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2020年5月31日日曜日

不倫がニュースとして消費される背景

 何も私がいちいち説明しなくても、昨今の日本では芸能人らの不倫ネタがニュースとして大きく消費される現状を否定する人はいないでしょう。そもそもなんでこれほど不倫が毎回大きなニュースになるのかというと、その背景には「不倫は文化」ではなく「不倫は社会的タブー」として捉えられていることが大きいと感じます。

 不倫がタブーであることなんて当たり前と言われるかもしれませんが、不倫に係る当事者、具体的には不倫された側の配偶者ならともかく、不倫ニュースの消費者自体は完全なる不倫の部外者です。無論、他人の不倫劇が見ていて楽しいという感覚は非常によく理解でき、そういう意味でのニュース消費であれば私も特におかしくないと思うのですが、最近の不倫関連ニュースを見ていて違和感を感じるのは、当事者でもないにもかかわらず不倫をした側、そしてその不倫相手を激しく糾弾する傾向があるという点です。

 不倫を行った芸能人を広告に使っていた企業であれば怒るのも無理ないですが、現実には全く関係ないのないはずの視聴者がけしからんとばかりに不倫行為を批判し、激しくニュースを消費する傾向が強いです。人によっては激しい攻撃性を伴う発言も多くみられ、最近のテラスハウス問題じゃないですが、よくそんな他人のことに怒ることができるなと思うくらいヒートアップした批判を目にすることも少なくありません。
 そもそもこうした不倫報道自体、「ここに悪い奴がいるぞ、みんな見てみろ!」的なスタンスの報道の仕方がされることが多いです。特にテレビのワイドショーほどのその傾向が強く、メディアの中立性なんてどこ吹く風とばかりに、不倫した側を責め、された側に寄り添うという発言や質問が多く、まぁ普通に見て視聴者を煽っているとしか言いようがないです。

 では何故そうなってしまうのかというと、冒頭で述べた通りに「不倫はタブー」という社会的認識が非常に強くなってしまっているからだと思います。家庭内だけでなく、赤の他人にすら不倫をしたら後ろ指刺される、それどころか激しく批判されても仕方ない的な共通認識がすでに出来上がっているように見え、不倫者であればいくらでも攻撃、糾弾してもいいという価値観が今の日本にはあるのかもしれません。
 前述の通り、私自身は不倫行為自体は各個々人の行為であり、「えっ、あんな清純そうな子が?」といったびっくり的な感覚でニュースを消費する(=読む)ことはあっても、よほど見苦しい言い訳とかしない限りは批判しないようにしています。しかしネットでの反応を見ていると、不倫ニュースが出るとここぞとばかり鬱憤を晴らすかのように糾弾する人が多く、且つメディアもそうした雰囲気に乗っかっている節があり、またそうした糾弾を誰も否定しないし止めようともしないように私には見えます。理由はやはり、「不倫はタブーなのだから赤の他人からも責められて当然」という前提があるからでしょう。

 さらに最近凄いのになると、名前は言いませんが数年前にある独身のプロ野球選手のお泊りデートが煽情的に報じられたことがありました。さすがにこの時は相手が一般人で、且つその選手が独身であったことから「何がおかしいんだ?」、「報じるほどの内容か?」といったメディアに対する逆批判が多かったのですが、なんかこうした報道を見ていて、血祭り相手をメディアが作ろうとしているように見えました。まぁなんでそんなことするのかというと、そうした血祭り相手を世の中が求めているからかもしれませんが。

 言いたいことをまとめると、不倫があまり誉められた行為ではないというのはその通りですが、かといって不倫した人間を赤の他人が好きな風に攻撃していいのかというとそれは違うのではというのが私の意見です。逆に言い換えると、攻撃しようとする人は何故自分が全力で相手の人格を批判しようとするのか、自分と他人の線引き、そしてその怒りの原点についてもっと考えるべきだと思います、真面目に。

 とこんなことを言いながらなんですが、別に杏氏のファンではないものの、東出昌大氏についてはどう批判されてもしょうがないと内心思ってます。ありゃちょっとやりすぎというかなんというか。

2020年5月30日土曜日

マツダだよ、全車集合!

 上海は梅雨に入りつつあるのか今日は朝から大雨で涼しいです。またこの時期からライチが果物屋に並び始めるので、ストックを買っておいて家で冷蔵庫開ける度に一個ずつ食べてますが、すっかり中国の生活が馴染んだなとよく思います。


 それで本題ですが、上記画像を遠目に見るとなんか赤い車の写真が連続して貼られているように見えますが、色こそ赤で統一されているものの、実際にはこれは全部別々のマツダの車です。ただ各社のフロントマスクの差がほぼないため、見ての通り見分け辛いラインナップとなっています。

 なおこの画像を最初見た時、私は「アタック25」を連想しました。あと自分はたまに変なテンションの時、「にじゅっご、にじゅっご♪」と口ずさむことがあります。

 話を戻しますが、なんでこんなに見分け辛いのかというと色以前にフロントマスクのデザインを統一していることもさることながら、ほぼ同じタイプの車を大量に出していることも理由に入るでしょう。代表的なのは「MAZUDA2(旧デミオ)」と「CX―3」と「CX―30」で、これなんかリアデザイン以外はほぼ一緒だから正面から見分けることは難しいと思います。それどころか名前すらも似たり寄ったりなため、さっきの画像から全車名を当てることは真面目にアタック25並に難しいでしょう。

 なんでマツダはこんなラインナップを仕立てたのかというと、一番はやはりBMWがフロントマスクを統一してブランドイメージを挙げるのに成功したのに続こうとしたためでしょう。こうした「顔面統一」作戦はトヨタやホンダなどでもある程度展開されていますが、日系で一番極端な形でやってしまったのは間違いなくマツダです。でもって、この目論見は少なくとも日本市場では失敗気味で、コロナ流行以前の販売台数推移などを見ても勢いをなくているのがはっきりしています。

 特にマツダの場合、日本史上で長年使われブランド力を持った「デミオ」や「アクセラ」といった車名を、また欧州系みたくアルファベットと数字の連番系の名前に統一してしまったことも悪手でしょう。車に独自の名前を付けるのは日系と米系(中国系もその傾向がある)が主とは言え、市場によって名前を使い分ければいいだけだったので、そこまで欧州にすり寄らなくてもよかったという気がしてなりません。
 第一、言霊信仰が若干ある日本人にとって、独自の名前を持たないというのは民俗学的にもセールスによくない気がします。民俗学にセールスどうこうあるのか知りませんが、車とはいえ自分の持ち物を番号で周囲から呼ばれるのは日本人的にはあまり喜ばしくないと思います。

 上記の統一方針以前に、マツダはそもそもラインナップの編成時点で滑っています。明らかにSUVとミドルクラスセダンに車種が集中しており、カバーする顧客層が非常に狭くなっています。特に「MAZUDA3(旧アクセラ)」に至っては最低購入価格が220万だなんて、誰が買うんだよこの値段設定とデビュー当初に本気で思いました。断言してもいいですがこの値段なら、性能的にも価格的にもカローラ(ノーマル:193万~、ハイブリッド:240万)を選んだ方が絶対得だと私は思います。
 「MAZUDA3」は200万円台なら、ハッチバック車はありだと思うのですが。自分がハッチバック好きなだけですが。

 もう少しグレードを分けるとか、デザイン面でも若者向けと中高年向けをしっかり区分すりゃいいのに、何をどう間違ってこんな方針を取ってしたのか気が知れません。真面目に、今のマツダはアルターコロナにどうやって行くのか、見ていてかなり不安です。「MAZUDA6(旧アテンザ)」なんかはいい車だと思うけど、今のラインナップだと自ら客を食い、且つ埋もれさせてしまっているように見えるだけに、大胆な切替えが必要だと思っています。

2020年5月27日水曜日

加賀ミリオネア

 勝手な憶測かもしれませんが、「百万」って単語に一番反応する日本人は石川県人だと思ってます。理由はもちろん加賀百万石からですが、数年前に金沢市を訪れた時にどのお土産にも「百万~」という名前が付けられてて、とにもかくにも石川県人は百万が好きなんだなと思いました。

 その金沢ですがなんで行ったのかというと、北陸に行く機会がそれまで多くなかったので日本帰国時に「北陸行きたい」当地の名古屋に左遷された親父に行ったら、なんか自分以上に親父の方が張り切って予定とか作ってました。それもそのはずというか、関西出身のうちの親父は入社して初めての赴任地が金沢だったとのことで、今でもたまに当時のメンバーで集まるくらい金沢が縁深い土地だったりします。
 とはいえ、最初いきなり金沢だったときは嫌で仕方なかったそうで、行ったら行ったで現地の人に関西弁を「訛ってますね」とか言われ、「お前らに言われたくない」と石川県人に対し腹の底で思ってたそうです。なおこの時の金沢訪問時、福井当たりの鉄道博物館にも言って、「この特急で連休に関西に帰省したんや」と古い車両を見ながらやたらはしゃいでました。

 いい加減親父の話はやめるとして、金沢自体は今のところ二回訪れましたが、二回とも悪い気分はせず、街中も整っててそこそこ気に入っています。割と寒い気候に強いし、冬は家に閉じこもってジーっと考えるのが好きだから将来北陸に住んでもいいかなとか思ってましたが、親父によると北陸は冬の湿気がやばいそうで、上海で湿気の多い冬を経験してからは確かに不快度数半端ないと気づいたので、現在はこの計画は立ち消えとなっています。やはり住むなら奈良がいいか。

2020年5月26日火曜日

安倍政権の今後の予測

 上海は昨日あたりから雨が降り始め、今後もずっと雨予報で梅雨が来ている感じです。自分でも知らないうちに、中国で梅雨を迎えるのがもう10年くらいになりました。ちょうど今は仕事が少ない時期ですが、来週からはまた鬼のように忙しくなることを考えると、梅雨が来る時期はちょうど今みたいに中だるみのようなだるさを覚えるのだろうかという風に思います。

 それで本題ですが、結論から書くと安倍政権は年内持つかもわからないというのが私の見方です。原因はやはり黒川元高検検事長の賭け麻雀退任事件、次点でアベノマスクです。

 賭け麻雀事件に関しては多分そうなるとは思ってたけどやはり懲戒とはならず、退職金も無事に支払われたそうです。後になってビビって一部減額したことにしていますがこれだって正直本当かわかりません。恐らく、安倍首相としてはこれで損切りをしたと考えているのかと思いますが、森友事件以降、彼の損切り感覚はかなり異常なものになっているので、国民はそうは受け取らないでしょう。昭恵夫人といい、身内に関してはとことん甘いというか何をしても放免する癖が露呈しているだけに、私自身は前述の一部減額という報道をはじめから信じていません。

 恐らく今後は支持率回復のためにコロナウイルスの感染拡大防止で実績アピールするかと思います。しかしこの点に関してもアベノマスクは壮大な無駄遣いとバラマキにしかなっていないという国民のコンセンサスは出来上がっており、また肝心の十万円給付も今のペースなら秋くらいになることから、秋までにもう一発何か来ると今度こそ支持率は底を割る気がします。
 また感染拡大防止に関してはどちらかと言えば自治体の首長、それと現場の医療関係者の努力による功績の方が大きいと私は見ており、他の日本人もそうではないかという気がします。にもかかわらず政府が実績アピールでもしようものなら、それは違うという反感しか買わないでしょう。むしろ逆に、医療従事者の努力を称えるセリフでも言えばまだいいのですが、今の官邸にそのような助言をできる人はいないと断言できます。

 私の個人的推測ですが、恐らく安倍首相としては今年開催予定だった東京五輪、あと憲法改正を花道にと考えていたのではないかという気がします。しかし後者はともかく前者は既に延期が決まっており、また来年に開催できるかも未だ見通しが立っていません。率直に述べると、来冬にコロナの第二波が来る可能性が非常に高いと思えるだけに、来年も東京五輪は開催できない可能性が高いのではと私は思います。
 仮にそうなれば、恐らく今年の10月くらいに開催可否をIOCが判断するでしょうが、花道にと考えていた東京五輪がなくなるので、安倍首相もそこらで気力が切れるのではという可能性を考えています。どれも推測ですが、そのあたりで次にとなるのではないでしょうか。

 個人的に安倍首相に関しては、やはり2年くらい前に任期きっかりで辞めとけば比較的高評価を得たまま去れた、いわば勝ち逃げが出来たと思うのに、東京五輪と憲法改正に欲を出した結果が森友・加計学園問題、検察庁介入問題にかかわることとなり、後世の評価を果てしなく下げたと考えています。特に今回の検察庁介入問題は真面目に韓国を笑えない暴挙としか思えず、政権に近いというだけの人間を明確に法に反して残留させ、挙句に賭け麻雀を半合法化させるという、歴史に残る暴挙をやってのけたものだなと思えてなりません。まぁ黙ったまんまの検察も検察だと内心思いますが。

 この検察庁問題は自分も専門ではないし他にも議論する人が多かったのでこれまであまり触れませんでしたが、一点だけ意見を述べると、先月の国会での定年延長議論時に突然芸能人らが一斉にこの問題に反対する発言を行い始めました。あまりの一斉ぶりから誰かしら入れ知恵する人間がいる、それも元々支持母体となっている公務員らの定年延長を求めていた野党側の人間ではなく、むしろ右翼側の人間だろうと考えていましたが、今回の賭け麻雀事件を見て感じたのは、「これも最初から含まれていたのか?」という点です。わかりやすく言い換えると、芸能人らに反対表明をさせた連中は、最終的に賭け麻雀で黒川を刺すことも織り込んでいたのかという点が気になります。

 自分でも穿ち過ぎな気もしますが、やはりタイミングがあまりにも良すぎることと、賭け麻雀報道をしたのは実は文春が初出じゃない点を考慮すると、週刊誌メディアを中心にこの情報はあらかじめ幅広く配られていたのは間違いなく事実だと考えています。配った人間は誰か、どんな意図だったのか、少しこの辺にきな臭さを感じています。まぁ政府の検察への過剰介入を排除できた点は素直に良かったことだと私自身は評価していますが、仮に初めからこのシナリオが織り込み済みだったとすると、安倍政権の今後もシナリオに入っているのか、論点はそこになってくるでしょう。

2020年5月25日月曜日

二つのダブルスタンダード

いつまで経ってもステマがなくならない裏側の理由(JBpress)

 というわけで今日の配信記事ですが、めっちゃアクセスは悪いです。ランキングには一回も出ず、コメントもほとんどなく、単純に読まれていません。つなぎとして書いた記事であることは認めますが、さすがにここまでアクセス悪いとため息も出ます( ´Д`)=3 フゥ
 ただ、それもそのはずというかこの記事は仕掛けがひどいです。極論から言うと、この記事のテーマは実はステマじゃなく、ダブルスタンダードについてです。それも二つ。

 一つ目は、記事中にも書いている通りステルスマーケティングは民間がやれば準犯罪だが、国がやれば情報操作という点です。このステマに限らずとも、個人や企業がやったら犯罪となる行為でも国がやるとなったら無罪放免となるものは多く、具体的には職務放棄や定年延長、賭け麻雀などです。特に後者は、今回の一件でレートが低ければ犯罪とはならないという前例を作ったので、今後摘発されたら「レートはテンピンだった」と言えばなんとかなるでしょう。まぁ試すことはないですが。

 もう一つのダブルスタンダードは、これは読み取れというのが実質不可能なレベルの自己満足なレベルのものです。記事中で触れているのはサブリミナルのところで、一時は多くのテレビ局や映画などで使われた手法であったものの、放送業界がもうやめようと自主規制規定を作った途端にピタリと止んだと書いたところです。何が言いたいのかというと、法規制よりも業界内の自主規制の方が意外と日本人は遵守するのではということです。

 以前にも私は、日本人は意外と遵法意識が低いとこのブログに書いたことがあります。にもかかわらずなんで秩序が保たれるのかというと村八分意識的なものじゃないかとも書いた気がしますが、まさにそうした感じで、法律で上から抑えられるよりも「出し抜け禁止」みたいにグループ内で取り決めを作った方が意外とルールを守るのではと、今回記事書いてて思いました。放送業界に限らなくても、自動車部品業界ではカルテル、建設業界では談合など、はっきり犯罪だと明示されているにもかかわらず業界内ではこうした事件は頻繁に起こります。
 自動車業界に関しては国際大手も同様であることからまだしも、日本の建設業界の談合については何度摘発されても不死鳥の如く甦り、挙句摘発された業者も何が悪いと居直るケースも多いです。このように、法律などよりも業界や身内の慣習の方が日本だと重く縛り、良くも悪くも秩序を作っているところがあるように感じ、その点が日本におけるダブルスタンダードだと、暗に含めて書きました。

 無論、こうしたことは他の国でも同じでしょうが、なんとなく日本は先ほどにも書いたように「村八分」状態に追い込まれかねない慣習法の方が異常な拘束力を持つ気がしてなりません。となると法律も、業界から締め出すような罰則の方が意外と効力を発揮するのかもしれません。

2020年5月24日日曜日

ふしぎなおどり

 先日、同僚から「やたら『スポット』という単語を使いますね」と指摘されました。主な使用場面としては「スポットでこれが必要になる」とか「こうなるのはスポットだから無理して覚えなくていい」などですが、意味としては「その場限り」、「そこでしか」というような具合で使っています。
 何故こんな横文字を使うのかというと、この意味に相当する日本語が見つからないからです。「その場限り」だと形容詞的な言葉となるし、また発音数が多くて少しだれた感じがします。また「スポット」だと動詞的な表現の様にも使えるので、本音としてはあまり横文字ばかり使うべきではないと思いますが、これに関しては一切抵抗なく、また便利であることから多用しています。

 このように日本語に関して時たま私は妙なこだわりを持って特定の単語や表現をよく用いるのですが、そんな私にとって地味に好きな単語は「ふしぎなおどり」だったりします。言うまでもなくこれは、ドラクエでMPを下げるとくぎです。
 この単語の何がいいのかというと、「一体何?」と興味と想像力を書き立てられるような単語の並びに加え、ひらがな独特の言いようのない不可思議さが自分にとって非常に好ましく感じます。もしこれが「不思議な踊り」だったら、なんにも魅力を感じなかったでしょう。

 それくらい妙に気に入っている単語なだけあって、よくあるプロフィール欄に「特技」という項目があったら迷わず「ふしぎなおどり」と書き込んでいます。もし深堀りされたら、「中国でMP(マグロ・パワー)を下げるのに使っている」などと説明しようといつも考えていますが、生憎そんな機会はまだ恵まれていません。これ以外のドラクエの特技だと「どとうのひつじ」が一時人気を博していたことありましたが、私は逆にこの発音の並びはそんなに好きじゃなかったりします。

 なお発音ネタで言うと、森鴎外の本名こと森林太郎(もりりんたろう)を中国語で読むと「センリンタイラン」になり、「なんかいいよねこの発音(´・ω・)(・ω・`)ネー」とこの前中国人と盛り上がっていました。なおスバル「ハイランダー」の中国語名は「森林人(センリンレン)」で、さっきの森林太郎はこのハイランダーのアッパーバージョンのように最近見えます。

2020年5月22日金曜日

ヤクルト黄金時代の思い出

【悲報】千葉県さん、無駄に有能(アルファルファモザイク)

 友人が上記まとめ掲示板の「県民は不安よな。森田、動きません。」という書き込みにえらく感銘してました。自分もですが。

すべては野村ヤクルトが教えてくれた(日刊ゲンダイ)

 話は本題ですが、上記連載記事が面白くこのところ続きを楽しみにしながらいつも読んでいます。この連載記事はヤクルト黄金時代で不動のセンターを務め、盗塁王も取りまくっていた飯田哲也氏の連載記事です。内容はヤクルトにおいて飯田氏が選手だった時代、そしてコーチであった時代にいた主だった選手に対する思い出や寸評などで、どれもスター選手ばかりなので興味深く、またチームメイトだからこそ知る内容が豊富で非常に面白いです。
 いくつか例を挙げると、「打撃成績が良くなるにつれ守備が悪くなっていったバレンティン」、「打撃ばかり気にして守備の意識が疎かだった青木」などは得心しながら読んでます。

 ヤクルト黄金時代は故野村監督が指揮を執った90年代前半を指しており、この時期のヤクルトはAクラスは当たり前、優勝も珍しくないというくらい実力のバランスが取れた時代でしたが、それ以上に特筆すべきは、この時代のヤクルト選手らの多くがその後監督やコーチになるなど、野球界で指導的役割を果たすようになっていることです。これらは野村監督の教えによる影響と私以外からも指摘されており、そういう指導者輩出的にもこの時代のヤクルトは「黄金時代」だったと言えるでしょう。

 当時、私は小学生で実はそんな野球とか見ていませんでしたが、巨人と比べて人気のないヤクルトの試合チケットがある伝手からよくもらえたので、恐らく現在においても観戦回数で一番多いチームだったりします。なお相手は当時関東で人気のなかったカープがぶっちぎり多かったです。
 野球にあまり興味がなかったとはいえ、そんな環境であったことからヤクルトファンとなり、よく週末の塾のテストの後とかにうちの名古屋に左遷された親父とともに神宮へ足を運び、それほど声を上げたりすることもなく黙々と野球を見ていました。当時好きだった選手は池山氏で、後年の引退の時は私も軽いショックを受けました。

 打者に関しては飯田氏や池山氏、あと地味に土橋氏の印象が強く、特に土橋氏については打率はそこまで高くないのにここぞという場面で打つイメージを当時にも持っていました。後年、Wikipediaで当時の並み居るセリーグ投手らから、「最も嫌なバッター」と言われていたと知り、なるほど等と思い言っていました。逆に投手に関しては、所詮は小学生の身ということもあってあまり調べず、凄さもわからずで、投手で当時名前を覚えていた選手は皆無と言っていいほどいませんでした。

 その後、大学で岐阜出身のくせに頭おかしいくらいのヤクルトファンの友人と会い、パワプロをやり始めることでプロ野球にのめり込んでいきましたが、その時くらいからベイスターズとソフトバンクを徐々に贔屓にするようになり、逆にヤクルトとは距離を置くようになりました。ヤクルトファンの友人が試合結果に一喜一憂するのを横目に、「飯田って今楽天にいるんだ」と、黄金時代メンバーの動向の方を気にしてみていました。

 私が記憶する限り最後に神宮球場に足を運んだのは2009年のことで、別の用事で都内で会った野球好きの友人と一緒に、「どうせ予定もないし、あのイムチャンヨン見に行こうぜ!」的にその場で神宮へ観戦しに行くことを決めました。生憎、試合は確か相手チームが大差のリードを取って「イム出ないだろうね」と思って途中で切り上げて帰っちゃいましたが、今でもイムチャンヨンの投球はどっかで見ておけばよかったと若干後悔しています。

 現在もコロナの影響でプロ野球は開幕していませんが、その分スポーツ紙各紙は過去のプロ野球史に関する特集記事を数多く組んでいて、昔を懐かしむ記事を見ることが多いです。自分にとって一番プロ野球が熱かったのは野球に興味を持ち、日本にいた2005~2010年くらいですが、それ以外だと実際に球場に足を運んでいた90年代ヤクルト黄金時代であり、当時の名選手のこういった連載はいろいろと去来するものも多いです。

 最後に、何気に中学・高校は幕張市内にある学校に通っていたにもかかわらず、千葉ロッテの試合はこの時期一度も見に行くことがありませんでした。大学に入って野球に興味を持って以降は行くことが増え、幕張市内の友人と会うときはよく見に行ってましたが、当時のロッテは球場スカスカだったんだから、地元の中学・高校とかに無料でチケット配ってファンを増やしとけばよかったのにと今でも思います。

2020年5月20日水曜日

黒川高検検事長の賭け麻雀報道について

黒川弘務東京高検検事長 ステイホーム週間中に記者宅で“3密”「接待賭けマージャン」(文春オンライン)

 かくも見事な報道としか言いようがないでしょう。

 詳細はリンク先記事を見てもらえばわかりますが、東京高検の黒川検事長が賭け麻雀をやっていたと報じられています。個人的に麻雀じゃなくドンジャラだったらどうなるんだろうとかよく思いますがそれは置いときますが、ただでさえ定年延長とか検察庁改革でごたごたしている最中の報道だっただけに、報道が正しければ「すべてを無にする一撃」となるでしょう。もっとも、検察を含む関係各所は取材に対して言葉を濁しているので、この状況から報道がデマだったとひっくり返るケースは過去ほとんどないですが。

 この報道を最初見た時、前述の検察庁改革法案で国会の審議が揉めている最中にどうして出なかったのだろうかと、タイミングの点が気になりました。最初でこそ審議で揉めている最中に出せばよかったのにと思いましたが、法案は結局今国会ではお流れになったのがつい先日だったので、文春側としてはもっと法案議論が最終段階になるか、可決となったハイボルテージな段階で出すつもりだったのかもしれません。そう考えると、お流れになったばかりのこのタイミングで出すのも悪手ではないと思え、自分の懸念は間違っていたなとか思いました。

 さてこの報道で何が一番面白いかって、この賭け麻雀に産経と朝日の人間も同席していたってことです。取材に対して産経は自分も取材する立場なのに文春の報道に無回答で、朝日は自粛期間中に外出したことは問題だったと話題をすり替えるなど、いつも通りのダブスタぶりです。結局誰が麻雀で一番勝ったのかくらい応えるべきじゃないかと思いますが。

 何気に、個人的に今回の報道で私が一番腹立たしく感じたのは黒川検事長じゃなく、産経と朝日の人間です。その関係から恐らく記者だと思いますが、検事長が賭け麻雀という超特大の特ダネを抱えておきながら何故それを報じなかったのか、この点が私にとって一番許せない事実です。めちゃくちゃな言いようかもしれませんが、自分が同席していたからとかそういうのは言い訳にはならず、最高の特ダネを持ちながらそれを料理せず腐らせるなんて記者として最低この上なく、自爆覚悟で報じることすらできなかったというのならはっきり言って完全なる記者失格でしょう。
 特に朝日に至っては検察庁改革法案に批判的に立場であっただけに、この報道を行うことによって一発で廃案へと追い込めたというのに何故それをやらなかったのか。本人以外は知らなかったのかもしれませんが、少なくともこの検察庁関連において朝日はしばらく報じるような立場にはないし、いわんや産経もといったところです。

 それこそ「検事長が賭け麻雀?」みたいな見出しでばっと報じて、黒川検事長が報道を否定しながら「誰か見たという人でもいるのですか?」と行った瞬間に「ここにおるぞ!<ジャーンジャーン」と出てきたら最高に格好いいのに。真面目に同席していた記者らは報じなくても記者生命どうせ終わるんだし、最後にどうして一花を咲かせようとしなかったのか不思議でしょうがありません。

 真面目に書くと、自分は記者時代に上司から、「パンフレットに現金挟み込まれることもあるから気を付けろよ。取材相手からは絶対に何も受け取るな」と厳しく言い含められました。それだけ記者は取材相手との距離を保つことに細心の注意を払わなければなりません。ましてや公権力関係者ともなればなおさらですが、その記者としての大前提を守れなかった時点でどの道この仕事は向いていなかったと言わざるを得ません。

  追記
黒川検事長、緊急事態宣言中にマージャン 週刊誌報道(朝日新聞)
黒川検事長 賭けマージャン報道(産経新聞)

 ちょっと調べてみたら一応両紙ともに文春の報道に対する二次報道は既に行っていました。見比べてみたところ、朝日新聞側は末尾にて「おわび」とはっきり書いた上で「黒川氏とのマージャンに参加していたことがわかりました」と書いて事実関係を認めています。金銭授受については調査中でほんまやったらマジ半端ないみたいな感じで「適切に対処します」と書かれてあり、甘いかもしれませんが会社としてはきちんと反省の態度を示しているという印象を覚えます。同席した社員についても、50代の元記者であるという情報も公開してるし。

 それに対し産経はというと、「取材源秘匿の原則を守りつつ、これまでも社内規定にのっとって適切に対処しており、今後もこの方針を徹底してまいります。」と言って、同席の事実関係はおろか何も認めていないし、お詫びの言葉一つ書かれてありません。
 悪質性で言えばハイヤーまで用意した産経の側の方が顕著であるのに、なんでお前そんな偉そうなんだよと言いたくなるような態度です。少なくとも初動の広報対応で見れば、産経は下の下に対し朝日は中の上といったところでしょう。「犯人は社内にいた!」的に完璧に調査して報じていれば、朝日は上でしたが。

 ただそれにしても朝日新聞側の記事では、「産経新聞社広報部は『取材に関することには従来お答えしておりません』とコメント。」とわざわざ産経側の文言を引用しており、見ていて非常によくわかってんなぁと思えて(・∀・)ニヤニヤします。わざわざ産経の側のコメント探さなくてもよくなってて、見る側としては大助かりです(´∀`*)ウフフ


産経サイトの記事検索画面、慌ててんのか同じ記事が三つも表示される

2020年5月19日火曜日

中国人の昇給感覚


 いともたやすく行われるえげつない行為。


 話は本題ですが先日、中国人の知人、日本人の知人と三人で食事しました。その際、

中国人の知人「いつも頑張って仕事しているのに、会社が給料を上げてくれないの(ノД`)シクシク」
私「可哀想だね(´・ω・)」
日本人の知人「ちなみに、1年の昇給幅大体どのくらいのなの(´・ω・)?」
中国人の知人「えーっと、大体1000元(約15000円)強(・ω・)」
私と日本人の知人「(´・ω・(´・ω・)……」
中国人の知人「どうしたの二人とも(。´・ω・)?」
日本人の知人「その昇給幅は年収?月収?(;゚Д゚)」
中国人の知人「もちろん月収だよ(´・ω・`)」

 一応書いておくと、この中国人の知人は非常に謙虚で、周りにも献身的ないい奴であり、決して貪欲な輩ではありません。しかしそんな性格の人物であっても、1年の月給昇給額が15000円程度では納得いかずに愚痴るというのが現代チャイナクオリティです。
 真面目な話、高卒ならともかく大卒だったら中国人はみんなこんな感覚でしょう。昇給幅が月15000円、年換算で18万円くらいだったら「会社は自分を認めてくれていない」と本気で信じます。恐らく日本だったら、大手企業ならいざ知らず一般企業でこんな昇給幅が毎年維持されることはまずないとは思うのですが。

 ただ中国の場合は大卒初任給は6000元(約9万円)、多くても8000元(約12万円)でベース給与は日本と比べて極端に低いです。ちなみに10年くらい前は2000元くらいで、現地採用でやってきた私の初任給は8000元くらいでした。

 最初は中国は給料低いなとか当時思ってましたが、ある程度こっちで暮らしてみると逆に、「日本の初任給は頭おかしいくらいに高いな(´・ω・`)」とか思うようになってきました。上記の通り中国は初任給は安いですがその分だけ昇給ペースは早く、仕事を覚えるにつれてきちんと上がるようになっています。
 一方、日本は新卒で何も仕事ができない状態から初任給が高く、ある程度仕事を覚えた2~3年目の間は昇給がかなり抑えられる傾向があります。初年度と比べて仕事ができるようになっても、給与額はほとんど同じで、業務への貢献と給与が完全に一致しない構造となっています。

 もっともそれを言ったら、働かないおじさんが非常に高い給与をもらい続けているという光景は日本のどこでも見られることから、根本的に日本は業務能力と給与が相関しない構造だと言えるでしょうが。

 といったような感じで、私と日本人の知人の二人がかりで、「日本だと初任給は高いけどそんなに昇給しないよ」と中国人の知人をなだめましたが、「それでもお金欲しい(´;ω;`)」と愚痴ってました。

2020年5月17日日曜日

中国の最良の皇帝とは?

 次の夏の歴史記事連載に向けていろいろ資料を読んだりしていますが、そうした資料を漁る過程でふと、「中国人はどの皇帝を最も評価しているのだろうか?」と思って、少し検索をかけてみました。

 検索ワードとしては候補が自動で出てきた「中国好皇帝排名」と入力。「排名」というのは順位やランキングを表す中国語単語ですが、何故か日本語ではこの漢字二文字は使われません。用法的にあってもいい気がするのに。
 それで検索した結果ですが、もう出るわ出るわというかいろんな人が順位付けを行っており、トップテンはおろかトップ20、トップ100まで編んでいる人すらいます。さすがに全部見切れないし、「公式ランキング」みたいなものもあるわけないので傾向として述べると、下記の皇帝が多くのランキングで候補に挙げられています。

・秦 始皇帝
・漢 文帝
・漢 武帝
・隋 文帝
・唐 太宗
・周 武則天
・明 太祖(朱元璋)
・清 康熙帝

 いくつか私の方から補足を入れると、始皇帝はなんていか殿堂入りみたいな感じでランキングに入れるべきじゃないのではという気もします。その功績や影響力は間違いなく見事なものですが、オリジネーターということで他の皇帝と比較するのはやや難しいような気がするからです。
 またこれとは理由は別ですが、チンギスハンもよく候補に挙げられているものの、一部選定者からは「彼はモンゴル皇帝」として敢えて候補から外した旨が書かれており、この見解には私も同感です。

 そのほか意外に感じたものとして、楊広をランキングに入れる人が結構多かったです。名前だけ見てもピンとこない人が多いでしょうが、この人は日本人にも馴染み深い、あの隋の煬帝です。日本人からしたら暴君としか見られていませんが、中国では暴君は暴君であっても、大運河の建設などを功績として評価する向きもあるようです。

 同じく意外に感じたのは、上の列記した中にも入っている漢の文帝です。彼は前漢の五代目皇帝ですが、彼自身は劉邦の第四子で、即位した経緯は実はなかなか複雑です。簡単に話すと、漢は二代目以降に皇后(劉邦の妻)の呂雉(りょち)をはじめとする外戚が幅を利かせて一時政治が大混乱したのですが、親玉の呂雉の死後に譜代の臣らが呂氏一族を追放し、外戚が大人しく且つ性格も温和そうであって劉邦の実子(当時生きてた中で最年長)であったことから、文帝が皇帝に推挙されました。
 こうした家臣らの期待通りに文帝は非常に温和で親孝行な性格をしていたとされ、処刑の提案がくるといやちょっと待ってといつもストップかけたり、肉軽の多くを廃止したり(一部は残したが)、さらには宮殿造営などを取りやめて減税を何度も行うなどして、国の財力を飛躍的に高めたとされています。日本ではほぼ無名に等しいですが、どうも中国では高い評価を受けている模様です。

 なお私がランキングを付けるとしたら、皇帝としての個人の才能という面から評価して、唐の太宗こと李世民がやはり「王の中の王」ならぬ「皇帝の中の皇帝」だと思います。それに次ぐのが、乱世を経験してはいないものの清の康熙帝で、その治世ぶりと独立状態だった三藩の廃止に踏み切ったところなどを高く評価しています。三番目となると、中国唯一の女帝こと則天武后(武則天)かなぁ。この人がいなければ「水戸光圀」は生まれなかった可能性あるし(「圀」という字は則天武后が「国」という字を勝手にアレンジして作ったもの)。

 なおランキングを追っていると、「中国馬鹿皇帝(昏君)トップテン」というのもあり、「明からはなんと三人がランクイン!」とか書かれてあって吹き出しました。周の幽王、夏の桀王はお馴染みのこと、有名どころだと後漢の霊帝が加えられてました。中国はいろんな皇帝いて楽しそうです。

2020年5月15日金曜日

五等分の花嫁の最終巻がつまらなかったわけ

佐賀新聞の「押し紙」を認定 元販売店主が勝訴、賠償金1070万円 佐賀地裁判決(弁護士ドットコム)

 上のニュースも大事だけどそれ以上に重要なこと思いついたのでそっち書きます。

 先日にも少し書きましたが、これまで絶賛していた漫画「五等分の花嫁」の最終巻をこの前ようやく読んだところ、あまりのつまらなさにびっくりしました。それまではどの巻も非常に楽しめて満を持しての最終巻も非常に楽しみだったのですが、読んでる最中も驚くくらい面白くなく、なんでこんなつまらないんだろうと訳が分からなかったです。普通、買ったばかりの漫画は数回通しで読むのに、この五等分の花嫁の最終巻は一回読み終えるとまた読もうとは思わず、そのままデータすら削除してしまいました。

 この後はネタバレを含むので、先を黙っててほしいと人はそのままそっとお閉じください。



 ヒロイン五人の中で私の推しは誰かというと、読み始めた頃から四葉一筋でした。最終的に勝者となったのはこの四葉でしたが、四葉推しでありながら先ほどから書いているように最終巻は全く面白いと感じませんでした。この結果については自分でも非常に不思議で、なぜこんなつまらないんだろうとここ数日ずっと気になっていましたが、今日会社休んだのに結局自宅で作業している最中にふと納得のいく結論が出てきました。
 なぜつまらなかったのかというと、四葉が勝者となる理由がほぼ皆無だからです。

 この結論に至った最大のヒントは結末について議論し合っているネット掲示板でみた、「この漫画のヒロインは加点方式ではなく減点方式で決まってしまった」といった内容のコメントでした。実際その通りというか四葉が何故ほかの五つ子を差し置いて主人公に選ばれることになったかという理由は実はほとんどなく、逆にというか他のヒロインが選ばれなかった理由が後半にかけて断片的に描かれていたように感じます。いわば、「この子がいい!」という理由ではなく、なんとなく消去法的に四葉が選ばれてしまった感があります。

 そんな風に考えていたところ、今日休みなのに結局仕事する羽目となって嫌だなぁとか思いながらお茶を入れている最中、「当て馬」という単語が出てくるとともに、頭の中でパズルピースがピタリとはまる感覚を得ました。それによって、四葉が選ばれることについての不自然さが明確化しました。

 この漫画では物語当初、勉強マニアの主人公は「恋愛なんて無価値だ」と否定していたのですが、主人公を慕うようになった五つ子からのアプローチを受けて徐々に恋愛行為を否定しなくなり、最終的に自身も恋愛感情を持つに至るという展開となっています。問題なのはこの過程で、主人公が恋愛感情を持つようになったアプローチはすべて四葉以外の五つ子から受けたものでした。逆に四葉は自身の負い目もあって主人公に対しては何の恋愛アプローチも行わず、むしろ一歩引いた距離を主人公と終始保っていました。
 ですが家庭教師開始当初から他の五つ子たちと違って主人公から素直に勉強を教わっていたという理由から(だけで)、主人公は最終的に四葉を選びます。ぶっちゃけていうと、「え、理由これだけ?(;´・ω・)」っていう気がしてならないのですが、実際にこうだからしょうがない。

 この構図を意識して改めて全体内容を見返してみると、主人公に振り向いてもらうために他の五つ子(実際のところ三人だが)たちはアプローチをかけて見事に主人公を恋愛感情に目覚めさせたものの、そうして目覚めた恋愛感情はそれまで全くアプローチをしてこなかった四葉に向かってしまったように見えます。こんなん、アプローチかけてた他の五つ子たちは当て馬以前というか、なんかおかしくね?
 仮にアプローチがなかったとしても、主人公が四葉との間でもっといろんなコンタクトやイベントがあったならまだしも、物語全体でそうした類のイベントは明らかに少なく、最終逆転要素とされた小学生時代の思い出も最終巻では全く触れられずに終わりました。こういっちゃなんだけど、「もしかしてあの時の女の子は?」くらいは入れた方がよかったのでは……。

 以上の様に、他の五つ子が苦労して育てた果実を、何も育成作業を手伝わなかった四葉が丸ごといただくような構図となってしまったことが、自分がこの漫画の最終巻をつまらないと感じた原因だと考えています。先にも書いているとおり、それでも主人公が四葉を選ぶ理由や感情がもっと描かれていればまだしも、他の五つ子のアプローチを無視して四葉を選ぶ理由はほとんど見つからず、不自然極まりない展開であったと思います。

 加えて言えば個人的な意見として、最終巻の絵にはなんかまるで魅力がありませんでした。元々その美麗なイラストもこの漫画の人気の一つで、実際他の巻はここぞという場面のイラストや構図が素晴らしくよく、見開きページのセンスも抜群でした。しかし最終巻はどのページもこれはと思うページがなく、特に最終ヒロインの四葉に至ってはなんかかわいさが他の巻と比べて2割減、下手すりゃ半減と感じるくらいに魅力を感じませんでした。四葉推しの私ですらそう感じたのですから、他の五つ子ファンなんかどうだったんだろう。
 なんていうか、四葉に関しては告白後も不気味なくらい変化がなく、それ以前のまんまなキャラクターであったのが読んでて不思議でした。さらに最後の見せ場の結婚式の場面でも使い古された「五つ子当てゲーム」をやる展開となり、折角の見せ場なのに全員全く同じ造形を延々と見させられ、「( ゚Д゚)……」みたいな気になりました。マジで。

 無論これは私個人の感想でしかありませんが、それまでの面白さがびっくりするくらい感じられない結末だっただけに、何故だか無駄に考察を広げてしまいました。なおこの後に読んだ「エリア88」も「なんだよこの結末は(´・ω・)」という幕引きで、なんか意気消沈させられるラストを二本連続で見させられました。

2020年5月14日木曜日

手段の数が勝敗を決める

 最近仕事で使う知識の解説本を読んでいますが読んでてよく思うのは、「こいつ説明下手だな」っていう感想です。割と専門知識を取り扱う本なのでわかりづらいのも仕方ないですが、そうした理由以上に私がこのように感じるのは、私自身が異常なくらい解説や説明が得意だという事情があるかと考えています。

 やや調子に乗った見方ですが、こと解説方面の文章を書かせたら私の右に出る日本人はほとんどいないと思います。自分でもそう思うくらい解説や説明文章を書くのが得意だと自認しており、この方面では未だに新たな表現技法を開発、試みたり、また過去に事情関係が複雑な歴史事実を記事化した際に「内容がわかりやすい」というコメントを得たことから、そこそこ自信を付けました。
 そうした理由もありますが、私自身が一番自分の解説文章に自信をつける理由としては、他の解説文章を読んでてどこをどう直せばもっとわかりやすくなるのかが一見してわかるようになったということの方が大きいです。単語の位置関係、説明の順番、用語tipsの配置を初め、一読してその説明文章がどうしてわかりづらいと感じるのかという理由や改善点が意図せずともすぐ見つけ出すようになっており、自分の説明技法が優れているとよく実感します。

 偉そうな言い方を続けましたが話を真面目な方向に戻すと、ではわかりやすい文章を書くにはどうすればいいのかという問いについて答えるとしたら、単純に文章で説明するテクニックをどれだけ持つかが一番大きく左右すると思います。きちんと自分自身で認識しているか否かに係らず、説明内容に合わせて適切な表現技法を選べるか、また選べる以前に適切な表現技法を持ってるかは、この方面で差をつける要素だと考えます。

 いくつか具体例を挙げると、例えば以下の文章を見てどうすればよくなるのか考えてみましょう。

「A社の自動車販売台数は今年78.9万台で、2018年に比べて45%増加しました。またB社の自動車販売台数は55.4万台で、2018年比で25%減少しています。市場シェアはA社が1.3%、B社が1.1%です」

 中国語の自動車業界経済記事によく出てくるようなテキストですが、原文がこのように描かれてあると、翻訳ライターはよくそのままの文章でこんな風に書いてしまいます。まぁ見ての通り、悪い例なのですが。

 修正箇所のポイントを挙げると、文章というのは短ければ短いほどいいのが大前提ですが、短過ぎてわからないと評価はゼロとなります。ではわかりやすく書くためなら長い方がいいのかというと、まぁその通りですが、それでも短くできるのには越したことはありません。
 上記文章の場合、同じ単語が何度も出てくるのがポイントです。その上で、中国語だとあまり使われず、案外日本語ならではの表現技法である括弧書きを私なら用います。そんな具合で修正するとしたら、

「2019年における各社の自動車販売台数とその市場シェアは、A社は前年比45%増の78.9万台(市場シェア1.3%)、B社は同25%減の55.4万台(市場シェア1.1%)でした」

 単語に関してはイメージしやすいように「今年→2019年」、「2018年→前年」とした上で、年次比較においては最初に「前年比」を出した後は「同~%」と省略しています。今回出てくるのは2社だけですが、これが5社くらいあるとこの省略が非常に生きてきます。
 また市場シェアの数字は括弧書きにして販売台数と一緒に並べていますが、仮に前年比増減がなければ「市場シェア○○%」とはせず「市場シェア」という単語も取っ払って「○○%」だけにしているでしょう。この手の数字は変に文章を切り分けず、対応する数字の近くに並べるが良です。

 上記の表現技法は経済記者時代に学んだものですが、経済記事の場合はとにもかくにも属性の異なる数字がたくさん出てくるため、如何にわかりやすく、直感的に並べるかに非常に特化しています。もっとも括弧書きは割と自分で開発したものが多いですが。

 今回こうしてわかりやすく説明する表現技法を少し紹介しましたが、こうした技法をどれだけ持っているか、またいざ実際に文章を書くときにパッと出てくるかが、表現者としての実力が分かれるところになります。こうしたことを考えると、文章にも限らないと思いますが武器となる手段をどれだけ持っているかがどの分野でもやはり実力を分けるところになるのではないかと思います。ドラテクで言ったら、四輪ドリフトだけじゃなく、溝落としとかブラインドアタックも持ってる的な意味で。

2020年5月13日水曜日

内部進学の弊害

さすがになし? いや…案外いいかも 8年目の奇跡!! 三菱ミラージュのマイナーチェンジはなぜ行われたのか(ベストカー)

 ちょっとだけ、「いいじゃん」とか思っちゃいました。っていうかマイチェンやってたこと自体初めて知りましたが。何気に同じ三菱製コンパクトの「コルト」のデザインは好きだったので、あの頃のコルトを彷彿とさせるデザインは素直にいいです。

 話は本題に入りますが数ヶ月前の受験シーズン中、「関学の凋落が著しい」、「関関同立の名折れよ」、「関近同立だこれからは」などという議論が交わされている掲示板を見ました。ほんまかいなと思って偏差値を調べましたが、一応比較したサイトでは「関関同立」の水準にあり、また同じような議論は見かけなかったので、あまり実態に則した議論ではなかったのかもしれません。
 ただそこで語られていた関学の凋落理由として、「系列高校から内部進学した内部生比率が高いため受験生に敬遠された」という指摘については、他の大学を含め十分ありうるのではと読んでて感じました。

 かくいう私も関西の私大に進学しており、そこも系列高校が複数あることから内部生の比率は非常に高かったです。ここだけの話をすると進学した学部の人数は約180人で、受験時の募集人数も確か180人だったと思います。しかし蓋を開けて入学すると内部生の割合は約50%、実際に90人弱が内部生でした。それと同時に、「実質90人の枠によく入ったな俺(;´・ω・)」と、あまり成績良くなかっただけにわが身の幸運にもびっくりでした。
 この辺は数字のマジックというか、実際どこの大学でもやっています。試験募集人数でこそ100人、200人としますが、その枠に内部生を突っ込むことで倍率を高め、偏差値を内部操作するかの如く無理やり引き上げています。逆を言えば国立の様に全学生を試験でしか入学させなかったら、恐らく大手大学ほど受験偏差値が急落することになるでしょう。

 話は戻しますが、昔このブログでも書いていたように外部生と内部生の実力差ははっきり言って松戸の闇ほど深く、外部生であった私も在学中はあまり内部生とは付き合わず、周囲の友人はみんな外部生でした。そもそもいろんなところから話を聞くと、慶応の系列高校を筆頭に付属校に通っていてもできる子供は内部進学したりせず、東大とか京大など国立大を受験して進学するそうです。そりゃ内部生の質が下がるわけだ。

 で、こういった内部生が原因による大学生の質の低下は結構笑えない水準に来ている気がします。というのも早慶など大手大学ほど系列高校を増やす一方、近年の国や都の指示もあって大学定員は縮小するという、いわば内部生の濃縮みたいなことをやっているのではないかという気がしてなりません。仮にそうだったら外部生の方がこれからはレアになりかねないのですが、私の時代ですら全学生の40%くらいは内部生だったので、過半数が内部生という大学ももうそんな珍しくないような気がします。

 最初の関学の話じゃないですが、真面目に私が今受験生でこうした状況にあっては、内部生が少ないというだけでその大学を評価して進学理由の一つにするかもしれません。そう考えると、「内部生が少ない」というのは今後大学や学部のアピールポイントになりうるでしょう。

 最後に余談ですが社会人になって自分と同じ大学出身の先輩に会うこともたまにありますが、今まで凄かったのは、年間平均1週間しか登校しなかったけどきちんと4年で卒業したという先輩でした。どんなマジック使ってたんだろう(´・ω・`)

2020年5月11日月曜日

10万円給付関連記事の裏側

社会主義ですか? 日本の10万円給付に中国人が驚愕(JBpress)

 さて今週のサザエさんはじゃなくて自分の記事ですが、そこそこアクセスはいいようです。それもそのはずというか、最近アクセス悪かったから初めからPV数をそこそこ稼ぐ目的で書いています。逆を言えば、この記事でもアクセス稼げてなかったらそこそこ打たれ強い自分でもちょっとしょげてたことでしょう。
 アクセスゲットを目的に書いた、とは言ったものの、ここで書いてある内容は実は前々から主張したかった内容です。そうした気持ちが先走ったところもあってか記事文章自体はやや流麗さに欠けあんまり褒められたものじゃないですが、一番言いたい内容だった後半部分は短い中に割と濃い主張を詰め込められた気がします。

 ヤフコメなどを見るとこの記事の反応として「日本が社会主義か」という論点に強く反応している人が多いですが、いくらかミスリードさせる風に書いたところはあるものの、この点については実はそれほど主張したかった内容というわけではありません。コメントなどにもある通り、「何をいまさら」といった内容程度でしょう。
 同様に、現金給付は欧米諸国など他の資本主義国でも行われているという点についてもあらかじめ了解している内容で、そうした事実を無視して何故中国との比較に終始したのかという意図まで探ってくれたら作者冥利に尽きるのですが、そこまではいなかったようです。

 では何が言いたかったのかというと、後半に書いてある自助努力意識の差です。この点については、下記のコメントをくれた方は完全に自分の意図を読み取ってくれています。

「筆者が言いたいのはどちらの国が資本主義か社会主義かということより国に頼らず自らの力で回復を目指す中国国民とまず国、政府に支援を求める日本の国民との国民性の違いを言いたかったのでは。生活水準が向上し先進国として長くその位置にいると精神は退化していくようだ。日本に限らずだけどね。一言で言えば日本人の精神に逞しさが失われつつあるのかも知れない。国が政府が頼りに出来ない時ほど自らの力で立ち上がらなければならないのだが。事の是非は別として全世界でマスク不足状態が発生すると中国では9000社にも上るマスク製造会社が出来た。そのため不良品が相次ぎ政府がマスクの輸出管理に乗り出さねばならない事態になったようだがそのバイタリティは賞賛すべきである。」

 記事中にも書いている通り、普段税金を払っているのだからいざというときに政府に支援を求めること自体は何も問題だと思いませんが、最近の日本は何かあればすぐ政府を頼りにするという、政府への依存意識が異常に高すぎるように前から感じていました。今回のコロナの事態に関しては、その影響が直撃している観光、宿泊、交通業界などは支援を求めるのも無理がないとは思うものの、他にもたくさん影響を受けている業界がたくさんあるというのに、うちもうちもと支援を求める声がいろんな業界から出てきたのには違和感を覚えました。
 特に、平田オリザ氏をはじめとする芸能界の人間が堂々と政府に補償をするべきだと主張したのには呆れてものが言えません。収入が途絶えて苦しい人がいるというのなら、松本人志氏のように同じ業界内の余裕のある人間などから募金を募って配布するなどすればいいと思うのに、そうした自助努力もしない間にああしたことを発言するとはどんなものかと思います。

 また平田オリザ氏に限らずとも一般世論も政府はもっと補償すべきだなどという主張が多く、初めから政府の補償を当てにしていない中国人と比べると、ビジネスの世界じゃちょっと頼りないなという気がしてなりません。本当なら記事中に、「国があなたに何をしてくれるかではなく、あなたが国に何をできるかを考えよ」というケネディの言葉を引用しようとも考えていたのですが、さすがにそこまでやると反発しか受けないだろうと思ってやめてます。

 極限すると、私が日中で比較したかったのは国家体制としての資本主義か社会主義かではなく、個人レベルの国民思想が資本主義的か社会主義的かという議論です。私個人としては最近なんか周りで中道だと言われているようですが、この点も「このはしわたるべからず」じゃないですが、資本主義も社会主義も極端な思想であってはならず、バランスのいい位置を維持すべきという見方です。いうなれば、政府を頼りにし過ぎてもいけないし、全く無視してもならない(政治参加意識を一程度持つ)という立場です。
 この点で言うと中国は、言っちゃなんですがやや極端な資本主義寄りにあるというか、政府を当てにしないけどその代わり政府の作った法律を無視しまくるという状態にも見えます。もっとも、こういう輩の方がビジネスでは強いんですが。日本に関しては、言うまでもないでしょう。

 なおヤフコメ見ていて、そこそこツボにはまったコメントは以下の通りです。

・中国に驚かれてもね?こっちは中国のやる事なす事、驚いてますけどね。
→すごく同感。だから中国は楽しいんだけど。

・社会主義でも 資本主義でも 支援金もらえるのは いいことだ。 鄧小平
→黒猫でも白猫でも、かわいい猫はいい猫だ。

2020年5月10日日曜日

まるで価値のないアベノマスク

マスクバブル崩壊! 4大スポットではついに50枚入りで千円台も  アベノマスク配布はたった4%(AERA)

 先日友人とチャットしたところ、日本でも各地でマスクが出回るようになって入手しやすくなっているそうです。でもって、

「アベノマスクは届いた?」
「まだ」
「10万円は?」
「まだ」

 だそうです。

 恐らく上海にいる私などよりも皆さんの方がが、もはやこの時点でアベノマスクに利用価値どころか存在意義すらないということを痛感されているかと思います。入札も経ず怪しい業者を使った挙句、今更何の役にも立たない布マスクのために466億円も使われたと考えると、もっと他にいいお金の使い道はなかったのだろうかと思えてなりません。
 報道によると、このアベノマスクを提案したのは官邸官僚の側近らしいですが、森友事件や加計学園問題といい、安倍首相はどうも人を見る目がないのか明らかに頭のおかしい側近を周りに置いた挙句、その言うことを聞く癖がある気がします。このアベノマスクも、「マスクを配ると言えば国民は安心するはず」と主張されたと言われていますが、馬鹿にされるとは微塵も思わなかったとしたら自分の判断力をもっと疑うべきでしょう。

大企業支援の拡大検討 コロナ対策、政投銀出資枠 西村再生相(時事通信)

 さらにここへきて上記報道の様に大企業支援策の検討が発表されました。何も中小企業を優先すべきだとか、こうした企業支援が無駄だというつもりはありませんが、果たしていま宣言してまで議論すべき話題かというと疑問です。今本当に議論すべきはコロナウイルス対策であり、まずは他のすべてを度開始してでも終結、緩和させる手段に全力を注ぐべきです。出ないと社会的損失がどれほどに上るのかも見えず、そうした損失見積りを立てた上で支援策ももっと検討すべきだろうという風に私は考えます。

 またこの関連でいうと、大阪の吉村知事が緊急事態解除条件の基準を政府に先駆け発表しましたが、この基準発表は非常に大事で大したものだとみています。逆を言えば政府は何故基準をこれまで作らなかったのか、日銀の金融緩和といい出口戦略をまるで何も考えていなかったのではとも見えます。いちいちやることが場当たり過ぎて、私の予想だとこのコロナ騒動はまだまだ続く気がします。

 あと関係ないけど、マイナンバーもなぜか今の時期にごたごたしているそうですが、マイナンバーできたときから中国にいる私からしたら手続きもできないだけに、もうちょっと海外居住者のことも考えてほしいなとか思います。領事館とかでやってくんないかな。

ある自宅出勤な一日

 今日は土曜日ながら、五月の連休を増やすために休日が振り替えられたおかげで中国では出勤日扱いとなり、普通に仕事でした。とはいえあんまり用事があるわけでなく、休みも取る人が多いので自分は今日は自宅出勤とし、前夜にパソコン持ち帰って今日は家で作業してました。

 朝は通常通りに七時に起きたのですが、その後すぐに仕事に入るわけじゃなく、昨日買っておいた「人形の国」の最新刊をタブレットにダウンロードするためだけに早起きしました。中国だと電子書籍のデータダウンロードは昼間とか夜だと上手くいかないため、早朝の回線が空いている時を狙うことが多いです。
 首尾よくダウンロードができると、八時半の業務開始までまだ時間があるので二度寝して、八時にまた起きるとまだ時間があると思って、何故だかニンテンドースイッチで「ストライカーズ1945Ⅱ」をプレイし始めました。何故やり始めたのか自分でもわからないですが、使用した機体はフォッケウルフ Ta152でした。

 八時半になったので観念してパソコン起ち上げて仕事に入り、今日のスケジュールをいろいろ組みました。昨夜が八時半まで作業してたので今日は軽めにしようと負担の少ない業務を選んでやって、お昼に冷凍うどん食べて、余った時間で「人形の国」を読んで、午後からまた仕事に入って夕方まで作業してました。終業後は、ラーメン屋に行って夕食食べた後、スーパーで買い物して、ネット見て、「エリア88」を大人買いとかしてました。

 少しは真面目な話をすると、日本ではリモート作業の時もビデオ付けてサボってないか監視しようとする動きがあると聞いて心底呆れました。自分の会社ではチャット機能のオンオフでスタンバイしているかは見れますが、逆を言えばオンにしておけば何してもバレないので、自宅作業では自由にお茶とか入れたりできます。無論、お茶汲みは会社でも自由に行えます
 何が言いたいのかというと、作業してるか監視しないといけないということは、普段から業務状況や結果を実績で判定評価できないという事実を自ら認めてるようにしか見えないということです。普段から実績で判断してるなら作業進捗とか日報や週報だけでも十分把握できるわけで、それができない、結果さえ出せば比較的自由にしていいと言えない辺り、その企業には根本的な問題があるように思えます。

 ちなみに自分の会社はコーヒーメーカーとかオフィスに備えられてるけど、みんなして「まずい」というので、自分は同じく備え付けられてるネスカフェのインスタント飲んでます。決しておいしくないけど。
 他には菊茶とかも置いてあるけど、あれだと一度入れた後、菊の花捨てるのが面倒であんま飲みません。急須とかあればいいんだけど、さすがに会社へマイ急須持っていくのには自分でもためらいがあります。

2020年5月6日水曜日

ガンダム世界で一番あり得ないこと

 ガンダムシリーズの世界では、なんでもミノフスキーで片づけてしまうほぼ無尽蔵なエネルギーとか、未だ模型で完全再現がなされていない謎なゼータガンダムの変形機構などあり得ない設定がたくさんありますが、中でも自分が一番あり得ないと思うのは地味に通信です。どういう意味かというと、戦闘中にもかかわらず敵機と延々と通信して話し続けるという点です。

 通常、っていうか普通の神経していたら戦闘中に敵軍と会話するなんてまずあり得ないことです。作戦目的や行動の意図が読み取られる恐れがあり、自分のみならず味方すら危険に招きかねない行為なのに、なぜかガンダム世界では戦場で敵同士が出会うと当たり前のようにおしゃべりを始めてしまいます。SEEDに出てくるアスランに至っては、味方よりも敵との通信時間の方が長いんじゃないかと思うくらい延々と敵機とおしゃべりを続けてました。でもって案の定毎回すぐ裏切るし、でもって強いしで、ガンダム界の呂布奉先もいいところでしょう。

 なぜガンダムでは敵同士なのに会話するのかというと、これは昔のテレビインタビューで監督の富野氏自体が「リアリティがないのはわかっている」と話した上で、会話シーンを持たせないと作画が持たないためという苦肉の策だということを認めてました。まぁそれを考慮してもアスランは適としゃべり過ぎだし、裏切り過ぎですけど。

 改めてこの点に着目すると、ガンダム世界における戦闘というのは基本的に駆け引きがないということにも気が付きました。例えば戦闘機であれば現代では数機でフォーメーションを組むのが当たり前で、また二機一組でも一機が旋回しながら囮となって敢えて敵機を背後につかせ、もう一機がそのさらに背後を突くというのが定石の戦法となるなど、戦闘における駆け引きは非常に複雑かつ有用です。
 にもかかわらずガンダム世界では双方ともに真正面から相撲の様にガチンコでぶつかり合うだけで、僚機がいても何も通信しながら連携を取ることなく、互いに好き勝手に敵機と戦うだけです。中には味方機から勝手に離れて勝手に戦い続ける奴すらいる始末です。

 なんでこんなことを書くのかというと、意図の読めない相手というのは非常に手ごわいと感じるからです。味方機が撃墜されても気にすることもなく移動を続けようとしたり、一機だけ前に出ながら他の僚機は何故か延々と旋回していたりとか、こうした何をするかわからない相手だとこちらもどう出るか判断が難しく、そこをどう打開するかというのが空戦における駆け引きになってきます。
 然るにガンダム世界ではそんな高尚な戦場の駆け引きなど一切なく、っていうか作戦目標すらあるのかと疑いたくなるくらい目の前の敵と戦うだけです。基本、戦闘は攻略戦などは少なく両軍出会い頭の遭遇戦ばかりというのも、上記の「敵と通信で会話する」という要因の影響ではないかとすら思います。

 何もとことんリアリティを追求しろと娯楽作品に向かって言うつもりはないですが、やはり戦闘における味方との連携、敵を出し抜く作戦とかあった方が面白いと思うので、こんなこと書きました。なおガンダム世界にはこれらがないないと言ってますが、08小隊のグフカスタムは長距離砲の破壊という目的をはっきり持って、見事に敵を出し抜く戦いぶりを見せており、何気にガンダムシリーズ最高の戦闘シーンだと個人的に思ってます。
 あと連携だと、いちおう初期にジェットストリームアタックというのが存在していますが、その後似たような連携攻撃戦術はほとんど皆無な状態です。あ、でも今思い出したけどガザストームはあったか。大抵こういうのやるとその後すぐ負けちゃんだけど。

2020年5月5日火曜日

5月初旬の熱波について

 日本ではここ数日物凄く暑い日が続いているかと思いますが、上海も似た感じです。ただ上海では昨夜から雲が出始め、空気が変わり、案の定今日の昼間に雨が降ってからは気温が一気に低下して、湿度こそあるもののまた過ごしやすくなっています。
 もっとも急激な気温の上下に気象病とでも言うのか激しい頭痛起こして、右半身に若干のしびれめいたものすら感じました。これは何も今回に限らず、季節の変わり目に毎回起こしており、なんか以前よりも症状が激しくなっているような気すらします。もっとも対処法もある程度確立しており、迷わず頭痛薬を飲んで対処し、再びゲームへと戻りました。ゲームのし過ぎで頭痛を起こしたわけじゃないですからね。

 話を戻すと、あまり認知されているように思わないのですが、ちょうどGWに重なるくらいの日程で、4月末から5月初旬にかけての約1週間、真夏に近い熱波がやってきて気温が30度超にまで上昇するのは毎年のことです。中学生くらいの頃に気が付いてからかれこれ20年くらい観察し続け、また東京と比較的気候の近い上海においても同様の傾向がみられることから、毎年地球規模でほぼ必ず起きる気候現象ではないかと私は見ています。
 ただネットなどで調べる限り、このGWにおける気温上昇こと熱波について触れることはなく、毎年、「今年のGW中には急激な気温上昇が~」という風に報じられているだけです。前述の通り、東京でも上海でも同じような現象が起きているのだから、そろそろ「GWヒート」とか「メイウェザー」などと名前を付けて定着させてもいいのではないかと思うのですが、現象自体が認識されていないようでは望むべくもないでしょう。

 こうしたGW前後における気温上昇について私が観察した限りだと、期間は約1週間で、日差しに関しては真夏並みのレベルとなって正午ごろなどは外で活動するのは危険なレベルにまで到達します。しかし1週間程度経過すると雨などを契機に平均気温が低下するようになり、それ以降5月中の最高気温は30度を下回るようになります。
 問題なのは暑くなる期間が1週間と認知されていない点で、一時的に気温が急上昇するものだからあわてて夏服へと切り替えたものの、その後また気温が低下するので、慌てた分だけ整理して損する人が出てきます。

 その上で景気に悪いことを言うと、GW中は上記の通り体が慣れていないのに毎年急激に気温が上昇することが多いことから、内心ではあまり外出するべきではない時期だと考えています。実際に紫外線量もこの時期は半端ないと聞きますし(女性陣から)、その後また急激にクールダウンもするため、体への負担を考えると外出は控えめにするくらいがいいと思います。
 何気にこの時期は連休とあって登山に出る人も多いですが、GW中の登山で激しい熱中症を起こして遭難するというケースもよく聞きます。暦的には5月ですが、この時期は誇張ではなく真夏並みの気温へ一気に突入するだけに、それなりの対策が必要となるでしょう。

 そうした考えと、4月までの勤務の忙しさもあってこの五連休中に私はずっと家からあまり出ませんでした。おかげで体力が戻ったというか視界の焦点も合うようになり、ゲームに集中することが出来ました。真面目に疲れがひどいと焦点が合わなくなりますが、最近両手足の小指の健を伸ばすとやたら焦点が合う、というより視力が良くなることに気が付いて、前より幾分目が良く見えるようになってます。

 ちなみに今回GW中はセールもあって漫画やゲームを大量に買ってますが、飛行機好きならと知人に勧められた「ファントム無頼」が使っているECで取り扱ってなかったので、代わりに同じ作者の「エリア88」を今日購入しました。素直に面白いけど、今は当時と違って戦闘機の種類少ないから同じような漫画は厳しいなとかそんな目で見てました。
 ゲームだと「ゼノブレイド2」をようやくクリアしたこともあってなんか長いゲームは少し懲りて、彩京の往年シューティングこと「ストライカーズ1945」とか「戦国ブレード」とかを購入してました。「ストライカーズ1945」は1と2を一緒に買ったけど、1の方が面白く、「戦国ブレード」も「戦国エース」と一緒に買いましたけど「~ブレード」の方は難し過ぎる気がします。そりゃこんな難しすぎるアーケードシューティングは廃れるよと、改めて感じました。

2020年5月4日月曜日

スカイレイのプラモ

F4D (航空機)(Wikipedia)


 通っているプラモ屋で、なんか「シェフの気まぐれサラダ」的に突如としてタミヤの「F4Dスカイレイ」のキットが店頭に並んだので、物珍しさとすぐに組める容易さから購入して組み立てました。何故か先に購入していた、R32よりも早く手を付けたあたり、やはり自分はプラモだと戦闘機の方が好きなのかもしれません。



 比較的デカールが揃っているのでそれらしく見えるけど、実は細かいところでデカールの貼りつけミスとか、パーツ組立時のミスがあったりします。そうしたミスをそれらしく見せないようにする技術は大分磨けている気がします。


 ちなみに台座はPC用デスクです。いつもタヌキとフィットのプラモ置いて作業しています。


 今回、このキットを見かけるまでスカイレイについて存在すら知りませんでしたが、キットの写真を見て「逆に新しい」という印象を覚えました。この戦闘機は見ての通りクローズデルタ翼こと、主翼が大きく尾翼のない機体です。エンジンは単発(1機)で現役機で言えばサーブ・グリペンや中国の殲10(J-10)に近いですが、それらと違って前尾翼(カナード)がなく、全体として異常なまでにシンプルな形状をしています。

 この機体を最初見た時、「古そうな機体だが逆に最新鋭のF-35に近いような」という風にも感じました。F-35は主翼がもっと小さく尾翼もありますが、ステルス性を高める目的からエアインテーク(吸入口)の位置はこのスカイレイ同様に胴体脇にあり、またエンジンも単発機です。スカイレイ自体は1950年代の設計でステルス性などは全く考慮されていないはずですが、逆にそのシンプルな形状は現代の対ステルス設計に通ずるものがあり、地味に先進的であったような気すらします。

 実際の航空史においてもスカイレイは得意な形状と呼ばれることが多く、斬新な設計だったが斬新過ぎて設計思想を引き継ぐ後継が出なかったと言われています。まぁさすがに、主翼の縁が丸い機体はそんじょそこらじゃ出てこない気がする。

2020年5月3日日曜日

コロナ後に元に戻れるかに対する不安

 昨夜岐阜県内で千葉県のナンバーで車を走らせるとハブられるのではないかと無駄な心配しているうちの親父と電話で話しましたが、その際に仮にコロナが終息しても、また以前みたいな日常が戻ってくるのかなどとやたら不安がっていました。これは何もうちの親父に限らず、日本国内にいる日本人と連絡すると、「もうあの頃には帰れない」といったような内容の嘆きが毎回聞かれます。
 この点について中国在住の身から言わせてもらうと、「意外と戻ってくるもの」だとお答えします。

 恐らく日本にいる方の立場に立つと、緊急事態宣言を受けて自粛が広がり、街中がゴーストタウンみたく人が出歩かなくなったという光景を目の前にして、上記のような感傷を持ったのではないかと思います。私自身も上海で2月、というより実質的には3月くらいにそうした光景を目にした時、果たしてここからどれくらいリカバリー効くのだろうかと不安に感じました。
 しかし3月の後半に入ったころになると、この記事にも書いているように地下鉄なども乗客が増え、飲食店らも再開し、また各店舗の入口前で行われたいた検温もやらなくなるに至って、今現在の上海は完全にビフォアーコロナともいうべき状態を完全に取り戻しています。

 無論、目に見えないだけで各店舗や企業の負担は重いでしょうし、再開にこぎつけず撤退した事業者なども数多くいるでしょう。ただ今現在の日本人はテレビの中の中国の世界だった自粛風景が目の前に広がって、少なからずパニックに似た心境にあるのではないかと思います。それでもコロナが一定度終息しさえすれば、現在の上海の様に意外と街中は見た目だけなら以前の空気を取り戻すだろうと私は思います。

 ただ、これはコロナ流行が今年限りという想定です。仮に次の冬にもまた流行した場合、コロナ関連倒産は今年の比ではなくなるでしょうし、それこそ「もうあの頃には戻れない」という世界が本気で来るかもしれません。それは中国でも同様ですが、流行対策に関しては現在中国の方が上なだけに、日本よりはマシになるとは思います。

 改めて言うと、今現在の日本人はコロナ疲れともいうべきパニック状態な心理にあるように感じます。2月ごろに言っていた「正しく恐れよ」という言葉は、今でこそ言うべきではないかと思います。まぁそれ以前に、もっとスマホを活用して防疫対策を日本はやるべきだとは思いますが。

2020年5月2日土曜日

不穏な写真


 先日、上海のしまむらを眺めている最中、上記のフード付きスウェットを見つけ、写真に収めた次第です。周りの友人にこの写真を転送したところ、「君のような勇者こそ身に着けるに相応しい」的な返事ばかりもらいましたが、さすがに無駄に煽るようなことは良くないと思って、買いませんでした。
 ただ中国において攻めたデザインであることは確かで、しまむらは自分の知らない間に飛躍的にセンスを高めているのかもしれません。部屋着として使う分にはいいの揃ってる気がするんだけどね。

2020年5月1日金曜日

優れていると感じる自伝漫画

 また更新がしばらく空きましたが、全部仕事のせいです。キーボードの叩き過ぎなのか一昨日は仕事中、右肩が上がらなくなり、眩暈や動悸をリアルにしながら作業を続けていました。まだやっている仕事が楽しいのが救い。
 単純に忙しいためというより、今年2月ごろから延々と忙しい状態が続いていて、会社から要求されているイーラーニングをやる暇もないほど隙間なく働いています。3月中はまだ体力が持っていたけど、4月に入って以降は蓄積もあってか頭も体もまともに動かなくなっていきました。その成果先週末に至っては、革ベルトを付けたままズボンを洗濯機に放り込んでおり、心なしかベルトがきれいになったものの短くなって帰ってきた気がします。

 話は本題ですが、先日「『ど根性ガエルの娘』を少し読んで」という記事の中でこの漫画のことをかなり激しく批判しました。理由としてはお金を支払う漫画作品としてはあまりに質が悪いためで、その原因は編集方面の混乱もあるとはいえ、作者自身が心の整理がきちんとついていないのか、どうしても主観性が色濃く反映されているように見えると推測しました。
 「バクマン」以降、漫画政策の裏側を見せる内容が受けると見たのか、こういった漫画家の自伝漫画というのが増えた気がします。そうした漫画家の自伝漫画を今まで読んだ中でよくできていると感じたのは、巨匠こと永井豪氏の「激マン!」です。

 知ってる人には早いですがこの漫画はデビルマンやマジンガーZなど、永井氏の代表作の執筆当時を振り返った自伝漫画です。一部フィクションを交えて主人公も「ながい激」などとしていますが、故石川賢や未だ現役衰えない辻真先氏などは実名でそのまま出ており、当時のライブ感が作中で強く反映されています。
 なお辻氏についてはウィキペディアの記事にも書かれていますが、「デビルマンの脚本の打ち合わせをしながら別の作品の脚本原稿を書き続け、書き上げていた」というエピソードが「激マン!」の中に書かれています。これを初め読んだ時、「昭和の作家というのはこんなとんでもない化物ばかりだったのか……」と激しくショックを覚え、とても自分はこういう人たちとは肩を並べられないだろうという思いを感じました。令和においてもこの人は現役ですが。

 話は戻りますがこの「激マン!」が特に優れていると感じたのは、前述の通り作品ごとにテーマを絞っていることです。私が読んだのはデビルマン編だけですが、同時連載中だったマジンガーZについてはそれほど触れられず、デビルマンがどのようにして制作され、作者が当時どんな心境だったのかが良く描かれています。特に飛鳥了というキャラクターが独り歩きし始めたことや、あの伝説的な結末に至った背景について細かに書いてあり、非常に納得感のある内容でした。
 そうした裏話的な要素とともに、先にも書いた通り客観性が非常に保たれているという印象を受けました。本人は照れ隠しのために主人公は自分ではなく架空の人物としていますが、それがかえって主観性を薄めることに効果を発揮したのかもしれません。

 それ以上に、これも先に書いているように当時周囲にいた人物を非常に多く登場させ、彼らの特徴などを細々と描いています。ダイナミックプロのメンバーだけでなく出版社やアニメ会社の人物などをよく覚えているなと思うくらい登場させ、彼らとの会話や関わり、作品の展開などがしっかり描かれてあって、非常に読みごたえがありました。
 こうした点を踏まえて、やはり自伝漫画、それ以前に自伝というのはやはり主観性が強いとだめで、周囲の人物を含めて自分をどこまで客観的に描けるかが、読み手にとって面白さにつながるのではないかと思います。そしてそうした客観性が保たれていると感じるもう一つの自伝漫画としては、まぁわかるかもしれませんが「水木しげる伝」です。

 作者の水木しげる自体が下手な漫画のキャラクターより漫画っぽい人物という、極端に強いキャラクター性の持主ではありますが、この「水木しげる伝」の中では本当に一人の漫画のキャラクターの様に自分のことを客観的に描いています。また「激マン!」同様、有名なのんのん婆をはじめ周囲にいた人物を隔てなく描いており、またその見方も意外と客観性に富んでいるというか、漫画を見た後で実際にその人物を追って調べてみると、驚くほど特徴が共通していることが多かったです。
 一例を挙げると、白土三平氏がいます。初登場のシーンで、「ホームレスかと思った」と描いてあります。しかもその後で漫画家同士で飲食店に入った後、当時他の漫画家みんな食うや食わずやだったから、当時稼いでいた白土氏におごってもらう雰囲気をみんなで作っていたということも描いています。

 万事がこんな感じで、あくまで水木しげる本人が中心として描かれているものの、各時代における身の回りの人物や出来事を中心に、客観性とユーモアに富んだ視点で描かれてあって水木しげるの自伝というよりも、昭和の時代背景を読む作品としての価値の方が高いかもしれません。

 ただ敢えて一点、作者本人の主観が強く打ち出されて描かれた場面が一つあると私は考えています。それは従軍中、戦場で部隊が全滅する中で一人生き残りジャングルを逃げ回っていたところ、まるでぬり壁を目の前にしたかのように深夜に突然、どうやってもそこから前へ一歩も進めなくなったということを回想しているシーンです。翌朝になってみてその先は崖であったということがわかるのですが、このシーンに限っては非常に珍しく1ページ丸ごとの大きなコマで描かれており、作者にとって忘れ得ぬほどの強い体験だったのではないかと密かに見ています。
 私は自伝漫画に主観は不要とさっきから書いていますが、こうした一部のワンシーンで主観を大きく前に出すことは否定しておらず、むしろ作品にいい刺激すら与えると考えています。生憎ながら「ど根性ガエルの娘」では、そうではなくほぼ全面主観に満ちていましたが。

 話を戻すと逆に「水木しげる伝」で非常に恐ろしい点は、作者が左腕を失ったシーンです。爆弾が落下して吹き飛ばされ、軍医に施術されるという流れが非常に淡々と描かれており、その後の人生でも左腕のないハンデについてまったく気にしてないのかと思うくらい触れられません。恐らくほかの人間だったらこの場面だけで数十ページを使うのではと思うような場面ですが、どうしてこうも客観的に書けるのかと思うくらい淡泊で、この点一つとっても作者がとんでもない人だと偲ばれます。
 それだけに、先ほどのぬりかべのシーンの感情の入れ具合との差が際立っているとも思えるのですが。

 なお少し補足をすると、何かのインタビューで左腕喪失について悔しさみたいなものはないかと尋ねられた際、「全くない。生きて帰れただけでも幸運だ。あの時代、生きたくても生きられなかった人たちがたくさんいた」と回答したと聞きます。こうした点を考えると、やはり激烈な体験こそが物事を客観的に捉える視点を養うのかもしれません。