を考えればあんな派手な行動を取るはずないのですが、その辺の気骨も含めてやはりただものではない人物だったと改めて感じます。

 翻って現代を見ると、真面目にこの10年くらいに自分は経済学の新たな学説なり主張を見ることがなくなりました。自分が学生だった頃はケインズはもはや通用しない、これからは新古典派かまた別の道(多かったのはハイエク主義)だなどといろいろ言われていましたが、それ以降はこれといった議論を見ず、一時的にピケティ氏が盛り上がりましたが多分盛り上がっていた当時も彼の理論をきちんと理解していた人はあまりいなかったように見えます。
 前述の通り湛山は英国の植民地経済の実態を学んだことがその後の日本の未来を正確に予想せしめた大きな要因となっています。そう考えると具体的な経済学説や議論のないまま未来へ向かおうとするのは、結構危険なことなのではないかと今の日本、ひいては世界を見ていて感じます。

 敢えて自分の方から言うと、「グローバリゼーション」はもはや死語と捉えるべきです。何故かというとグローバル化していない分野の方がもはやなく、世界的競争が一般的でありそうじゃないローカルな経済圏なんてほとんどないからです。むしろ逆に断絶、セクト化の流れが、特にIT分野で起こりつつあり、それに対しどう予測し、動くか、でもって政治における権威主義の今後の動向をどう見るかが目下重要な気がします。

2023年6月8日木曜日

戦国時代に騎馬突撃はあったのか

 本題と関係ないですがPS3時代にあった「ドリームクラブ」というキャバクラで女の子を酔わせることが目的のゲームを遊んでおけばよかったと今更ながら後悔しています。というのもイカ娘役でおなじみの金元寿子氏がこのゲームでノノノというキャラを演じており、割とこの人の声が好きなのとこのノノノというキャラクターがかなりおかしいキャラだと聞いて、俄然興味が湧いています。あまりにも不思議ちゃんだから主人公が指名しないとほかに指名してくれる人がいないため皿洗いしているあたりとか。

 話は本題ですがこの2~3年で一番評価が変わってきている戦国時代の合戦を挙げるとしたら、それは間違いなく長篠の合戦じゃないかと思います。20年くらい前は桶狭間の合戦が実は奇襲じゃなかった、雨も降ってなかったなどと大きく見直されましたが、それに続く形で長篠の合戦も議論が起こるようになり、この数年間において一般メディアにおいて一番目にする機会が多い気がします。
 では具体的にどういう風に見直されているというか疑義がもたれているのかというと、

・鉄砲三段撃ちはなかった
・馬防柵は一般的な防陣設備だった
・そもそも武田家に騎馬隊は存在しなかった
・武田軍の戦術目標(撤退なのか織田軍殲滅なのか)

 このうち三番目の騎馬隊に関しては私もかつてこのブログで、平野の広い関東ならいざ知らず、山がちな武田家の本拠である長野県や山梨県で騎馬隊が威力を発揮する地形はほとんどなく、っていうか突撃すらままならない場所なだけに、そもそも武田騎馬隊は本当に存在したのかという疑義を呈したことがあります。この私の見方と同じような見方をする人がこのところ増えており、「そもそも武田家に騎馬隊謎なかった」、「っていうか戦国時代の日本産の馬は小さく、騎馬突撃が行えるような馬じゃなかった」などと否定的な見方が広まってきているように見えます。

 私自身もこうした見方に同感です。また仮に騎馬状態での戦闘があったとしても、槍を構えての突撃ではなく騎乗で弓を射かける戦術しか行われなかったのではないかとも見ています。
 なおこの戦術ですが、得意としていたのはモンゴル人たちです。具体的には馬に乗った状態で敵集団を取り囲み、そのまま走りながら円の中心にいる敵集団に弓を射かけ続けてたそうです。敵軍が反撃しようと迫ってきたら囲みを解いて逃げる、もしくは囲みを広げて射かけ続けてたそうで、実際やられたらたまったもんじゃない戦術な気がします。

 このモンゴル人ほどでないにしろ、日本でも流鏑馬は昔から行われていたことを考えると、騎馬の戦場での運用は騎乗で敵軍に近づき弓を射かけ、反撃される前に逃げるヒット&アウェイ戦法がメイン、っていうか実際にはこれしかなかったのではないかという風に考えています。こう思う理由としては戦場で馬に踏みつぶされて死んだ武将とかの話を全く聞くことがないし、逆に馬に乗ったまま敵を突き落としたという武勇伝も、三国志とは違って日本国内では聞かないからです。

 同時代、っていうか十字軍の頃からナポレオン戦争までの欧州で騎馬突撃は幅広く使われており、実際に戦争の勝敗を決める重要な戦術であり続けました。それと比べると日本では騎馬突撃が実際に勝敗を分けたという合戦の話はほとんど聞かず、唯一騎馬突撃が実際行われたかもしれないと思えるのは、北条家と上杉家の間で起きた河越城の戦いくらいです。まぁこの戦も真偽が怪しまれている節がありますが。

 そのように考えると、日本国内においてはそもそも騎馬突撃という戦法自体が存在しなかった可能性が高いのではと私は思います。特に戦争が少なくなり兵站も十分な状態で行われた大坂の陣においても、騎馬隊の目を見張るような活躍とか運用はあまり聞ききません。むしろ伊達家の騎馬鉄砲隊のエピソードを見るに、日本の騎馬は騎乗で弓や鉄砲を撃つというのがメインジョブであったのではないかと思います。

 そうだとした場合、日本に存在しなかった騎馬突撃の概念はいつから生まれたのか。江戸時代の講談では既に武田騎馬軍の活躍が語られていたことからするとこのあたりから騎馬突撃が流布された可能性がありますが、もしかしたら実際に行われていた西洋の話が伝わり、架空の戦術として日本国内に広がったのかもしれません。
 そうなると、ゲームの信長の野望で騎馬突撃が戦術として選べるのは歴史的にも間違いである可能性も出てきます。もっともそれ言ったら、琵琶湖の端から端まで弾道ミサイルの如く弓矢で攻撃できること自体が大概なフィクションに当たりますが。

 なお史上最高の騎馬突撃候補とされる例として、1807年のアイラウの戦いにおけるナポレオン配下のミュラの突撃が挙げられます。この戦闘でミュラは敵軍の防衛線を破ると、Uターンして背後から再びロシア軍を蹂躙したとされています。こういう敵陣突破的な話が日本だと一切ないんだよなぁ。

2023年5月14日日曜日

まるで議論の出てこない考古学

 ネット上でその方面のまとめサイトに行けば現在ホットな歴史トピックの議論を読むことができますが、比較的議論が熱いなと思う時代としては今も昔も戦国時代で、逆に人気が下がってきていると思うのは昭和前期と幕末です。昭和前期に関してはこの時代の関係者が亡くなってきており、それに伴い研究者も減ってきていることが原因だと思いますが、幕末に関してはこの時代を取り扱う小説が昔より減ってきているのが理由かなと推測しています。

 一方、全く議論に上がらない時代を上げるとしたら考古学で取り扱う先史時代で、かつてあった邪馬台国論争なんてもはや論争の態を成さないほど誰も議論していません。それどころか、大和王朝に関する話題だったり、日本人の民族的ルーツに関する話も何も見られません。
 これらの時代は元から決して人気であったというわけではないものの、それでも20年くらい前だったらネットに限らず書籍などでもある程度の話題というか議論の主張を見ることはありました。しかし2000年に発覚した旧石器捏造事件によって、多くの遺跡で発掘物が一切の証明能力をなくしたことから、東日本における考古学はその後研究を行うことは実質的に不可能となりました。

 もっともこの事件は日本の考古学が明確に終わるきっかけに過ぎなかったという声もあります。事件以前からも日本考古学会が発表する論文はずさんなものが多く、証拠の管理能力も低かったと言われており、私も専門家でないもののいくつかの発表論文を見ていて疑問に感じる点は少なくありませんでした。

 話を戻すとあの事件をきっかけに、捏造を行った張本人である藤村氏が関わっていない西日本の遺跡はその後も研究が続けられたものの、事件のマイナスイメージもあってか冒頭に述べた通り現在考古学は盛り上がりを見せていません。そもそも考古学自体が異常に金のかかる学問で、景気の悪くなった日本においては研究をサポートするスポンサーどころか、国も若干及び腰になっていることも影響しているように見えます。

 そんな感じで考古学の「こ」の字すら見なくなっていた私ですが、去年に対馬と壱岐島の博物館に行ったときに、かなり久しぶりに発掘物の展示を見ることがありました。どちらの島も日本本土と比べると道路や宅地開発がそこまで激しく行われてなかったこともあったのと、朝鮮半島からわたってきたと思われる出土品が出るなど、比較的良好な発掘地となっているそうです。
 特に壱岐島に関しては比較的平野が多く農耕も行える環境であったことから、当時の住宅の跡地と思われる当たりでまとめて出土品が出るなど、地元も中学生なども呼び集め結構盛んに発掘とか行っていました。

 もっとも、個人的には対馬と壱岐島については地形的に東シナ海における倭寇などの海賊活動の拠点だったと思え、この辺の海賊の歴史についてもっと解説されているのかと思い期は完全スルーで、もっとこの辺を掘り下げた方がいいのにと思ったりしています。

 ただこうした離島ならともかく、日本本土においては今後考古学で何か大きな発見が出るかと言ったら恐らくないんじゃないかと思います。先の捏造事件の影響もさることながら、先史や古代史学会は古事記の記述を無理やり中国の歴史書の記述になぞらえようとするファンタジー作家が異常に多いことなどから、あまりまともに科学的な活動が行われているように見えません。「卑弥呼は〇〇皇后だ」などと、よく根拠もなくああしたこと言えるなと呆れています。

 そうした学会の質の低さから、もし考古学をやりたいっていう人がいるならまず外国語を学び、日本国外で考古学活動をすべきだと思います。ちなみに中国は未開の土地がマジでゴロゴロあり、そこから思わぬ遺物が出てきたりするので結構考古学が盛り上がっています。曹操の墓だって見つかったし。

2023年3月2日木曜日

中世のイタリアは何故共和制自治を取れたのか 後編

 昨日の記事に引き続き、何故中世イタリアではミラノをはじめ共和制自治形態をとる都市が多く成立したのかについて持論を述べます。結論から言うと、商業が非常に発達して商人市民が強い力を持ったことこそが最大の原因だとみています。

 中世においてイタリアは世界屈指の商業地域で、現代における複式簿記の原型もイタリア発祥です。東のイスラム世界と西のキリスト教世界の中間に位置し、ライバルとしてビザンツ帝国こそありましたが地中海、アドリア海貿易においてイタリア商人の重要性は非常に高く、銀行家をはじめとして数多くの大商人が生まれました。
 これら商人は従来からの貴族ではなく平民層から生まれ、財力で貴族を上回るようになると自然と参政権も要求するようになります。一部都市ではこうした新興層を新たに貴族として取り込むことで貴族層が勢力を維持した例もありますが、大半の都市では平民議会が作られ、そしてそのまま新興平民が貴族を圧倒して主導権を握るパターンを辿っています。でもってこうした有力者はメディチ家をはじめ新たな貴族となっていき、ローマ教皇から支配のお墨付きをもらってミラノ公とかフィレンツェ公などという領主になっていったりします。

 とはいえ、日本や中国の封建的支配と比べると大体どの都市も合議制を維持しており、その結果として内部派閥対立も起きて他国に攻められる間隙もできたりしますが、こと自治という点ではかなり長期にわたり維持されてきました。何故自治が成立したのかというと前述の通り土地と農民を支配して食料を分配する封建領主以上に、領域外から財を集め力を持つ商人がどんどん伸びてきたことが第一の理由ですが、その力の源泉が財にあることも大きいとみています。

 例えば封建領主であれば土地から生産される食料を収奪し、分配することが力の源泉であり、この収奪を実行するには言うまでもなく軍事力が物を言います。それに対し商人領主は軍事力以上に資金力が物を言い、その資金力の源泉は何かというと当時としてはやはりネットワーク、人脈で、遠隔地の中継取引所や製品の原産地とのつながりが大事です。そうした点で単一的な権力者であるより、権力そのものを分配することが自身を高めることにもつながり、合議制形式の政体ができていったのではないかと思われます。
 さらに言えば封建領主と比べると土地に縛られず、国外からも優秀な人材を引っ張ってこれたりする点でも合議制の方が都合がよかったのかもしれません。

 以上のような経緯を踏まえると、商業の発達は共和制、ひいては民主制の成立に物凄く大きな役割を持つのではないかという風にも見えます。実際にというか日本においても、戦国時代で最大の商業地と言われた大阪にある堺では、信長が来るまでは町衆による自治が行われていました。当時の宣教師にも「東洋のベニス」と評されており、何で「東洋のベネチア」じゃないんだと思ったりもしますが、堺という商業都市でこうした自治が成立したということからすると、やはり商業、というより重商主義と自治は物凄い関係があるように思えます。

 さらに発展すると、カール・マルクスじゃないですが資本主義の発達は先ほど説明した通り土地に縛られた封建領主の力を削ぐことになり、民主主義、特に議会の権力を大きく高める効果があるように見えます。実際ヨーロッパ世界でも早くから重商主義に走っていた英国は議会の権力が国王より強く、逆に農業国であったフランスは絶対王政がフランス革命まで続くなど、割と明確なリンクが見えます。
 日本も江戸時代までは封建制がが続きましたが、商業自体は江戸時代を通して一貫して発達しており、商人の力もどんどんと増していたことから、あのまま続いていればペリーが来なくても幕藩体制は崩壊していた可能性が高いと前から思っています。言うなれば封建領主にとっては商業の発達は国力を高める一方、自身の権力も弱らせる一手となる可能性もあり、うかつに商業投資とかはあんまできないものだなと思います。まぁ英国みたく議会を味方につけるってんなら、話は別でしょうが。

 さらに現代に話を進ませると、土地に農民を縛り付けている北朝鮮で王権が異常に強いというのも、封建制の表れなのかもしれません。社会主義自体が土地に住民を縛り付け自由を束縛する要素を必然的に持つことからも、先祖返り的に封建的な政権になる要素を多分に含んでいると言えるでしょう。

2023年3月1日水曜日

中世のイタリアは何故共和制自治を取れたのか 前編

 最近、かねてから興味のあったイタリアの通史をいろいろ調べていますが、改めてこの国では昔から共和制というか有力者による議会が作られ、都市ごとに自治形態をとっていたことに驚きました。古くはカエサルが登場する前の共和制ローマの時代より、元老院が存在して重要な意思決定は議会形式で定められていました。

 その後、ローマ帝国の崩壊とともにイタリア各地はゲルマン人、ノルマン人が作った王国や、東ローマ帝国、果てにはムスリム勢力によって分割されますが、中世期の北イタリアではミラノやフィレンツェを中心に各都市が自治を行い、支配権を強めいようとする神聖ローマ帝国らに抵抗しながらその独立を守りました。
 なお同時代のナポリやシチリアなどの南イタリアはフランスやスペイン系の王族による王国が作られ、都市による自治はあんま成立していませんでした。

 中世期、具体的には10世紀前後ですが、日本が鎌倉時代であったころにこうした共和制自治がイタリアで成立していたということに素直に驚きます。一応、日本の鎌倉時代も北条家が主導権を持つも合議制形式こそ成立していましたが、議会なんて概念は当時全くかったろうし、市民の代表を選挙などで選んで政治を任すなんて概念に至っては、日本だと明治になるまで成立しませんでした。
 もっとも当時の北イタリアも、当初でこそ都市の有力者が選ばれて議員や執政となったものの、次第に身分が固定化されていき、メディチ家のように世襲で都市の執政を務める一族が増えていったようですが。中には「身内で選ぶと揉めるよね(´・ω・)」とばかりに、外部からやってきた有能な人物を毎回執政に選ぶ都市もあったそうですが。

 話を戻すと、一体何故イタリアではこうした共和制自治が発達し、日本では誰もやろうとしなかったのか。日本に限らずとも、ランス、ドイツなどもイタリアほど尖がった議会的なものは発達せず、唯一英国に限ってマグナカルタなどを経て議会が強い力を持ちましたが、本格的な共和制が成立して市民(ただし有力者に限る)が参政権を得るようになるのはフランス革命まで待たなければなりません。

 この辺について詳しい人がいたら本当に解説してほしいのですが、自分個人でいくつかその背景を考えたところ、大きく分けて二つ理由があるのではないかと睨んでいます。その一つ目は、ローマ教皇の存在です。

 言うまでもなくローマ教皇はキリスト教の最高権威者で、キリスト教世界では圧倒的な発言力を有します。ローマ教皇、並びにローマ政庁自体は有力な軍隊こそ持ちませんが、キリスト教世界の領主に対する軍事発動権は有しており、十字軍などはまさにその呼びかけによって起こされました。
 このローマ教皇ですが、中世においては日本の天皇に近い立場であったのではないかと思っています。というのも各地、各国の支配権を認めるのはローマ教皇で、随所で異民族を追っ払った軍事指揮者に対しその領土の支配権を認めたりしています。またローマ教皇の方針に従わない領主や国王に対しては破門を下すことで、有能なカノッサの屈辱のように教皇は間接的に各地の支配権をコントロールしていました。

 そんな教皇がいるのは言うまでもなくイタリアのローマです。教皇が実際支配するのはローマ市だけですが、現在のイタリア領土内は教皇が直接支配せずともその影響力を強く持てる地域でした。そのためか、異民族の侵入も多かったというのもありますが、よく領土争いの舞台になり、支配者が時代ごとに度々変わっています。でもって途中からは異民族を追っ払ったフランスやドイツの君主は、中世の証としてローマ教皇にイタリア北部の土地を寄進したりもしています。
 寄進された土地は大体が寄進した相手に支配権をそのまま認めたりすることが多いのですが、その寄進主はフランスやドイツの国王が多く、彼らは普段はフランスやドイツにいることが多く、その支配も必然的に遠隔地から行っていました。結果的にこうした不在地主のような立場もあって、現地の有力者を代官みたく取り立てなければならず、その代官らが徐々に有力者となって自治に至るというパターンが見られます。

 またある時期からローマ法王はフランス国王や神聖ローマ帝国(オーストリアやドイツ)の皇帝らと関係が険悪化するのですが、その過程で法王寄りの都市が神聖ローマ帝国から離反するというのも見られます。いわば二つの強大なパワーに挟まれたエリアゆえかその支配は常ならず、変動的であったことから確固とした政権が成立しなかったのではと思います。
 特に11世紀辺りに起きた神聖ローマ帝国の支配に対し北部の各都市がロンバルディア同盟を結んで抵抗し、戦争を経てその自治権を獲得した過程は、北イタリアの自治体制の確立に大きくつながっています。

 個人的な意見でいえば、教皇のいるローマの近くでなければ、北イタリアの諸都市は歴史の通りに自治を確立することは難しかったのではないかと思います。やはり教皇のおひざ元ということもあって、北イタリアの支配を図った各勢力は強硬な手段に出られなかったように見えます。
 こうしたパワーバランスのエアポケットみたいな地政学的条件が、ある意味で緩衝地帯みたいな環境を作り、それに乗じて北イタリアの諸都市は独立を保って共和制自治を得るに至ったのではというのが自分の見方です。もう一つの理由については、また次回で書きます。

2023年1月27日金曜日

ありそうであんまり見ない桶狭間の戦いのイフ

 ゲームの「アイドルマネージャー」で抱えているアイドルが女同士の恋愛に発展した後、破局し、何故かお互いの派閥を率いて相手をいじめ合うという恐ろしい展開に発展しました。たまたま片方がすぐ卒業したので抗争はすぐ終わったけど、かなり奇跡的な展開に本当に恐ろしいゲームだと思いました(;´・ω・)

 話は本題ですがだいぶ前に家康をΖガンダムのシロッコに見立てるという記事を書いて、友人からやたら激賞されました。個人的にも「脇から見ているだけで→脇から天下を狙っているだけで」というセリフの改変は神がかっていたと思っています。
 ふと昨日自転車乗りながらこの記事のことを思い出し、これ以外にも家康にシロッコっぽいセリフを言わせるタイミングないかなと考えていたところ、「そういうことだ。すまないな、ジャミトフ」というセリフが真っ先に浮かんできました。このセリフはシロッコが上司に当たるジャミトフを裏切り殺害するシーンで使われたのですが、家康風にするなら「そういうことだ。すまないな、秀吉」などと豊臣家に対する裏切りシーンで使えると思うよりも、桶狭間のシーンが真っ先に浮かんできました。

 桶狭間の戦いと言えば説明不要ですが、この戦いで家康は今川軍本隊より先行し、前線拠点であった大高城へ兵糧を運び込む作戦を指揮していました。大高城は前線で孤立した拠点で、今川軍が駐留していたものの周りは織田軍に囲まれて兵糧も尽きる有様だったと言います。
 この大高城へ家康は陽動によって織田軍の包囲を崩し、自ら大高城入りして兵糧を運び込んだと言われます。その後、近くの織田軍の砦が後からやってきた今川軍によって攻略され、あとは今川義元率いる本隊を待つだけという中、突如として今川義元が織田信長に討たれたという報がもたらされました。

 この突然の状況転換に対し、家康は当初は大高城に籠ったものの、改めて今川義元が死んだことを伝える使者が来たことを受けて撤退し、今川家の家臣らが逃げ出した、自らの故郷でもある岡崎城に入り、そのまま今川家からの独立を果たします。

 この状況ですが、一見するとドタバタ的な展開に見えつつ、かなり家康にとって都合のいい展開です

 結果的に家康率いる徳川家はこの桶狭間の戦いをきっかけに今川家からの独立を果たし、そのまま織田家との同盟を経て逆に今川家の領土を侵食して飛躍のきっかけを掴んでいます。結果論ではありますが、あの桶狭間の段階で家康が裏切るに足る動機はあるように見えます。

 では仮に裏切るとしたどんな形か。やはり一番大きいのは、信長への内通でしょう。
 信長とは幼少の頃に尾張に誘拐されたこともあって家康は旧知の間柄でした。仮に家康が信長に対し、今川軍の行程を伝え、どんなルートでやってきてどんなタイミングで休憩に入るかなどをリアルタイムで伝えていれば、信長にとっても有利この上ない展開です。

 でもって、織田家にも若干それらしき兆候が見えなくもないです。というのも信長は今川軍が尾張に侵入して次々と砦を落としていくのでその対策にどうするかという軍議で、当初は国境で防衛するという方針を立てながら、夜に急に小姓のみを引き連れ飛び出し、熱田神宮にて諸兵を招集し、そのまま国境を越えていきなり今川軍に決戦を挑んでいます。
 この間の動きは若干不自然に見えますが、あらかじめ間者を待っていて、求めていた情報がもたらされたことで信長は急遽動いたと言ってほぼ間違いないでしょう。もっともその間者は、家康の手下というよりかは、歴史書に現れる簗田某などによるものである可能性が高いでしょうが。

 ぶっちゃけこうして書いておきながら、家康が信長に内通していたという説を私は全く信じちゃいません。ただ状況的にあり得ないことはないと感じる話で、歴史イフ的な話でこんな感じに「桶狭間で家康が実は裏切っていた!?」的な話を見かけないのは、ありそうでない話なんだなぁなどと感じました。
 そういうわけで「家康=シロッコ」説を取るならば、「そういうことだ。すまないな、今川義元」となるわけです。割とでもキャラ的にあってる気はする。

 あと明日からまた仕事だ……(ヽ''ω`)

2022年11月4日金曜日

養子に継承させた皇帝

 また本題と関係ないけど、数年前に「あずきちゃん」の原作が某秋元康氏だと知った時はマジビビった。

 それで本題ですが、例の中国の猫歴史漫画を読み続けて現在は五代十国の時代にまで来ました。この五代十国とは唐から宋に至るまでの時代で、五つの王朝と十ヶ国が乱立したことからこのような名称となっています。西暦で言えば907年から960年のわずか54年間で、五つの王朝の平均年数は約十年ちょいと極端に短いなど移り変わりが激しく、実際に中国人でもこの時代の流れをきちんと把握している人は少ないです。
 もっとも、三国時代の次の晋朝が滅んだ後である南北朝時代こと五胡十六国時代とくらべれば、まだ流れがはっきりしているので五代十国はマシな方ですが。

 話を本題に移しますが、この五代十国時代においては「後漢」という王朝が興っています。なんで後漢なのかというと、この王朝を起こした皇帝が劉知遠といって、漢朝の劉氏と同じ苗字で本人も漢朝にシンパシーを感じていたことからこのような名称となりました。もっとも、劉知遠自体は漢朝の皇室の血筋を引いていないことはほぼ確実ですが。
 この後漢は典型的な軍閥王朝で、「強き者が天下を取る」的な、ローマ帝国で言えば軍人皇帝時代に近い五代十国を代表する王朝で、完全に武力のみで開かれた王朝でした。また王朝を興したと言っても当五jはまだ各地に軍閥は残っており、また中国にとって若干トラウマワードな燕雲十六州には「遼」こと契丹族の王朝も控えており、天下は全く定まっていませんでした。

 そんな最中、後漢を起こした劉知遠が病死し、その後を劉承祐(隠帝)が継ぎます。継承時の年齢は幼く、重臣らが輔弼する形で政務が運営されていたのですが、この劉承祐は長じるにつれてあれこれ口出ししてくる重臣らを疎むようになります。それどころか、自らの皇帝としての地位を簒奪しようとしているのではないかとも疑うようにもなりました。
 そしてある日、自らの権勢拡大と重臣らの排除を目論み、首都において突如重臣とその一族を襲い、ほぼ全員を皆殺しにしてしまいました。ただ詰めが甘いというべきか、この時外部に遠征に出していた部隊が存在しました。

 その部隊を率いていたのは郭威という将軍で、マジで一介の平民から軍功によって先帝に見出された叩き上げの軍人でした。郭威は首都での白色クーデターによって自らの家族が皆殺しにあったことを知るや、率いていた部隊ごとそのまま首都に進軍する形で反乱を起こします。これに対し劉承祐も首都から打って出て迎え撃ちますが、世論的にも郭威の支持が大きかったことと、指揮官としての圧倒的な実力差から皇帝である劉承祐の部隊は惨敗し、乱戦の最中に劉承祐も殺害されます。

 こうして首都を占領した郭威は当初こそ劉家の一族(劉知遠の甥)を次の皇帝として擁立しようとするも、内々から反対も多かったため、結局この甥を殺して郭威自身が皇帝に就きます。
 こう書くと郭威がひどい人間の様に見えますが、上記のようなプロセスは五代十国ではよくあることでした。この時代の皇帝や軍閥首領は軍隊の支持が非常に重要で、軍隊が異論を唱えた場合はそれに従わざるを得ず、郭威に限らず軍隊に担ぎ上げられる形で、本人はその気がないのに皇帝にされた者は他にもいました。

 話を戻すとすったもんだで皇帝となり「後周」という王朝を開いた郭威ですが、彼自身が軍部の増長が乱世を長引かせているということをよく把握しており、皇帝となるや軍部、特に各地の軍政を担う節度使の権力や軍権をそぐことに注力しましたが、志半ばでその事業を果たし切れないまま病気でこの世を去ります。そして去り際に、自らの養子を次の皇帝に指名しました。その皇帝こそ、後周の二代目皇帝となった柴栄でした。

 柴栄は郭威の妻の兄の息子、つまり郭威の義理の甥にあたる人物でした。実父の家は裕福だったのですが柴栄が幼い頃に両親がともに亡くなり、仕方なく貧乏な一兵卒でしかなかった郭威の家に引き取られることとなりました。
 ただその後、郭威が軍功によって出世を遂げ大部隊を率いるようになると、彼の右腕となって養父の活躍を支え、軍人として大きく成長します。また軍事一辺倒に限らず、幼い頃から勉強にも明け暮れ、文字通りの知勇兼備の名将となりました。

 しかし前述の劉承祐による白色クーデターの際、養父の郭威とともに遠征に出ていた柴栄はその親族をすべて皆殺しにされます。結果的にこの郭威と柴栄は養父・養子の関係ながら、互いに一人しかいない親族という関係になり、その紐帯も実の親子以上に結びつきが強かったとされます。
 そうした背景もあり、死に臨んだ郭威は柴栄を自らの後継者として皇太子に立て、実際にその通りに柴栄が二代目皇帝として後を継ぎます。少なくとも自分が知る限り、直接的な血のつながりのない養子に皇位を譲るという例は他にはありません。

 こうして皇帝となった柴栄ですが、養父の期待を裏切らず、というより養父の方針を見事なまでに達成してのけます。皇帝直属の親衛隊(禁軍)を設置して中央権力を強める一方、地方軍閥の力は徹底的にそぎ落とし、また老兵らに土地をあてがって農民に変えて耕作放棄地を開墾させるなどして、短期間で劇的に後周の国力を高め続けました。
 なおこの際、当時は働かなくてもごはんが食べられるということから仏門に入り僧となる者が多かったのですが、こうした連中も無理やり農民に変えた上、仏像も溶かして銅銭を作るなど仏教に対する弾圧も行っています。もっとも後世からは「必要な弾圧だった」的に評価されていますが。

 柴栄は未だ各地に割拠する独立国を併呑して、中国全土の統一も目指していたものの、志半ばで39歳にて逝去します。あとを継いだのはわずか7歳の息子で、先の例の様に軍部はこの幼い皇帝には従わず、同じ軍人出身である別の将軍を立てて後周を滅ぼしてしまいますが、この時推し立てられた将軍は柴栄の息子を殺したりせず、その生命を保護し、その後若くして亡くなった際には皇帝の例で以って葬儀を行っています。この将軍こそほかならぬ、次の宋朝を開いた趙匡胤でした。

 後周を受け継いだ宋はその後、華南の南唐を併呑し、燕雲十六州を除く中国全土の統一を達成しますが、この統一事業は先の柴栄による基礎作りがあったから成功したとされます。そうしたことから、柴栄は五代十国時代の皇帝の中でも最優秀の人物であったと評価されています。
 個人的な感想で述べると、先の一族皆殺しを経て互いにたった一人だけの親族同士となった郭威と柴栄のバトンリレーは、非常に心打つものがあります。結果的にこのバトンリレーによって長らく続いた五代十国という乱世が終わりを迎えるきっかけが得られており、世にも稀な養父・養子による皇帝継承劇は見るものを感動させるだけでなく、次の時代を大きく切り開いたという事実は深く感じ入りさせられます。