今日お昼休みに何気なく上の記事を読んだのですが、「神道と仏教の違い」について芸人と神主の二足の草鞋を履く狩野英孝氏の以下のセリフが冒頭に引用されています。
「ぼくがよく言うのは、『始まりと終わり』ってこと。例えば、神社は子供が授かりますように、子供が生まれて新たなスタート、合格祈願、高校大学で新しくスタートしたい、商売繁盛、店をたてて新しく何かをスタートとか。何かスタートするのが神社にお願いすること。その方がいずれお年を召して、亡くなるでしょ? 亡くなったときにお寺に行ってお墓に入る」
この解説を読んでみて、「奴さん、なかなかうまいこと言いやがるじゃねぇか」と無駄に江戸っ子っぽい感想を持つとともに、なかなか筋の通った面白い見方だと感じました。言われてみると確かに誕生祝や七五三なんかは神社でやって、葬儀や悪霊払いなどの儀式は寺でやること多く、神社は始まりを、寺は終わりを扱うなどと言ったことを考えてました。
その際ふと、「いや待て、そもそも神話は世界や人類の誕生を詳しく語るのに対し、宗教は世界の破滅後や死後について語ることが多いのでは?」と、見出しに掲げた内容が頭をよぎりました。でもって考えれば考えるほど、この法則はかなり幅広くあてはまるようにも思えてきました。
まず日本を例にとると、神話というのは日本神話こと古事記で、宗教はやはり仏教がメインです。古事記においては言うまでもなく日本というか世界がどのようにできたのかが最初に語られ、イザナミやイザナギがアメノヌボコでかき回して大地が作られ、天皇が空から降りてきて人類とかも生まれるみたいな解説がなされます。死後の世界についても一応は黄泉の国などについて少し語られはするものの、人間が死後どんなふうになるのかはあんま触れられていない気がします。
一方、仏教はこの世界の誕生については間違いなくあまり触れません。そもそも輪廻転生を是とする世界観で、言うなれば今の世界は一つ前の崩壊後の世界が再生した後の世界であり、一番最初の誕生はどうだったかについてはそこまで詳しく語りません。一応、宇宙開闢については多少は説法もあるものの、どちらかといえば初めからそこにあったという語り口が強いような気がします。
逆に、死後の世界についてはこれでもかというくらい詳しく説明されています。そもそも仏教自体が「死後に極楽浄土に行くにはどうすればいいのか?」が価値観の柱となっており、死後のために今生きてる現世をどう生きるかを説くことが思想的根幹にあるでしょう。そのため極楽浄土や地獄の世界観について詳しく描写するとともに、実際に過去に死んだ偉人らが死後どうなったかも色々取り上げられています。
以上は日本での話ですが、ほかの国や地域もこうした傾向がみられる気がします。例えば西洋だと、ユダヤ教の旧約聖書ではアダムとイブに始まりノアの箱舟など、この世界の成り立ちがこれでもかっていうくらい詳しく書かれてあります。それがキリスト教の新約聖書になると、生前のイエスの言行も詳しいですが、むしろメインとなるのはその死後で、現在の布教においてもイエス死後の聖人らの活動が大きく語られるとともに、そうした聖人らが天国でどうなるかなどを含め死後の世界観についても詳しく語っています。
同じ西洋においてはギリシャ神話もこの世の成り立ちというか、世界を司る神々の経歴がメインストーリです。地獄についての概念もありますが、大体ハデスがチョンボしたり悪さしたりするような話で、啓発的な意味合いは宗教と比べると弱い気がします。
もう一つお隣こと中国で見ると、宗教に関しては日本と同じく仏教ですが、中国の神話となるとやはり道教です。この道教も盤古の死体が大地となって、伏犠や女媧が人間を作るなど世界の成り立ちに関してかなり詳しく説明しています。一方死後に関しては一番ぶっ飛んでるというか、「道教を修行すればいつか仙人になって無限に生きられるよ」という、死後の世界を否定するような価値観すらあります。
一応、閻魔大王のもととなった泰山府君など地獄の概念とかもあるのでないわけじゃないんですが、それでもほかの教えと比べると死後についての言及はやはり仏教と比べ大きく劣ると感じます。
こんな具合に、土着宗教こと神話ではこの世や人類の誕生を詳しく語るのに対し、後発の宗教は死後や世界消滅後についてやたら語る傾向がある気がします。特に後者は末法思想というか終末観を確実に持っており、なんていうか滅びの概念こそその教えの中心に据えているとすら感じます。
なおこうした変化というか傾向は文明の発達に伴っている節があり、新興宗教ほど先の終末思想がそれ以前の宗教よりだんだん強まる傾向もあるのではないかと穿っています。
では何故このようになるのかといえば勝手な意見としてそのまま述べると、原始的な世界において人間はまず「俺たちはどこから来たんだ?」という疑問が一番悩むトピックだったんじゃないかと思います。現代においても自分のルーツは何だろうかと疑問を持つことは珍しくなく、普遍的な悩みといえるトピックですが、特に自然科学の発達していない時代においては一番不思議に感じる点となり、その答えとして作られた神話では当然ながら誕生というかルーツが詳しく語られることとなるわけです。
一方、ある程度文明が発達し、寿命以外の死亡率が下がってくると今度は「俺たちは死んだらどこへ行くのだろう?」が、一番悩むトピックになってきたんじゃないかと思うわけです。未発達の時代と比べると簡単には死ななくなり、前は生まれてくるのが不思議だったけど、今度は死んだ先がどうなるのかが不思議となっていき、こうした悩みに答えというか仮説を出していく過程で宗教というものが固まっていった、というのが自分の見方です。
言うまでもなく、神話、宗教はともに人間というか集団を統合するために作られた思想的ツールという側面があります。価値観的に従わせる上で、多くの物が持つ悩みを快刀乱麻にアンサーを出すことは信じさせる早道であり、だからこそそれぞれが重きを置く点が時代の差から神話は誕生、宗教は死後になったのではないかというのが自分の仮説です。
以上の考えに至ったのは本当に今日の正午に上記の狩野氏の発言が全部きっかけでした。実際、狩野氏の言葉は取りようによっては非常に深い含蓄を備えたものに思え、天然ボケが多い人だけどやっぱこうした思想に対する造詣は深いと思えました。
それと同時に、神話と宗教の明確な差がまさに時間的な前後というか誕生と死にあるというのはかなり普遍的な傾向であるように思え、掘り下げたらもっと何か出てくるかもしれません。個人的にはかなり面白い発見をした気がして、今日はいい気分で寝られそうです。
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