ページ

2025年4月26日土曜日

日本版ルネサンスと「日本のダンテ」

 日本で「ルネサンス」というと、レオナルド・ダビンチを代表とする芸術家の作品や髭男爵の一発芸ばかり連想されますが、この言葉は実際には幅広い意味を持ち、芸術運動のみならず当時における文学や思想も内包しています。特に思想面においては、それまでの権威や格式に囚われた価値観からこの前ヒットしたアニメの「チ。」でも描かれたように、実証主義的な科学的価値観や合理主義も花開き、のちのフランス革命や産業革命にもつながっていきます。
 そんなルネサンスが始まったのは言うまでもなくイタリア半島ですが、これは教皇権の強いエリアではあったものの、当時のイタリア各都市国家は神聖ローマ帝国やフランスなどの圧迫も受け、思想や価値観で揺れ動いていたということが大きかったように思えます。

 このルネサンスは前述の通り、実証主義、合理的価値観への目覚めともいうべき動きですが、ふとこの前日本ではなぜ起きなかったのか、否、日本でも起きていたけど誰も気づいていないのではという考えがもたげました。結論から述べると私の考えは後者で、日本でもルネサンスのような実証主義が立ち起こっていたものの現代日本ではあまり注目されていないだけではという風に考えています。ではそれはいつ起きたのかというと江戸中期で、いわゆる蘭学ブームこそが日本版ルネサンスだったのではないかと考えています。

 江戸中期、具体的にはマツケンサンバでおなじみの八代徳川吉宗の時代に、それまでの鎖国政策の延長で禁止されていたオランダからの洋書などの輸入が医学をはじめとする実学に限り解禁されました。これをきっかけにオランダ語を通して西欧の進んだ技術を取り込もうとする蘭学ブームが起こり、その代表格はこれまた言うまでもない杉田玄白らによる解体新書でした。
 この解体新書が嚆矢となって蘭学もとい洋学が日本でも一気に広まり、オランダ語の辞典も出版されるなどそれまで長崎に限られていた蘭学の波が日本全国にも広がります。それに伴い実証主義的な価値観も強まり、現実を見据えロシアなどの侵略に危機意識を持つものや、より進んだ技術を取り込もうと開国を主張する者も現れていき、のちの明治維新へとつながっていきます。

 また体制側も、蘭学ブームによってやや軟化していったというか、江戸中期以降はかなり厳しい身分制が残っていた時代ながら、技能や知識を持つ者を採用するなど、合理的な方向へ舵を切っていきます。具体的には最上徳内、間宮林蔵、二宮尊徳などで、彼らは元々は平民でありながらたぐいまれな能力から直接武士に取り立てられて成果を挙げており、合理主義へと江戸時代の世の中が移り変わっていた証人であるように思えます。

 ここまで考えが回った段階で蘭学ブームがやはり日本版ルネサンスともいうべき流行で、巡り巡ってこれが幕藩体制を崩壊させる遠因になったということに確信が付いたのですが、その始まりというか最初の最初のきっかけは何だったのかが次は気になっていきました。
 前述の通り、全国に蘭学ブームを巻き起こした解体新書がそれにあたるといっても過言ではないと思いますが、私はそれ以上に、平賀源内の存在の方が大きかったのではと思うようになりました。一体何故かというと、初期の蘭学ブームにおいてはまさに彼が中心人物だったからです。

 平賀源内は杉田玄白や前野良沢といった当時の主要な蘭学関係者と交友があったのは周知のことですが、そのほかにも日本初の銅版画に成功する司馬江漢も元々彼の弟子でした。そもそも彼自体が長崎への遊学をきっかけに持ち前の好奇心から様々な西洋知識を取り込み、多くの洋書も入手するなど代表的蘭学者であり、時の老中である田沼意次とのパイプもあって、当時の江戸における蘭学サークルの中でも中心人物であったように見えます。

 特に解体新書に関して、その挿絵を描いた秋田藩士の小田野直武は源内の直弟子で、彼の推挙により挿絵を執筆しています。その小田野直武に源内は秋田藩へ鉱山開発指導へ赴いた際に出会っていますが、彼に洋画を教えていたらある日、「俺にも教えろよ(´・ω・)」と秋田藩主の佐竹義敦も自ら弟子入りを志願してきたと言われています。
 この時、佐竹義敦は一介の浪人に過ぎない源内に対し師匠としての礼儀を取り、また配下の一藩士に過ぎない小田野直武とも全く身分差がないかのように、肩を並べて指導を受けてたそうです。この身分なく交流する姿こそ、ルネサンス精神が最も濃い情景であるように私は思います。

 そもそも源内自身が、元々は最下級の高松藩士でしたが自らの研究時間を優先するあまり、その職を辞して浪人となっています。幕末であれば脱藩した人は珍しくないですが江戸中期においては非常に珍しく、如何に源内が当時において古臭い権威主義から脱却していたことをうかがわせるエピソードです。
 もっとも、後藤又兵衛よろしく奉公構(他藩への転職禁止措置)を食らうとは源内も思ってなかったようで、ほかの人にも話していないあたりかなりショックだったようです。

 話を戻すと、初期蘭学グループの中心にあり、尚且ついち早く合理主義に目覚めて身分差を打破するなど周囲の人間にも影響を与えた点から、平賀源内は日本版ルネサンスこと蘭学ブームの旗手とみてもいいのではと私は考えています。その上でよく平賀源内はその万能ぶりから「日本のダビンチ」に例えられることが多いですが、むしろその著作「神曲」にてルネサンスを牽引したダンテの方がより実像に近いように思え、「日本のダンテ」と呼ぶべきじゃないかと思うに至りました。

 割と何度も書いていますが、私はこの源内に対して昔から妙な親近感を覚えて止みません。私自身、比較的なんでもできるけど飽きっぽくて大成しない器用貧乏なところがあり、その点で源内に強いシンパシーを抱いていると思うのですが、今回こうして彼を「日本のダンテ」に例えた際、なにか源内に対する自分の思いに一区切りがついたように感じました。

2025年4月25日金曜日

「イース8」はそこまで評価されるゲームか?

 なんかネットで手放しで褒められていたので、先日日本ファルコムの名作シリーズの8作目である「イース8」を購入してクリアしました。実際遊んでみた感じとしては確かストーリーもよく操作性も楽しく、また探索の楽しみがあって面白いと感じましたが、正直言って手放しで褒められるかと言ったらそこまでではなく、ほかの人の評価を見ていてやや過大評価が多いような気がしました。

 具体的に自分が惜しいと思った点は、ボスキャラです。基本的にどのボスキャラもぽっと出のキャラクターで、クリアした後にどんなボスキャラがいたのかほぼ全く思い出せないほど印象が弱い奴ばっかで、これはRPGとしてかなり致命的な欠陥であるように思えます。

 唯一印象に残ったのはアーケルスというボスキャラで、こいつは主人公が無人島に遭難するきっかけとなった船の沈没を引き起こし、その無人島から脱出するにあたり必ず倒さなくてはならないというストーリー展開もあってキャラが立っていました。しかしそれ以外のボスキャラはラスボスを含め登場時に初めて「お前おったの?」と言いたくなるくらい前情報がなく、出てきても倒した後はそれきりなため、何の記憶にも残りません。マジでラスボスを含め。
 またそのボス戦も難易度ノーマルでの話ですが、基本的にゴリ押しが効いてしまうボスしかおらず、こっちのダメージを気にせず殴り続けるだけで倒せます。さすがにこれだと味気ないから攻撃パターン見切って優雅に倒そうとしたら、どのボスの攻撃もパターンを見ての回避が不能なものが多く、敵の攻撃に合わせてタイミングよくガードや飛び退きをしてフラッシュガードを得るしかないというのもやたら多かったです。そのため相手の動きに合わせて攻撃するよりも、こっちが殴り続けていて相手が攻撃しようとしてきたらガードボタンを押す、なんか単調な作業が多かったです。

 また先ほどストーリーがいいと褒めましたが、それは終盤を除いてです。言ってしまえばこのゲーム、いわゆるセカイ系作品で、たまたま遭難した無人島で地上の全人類の淘汰を行うか否かの儀式が始まってそれに主人公らが巻き込まれるという内容です。
 元々、この手のセカイ系が前から嫌いだし、なんで小さな無人島が全世界の運命左右すんだよというスケール感がおかしい話に何かついてこれませんでした。これならただ単に、儀式をどうにかしないと異常気象で世界がおかしくなるくらいでよかったんじゃないかなという気がします、個人的に。

 キャラクターに関しては全く文句なく、どのキャラもキャラが立ってたしヒロインのダーナも高評価なのはうなづけ、この点はほかの人の評価と完全に一致します。それだけに全体ストーリーはもっとどうにかならなかったのか、なんかもったいない気がしてなりません。
 特に先に触れたラスボスに関しては、マジで何の情報もなく「こいつと戦え」と言われて急に出てきた相手を殴るだけという展開はなんやねんとやっててマジで思いました。もう少し戦闘前に因縁をつけないものか、もしくはその存在を示唆するものとかを断片的に出さないものかと思えてなりません。ビジュアルも、そんな強そうでもなければ恐ろしさのかけらもなかったし、攻撃するタイミング限られるのがめんどくせーなとしか思えませんでした。

 以上のように内容をクサしていますが、全体としての評価は面白いということには間違いありません。自分はSteamで購入して遊びましたがセール時に購入して遊ぶ分にはいいんじゃないかと思います。にしても今回やってて思ったのは、RPGはやっぱりボス戦が重要で、特にラスボス戦が盛り上がらなければ全体評価も一気に下がり、終わり悪けりゃ全部だめになるってことでしょう。

2025年4月24日木曜日

トランプ関税で揺れる中国の現在

 今日はがっつりした歴史記事書こうと帰宅途中もずっと構文練ってましたが、このところ仕事で披露しているのか意識がはっきりせず、さっきも横になって20分くらい仮眠取ったのですぐかけるトランプ関税で揺れる中国の現状について軽く触れます。

 結論から言うと、日常生活レベルではまだ何も大きな変化はありません。関税発動から間もないことから、影響が出るのは早くても来月、現実的には6月くらいなため当然と言えば当然です。
 ただこちらにある日系企業の間でも、今後のサプライチェーンをどうするかや中国の景気そのものへの不安が非常に強いです。対策を立てようにも朝三暮四なトランプ政権の動きから、立てた対策がすぐ使い物にならなくなる可能性も高いため、どこも動きが取れないような状態です。この辺は日本国内でも恐らく同じじゃないかと思いますが。

 唯一中国にとっていいことは、一連の関税問題で中国人の米国に対するヘイトが高まっているのと、不況の原因は米国のせいだという意識そらしが効いて、習近平政権への批判が弱まりつつあることです。多分もっと劇的に景気悪くなっても、中国政府そのものへの批判は下手すりゃ去年よりも小さくなる気がします。

 最後に本題と関係ないけどトランプ大統領が日本は車のボンネットにボーリング球を落とす試験をしているという、マジで痴呆を疑わせる発言をしていましたが、なんかこれに対するいろんな人の返しが効いてて詰まんないなと感じました。自分だったら、

「米国は軍艦の耐久試験に原爆を落とすじゃん。まぁ日本の戦艦はこれに二発耐えたけどね(´・ω・)」

 という感じで、クロスロード作戦を引用します。なんかこの手の政治トピックに対するユーモアが最近低い気がします。

2025年4月22日火曜日

耳にしなくなった「事なかれ主義」

 たまたまかもしれませんが、なんかこの10年くらい「事なかれ主義」という単語をほとんど全く見聞きした覚えがありません。ニュース検索すると使っている記事がヒットするためやはりただ見ていないだけなのでしょうが、それでも20年くらい前と比べるなら使用頻度が落ちている気がします。
 仮にそうだとしたら何故使われなくなってきているのか。推定のまま話を進めると過分にこの事なかれ主義が日本で一般化してきた、即ち誰もが当たり前に持つ感覚、思想となったため、誰も殊更に取り上げなくなったのではないかと考えています。

 そもそも何故こんなことを気にしだしたのかというと、漫画の「風雲児たち」で作者が、「学校でのいじめの最大原因はほかの生徒たちの無関心にある」と書いてあり、なんか妙に懐かしく聞こえたからです。自分の感覚では98年くらいまではこんな感じで「いじめを見て見ぬふり生徒がいじめを助長する」という意見が良く出されていた気がするのですが、この10年くらいはそれがまったくなくなり、どちらかというと教師や学校の指導不足が代わりに挙げられることが増えてきた気がします。でもってこの見て見ぬふりというか事なかれ主義について、誰も問題視しなくなったというのが一番最初にあれ?と感じたところでした。

 実際私も見ていて、今お日本人はあらゆる物事に対し主体性を持たない、下手すりゃ自分のことにすら他人事みたいな態度をとる人が多い気がします。なもんだから目の前で喧嘩とか起きても誰も仲裁する人もいなければ、お年寄りが困っていても助ける人はおらず、実際何度かそういう場面に出くわしましたがマジで誰も動こうとしないことによくドン引きします。

 なんでこうなったのか単純にセクハラとかの意識が広がったり、よく言うAEDを女性に使ったら訴えられたとかの話で警戒する人が増えたってのが間違いなく要因としてありますが、端的に言えば他人との距離感を掴めない、詰めない人が増えたというか多数派になったというのが、今の状況を表すのではないかと思います。単純に他人との衝突を避けようという意識が強くなりすぎて、接触そのものを根本的に断つ、避ける意識が先行し、物事に対してもとにかく係わらないようにするため何事にも事なかれな態度になっているというのが私の見立てです。

 こんなこと書くくらいだからこういう状況はよくないというのが私の意見で、やはりもっと自分もコミュニティの一員だと自覚して、少なくとも身の回りの社会や環境に対してもっとよく使用、貢献しようという意識を持って行動した方が本人にもメリットが多いのではないかと思います。
 そういえば今書いてて思い出したけど、学生時代に賃貸アパートの共用洗濯機を拭いていたら周りからやたら珍しがられてました。

 あんままとまりのないオチですが、先ほどのいじめ対策にもつながると思うだけに、もう少し参画意識というのを子供のうちから日本は育成すべきじゃないかと思います。

2025年4月20日日曜日

バトル漫画の裸率

 このところストレスたまってるのか無駄遣いすることが多く、無駄に排水溝の蓋とか、窓枠補強するねじとかハウスキーピング系の支出が増えています。そんなところへDMMで漫画本のセールが行われていたのでまとめ買いを繰り返しているのですが、前から気になっていた「誤チェスト」でおなじみである山口貴由氏の「衛府の七忍」も一気買いしました。
 その終盤は打ち切りエンドと言われるほ唐突なものでそれがため全体評価も「シグルイ」と比べやや微妙なものとされる本作ですが、途中にある各話は確かに面白く、沖田総司の描き方なんかはなかなか読み応えがありました。ただそれ以上に読んでて気になった点というか、なんかこの漫画、やたらとキャラが上も下も脱ぐというか、全裸で戦うことが多いです。もっとも肌どころか、内臓まで露出することもめっちゃ多いんですけど。

 そんな無駄な裸率の高さが気になった際、ふと考えてみると秋田書店は看板作品の「バキ」シリーズを含め、やたら肌の露出が多い漫画が多い気がしました。秋田書店はお色気漫画も多く、男女を問わずやたらと服を脱ぐ描写が確実に多いのですが、ならほかの出版社はどうなのかともさらに気になりました。

 まずサンデーに代表される小学館では、あんまり肌の露出が多いようなイメージはありません。端自分がサンデー系作品に詳しくないだけかもしれませんが、コナンとかでも脱ぐことがあんまない気がします。
 一方、マガジンに代表される講談社はこちらもお色気系漫画がそこそこあってこれらでは肌の露出はあるものの、逆にバトル系漫画で服を脱ぐイメージがありませんでした。競技上、上半身裸がデフォとなるボクシング漫画の「はじめの一歩」は別ですが、そのほかのマガジンのバトル漫画で服を脱ぐ描写はなんかイメージが出てきませんでした。

 では最後のジャンプに代表される集英社はどうか。こちらは時代によって違うというか、「北斗の拳」全盛期だった頃のジャンプでは脱がなきゃバトルにならないと言わんばかりに、戦闘する度にみんな上半身裸になってどつき合っていました。これは着ているクロスが非常に重要という設定のはずの「聖闘士星矢」でも同様で、一部キャラに至っては言われずとも自ら脱ぐため「露出狂」とまで言われるほどでした。

 しかしそんなジャンプのバトル漫画でも、近年の「鬼滅の刃」や「呪術廻戦」とかではあんま脱いでいる描写が多くなかった気がします。元々、ジャンプはお色気系漫画の割合が低く、バトル漫画でも最近はあんま脱がないため、肌の露出がむしろ少ない部類に入ってくるのではないかと思えるほどです。
 もっともバトル漫画ではなく料理漫画だけど、「食戟のソーマ」は食事の度に度々脱衣シーンが投入されてましたが。

 以上のような考察を経て、近年はあんまり裸を出さないようになってきているのかなと考え始めたのですが、ここでふと脱ぐバトル漫画と脱がないバトル漫画の違いとして、キャラクターがムキムキかどうかではっきり分かれるという重要なポイントに気が付きました。基本、ムキムキキャラほどすぐ脱ぎ、細身の能力系キャラクターなんかは逆に絶対脱ぎません。これを踏まえてみると、最近のジャンプのバトル漫画のキャラクターはスタイリッシュな細身系が多く、こうした登場キャラの体型の変化が裸率に変化を生んでいるのではというのが私の見方です。

 ではなぜムキムキ系キャラはすぐ脱ぐのか。これは単純に、ムキムキを得意とする作者は基本、筋肉を描く能力に優れており、作者自身も好んで筋肉美を漫画の中で見せようとしているからと考えて間違いない気がします。「バキ」なんか当然で、さっきの「衛府の七忍」の山口貴由氏も筋肉の描写に定評があります。
 なお山口貴由氏に関しては、「シグルイ」に出てくる藤木源之助の隻腕となった後の肉体に関しては、「こういう風に描くんだ」と、あんまこういうのに興味ない私ですら見ていてほれぼれとさせられています。

 話を戻すと最近はジャンプ、というか漫画界全体でも90年代と比べてムキムキキャラや筋肉描くのがうまいというか好きな作家が減っているのではと思え、それがバトル漫画の裸率低下を進めているように思えます。もっともジャンプ系でも、「タフ」の作者の猿渡哲也氏は今も現役でムキムキマッチョの裸ばかり書いてますが。最近弟子にパクリキャラ出された鬼龍に至っては、何故か裸でピアノ弾くシーンもあるし

ムーミン語

 先日、同僚より日本語で書いたメールをチャットGPTで一瞬で英語に変えるのを見せてもらった際、

「じゃあ次はムーミン語にしてみて(´・ω・)」
「ムーミン語?(;゚Д゚)」

 という反応されて、結局ムーミン語にはしてもらえませんでした。

 そもそもムーミンに言語はあるのかという議論もありますが、ムーミンはその創造神であるトーヤ・ベンソンがフィンランド人であることからフィンランド語がムーミン語だといえるだろうと思っていました。しかし先日、ふとしたきっかけから調べてみたところ、トーヤ・ベンソンはスウェーデン系フィンランド人で、日常ではスウェーデン語を使っていたとのことです。なんでも当時のフィンランドではスウェーデン語とフィンランド語の二言語が公用語で、言語間対立も存在していたとのことです。

 そのため自分が読んだブログでは、「ムーミン語はスウェーデン語」だと書かれてあり、上記背景を考えると認めざるを得ません。なんか肩透かしを食らったような感じしました(´・ω・)

2025年4月19日土曜日

トランプは消費税制度を知らないのでは?

 人伝というか同僚から聞いたのですが、なんでもある解説者の動画で「トランプ大統領は消費税という制度を知らないから、日本を含む他国が米国向け輸出製品に特別な優遇を与えていると信じている」と指摘したそうです。結論から言えば、十分ありうると私も思います。

 最初に説明すると、そもそも米国には消費税という制度はありません。米国では州ごとに税制度が異なるため一律の税率を課せないことから、売上税と言って最終的に消費者が商品を購入した際に支払う税金が間接税の主力だそうです。その売上税も、州によってもちろん税率は変わります。
 これに対し我らが消費税ですが、さっと調べたところ1954年にフランスが初めて導入した制度で、その後欧州を中心に広まって日本でも竹下政権時に導入されました。なお導入時の反発が強くて支持率も大きく低下し、「3%の消費税を導入して支持率も3%になったのだから、この際消費税率を挙げたら支持率も上がるかも?」と当時の風刺漫画に描かれてました。

 この消費税ですが基本的に売買取引ごとに発生するもので、部品サプライヤー、製品メーカー、最終消費者がそれぞれ購入行為を行うごとに消費税分を上乗せして納税する必要があります。とはいえメーカーや流通業者は仕入時にかかった経費というか原価分の消費税に関しては控除することができ、例えば100円で仕入れた物を120円で売った場合、20円分だけ消費税を納めることとなります。純粋に付加価値に対して消費税を支払う形で、これは中国版消費税こと増値税制度でも共通しています。

 以上は国内での流れですが、これが輸出となると話は変わってきます。消費税というのは国内での商取引において生じるものであり国外へ販売する輸出製品には原則的に課税義務が生じません。そのため仕入時に課税された分の消費税は逆に国から還付されることとなるのですが、輸出額が大きいトヨタなんか下手すりゃ日本に納めている分よりも多くの税金を還付されているのではと言われるほど、結構な金額が輸出企業には還付されます。

 以上が大雑把な消費税の説明ですが、そもそも最初に導入したフランスも製品輸出で競争力をつけさせる、具体的には国内でかけた税金が輸出製品に乗らないように導入した制度とのことで、実際に還付があるのとないのとでは輸出企業の実力は変わってくるでしょう。とはいえこの消費税、そして輸出税還付は日本を含め多くの国ですでに採用されているため、ある意味条件は同じというか今となっては消費税があるから他国より優位っていう状況はあまりありません。そう、消費税のない米国を除いて……。

 美絵国の売上税の制度が具体的にどうなっているのか詳しく把握していませんが、どうもトランプ政権は消費税というか輸出税還付の部分だけ見て、「ほかの国は輸出製品に対し、国内でかける税金を課さないどころか、国が直接現金を配って価格優遇を行っている」という風に思い込んでいるというのが、最初の動画解説者の指摘です。私もこれは十分ありうると思え、そもそも消費税の仕組みを理解しておらず、還付金の部分だけしか見ないで物言いそうなのがトランプ大統領です。
 実際、一部報道によるとトランプ政権は日本などに消費税の廃止を求めているというのを見ます。日本国民からしたら逆にトランプ大統領を応援したくなるような魅力的な要求でしょうが、上記の通り誤解に基づいた要求であり、また廃止したところで貿易赤字は全く解消しないことから、応ずる理由はないでしょう。

 そもそもこの消費税の制度は国際的にも長く運用され一般化された制度であり、これでとやかく言われるというのは若干癪な思いがします。もっとも前に書いた記事の通り、正論で説明すればするほど反発するのがトランプ大統領なので、「ほかの国にも言ってよ」などといってごまかすのが吉でしょう。