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2008年9月28日日曜日

ゲーム会社のアトラスについて思うこと

 前回、「ゲーム「ペルソナシリーズ」についておもうこと」にてペルソナ3について簡単にレビューをしましたが、その後しばらくゲームを続けていて、なんというか「またか」というような感情を覚えてきました。というのもこのゲーム、RPGの癖に主人公が戦闘で死亡すると即ゲームオーバーになってしまうのです。もちろんザコ敵との戦闘でもです。

 このシリーズのほかのゲームではそんなことはないのですが、この3では何故だかそんな仕様になっているもんだから本来余裕のはずの相手にすらいきなり即ゲームオーバーにされる確率が非常に高くなっています。しかもこのゲーム、アホだから即死魔法がやけに多くて、こっちが使っても10%くらいしか効果がないのに敵が使うとなんだか50%くらいで食らいます。なわけで先ほどもザコ的の戦闘でいきなり即死魔法をパーティ全体に使われて、HP満タンの主人公一人だけが食らってゲームオーバーになりました。このシステム作った奴、首でも吊れってんだ。死亡状態から回復する魔法もあるけど、存在価値あるのかよ。

 おまけにこのゲーム、AIがこの時期のゲームにしては非常に稚拙です。戦闘時にいくらか仲間に大まかな戦略を指示することができますが、基本的に仲間キャラの行動は操作ができないのでAI任せになるのですが、何も気絶している相手を毎回叩き起こす必要はないのでは、もっと優先して叩く敵がいるのにと毎回思わずにはいられません。先ほども行った戦闘指示ですが、これなんかも一回の戦闘ごとにいちいちコマンドしなくてはならず、明らかにこのゲームの欠陥と言えると思います。

 実は最近、このアトラスが運営しているゲームセンターで大負けこいたのでイライラも手伝ってこの際文句をあれこれ続けさせてもらいます。それにしても、ゲームセンターのスロットで16連続でリーチが外れるってありえないだろ……。ゲーム台に殴りかかった私も悪いけどさ。

 このアトラスという会社は一般にはプリント倶楽部、通称プリクラを作った会社として認知されていますが、かなり昔からゲームを作っており今に至る女神転生から様々な種類のゲームを世に出しています。しかし、この会社が何故RPGの本舗ことスクウェアエニックス社の後塵を拝したかというと、私に言わせるとどのゲームも作り込みが甘いことが原因だと思います。なんというかユーザーのことを考えていないというか、ほんの少し改善するだけでぐっとやりやすくなるところに限ってこの会社は放置し、また難易度についても、これは昔からのユーザーにとってすれば今のゲームがぬるいだけと言われるかもしれませんが、なんというか致命的なところを調節しておかないために、ゲーム全体のバランスを毎回のように崩しているところがあると思います。

 一つ例を挙げると、「女神異聞録ペルソナ」ではいろんなペルソナ、ていうかスタンドを装備して戦闘しますが、ペルソナの中で入手も簡単なある種類のペルソナを装備していると敵キャラの魔法をほぼすべて反射してしまうために、魔法攻撃しかしてこないラスボスなんかだと余裕でノーダメージで勝てたりします。かと思えば十分にレベルを上げて余裕でザコ敵もなぎ倒せるくらいで次のステージに進んだら、いきなりわけのわからないくらいに強い敵が続出してなかなか前に進めなくなる、って言うのも結構ざらでした。個人的にこれが一番ひどいと思ったのは「真女神転生2」かな。

 もうすこしこういったところ直して一般ユーザーももっと遊びやすいように設計していれば、プレイしているユーザーは皆コアなファンになっていることから、DQやFFと並ぶ三大RPGの座に並べたと思います。ちなみに過去の三大RPGはDQこと「ドラゴンクエスト」、FFこと「ファイナルファンタジー」と「ロマンシングサガ」の三シリーズです。このうちロマサガは最近続編がほとんど出ていないからもう除外されていると考えると、今じゃその位置に「テイルズシリーズ」が来るのかな。

 今回のペルソナ3は一般ユーザー向けにこれまでのシリーズから非常に難易度を下げていますが、最初に言った主人公一人戦闘で死んだら問答無用でゲームオーバーというシステムは常軌を逸しているとしか思えません。ようやくまともなゲームになったかと思った矢先にこれですから、今後もアトラスにはあまり期待が持てなくなりました。

2008年9月27日土曜日

文化大革命とは~その八、林彪事件~

 前回までは文化大革命に翻弄される国民目線の解説でしたが、今回から指導者たちの権力争いについての解説になります。文革期の後半に至ると、なにもこの文化大革命のみならず建国時からの元勲たちが次々と世を去っていくことになりました。

 文化大革命初期に、これら元勲メンバーの中でいち早く毛沢東支持を表明したのが林彪でした。彼は抗日戦争の頃から活躍した将軍でしたが、年が他の元勲より若いということもあってこの時期には軍隊内で元帥とは言っても最高権力者にはなれずにいました。そんな時、毛沢東が文化大革命を引き起こし、それに乗ずる形で毛沢東に接近し、彼の威光を使うことによってライバルたちを次々と引きずりおろして軍隊内での地位を固めていきました。
 毛沢東が何故文化大革命を引き起こせたのか、その最大の要因となったのは軍隊、この林彪が毛沢東の行動を支持、協力したのが大きいといわれています。そのせいか毛沢東の林彪への信任は厚く、生前にははっきりと自分の後継者だと明言しております。

 そんな林彪が、文革末期の1971年に突然亡くなります。しかも、暗殺でです。事の起こりはこうです。この年のある日、中国とソ連の国境付近で飛行機が墜落しました。墜落現場をソ連の調査団が調べたところ、現場にある焼死体のうちの一つが林彪のものだと確認されたのです。
 この事件が発覚した際は各所で大きく事件が取り上げられました。何故毛沢東の後継者とまで呼ばれている林彪が墜落死したのか。しかも墜落したのが中ソの国境付近ということから林彪ががソ連への亡命を行おうとしていたことがわかります。

 この事件の最大の謎は、毛沢東の後継者として思われていた林彪が何故ソ連へと亡命を謀ったのかです。それについては諸説あり、まず一つが毛沢東の暗殺を謀ったためという説が今現在で最も強いです。毛沢東との関係は非常に深かったものの、猜疑心の強い毛沢東に次第に疑われこのままでは遅かれ早かれ他の幹部のように殺されると考えた林彪が、逆に相手を討ち取れとばかりに暗殺計画を練ったのが毛沢東にばれ、亡命を図ったもののその途中で毛沢東の追っ手によって飛行機が打ち落とされたというのがこの説です。また林彪自身は暗殺を計画しなかったまでも、息子の林立果が計画し、それが漏れたという説もあります。

 この説に対する対論として、暗殺を謀ったのが林彪ではなく毛沢東だったという説があります。なぜなら林彪は既に毛沢東の後継者として指名されてあるので、遅かれ早かれ何もしなければ最高権力者につけるはずなので、毛沢東の暗殺を謀るのは矛盾しているという説に立ち、一方的に猜疑心の強い毛沢東が林彪に対して暗殺を謀り、それから逃亡しようとしたところを結局打ち落とされてしまった、という説です。

 この事件については現状でもまだまだ明らかになっていない事実が多く、真相が明らかになるにはまだまだ時間がかかると思います。ただ一つ明らかなのは、この事件がきっかけで毛沢東はその後急速に方針を転換するに至っています。
 残っている記録によるとこの事件は毛沢東にとっても相当ショックだったようです。真偽はどうだかわかりませんが林彪機墜落の報を受けて毛沢東は、「逃げなければ殺さなかったものの」とつぶやいたという話があります。
 恐らく、毛沢東としては文化大革命の初期からの自分の支持者だった林彪の、少なくとも亡命にまで至る裏切りは相当堪えたようです。またこれまでの自分の採ってきた政策にも疑問を持ったのか、一度は自らの手で追放した実務派の鄧小平をわざわざ復権させて政務を取らせるようになっています。

 私の考えを述べさせてもらえば、その後の毛沢東の慌てぶりを見ると彼が率先して林彪を殺害しようとしたとは思いづらいです。とはいえ林彪を廃した後、毛沢東は急速にアメリカ、ひいては日本と急接近するなど外交路線でも大きな転換をしており、この事件が彼の政策を転換するに至る象徴的な事件であることは間違いありません。
 文化大革命全体を通しても、この事件が果たした役割は非常に大きいといわれております。しかしながら先ほどにも述べたようにこの事件にはまだまだ明らかになっていな事実が数多いため、具体的な分析に至れないのが現状というところでしょう。

2008年9月26日金曜日

文化大革命とは~その七、下放~

 前回、自分の権力奪還のために散々若者を煽り、あまりに運動に熱を帯びて毛沢東も危機感を感じ始めたところまで解説しました。聞くところによると田中角栄が日中共同声明のために北京に来た際、会見場には厳戒警備をしいていたそうらしいです。あれほど崇拝された毛沢東ですら、この時期にあまりにも熱を持ってしまった若者を自分の権勢だけで押さえつけられる自信はなく、散々若者に敵視させた日本の首相と会う際には慎重にならざるを得なかったそうです。
 そんな具合で紅衛兵に代表される若者が邪魔になってきた毛沢東は、ある政策でこの問題に片をつけようとしました。その政策というのも「上山下郷運動」、通称「下放」です。

 ある日、毛沢東はこんな声明を発表しました。
「若者は直に地方の農村で働き、農民の生活を直接学び革命に役立てるべきである」
 もともと毛沢東は自分の権力の基盤を常に農民においており、日本の安藤昌益のように「万人直耕」みたいなことを昔から言っていました。何もこの文革の前から農村で学び、考えることの重要性を訴えていたので政策自体は突然ぱっと出したものではないと私は思っています。

 しかし、この下放には明らかに別の意図がありました。この時代ごろから今の中国にとっても最大の懸案である人口問題が起こり出し、都市部の人口密度が桁外れなものにまで膨れ上がってきていました。こうした人口を外に分散させるとともに、手を焼かせる若者を一挙に片付ける一石二鳥の策としてこの下放が実行されたのです。若者も、毛沢東の言葉と新たな大地を自分が拓くのだという強い意欲とともに、この下放政策を受け入れ率先して地方へと下って行ったようです。

 さて農村で働くといって、日本の田園風景の中でのどかな生活を送る、みたいなのは想像してはいけません。日本でも最近になって問題化してきましたが、基本的に日本の農家は世界的にも裕福な方です。中国や韓国の農村は日本とは比べ物にならないほど貧困が激しく、以前の時代ならばなおさらのことです。なのでこの下放もイメージ的にはシベリア抑留みたいなものの方が近いと思います。都市部の近くの農村に行けた者は幸運だったらしく、大半は西南の密林地域や、東北の極寒地域に放り込まれていったそうです。

 資料に使っている「私の紅衛兵時代」の作者である陳凱歌は雲南省の密林地帯へと十六歳の頃に行き、そこで七年も過ごしたそうです。行った先にはもちろん電気などなく、鍬と鉈と毛沢東選集だけを現地の事務所で受け取り、掘っ立て小屋にて他の下放者と一緒に暮らし、毎日延々と密林の木を切り倒していたそうです。
 この本によると、下放者の中には過酷な労働で病気になる者も多く、作業中に木に潰されて亡くなった者も数多くおり、そして発狂する者までもいたそうです。
 下放されたのは何も男子だけでなく、たくさんの女子も同じように下放されています。資料ではある女子の発狂するに至る過程が描かれていますが、あまりの生々しさにここでは紹介することを遠慮させてもらいます。

 陳氏はこの下放を振り返り、何が一番印象的だったかというと木を切り倒したことだと述べています。結局、自分たちは大いなる自然に対して一方的に攻撃を加えていただけなのではと、成人後に現地へ赴いた際に強く思ったそうです。なにも木を切り倒すだけでなく焼き畑も数多く行い、あれだけあった密林もほとんどなくなってしまったことに強い後悔の念を抱いております。

 もう一つの資料の「ワイルドスワン」に至っては、この下放についてより生々しく描かれています。作者のユン・チアンも南方の密林地域に下放されたのですが、現地の農民とは言葉が全く違っていて何も会話することができず、これまで農作業など全くやってきていないのに突然農村へ放り込まれ、慣れない作業に体を何度も壊したり、病気になる過程が事細かに書かれています。
 その上でユン氏は、資本主義の国ではブルジョアとプロレタリアートの間で格差が広がり地獄のような世界が広がっていると教えられてきたが、果たしてそれは本当なのか。それよりも、この国の現状以上の地獄があるのだろうかなどと、これまで教えられてきたことや自分が紅衛兵として行ってきた事に対して疑問を持ち始めたと述べています。しかしそれでも、ユン氏も強調していますがそれまでの教育の成果というべきか、とうとうこの時代には毛沢東を疑うことはなかったそうです。

 前回の記事で、この下放こそが文化大革命の最大の悲劇と私は評しましたが、実はこの下放問題は現在進行で未だに続いている問題なのです。どういうことかというと、この後に文革は終了するのですが、下放された若者たちは下放された時点で都市戸籍から農村戸籍へと変更されてしまい、故郷へ帰ろうと思っても帰ることができなかくなった者が続出したのです。

 ちょっと簡単に説明すると、中国では「都市戸籍」と「農村戸籍」と分けられ、都市の人口をむやみに増やさないためにも農村戸籍の人間は都市に引っ越すことができないようになっています。つまり先ほどの下放された若者らは、事実上この時期に都市から追い出されて二度と故郷に住むことができなくなったのです(短期滞在は可能)。

 先ほどの両氏によると、無事故郷に戻ることができた人間は非常に幸運だったそうです。下放された者の中には現地で死亡した者も多く、また下放者同士で子供を作ってしまった者はそれがネックになって帰郷が許されなかったり、それがために子供を現地に置いて帰郷するものもいたりなどと。
 現在でも、この時期に下放された人の多くが地方に取り残されたままでいるそうです。
 陳氏などは軍隊に入ることで帰郷が叶ったそうですが、彼の友人などは東北部で凍死したなどと書かれています。それがため、この時代に若者だった中国人の大半は世にも凄惨な歴史に翻弄されて今に至ります。

 これほど多くの被害者が出た文化大革命ですが、その後半には急転直下とも言える政治事件が続発し、大きく情勢が動くことになります。今までの解説は国民目線のが多かったのですが、次回からは政治の中枢にいた、いわゆる文革の役者たちの解説になります。そういうわけで次回は、二十世紀中国史最大の謎と言われる、「林彪事件」を解説します。

2008年9月25日木曜日

麻生新内閣について

 本来ならこのブログで真っ先に取り上げないといけないネタだと思うのですが、どうにも総裁選の途中から見ていて面白みがなくなってきて、この種の政界ネタがこのところは少なくなってきていました。与謝野が受かるという予想も外れたし……。
 さすがに閣僚も決まったので何かしらコメントしなければと思っていたので、多分他のメディアがあまり突っ込まない点に対していくつか私の意見を述べさせてもらおうと思います。

 まず今回の内閣を見る上で一番重要なポイントは、もし解散総選挙に打って出て勝利したとしても、この内閣で政権運営を続けていくかどうかです。このところの内閣は選挙が終わるたびに内閣改造を行っており、選挙後の改造が半ば慣行化しているところもあります。しかし今度の選挙では自民党は本気で民主党に議席で負けるのではと噂されるほど劣勢に立たされており、今回の麻生内閣の顔ぶれは小渕優子がマスコット大臣とはいえ最年少で入閣させるなど、選挙で優位に立つための布陣を敷いているのは明らかです。この小渕優子に限らず同じく総裁選で戦った与謝野氏を残留させたのも、党内の対立を抑えかつ自民党が一丸であるということを外に見せるためでしょう。

 まぁ国会議員なんてものは選挙に勝ってなんぼなのですから、この内閣の布陣が悪いというわけではありません。もし噂されているように年内に解散するというのなら誰がなっても同じことなので、この際大臣に資質を求めるつもりもありません。しかし、この一度作った内閣で選挙に勝った場合、選挙をにらんで作ったこの布陣でそれ以降の政局もやり続けていけるかどうかとなると、先ほど求めないといった大臣の資質は無条件ではといかなくなります。

 私が気にしているのは与謝野氏が経済財政大臣に入っていることです。はっきり言って麻生首相と与謝野氏の経済政策の考え方は真逆といっていいほど違います。そこへ麻生氏に近い中川昭一氏が財務、金融大臣でいるのですから、果たして今の布陣で大臣同士一致した政策をやっていけるのかと思うとすこし不安です。まぁいざとなればかつての田中眞紀子みたいにどっちかを切るだけってのもありなんだけどね。

 もう一つこの内閣を見ていて気になったのが、中曽根弘文の外務大臣への入閣です。「JAPAN TIMES」(影で私は省略して「ジャップタイムス」と呼んでる。他意はない)の記事によると、この人は外交経験がほとんどないので恐らく外交は麻生首相が自ら行っていくのだろうと書いていましたが、そんなことより入閣自体に私は違和感を覚えました。というのもかつての郵政国会の最中、衆議院をギリギリで通過した郵政民営化法案が参議院に送られる前に、早々に反対票を投じるとこの中曽根が発言し、それに呼応するかのように自民党内で造反者が相次ぐ結果となりました。

 事実上、参議院で民営化法案が流れた原因の一つとも言える人間で、そんな人間でありながら選挙で小泉元首相が圧勝するや、「民意に答える」とか抜かしてあっさりと次の決議では賛成票を投じています。こんな人間のために衆議院の造反組、特に野田聖子のように一回目に反対して郵政選挙では民営化反対を訴えておきながら中曽根と同じく次の決議では賛成票を投じた今の復党組ではなく、郵政選挙で負けた人たち(静岡の城内実氏など)は苦汁をなめることになったと思うと、なんとも言えない気持ちになります。

 この中曽根が入閣したということは、恐らく麻生首相は本格的に小泉、安倍と続いた改革路線を否定するつもりなのだと私はにらんでいます。その根拠としてもう一つ、同じく郵政論争でこちらは棄権でしたが、賛成ではなかった小渕優子も入閣しております。第一、麻生首相は昔から小泉氏の路線とは真逆の経済政策ばかり言っており、一時は小泉内閣に閣僚入りしたものの、やはり本心では持っている政策が違ったのだと思います。
 別に誰がどのような政策を持とうがそれは悪いことではありませんが、私としては小泉、安倍路線も麻生路線の政策も、どちらも国民にとっては毒となる政策だと思います。しかし前者は毒が苦しくとも長く生きることができ、後者は一時的に快感を得るもすぐに死んでしまう毒だと考えており、同じ毒なら私は前者の毒を飲みたいのが本音です。

 なんというか皮肉なことに、小泉元首相が次の選挙で政界を引退するというニュースが先ほど入ってきました。これは以前に私も取り上げていましたが、やはり噂どおりに次男に自分の地盤を引き継がせて本人はとっとと隠遁生活に入るようです。今後自民党が勝つとしても民主党が勝つとしても、恐らく彼の政策は根本から否定されるか覆されるかと思いますが、なんとも皮肉な時期の引退発表です。

 思ったより長くなったので最後にさらりと書きますが、今回の大臣の中で親が地方を含めて議員でないという、要するに二世議員でない人はどれだけいるのでしょうか。このような二世議員というのは生まれた頃から国民の税金を逆にもらって生活している人間、いうなれば年金生活者ならぬ税金生活者たちですが、そんな人間らに国民の生活感覚がわかるのかと思うと、やっぱり私は疑問です。資質があるのなら二世議員でもなにも問題はありません。資質がない二世議員ばかりだから問題なのだと一言付け加えてこの解説を終えます。

恭しい言葉ってなに?

 最近真面目なのばっか書いているので、たまには馬鹿馬鹿しい話でも書こうと思います。

 以前に私はこのブログにて、日本語の敬語は私はあまり好きではないということを書きました。その理由というのも、現代の敬語は元の意味から離れた誤用と援用、マクドナルドの「一万円お預かりします」などと、かなりトンチンカンなものになっている言葉が多く、また日常であまり使わないので敬語を使うと会話の回転が鈍ったり、また敬語ができていないと年下の人間をいじめる手段などに使われていることのほうが多いように思えるからです。だからといって全く使うなというつもりはありません。私が主張したいのは過度な敬語表現を相手に期待するの、自分が無理して使用するのがよくないと思うのです。なにも一から十まで形式に則った敬語を使わなくとも、ほんのちょっと言葉を丁寧にするだけでこっちに気を使ってくれているという表現なんてできるので、その辺で皆妥協すべきだというのが私の意見です。

 というように前回には書きましたが、前回でも言っているように実際に相手からすごい形式に則った敬語を使われても、私なんかは京都で結構長く生活したもんだから相手から敬われていると素直にあまり感じません。京都では敬語とか京言葉は皮肉を言うときに使われるものなのでそうなったのかもしれませんが、あまり聞き慣れない言葉を聞いても気持ちよく感じるというのはあまりないかと思います。そういいつつも、実は私はある種の言葉なら聞いてて非常に気持ちのよくなるものがあります。何を隠そう、侍言葉です。

 要するに時代劇で使われる言葉ですが、「ありがとうございます」のかわりに「かたじけない」とか、「すいません」のかわりに「面目ない」とか言われたりすると結構心が動かされます。語尾につける「です」も、どっちかといえば「ござる」のほうがいいと思うし、オリジナリティもあって日本人は言葉を先祖帰りさせるべきだと私は思います。
 マクドナルドとかでも、「よくぞ参られた。ハンバーガーとマックポテトのS寸が所望であるな、然らば代金は210円でござる。一万円を承るでござる」とかだったら、私は毎日でも通いますよ。

 こんな感じで以前に友人と話していたら、当時はメイド喫茶がブームになりだした頃だったので、対抗して自分らで「戦国喫茶」というのを出そうかという話になりました。そっちも大体さっきのマクドナルドと同じ感じで、
「よくぞ参られた。ささ、こちらの席へ。何が所望じゃ。なんと、冷やし珈琲とな。二言はないな(注文の確認)。されば、しばし待たれよ」
 というような感じの喫茶店です。今、ゲームの「戦国BASARA」がきっかけで女性に戦国ブームが来ているらしいから、そこそこいけるんじゃないかと思う。

 こんな風に暇さえあれば侍言葉を使うシチュエーションを考えているのですが、さすがに実生活で使うにはすっとんきょんな言葉ですから自重しているのですが、この前人にFAXを送るとき文面で本来なら、「~の書類は後日に送付いたしますので~」と書くところを、「~の書類は後日に送付いたすので~」って、普通に書いてしまいました。シャレや冗談じゃなくて実話で。
 ちょっと、自重が足りなかったのかもしれません。

2008年9月24日水曜日

今連載中の凄い漫画

 普通に文化大革命の記事を書き終えて、今へとへとです。昔、学校の先生がこれを取り扱ったら一年授業があっても足りないといってた意味がよくわかりました。私の記事でも可能な限り情報量は多くとも短く、わかりやすくを心がけているのですが、それでもまだまだ長いし……。
 なので気分転換にまた漫画の話をします。どんな話かというと、今連載中の漫画で何が凄いかです。

 まず最初に、単純に今連載中でもっとも優れている漫画はというのなら、私は迷うことなく「鋼の錬金術師」を挙げます。ストーリーの一貫性もさながら、表現描写からキャラクターの書き分けまですべての点でこの作者の荒川弘氏はトップクラスです。この人の師匠の「魔方陣グルグル」の衛藤ヒロユキ氏はころころ絵柄が変わってたのに、荒川氏は連載開始当初から少ない変化で安定しているのは特筆に価します。

 ちょっとこの「ハガレン」について懐かしい話をすると、確か四年前の雑誌「創」のインタビューで荒川氏は、初期の話で主人公兄弟が下宿させてもらっていた家の女の子が、実の父親によって犬と合成させられ、最後には殺されてしまうという話を書いた時点で、もう連載は終わるだろうと考えていたそうです。こんなハードな表現を書いたらきっと公序良俗とやらで駄目だろうと思ったのかもしれませんが、実際にはこの話以降急激に読者数が増えていき、当時お家騒動で発行部数が激減していた漫画雑誌「ガンガン」は「ハガレン」以前と以後で、なんと一ヶ月の発行部数が四倍にまでアップしたそうです。逆に言うと、あと二、三年くらいで「ハガレン」も終わりそうだから、そうなったときが「ガンガン」の廃刊日だってことだけど。

 次に凄い漫画と言われれば、こっちは「ジャンプ」で絶賛連載中の「アイシールド21」です。このところ全然ヒットのなかったスポーツ漫画でこれだけの作品を出してくるとは世の中まだまだ捨てたものではありません。この作者も見せ場とも言えるシーンはしっかりと書き、ギャグパートのところときっかり書き分けられるのは現代の漫画家としては高い技術です。あともう一つこの作品の良いところを挙げるのなら、それはやはりテンポだと思います。

 近頃は長期連載の漫画が非常に増えてしまい、スポーツ物なら一試合が延々と単行本五巻、連載期間だと一年くらい続くものも珍しくなくなりました。それに対してこの「アイシールド21」では、一試合辺り大体1.5巻、さすがに後半となってきた今では2巻くらい続きますが、それでも他の漫画と比べたらテンポがよく、読んでる側も非常に読後感が良いです。他の漫画ももう少し見習って、連載ペースを考えればいいのに。

 他にもいくつか紹介したいのがありますけど、今日はこの辺で風呂入って、スポーツニュースを見なくちゃいけないのでやめときます。最後に同じく「ジャンプ」の「銀魂」ですが、なんかまたこの漫画は猛烈につまらなくなってきました。一話完結がこの漫画の良いところだったのに、何で最近はこうも中途半端に長い話を書くかなぁ。とっとと連載終えて、また新しい連作作品を作ったほうがいいよこの作者は。

文化大革命とは~その六、紅衛兵~

 いよいよくるところまで来ちゃったかなというのが正直な感想です。当初は軽い気持ちで書いていましたけど、改めて資料などを読み返すと、この時代の中国の激動さについて日本人はしっかりと見つめなおすべきだと思うようになり、書く方も気合が入って来ました。

 さて前回では毛沢東思想について軽く解説しましたが、二つ前の本解説では毛沢東が若者を煽動して自身の権力奪還に利用したところまで説明しました。その際に毛沢東は、共産党内部に修正主義に走った裏切り者がいると発言し、中国全土でまだ何の悪い教育に染まっていない末端の人間らに下克上を促しました。
 その中で最も狂信的に毛沢東を支持したのが、今回のお題となっている「紅衛兵」でした。これは都市部の中学校かから大学に至るまでの各学校ごとに、少年少女らが自発的に組織した団体のことを指します。

 彼らは「孤立無援の毛首席を救え」とばかりに、片っ端からこれという大人を攻撃し始めました。具体的にどんな風に攻撃するかというと、文字通り殴る蹴るのリンチです。いちおう名目は自分の間違いを改めさせることですから「反省大会」と称し、攻撃対象を大衆の前まで無理やり引っ張ってきて、額から血が出るまで地面に頭をこすり付けたりさせることもざらだったようです。
 何故こんなことが十代の少年少女らにできたかというと、まずは最初にも言っているように毛沢東のお墨付きがあったことと、本来このような混乱から治安を守るべき軍隊が逆にこの動きを後押ししたからです。

 何故軍がこれら紅衛兵の活動を後押ししたかというと、この時に一挙に軍隊内で地位を向上させた林彪の存在が原因でした。彼は文革当初は軍隊内でも中途半端な位置にいたのですが、いち早く毛沢東への支持を表明することによって軍隊内のライバルを裏切り者だと密告することによって根こそぎ追放し、最終的には最高位の元帥にまで昇進しています。林彪自身が毛沢東の強烈な支持者で毛沢東の権勢を利用して下克上を実行したのもあり、軍隊は紅衛兵の活動を逆に応援するようになったのです。

 こうして、無茶なことやら法律を守っても軍や警察がなにもしないとわかるや紅衛兵はますますその行動をエスカレートしていきました。彼ら紅衛兵は具体的にどんな大人を対象に攻撃していたかですが、単純に言って明確な基準は一切ありませんでした。言ってしまえば、「あいつは反革命的なことを言っていた」とか、毛沢東選集の中に入っている毛沢東の言葉と何かしら矛盾した発言(行動)をあげつらうか、それでも見つからないなら適当なレッテルを貼り付ければいいだけです。後は反撃できないように集団で取り囲むだけで舞台は整います。ようは気に入らない人間がいれば、好きなだけ集団で攻撃できたということです。

 私が今回資料としている陳凱歌氏の「私の紅衛兵時代」によると、彼のいた中学校でも紅衛兵が組織され、真っ先にターゲットにされたのは嫌われていた担任の教師だったそうです。その学校の中学生たちは教師を無理やり教室の一番前に立たせると、
「貴様は毛首席の指導と別の指導を生徒に行っていただろ!」
「この場で俺たちに謝れ!」
「思想を洗い直し、真っ当な人間へなるのを俺たちが手伝ってやる!」
 といったように、激しい言葉で糾弾されたと書かれています。前回の記事でも書きましたが、毛沢東は若者らを煽動する際に、「知識のある人間は間違った教育に毒されている。何も教育を受けていない君たち若者らが思うことこそが正しいのだ」と吹き込んでいるので、一見無茶苦茶とも思えるこれらの発言が出てくるのです。

 それにしても、なんていうか少々不謹慎ですが、もし私がこの場にいたらどれだけ気持ちがいいのだろうかと考えずにはおれません。私も、一人や二人はこれくらいの年齢の頃には嫌いな教師が学校にいました。そうした人間に反論を許さず一方的になじり、ののしり、吊るし上げられるのであれば、見境がない反抗期だった頃の自分だったら嬉々としてやったと思います。恐らく紅衛兵たちも、同じような感情だったのではないかと思います。先ほどの毛沢東の言葉である、「大人は間違っている、君たちこそ正しいのだ」というようなことを反抗期の中学生なんかに聞かせたら、尾崎豊じゃないけどそりゃあ崇拝するようにもなると思います。

 この吊るし上げは徐々にエスカレートしていき、先ほども言ったように取り締まる人間がいないために法律は事実上機能しなくなり、証拠もなくともレッテルを貼る、つまり密告さえすれば誰でも集団で攻撃することができるので、当初からそうでしたが次第に本来の目的とはかけ離れた感情の捌け口だけのものへと固定されていきました。
 もう一つの資料の「ワイルドスワン」の作者のユン・チアン氏の作者の父も、共産党の地方幹部であったために紅衛兵らから激しく攻撃されたと書かれています。この時代は何度も書いているように下克上が学校から職場、果てには共産党や軍隊内部でも奨励され、基本的に階級の高い人間ほど密告の対象になりやすく、一方的に攻撃を受けました。それは建国の元勲からほんの少し前までの最高権力者でも変わりがなく、抗日戦争から国民党との戦争にて共産党を勝利に導いた彭徳壊、と毛沢東の後に国家主席となっていた劉少奇の二人は、紅衛兵から激しい身体麻痺に至るまで暴行を受け、医者にもかからせてもらえず粗悪な部屋で死に絶えています。二人とも毛沢東にひどく嫌われていたのが原因です。

 この一連の吊るし上げは、恐らく言語に絶するまでに激しかったというべきでしょう。延々と自分の子供くらいの十代の若者に殴られ、「謝れ!」とか「自分がろくでなしであることを認めろ!」などと言われ続け、自分が間違っていたと言葉に出しても暴行され続けるのですから、考えるだに絶望する気持ちがします。リンチで死んだとしても、殺人として扱われないのですからやりたい放題だったのでしょう。
 またこの時代の知識人はその属性ゆえに粛清対象に選ばれやすく、一流の学者でありながら自殺した人間も数多くいました。有名な作家の老舎もその一人です。

 これは全体の解説が一段落ついた後で独立して解説しますが、これら紅衛兵の一連の行動は日本で言うとあの「浅間山荘事件」に酷似しています。何故酷似したのかというと、それは言うまでもなく密告合戦の上にリンチになるのが共産党のお家芸だからです。ですからこの後に起こる紅衛兵となった若者らの運命も、「浅間山荘事件」と同じ末路となったことに私は疑問を感じません。その末路というのも、いわゆる内ゲバです。

 またまた「私の紅衛兵時代」の記述を引用しますが、紅衛兵をやっていた陳凱歌氏も、同じ学校の生徒に密告されたためにある日突然多勢の紅衛兵に自宅に押しかけられ、昨日まで仲のよかった同級生らに反革命的だという理由の下に片っ端から家の中の本を焼かれ、家具なども滅茶苦茶に壊されたと書いています。陳氏はそうやって密告しあったり、仲の良かった同士で暴行しあった行動に何故自分も加担したのかというと、加担しなければ自分が仲間はずれに遭うという脅迫感があったからだと述べています。いうなればいじめと一緒で、一緒にやらなければ自分が攻撃の対象に遭うというのが、こんな密告社会を生んだ理由だと私は考えています。

 こうして片っ端から年齢を問わずに中国では攻撃し合い、知人を含めて全員無事でいるものなど誰もいないほどに中国人は互いに傷つけ合いました。大人に至っては思想改造をするために家族を置いて僻地の労働作業場へと無理やり送られ、死ぬ間際になるまで酷使されるかそのまま衰弱死に追い込まれる者が多く、ユン・チアン氏の父親も陳氏の父親も、ボロボロの状態になって帰ってきて、前者はそのまま息絶えることとなりました。

 しかし、こうした混乱をよしとしない者が現れました。何を隠そう、この混乱によって自らの権力を奪回した毛沢東でした。
 若者から絶対的な崇拝を受けていた毛沢東でしたが、これら暴力的な若者たちがいつ自分へと牙を剥くか、またその際に攻撃を防ぎきることができるかと次第に不安に感じたようで、途中からは逆に紅衛兵の解散を自ら説得するように活動し始めました。実際に派閥抗争といった内ゲバが激しくなり、この時の北京は事実上無政府状態と言っていい状態だったので、毛沢東が不安に感じた気持ちも良くわかります。

 そうして、最終的に毛沢東はある名案を思いつくに至ったのです。こうした若者を思想改造の名の下に農村へ追い出すという、文化大革命の中で最大の悲劇となる「上山下郷運動」、通称「下放」を推し進めるに至るのです。続きは次回にて。