前回の記事で私は身体に対するアイデンティティの比重が下がって逆に意識への比重が上がり、今後身体の半機械化などが進む場合はこの潮流を守るべき……なんだけど、ってところで話をやめました。何故私がこの潮流にちょっと待ったというのかというと、身体に変わるその人物を特定する要因候補の意識に対し、私は本当にアイデンティティを証明する要素となりうるかと疑問だからです。
これは何も私だけが問題提起をしているのではなく、数多くの作品で展開されている話です。一番複雑かつ丁寧に提起しているのはまたも「攻殻機動隊」で、その中のテレビアニメ第一作目の「攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX」です。このシリーズの話の中で主人公の草薙素子は、ある人物からその人物が持つ記憶をほぼすべて電気信号にて受け取り、その記憶を元にその人物に成りすまして行動するシーンがあります。そして最終話にてその時の行動を振り返り、「あの時に自分は、自分が草薙素子なのかあなたなのかがわからなくなった」と述べています。
これなんか私が独自に提唱している絶対感覚の世界で非常に重要なテーマになるのですが、もし同じ記憶を持ちえた場合に、物の考え方や意識というのは共通されるのか、つまり同じような思考の人間になるのかということです。また思考だけといわずに同じ記憶を共通する人間が二人いた場合、果たして記憶を共通するその二人を他の人は区別することができるのかということです。
こういう風に考えてくると、意識というのは他人と区別する上で非常にあいまいなもののように思えてきます。それこそ攻殻機動隊の世界のように記憶をデータ化してコピー、伝心することが可能になった場合、こういったことは簡単に起こり得るでしょうし、まず第一に意識意識とは言いますが、意識とは一体なんなのか、記憶なのか物の考え方の基礎となる思考なのか、こういったメタ理論的な話へも発展していきます。
ちょっとさっきからわけのわからない話を自分でもしていると思うので、もうちょっとわかりやすい例を出します。これまた漫画でそれも絶賛連載中の「鋼の錬金術師」の話ですが、この作品で主人公の弟のアルは身体が異世界に飛ばされて現世界では鎧に魂だけを封じ込むことでとどまっており、そのため中身のない鎧の姿で行動しています。そのアルが作中にて対峙している相手から、
「お前は身体がないだけで自分自身をお前をその鎧に入れた兄の弟だと思っているが、実際にはお前をいなくなった弟と信じ込ませるような魂をお前の兄が作ったと疑わないのか」
と言われ、自分が主人公である兄のエドの弟と思い込んでいるだけなのではないかと思い、非常にうろたえるシーンがあります。ちょっと我ながら言葉にし辛いので敢えて無理やり言葉にしませんが、このように記憶や思考だけで人物を特定する、又は自分で自分を区別するというのはとても難しいものだと私は考えています。
ちなみにちょっと話は外れますが、この鋼の錬金術師は何気に人体損傷の描写が現代の漫画で最も激しい漫画で、身体丸ごと無しで魂だけの存在の上記のアルを筆頭に、主人公のエドは右手と左足を義手義足にしており、また作中である女性キャラは追っ手から逃れるために自らの腕を切り落としています。恐らくこの漫画の作者は確信的に私が今ここで書いている、身体なしでアイデンティティを保てるのかということを作品の中で問いているのだと思います。
ここに至ってアイデンティティの意義について書き忘れていたことに気が付いたのですが、人間というのは本質的に、自分が他の何かと区別できないととても不安を感じる生物で、その区別された自分(人間)のモデルというのがアイデンティティという言葉の意味です。しかしその一方、逆に他人と大きく区別されすぎる特徴があると、周囲からの目線もあるでしょうがこっちでも不安を感じるようになってます。この辺を社会学ではデュルケイムが「自殺論」という話で、個人意識が強くとも集団意識が強くとも、極端に至れば自殺という行動を取りやすくなると分析しています。なお前者の自殺はアノミー的自殺と言い生活苦などの一般的な自殺を指し、後者は特攻や自爆テロなどの自殺を指します。
ここまでわけわかんないことをいい続けて最後に何が言いたいのかというと、私は意識だけで今の人間はアイデンティティを保つことが出来ない、やはり身体による区別が絶対的に必要だと言いたいのです。だからといって男女の区別とかをもっとしっかりやるべきだとは言うつもりはなく、たとえ人体のサイボーグ化が進んだとしても、今の状態ではとてもじゃないがそのような時代に対応できないと思うのです。しかし技術的にはそのような世界が近づいてきているため、何を持ってその人物を特定するのか、記憶なのか意識なのか身体なのかはたまたそれ以外の何かなのか、本当に魂というのはあるのかというように、何が一体人間という存在を構成しているのかということを広く検討するべき段階に来ているのではないかということが言いたくて、こんだけ長々書いてみました。あしがらず。
ここは日々のニュースや事件に対して、解説なり私の意見を紹介するブログです。主に扱うのは政治ニュースや社会問題などで、私の意見に対して思うことがあれば、コメント欄にそれを残していただければ幸いです。
2008年11月1日土曜日
身体に対するアイデンティティ
ちょっとここで書く内容は我ながら過激だと思える部分もあるので、その点を考慮してお読みください。
まず最近私が感じている話ですが、どうも十数年前と比べると最近の日本の漫画で、「女性が髪を切られてショックを受ける」という話を見なくなった気がします。
私自身がはっきりと覚えているのは「らんま1/2」にてヒロインの天道あかねが乱馬と良牙のケンカのとばっちりを食って長い髪が切れてしまい、当事者の二人を思う存分に殴り倒した後ショックを受けて家に逃げ帰るシーン(我ながら、よく憶えているもんだ)ですが、なにもこの話に限らず「髪は女の命」とばかりに長い髪の女性がその髪を切るということに、深い意味が当時は付与されていたように思えます。
他に憶えている内容だと、よく失恋した後に思いを吹っ切るために女性が長い髪を切るとかいうのも結構ありましたね。
しかし残念というかなんというか、最近ではこういった描写はほぼ皆無といっていいくらい見なくなり、女性が髪をばっさり切る場合でも特に理由付けなどは行われずに普通に「イメチェン」とかで片付けられてしまいます。またその一方で、男性の方ではこの十数年で逆に長髪が大分普及してきました。きっかけは間違いなくSMAPのキムタクによってロンゲがファッションとして流行ったことでしょうが、改めて考えてみるとこれ以前は長い髪の男性というと左翼かヒッピーくらいしかおらず、半ば女性の専売特許だったような気がします。
私が何を言いたいのかというと、長い髪=女性という構図が成り立ちづらくなるなど、近年にこういった例がどんどんと増えて身体に対するアイデンティティが随分と薄まったのではないかということです。
以前に私は「90年代におけるネットをテーマにした作品」の中で、「肉体と意識」をテーマにした作品をいくつか紹介しましたが、私はそろそろ本格的に「何がその人物を特定するのか」ということを真剣に議論する時期に来ていると思います。
まずこれまでは至って単純に肉体と意識はその当事者に共通していました。しかし前回の記事でも紹介したように、「攻殻機動隊」の中では脳だけ取り出して身体は義体と呼ばれるサイボーグの身体に移すのが一般的になっている世界が広がっています。
たとえばの話、もし自分の近い人物がこのように身体を義体に移した場合、あなたはその人物に対して同じ感情を抱くことが出来るでしょうか。口で言うのは簡単ですがよくニューハーフの方が親にカミングアウトをするのをためらうと聞きますし、実際に自分の親とか子供がある日突然性転換手術を行ったと聞いたら、多分私は大いにうろたえると思います。こういう風に思うのも、先ほど言ったように肉体と意識が人物を特定する上でセットになっているという前提があるからです。
このように、その人物の意識や脳だけが別の身体、それこそ攻殻機動隊の義体のように移り変わってしまった場合、その新たな身体となったその人へそれまでと同じ感情を抱けるかは非常に疑問です。ですが世の中の潮流としては、なんとはなくですがそれを許容する方向へ移ってきてはいるのではないかと思います。そう思うのも、前回にも書いたように、近年はネットなどの発達によって肉体の世界に対して意識の世界がどんどんと幅を利かせるようになっており、それとなく意識や記憶がその人物を特定するのだという方へと価値観が変わってきている気がします。
私自身ネット上で連絡を取り合うようになった人物の中には顔を見たこともない人もいますが、データ(意思)のやり取り、具体的に言うとお互いに名乗っているネット上のハンドルネームだけで相手を識別しており、これこそまさに身体を返さないコミュニケーションをしていると言えます。よくこういう顔の知らない人間同士のコミュニケーションが気味が悪いという人もインターネット黎明期にはいましたが、私自身でもやはり顔の知った人間との方がネット上でコミュニケーションをとる量が絶対的に多いという事実を否むことが出来ません。ですが潮流としては、そのような顔の知らない人とのコミュニケーションに対する抵抗感は絶対的に低くなっていると思います。
その一方で起こっているのが最初にあげた、身体へのアイデンティティの低下です。多少国ごとに違いますが日本においてはニューハーフは以前に比べて大分許容されるようになり、また「男は短髪、女性は長髪」といった役割アイデンティティとも言うようなパターンも徐々に崩されてきている気がします。
折も折で、そろそろ真面目に身体の機能喪失者に対して医療的に半機械化が行えるほどに技術が向上してきました。私が以前にテレビで見た番組では、視力能力の喪失者に対しその人の脳に直接カメラ機械と接続して、カメラを通して映像情報をを神経に送ることで視力能力を、あくまでほんの少し見える程度ですが見事復活させた例がありました。またこれに限らず、以前のコメントで義足の選手がトラック競走でのタイムで健常者を上回ったという事例を教えてもらい、今後は身体能力強化という目的で人間の半機械化が行われる可能性も大です。
こういった時代を迎える上で、今後人間のアイデンティティを身体ではなく意識へと求めていこう……と言えたらどんだけ楽か。いや実際にこういうことだけを言うだけならこのままの潮流を守るだけで結構です。しかし私が問題にしているのは、その意識って一体なんなのか、っていうことです。長くなったので、続きはまた次回……というよりこのまま書きますけど。
まず最近私が感じている話ですが、どうも十数年前と比べると最近の日本の漫画で、「女性が髪を切られてショックを受ける」という話を見なくなった気がします。
私自身がはっきりと覚えているのは「らんま1/2」にてヒロインの天道あかねが乱馬と良牙のケンカのとばっちりを食って長い髪が切れてしまい、当事者の二人を思う存分に殴り倒した後ショックを受けて家に逃げ帰るシーン(我ながら、よく憶えているもんだ)ですが、なにもこの話に限らず「髪は女の命」とばかりに長い髪の女性がその髪を切るということに、深い意味が当時は付与されていたように思えます。
他に憶えている内容だと、よく失恋した後に思いを吹っ切るために女性が長い髪を切るとかいうのも結構ありましたね。
しかし残念というかなんというか、最近ではこういった描写はほぼ皆無といっていいくらい見なくなり、女性が髪をばっさり切る場合でも特に理由付けなどは行われずに普通に「イメチェン」とかで片付けられてしまいます。またその一方で、男性の方ではこの十数年で逆に長髪が大分普及してきました。きっかけは間違いなくSMAPのキムタクによってロンゲがファッションとして流行ったことでしょうが、改めて考えてみるとこれ以前は長い髪の男性というと左翼かヒッピーくらいしかおらず、半ば女性の専売特許だったような気がします。
私が何を言いたいのかというと、長い髪=女性という構図が成り立ちづらくなるなど、近年にこういった例がどんどんと増えて身体に対するアイデンティティが随分と薄まったのではないかということです。
以前に私は「90年代におけるネットをテーマにした作品」の中で、「肉体と意識」をテーマにした作品をいくつか紹介しましたが、私はそろそろ本格的に「何がその人物を特定するのか」ということを真剣に議論する時期に来ていると思います。
まずこれまでは至って単純に肉体と意識はその当事者に共通していました。しかし前回の記事でも紹介したように、「攻殻機動隊」の中では脳だけ取り出して身体は義体と呼ばれるサイボーグの身体に移すのが一般的になっている世界が広がっています。
たとえばの話、もし自分の近い人物がこのように身体を義体に移した場合、あなたはその人物に対して同じ感情を抱くことが出来るでしょうか。口で言うのは簡単ですがよくニューハーフの方が親にカミングアウトをするのをためらうと聞きますし、実際に自分の親とか子供がある日突然性転換手術を行ったと聞いたら、多分私は大いにうろたえると思います。こういう風に思うのも、先ほど言ったように肉体と意識が人物を特定する上でセットになっているという前提があるからです。
このように、その人物の意識や脳だけが別の身体、それこそ攻殻機動隊の義体のように移り変わってしまった場合、その新たな身体となったその人へそれまでと同じ感情を抱けるかは非常に疑問です。ですが世の中の潮流としては、なんとはなくですがそれを許容する方向へ移ってきてはいるのではないかと思います。そう思うのも、前回にも書いたように、近年はネットなどの発達によって肉体の世界に対して意識の世界がどんどんと幅を利かせるようになっており、それとなく意識や記憶がその人物を特定するのだという方へと価値観が変わってきている気がします。
私自身ネット上で連絡を取り合うようになった人物の中には顔を見たこともない人もいますが、データ(意思)のやり取り、具体的に言うとお互いに名乗っているネット上のハンドルネームだけで相手を識別しており、これこそまさに身体を返さないコミュニケーションをしていると言えます。よくこういう顔の知らない人間同士のコミュニケーションが気味が悪いという人もインターネット黎明期にはいましたが、私自身でもやはり顔の知った人間との方がネット上でコミュニケーションをとる量が絶対的に多いという事実を否むことが出来ません。ですが潮流としては、そのような顔の知らない人とのコミュニケーションに対する抵抗感は絶対的に低くなっていると思います。
その一方で起こっているのが最初にあげた、身体へのアイデンティティの低下です。多少国ごとに違いますが日本においてはニューハーフは以前に比べて大分許容されるようになり、また「男は短髪、女性は長髪」といった役割アイデンティティとも言うようなパターンも徐々に崩されてきている気がします。
折も折で、そろそろ真面目に身体の機能喪失者に対して医療的に半機械化が行えるほどに技術が向上してきました。私が以前にテレビで見た番組では、視力能力の喪失者に対しその人の脳に直接カメラ機械と接続して、カメラを通して映像情報をを神経に送ることで視力能力を、あくまでほんの少し見える程度ですが見事復活させた例がありました。またこれに限らず、以前のコメントで義足の選手がトラック競走でのタイムで健常者を上回ったという事例を教えてもらい、今後は身体能力強化という目的で人間の半機械化が行われる可能性も大です。
こういった時代を迎える上で、今後人間のアイデンティティを身体ではなく意識へと求めていこう……と言えたらどんだけ楽か。いや実際にこういうことだけを言うだけならこのままの潮流を守るだけで結構です。しかし私が問題にしているのは、その意識って一体なんなのか、っていうことです。長くなったので、続きはまた次回……というよりこのまま書きますけど。
失われた十年とは~その五、公共事業失政~
前回ではバブル崩壊後に日本全体で景気は落ち込んでいながらも、世界的にも現象としては珍しく当時の日本は個人消費がほとんど落ちなかったということを説明しましたが、何故個人消費が落ちなかったのかという原因の一つが、今日解説する公共事業です。
多分今でも中学や高校の政経の時間ではニューディール政策の中の財政出動、いわば今の麻生政権もやろうとしている公共事業の必要性を説いていると思いますが、これは一種のカンフル剤的な効果しか全体の景気には及ぼさず、一時的な個人消費の増加が起こった後は元通りになり長期的に見るならほとんど景気に影響を与えないということがほぼ証明されています。
詳しく言えばこのニューディール政策はよくTGVというダムの公共事業ばかり取り上げられていますが、真に優れていたと思われる点は私はやっぱり金融対策だったと思います。銀行などに貸し出し猶予を与えるなどして体力をつけさせ、ひとり立ちできるまでのつなぎとして公共事業を行ったというのが政策の肝なのですが、どうも後ろのつなぎの政策にしかならない公共事業ばかりに注目が行ってしまい、日本は馬鹿をやったのではないかと考えています。
以上のように日本の政策決定者もただ財政出動をして国民にお金をばら撒けば、自然と景気はまたよくなっていくだろうと考えていたのでしょう。それこどこにどのように配るかすらもきちんと考えずに、自分たちの票田となるかといって政治家も土建屋や不動産業界へひたすらお金を回し続け、いざそれが立ち行かなくなると必要以上に膨れ上がっている業界なため、倒産が相次ぐようになったというのが現在の状況です。
ちなみにこのような土建屋へお金をばら撒くために政府が考えた手段は、いわゆる観光事業の促進、つまり夕張市が破綻する原因にもなった巨大なテーマパークや観光施設などの建築です。90年代はこのように中央の政府から地方の政府へ箱物を建てろと強く命じ、夕張市などはこの中央の指示を真に受けどんどんと国から借金をして愚にも付かないものばかり作っていって破綻しました。そのためこの頃は中央政府から夕張市は逆に政策優等生だと誉めそやされていたと言われ、なにも夕張市にも限らずに他の各地方自治体もこのようにして今の財政難の原因とも言える借金を作っていきました。
こうした中央と地方揃っての激しい財政出動は結果的に、客もなにも来ない無駄な施設と建物、90年代の大衆文化、積もり積もった借金だけを残しただけでした。まぁこの時期に青春時代を過ごしたというのもあると思いますが、私はこの頃の音楽とか漫画、小説といったものが非常に好きです。江戸時代も元禄時代の文化が一番評価が高いのですから、やっぱり文化というのは無駄遣いをした分だけ発展するものなのかもしれません。
しかしこういったバラ撒き政策をしていても、不景気の根本的原因であった金融問題をずっとほったらかしにしていたために景気対策においては何の効果も挙げませんでした。
そうこうしている内にとうとう頼みの綱であった個人消費にも陰りが出てきました。その時期というのも97年、橋本内閣で消費税の3%から5%への引き上げた行われた頃です。この引き上げの結果物価が上昇し、個人消費が急激に減少してその後のデフレ現象へとつながっていきます。
この時期については後でまた詳しく解説しますが、これに焦った政府は政策の反省を全く行わず、もっとお金を配るしかないとばかりに小渕内閣では現在に至るまで過去最高額の公共事業へ予算が割かれ、さらにはちょうどタイムリーなネタになりますが、連立政権に公明党を引き入れる代わりに公明党が要求する政策を飲んだ結果、あの地域振興券の配布が行われることになりました。
この地域振興券自体については詳しく解説しませんが、世界的にもこの政策に意味があるのかと疑問視する声は当時からあり、フィナンシャルタイムスに至っては「ミルトン・フリードマンが喜ぶであろう」という皮肉までしています。結論から言うと、本当に何にもなりませんでした。
これは結果論、といってもちょっと考えれば誰でも行き着くことが出来たくらい簡単な話なのですが、同じバラ撒きをやるにしてももっと未来のある産業へ行っておけば現在の状況は全然違いました。それこそ必要以上とも言えるくらい過剰に土建や不動産業界に金をバラ撒いて姉歯事件でのどうにもならない欠陥建築物を作るより、今問題となっている介護や農業といった業界へバラ撒きが行われていれば雇用問題から食糧問題の規模も現在より全然小さくなっていたはずです。また途中で全然効果が上がらないのだからとっとと政策転換を行っていれば、今ほど国の借金も膨れ上がらなかったのに。
最終的にはかねてより公共事業に異を唱えてきた小泉元首相の登板によりこれらの一連の政策は改められましたが、それまでに払ってきた代償は決して小さくなく、恐らく私と同じ世代の日本人は死ぬまでこの代償に追い立てられることになるでしょう。まぁもしかしたら、これからまた別の負担を背負うことになるかもしれないけど。
次回ではちょっと手のかかる内容ですが、デフレについて解説しようと思います。ちょうどいい機会なのでポストモダンの経済政策についてもどんどん書いて行きますが、書く前からしんどい内容になるだろうなぁというのが目に見えています。
(;´Д`)ハァ
多分今でも中学や高校の政経の時間ではニューディール政策の中の財政出動、いわば今の麻生政権もやろうとしている公共事業の必要性を説いていると思いますが、これは一種のカンフル剤的な効果しか全体の景気には及ぼさず、一時的な個人消費の増加が起こった後は元通りになり長期的に見るならほとんど景気に影響を与えないということがほぼ証明されています。
詳しく言えばこのニューディール政策はよくTGVというダムの公共事業ばかり取り上げられていますが、真に優れていたと思われる点は私はやっぱり金融対策だったと思います。銀行などに貸し出し猶予を与えるなどして体力をつけさせ、ひとり立ちできるまでのつなぎとして公共事業を行ったというのが政策の肝なのですが、どうも後ろのつなぎの政策にしかならない公共事業ばかりに注目が行ってしまい、日本は馬鹿をやったのではないかと考えています。
以上のように日本の政策決定者もただ財政出動をして国民にお金をばら撒けば、自然と景気はまたよくなっていくだろうと考えていたのでしょう。それこどこにどのように配るかすらもきちんと考えずに、自分たちの票田となるかといって政治家も土建屋や不動産業界へひたすらお金を回し続け、いざそれが立ち行かなくなると必要以上に膨れ上がっている業界なため、倒産が相次ぐようになったというのが現在の状況です。
ちなみにこのような土建屋へお金をばら撒くために政府が考えた手段は、いわゆる観光事業の促進、つまり夕張市が破綻する原因にもなった巨大なテーマパークや観光施設などの建築です。90年代はこのように中央の政府から地方の政府へ箱物を建てろと強く命じ、夕張市などはこの中央の指示を真に受けどんどんと国から借金をして愚にも付かないものばかり作っていって破綻しました。そのためこの頃は中央政府から夕張市は逆に政策優等生だと誉めそやされていたと言われ、なにも夕張市にも限らずに他の各地方自治体もこのようにして今の財政難の原因とも言える借金を作っていきました。
こうした中央と地方揃っての激しい財政出動は結果的に、客もなにも来ない無駄な施設と建物、90年代の大衆文化、積もり積もった借金だけを残しただけでした。まぁこの時期に青春時代を過ごしたというのもあると思いますが、私はこの頃の音楽とか漫画、小説といったものが非常に好きです。江戸時代も元禄時代の文化が一番評価が高いのですから、やっぱり文化というのは無駄遣いをした分だけ発展するものなのかもしれません。
しかしこういったバラ撒き政策をしていても、不景気の根本的原因であった金融問題をずっとほったらかしにしていたために景気対策においては何の効果も挙げませんでした。
そうこうしている内にとうとう頼みの綱であった個人消費にも陰りが出てきました。その時期というのも97年、橋本内閣で消費税の3%から5%への引き上げた行われた頃です。この引き上げの結果物価が上昇し、個人消費が急激に減少してその後のデフレ現象へとつながっていきます。
この時期については後でまた詳しく解説しますが、これに焦った政府は政策の反省を全く行わず、もっとお金を配るしかないとばかりに小渕内閣では現在に至るまで過去最高額の公共事業へ予算が割かれ、さらにはちょうどタイムリーなネタになりますが、連立政権に公明党を引き入れる代わりに公明党が要求する政策を飲んだ結果、あの地域振興券の配布が行われることになりました。
この地域振興券自体については詳しく解説しませんが、世界的にもこの政策に意味があるのかと疑問視する声は当時からあり、フィナンシャルタイムスに至っては「ミルトン・フリードマンが喜ぶであろう」という皮肉までしています。結論から言うと、本当に何にもなりませんでした。
これは結果論、といってもちょっと考えれば誰でも行き着くことが出来たくらい簡単な話なのですが、同じバラ撒きをやるにしてももっと未来のある産業へ行っておけば現在の状況は全然違いました。それこそ必要以上とも言えるくらい過剰に土建や不動産業界に金をバラ撒いて姉歯事件でのどうにもならない欠陥建築物を作るより、今問題となっている介護や農業といった業界へバラ撒きが行われていれば雇用問題から食糧問題の規模も現在より全然小さくなっていたはずです。また途中で全然効果が上がらないのだからとっとと政策転換を行っていれば、今ほど国の借金も膨れ上がらなかったのに。
最終的にはかねてより公共事業に異を唱えてきた小泉元首相の登板によりこれらの一連の政策は改められましたが、それまでに払ってきた代償は決して小さくなく、恐らく私と同じ世代の日本人は死ぬまでこの代償に追い立てられることになるでしょう。まぁもしかしたら、これからまた別の負担を背負うことになるかもしれないけど。
次回ではちょっと手のかかる内容ですが、デフレについて解説しようと思います。ちょうどいい機会なのでポストモダンの経済政策についてもどんどん書いて行きますが、書く前からしんどい内容になるだろうなぁというのが目に見えています。
(;´Д`)ハァ
2008年10月31日金曜日
麻生政権の政策減税について
本当はタイムリーだから今連載中の記事と合わせて書いたほうがよいのですが、ちょっとこれからパワプロを遊びたいのでこれだけ独立して先に書いておきます。
昨日、麻生首相は公明党の要望に加え昨今の経済情勢を受けて政策減税を行うと発表し、その方法も前々から情報の出ていた金券の配布という形にするという発表を行いました。
しかし、これは前もって断言しますが完全な無駄に終わるでしょう。というのも前回に、「自民公明合流記念」の名の元に98年に配布された地域振興券の場合は個人消費を刺激するとはとても言えず、また政府の対応の下手さから国民に配布する振興券の金額以上に配布人員の整理などへの支給給料が上回ってしまったというお粗末な結果でした。
そしてなによりこの地域振興券で問題だったのは、配った分の金額がほぼそっくりそのまま貯蓄へと回されてしまったという事実です。これは将来への不安によるもので、当時は不況真っ只中ということもあっていざお金を手にしたところでそれを消費に回すより、国民はいざという時のための貯蓄にする方を選んだと言われています。そのため目的としていた個人消費の活性化は何も起こらず、ただ単に国庫のお金を減らしただけにしかなりませんでした。
そのため、また今度金券を配布したところで同じ結果になるのは目に見えています。これを話すと長くなるので今日はしませんが、いわゆる「ポストモダン」の世界ではニューディール政策における公共事業などのバラ撒き政策は一切効果を発揮しないということは世界的にも証明されており、また金券の配布は前回にも失敗していてその頃と何も状況は変わっていないのにそれをまたやろうというのは、言い方は悪いですが一度はまった落とし穴に自らまた入りに行くのとかわりがないでしょう。
でもって昨日の麻生首相の発言で耳を疑ったのは、何故この情勢下で消費税を三年後に増税すると発言したのかです。私としても将来的に消費税率は上げていかねばならないと考えていますが、与謝野氏のように今までずっとそう主張しているのならともかく、非常に株式市場が敏感になっているこの時期にマイナスの影響を与えかねないこんな発言を突然行う気が知れません。もし本当に実行する気があるとしても、私ならそれを絶対に口外はしませんし、もしするとしてもそれは次の総選挙で勝ってからです。
なんでかマスコミも、この点には誰も突っ込んでいませんね。カップラーメンの値段よりずっと重要だと思うのですが。ただ今朝のテレ朝のニュースでコメンテーターが最初の金券給与について、
「何が給与だ。それはもともと我々の税金だ。偉そうな事を言うな!」
と、コメントしたのは見事でした。
昨日、麻生首相は公明党の要望に加え昨今の経済情勢を受けて政策減税を行うと発表し、その方法も前々から情報の出ていた金券の配布という形にするという発表を行いました。
しかし、これは前もって断言しますが完全な無駄に終わるでしょう。というのも前回に、「自民公明合流記念」の名の元に98年に配布された地域振興券の場合は個人消費を刺激するとはとても言えず、また政府の対応の下手さから国民に配布する振興券の金額以上に配布人員の整理などへの支給給料が上回ってしまったというお粗末な結果でした。
そしてなによりこの地域振興券で問題だったのは、配った分の金額がほぼそっくりそのまま貯蓄へと回されてしまったという事実です。これは将来への不安によるもので、当時は不況真っ只中ということもあっていざお金を手にしたところでそれを消費に回すより、国民はいざという時のための貯蓄にする方を選んだと言われています。そのため目的としていた個人消費の活性化は何も起こらず、ただ単に国庫のお金を減らしただけにしかなりませんでした。
そのため、また今度金券を配布したところで同じ結果になるのは目に見えています。これを話すと長くなるので今日はしませんが、いわゆる「ポストモダン」の世界ではニューディール政策における公共事業などのバラ撒き政策は一切効果を発揮しないということは世界的にも証明されており、また金券の配布は前回にも失敗していてその頃と何も状況は変わっていないのにそれをまたやろうというのは、言い方は悪いですが一度はまった落とし穴に自らまた入りに行くのとかわりがないでしょう。
でもって昨日の麻生首相の発言で耳を疑ったのは、何故この情勢下で消費税を三年後に増税すると発言したのかです。私としても将来的に消費税率は上げていかねばならないと考えていますが、与謝野氏のように今までずっとそう主張しているのならともかく、非常に株式市場が敏感になっているこの時期にマイナスの影響を与えかねないこんな発言を突然行う気が知れません。もし本当に実行する気があるとしても、私ならそれを絶対に口外はしませんし、もしするとしてもそれは次の総選挙で勝ってからです。
なんでかマスコミも、この点には誰も突っ込んでいませんね。カップラーメンの値段よりずっと重要だと思うのですが。ただ今朝のテレ朝のニュースでコメンテーターが最初の金券給与について、
「何が給与だ。それはもともと我々の税金だ。偉そうな事を言うな!」
と、コメントしたのは見事でした。
現代の若者論の間違いについて その二
前回の「現代の若者論の間違いについて」の記事のコメントを受けてちょっと思い出したことがあるので、それについてここで細かく解説しておきます。
まず寄せられたコメントの内容ですが大雑把に言うと、かつての60年代から70年代の全共闘の時代の学生、つまり当時の若者はそれなりに社会主義国家の建設など、方向性はともかく夢があったのに今の若者にはそういう夢もなければ追いかけるという行為もない、という内容でした。
これを受けて私も思い出したのですが、現代の若者に意欲がない原因には私が挙げた「将来がすぐに決まってしまう」のともう一つ、「目指すべき社会モデルがない」というのも挙がってきます。
現代の歴史評論家がほとんど一致した見解を持っているもので、戦後のあの混乱期から日本が驚くべき復興を果たすことが出来たのは、国民全員でなんとかこの国を復興させようという強い意欲があったからだといわれています。このように、はっきりと形にされない物ながらも社会の目標というのは意外に人間を強く動かすものであります。それこそ私が紹介した文化大革命での上山下放運動で農村に入った若者が恐ろしい勢いで土地を開拓、中にはそれこそ土を掘りぬいて山と湖を一挙に作ったという例もありますが、こうした行動が出来たのは国家への強い意識があったからだと私も確信しています。
そして日本の大学で学生運動が華やかなりしころも、ひとまずは社会主義国家建設という大きな目標を若者たちは共通して抱いておりました。結果から言うと社会主義国家像はソ連の崩壊とともに完全にその姿を失ってしまったのですが、やはりあの時代の大学生たちが友人の言葉を借りるとゲバ棒を振り回してあんだけはちゃめちゃにやれたのは、こういった目指すべき社会像を明確に持っていたからだと思います。
それに対して現代はというと、はっきりいますが目指す社会像というのは個人レベルは除くとして、ある程度の集団単位で共通したモデルは一切ないといっていいでしょう。自民党にしろ民主党にしろ、今じゃ全議員に統一した意見すらほとんどない状態ですし。
これは何も私だけでなく佐藤優氏も同じようなことを述べています。どんな国にするかというのは本当に生活の中ではごくごく些細な意識かもしれないが、全体で見るとこの社会モデルは非常に大きな力になり、本来ならば政治家が作らなければならないところを今の日本ではそれを作れる政治家がいなくなったと言い、逆にそういったモデルをこれから作っていく上で期待しているのは小説家だと佐藤氏は述べています。
もちろんこういった社会モデルの欠如に対して危機感を持っている人は少なくなく、最近では恐らく「国家の品格」の藤原誠彦氏が強い問題提起とともに自らの提案を広く主張している人物の一人でしょう。藤原氏はかつての日本は「富と平和」という社会モデルがはびこったがバブル崩壊とともにそのモデルは崩壊し、これからは武士道に則った「教養のある国、日本」というモデルを日本人全員で共有すべきだとその著書の中で主張しています。まぁ私も、モデルが何もないよりかはこういう風なモデルを持つべきだと思います。
もう一人新たな社会モデルを提言している人間を挙げるとすると、こちらは藤原氏以上に政策的なモデルとして、東大教授の経済学者の神野直彦氏が「スウェーデン型高福祉社会」というものを唱えています。この説はワーキングプアーなどが注目を浴びた2006年位にはそこそこ広まったのですが、心なしかこのところは急激にトーンダウンしているように見受けられます。
この目指すべき社会モデルというのは言い換えると、「どこに誇りを持つか」というようにも考えることが出来ます。自分の国はこういうところに誇りがある、そしてそれを維持していかねばならないというような漠然とした意識でも、人間はこういうものによって行動意欲が強化されると私も考えています。
では私はどんな理想の社会モデルを持っているのかとなりますが、単純に言って「真面目な人が損をしない社会」というのが私の理想です。敢えて名づけるなら、「アリとキリギリス型社会」といったところでしょうか。少なくとも、これは別のブログでも取り上げられていましたが、日本はもう少し博士号取得者に対して社会的に正当な評価をするべきだと思います。あの中国ですら、きちんと企業でも給与などで評価をしているのに……。
まず寄せられたコメントの内容ですが大雑把に言うと、かつての60年代から70年代の全共闘の時代の学生、つまり当時の若者はそれなりに社会主義国家の建設など、方向性はともかく夢があったのに今の若者にはそういう夢もなければ追いかけるという行為もない、という内容でした。
これを受けて私も思い出したのですが、現代の若者に意欲がない原因には私が挙げた「将来がすぐに決まってしまう」のともう一つ、「目指すべき社会モデルがない」というのも挙がってきます。
現代の歴史評論家がほとんど一致した見解を持っているもので、戦後のあの混乱期から日本が驚くべき復興を果たすことが出来たのは、国民全員でなんとかこの国を復興させようという強い意欲があったからだといわれています。このように、はっきりと形にされない物ながらも社会の目標というのは意外に人間を強く動かすものであります。それこそ私が紹介した文化大革命での上山下放運動で農村に入った若者が恐ろしい勢いで土地を開拓、中にはそれこそ土を掘りぬいて山と湖を一挙に作ったという例もありますが、こうした行動が出来たのは国家への強い意識があったからだと私も確信しています。
そして日本の大学で学生運動が華やかなりしころも、ひとまずは社会主義国家建設という大きな目標を若者たちは共通して抱いておりました。結果から言うと社会主義国家像はソ連の崩壊とともに完全にその姿を失ってしまったのですが、やはりあの時代の大学生たちが友人の言葉を借りるとゲバ棒を振り回してあんだけはちゃめちゃにやれたのは、こういった目指すべき社会像を明確に持っていたからだと思います。
それに対して現代はというと、はっきりいますが目指す社会像というのは個人レベルは除くとして、ある程度の集団単位で共通したモデルは一切ないといっていいでしょう。自民党にしろ民主党にしろ、今じゃ全議員に統一した意見すらほとんどない状態ですし。
これは何も私だけでなく佐藤優氏も同じようなことを述べています。どんな国にするかというのは本当に生活の中ではごくごく些細な意識かもしれないが、全体で見るとこの社会モデルは非常に大きな力になり、本来ならば政治家が作らなければならないところを今の日本ではそれを作れる政治家がいなくなったと言い、逆にそういったモデルをこれから作っていく上で期待しているのは小説家だと佐藤氏は述べています。
もちろんこういった社会モデルの欠如に対して危機感を持っている人は少なくなく、最近では恐らく「国家の品格」の藤原誠彦氏が強い問題提起とともに自らの提案を広く主張している人物の一人でしょう。藤原氏はかつての日本は「富と平和」という社会モデルがはびこったがバブル崩壊とともにそのモデルは崩壊し、これからは武士道に則った「教養のある国、日本」というモデルを日本人全員で共有すべきだとその著書の中で主張しています。まぁ私も、モデルが何もないよりかはこういう風なモデルを持つべきだと思います。
もう一人新たな社会モデルを提言している人間を挙げるとすると、こちらは藤原氏以上に政策的なモデルとして、東大教授の経済学者の神野直彦氏が「スウェーデン型高福祉社会」というものを唱えています。この説はワーキングプアーなどが注目を浴びた2006年位にはそこそこ広まったのですが、心なしかこのところは急激にトーンダウンしているように見受けられます。
この目指すべき社会モデルというのは言い換えると、「どこに誇りを持つか」というようにも考えることが出来ます。自分の国はこういうところに誇りがある、そしてそれを維持していかねばならないというような漠然とした意識でも、人間はこういうものによって行動意欲が強化されると私も考えています。
では私はどんな理想の社会モデルを持っているのかとなりますが、単純に言って「真面目な人が損をしない社会」というのが私の理想です。敢えて名づけるなら、「アリとキリギリス型社会」といったところでしょうか。少なくとも、これは別のブログでも取り上げられていましたが、日本はもう少し博士号取得者に対して社会的に正当な評価をするべきだと思います。あの中国ですら、きちんと企業でも給与などで評価をしているのに……。
2008年10月30日木曜日
失われた十年とは~その四、個人消費~
実はどの辺から書き始めればいいか、今結構悩んでいます。文化大革命の連載では時系列的に書けばよかったのですが、こっちだと社会的な話から政策的な話と時系列が行ったりきたりするので、しょうがないので政策の話をひとまず全部やろうと思います。
さて一般に「失われた十年」とこの時代の不況はひとくくりに言われていますが、実際のところ本格的にこれは不況だと認知され始めたのは90年代の後半に至ってからでしょう。はっきり言いますが、バブル崩壊で株価がものすごい下落をしたものの90年代の日本は滅茶苦茶なまでに余裕しゃくしゃくで、恐らく事態の深刻さに気がついていた人間は全くといっていいほどいなかったと思います。
それがきちんとデータとして現れているのが、今回のサブタイトルにもなっている「個人消費」です。恐らく現在に至るまで日本以外で起こってないであろう事例なのですが、実はバブル崩壊以後に企業業績が振るわずに社会的にも明らかに不況と言える状態であったにもかかわらず、90年代前半の日本では個人消費が一切減りませんでした。普通不況になれば今のアメリカみたいに個人消費というものは冷え込んで減っていくものなのですが、何故だか日本だけはこれが全然減りませんでした。
当時に個人消費が一切落ちなかったことを表す一つの例として私はよく、当時の音楽CDの販売数を人に紹介しています。90年代前半から中盤まで音楽CDの売り上げは文字通りに右肩昇りで、今じゃ年に一曲か二曲しか出ないミリオンヒットもなんと毎年二十曲以上は出ていました。また似たようなものとしてテレビゲームにおいても98年のピークを迎えるまで売り上げ本数は年々伸びており、逆にそれ以降は音楽CD同様に今度は右肩下がりに売り上げが低迷し、現在両方の業界はともに苦しんでおります。
せっかくだから自動車の販売台数も出そうと思ったら、なんか月別のデータしかなくて調べられませんでした。これだから三等統計国は……。
とまぁこんな具合で悪化する経済を尻目に、日本人は消費者的にはそれ以前よりずっと豊かに生活を送っていました。では一体何故、企業の売り上げが低迷しているにもかかわらず個人消費が奮ったのでしょうか。これはなんというか非常に簡単で、理由を挙げろというのなら実はいくらでもあげることが出来ます。
まず一つが、日本人の貯蓄体質です。最近はずっと目減りしているのですが当時の日本人は本当に貯金と預金が大好きで、そのために経済情勢が悪化しても豊富な貯蓄があったために消費は継続された、という感じです。
そして二つ目に、当時はまだ終身雇用が生きていたからです。企業業績が悪化しても当時は終身雇用がはっきりと守られており、定期昇給から残業代支給まで今から考えると大盤振る舞いともいえるような俸給が被雇用者、つまり消費者に配られていました。
でもって三つ目、これが非常に重要なのですが、この時期に政府は景気刺激策の名の元に公共事業政策、要するにバラ撒き政策を大々的に行ったからです。
この公共事業については次回に詳しく解説しますが、こうしてあげたいくつかの理由によって日本の個人消費は非常に好調で、事実当時の日本経済は企業の業績悪化をよそ目に個人消費に頼って生きながらえていました。しかし最初の貯蓄は使ってけばどんどん減っていくのは当たり前で、二つ目の終身雇用はさすがに企業も被雇用者にいつまでも大盤振る舞いをしてられなくなり、三つ目の公共事業は小泉内閣が出来るまで続けられたのですが、結論を言うと90年代の後半に入ると日本経済で唯一好調だった個人消費もとうとう干上がってしまいます。その時期を具体的に言うと97年で、この年に消費税が5%に引き上げられたことによって個人消費も一気に冷え込み、この時になってようやく日本は事態の深刻さに気がつくというわけです。この辺もまた後で解説します。
私の目から見ても、90年代前半は豊かな時代だったと思います。さすがにバブル期ほどの悪趣味な散財というものは見なくなりましたが、それでも漫画からゲーム、音楽からファッションといったものへの消費が社会全体で活発で、ファッションにいたっては当時は安室奈美恵などアイドルも数多く現れ、こういった服飾品への支出が非常に煽られていた気がします。今じゃ安いユニクロとH&Mが流行ってるあたり、時代格差を感じます。
さて一般に「失われた十年」とこの時代の不況はひとくくりに言われていますが、実際のところ本格的にこれは不況だと認知され始めたのは90年代の後半に至ってからでしょう。はっきり言いますが、バブル崩壊で株価がものすごい下落をしたものの90年代の日本は滅茶苦茶なまでに余裕しゃくしゃくで、恐らく事態の深刻さに気がついていた人間は全くといっていいほどいなかったと思います。
それがきちんとデータとして現れているのが、今回のサブタイトルにもなっている「個人消費」です。恐らく現在に至るまで日本以外で起こってないであろう事例なのですが、実はバブル崩壊以後に企業業績が振るわずに社会的にも明らかに不況と言える状態であったにもかかわらず、90年代前半の日本では個人消費が一切減りませんでした。普通不況になれば今のアメリカみたいに個人消費というものは冷え込んで減っていくものなのですが、何故だか日本だけはこれが全然減りませんでした。
当時に個人消費が一切落ちなかったことを表す一つの例として私はよく、当時の音楽CDの販売数を人に紹介しています。90年代前半から中盤まで音楽CDの売り上げは文字通りに右肩昇りで、今じゃ年に一曲か二曲しか出ないミリオンヒットもなんと毎年二十曲以上は出ていました。また似たようなものとしてテレビゲームにおいても98年のピークを迎えるまで売り上げ本数は年々伸びており、逆にそれ以降は音楽CD同様に今度は右肩下がりに売り上げが低迷し、現在両方の業界はともに苦しんでおります。
せっかくだから自動車の販売台数も出そうと思ったら、なんか月別のデータしかなくて調べられませんでした。これだから三等統計国は……。
とまぁこんな具合で悪化する経済を尻目に、日本人は消費者的にはそれ以前よりずっと豊かに生活を送っていました。では一体何故、企業の売り上げが低迷しているにもかかわらず個人消費が奮ったのでしょうか。これはなんというか非常に簡単で、理由を挙げろというのなら実はいくらでもあげることが出来ます。
まず一つが、日本人の貯蓄体質です。最近はずっと目減りしているのですが当時の日本人は本当に貯金と預金が大好きで、そのために経済情勢が悪化しても豊富な貯蓄があったために消費は継続された、という感じです。
そして二つ目に、当時はまだ終身雇用が生きていたからです。企業業績が悪化しても当時は終身雇用がはっきりと守られており、定期昇給から残業代支給まで今から考えると大盤振る舞いともいえるような俸給が被雇用者、つまり消費者に配られていました。
でもって三つ目、これが非常に重要なのですが、この時期に政府は景気刺激策の名の元に公共事業政策、要するにバラ撒き政策を大々的に行ったからです。
この公共事業については次回に詳しく解説しますが、こうしてあげたいくつかの理由によって日本の個人消費は非常に好調で、事実当時の日本経済は企業の業績悪化をよそ目に個人消費に頼って生きながらえていました。しかし最初の貯蓄は使ってけばどんどん減っていくのは当たり前で、二つ目の終身雇用はさすがに企業も被雇用者にいつまでも大盤振る舞いをしてられなくなり、三つ目の公共事業は小泉内閣が出来るまで続けられたのですが、結論を言うと90年代の後半に入ると日本経済で唯一好調だった個人消費もとうとう干上がってしまいます。その時期を具体的に言うと97年で、この年に消費税が5%に引き上げられたことによって個人消費も一気に冷え込み、この時になってようやく日本は事態の深刻さに気がつくというわけです。この辺もまた後で解説します。
私の目から見ても、90年代前半は豊かな時代だったと思います。さすがにバブル期ほどの悪趣味な散財というものは見なくなりましたが、それでも漫画からゲーム、音楽からファッションといったものへの消費が社会全体で活発で、ファッションにいたっては当時は安室奈美恵などアイドルも数多く現れ、こういった服飾品への支出が非常に煽られていた気がします。今じゃ安いユニクロとH&Mが流行ってるあたり、時代格差を感じます。
現代の若者論の間違いについて
大分以前の記事で、現代の若者を評価する論説のほとんどが年長者からの上から目線で語られていることが多く、その世代の人間を基準に「お金を使わなくなった」とか「車に乗らなくなった」などと、やや偏った意見が多いと私は指摘しました。
これとは別で私が最近巷で語られる現代若者論の中で致命的だと思う欠点は、
「今の若者は先の見えない世の中に人生に意欲をなくしている」
といった言質だと思います。
確かに現代の若者は将来に対して強い不安感を持ち、そのために以前と比べるのなら行動意欲などの点で大きく低下しているのは事実だと思います。以前から大分減ってはいましたが最近だとデモ行進もなければ座り込みや、ハンスト活動……ちょっと極端なものばかり挙げていますが、身近な例だと地域自治体活動などに参加する若者は私の実感でも減っている気がします。
しかしこういった事例に対して先ほどの主張は根本から間違えていると思います。もったいぶらずに言うと、「先が見えない」からやる気をなくしているのではなく、「先が見えてしまう」からやるきをなくしてしまうというのが本当の理由でしょう。
以前は学歴社会といわれながらも、しっかりと勉強していい大学に入れば社会的地位も向上すると考えられていましたが、それに対して現在はいい大学を出たからといって必ずしもいい所に就職できるとは限らなくなり、また学歴社会と言われた以前より高卒の人間に対する就職状況が、ここ二、三年は好転しているものの、非常に狭められており、例を挙げると大企業メーカーの工場作業員も正社員はほとんどおらずに派遣社員などにされるなど以前より環境は悪化しております。
そして何より、終身雇用のレールから外れると一生まともな生活をすることが出来なくなると学歴社会の頃から言われていましたが、現在は当時以上にこの言葉が重みを持ってきただけでなく、不安定な雇用環境からさきほどの「レール」から外れやすくなっているのも、不安感を増大させている原因となっているでしょう。
そのため一旦失職、下手すりゃ最初にまともなところに就職できなければその後一生は暗いままで終わる、といった具合に若者も達観しているために、一旦レールから外れるとやる気をなくしてしまうのだと思います。将来に不安を持つといっても、わからないというより一生駄目なままというのがわかりきっているというのが根本的な問題でしょう。
ついでに書くと以前は定期昇給といって毎年勤め続けるごとに月々の給料は増えていきましたが、現在はどの企業も職能給という制度にほとんど移っていてこの定期昇給を維持しているところなんて極わずかでしょう。
何だかんだいって戦後に日本社会が非常に大きな活力を持てたのは、「先が見えなかった」からだと思います。今じゃ信じられないような人、ヤクザくさいハマコーとか野中広務が国会議員になれたり、街工場の一小企業がいつの間にか世界のソニーと呼ばれるようになってたりなど、ありていに言えば下克上はいくらでも起こせるという空気が日本人を真に強くさせたのだと思います。
私としても何事もわかりきっている世の中よりやはり何が起こるかわからない世界の方が生きてて楽しそうだと思います。信長の野望でも天下統一が確定的になって近づいてくるとかえってつまらなくなるし、逆に生き残るかどうかの瀬戸際で遊ぶ方が楽しいしなぁ(・∀・)
これとは別で私が最近巷で語られる現代若者論の中で致命的だと思う欠点は、
「今の若者は先の見えない世の中に人生に意欲をなくしている」
といった言質だと思います。
確かに現代の若者は将来に対して強い不安感を持ち、そのために以前と比べるのなら行動意欲などの点で大きく低下しているのは事実だと思います。以前から大分減ってはいましたが最近だとデモ行進もなければ座り込みや、ハンスト活動……ちょっと極端なものばかり挙げていますが、身近な例だと地域自治体活動などに参加する若者は私の実感でも減っている気がします。
しかしこういった事例に対して先ほどの主張は根本から間違えていると思います。もったいぶらずに言うと、「先が見えない」からやる気をなくしているのではなく、「先が見えてしまう」からやるきをなくしてしまうというのが本当の理由でしょう。
以前は学歴社会といわれながらも、しっかりと勉強していい大学に入れば社会的地位も向上すると考えられていましたが、それに対して現在はいい大学を出たからといって必ずしもいい所に就職できるとは限らなくなり、また学歴社会と言われた以前より高卒の人間に対する就職状況が、ここ二、三年は好転しているものの、非常に狭められており、例を挙げると大企業メーカーの工場作業員も正社員はほとんどおらずに派遣社員などにされるなど以前より環境は悪化しております。
そして何より、終身雇用のレールから外れると一生まともな生活をすることが出来なくなると学歴社会の頃から言われていましたが、現在は当時以上にこの言葉が重みを持ってきただけでなく、不安定な雇用環境からさきほどの「レール」から外れやすくなっているのも、不安感を増大させている原因となっているでしょう。
そのため一旦失職、下手すりゃ最初にまともなところに就職できなければその後一生は暗いままで終わる、といった具合に若者も達観しているために、一旦レールから外れるとやる気をなくしてしまうのだと思います。将来に不安を持つといっても、わからないというより一生駄目なままというのがわかりきっているというのが根本的な問題でしょう。
ついでに書くと以前は定期昇給といって毎年勤め続けるごとに月々の給料は増えていきましたが、現在はどの企業も職能給という制度にほとんど移っていてこの定期昇給を維持しているところなんて極わずかでしょう。
何だかんだいって戦後に日本社会が非常に大きな活力を持てたのは、「先が見えなかった」からだと思います。今じゃ信じられないような人、ヤクザくさいハマコーとか野中広務が国会議員になれたり、街工場の一小企業がいつの間にか世界のソニーと呼ばれるようになってたりなど、ありていに言えば下克上はいくらでも起こせるという空気が日本人を真に強くさせたのだと思います。
私としても何事もわかりきっている世の中よりやはり何が起こるかわからない世界の方が生きてて楽しそうだと思います。信長の野望でも天下統一が確定的になって近づいてくるとかえってつまらなくなるし、逆に生き残るかどうかの瀬戸際で遊ぶ方が楽しいしなぁ(・∀・)
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