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2014年12月31日水曜日

今年書いた記事について

 年も瀬ですがこっちの本番は旧正月なのでいまいち盛り上がれない状態で今パソコンに向かっています。何気に旅行から帰ってきたばかりのため約二週間分の洗濯物をさっきまとめて洗濯機に放り込んだら途中でエラー出て止まったりと、相変わらずの運の悪さが年末にも来ています。
 さて年末を締めくくる今日のこの記事ですが、差し当たって急いで書く記事もないので一年を振り返る意味合いも兼ねて2014年に自分が書いた記事の中で印象に残ったものをいくつかピックアップして紹介しようと思います。そんなわけで改めて右にある過去記事の履歴ツリーをちらちら見ましたが、我がブログながらその膨大な記事数には一目見てげんなりしました。

 まず今年一番傑作だと自負する記事に関しては全く迷いがなく、「人材派遣企業各社の平均的マージン率」を挙げます。アップ当時から周りに、「この記事は大手新聞の一面を飾っても恥ずかしくない」と豪語し続け、現在においても確実にアクセス数が伸びていることを考慮すると非常に良いテーマに手を付けたなという達成感を覚えます。この記事に関しては近々にも続編を書いてみようと考えており、現在の時点でも非常にワクワクしています。

 次にこのブログに恐らく一番期待されているであろう歴史記事に関して言うと、「二次大戦下のフィンランド前編 後編」の記事が個人的に一番納得する出来でした。アップ直後から複数の読者から、「当時、フィンランドがあんな風になっていたなんて知らなかった」などという言葉と共に賞賛を受け、私自身も大国に挟まれてしまった小国がどのようにして国家の危機を切り抜けたのか、その外交や戦争におけるギリギリの駆け引きを拙い文章ながらこうしてまとめられたのは非常に幸福に感じました。
 同じく歴史記事だと、ちょっと主旨が違いますが「何のために歴史を学ぶのか」が歴史を学ぶ意味についてそこそこいい感じに書けた気がします。案外こういう問いに対する回答案というのが見つからないだけに、未踏のテーマに手を付けたなとも思えます。

 読者からの反響が一番大きかった記事であれば、「やる気のある無能」の記事が自分の想定以上にあちこちからコメントが来ました。友人からは、「あれ見てほんま納得したわ」と言われるし、親父からはこの記事を見せた会社の同僚全員が、「こういう奴っていますよね」と全肯定したなどと、サラリーマンであればあるほど共感が得られた記事だったように思えます。書いた本人としてはほかにもこういうテーマの記事書いてる人はいるだろうと思っててそんな反響ないかなと思ってただけに、想定外の反応に非常に驚きました。

 経済関連の記事だとそれほど多く書いてはいないものの、「中国のビジネスホテル市場2014年版」と「九州丸ごと特区化の提案」がなかなか内容もまとまっていて納得しています。ただ経済系の記事はほかのと比べて反応がやや薄い傾向があるのですが、九州丸ごと特区化の話は多分四年後くらいに同じ内容の話がどこからか出てくるんじゃないかと期待しています。
 このほか単純に読み物として面白い記事だと「不死身の弁護士」が小話として内容もあり、また文章も飛んだり跳ねたりしていてなかなかグッドです。そのまんまどっかの雑誌のコラムにもこれは使えるような。

 最後に、基本毎年大暴れというかおかしな行動を何かしら起こす自分ですが、そんな自分の身の回りで起きた出来事を書いた記事が案外読み返して面白かったです。どれもこれも今年前半に集中していますが、夜中に猫同士のケンカの声で起こされた「深夜の決闘」、買ったポーチが異常に砂利臭くて交換してもらった「PSVitaの付属品に伴う懊悩( 一一)」、そして何よりも雪降る深夜に外で長時間待たされ死ぬ思いした「楽しい楽しい帰宅難民体験(;´Д`)」が今思い起こしても強烈な体験でした。
 それにしてもどれも「普通こんなのってあんの?」と思う妙な体験ばかりで、書いてる本人ながら「お前適当に話作ってね?」と疑いたくなるものばかりです。今年に限るわけじゃないけど、なんかトラブルに巻き込まれやすい体質してるのかもしれません。

2014年12月30日火曜日

中国でのGメール遮断について

Gメール遮断で中国批判 米国務省(産経新聞)

 Yahooニュースにも上記のようなニュースが出ているので知っている方も多いのではないかと思いますが、どうも先週末くらいからGoogle社のフリーメールサービス、Gメールが中国で遮断されたようです。ちょうど自分は先週金曜から家を空けて西安に行ってたのでこれまで気づかず、昨夜自宅に帰ってきてようやく事の事態を知り、実際に自分のアカウントで送受信を試してみたところやっぱりアクセスできず怒りに震えていました。

 先に情報を整理しておくと、今回のような事態に至るまで「予兆」というものは確かにありました。2013年の年初までは全く問題なくアクセス出来たGoogleのアプリストア、Google Playが2014年には全くアクセスが出来なくなり、同時にこれまではほぼ問題なく使えたGoogle検索も極端に速度が遅くなっていました。そして今年10月頃には私もよく遊んでいたアプリゲームの「パズル&ドラゴンズ」もGoogleアカウントによる接続認証が出来なくなったためある日突然遊べなくなり、なんとなく落ち武者のような気分にさせられました。なおこれまでこのゲームに費やしていた時間がこれ以降はほかの余暇に使われるようになり、その影響からか10月以降はこのブログの記事の質が若干良くなっているような気がします。

 話は戻りますがこうした予兆の末についに最後の牙城というか、切ってはならないインフラといってもいいGメールにまで中国政府の魔の手が及ぶこととなりました。元々、中国ではブラウザからGメールにアクセスするには非常に時間がかかっていたのでこれまで私はメールソフトのWindows live mailを使ってGメールを複数アカウントで利用していました。しかし今回の遮断を受けてかこのメールソフトを使ってもアクセスすることが出来ず、これまでGメールを使って行ってきたこのブログへの投稿も一夜でできなくなり、仕方ないのでこういうこともあろうかと用意していたVPNを使って今この瞬間もブログを書いております。朝日新聞よ、これが検閲だ。でもってこれが自由を求める戦いだ。

 こう言ってはなんですが自分はかなりの中国贔屓で日本人皆に嫌われていると思うから日本人を批判することを数多く書いている傍で中国を持ち上げる記事をこれまでに数多く書いております。そんな自分からしても今回の子の暴挙に関しては激しい怒りを覚え、やってることは北朝鮮と一緒だと強く中国を罵りたい思いがします。
 私などはGメールの依存度は少なく、どちらかというとYahooメールをメインで使用している上にVPNを経由すればまだアクセスできるからいいものの、中には一夜にして連絡手段を断たれた外国人もいるのではないかと思います。そういう人たちの中には家族との連絡に使っている人もいたかもしれませんし、またビジネス上で重要な情報のやり取りをしていた人もいるかもしれません。そのような人と人のコミュニケーションを繋げる電子メールはいわばインフラも同然で、有史以来脈々と続けられてきた文書によるつながりを断つなぞ言語道断と言うよりほかなく、人と人のつながりを断つような人間は真に排除されるべき人種でしょう。

 中国外交部の報道官はこのGメールのアクセス障害について原因は不明で担当部署が確認をしているとした上で、中国は海外からのどんな商業活動も妨害はしないと発言しておりますが、この嘘つき八百太郎が、中国政府は嘘しか言えないのかと面と向かって言ってやりたいです。まだパズドラだけを規制するならともかくこのGメールを規制することはどんな理由があれ納得することはできず、ソニーピクチャーズも折角だから北朝鮮に続いて中国を舞台にした映画を作ったらどうかと密かに思います。

 本日ブログ記事二本、あとあちこちに手紙書いてて、書いた文字数は合計5000字強。執筆時間は実質一時間半でした。自分も手ぬるくなったもんだ。

西安の旅行記


 知ってる人には早いですが先週土曜から昨日の月曜までの三日間、友人の上海忍者と共に中国の陝西省西安市に旅行に行ってきました。なんでこの時期にここに来たのかというと、西安に留学中の後輩が来月にも留学を終えて帰っちゃうので、そんならはよ行かんとと思って上海忍者に航空券からホテルの手配まで全部やらせて(結構得意そう)矢も盾もたまらず行ってきました。

 西安市とは昔の名前で言えば長安市で、前漢や唐の時代にはここに首都が置かれた古都です。それだけあって市内各所には押しも押されぬ歴史的観光地が数多くあり、また外国人観光客も多いことから最寄りの咸陽空港には国際線の発着便が充実しているなど、文字通り観光都市というイメージを強く受けました。
 市政府もそうした観光産業を強く打ち出している向きがあり、空港から市内へのリムジンバスも充実していればしないから兵馬俑など周辺の観光地へ向かう公共バスもルート別に数多く用意されており、またその添乗員らも何時にどこそこを出発するかやお得な入場割引などの制度も熟知しており、ことサービス産業に関してはなかなかの気構えを持って臨んでいるように感じられます。


 上の写真は言うまでもなく兵馬俑でこの写真で見ると対比が難しいですが、左右の端にある小っちゃい黒い影が人間であることを意識すると如何に巨大な遺跡であるかが少しはわかるのではないかと思います。実際いってみて自分も圧倒されましたがよくもこんな巨大な遺跡を発掘した(発掘作業は現在も続いている)物だと思うと同時に、重機もない古代にこんな巨大なものを作るなんて、一体中国はどうして昔から労働力というか人口が豊富なんだと思い知らされました。

 なお写真の遺跡は一号坑で、このほかにも二号坑と三号坑があり、この三つの坑全てで阿発掘作業は完了しておらず、私たちの見ている横でも発掘員がなにかしら動いていました。あとこの兵馬俑は1970年代に井戸を掘っていた農民が見つけて届け出たことにより日の目を浴びましたが、この時発見した農民二人はまだ生きており、この兵馬俑に併設されている博物館に行くとたまに入り口前に座ってて彼らの本を買うとその場でサインしてくれます。そんな情報を後輩に聞いてから博物館に行ったらたまたまその発見者が来ており、お昼時だったので椅子に座ってカップラーメンを食べてました。ちなみに本は200元(約4000円)もしたので買いませんでした。

 このほか写真には撮りませんでしたが気に入った観光地としては華清池という温泉のわき出る保養地があり、ここには日本人もやたら好きな楊貴妃がよく来ていたそうです。てっきり露天風呂っぽい跡地が小さく残ってるだけかと思ったら普通に宿泊施設付温泉保養地みたいなでかい観光地で、裸の楊貴妃の卑猥で巨大な像までそびえていました。上海忍者がやたらその像の胸を触れと薦めてきましたが自分は拒否しました。

 なおこの華清池は近年まで普通に保養地として使われており、日中戦争の最中にも蒋介石が訪れています。そしてこの華清池にいたところを張学良、楊虎城がクーデターを起こして蒋介石を捕縛、監禁し、中国共産党との和解を強制する、俗にいう西安事件の舞台にもなっています。
 この事件の痕跡が華清池には生々しく残っており、山を背にした建物の壁には銃撃によって空いた穴が無数に残っており、なかなかに見ごたえのある観光地です。ちなみに西安市内中心部にはこの時に張学良がいたという建物が残っており、「西安事件記念館」として博物館になっています。


 最後のこの写真ですが、これは市内を歩いている最中に友人が見つけた置物のお土産です。
 男三人揃って全員、「何やねんこれ!?(関西弁)」で叫びつつ、自分は買いませんでしたが上海忍者と後輩はちゃんと買っていきました。このお土産を買う際、友人らはこっちの買い物に当たっては一般的な値切り交渉を土産物屋の親父と行いましたがその親父は、「この置物はもうライセンスがなくなってるためめったに手に入らない」などと言っては値下げ要求を跳ね除けようとしたものの、そもそもこんな物騒な構図の置物にライセンスもクソもあるかと言い返して45元(900円)のスタートから25元(500円)まで値下げさせました。

2014年12月25日木曜日

私的今年の十大ニュース

 昨夜はケンタッキーで中国人の友人に日本語を教えておりましたが、先に着いたので食事を終えて待ってたら、まだ私がご飯食べてないと勘違いした友人がファミリーセットを買い込んで持ってきたため、お互い腹一杯になるまで鶏肉をむさぼり食い続けたクリスマスイブの夜。
 話は本題に入りますが、年の暮ということもあるので今年起きた国内のニュースの中で個人的に印象に残ったニューストップテンをまとめておこうかと思います。なんでこんなことやろうって思ったのかっていうと、友人がこの前にビル・ゲイツが今年一番びっくりしたニュースを教えてくれのがきっかけです。そういうわけで早速ニュース十個を選びました。
 
<印象に残ったニューストップテン>
一位 STAP細胞騒動
二位 袴田事件再審決定
三位 朝日新聞の誤報問題
四位 チバットマン
五位 「笑っていいとも!」終了
六位 佐村河内、野々村などお騒がせ人物
七位 高倉健氏の逝去
八位 田中投手のメジャーでの活躍
九位 神戸女児殺害事件
十位 声優のアイコ昏睡強盗事件
 
 ひとつひとつ解説を行っていくと、まず一位については通年に渡って日本国内を騒がせた問題であることからこれ以外ないというくらいの気持ちで一位に置きました。感想についてはちょっと前の記事でもまとめているのでもうこれ以上は敢えて更には語りません。二位の袴田事件再審決定についてはそこそこ冤罪問題を過去に追っていることもあり、まさかこの事件で最新の光が当たるとは思っていなかっただけに強い衝撃を受けたのと、ここ十年くらいの期間で日本の裁判がここまで変わったのかといういい意味での驚きから強く印象に残りました。
 
 三位の朝日新聞の問題については従軍慰安婦問題で誤報を認め謝罪した点以上に、池上彰氏の朝日を批判するコラムを載せなかった問題の方が自分の中では大きく感じました。別に朝日に限ることじゃないけど、彼ら大手マスコミの「自分たちは批判するが、自分たちだけは批判されたくない」とでもいうような妙な倫理観を強く垣間見えたように思え、やはりというか認識の違いを強く感じた事件弟子亜t。これについてはまた今度、別の所との比較でちょっと取り上げるつもりだけど。
 
 五位の「笑っていいとも!」終了は一つの時代の終焉を強く感じさせる出来事と、その後番組の「バイキング」のどうでもよさが相まって見事ランクイン。六位のお騒がせ人物はある意味で一位のSTAP細胞騒動も含まれますが、一人ずつ取り上げてったらこいつらで全部ランキングが埋まる恐れがあったのでひとまとめにしました。
 七位の高倉健氏の逝去は中国でも大きく取り上げられるなど、かつての三船敏郎同様に海外での影響が大きな役者の死だった故にランクインしました。なお逝去直後のネットの声に、「この人の演技は下手だったが」というコメントが結構見られましたが、これには個人的に違和感を覚えました。確かに役者であれば演技が上手いに越したことはなく、その目で見れば高倉氏の役柄はどれも似たような寡黙なキャラで演技達者と言えるかと言ったら微妙な点です。しかし役者にはもう一つ「雰囲気」という要素が要求されるのであり、それこそオーラとも言うべきかただ画面に映っているだけで強い存在感が感じられるような雰囲気を持つ意味では、高倉氏は大した役者だったように思えます。逆を言うなら、現代の俳優はこうした雰囲気を持っている人がほとんどいないということの表れなのですが。
 
 八位の田中投手の活躍については開幕前からある程度予想していたものの、その予想以上の堂々としたピッチングぶりにはさすがマー君と、一体いつまで君付けで呼ばれるのだろうかと思いつつ唸らされました。マウンドでの活躍はもとよりも、試合後のインタビューも「メジャー選手なんて軽いね」なんていうような驕った発言はほとんど見られず、それでいて各試合の調子を自分の目線できちんと伝える姿勢には見ていて惚れ惚れしました。元々、デビュー一年目から受け答えが立派な選手でしたがこのところはますますよくなっているように見えます。
 九位の神戸女児殺害事件は事件の陰惨さもさることながら、遺体発見現場が自宅近くだったにもかかわらず長い時間発見することが出来なかったばかりか、容疑者の自宅に凶器が見つからないと発表してから数日後にすぐ血の跡のある包丁を見つけたと訂正するなど、兵庫県警の対応が見ていて非常に腹立たしかったです。尼崎の事件といい、元から兵庫県警は信用していませんでしたが今度の事件でもその不甲斐なさが発揮され、馬鹿は死ななきゃ治らないというのをきちんと証明してくれたように思えます。
 なお今年起きた陰惨な殺人事件では佐世保の女子高生が同級生を殺害し、バラバラにした事件もありましたが、私個人としてはこれはそんな印象には残りませんでした。というのも、世の中この女子高生みたいな人間の一人や二人くらいはいるよなって思ったからです。
 
 十位の「声優のアイコ」と名乗っていた容疑者の昏睡強盗事件にかんしては、監視カメラに映っていた控え目に言っても目立つ犯人の容姿、そして犯行の手口の時点でも面白い事件でしたが、それ以上に驚いたのは犯人が性同一障害を抱えており裁判でも自分は男だと主張した点です。自分を男だと認識しておきながら一体何故女の振り(?)して男たらしこみながら昏睡強盗していたのかいまいちよくわからない上、しかも裁判途中で実は妊娠していたという衝撃の事実と相まって何度も驚かされつつ色々気になった事件でした。あとネットの掲示板にあった、「(裁判で)容疑は否認するが、避妊はしなかったんだな」というツッコミが妙に面白く感じました。それと容疑者は今月、お腹の子を無事出産したようです。
 
 最後、敢えて飛ばした四位のチバットマンについてです。内心ではもっと上に上げてもいいかなと思いつつ中途半端な順位にしましたが、個人的に一番お気に入りのニュースは間違いなくこれです。最初に「千葉県内でバットマンのコスプレした人が走っている」というニュース文を読んだ際はまた変な人が出たのかと思いましたが、写真や映像で見てみたら思ってた以上に本格的で、しかもインタビューに答える中の人の声も低く渋いいい声で、「まんまバットマンやんけ」とそのバイクで走る姿には思わず見入ってしまいました。さらにはなんでこんなことをするのかというBBCなどからの問いに対して、「東日本大震災を受けて周囲の人を笑顔にさせたいため」と答え、また過剰な取材を受けることは本意でないとして途中から取材一切をすべて断るなどいろんな点でこんな人もいるのかと驚かされたニュースでした。
 最近取り上げられる回数は少なくなったものの日本に定着しつつあると見られる伊達直人運動と言い、こういうチバットマンのような人が日本にも出てきたということは素直に歓迎すべきことではないかと思います。たかがコスプレされどコスプレ、根底には周囲の人を楽しませようという奉仕心があるのであって、その気持ちを今後の日本社会がきちんと汲み取れるかが一つの試金石です。
 
 明日からまたしばらく家を空けるので更新を休みます。再開は恐らく次の月曜からです。

2014年12月23日火曜日

デフレはトヨタの賜物か

 
 目下の自動車業界のホットな話題となるとまず間違いなくタカタ問題ですが、私が個人的に気になる問題としては上記のようなトヨタの問題についてです。トヨタとくれば日本の稼ぎ頭といって間違いないのですが、その一方で今日の記事の結論でもありますが日本経済の最大の問題点であるデフレの主因ではないのか、そのような不信感を強く抱いています。
 
 トヨタは現在アベノミクスの追い風を受けて今年9月期の中間決算で過去最高益を記録するなど絶好調が続いています。しかし世間の景況感は未だ悪いままで、しかも過去最高益のトヨタの下請けに至っては上記ロイター(ネタ元は帝国データバンク)のニュースによると7割がリーマンショック前の売上げに回復しておらず、残り2割も「横ばい」と答えるなど全く恩恵を受けていない状態にあるようです。
 それもそのはずというかトヨタは下請け企業に対してほぼ毎年、部品製品のコストダウンを要求しており、その要求値下げ率も大体三年くらいのペースで数十パーセントという、言ってはなんですが途方もない数字をさも平気そうに言ってきます。過去最高益を記録した今年もまた同じくらいのコストダウンを要求しているというような情報をちょっと耳にしたのですが、調べてみたら上記リンク先のニュースにも乗ってますがさすがに今年は多少空気を読んだのか一切のコストダウン要求はしないという方針をトヨタは発表しています。もっとも、冷静に考えるとこれもおかしな言い方にしか聞こえてこないのですが。
 
 というのもトヨタはリーマンショック以降の過去数年間、円高による海外市場の苦戦とやらを理由に下請け企業に対して厳しいコストダウンを要求し続けてきました。これを現在の状況に置き換えるなら、大幅な円安に転じたのだから今まで散々安く買い叩いていた部品の値上げを認めるのが筋じゃないのか、こんな風に思え「今年はコストダウンを求めないよ」なんていうのはちょっとふざけた言い方にしか聞こえません。それに多分、コストダウンを求めないのはあくまで今年だけの話であって、来年はまたいつもの如くコストダウンを要求するのが目に見えています。
 
 ここで私が何を言いたいのかというと、順調に増益に次ぐ増益を達成しているにもかかわらず異常ともいえるコストダウンを連年下請けに課しているトヨタは紛れもなく下請け企業の利益を吸い取っており、ひょっとしたらトヨタこそがデフレを加速させている主要な要因じゃないかとこの頃強く思えてきました。またトヨタのコストダウン要求は明らかに業界における強い立場を利用しての行為であって、小売企業に対し消費税還元セールを独禁法で禁止するくらいならトヨタのコストダウンも独禁法でそろそろしょっ引くべきではないでしょうか、本気でデフレ対策をしようというのであれば。
 
 ちょっと気になったので現在の日本国内の自動車販売台数シェアをこのサイトを参考に調べてみましたが、今年1~11月の軽自動車を除く販売台数シェアだとトヨタは45.2%を占めています。これに実質的にトヨタ傘下であるスバルの3.8%を足すと49%に達しており、さらに軽自動車では同じく傘下のダイハツが単体で30.5%を占めており、こう言ってはなんですがもうそろそろ独禁法かけてもいいくらいのシェアじゃないかと思います。
 トヨタが大した企業であることは認めますが、その無茶なコストダウン要求振りは日本国内の経済を歪な形にさせているように見え、何かしらの形で締め付ける必要があるのではと言いたいわけです。本当の意味でアベノミクス(の目指そうとしているもの)を成功に導くためにも、トヨタを叩くことこそが今大事なように思えます。それこそ狙い撃ちにするような形となってでも。
 
 最後にもう一言だけ書いておくと、かつては画期的な経営手法と言われていたトヨタの「カンバン方式」ですが、ここ数年は経済誌などでもすっかり目にすることがなくなりました。そのきっかけは間違いなく東日本大震災によって起こった生産停止で、あれでこの方式はただ単に不測事態の在庫を一切持たないだけのノーガード戦法に過ぎないということが露呈したからでしょう。これに限ることではないけど、日本人は全体として起こってほしくな自体は起らないことを前提に物事を計画するので緊急時となると異常に弱くなりがちで、いい加減、二次大戦の頃の反省を生かせばいいのにとつくづく思います。

2014年12月22日月曜日

STAP騒動の顛末について

 もはや詳細は語るまでもなく論評だけ書くことにしますが、先週理研はSTAP細胞の再現実験が失敗し、研究を打ち切ることを発表しました。この結果自体は初めから見えていたことで特に驚きもなく、小保方氏の処遇についても本人から辞職願があったのでそれを認めたということも予定調和と言える気がします。その上でこの一連の騒動を総括するなら、2014年はアベノミクスよりもイスラム国よりも、小保方晴子氏とSTAP細胞の一年だったと思えるくらいにこの事件はインパクトがあったという気持ちを覚えます。
 
 この事件の何がすごいのかっていうと、ちょうど一年間で栄光から凋落まできれいに完結できている点です。今年一月末に英科学誌ネイチャーでの論文発表によって一躍「リケジョ」の星だなんて持て囃されたかと思えば4月ごろには研究内容を疑問視する声が出ると共に過去の論文盗作疑惑が噴出し小保方氏も会見に出るなど情報が錯綜する中、再現実験はなかなかうまくいかず8月には理研での上司に当たる笹井氏が自殺し、そして今月12月にはやっぱり作れなかったという幕切れとなります。
 ちょうどこの2014年の一年間を通して定期的に物事が動いていったため終盤までニュースとして腐らず飽きられず、その上でたった一年で「ノーベル賞候補」とされた存在が「疑惑の研究者」として研究現場から離れるというハイスピードな展開振りで。佐野眞一氏のような言い方をするならばその流転っぷりは人として何とも言えない魅力があります。それこそ「オボカタ 奴の正体」みたいな連載記事とかもあってもいいかもしれませんし、もしこんな連載あったら自分も毎週読んでみたいです。
 
 もちろん冗談ではありますが歴史の教科書に、「2014年:小保方の乱」みたいに書いたっていいくらいこの一連の騒動は日本国中、ひいては関連する研究業界に、内容はどうあれ、過去に例のないくらい大きなインパクトを与えた事件だったと思います。何故それほどのインパクトを残せたのかというと、STAP細胞という存在してたら本当にとんでもない価値を持つ研究であったことは元より、過去から現在に至るまで疑惑に満ちた研究人生を送っていながらあくまで自分はシロだと言い続けた小保方氏のキャラクター性があったがゆえといえるでしょう。
 
 このブログでも何度かこの事件は既に記事化しておりますが、過去の記事ではさすがに人格批判になるかもと思ってはっきりとは書かなかったものの、彼女の言動を見ていると明らかに矛盾した内容を口にした上で問題に核心については曖昧に口を濁すなど確信犯的な態度もみられましたが、その一方で自分の嘘を自分自身で本気で信じ込んでいるような、一番厄介な虚言癖を持ってそうな雰囲気を感じました。近いタイプを挙げると鳩山由紀夫元首相もそうでしたが、小渕優子議員や渡辺善美元議員のように人間は嘘をついているような痛い所を突かれると一瞬、「うっ」というような苦しむような表情や詰まったような返答をするのが自然ですが、小保方氏は会見でそういう面を一切見せることはなく、それでいて核心はきちんとはぐらかしてくる点が良くも悪くも常人とは異なるという印象を覚えました。あの佐村河内ですら会見では苦しそうな表情や強がるような素振りを見せていたというのに。
 
 今後の理研はどうなるのか、小保方氏は今後どうなるのか、芸能界入りか?、などがこの騒動に対する現在の主要な議題でしょうが、私自身は逆にこの議題はあまり興味がなく、むしろ一連の騒動の展開とどれだけ多くの日本人の興味をかっさらってったのかという影響を考え分析する方に興味があります。まぁ事件の影響と言っても大きいのはやっぱりアカデミックに対する影響で、この事件以降は早稲田大学以外でも論文の盗用があちこちで明るみに出るなど、ちゃらんぽらんな論文審査が現場で続いていたということに対し一石を投じたのは間違いありません。なおアカデミックに対しこれほど大きなインパクトを与えた事件となると私の中では2000年の旧石器捏造事件くらいしか浮かばず、十年に一度くらいのペースと言えるくらいの大きな捏造事件だったのではと思います。
 
 もう一つ書きたいことを書くと、冒頭にも書きましたがNHKは「リケジョ」という単語をもう一回使ってはくれないのかなと皮肉っぽく思います。もはやこの言葉は小保方氏の枕詞としてしか機能せず、普通に理系学部に通う女性に対して「リケジョだね」なんて言ったら嫌な顔されること間違いなしでしょう。この「リケジョ」という言葉といい、「鉄子」とか「歴女」、「カープ女子」など、本当に一瞬で終わるような流行り言葉を女性に付ける風潮が実は非常に嫌いです。理由は簡単で、そもそもこれらの言葉が女性に冠せられるほど流行していないのと思うのと同時に、試用期間が一瞬ですぐに廃れるなど言葉として軽すぎる印象があるからです。ですから私としてはSTAP騒動に懲りずマスコミ各社はもっと「リケジョ」という単語を連発しまくって流行らせるよう、普及するよう努力するべきだしそれが彼らの責任だと私は思います。そんな責任被りたくないというのなら無用な言葉を作るなんて馬鹿なことをするべきじゃないと言いたいです。
 それにしても、「リケジョの星」は一瞬で、まっさかさまに流れて消えてったなぁ。
 
  おまけ
 「歴女」という言葉がありますが、今の今まで自分が及第点を出すほど歴史知識をちゃんと持っている女性は私は見たことがありません。何も世界史、日本史両方の基礎知識が出来る水準まで求めるつもりはありませんが、せめてどっちかの現代史位は把握してもらいたいのが本音です。「死のう団事件」とか解説できる女性がいたら一発で惚れるんだけどなぁ。

2014年12月20日土曜日

「司馬史観」の影響と現状

 
 上記のニュースは先月、作家の司馬遼太郎の夫人にあたる福田みどり氏が亡くなったことを報じたニュースです。このニュースを一目見た時にパッと私の頭に思いついたことは、「そういえば『司馬史観』という言葉もすっかり聞かれなくなったな」という思いでした。
 
 司馬遼太郎について説明する必要はないでしょうが昭和を代表する人気歴史作家で、河合継之助など彼が小説に書いた影響で一躍人気となった歴史上の人物が数多くいるなど現代においても計り知れない影響を与えた人物です。先に白状すると私は彼の小説だと「太閤記」しか読んでおらず、中学生時代に名古屋に左遷されたうちの親父からこれ読めあれ読めと勧められつつもなんかはまることが出来ず現在においてもほとんど全く手に取っておりません。もっともよく人に驚かれるくらいに普段から本を読まない性質であるのですが……。
 
 そんな大作家、司馬遼太郎の影響力を示す言葉として上記の「司馬史観」という言葉があります。この言葉は司馬遼太郎の小説で語られる歴史の見方でもって各歴史的事件や人物を評価しよう、分析しようとするような見方で、どちらかと言えば影響を受けた読者たちが持った歴史観として使われます。この言葉自体はさすがに昭和期を一桁しか生きていないためどのように発生したのかライブで見ていないためわかりかねますが、少なくとも私が子供だった頃は社会に定着して、この司馬史観に則って実際の歴史を評価しようという動きは確かにあったように思われます。
 具体的に述べると一番大きく取り上げられていたのは日露戦争以前と以後の日本に対する評価で、「坂の上の雲」で日本は日露戦争まではまだまともだったがそれ以降は列強になったという驕りを持ってしまいその後の二次大戦に至るまでの暴走を始めたという考え方を描いた、とするのが司馬史観を代表する歴史観だとして、90年代末期なんかは戦前の日本の行動を肯定的に見る右翼などから批判されていたのを一緒になって批判していた右系少年だった自分が見ています。まぁ今となったら「日比谷焼打ち事件」が確かにターニングポイントだったと思えてきたが。
 
 ただこうした司馬史観は司馬遼太郎本人を置き去りにして広まっていったというのが本当の所のようで、ウィキペディアの記述を信用するなら本人は特に明確な思想でもって小説を書いて行ったわけでもないそうです。また自分の記憶する限りだと本人がこの司馬史観について言及したり歴史観をインタビューで披露するようなことはそんな多くなかったことから独り歩きすることにあまりいい気はしてなかったんじゃないかなと勝手に考えています。まぁ思想というのは一人歩きするから思想と呼べるのですが。
 
 あと司馬史観からちょっと意味が離れるもしれませんが、彼が小説で面白くするために書いたフィクション部分がその影響度の高さからさも歴史事実のように世間で受け止められてしまうということも非常に多かったです。一例をあげると「国盗り物語」で、現代においては一介の油売りから美濃を乗っ取った斎藤道三とされる人物は実は一人ではなく、実際には親子二代の乗っ取り劇だったということがほぼ確実視されていますが、当時の研究のせいもあるでしょうがこれを小説では一代記にして書かかれたために現代においても斎藤道三は一人と見ている人が多数であると思えます。
 ある意味で人気作家であったために起こった弊害と言えますが、彼の小説は歴史事実に対して基本的には即しておりフィクションとノンフィクションがわかり辛いことは確かです。また今のようにインターネットがなく最新の史料研究を知る術がないことを考えると、「司馬遼太郎の小説に書かれているから事実だ」とかんがえるような、一つの司馬史観が流行るのも無理ない気がします。
 
 そろそろ話を戻しますが、現代において司馬史観がどうだこうだという論争はおろか、彼の小説に書かれていたから実際の歴史はこうだ、なんていう主張はここ数年全く見ることはありませんでした。それどころか彼の小説タイトルが話題に挙がることもほとんどなく、逝去からそこそこの時間が経っているとはいえ90年代の頃にあった隆盛ぶりと比較すると隔世の感があります。それこそ90年代ならば、「司馬遼太郎を読まずして歴史ファンとは言えない」というような風潮も感じられ、周囲から何度も薦められていただけにちょっと変わり過ぎではとまで思えてきます。
 
 その上で現代について述べると出版不況を象徴するかのようですが、世の中を動かすくらいの大ヒットする誰もが読むような歴史小説はとんとなくなりました。強いて挙げれば塩野七生氏の「ローマ人の物語」とかくらいで、歴史小説自体がやっぱいろいろ厳しい時代になってきているのかもしれないとともに、ある意味そういうのに盛り上がれる時代だったのかなと振り返りながら思います。

声を失った酒田市長に対する辞職勧告案について

 またなんか香港で動きがあったのか知りませんが今日の夜の時間帯はやけにVPNが繋がり辛く、あれこれしこ錯誤しているだけで位時間も費やしてしまいました。仕事をするなら最高の環境で、と言いたいところですがそんなのは甘えであって不利な状況下で必要とされるパフォーマンスを発揮してこそ一流だという自負がありますが、さすがにネット環境くらいに関してはもうちょっとマシな状態になってもらいたいのが本音です。「企業居点」の方も前は中国のネット回線で作業できましたが、十月くらいから締め付けきつくなってVPNでしか作業できなくなったし。同じWordpress使っている後輩も同じ状況なようで、二人で一緒にため息ついてました。
 ついでに書くとやや説教くさいですが、日本のジャーナリストが政府の規制とか情報統制とか抜かしているのを見ると本気で腹立ちます。数メガバイトの写真ですらまともに送信できない中国で仕事してからもう一度言ってみろと胸倉掴みたくなります。

 一通り愚痴ったところで本題ですが、私以外にも取り上げている方も多いのでスルーしようかとも考えましたが一応記事化しておこうと思います。内容に関しては大きく取り上げられているので知ってる方も多いでしょうが、咽頭がんの手術で声帯を失い、人口声帯を使用している山形県酒田市の本間市長に対し、同市の市議会会派「市民の会」とやらに所属する武田恵子委員が業務に支障をきたすという理由でもって辞職勧告決議案を提出しようと他会派に働きかけていたそうです。もっともこの働きかけは他会派が応じなかったことで流れましたが、この武田委員の行動に対してネット上では極端な行動だとして批判する声が上がっており、また障害者差別に当たるのではと同じ病気を抱える人たちの団体などからも問題視する意見が聞かれます。
 結論から述べると私もこの武田委員の行動は理解できず、逆にこの人に対して辞職勧告案を出すというのなら理解できます。

 武田委員は声が本間市長の声が聞き取り辛いという理由でもって辞職すべしと主張しましたが、ほかの記事でも書かれている通りに聞き取り辛いのであれば聞き取りやすくする方法を探すのがまず第一でしょう。それこそ市長の傍に立って市長の話す内容を復唱する人間を置くなり、パソコンを使って入力した言葉を発声させる方法などいくらでも対策は浮かびます。そうした手段をすっとばして選挙を経て選ばれる市長をいきなり辞職させようだなんてせっかちを通り越して何を考えているのかその無神経さを疑います。しかもこの人の一番わからない点は、こんなすっ飛ばした考えをほかの人間にも平気で口にした上で実際に発議まで持っていった点で、自分が批判されるかもしれないとは思わなかったのか、よくそのような迂闊さで今まで大過なく過ごしてこれたものだと呆れます。

 人口声帯が無くては声が出ないというのはハンデと言えば確かにハンデで、政治家にとって支障がないかと言えば全く支障がないとは言えません。仮にこういうことが中央政府の総理や大臣職などにいる人物に起これば外交や行事参加などの影響を考えると私も辞職もやむを得ないかと思いますが、地方自治体の首長レベルであれば周囲の理解とバックアップさえあれば特に問題はないと思います。またこうした障害を持つ人間もいるのだということがある意味大きく顕示されるので同じ障害を持つ方たちへの理解の広がりにもつながると思えるし、個人的にもハンデを持ちながらもそれに対応していこうという人は応援したくなります。それだけに障害を持った本間市長に理解を示さないどころか一方的に排除しようと動いた武田委員は私からすれば共感の持てない人物であるように思え、議員としてあまりいてもらいたくない人物だと言いたくなります。

2014年12月18日木曜日

どうでもいい近況

 
 上の写真はまたネットで拾ってきた猫写真ですが、そのあまりの構図にびっくりするとともにはまってみてます。写真って奥が深いな。
 
 さて今日はSTAP細胞か市民の会かについてでも書こうかとも思いましたが、ぶっちゃけ寒くてやる気が出ません。昨日よりかは大分マシですが妙に眠いのと寒くて手がかじかむので重たいテーマは書きたくないのが本音です。眠たいのはいつも夜中三時くらいにパッと目が覚めちゃうのが原因かなぁ。
 なもんだからどうでもいいこと書こうかと思い立ったわけですが、今日仕事場で革命的な出来事が起こりました。どんな出来事かというと、暖房が突然直りました。
 
 自分の仕事場にはもちろん空調があるのですが夏場の冷房は機能していたものの何故か暖房は機能せず、昨日まで従業員みんなでコート着ながら仕事してました。もうこんなん我慢するとこちゃうと思って自腹切ってもいいから直そうよと上司と同僚に話したところ、「去年も一昨年もこれで越冬できたから大丈夫」とアザラシみたいな回答されたものの、ひとまずフィルター掃除してみようとという話になり、フィルター掃除したらあっさり直りました。恐らく、フィルターのつまりで風が届かないかなんかで暖房スイッチが機能しなかったのではとみんなで相談しています。
 これで仕事に集中できると思いましたがいつも震えながら作業していたこともあり、急にあったかくなったので眠気を覚えるなどあんま集中できませんでした。まぁずっと英文の規格書眺めてたのも影響してるだろうが。
 
 プライベートの方では今日、「監獄学園」という漫画の最新刊がKindleで発売されているのを知って先程ダウンロード購入しました。いつも通り期待を裏切らない面白さでしたが、実は昨日にも同じくKindleで「ウィッチクラフトワークス」の三巻を買うなど散財が続いています。
 監獄学園についてはレビューはいいですが、ウィッチクラフトワークスは日本の本屋店頭に並んでいた表紙を昔に見ており、当時は「また典型的な萌え漫画だろうな」と思って意に介しませんでしたが、去年に公開されたアニメを試しに見たところキャラクターの設定や性格が面白く、萌え漫画として切って捨てるにはもったいないと思って漫画喫茶で全巻読んだ後、今ちょこちょこ単行本を買い揃えています。
 
 大学生だった頃、自分とそりの合わなかった指導教授(何か指導を受けた覚えはないが)がある日、「そもそもかわいいって概念はなんやろな」とつぶやいたことがありました。言われてみるとかわいい物は溢れているのに「かわいい」を定義するのは難しいと自分も感じたのですが、このウィッチクラフトワークスを読んでると「かわいいとはまた異なるかもしれないが、ファンシーという概念はこの漫画が最も的確に表現しているのでは」なんてつくづく思います。既に読んでる人には早いですが、作中では魔女がたくさん出てくる上に熊や兎のぬいぐるみがしょっちゅう巨大化して戦ったりしていて、そのデザイン性は読んでて現代の漫画家の中でも図抜けている、というよりよくこんな多才な絵柄を描けるもんだと驚かされます。
 ファンシーとは離れますがこの漫画で何よりすごいと思うのは背景です。連載が始まったばかりの一巻の頃はまだそうでもないですが、二巻以降はどのページも異常な奥行感とともに背景が割合びっしりと描かれています。それでいて人物の描画は崩れないのですから、どういう見方で世界を見ているんだとこの点でも驚かされます。もっと早くこの漫画に注目できていればよかった。
 
 最後これは予告も入りますが、最近読んだ漫画の中では「もっけ」という漫画が最も面白いと感じ、こちらに関してはそのうちレビュー書きます。この「もっけ」は既に連載を終えていますが、こちらこそどうして連載中に手を取らなかったのだ俺はと心底後悔するほどよくできた漫画です。中国にいながらこういうこと書ける環境になったのも、素直にうれしいものです。

2014年12月17日水曜日

日本と中国の妙なコーヒー事情

 今日また知り合いの中国人に日本語を教えるためケンタッキーに長居しましたが、日本人はクリスマスにケンタッキーを食べる習慣があるのだよと教えたら中国人はどんな反応するのかちょっと気になりました。ちなみに先日同僚に、「クリスマス近いけど、このハイトゲージに取り付けられるダイヤルゲージをサンタさん持ってきてくんないかな……」と、製品検査しながら妙な愚痴をこぼしました。あと望むらくならキーエンスの最新式ビッカース硬度計も欲しい。
 
 そういうわけで本題ですが、今日はケンタッキーでコーヒー飲んできたのでコーヒーの話か来ます。コーヒーというと日本では最近だと100円払えばコンビニでもそこそこいいコーヒーが飲めるようになり非常に身近な飲み物となっていますが、中国では大都市を除いてまだまだコーヒーを飲む習慣自体がありません。上海なんかだと日本同様に各コンビニチェーンがコーヒーをそれこそ一杯100円くらいで販売をしてますが喫茶店とか行くと20~30元(400~600円)くらいして、ほかの物価と比較すると何となく高い買い物している気がします。
 とはいっても以前と比べるなら物価水準に比してコーヒーの価格は下がってきており、たとえば私が北京に留学していた2005年などはチャーハンが一皿5元だったのに対してコーヒーは今と同じ30元くらいで、「この一杯がチャーハン六皿分か……」と思うといたたまれなくなりました。今だとチャーハンも7元はするようになって、以前に比べれば差は確実に縮まってきています。
 
 話は戻って中国のコーヒーについてですが、日本では一般的なコーヒーを頼む際は「ブレンドコーヒー」とオーダーします。しかし中国には「ブレンドコーヒー」という呼称は存在せず、「普通のコーヒー」といってもちょっと通じ辛いです。ではどのような呼ばれ方をしているのかですが大まかに二種類あり、一つは「経典珈琲」という、敢えて日本語訳するなら「クラシックコーヒー」という呼び方があります。これに対してもう一つの呼称は「美式珈琲」で、この「美式」というはどういう意味かと敢えて言うなら「アメリカン」、そう「アメリカンコーヒー」と言うと中国ではブレンドコーヒーが出てきます。なおアメリカの中国語は「美国」です。
 
 日本人からしたら「アメリカンコーヒー」というと通常のコーヒーをお湯でやや薄めたコーヒーを指しますが、中国では何故か普通のコーヒーを指します。ただそもそもの話、アメリカに「アメリカンコーヒー」なんてものはなく、この言葉自体が日本の造語でもあります。一体何故かこの日本人は薄めたコーヒーのことをアメリカンなんて言い出したんだろう。
 昔喫茶店でアルバイトしていた時にこの話題が出てきて、折角だから対になる言葉を作ってはどうか、たとえばめちゃくちゃ濃いコーヒーを「アフリカン」と呼んではどうかと私は提案してみましたが、「それ普通にエスプレッソやん」とツッコまれました。むしろエスプレッソをこれから「アフリカン」と呼ぶべきだなんて思うのはきっと私だけでしょう。ブラックな感じが如何にもアフリカっぽいイメージなんだけど。
 
 最後ほんとどうでもいいことですが、中国ではスターバックスが進出してからまともなコーヒー需要が出てきたこともあってスタバが主力とするエスプレッソやカプチーノの方が人気高いように思います。そのカプチーノですが中国語の発音だと「カァプチィルォ」みたいな発音になるため、発音する度に物凄い違和感を感じるので敢えてオーダーせずいっつも「美式珈琲」を頼んで飲んでます。なおマクドナルド、ケンタッキーのコーヒーは日本も中国もほぼ同じです。

2014年12月15日月曜日

浜口雄幸にまつわるエピソード

 またどうでもいいですが前髪が長くなってきたせいで非常に気になります。基本自分は髪型に一切のこだわりがなく「伸びたら切る」の精神でもってきっかり三ヶ月ごとに一回、年四回だけ理髪店に行きますが、中国の床屋だと頼みもしないのに勝手にパーマをかけ始めたり、田舎出身の理髪師が多くて自分の標準的な中国語が通じなかったりするのであまり行きたくありませんが、来週あたり腹くくっていかないとなぁ。海外生活で困るのは一に食事、二に床屋、三にカレーだと思う。
 そういうわけで本題に入りますが、このところ日本史ネタをほとんど取り扱ってないのでパッと書ける浜口雄幸に関する話でも紹介します。
 
浜口雄幸(Wikipedia)
 
 浜口雄幸とは大正から昭和初期にかけて活躍した政治家で、政党政治を徹底して貫いた上で総理にも昇りつめた人物です。名前が「雄幸(おさち)」と一回聞いたら大体一発で覚えられそうな特徴的な名前をしていますがこれには実はわけがあり、生まれた当初に両親は彼の名前を「幸雄」と名付けようと思ってたところ父親が出生届を出しに行く時に酔っぱらったまんま出かけちゃったもんだから、届けに書く名前をあべこべに書いて「幸雄→雄幸」となってしまったそうです。いい加減にしろよこのクソ親父と思いたくなるエピソードですが、こんな親の下でも総理になれるんだから親は無くとも子は育つもんだなぁ。
 
 浜口雄幸は幼少時から秀才であったことは間違いなく、地元高知の学校を卒業した後は東大に進学してそのまま大蔵官僚になります。その官僚時代に割と人材コレクターな気のある後藤新平に目をつけられて引っ張られる形で政界入りし、所属する憲政会の中でもその謹厳実直な性格が周囲に受け入れられていき徐々に有力議員として周囲からも目されるようになります。
 昭和四年(1929年)に起こった張作霖爆殺事件について天皇から叱責を受けた田中義一内閣が退陣すると、その後継として当時憲政党の総裁であった浜口雄幸に組閣の命が下ります。こうして発足した浜口内閣はやっぱり浜口自身の人望が高かったこともあり高い人気でありましたが、時は昭和恐慌の時代であったため民衆が彼に求めたのは現代同様に経済の立て直しでした。
 
 経済を立て直すに当たって浜口は蔵相(この言葉を使うのに懐かしさを覚える)に任命した井上準之助と共に金本位制の復帰を強行し、そこへニューヨーク発の大恐慌が襲ったことから景気はそれ以前よりも一層厳しい状態を迎え、文字通りデフレスパイラルに入ってしまいました。この金本位制の復帰は実施当時であっても経済政策として間違っているなど批判にさらされており、現代の分析においても逆行させる悪手であるとの評価が多いです。私自身の考えも同様で、浜口、井上の人格はともにしっかりしたものだし信頼に足るような人物ではあったものの、経済政策に関しては弁解のしようがありません。特に井上の後を引き継いだ高橋是清が全く逆の政策でもって一気に金融を立て直した実績と比べると尚更です。
 
 その後の浜口ですが大方の人間も歴史の時間で学んだ通り、最終的に右翼青年によって暗殺されます。この暗殺劇ですが銃撃されて即死亡したわけではなく、襲撃直後の浜口は一命を取り留めておりました。しかし当時は政党政治が悪い意味で発達し始めた時代で、野党の立憲政友会はこれこそ政権奪回のチャンスとばかりに総理の浜口のいない間に散々あることないこと批判を行った挙句、「総理、怪我したとか言い訳してないで出てこい」とばかりに攻撃し、これに応える形で治療中の浜口は無理をして国会に出席する日もありました。しかしその代償は大きく、出席してからというもの浜口の容体は悪化して総理の職からも引きましたが時すでに遅く、襲撃から9か月後の1931年8月に逝去します。
 
 なおこの時に激しく浜口の登壇を求めたのはほかならぬ鳩山一郎でした。また浜口を襲った人物は襲撃理由を浜口内閣が統帥権の干犯を犯したからだと主張しましたが、「統帥権の干犯とはなんだ?」という警官の質問については何も答えられなかったそうです。
 これも知ってる人からしたら有名ですが、「統帥権の干犯」という言葉を生みだしたのはほかならぬ鳩山一郎でした。ぶっちゃけいこいつさえいなければ浜口雄幸も死なずに済んで、その後の軍部の暴走も起こらなかったんじゃないかなと思えてきます。また浜口を襲った襲撃犯についても、いつの時代も下らない人間ほどどうしようもないことをしでかすものだと、現代にありながらこの人物に対して見下げた感情を覚えます。

2014年12月14日日曜日

今回の総選挙について

 今日は朝から右目の奥が痛いと思って目薬さしてましたが昼過ぎに眼球というより頭が痛いことがようやくわかり、おかゆ食べてから頭痛薬のんでほぼずっと寝てました。体調悪くなるのも久々だなぁ、パーカーだけという薄着で走り回ってるせいかな……。
 
 話は本題に入って選挙の話。今回の選挙ほど評論や解説のしようのない選挙はかつてないと思いますが結論から述べるとなるべくしてなった結果で、自公大勝というのは当然と言えます。むしろ逆に何故民主党は負けたのか、敗因があまりにも多すぎて何が一番重かったのか順位付けするのがかえって難しいです。
 それでも敢えて一番大きな敗因を挙げるならば、海江田党首を早くに下ろさなかったことが根本的な原因ではないかと思います。民主党内にはほかにまともな人材がいないのもよくわかりますがそれにしたってこの人の無能ぶりは際立ってて(中国語はそこそこうまいけど)、今回の選挙同様に前回選挙でも小選挙区では落選してたんだし、資格なしということで早くに貴って別の人立てていたらまだ違ったんじゃないかという気がします。その民主党ですが選挙中、というより選挙前からもそうですが何も政策討論というか政策対案を出さず、こう言ってはなんですが政策で争うのではなく失言などのスキャンダルで与党と争っていたようにしか見えません。有権者もさすがに馬鹿じゃないんだからその点をちゃんと見ていて今回のような結果を生んだ気がします。
 
 むしろ今回の選挙結果で注目するのは、昨日の時点で敗北宣言をしていましたが橋下大阪府知事率いる維新の会の低迷でしょう。一時期はあれほど勢いがあったというのにわずか二年程度でこれほどまで力をなくすというのは際立っており、その要因を探ることは絞殺の価値がある気がします。まぁこの問いに答えるのは簡単で、橋下府知事自身が迷走をというか迷言をやりだした上に維新の会メンバーに普通の感覚すら持ち合わせていないおかしな人材が選出されて徐々に支持を失っていった結果であるのですが。
 
 選挙後の展開ですが解説するのもばかばかしいくらいにこれまで通りと言えるでしょう。せいぜい言えば自公で三分の二の議席を握れるのだから国会運営がこれまで以上にスピーディに捗るようになる程度です。しかし政治運営に関してアベノミクスはほぼ完全に行き詰っているので景気が好転する可能性はほとんどなく、安倍首相の支持率が劇的に下がることはないでしょうがかといって大きな進展は期待できないでしょう。
 それに付随して言えるのは、そろそろ安倍首相の後継者について考え始めなければいけない時期です。特に2020年の東京五輪を控えているだけにどの首相がこれを担当するのかはよくよく吟味して選部必要がありますが、目下の所で世代的にこれという有力候補がいないというのが今の自民のお寒い所です。知名度で言えば小泉進次郎議員が圧倒的ですがさすがに彼の年齢だとまだ若すぎるきらいがあり、彼より一世代上の世代で安倍首相は後継者を作る必要があると言えます。まぁ私の中には意中の候補は既にいますが、石破議員なんかは年齢的にも能力的にももう厳しいのだからそろそろ控えたらと促したくなります。
 
 
 最後に上記のニュースについて、「お前はもう黙ってろ」と言いたくなりました。

2014年12月13日土曜日

死ぬ覚悟のない人と

 見る人が見れば一発で出典がわかるでしょうがある漫画のセリフにこんな物があります。
 
「人はみんな自分は死なないと思っている。いつか命が尽きることを頭では理解していても、それは今日や明日じゃないと思っている。だけど死ぬ。今日も死ぬし明日も死ぬ。事件で事故で病で偶然で寿命で不注意で裏切りで信条で愚かさで賢さでいつだってみんな死んでいく」
 
 ここだけ引用すると陰気感いっぱいな内容で終わってしまいますが一応この続きには、「そんな中、女の子のために死ねる僕は残念ながら幸せだ」と続いて漫画の中ではいつも通りの少年漫画な展開が続きます。もともとこのセリフをしゃべるキャラクターは名言の多いキャラクターでありますが、背景なしで理解できるセリフとしてはこのセリフが最もよく出来ているのではと個人的に思います。
 というのも私自身、このセリフの通りに普通の人はまさか明日死ぬなんてまず考えないどころか、1ヶ月後、1年後、5年後、10年後、100年後に死ぬかもしれないという可能性を全く考えることはなく、直接死が差し迫る病気なり怪我なりしない限りは死を意識しない、と思うからです。その一方で他人が死ぬ可能性については意識というか考えることができ、敢えて表現するとしたら「他人の死は認識できても自分の死は認識できない」、というのが圧倒的大多数の人間に共通する特徴だと思います。
 
 またサブカル媒体からの引用となりますが、ホラー(?)映画の「SAW(ソウ)」という映画なんかまさにこの概念をテーマにした作品と言えます。「超映画批評」の前田有一氏をして「世界一おせっかいな殺人鬼」と呼ばせたこの映画に出てくる殺人鬼「ジグソウ」は、自殺を企図して実行したものの未遂に終わって生き延びるのですが、この自殺未遂によって死を覚悟してから世界の見方や価値観が変わり、かつての自分の中にはなかった生きることへの喜びを知ります。そしてこの生きる喜びをほかの人にもぜひ伝えたいと考え、麻薬使ってたり不倫してたり詐欺してたりなどと生を冒涜するような行為をしている人間を片っ端からとっ捕まえては、制限時間内に腕とか足とかの人体パーツを切断しないと死んでしまうゲームにかけたりします。やり方はどうあれ、死を意識することによって生きることの大切さがよくわかるようになるという考えは理解できないわけではありません。
 
 実際に癌などの不治の病にかかった人たちの証言を聞いても同じように、終わり(=死)を意識してから生きていることそれだけに感謝できるようになった、世界の見方が変わったなどという話が多くあるようにみえます。では何故、死の間際というかおおよその死期がわかってからこのように価値観が変わってくるのか、答えは最初に書いたように普段生きている間は死ぬことなんてまるで考えないからです。死ぬと言ってもそれは自分以外の他人に起こることで、頭では自分もいつかは死ぬとわかっていてもその事実に直接目を向けることはなく、むしろそむけることによって一種、自分が不死であるように考えて普通の人は普段生活をしているのではないかと思います。逆を言えば、差し迫った理由もなく常に死を意識している人間は確実にマイノリティであり言ってしまえば上記の殺人鬼ジグソウ同様に異常者と言ってもいいと思います。
 
 そんな私に言わせるならば、ジグソウほどではないにしろみんなも死というものから目をそむけず、ほんの少しでもいいから意識をした方がただ生きているだけの日常にも張りが出るのではないかと考えています。普段から死を意識するなんて日本社会で公言したら陰気だとか暗いとか言われるでしょうが、私に言わせれば全く目を向けないのは陽気を通り越した能天気ではないかと言い返したいわけです。それほどまでに死を覚悟しているか否かというのは人間性にとって大きな差になると思えます。
 
 私の体験談で話すと、さすがに明日死ぬかもという水準にまでは達しませんでしたが、このブログを見ていればわかるしょうが昔からやたらと攻撃的な性格をしていてケンカも多かっただけに十代の頃は二十歳になる前にくだらないケンカで死ぬだろうと考えて、それまでに積み込めるだけ知識を積み込もうと思って自分が興味を持つ対象をひたすら追っかけました。そしたら予想に反して二十歳を越えちゃって、しょうがないからこれからはボーナスゲームだと思ってとりあえず次の目標を三十に設定した上で、それまでにやりたいと思うことを全部やろうと思って中国行ったり記者になったり会社作ったりしました。そしたらまた予想に反して三十歳越えちゃったので、この頃は早くお迎え来ないかなと思いつつとりあえず支援の必要な友人に出来る限りの支援をしながら、さしたる目標もないまま培った知識の記録をつける日々を送っています。
 
 自分と普通の人を比べるならば、最も特徴的な点として行動力と決断力の違いが確実に挙がって来ると思います。実際に周囲の人からも、「何故手持ちの安全パイを切らない」としょっちゅう言われますが、「どうせミスっても死ぬだけ」というか多少は死んでもいいという妙な覚悟があるからこそこの二点においては図抜けた水準に至ったのではないかと自分も思います。何も自分のような生き方をしろとまでは言うつもりは全く有りませんが、今日と同じような明日が来るとは限らないのだしやりたいと思うことを今すぐやろうとする姿勢があった方が生きてて面白いし、失敗しても何もしなかった時ほど後悔はしないような気がします。
 
 こうした死を意識することの重要性を現代社会で比較的訴えていると思うのは言うまでもなく仏教ですが、宗派によっていろいろ考え方は変わって来るように思えます。さすがに自分の価値観がどの宗派に近いかまではわかりませんが、中国の陰陽論の如く光があるから影があり影があるから光があるように、生があるから死があり死があるから生があるといってもよく、生にばかり固執しても駄目だし死にばかり考えをとらわれても駄目で、両者をバランスよく見るような姿勢こそが一番大事であると高校生くらいの頃からずっと考えてきました。
 その私からして現代人は生に対する固執がやや強過ぎるように見え、死に対する意識を喚起する必要があるのではと思えてくることから、こういう一見すると根暗な記事をわざわざ書こうとするわけです。

2014年12月12日金曜日

しっくりこない今年の漢字一字

 今日は上司が日本帰国中ということもあり、普段はローカルスタッフの車に便乗して出勤している所を自転車に乗っていきました。朝早く(午前7時台)だとやっぱ寒かった、でもって昼飯までの間は腹減ってきつかったってところです。ちなみに運転時間は片道30分。
 
 
 そんな私の個人的事情は置いといて本題に移りますが、例年京都の清水寺で行われている今年の漢字一字が今日発表され、揮毫された漢字はなんと「税」でした。この結果について正直な感想を述べると、「あれ、『嘘』じゃないの!?」と違和感を覚えました。
 一応、「嘘」という漢字も三位には入っていますが、それにしたって「税」という漢字が一位に入ってくるのはなんとなく腑に落ちません。票が集まった背景としては消費税が上がった影響ではと言われていますが、そんなん言ったらこれからほぼ毎年「税」って字が来るように思えるし、第一そこまで税金上がったことを一年の象徴と感じてる人間が本当にいるのか、妙な組織票とか裏工作とかあったのではなんていう疑いすら覚えます。そもそも、二位に「熱」という漢字が入ってくるのもいまいちピンとこない、というか全く理解できないし。
 
 と、ここまで書いておきながらですが、今年はそもそも私が日本にいた期間は半年にも満たないのによくもまぁ偉そうに言うもんだと今更ながら気が付きました。まぁこういうことくらいは言ってもいいとは思うけど。
 ついでに書くとネット上の反応を見ても今回のこの漢字一字については疑問視する声が多いように思えます。発表前には「捏造」としたいところだけど「捏」でも「造」でも意味が分からないから「嘘」になるだろうなんて予想する声も多く、それだけに今回のこの結果は予想外というか日のないところに煙を見たような印象です。
 
 もっともそれを言ったらこのイベントはここ数年で何故だか私にとって全く共感できないイベントになりつつあり、去年の「輪」という字もストレスたまってた頃だから「なんでやねん!」って言って机叩いていました。このイベントは漢字検定協会が主催するイベントですが、この協会自体が以前にオーナー親子が不正経理やらかしたり、誤った漢字の使い方を平気で試験に載せてたりするので個人的にもあまりいい印象を覚えていません。ほかのひとはそうでもないかもしれませんが少なくとも私にとっては全く共感が得られないイベントであるため、無理して継続することもないし廃止となるのならそれでもいいようなすてっぱちな考えを持たされます。
 
  おまけ
 なお2006年のこのイベントの際、梅田駅前の陸橋を歩いていたらMBSの取材班に捕まり、今年はどんな感じだと思うかと聞かれて悠仁様も生まれたことだし「誕」の字を挙げましたが、本放送でもしっかり使われたようで、その次の日に学校行ったら、「テレビ出てたよね」と知人に指摘されました。しかも二人も。そのうち一人は自宅で夕食の準備していたらテレビから漏れ聞く自分の声を聴いて、「あ、花園さんだ」と一発でわかりすぐに画面を見たと語っていました。
 現在も全く自覚がないのですがこの時まで、自分の声がやけに特徴的に聞かれていることを知らずにいました。知人によると、自分の声は芸能人への追いかけ取材で聞かれる、「〇〇さん、あの件は一体どうなんでしょうかー!?」っていう声の感じに近いそうです。

2014年12月10日水曜日

このブログの過激表現について

 
 上記の画像はまた例によってネットで拾ってきたものですがこれまた個人的にツボにはまったのでここにも記念に紹介しておきます。ちょうど時期も近いことだし。
 
 話は本題に入りますが最近知り合いなどからこのブログの表現が過激すぎやしないか、特に批判する時の罵言はキツ過ぎるなんてお言葉をいただいており、プライベートをよく知る友人からしたら、「ブログより普段の物言いの方がキツ過ぎる」とまで言われ、無駄に敵作るからもうちょい控えた方が良いよなんて教えてくれました。私本人からしたら一日一回は「死ね」とか「ぶっ殺す」と必ずつぶやくし、高校時代は逆にほぼ毎日「死ね」って言われていたこともあって自分の表現があまり過激だとは思っておらず、むしろ比較的抑えて書いているつもりだから真面目に最近まで周囲にそこまできつい表現だと思われていることに気が付きませんでした。もっとも一昨日書いたレビュー記事で、「どーでもいいことをぐだぐだぐだぐだ延々と続けているだけで、何のストーリー発展もないし読んでて正直苦痛でした」と書いたのはちょっと自分でもどうかななんて思いましたが。
 
 ではなんでこのブログはそこまで過激表現で満ち溢れているのかですが、一つの理由は上記の通りに私自身が普段の物言いというか性格も含めてかなり過激な方なのでほとんど自覚がなかったということと、もう一つの理由としてはブログで取り上げる内容について、「どうしてみんな気づかない、怒らないんだ」という具合で主張したいがために感情がこもるのと、最後に自分が政治的主張をする際、自分の意見に対する批判者に対して「来るなら来い!」とばかりに強い対決姿勢を示して余計な批判をさせないよう軽く脅すような文言に仕立てているためであります。
 
 普段から見ている人にはお馴染みでしょうがこのブログでは政治、外交問題はおろか部落問題や沖縄問題、日本人の民族性などかなり機微な内容を取り扱うことが多いです。さすがに生半可な知識で触れてはいけない部分だと考えるところについては一切取り上げませんが、現状持てる知識でもってかなりきわどいところまで意見したり批判したりすることも多く、大体そういう時はどういう批判が起こり得るかを想定してその際にどう返すかまである程度考えています。その上でそもそも妙な批判がコメント欄に書かれないよう、あらかじめ釘を刺すかのように記事中でもややきつめに書いています。
 こうした表現は読者の方もある程度認識しているようで、個人的に連絡を取り合った方からは「しょうもないコメントをかいたら物凄い剣幕で言い返されそうで最初は怖かった」なんていう言葉をかなり多くの人から聞いています。念のため書いておきますが、明らかに見当違いでなおかつ論理を無視したような意見であれば強く出ますが、疑問に思った点や逆にこう思うというような意見であればむしろ大歓迎で、コメントの返信でも上海忍者向け以外であればそうした姿勢を出しているつもりです、これでも。
 
 また日本は週刊誌を除くと特に大手新聞などは政治意見などに対して曖昧な言い方をすることが多く、見ていてじゃあお前は何を言いたいんだよと聞き返したくなるような文言が多いです。個人的にこういう曖昧な表現が気に入らないのと、政治意見を言う場合であれば明確に姿勢を強調すべきだとも思え、そのため自分のこのブログでの主張は直接的なものにしようとして、実際そうなっているんだと思います。もっとも、日本人事態が姿勢を明確にするということ自体が少ないこともあって逆に自分の表現が目立ってしまっているような気もしますが。
 
 最後にこれは後輩から言われた言葉ですが、「花園さんの主張の仕方は小泉元首相に近いですね」という言葉が結構ドキッと来ました。その理由はと尋ねると、何か一つの対象を敵に仕立て上げて、その敵を過激に批判することで自分の意見や立場を明確にしようとするような言い方が多いと感じたからだそうです。この手法はまさに「自民党をぶっ壊す」といった小泉元首相のやり方そのまんまで、なおかつ私もこういう手法でもって自己正当化を図ろうとしている自覚が確かにあります。言われてみるまで意識しませんでしたが言われてみるとまさにその通りで、自分の意識していなかった特徴をよく見抜いたなと後輩の慧眼に驚くとともに将来頼りになりそうだなこいつと思った始末でした。

2014年12月9日火曜日

大阪都構想を検証する

 どうでもいいですが今の私のパソコンの壁紙は「ミグ29」です。これ見てると昔大学で後輩と、「日本人ならやっぱミグだよなぁ」、「初音ミグとかでないのかなぁ」なんて濃い会話していたのをあの日のことのように思い出されます。
 
 ほんとにくだらないそういう話は置いといて本題に入りますが、このところ九州丸ごと特区化案とか美濃加茂市など地方自治ネタを取り上げることが多いですが、別に狙っているつもりではないものの今日もまたその類の記事というか大阪都構想について自分の見解をまとめてみようと思います。結論から言うと、現時点でこの構想は既に破綻しているように思え議論するだけ時間の無駄なのではと考えています。
 
大阪都構想(Wikipedia)
 
 大阪都構想とは維新の会の橋下市長が府知事時代から提唱している政策案で現在も大阪市議会で主要な議題として議論が続いており、今年三月に至ってはなかなか議会で同意が得られないことから橋下市長が民意を問うとして辞職し、選挙を経てまた市長に就任するなどやや混乱した状況が見られます。その大阪都構想なのですが具体的にどういう中身というか政策案なのかというと、極論すれば「大阪府と大阪市という二つの自治体を合併して二重行政をなくす」という内容です。
 ちなみに二重行政の解消というと私の中で真っ先に挙がってくるのはマーガレット・サッチャーです。
 
 現在、大阪市内の公共サービスは大阪市が管理するもの、大阪府が管理するものが入り乱れており、しかもその範囲も公共バスとか道路補修、水道などと、府と市で同じ場所に構えているとはいえ別々に管理する必要があるのかと疑わしい物が数多くあります。この二重となっている行政サービスを府と市が合併し、一元管理することによって無駄をなくそうというのがこの構想の基本概念になります。
 橋下市長がまだ大阪府知事だった当初はこの二重行政を府と市の担当部門同士で協議、整理して無駄をなくすという方針ではありましたが、両自治体の関係が悪いこともあってなかなか進まなかったことに加え、当時の大阪市長と橋下府知事(当時)もケンカし始める始末であったため、今後の禍根を断つためにもこの際合併しなければならないと構想が発展してきた背景があります。
 このほか橋下市長は大阪都構想というか大阪市と大阪府が合併することによって、東京都みたいに各行政サービスを再編・新設する区が担うようになるため住民に近い目線で対応でき、無駄をなくして効率的になるといった点や、大阪という大きな枠組みで政策が組めることから大規模な経済政策も打てるなどというメリットを強調しております。
 
 しかしこうした大阪都構想、当初でこそ自民や公明といった各市議会会派も賛成する立場を示していたものの、構想内容が具体化するにつれて逆に反対の立場を取る人間も増えてきました。そうした反乱の嚆矢となったのは兵庫県内にある大阪よりの各市からでした。維新の会はそれ以前からも暗に匂わせておりましたが2013年になるとこの大阪都構想の対象範囲を大阪市だけでなく、大阪府内はおろか兵庫県を含む関西経済圏内の市町村をまるごと大阪都に組み入れるという政策を打ち出し、これに対し神戸市を始めとした兵庫県の各市が明確に反対する姿勢を打ち出します。そうしたこともあってか、2013年四月に行われた宝塚市長選挙では維新の会の公認候補は落選しています。
 ちなみにどうでもいいですが以前に、「うちの親父は宝塚出身だ」と人に話したら、「えっ、お父さんなのに歌って踊ってたの?」と聞き返されたことが本当にあります。そっちの宝塚じゃないってのに。
 
 その後も維新の会に反抗する勢力はドミノ倒しのように増えていき、元々維新の会の公認を受けて堺市長に当選した竹山修身氏も反論した上で維新の会そのものからも離脱しています。竹山氏曰く、堺市は堺市なりに独自の文化や歴史を持っているというのに大阪市に飲み込まれるような政策は受けられないとして主張し、2013年の市長選挙では対立候補として擁立された維新の会公認の対抗馬を大差で下しています。
 
 敢えて比較表現をすると、「大阪市以外の市町村も大阪都に組み入れる」という構想を「大・大阪都案」、「大阪市と大阪府のみで合併を行う」という構想を「小・大阪都案」と表現した方がわかりやすいかもしれません。上記の様に「大・大阪都案」は周辺自治体から住民を含めて総スカンを喰らっていることもありこのところは維新の会も鳴りを潜め始め、従来の様に「小・大阪都案」に絞って政策主張をし始めてきたように見えます。
 
 では「小・大阪都案」なら実現できるのか、メリットはあるのかですが、はっきり言ってどっちもNOとしか言いようがありません。まず実現性についてですが大阪、というか関西は東京と違ってそこそこの歴史や文化がある(京都の連中はせせら笑うだろうが)ため、そこに住む住民もその地域に対して強い執着と共に高いプライドを持っています。維新の会の大阪都構想では現在23区ある大阪市内の区割りを5、もしくは7区に合併・再編する方針を示していますが、現時点でも「自分の住んでいる区がなくなるのが嫌だ」という声が上がっており、民意はまず得られないでしょう。
 そしてメリットについても、確かに二重行政が解消されることによってコストカットの効果は得られるでしょうが、その一方で新設する各区の役所にこれまで府や市がになっていた行政サービスの担当部署を新設することによって行政コストは増し、果てには市議会の代わりに区議会を新たに設置するとなると行政コストは今より確実に増えることでしょう。同時に、自治体再編に当たって住所なども全部洗い直す必要もあり、役所はおろか住民、運送業者が受ける社会的負担も無視できません。それだったらいっそ合併なんか始めからせず、府と市で行政サービスの整理、棲み分けを進める方が現実的で効果あるように思えるわけです。
 
 以上が大阪都構想に関する私の見解で、上記のような見方からこの構想は旨味は小さくデメリットの方が明らかに大きいと思えるため反対の立場を取らせてもらいます。最後にもう一つだけ苦言を呈すと、大阪府と大阪市が一体化すればいろんな経済政策を打てるなどと維新の会は主張していますが、お前らごときがまともな経済振興策を練れるだなんと本気で自惚れているのか、なーんて思ったりしちゃいます。もしそういうまともな経済感覚があるなら、どうして「あべのハルカス」の建設を始める前に止めなかったんだと言いたいです。第一、府と市が一体で打てる振興策なんてたかが知れているし、やるんだったらもっとスケールの大きい案を練ったらどうかと個人的に思います。

2014年12月8日月曜日

漫画レビュー「富士山さんは思春期」

 さっき一本記事を書き終えたばかりだけどまたもう一本漫画レビュー。これでスランプだなんてどの口が言うと自分でも思います。
 
富士山さんは思春期(Wikipedia)
 
 私がこの漫画を手に取ったというか買って読もうと思ったのは、なんか最近やたらとあちこちのサイトに貼られている広告バナーでこの漫画が猛プッシュされていたからです。そんなわけで前から気にしていたところKindleのサイトでこの漫画の第一巻が99円というセールをやってたので、玉ねぎ1ネット買うより安いななんて思ったことから買って読んでみることにしました。結論から述べると、何故こんな漫画が猛プッシュされるのか激しく理解に苦しみました。
 
 あらすじを簡単に説明すると、中学男子二年生の主人公(160cm)はふとしたきっかけから女子バレー部エースで幼馴染の高身長ヒロイン(181cm)のことが気になりはじめ付き合わないかと交際を申し込んだところあっさりOKをもらい、本人らもなんで付き合っているのか、付き合うというのはどういう事なのかよくわからないまま恋愛をしていくと言ったどーでもいいような内容です。一巻だけしか読んでいないでここまで言うのもなんですがその後の話もどーでもいいことをぐだぐだぐだぐだ延々と続けているだけで、何のストーリー発展もないし読んでて正直苦痛でした。
 括弧書きで書いているようにこの漫画は主人公とヒロインの身長差を一つのテーマとして置いているような気がしますが、少なくとも一巻に納められているエピソードに限っては第一話を除き「ヒロインの方が20cmも背が高い」という設定は存在しなくても話は成立してしまいます。むしろ何故身長差がこれほどある必要があるのかが疑問に思え、絵的に差をつけるという以外の効果はないようにすら思います。
 
 その絵に関しても文句、というか私が感じる最大の問題点なのですが、この漫画の作者のオジロマコト氏の漫画はこれが初めてですが、コマとコマの間の展開が全く読めないほど連続性が感じられません。一つのコマから次のコマへ移ると不自然なくらいに視点や場面が切り替わり、また同じ人物の表情も変な風に切り変わるから感情が読み取れないどころか不自然さを感じずにはいられません。しかもこの漫画、やたらと変な切り方した大コマ(しかもアップ)が頻繁に使われ、先程にも書いたように読んでて単純に読み辛くて仕方ありませんでした。あのコマ割り、本当にどうにかならないのか?
 
 他の人のレビューを見ていると学生時代を思い出すとか甘酸っぱい恋愛模様だとかカルピスは青春の味なんていうようなコメントが並んでいますが、はっきり言って私に言わせるなら「それが何?」ってところです。というのも、そういう甘酸っぱい青春恋愛ものだったら何もこの漫画に限らなくても豊富にあり、先ほどのコマ割りの見辛さを考えるとほかの漫画を手に取った方がよっぽど読みやすくて面白いんじゃないかと思えるからです。更に言えばこれについても既述ですが、結局のところ大半の話が主人公とヒロインの身長差設定がなくても成立してしまうというのはかなり致命的な気がします。一応ところどころヒロインがコンプレックスを感じていたり、主人公と並んで歩いていると周囲に比べられるような描写はありますが、この設定が中心になって回るような話は一巻の中には見られず、厳しいことを言うとコマの連続性がない上に何の個性もない恋愛漫画に成り下がっているのではなんて思えてくるわけです。
 
 毒舌を吐くことには定評のある自分ですがこの記事に関しては割と厳しい言葉で批評しているなという自覚はややあります。ただなんでここまできつく書くのかというとそれは単純にほかの人が同じことを言っていないからで、特にコマ割りの見辛さに関しては明らかに際立っていると感じるほどなのに何故誰も挙げないんだ、だったら俺が挙げようじゃないかなんて妙な使命感持ってしまったのが運の尽きでしょう。まぁこんなクソブログを見に来る人間なんてそうそういないんだし、作者に対して一巻しか読んでいないにもかかわらずここまで批判するのは悪いかなとは思いつつも、自分のスランプ脱出の一手になればと思って何も考えずにだーって書きました。手応えはまぁまぁです。

漫画レビュー「実は私は」の9巻

 知ってる人間には何人か話していますが実はこのところブログ書くのがスランプで、毎日パソコンに向かう度に「書きたくないなぁ」なんて思いがしていました。昨日の記事も引用元のリンク先アドレスを間違えてアップロードしてしまいましたが、自分の後輩が微信という露骨という言葉じゃ表現しきれないほど堂々とLINEをパクッた中国製アプリで知らせてくれたので事なきを得ました。
 そんなわけで今日はリハビリがてらに自分の書きたいもの(いつも好き勝手書いているが)を好きに書こうと思うので、ちょうど昨日に9巻が発売した「実は私は」という漫画があるのでこれについて書いてくことにします。

 「実は私は」については今年一月にもレビュー記事を書いておりますがあれから連載は続いているものの面白さで言えば全くペースは落ちておらず、むしろ各キャラクターが個性をどんどん発揮していて回を増すごとに面白さを増しております。
 知らない人向けにも簡単にこの漫画のあらすじを説明すると、「実は私は」は少年チャンピオンで連載しているラブコメ漫画で、メインヒロインが吸血鬼とのハーフであることを始めとして女性キャラクターがみんな何かしら秘密を持っているという設定で、高校男子の主人公を中心にドタバタ系のコメディ色が強い漫画です。なおメインヒロインに関しては先ほどにも書いたように吸血鬼とのハーフですが、回を増すごとにこの設定があまり生かされず、むしろアホの子としての性格がどんどん強まってきています。まぁこれはこれでキャラ立っているから全く問題ないけど。

 ただ前回の記事にも書いた通りメインヒロイン以上に結構多いサブヒロインらの方が圧倒的にキャラが濃く、癖の強いキャラが多い割には話が破綻せず、ちゃんと各回でそれぞれの個性を発揮しながらストーリーが進んでいくというのはなかなか見事な手腕だといつも唸らされます。ちなみに各キャラの秘密というか正体を列記すると、

・ヒロインキャラ:実は吸血鬼と人間のハーフ
・委員長キャラ:実は手の平サイズの宇宙人
・幼馴染キャラ:実は疫病神が乗り移ったメガネを持っている
・ヒロインの友達キャラ:実はというかあからさまな露出狂の痴女
・主人公の後輩:実は未来人で主人公の孫
・学校の校長:実は悪魔
・生徒会長キャラ:実は天使
・主人公の担任:元ヤンキー

 何度も書いているようにこの漫画はラブコメであるものの全体的にはドタバタコメディ色が強く、青春的な場面も少なくはないですが一話完結ということもあって読んでて笑えることの方が多いです。特にギャグシーンにおいては主人公の行うツッコミが非常に鋭く、これほど毎回的確な突っこみいれるギャグ漫画の主人公って過去にいたのかなどと思えるくらいキレキレにやっています。なおその主人公がボケに加わる際は先ほど挙げたサブヒロインの痴女がツッコミ役をこなし、ほかの人のレビューでも書かれていますがその特徴からは想像し辛いもののこのキャラがこの漫画の中で一番の常識人なのではないかと私にも思えてきます。

 そんなわけで昨日発売して電子書籍で夜中速攻ダウンロードして読みだした9巻についてですが、ストーリーも大分終盤に来ているのか主人公もヒロインもかなり明確に相手を意識していてそろそろ告白エンドなのかな、アニメ化まで頑張ってもらいたいのになと思いながら読み開きましたが、正直言って今までの単行本の中で一番笑える単行本でした。メインのストーリーは修学旅行なのですが主人公に好意を持つ上記の委員長キャラと幼馴染キャラが互いに相手を妨害しつつしのぎを削る回が多かったのと、自分もイチオシの委員長キャラが勇気を持っていざ主人公への告白へと臨もうとするところで終わっています。

 その委員長キャラ(9巻表紙の青い髪の子)ですがプライドが高い上に真面目過ぎてしょっちゅう暴走することが多いキャラで、この巻でもその性格でもってまさに縦横無尽ともいえる活躍を見せており、特に最後に載せられた回では「恋とは戦いだ」という妙な誤解から主人公への告白に臨むに当たって白装束に薙刀持って乗り込もうとしたら「やる気が出過ぎている」と痴女にツッコまれ、それならばと今度は気配を完全になくそうと迷彩服にライフル片手に持って乗り込もうとしたら「かわいげがない」と痴女にツッコまれ、それならばと今度は全身猫の着ぐるみ着て乗り込もうとしたら「夜中にそれじゃ逆に怖すぎる」と痴女にツッコまれ、「もう制服着ていけば無難だよ」と言われて最終的に猫の着ぐるみの上に制服着て部屋を出て行きました。この一連の着替えは2ページごとに切り替わっており、構成の妙というかギャグの何たるかをよくわかっているとここでも唸らされました。

 先日友人ともちょっとこの辺で話をしたのですが、かつてはたくさんあった一話完結のこういうギャグなりラブコメ漫画がこのところのストーリー漫画の氾濫によって減ってきており、そういう意味でも「実は私は」は当初から貴重なタイプの漫画だと考えていました。その期待に違わずよくここまでクオリティを落とさずに続けてきたと思うのと同時に、もうちょい増えないかなぁこの手の漫画などと密かに思う次第です。

   

2014年12月7日日曜日

秀逸な日本経済分析記事

 先日、経済分野における私の知恵袋的な友人が下記の記事を薦めてきました。


 記事内容は長くないの是非読んでもらいたいのですが、現在の日本経済の状況、そして東京五輪に至るまでの未来について簡潔かつ冷静に、それでいて含蓄深く非常によくまとまっています。普段は自分の表現力を自慢する自分ですが、インタビュー物ですがこの記事ほど中身のある内容をこれほどまで簡潔に表現する自信は全くなく、文字通りおみそれする記事です。
 この記事のポイントを敢えて箇条書きにして示すと、以下のような点が挙げられます。

・アベノミクスの成功、失敗それぞれのパターンで予測を書いている
・最重要の政治課題として日中関係を挙げている
・安倍首相の人気を自民総裁二期六年と前提して2018年と予想
・しかし安倍首相の後継者が現在40代の政治家に目下いないのが大きな不安要素と指摘
・今後の日本は良くも悪くもこのまま現状維持。高度経済成長に転じることはないと断言

 この記事を書いたのはアメリカ人の大学教授、ジェラルド・カーティス氏ですが、外国人でありながらこれほどまで見事な分析をやってのけてしまうなんてただただ頭が下がります。その上で、日本国内にどうしてこのような分析が出来る人間がいないのかと思うのと同時に、経済予測ではアベノミクスが成功する、失敗するという2パターン予測をする人間が皆無に近いというのは考えるだに頭が痛くなります。

 話は変わりますが同じく経済ネタで言うと、例のエアバッグ問題で揺れているタカタですが、かつての騒動時のオリンパスなどと比べると見ていて不気味なくらいに株価が落ちていません。原因もまだ判明できていないし、ぶっちゃけこの後立て直し聞かないのではと思うくらいに今回のリコール問題は根深いのにどうして株価がまだそこそこの価格を保っているのか不思議でしょうがないのですが、昨日その友人と話をした際、「恐らくこの後に政治決着することが内々に決まっていて、それをわかっている奴が買い増しているんじゃないか」という結論に至りました。もちろん勝手な予測ですが、通常では説明できない価格変動をしており、疑わない方がおかしいのではないかと密かに思います。

2014年12月6日土曜日

笑うという根源的な感情

 何度もこのブログで書いてきているように私は漫画家の水木しげる氏の大ファンで、リアルに人生の師みたいな具合に崇拝しています。水木氏の作品で何が好きかとなると主題歌だったら「悪魔くん」でたまに一人で、「エロイムエッサイム、エロイムエッサイム♪」なんて口ずさんだりしていますが、作品単体となるとうちの名古屋に左遷された親父も好みの「猫楠」が割とお気に入りです。この漫画は南方熊楠の伝記に近い漫画ですが、破天荒な性格や行動など水木氏と熊楠には共通する点も多いようにみられることから本人もノリノリで書いているようにみられるし、たまたま熊楠と自分とでも共通する病気を抱えてただけに妙な親近感を覚えています。
 しかし作品という枠を超えるなら、水木氏の自伝とも言うべき「水木しげる伝」という漫画こそが私の中で彼の最高傑作だと思います。境港市での少年時代からラバウルでの戦地生活、「ゲゲゲの女房」にて描かれた戦後の極貧生活からスター漫画家に至る過程などドラマチックそのもので、また作者特有のユーモアのある視点で描かれているため何度読んでも飽き足りません。

 その「水木しげる伝」の中巻こと戦争編に描かれている話なのですが、戦地で片腕を失いながら無事に復員し、境港に戻った直後の話で非常に印象に残るものがありました。復員後に水木氏が実家で暮らしていた時期、近所に住んでいて水木氏と同じ戦場に息子が派兵されていた母親が水木氏を訪ねてきました。生憎その息子は戦死していたのですがせめてどのような場所で、どのような環境で息子が戦死したのかを知ろうとして水木氏に聞きに来たそうです。
 水木氏はその母親と自分の母親の三人で会い、ラバウルの戦場と息子さんがいたと思われる部隊の最後について話し聞かせたところ、途中で尋ねてきた母親が感極まって泣き出したそうです。泣き出す母親を見た水木氏はどうしたかというと、何故だか「はっはっは」と大笑いし始めたと描いています。

 亡くなった息子を偲んで泣き出す母親を前にして大笑いするなんて普通に考えたら失礼極まりなく、実際に水木氏の母親は息子を咎めたそうですが、それでも水木氏は笑いを止めることが出来なかったそうです。この水木氏の行動について恐らく反感を覚える方もおられるのではないかと思いますが、私は何故だか、きっと自分も同じ立場なら笑い出したのでは、なんて思うのと同時に表現できないような感情が持ち上げてきました。
 一体何故このように思ったのかというと、一つは水木氏も戦死された息子同様に自分の命が明日をも知れぬような戦場を潜り抜けており、決して戦死者を冒涜するような行為はできないと思うからです。それとともに、漫画中にも書いていますがこの時に、「自分が戦場から生還したことを実感してきた」と思ったらしく、これは戦争に実際参加した人間にしか感じ得ない特別な感慨があったのではないかという気がしてなりません。

 また人の死を「笑う」という行為ですが、私は決して特別な感情ではないと思います。たとえば大きな悲しみに遭遇した際、「何故だか笑しか出てこなかった」という表現は過去の文芸作品にも数多く出ています、私も実際に同じような感情を持ったことがあると共に周囲にも、特に人の死に接した人間がまさに同じ感情を持ったという話をよく聞きます。またあまりの怒りに「もはや笑いがこみ上げてくるほどの怒りだ」という表現もあれば、「恐怖のあまりに笑い出す」という言葉も比較的一般的です。

 こうした点を踏まえるにつけ、喜怒哀楽とは言いますが笑いというのは喜びもあれば怒りもあり、悲しみもあり、恐怖にも表れる特別な感情表現、言うなれば根源的な感情名のではないかと思います。漫画「シグルイ」によれば「本来笑いというのは獣が牙を向く行為に端を発し」とやらで威嚇する行為から発展した感情表現という説もありますが、獣を観察していても威嚇する際だったり餌をねだる際、風呂に無理やり入れられる際(主に猫)などによく鳴きます。そうした点を入れても、笑うというのは楽しい時にだけ見られる感情表現と言い切るのは早計ではないかと思えてくるわけです。

 ただそれにしたって上記の水木氏のエピソードは非常に深く考えさせられます。勝手な推察をすると、人の死に対する悲しみ、自分が生きて帰ってきたという喜び、息子を偲ぶ母親への憐憫など、複数の感情が一挙まとめて含まれた笑いだったのではないかと思え、考えるにつけ自分もなんだか悲しいような、どうしようもないような感情が持ち上がってきます。戦争だからこうというわけではなく、悲しい笑いというのも案外世の中には溢れているのかもしれません。

  おまけ
 来年PSVitaで「艦隊これくしょん」が移植、発売されると聞いて、現在のブラウザ版は一度も遊んだことがありませんが艦娘こと各キャラクターを調べるのが地味にマイブームになっています。そうやって調べている最中でふと目に入ったものの中に駆逐艦「雪風」が目に入り、二次大戦中の主要な海戦ほぼすべてに参加しておきながらほぼ無傷で戦い抜いて戦後まで生き残り、しかも戦後に中国国民党に引き渡され中国共産党との戦争でも使われたにもかかわらずそこでも戦い抜いたという、文字通り「不沈艦」とも言うべき恐るべき戦歴を知り目を見張りました。
 そしてこの船によって、ラバウルにいた水木氏が本土に復員したという話も今更ながら知り、戦中を有り得ないほどの強運で生き残った船が最後まで生き残った兵士たちを無事に本国へ連れ帰ったのだと思い、変に感極まってこれ書きながらも涙が出てきます(ノД`)

2014年12月4日木曜日

美濃加茂市長の公判について

 私はこのブログで七月に「美濃加茂市長の逮捕・起訴について」という記事を書き、現在汚職の疑いで公判が進められている美濃加茂市の藤井浩人市長事件について取り上げました。この記事を書いた時点でこの事件は非常に冤罪の線が濃厚だと書きましたがその後どうなったのかふと気になって調べてみたところ既に公判が始まっており、ちょっと自分の予想を超えた事態に発展していて笑えるので、一度乗った船だし最後まで取り上げようという妙な責任感から今日も頑張ってこの記事を描こうと思います。


 上記リンク先はそれぞれ10/1~2、11/19に行われた公判を取り上げた記事です。
 この事件の概要を簡単に説明すると、藤井市長が市長に就任する前だった昨年の3~4月に水供給設備会社社長から中学校に取りつける雨水濾過機の件で便宜を図るよう依頼され、二回に分けて現金を約30万円授受したとして、今年6月に藤井市長は警察に逮捕されました。しかもその逮捕期間は一ヶ月以上にもおよび、この間市議会も市長不在とあって混乱し、全国ニュースでも取り上げられるような事件に発展しました。

 私は前回の記事の段階で警察や検察が出して来た供述が非常にあやふやであるばかりか確固とした証拠もなく、さらには現金30万円ぽっちという通常では逮捕されるにまでは発展できない金額レベルの事件で一ヶ月以上の拘留が続くというのは警察(前回記事で「国家の犬」とまで書いたが)と検察に負い目があるためと見え、この事件は冤罪の線が非常に濃いという意見を提示しました。先に結論を書いてしまうと、もうこの事件は冤罪であると断定してもよさそうで、次のステップこと足利事件、障害者郵便割引制度に続く第三の大型でっち上げ事件として捜査するべき頃かなと考えています。

 まず10月の公判についてですが、今回の事件の発端となった藤井市長に現金を渡したと自ら証言した水供給会社「水源」の中林正善社長の過去の経歴が明かされ、その経歴を見るにつけどうしたらこんな人物の証言をまともに受け取れるのかと思うようなひどい経歴でした。それはどんな経歴かというと、以前に事務員として勤めていた病院で長年にわたり横領を働き、使い込んだ額はなんと1億5000万円にも上ったそうです。しかも一回発覚していながらもこりずにまたやって、またばれて、結局返済義務を課された挙句に辞めさせられたそうです。
 病院を辞めた後に現在の水供給会社を作ったそうですが、こっちも経営実態は借金まみれて文字通りの自転車操業でした。にもかかわらず経営が順調であるかのように見せかけて中林社長は金融機関に対して融資詐欺を繰り返し不正に得た金額は資本金5000万円の会社に対して数億円にも上るそうで、藤井市長の弁護団は「中林社長が融資詐欺で立件されている件数は不自然に少ない」と指摘しています。
 このように経歴からして真っ黒な中林社長ですが証言もあやふやそのもので公判の最中も、「藤井市長から金に困っていると聞いた」という発言を弁護団からの指摘を受けて、「実は藤井市長の知人から聞いた」とその場で翻す始末で、見ていてなんですが「何がしたいんだこのおっさん?」という気がしてなりません。

 このような怪しい原告側の証言者が特に真新しい証拠や証言を出さずにこれまでの供述を繰り返したのに対し、藤井市長を弁護する被告側は公判で何をしたのかというと、書いてて笑えますがなんと暴力団員を証言者として出してきました。この暴力団員はたまたま留置所で拘留中だった中林社長と房、というか牢屋が隣同士だったため話し込み、仲良くなっていろいろ話し込むうちにこの藤井市長の事件についても本音とも取れる話を聞いたとして、わざわざ証言しに来てくれたそうです。その暴力団員が中林社長から聞いた話というのも、

・藤井社長に贈収賄をしたことにすれば融資詐欺事件の捜査を警察はストップしてくれる
・藤井市長とは二人きりの時に現金を渡したと話したが、警察からその場にはもう一人同席者がいたと言われ怒られた

 などなど警察や検察とさも癒着して藤井市長を敢えて追い落とそうとするような内容を事を話した上で、この証言者に対して中林社長はわざわざ手紙を書いて同じことを伝えていたそうで、この手紙については中林社長も実際に書いた出したことをすでに認めています。この暴力団員の証言者が何故わざわざ弁護側の証言台にたったのかについては、中林社長は出所したら韓国人を相手とする人材派遣業を始めようと考えたそうで、証言者の身内に対して事業に協力するよう勝手に動いてたことに強く不満を感じたためだと本人が説明しています。

 このほかにも内容を追って行ったらまだまだ証言と捜査のボロがどんどん出てきますが、これ以上何を探ろうってんだという気持ちが私にはあります。そもそもこの事件は中林社長の証言以外に事件を立証するものは何もなく、しかも中林社長が自ら現金を渡したと告白したことに端を発します。何故こんな怪しい親父の証言を警察と検察は信じたのか、いやそもそも何故岐阜県警、愛知県警、検察の三者は藤井市長を追い落とそうとしたのか、そろそろこの点について考えるべきポイントに達してきたように思えます。藤井市長は全国最年少で市長に当選しており、こういってはなんですが妬むような人間は確かに多そうで、そうした人間と上記の三者がタッグ組んでチンケな詐欺者の訴追を見逃す代わりに事件をでっちあげた、なんて考えたくなってきます。

 最後に極め付けと言ってはなんですが、11月の公判の最後でこんな間抜けなやり取りがあったそうです。該当箇所を弁護士ドットコムの記事からそのまま引用します。

「最後に郷原弁護士が『今回の尋問のために何度も検事と打ち合わせしたのではないか』と問うと、2人の検事が『異議あり』と声をそろえ、『何度も、ではない』と主張。『では何回か』とあらためて聞かれた中林社長が『6、7回』と答えると、傍聴席から思わず笑いが漏れた。」

  追記
 コメント欄から指摘を受け、アップロード時に「警察」と書いた箇所をほぼ全部「警察と検察」に変え、「岐阜県警」と書いたところを「岐阜県警、愛知県警、検察」と修正しました。この事件、岐阜県の事件なのになぜか最初から愛知県警が捜査に加わっててなんか妙だなと感じたことをすっかり忘れてたよ……。
 あと同じ方からの指摘で末尾の、「傍聴席から思わず笑いが漏れた」というところは実際の現場では大爆笑だったそうです。そりゃまぁ検察との密会した回数を聞かれて、「6、7回」と正直に答えられたら面白いに決まってますし、普通のギャグセンス持ってたら爆笑すること間違いなしでしょう。それにしてもこのおっさん、傍から見ている分には凄い面白いな。

2014年12月2日火曜日

京大の公安トラブル事件について

 ちょっと時間が経っていますが思うところがあるので先月起こった京大での公安トラブル事件について書きます。なおこの事件の名将については「京大ポポロ事件」という呼ばれ方もありますがこの名称だとネーミングセンスが感じられないので私は拒否します。ちなみにこの名称を聞いて真っ先に思い浮かべた言葉は「アバンチポポロ」というイタリアの歌ですが、こんなの想像するのは間違いなく私一人だけでしょう。
 
 話は本題に入りますが事件のあらましを簡単に説明すると、11月2日に行われた中核派のデモで逮捕された学生三人のうちに二人が京大の学生だったことを受けてかその二日後の11月4日、京大に公安の捜査員が潜入捜査をしていたところ学生に身分がばれ、持ち物を奪われた挙句にしばらく学生によって拘束される事態となりました。この事件の評価に関しては各方面からいろいろ声が上がっていますが、中でも捜査官を捕まえた学生側こと全学連はまるで勝利宣言をしているかのように捕まえた事実を大きく持て囃しております。
 
 まず捜査官に対する私の意見を述べると、すべてにおいて稚拙であるような印象を覚えます。元々京大側と公安との間では捜査官が学内に入って捜査を行う場合は公安側が事前に通知するという取り決めがあったようですが今回の事件ではそうした通知がなかったばかりか、あっさりと学生に身分が見破られて捕まるというちょっと見ていてもかっこ悪い結末に陥ってます。学内は治外法権で公安や警察はみだりに入るべきではないという主張をするつもりは全く有りませんが、取り決めがあったにもかかわらずそれを無視して約束破りをするというのは法の番人として如何なものかと思います。まぁぶっちゃけ交通違反などをみていると私も警察は嫌いで、ゲーム中(「逃走ハイウェイ」とか「セインツロウザサード」)なんかはよく、「国家の犬め……」なんて呟きますが。
 
 次に学生側について意見を述べると、まぁ向こうも逃げようとしたんだから捕まえたくなるというのは人情としてわかるししばらく拘束するというのも理解できなくはありませんが、この一件を持ってさも大勝利であるとか国家の介入がどうだこうだと大騒ぎするのは見ていて正直、「ちっちぇなぁ」なんていう感想を思わずにはいません。言ってしまえばウサギ一匹捕まえた程度でこんだけ大喜びする事かと言えばそうでもないし、逆を言えばそうやって大騒ぎせず(=功績を過大に宣伝せず)には組織が保てないのかと疑います。
 またその後の京大学生寮への家宅捜査においても激しく公安を批判してここでも学問の自由やら大学自治がどうこう言ってましたが、少なくとも中核派という過去に大規模なテロ事件を起こした団体の関係者が捕まっているのだから、自治もクソもなくどうして単純な治安活動として受け取れない、やましい腹でもあるのかと勘繰りたくなります。まぁあるんだろうけどさ。
 
 以上が事件に対する主な感想ですが、少し論を発展して関西の学生、特に寮生の妙な思想についてもう少し触れます。まずいきなり断言しますが基本的に関西の学生寮はほぼすべて左寄りで、社会主義勢力の肩を持つ一方で無意味に警察や政府を敵視しています。繰り返しますが彼らの敵視は本当に無意味で理由はなく、特に理論立ったものもなければ特別な怨恨も何もありません。
 何故関西の学生寮にいる学生はそういう思想を持つのか、一つは私が前に書いた「『弾圧』を自己正当化理由にする人々」で書いたように自分たちが大きな勢力(=権力)に弾圧されていると主張することでしか自己正当化できなくなっているのと、やや外界と隔絶されたインナーでカビ生えた妙な文化を育んでいるためではないかと考えています。
 
 何故私が知ったかぶりでこのように語るのかというと、ほんのちょっとですが関西の学生寮と接触を持ったことがあるからです。私は世にも珍しく箱根の関所を越えて関西の大学に進学しましたが、なるべく生活費を抑えたいがために学生寮に入ろうと当初は入寮を希望しました。てっきり私は入寮者は大学事務所での抽選か何かで決まるのかと思ってたら寮生が面接で決めると言うのでただでさえ出費が苦しいというのに入学前に新幹線往復台を払って京都まで面接を受けに行きましたが、面接前に行われた寮の説明を聞いて「何こいつら?」と強い違和感を覚えました。
 どの点に違和感を覚えたのかというと、寮生が語る寮の歴史とやらです。どういう内容かというと、「〇年 大学側との交渉の末、電気代を大学側の負担にさせることに成功した」、「×年 備品代を大学側の負担にさせることに成功した」、「△年 ガス代を……」という具合で、まるでさも自分たちが大学運営側との交渉で実績を残して来たかのように書いてありますが、中身を見る限りだとむしろ大学側に脛をかじるというかたかるというか、不必要なまでに依存していることを自慢げに語ってました。にもかかわらず、「これは学生自治の成果だ!」と主張していて、自治だの自立だの言うのなら電気代くらい自分で負担したらどうかと素直に感じました。同時に、大学側に色々負担させているのだから感謝の気持ちを持つのならともかく、むしろ敵視するかのような発言を繰り返すという点を取っても人情のなさを覚えました。
 
 結局面接には落ちて私の新幹線往復代は空費することとなったわけですが、その後の学生生活で何度か寮生と会って話す機会があり、彼らもああいう妙な主張を自分自身で胡散臭いと理解しつつもなんか伝統となっているから受け入れてるみたいなことを話していました。もっとも寮生だった後輩からは、「きっと花園さんなら寮の文化にすぐ溶け込めますよ」なんて言われてちょっと不安に感じましたが。
 
 最後にまとめると、関西の学生寮は決して思想的なバックボーンがあって学生自治だの公安敵視だのをやっているわけでなく、思考を停止した上で妙な伝統だと思いつつも受け入れてやっているのが大半ではないかと私は考えているわけです。その上で述べると、書類選考でやればいいのに無駄に面接をやって金の少ない入寮希望者にムダ金使わせるようなことはとっととやめろと言いたいのと、今回もこういう事件あったのだし、恩を売っても仇で返すような連中も多いのだから大学運営側はこの際寮を廃止した方が良いのではとお勧めしたいです。
 実際、中核派とかは完全に活動の根拠を失っているし、そんなのに惑わされる時点で学生どころか人間にとって必要な最低限の自我がないのではと内心思います。まぁそれを言ったら魂持ってる日本人は自分を含めてどれくらいいるのかだけど。

2014年12月1日月曜日

民主党・枝野幹事長の解散に対する発言

 今日出勤中、「三途の川って英語で言うとSons river?息子の川?今でも脱衣婆が河渡ししてるのかな、それとも時代も変わったし今頃は橋が掛けられたりフェリーが運航されてたりするかも。それどころか青函トンネルみたいに川底をトンネル通ってるかもなぁ。考えてみれば臨死体験者がよくトンネルくぐったとか言ってるけど、それってやっぱり三途の川底トンネルかも……」なんていうことを割と真剣に考えていました。
 なお臨死体験については私は記憶の混濁であるとして少なくとも死後の世界を垣間見たとかそういうのじゃないと考えています。根拠は単純に、三途の川を見るのは日本人だけで、逆に光に包まれるという欧米人がよく見るイメージを非キリスト教国の日本人はみないなど文化的要素があまりにも強すぎるからです。
 
 話は本題に入りますが今回の解散が決まる前の9月に、民主党の枝野幹事長はこんな発言をしていました。
 
 
 このニュースを9月の時点で見た私は何を馬鹿なことを言っているのだと思ってましたが、本当に安倍首相はこの後の臨時国会で解散を決議しちゃって意外に枝野幹事長の予測は侮れない、けど実際に解散されて今頃逆に困ってるのではとも思いました。そしたら解散が確定的となった11月には、
 
 
 案の定というか、急な解散は身勝手だと決断した安倍首相を批判する始末です。ってか私は枝野幹事長は、「我が意を得たり!」なんて言って安倍首相を誉めてあげてもいいんじゃないかと過去の発言から思っていましたがやはりというかいつも通りの変節振りで、何も私だけじゃなくほかの多くの人も同じように「何言ってるんだこいつ」というばかりにこの二つの発言を取り上げています。
 逆を言えば民主党の上層部は解散を要求するだけで何の論点も持っていなかったばかりか候補者も策定できていないような状態で、こうした点を考慮するにつけ私個人としてはやっぱり政権は任せられないなぁというのが本音です。まだ自民の方が大人だ。
 
 もっともこういう民主党関係者の変節は今に始まったことではなく、そもそも論で話すとこういう一般人としてみてもかなり危ない人間が議員としてそこそこキャリアを積めてしまう日本社会の方に問題があるのじゃないかとすら思えてきます。なお選挙予想に関しては大体方向性が見えてきましたが、恐らく自民が圧勝で野党各党はほぼすべて議席を減らし、自民・公明は今以上に議席を大幅に増やすことでしょう。ポイントとしてはさしたる論点がなく投票率が下がって創価学会票が威力を増すことと、アベノミクスに対する評価は決して上場ではないものの民主党の政策よりはマシだと考えている層が多そうに見えることと、維新の会が内部分裂激しく勢いがなくなっているなどという点からの結論です。