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2008年8月15日金曜日

頭文字Dについて

 今日は特に書くことないから、ほんと言うと明日辺りからまたややこしいことを書く予定ですが、久しぶりにまた自分の事でも書こうと思います。

 今BGM代わりに「Break in to the night」という曲を聴いています。聴いててなんですが、よくこんな歌でこの歌手はやっていけるなと思うくらい下手くそです。しかし、この下手さがかえってよいと思い、ことあるごとに聞いています。
 この歌を歌っているのはm.o.v.eといって、アニメ「頭文字D」の主題歌を担当しているグループです。多分何度か書いていますが、私はこの頭文字Dにまたえらくはまって、それまで全く興味のなかった自動車が一気に好きになるきっかけとなった作品です。

 この作品の内容自体はウィキペディアを見てもらえばわかると思いますが、本来は初心者マークをつけるはずの主人公藤原拓海が公道レースにデビューし、その技術でもって様々なライバルを倒していくという話です。
 率直に言って、この作品が何故評価されたのかというと、まず第一に挙げられるのが主人公の使用車種が「トヨタAE86スプリンタートレノ」であることでしょう。これは往年の人気車種ですが、連載が始まった頃ですらすでに10年落ちのロートル車種でしたが、作者がこの作品で「おとぎ話を描きたかった」と言っているように、性能的には明らかに敵うはずのない最新車種のライバルたちを次々と倒していく爽快さが読者にはたまらなかったと思います。車の性能のハンデを技術で覆すという単純なストーリーの王道ですが、作者の技術的な解説(こじつけにちかいけど)が補填され非常によくできたストーリーへと昇華されています。

 次に、私がこの作品でよかったと思う点が、主人公の高校生らしさだと思ってます。連載ではすでに高校を卒業していますが、連載当初は高校三年生の夏休みから始まり、当初は周りに振り回されて嫌々レースを行っていたものの、レースを重ねていくごとに自分の心境の変化、早く走りたいと思っていくようになる過程が、18歳の少年らしさが出ているように思えます。もちろん18歳なので、時には無茶とも思える行動を犯し、自ら挑戦したランエボⅢとの勝負で86のエンジンをブローさせて敗北を喫するなど(ちなみにこのときランエボⅢを運転している須藤京一が私の一番のお気に入り)不器用な姿も描かれており、非常に人間描写が優れているという点も、この作品を人気作品へと押し上げた要因でしょう。
 さきほど、主題歌を歌っている人の歌が下手くそだがそれがいいと書きましたが、その理由はここにあります。主題歌が程よく主人公の不器用さを表しているようで、非常に作品にマッチして聞こえてきます。いちおうフォローを入れておくと、最近だとこの歌手は少しはマシになりました。

 漫画としての表現面では、この作者の走行する自動車の描写ははっきり言って天下一品でしょう。結構ほかのレース漫画を見てると、車が走っているシーンですらまるで止まっているように見えて、全然迫力がありません。というのも二次元で、しかも静止画で車が走っている状態を描くのは非常に難しいとされています。言えばそのままですが、車は走っててもそんなに目に見えて走る動作を見せないので、常に同じボディ表面のままを書かざるを得ないのですが、この作者は擬音と効果線、そして視点の使い方が非常に上手く(その一方で人物画は下手だと揶揄されてますが)、文字通りこれだけ走っているように見せられるというのは驚愕の一言に尽きます。

 そんな頭文字Dですが、私がこの作品の中で特に気に入っているバトルをいくつか挙げると、まず藤原拓海対高橋涼介のAE86対RX-7サバンナです。普通に考えたら、RX-7が負けるなんてありえないんだけどね。そして先ほども挙げた、藤原拓海対須藤京一のAE86対ランエボⅢの二戦目です。この時は86もエンジンを取り替えてパワーアップを遂げており、見事にリベンジを果たすというのが見ていてたまらなかったです。
 そして、これは多分私だけではないと思いますが、藤原拓海対館智幸のAE86対シビックタイプRの対決です。この対決は話に二転三転があり、あのブラインドアタックも炸裂するので盛り上がりという点では最もよいバトルだと思います。しかし残念なことに、このバトル以降はどうも中ダレ気味です。作者もあまり連載をこれ以上続けたがっていないようですし、私としてもこのバトルが事実上、頭文字Dの最終回のようなものと位置づけています。

2008年8月14日木曜日

日本経済の非効率について

 今お盆シーズン真っ盛りのため、連日高速道路の渋滞情報が報道されています。その渋滞を作っている人たちはお盆に実家に帰省するか、もしくはバカンスに避暑地などに行く人が大半だと思われます。

 これは私の恩師のK先生がよく語っていた話ですが、日本人はお盆と正月に集中して行楽地へ出かけるのは、経済的には非効率なことをしているというのです。何故非効率かというと、この時期にまとめて移動するために渋滞が起きるからではなく、この時期にしか行楽地を使わないために、旅館やそういった施設というものが一年を通して非常に非効率な経営をせざるを得なくなるからです。

 ちょっと算数的な話をしますが、ついてきてください。
 とある行楽地があるとします。そこには一年間を通して正月とお盆のある一月と八月はいくらでも人がやってきてどこの旅館も満員になるのですが、それ以外の月だと一つの旅館だと100人しか人が来ません。なので、ひと月あたりの収容人数が1000人、500人、200人の旅館だと、一月と八月にはそれぞれ満杯になりますが、それ以外の月だと皆一緒に百人しか客が来ません。それで一年辺りの客数を計算すると、

1000人:1000×2+100×10=3000
500人 : 500×2+100×10=2000
200人 : 200×2+100×10=1000

 という結果になります。そのため、単純に言って稼ぎ時である一月と八月にかけて客を大量に取り込む、つまり収容人数を可能な限り大きくしなければ売り上げが伸びず、旅館の経営が成り立ちづらいのです。見る人によっては、「少ない収容人数でも細々とやればいいのでは」と思うかもしれませんが、やはり経営を行っていくにはある程度の収入を稼がねばならず、どこの旅館も収容人数を大きくせざるを得ないと聞きます。

 そうして経営をやってくために収容人数を増やすため、経営者は旅館の部屋数を増やしたり従業員も多く雇うのですが、そういった投資は一月と八月以外では逆に経営の重荷にしかなりません。掃除も毎日しなければならず、労働的にも多く働かねばなりません。かといって一月と八月に客を取り込めなかったらやっていけないので、一種のジレンマに旅館は陥ってしまいます。

 しかし、もしこれが一月と八月に集中しなければどうでしょうか。たとえば、毎月コンスタントに250人ずつ来るとします。すると、

250×12=3000

 という風に、最大収容人数が250人の旅館でも、先ほどの収容人数が1000人の旅館の一年分と同等の客を迎えられることになります。つまり、コンスタントに客が来ることによって無駄に大きな施設を作る必要もなく、単純計算で4分の1の投資でも同じ売り上げが見込めるということです。もちろん、施設の維持や従業員にかかるお金も単純計算で4分の1になるので、利益も非常に大きくなります。

 このように、日本人が娯楽を一月と八月に集中して使うのは日本人全体にとってとても非効率的なことだと、私の恩師は語っていました。この考えはもっとミクロな世界にも通用し、たとえばラーメン屋さんでも、お昼の12時から12時半に客が一気に集中するので、売り上げを伸ばすため店を大きくしなければいけないところを、もっとサラリーマンなどが昼休みを分散して取り、11時から2時くらいまでの間に分けて来ることによって、投資もする必要がなくなったり、お昼の一時間に馬鹿みたいに忙しく働かなくともよくなり、ラーメン屋さんのおじさんも大助かり……という話にもなります。

 このように、ほんのちょっとの工夫で社会というものは非常に効率的になり、働く側も負担が減り、サービスを受ける側も、ラーメン屋の例だと混雑に悩まされなくなるなどいろいろ恩恵を受けられるのです。経済学というのは中にはお金儲けの学問だと考えている方もおられますが、実際にはこのように、どうすれば皆で得するのかということを考える学問です。そういうことを教えてくれたK先生に、この場を借りて感謝をさせてもらいます。

北京五輪の報道について

 別に敢えて避けてきたわけじゃないけど、今も開催中の北京五輪について今日はお話します。

 これは今日のニュースですが、水泳の北島選手が100メートルに続き200メートルでも金メダルを取りました。これ事態は非常にめでたいわけですが、確かおとといのニュースでしょうか、北島選手の北京での人気ぶりについて日本の民法が現地の新聞を取り上げ、

「現地では北島選手のことを「蛙王」と呼んでいます。なんでしょうかね、蛙みたいに泳ぎが速いからですかね」

 とレポーターが言っていましたが、この放送局にはまともな中国語スタッフがついていないのではないかとちょっと思いました。というのも、この言葉に含まれている意味はただの蛙じゃありません。北島選手の専門の平泳ぎは中国語だと「蛙泳」なので、ただ単に「平泳ぎの王者」という意味で使っているのでしょう。ちなみにクロールは「自由式」、背泳ぎは「仰泳」、バタフライは「蝶泳」です。

 これとともに思ったことで、これは報道というよりもネットでの評判ですが、よく中国の空気は汚染されている、吸うと体がおかしくなるという報道がありますが、私はちょっとこれはおかしいのではないかと思います。
 そもそも、東京五輪が行われた時は東京の空気は多分今の中国より悪かったのではないかと思います。というのも、当時はようやく公害問題が注目され始めた頃で、光化学スモッグが夏場はほぼ毎日発生していたと言われています。日本だってそういう時期があったのだから、何もこれだけ激しく中国のことを責めなくともと、個人的には思います。

 そして私の体験だと、私は一年間北京で留学生活を送りましたが、それほど北京の空気が汚いとは思いませんでした。そりゃ確かに日本と比べれば汚いと感じますが、個人的な見解をいうとロンドンの空気の方が北京より何十倍も汚かったように思えます。「イギリスの車には排ガス規制がないのか」とすら思うくらいに、鼻で吸うとものすごいにおいがして、口で吸うと思わずむせる、ロンドンはそれくらいの空気の汚さでした。その空気の悪さを反映しているのか、道路は文字通り真っ黒で、手で触るとすすですぐ指が黒くなります。さらに言うと、これは私は行っていないのですがフランスのパリに行った人によると、パリはこのロンドン以上に汚いそうです。

 唯一、北京の環境面で悪いところを言えば、この夏場の暑さです。はっきり言いますがめちゃくちゃ以上です。共産主義国なもんで道路幅もやたらと広いから照り返しもきついし、じりじりと肌を焼かれるような日差しでした。そういうわけだから北京でマラソンをやるなんて、私なら頼まれたってごめんです。

2008年8月13日水曜日

予想の極意

 本日のMSN産経のニュースにて、「アイフォーン発売1カ月 ブームは息切れ? 料金変更で販売てこ入れ」というニュースが報じられました。私はこのアイフォーンについて以前に、「iPHONE参入に見る日本の携帯電話市場ついて」の記事で、言われているほどそこまで売れないのではないかと予想していましたが、現段階でどうにかその予想が大きく外れていないことがわかり、正直ほっとしています。
 ここで言うのもなんですが、前回の記事を書いていた時は自信はあったものの内心ではひやひやしていました。というのも、発売前から連日報道され、あれだけ宣伝効果の高い商品をはっきり売れないと書くのはなかなか勇気のいる行為だからです。

 それで何故私がアイフォーンを売れないだろうと予想したかですが、まず記事にも書いていますが、「日本の携帯電話は世界的にもすでに高性能である」という、発売前のアイフォーンについての記事があり、これを一つの判断材料にしました。
 その記事の中ではアイフォーンの特徴や利点なども説明されていたのですが、たとえばアイフォーンが多機能でインターネット機能も充実しているという記述ですが、この点では日本ではiモードを筆頭に携帯電話でのネット閲覧機能はすでに普及しており、販売が伸びる要因にはならないと踏みました。同様に、たくさんのソフトを取り込めゲームなどもあれこれできるということも書かれていたのですが、これも日本は他国と比べて携帯ゲーム機がPSPやNINTEMDO DSなどが非常に充実しており、今更ゲームハードとして機能の落ちるアイフォーンを使う人間はいないだろうと思いました。

 以上のように、アイフォーンの売りとされる特徴が日本人には真新しくない、さらに付け加えると日本には欧米と比べてそれほどアップルの信奉者がいないということを考慮に入れ、いくら価格が抑えられたからといって最初の物珍しさがなくなれば恐らく今のようになるという予想に至りました。
 唯一の懸念として、前回の記事にも書きましたがマーケティングによる影響が最も怖かったです。もし今も絶好調の白犬のお父さんのテレビCMがアイフォーンの宣伝に使われたら爆発的に売れるだろうとは思いましたが、恐らくアップル社との契約の関係でコラボレーションはないと踏み、保険のつもりで「マーケティング次第」という記述を加えたりしておきました。ほんと、やらなくて助かった。

 私のことを直接に知っている人間ならわかるでしょうが、基本私は予想屋です。国際政治にしろ経済にしろ、今後どのように世の中が動くのかを予想し、判断材料を周りへと提供しています。過去の記事にもいくつか書いていますが、予想の成否というのは判断者の実力以上に運の要素の方が大きいものです。しかし何故その判断に辿り着いたのかという手順さえ踏んでおけば、たとえその予想が外れたとしても、あらかじめその問題を考えておくことによって事情の推移や背景というものが頭に入るので、たとえ出た結果が予想と異なったものであろうとその後の事態の理解には役に立ちます。そういう意味で予想というのは、成否以上に過程の方が重要だと私は考えています。

 それでも予想は当たるに越したことはありません。では当てるためにはどうすればいいのかですが、今回のアイフォーンの例のように、やはり判断材料をしっかり集め、それを煮詰めることに尽きます。
 しかしただ判断材料を一言で集めるといっても、情報というものは無数にあるものです。それこそアイフォーンの場合、恐らく発売前だと私が選んだ「本当に日本で売れるのか?」という記事はほとんどなく、むしろ「アイフォーンはこんけすごいぞ」、「日本でも絶対バカ売れ」と書かかれた記事の方が断然多かったはずです。にもかかわらず私が判断材料に否定的な記事を選んだのは、私自身が持っている情報とその記事に書かれている情報、そして現実の事実関係の一致があったからです。その事実こそ、もう何度も言ってますが「日本の携帯はもう高性能」という事実で、さらに私の持ち寄った携帯でのネット閲覧や携帯ゲーム機の情報です。こうしていくつもの情報を刷り合わせることで、予想の的中率というのは飛躍的に高まっていきます。

 しかしここまで書いておいて言うのもなんですが、これは佐藤優氏も言ってますが最期に一番ものを言うのは判断者の勘です。なんだかんだいって、一番的中率を上げるのは職人仕事的な言語化することのできない鍛え上げられた直感で、判断者が漠然と「こうなんじゃないかな」と思う気持ちだと思います。こう言うと一見、予想は抽象的な世界のように感じられるかもしれませんが、敢えてこの直感について理論をつけると、その予想をする人間も事態を動かす全体の中の一人だということが元になっています。
 それこそ内閣支持率なんかだと支持するか支持しないかの二択です。その人が今の総理大臣を支持しているか支持していないかどう思うかですが、もしその人の価値観が日本人の中で多数派を占めている価値観であるならば、その人が支持すると思うのならば多数派である同じ価値観の人間も支持すると考え、結果的には支持が上回る結果が起こるということになります。

 言ってしまえば、その人の価値観が当該社会で多数派に属しているのなら、余計な理屈なんて踏まずにその人の思ったことを予想に出せば当たってしまうのです。私の場合はこれを逆説的に用い、今の日本人の多数派の思考や価値観を読み取り、その中でものを判断して予想したりします。今回のアイフォーンの例でも、発売前の報道で自由にプログラムが組めるなど書かれていましたが、私はこの報道に対して、「操作が複雑そうで、手にとりづらいな」と思い、恐らくほかの日本人もそういう風に考えるに違いないと踏んだりしました。

 このやり方は結構地味ですが、意外に強力です。肝心なのは自分個人の判断は全体の1%にも満たないが、その同じ判断をほかの人間がどれだけするかです。さらに言うと、自分が多数派に属しているか少数派に属しているか、日頃からしっかりとわきまえておくことです。私なんて少数派に属すことが多いので、普段は、「大衆は私と反対の考えを持つに違いない」と、自分の考えと逆の内容の予想を作ることの方が多いです。

韓国国営放送トップの解任

 前回、「韓国BSE騒動について」の記事で、韓国の国営放送のKBSがBSE問題について捏造報道を行い、李大統領政権を転覆させようとしているというニュースを紹介しましたが、今日のニュースで李大統領はここのトップを解任することにしたそうです。(ネタ元:YAHOOニュース「KBS社長解任・デモ規制も強化 韓国・李政権攻勢へ」)

 記事によると、韓国でも今オリンピックで盛り上がっており、BSE問題の報道が少なくなってきたところで大統領が反撃に出たとのことです。特に解説する内容があるわけでもなく、続報が来たので紹介しておきます。

2008年8月12日火曜日

漫画家による小説の表紙絵について

 去年、太宰治の著作「人間失格」が漫画「DEATH NOTE」で有名な小畑健氏によって表紙絵が描かれるや爆発的に売れ出したということがありましたが、その後も二匹目の泥鰌とばかりにこのところ人気漫画家の表紙絵で飾る文芸小説の出版が増えております。代表的なのは「伊豆の踊り子」や「地獄変」、「こころ」などがあり、こういった一連の動きに対して中には「これじゃただのラノベ(ライトノベル)だ」と、批判する人もいるようです。ですが私の意見としては、少なくともこういった名作を読まないよりは読む方がいいに決まっているので、表紙絵が人気漫画家によって書かれたことによって手にとるきっかけになるのだったら、別にいいのではないかと思っています。

 と、いいのではと言いつつ、実は私も内心ではこういう表紙の小説が増えていることに対して忸怩たる思いを感じてしまいます。というのも、私は以前にかなり熱心に小説を書いていました。やばい時なんか一日二十枚ペースで毎日書いていき、投稿も結構やっていました。しかし、ちょうど5年前の初夏、本屋である小説が平積みにされているのを見てピタリと小説を書くことをやめました。その小説というのも、今も爆発的な人気を持っている「涼宮ハルヒの憂鬱」です。
 別にこの小説を読んだわけではありません。読んだわけでなく、表紙を見て気づいたのです。

「ああ、もう美少女を前面に出さないと、小説は売れないんだな」
 
 実は私の投稿先というのはいわゆるライトノベルと言われるジャンルの小説賞でした。私自身、アクション映画や戦闘アニメが大好きなので、そういう活劇的な表現が自由に許されるライトノベルでアクション小説を書きたいと思っていました。しかし私が書くことをやめた五年前にはもう、本屋においてあるライトノベルの小説の表紙は皆、美少女が描かれたものしかなくなっていました。
 別に美少女を出すことを否定するわけではありません。物語のエッセンスとして、美形のヒロインは大抵必要になるでしょう。しかし、何でもかんでも美少女を中心におかなくてはいけないというわけでもないでしょう。

 ですが今の本屋を見ていると、やっぱり表紙に美少女を描かないと小説は売れないようです。スピード社の水着じゃないですけど、本が売れるのは小説の話のおかげなのか表紙の絵のおかげなのか、これじゃ全くわかりません。そういうことに気づいたとき、多分自分の小説は評価されないだろう、売れないだろうと思い、ぱっと小説を書くことをやめてしまいました。

 今回の文芸小説の売り上げも、やっぱり表紙に負う所が多いのでしょう。内容が評価されず、外っ面ばかりが重んじられる世の中を私は昔から批判してきましたが、ここまで影響力が強くなってしまうと、なんか声を上げる気力すらなくなってきました。願わくば今回そうやって文芸小説を手にとった読者の方がその文芸の面白さに気づき、他の文芸作品にも自主的に手にとるようになり、中身のわかる読者へと変わっていってもらいたいものです。そういいつつ、私も「NHKにようこそ」というライトノベルを、表紙絵が私の大好きな安倍吉俊氏が書いていたから買っちゃったんだけど。内容はやっぱり面白くなかったけど。

なぜ批判をするのか

 また先日のサンデープロジェクトの話ですが、この前の主な議題はこの前起こった秋葉原での無差別殺傷事件についてでした。その中で東浩紀氏という東工大の教授が、2ちゃんねる内のこの事件の犯人に関連するスレッドのうち、犯人を擁護したり同情的な内容が書き込まれるスレッドが全体の4分の1もあったと説明していましたが、こんな何の信用性もないデータを曲がりなりにも大学教授が持ち出すことに私は驚きました。それこそ2ちゃんねるの言葉を使うなら、自作自演であんたがそういうスレッドを立てたんじゃないか、とも反論できますし。

 それはさておきこの東氏は、犯人に対してなぜ一部の人間が同情や共感を覚えるのかということについて格差社会ゆえに社会に対して不満を抱える人間がいるためだと主張し、それに対して櫻井よしこ氏は法律体系の問題があるなどとあれこれ議論していましたが、このどれにも私は真っ向から否定します。私の意見は単純明快で、みんなが話題にするから、中にはそういうこともいう奴が出てきたのだと思います。

 これは私自身以前に論文にまとめましたが、社会学者の鈴木謙介氏の「カーニヴァル化する社会」という本の中の説を採用しています。鈴木氏によると、昔と比べて最近の若者はバックボーンとなるような固定的な価値概念を持たず、その対象が単純に自分の感性に合うか合わないか、つまり面白いと思うかどうかで自分の立場を変えると主張しています。

 一つ例を出しましょう。たとえば領土問題などで中国や韓国を激しく非難する人がいます。しかし、その人は直接的に中国人や韓国人に殴られたりするなど実害を受けたことがないにも関わらず、領土問題などであいつらは汚いと罵ります。かといって、日本に対して愛国心を持っているわけではなくて、投票にも行きません。そして政治家の汚職問題が起こるや、やれ政治家は腐っているなどと非難します。これを見て、不思議に思いませんか?

 鈴木氏によると、その人が何故中国や韓国を非難するかといったら、ほかの人も2ちゃんねる内などで非難しており、なんとなく楽しそうだから混ざっているだけだといいます。もちろんそんないい加減な理由で非難しているだけだから日本に対して愛国心はないし、実際に問題を真剣に考えているわけでもない。何かしらの政治的、思想的信条があるわけでもないのに、場当たり的に批判、賛美を今の若者は行っていると指摘しており、私もこれに同感します。

 今回の秋葉原の事件も同様で、犯人を擁護する意見があるといっても、格差社会に不満を持ってたりとか大そうな理由とかは一切なく、ただなんとなく適当なことを言ったり、その場のノリで擁護する側に回っているだけだと思います。恐らく今度また別の事件、たとえばお金持ちの人が大きな事件を起こしたら、「お金があるが故の孤独を感じていたに違いない」とか同じ人でも言い出すんじゃないでしょうか。

 ここでちょっと話は変わりますが、やはり私の周りにもしっかりとした立場や信条を持たずに、激しく何かを批判する人間が溢れています。政治問題には興味を示さないくせに中国や韓国を口汚く罵ったり、誰がどのような経済政策を提言、実行しているかもわかっていないくせに政治家の誰々のせいで格差が広がったとか、根拠も何もない割にびっくりするような剣幕でまくし立てるその姿には、驚きを通り越して呆れる事すらあります。

 別に私はわかってないから、根拠がないからといって批判をするなと言うつもりはありません。しかし、正義感を持って社会悪を批判する際に、決して個人的感情を交えてはいけません。ただ憎たらしいとか気に入らないとか、よくわかってないけど皆があいつは悪い奴だと言っているからという理由だけで批判するのはもとより、必要以上の怒りを持って批判もしてはいけません。批判をする際は、何が、どのように社会を悪くさせているのかをわきまえ、では何をすべきかという自らの目的との差異をきちんと認識した上でやらなければ、それはただの八つ当たりと言われてもしょうがないと思います。

 老婆心ながら、現代の日本の若者に対して言っておきます。社会悪に対して怒りを持つことはとてもよいことです。ですが、その社会悪たる問題に対しては冷静な分析を行い、何が本当の悪なのか、自分のどんな考えと相違があるのかを自分の頭でしっかり考えた上で憎んでください。かくいう私自身も、中学生くらいの頃は何もわかってないくせに結構個人的な感情でメディアや政治家を罵っていましたが、やっぱり後から考えると愚かだったと後悔しています。けど大体高校生くらいになると、知識では不足していたところが見えるものの、まだちゃんと冷静に怒っていたなと思えます。

 そんな自分の経験があるからこそ言えるのです。何をされても怒らないのはよくないですが、何もされてないのに怒りすぎるのもまたよくありません。特に、他人の被害や痛みを、まるで自分が受けたように語らないように。私が考えるに被害者意識というのは、最も攻撃的になりやすく危険な意識だと思うからです。

 文章がちぐはぐだなぁ。書きたい事を一気に書いたせいだろな。