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2015年5月6日水曜日

空飛ぶ霊媒師、ダニエル・ダングラス・ホーム


 上記の画像は以前に「不死身の弁護士」という記事で紹介した滝本太郎弁護士の写真です。滝本弁護士は別に霊感があって空中浮遊をしているわけではなく、地下鉄サリン事件以前のオウム真理教信者の救済活動に携わっていた際、麻原彰晃が空中浮遊できるほど霊力があると信じ込んでいた信者らに対し、「空中浮遊ならやろうと思えば俺だってできる」と言って、自ら体を張って空中浮遊の写真がトリックであると証明するためこの写真を撮影したそうです。詳細はリンク先の過去記事に詳しく書きましたが、この写真といい何度狙われても生還したことといい非常に頼もしい弁護士だと思うと同時に、なんでこんな写真を私もいつまでも保存しているのか少し悩むところです。

 ここで少し話が変わるというか本題に移りますが、いわゆる霊能力や超能力があるということを証明するのによく使われるパフォーマンスと言ったらスプーン曲げや予知と並び、先ほど出てきた空中浮遊も挙がってくるでしょう。しかし先の二つと比べ空中浮遊ができるという人はそれほど多くはなく、また誰もが「あいつはマジで浮かんでた!」と証言するような見事な空中浮遊を見せる人物となるとほぼ全くいないどころか、浮遊するシーンを撮影した動画なんてものもこれだけネットが発達した時代でも出回っていません。何故そうなのかというと単純に空中浮遊はトリックとして難しく、超能力があるように種や仕掛けを用いてやろうとしてもあっさりばれてしまうことが多いため、スプーン曲げなどと比べるとややレアになっているのだと推察します。

 しかし、やや時代は古いですが「あいつ、マジで浮かんでたよ!」と言われた超能力者がかつて存在していました。驚くべきことにこの超能力者というか霊媒師は生前、ただの一度として彼の見せる奇跡がトリックだと見破られることもなく現代においても彼が見せた不思議な現象を説明できておらず、彼は本物だったのか否かは今でも大きな議論のネタとなっています。

ダニエル・ダングラス・ホーム(Wikipedia)

 その霊媒師の名前はダニエル・ダングラス・ホーム(ヒューム)といって、19世紀にスコットランドで生まれました。ホームは生まれてすぐ子供のいなかった叔母夫婦に引き取られますが子供の頃から彼の周囲ではラップ音やポルターガイスト現象が起こっており、ホームが17歳だった頃に生みの母が死去するとそうした心霊現象は以前にも増して増えていったそうです。またホーム自身も心霊現象を見せることができ、イギリスを始め欧州各国で多くの人間が彼が起こす超常現象を目の当たりにしてその名声も存命当時からも論争になるほど大きなものでした。

 ホームが見せた超常現象はどんなものだったのかというと、一言で言って桁外れに説明のつかないものが多いです。冒頭に書いた空中浮遊はもちろんのこと、その場で手足を数十センチ伸ばしたり、燃える石炭で顔を洗う、触るだけで楽器を鳴らす、空中から誰のものでもない霊の手を出現させ列席者と握手させるなど、並み居る列席者の目の前で常識では考えられない現象を実に多くの人間に見せています。

 しかもホームがほかの超能力者と大きく異なっている点は、これらの心霊現象でお金を稼ぐようなことはほとんどせず、それどころか時間さえあれば一般市民にも無料で見せていた点です。さらに列席者に対しては、「部屋が暗くちゃ見え辛いよね(´・ω・`)」などと言っては自ら照明を明るくするなど、トリックを隠そうとすような素振りを見せるどころか逆にオープンすぎる姿勢を貫いていたそうです。それだけオープンだったにもかかわらず彼の存命中、誰一人として彼が見せる心霊現象をトリックだと証明できるものはおらず、ハーバード大学の研究者だけでなく「クルックス管」の発明で有名なウィリアム・クルックスすらも「疑わしい点はない」と彼の力を認める発言を残しています。

 彼の心霊現象を見た人間は著名人にも多く、時のローマ教皇であったピウス9世、フランス皇帝のナポレオン3世、ロシア皇帝のアレクサンドル2世などもわざわざホームを呼び寄せています。もっともホームを詐欺師呼ばわりする人間も当時からたくさんいたようで、そうした声に巻き込まれる形で生活が困窮するような事態にもなんどか陥っています。しかし彼を糾弾する人間からは誰一人として彼が起こす不思議な現象を説明出来るものは出て来ず、そうこうしていたらホーム本人が48歳ごろに引退宣言をして表舞台から姿を消してしまいます。といっても、親しい人には「今回だけだからね(´・ω・`)」といってちょくちょく見せてたそうですが。

 ホームの特徴を一言で述べるなら、非常に多くの人間を前に心霊現象を披露しながら存命中に足を見せることが一度としてなかったということに尽きます。だからと言って彼が本物の霊媒師だったと言い切れるわけではありませんが、彼自身が見せていたオープンな姿勢といい、ほかの超能力者たちとは明らかに一線を隠す人物であったことだけは間違いありません。
 私自身はそれほどスピリチュアルに傾倒しているわけでもなく超能力や例現象に関してもやや懐疑的な立場を取ることが多いですが、このホームの話は聞いてて素直に「なんじゃこりゃ」と思う話が多く、スウェーデンボルグ並に聞いてて面白いと思ったのでここでも紹介することにしました。

 このブログは一応政治系ブログを標榜していますが、意外とこの手の記事の方が人気あるんだよなぁ……。

2015年5月5日火曜日

昭和天皇崩御時の社会の反応

 今でこそ「激動の昭和」というフレーズは世の中に定着しておりますが、この言葉が出来上がったのは昭和が終わり平成となった直後で、昭和天皇の崩御に合わせて放映された昭和を振り返る番組の中で何とも連呼されて定着したと聞きます。
 昭和天皇とくれば日本人なら誰もが知っており、また誰もが歴代天皇の中でも特別な存在だと認識している天皇だと思います。その崩御当時はメディアなどが発達していたこともありますが全国で大きく取り扱わられたと言われているものの、私自身は当時まだ幼児だったため全く記憶がないというのが本音のところです。
 つい最近、この昭和天皇崩御時の社会の様子についてある証言者から詳しく話を聞く機会があり、なかなかに興味深かったので今日はこの話を紹介することとします。

 昭和天皇の崩御時についてこれまでに私が伝聞で聞いた内容としては、追悼番組が延々と流れ続けたためレンタルビデオ店が繁盛したとか、崩御翌日の新聞朝刊どれも一面で崩御を伝える中で東スポだけが「ブッチャー流血」を一面見出しにしていたなど、どちらかといえばマクロな話ばかりで当時の人たちはどのような反応をしていたのかミクロな視点での話しはほとんど聞いたことがありませんでした。特に気になっていたのは当時の一般社会はどうだったのか、企業などはどのような反応をしていたのか、こういった点について実は前から話を聞いてみたいと考えていたわけです。

 その証言者は崩御当時、というより前日から仕事が忙しく、会社に泊まり込んで仕事を続けていたそうです。夜が明けた早朝に仕事がひと段落したので社内で仮眠を取ろうとしていたところ、会社ビルの警備員から昭和天皇が崩御したとここで第一報を受け取ったそうです。
 崩御の第一報を受け取った証言者が何をしたのかというと、まずは同じ会社の人間へ崩御の事実を電話で伝え回ったそうです。証言者は昔も今も広告業界で働いており、あらかじめ崩御した際には各スポンサーのテレビCMを自粛する方針で決まっており、関係する人間同士でテレビ局やスポンサーに対して連絡する手筈となっていたとのことです。なお崩御の日については内々に「Xデー」と呼んでおり、CM放送自粛も既に段取りが決まっていたため感覚的には、「用意されたボタンを押すようなもので大きな混乱というものはほとんどなかった」と話しています。

 では証言者の周り以外ではどんな反応だったかと聞いたところ、よそも大体似たようなもので、そもそも崩御した1月7日の一ヶ月前に当たる年末からXデーは近いと目されており、どこも準備を万端にして整えていたため企業業務では大きな混乱はどこもなかったという見解を示しました。ただXデーがあらかじめ予想されていたためか、この年の正月は例年と違って非常に淡白な正月で、テレビ番組なども殊更におめでたいとは言わずバカ騒ぎするような番組もなかったそうです。

 そのほかに何かエピソードはないのかと続けて尋ねたところ、証言者が当時担当していたスポンサー企業からお悔やみ文をもらったことがあったという話が飛び出してきました。そのお悔やみ文は非常に体裁の整った古文のようなお悔やみ文だったそうで、来るXデーの際にはプレスリリースのような形で発表するよう指示を受けていたそうですが、その際にXデーの前にはお悔やみ文の存在を絶対に外に洩らさないよう要求されていたそうです。というのも、まだ崩御していない段階でこのような文章を作っていたとなると体裁が悪く、批判を受けかねないと考えたためだったそうですが、結局このお悔やみ文は日程の都合から使われることはなかったそうです。

 その次に、崩御後の日本経済はどうだったのかと尋ねました。東日本大震災では震災後に自粛ムードが広がり国内はおろか上海の日本食店すらも売り上げが落ちるほどだったので、それほどの自粛ムードなら陰りが見えたのではと想像したのですが、これに関して証言者は「影響はほとんどなかった」と否定しました。当時は末期とはいえまだバブルの最中で、また各企業で電子システムを導入するなどIT化の波が広がるなど投資も盛んで、テレビ番組では自粛が広がったものの実体経済自体は好調のまま推移していたとのことです。

 大体ここまでくればわかると思いますがこの証言者というのはうちの親父です。案外こういう小さな個人の視点での現代史記録は残されていないもので、1995年以降であれば私も多少は世の中わかるようになって自分の記憶で書けますが、それ以前となると年齢が上の人間に頼らざるを得ず、思わぬところで親父の話が聞いてて参考になりました。
 私は昭和59年(鼠年)の生まれですが、昭和という時代には全くと言って記憶がありません。たまに自分らの世代のことを「昭和ラストエイジ」と呼んだりすることもありますが、実質的には私は平成の時代の人間です。だからこそってわけじゃないですが、なるべく昭和から平成にかけてのこう言った証言は自分の生きてる間に後世へ残せるような証言を残しておきたいとも思えます。

2015年5月4日月曜日

我が一族と猫



 上記の動画は以前に見つけた猫動画ですが、やけに二本足で立つのが得意で妙な踊り方を見せる「桃太郎」という名前の猫が紹介されています。ほかにもこの猫にはいくつか動画がアップされていますが、どれもなんか猫らしくないというか、独特な表情と相まってやけに印象に残ります。
 知ってる人には早いですが私自身が猫を見るのが好きで、このような猫動画を暇さえあればよく検索して見ております。なんで猫が好きなのかというと単純に子供の頃から実家で飼われていた影響が何よりも大きいのですが、それ以前にうちの一族は猫と因縁があるというかちょっとしたエピソードがあります。

 これはうちの親父が生まれる以前の私の祖父の話ですが、祖父は戦時中に努めていた会社に派遣される形で上海に滞在しておりました。本国を離れての生活ながらも戦時中の上海は物資が豊富だったそうで、食料が不足していた内地とは対照的に祖父は毎日ステーキ食って毎日中国人と麻雀を打ったりして楽しく過ごしていたと話していました。しかし敗戦と共に祖父は日本へ帰国したのですが敗戦後の日本は全国どこでも物資が不足しており、戦時中の上海での生活とは打って変わってその日の食事にすら事欠くほど困窮していたそうです。

 日本帰国後のある日、いつものように祖父一家では食料がなく腹を空かせていたところ、当時飼っていた猫がなにやら袋包みを口にくわえて家に帰ってきました。一体何を持って帰ってきたのかと包みを開いてみると、中身は当時としては有り得ないくらいに貴重だった牛肉だったそうで、しかもきちんと切り分けられた状態で包装されていました。何故猫が牛肉を、しかもどっから持ってきたのかなどといろいろ突っ込みどころが満載ではあるものの、祖父一家は食べるものが無かったということもあって猫が持ち帰ってきた牛肉を、食中毒とかそういったことはあんま考えずに鍋かなんかで煮て食べちゃったそうです。後年この時のことを語るにつけ、「ほんまあの時は助かった、あの猫はええ猫やった」と述懐していたと聞きます。

 こうした縁(?)もあってか、うちの一族は基本みんな猫好きです。恐らく祖父の代に牛肉を持ち帰る代わりに将来に渡って敬い続けるよう契約めいたものを結んだんじゃないかと勝手に想像してます。この自分の推理にうちの親父も、「せやったんか」とやけに納得しておりました。

2015年5月1日金曜日

原爆と日本の降伏

 言うまでもないことですが日本は世界で唯一の原子爆弾の被爆国であります。二次大戦中に投下された原爆については米国と日本でその正当性について意見が分かれており、米国側はあくまで抵抗を続けようとする日本を降伏に至らせるのに必要だったとしているのに対し、日本側は当時既にソ連へ和睦の仲介を依頼しており原爆が無くても降伏へ動いていたことを米国は知っていた、それにもかかわらず原爆を投下したのは原爆の威力を確かめる実験的要素が大きかったとしてこの原爆投下を不必要な虐殺行為だったと批判する意見が大勢を占めていると思われます。
 現実問題として広島、長崎への原爆は市街地に投下されており一般市民を全く考慮しない虐殺であったことは間違いない事実ですが、こと日本を降伏に追いやる最後の一撃だったのか否かについては、私は米国側の意見の方が正しいのではないかとこの頃思えてきました。今日はこのように考え方が変わった経緯とその理由を書いてみることにします。

 日本は1945年8月15日にポツダム宣言を受け入れ、連合国側に対して無条件降伏を申し出ます。この降伏へと至る過程で米国側は原爆の威力が大きく影響したとする説が強いと聞くのですが、日本の歴史家などは原爆の威力に日本側も確かに驚いたものの、本当に最後降伏を決断するに至った大きな理由は8月9日のソ連の対日参戦であると主張する人が多いです。何故ソ連の参戦が日本を降伏へと追いやったのかというと、日本はそれ以前からソ連に対して内密に連合国との和睦を仲介するよう依頼していたのですがその依頼相手がこともあろうか不可侵条約を破って逆に日本へと攻めてきたため、無条件降伏以外に戦争終結手段が完全になくなってしまったことが当時の首脳の間で認識されたためとされています。
 上記のような日本側の考えというか定説に対し、私もまさにその通りだとこれまで考えておりました。原爆よりもソ連参戦の方が日本にとってショックが大きく、原爆自体は降伏決断にそれほど影響しなかったがソ連参戦は違って、文字通り止めの一撃とも言うべき状況の変化だったというように考え、このブログでも以前にこの説を展開しております。

 では何故、私の中で降伏する要因となった推測理由がソ連参戦から原爆投下へ変化したのか。変化したきっかけとなったのは半藤一利氏の著書「日本のいちばん長い日」を読んだことからで、この本では原爆投下直前から御前会議、宮城事件を経て玉音放送に至るまでの各関係者のやり取りを丹念な取材の元に細密なスケジュールでもって描かれております。
 この本を読んでみたところ、1945年4月に鈴木貫太郎内閣が成立した時点で政府は降伏への道を探り始めて様々な工作を始めていますが、やはり8月6日の広島への原爆投下直後から官邸内の動きが激しくなり、はっきりと「今すぐにでも降伏しなければならない」という方針が首脳の間で持たれる様子が描かれています。当時の首脳の間でも原爆の威力に対する驚きは非常に大きく、このままずるずると降伏が長引けば長引くほど日本は焼け野原となり再建が難しくなるだけだという認識が持たれていたようで、陸軍の阿南大臣すらも、天皇制が護持されることを前提としながらも降伏はやむなしという見解を示しています。

 先の半藤氏の著書によると6日の投下以降、官邸内ではどのように降伏を受け入れるのか、降伏条件をどうするのか、「Subject to」の解釈問題など連合国側の意向はどうなのかについて本格的な議論が始まるわけですが、そうして議論している間に長崎への原爆投下、そしてソ連の参戦が起こり、当時の状況についてこの本を読んだ感覚としては、「降伏に向けて準備している最中にさらに事態が悪化してきた」ような印象で、こういってはなんですがソ連の参戦が降伏へと至る決定打になったとはあまり思えませんでした。無論、ソ連の参戦は首脳間にも強いショックを与えている様子もしっかり描かれてはいますが。

 この半藤氏の著書と共にこの問題に関して影響を与えたのは、まさにこの当時にいた人間の肉筆とも言うべき、作家の山田風太郎が当時書いた日記でした。山田風太郎は戦前から戦後すぐの期間に自身が書いた日記を出版しているのですが、広島への原爆投下から2日後くらいに疎開先で原爆の報を知り、周辺の人々を含めその威力に対して大きく驚く様子が描かれています。もっとも、当時愛国心の高かった山田風太郎は級友と共に原爆対策として、「山中に地下基地を作るよりほかない」などとちょっと無理なことを当時言ってはおりましたが。
 私はこの日記を読むまで、原爆の威力や事実、被害などは国民には秘匿されていたのではないのかとも考えていましたが、実際には大半の人間が「広島に新型爆弾が使われたようだ」、「一瞬で街が吹っ飛んだ」という事実を知っていたようです。そして、その爆弾に対してまともな対抗手段が当時の日本にはなかったということも。

 以上のような理由から私は、日本が最終的に降伏へと至るきっかけとなったのはやはり原爆ではないかと考えるようになりました。この記事の内容に関しては反感を持たれる人間も多いのではないかと思いますが、それでも敢えてこうして記事に残すのかというと、やはりこの点に関してはもっとオープンにかつ様々な視点で議論すべきではないかと思ったためです。そして当時の状況を知る上ではやはり、きちんと当時の資料に基づいて物を見なければと改めて反省する限りです。


  

2015年4月30日木曜日

安倍首相の米議会演説について

 本日未明、米議会で日本の安倍首相が演説を行い、その内容について日系、海外系を問わず多くのメディアが大きく取り上げています。主な論点は安倍首相の歴史認識、というより二次大戦中におけるアジア諸国へ日本が行った行為の反省と謝罪があったのかなかったのかという点ばかり取り上げられているのですが、良くも悪くも首相演説がここまで大きく注目されるというのは珍しく、私の覚えている限りだとこんなの小泉元首相以来じゃないかと思います。
 ではその安倍首相の演説内容はどうだったのかですが、さすがに全文は確認せず各メディアで報じられている内容でしか確認していませんがその上で私の感想を述べるとするなら、なかなか悪くはない演説だったのではないかと考えています。

 まず一部日系、韓国系メディアが主張しているような従軍慰安婦などに対する言及がなかったことについては、そもそもこれは米議会での演説であって、韓国くらいしか問題視していない従軍慰安婦問題をわざわざここで話題に挙げるのはナンセンスでしょう。二次大戦全体については「痛切な反省」という表現を用いたとのことですが、まだこれなら日本と米国がこの戦争で戦ったことを考えると適当な表現だと思え、現在の日本の大戦に対する歴史認識を表現する上ではおかしくない気がします。米議員を前にしているのだからこそ、日米関係を中心にして演説することこそが筋でしょう。

 その日米間系に関する内容に関しては、なかなか見事だと感じたのはかの有名な硫黄島の戦いを引用したことです。硫黄島の戦いは日本人の間では映画「硫黄島からの手紙」が公開されてからその内容を知る世代が広がりましたがが、米国にとっては太平洋戦争で最も手こずったというか損害が大きく、また海兵隊がその軍としての存在価値を大きく明確化させるに至った戦いともあってその記憶に強く刻み込まれています。
 今回、安倍首相はこの硫黄島の戦いに参加した元マリーンと、硫黄島の戦いで日本軍を指揮した栗林忠道の孫である新藤義孝前総務大臣を招き、あの戦いに関係する両者がこうして同じ場に立てるほど日米の紐帯は強まったというパフォーマンスを行いました。私個人的な見方で述べるとこの演出は見事に感じられ、この一点をとっても今回の演説は非常に効果的だったと思います。

 こうした演出などが効を奏したのか、演説中に安倍首相は何度もスタンディングオベーションを受けるなど現地ではなかなか好評だったそうです。それに対し最初に述べた従軍慰安婦に関するやっかみが来たのはある意味、安倍首相が嫌いな連中からしたら目障りな演説のように見えたからこそではないかと思えます。逆を言えばそういう連中と明確に対立路線を打ち出している安倍首相にとっては一種好都合かもしれませんが。

 最後にどうでもいい豆知識ですが、「栄光ある失敗」で有名なアポロ13号の乗組員が地球へ帰還した際、この脱出艇を回収したのは「イオージマ強襲揚陸艦」で、この名前の由来は言うまでもなく硫黄島からです。そして映画「アポロ13」でこのイオージマの艦長役を演じたのはアポロ13号の実際の乗組員だったジム・ラヴェル本人で、映画を見る度に、「乗っとったのはお前やんけ」などと毎回心の中でツッコミを入れています。

2015年4月29日水曜日

ブログテンプレートを変更

 今日こちらのサイトを見て、「あれっ?」って思った方は多いのではないかと思います。見てわかる通り、このブログのレイアウトテンプレートを昨日までのシンプルなものから背景付きのテンプレートに変更しました。
 なんで変更したのかというと今日何気なくテンプレートの種類を見ていたらちょっと良さそうなのがあり変更してみたところ、一見して悪くないと感じたからです。元々以前のテンプレートは自分のソウルカラーであるオレンジ色した背景だったため嫌いではありませんでしたが、さすがにシンプルすぎやしないかと少し懸念もありました。

 今回のテンプレート変更に当たって気を付けた点としては、一にも二にもテキストが読みやすいか否かです。通常のブログと異なり私のブログはテキスト量が半端なく多く読む側にも相当な負担がかかっていると思われ、文字は可能な限り読みやすいようシンプルイズベストを心がけています。幸いこのテンプレートだと記事部分は白い背景がつくため文字はフォントサイズにさえ気をつければ割かし読みやすい形態です。あと今度のテンプレートだとリンクの付いたテキストは暗めの赤色で表示されるため、以前の明るみが入ったオレンジ色よりはなんぼか見やすくなっているかと思われます。

 テンプレート自体は既存の物であればすぐに変更できるので、しばらく使ってみて気に入らなければまた変更するかもしれません。今のところは気に入っていますが、こればっかはある程度時間かけてみないとわからないもんですし。

2015年4月28日火曜日

創業家列伝~長瀬富郎(花王)

 今更ながら恥ずかしい話ですが私は2005年に留学のため中国で生活していた際に初めてP&Gが日系企業じゃないということを知りました。ただ同じような間違いをしていた人はほかにも多くおり、何故それほど自国の企業だと誤解する人が多いのかというと単純にP&Gが世界市場で圧倒的なシェアを誇ること、各地域の市場に根差していることが要因ではないかと思われます。
 実際に石鹸やシャンプーといった一般消費財市場は世界規模でP&Gが大半のシェアを持っており、中には同じ業種で対抗する企業がほとんどないという国や地域もあると聞きます。そんなP&Gという巨人に対し、日本国内市場では花王という会社が「調査兵団」みたいな感じで割と頑張って抵抗してたりします。

花王(Wikipedia)

 後に花王を創業することとなる長瀬富郎はまだ江戸時代だった1863年に現在の岐阜県福岡町にある酒造業者の次男として生まれます。富郎は小学校を卒業すると親戚の商家に奉公へ出て下積み時代を過ごし、22歳の頃に自らの独立資金を貯めると奉公を終えて上京し、独立資金を増やそうと米相場の先物取引に手を出します。
 この時投じた金額は150円という明治初期としては非常に大きな金額ですが、案の定というか富郎はこの資金を全てすってしまいます。本人もこれには大分懲りたのか、「もう投機的なことは絶対しない」と言っては自分の信念にしていた節があります。

 独立資金を失った富郎は再び奉公に出てお金を貯め、25歳の時に再び独立して東京の馬喰町に洋小間物を取り扱う自分の店を構えます。この時はいろんな商品を取り扱っていたようですがその中でも富郎が目をつけたのはほかならぬ花王の代名詞ともいえる石鹸で、洗浄用としては幕末に海外から輸入され明治期には一般市民にも大きく普及していたものの当時の国産石鹸は海外性と比べて品質が著しく悪かったそうです。
 富郎本人も客からのクレームを受けながらまともな品質の国産石鹸を探しあぐね、以前の奉公時代に知り合った村田亀太郎という石鹸職人が独立して石鹸作り始めると聞くや富郎は専属契約を結み、村田と一緒に石鹸の品質改善に取り組むことになります。

 二人は薬剤師の親戚から石鹸に必要な知識や技術を学ぶと試行錯誤の末に一年半後、ついにこれはと言えるような石鹸を作ることに成功します。この石鹸を売り出すに当たって化粧用石鹸のことを当時は「顔石鹸」と読んでいたことから音を取って「香王」と名付けて商標を登録しますが、売り出し前に思い直し「花王」と改め、こちらの名前で売り出すことにしました。
 こうして売り出された「花王」石鹸は他者と比べて高い値段設定であったものの評判が評判を呼び、売り出しはじめから割とよく売れたそうです。しかし売れ行きが良くなるにつれて模造する業者が続出し、最初に商標登録までした「香王」や「花玉」などと似たような名前の石鹸が次々と売り出されたそうです。あながち昔の日本人も中国人を笑えんな。

 こうした模造品に対して富郎は何度か告訴したりもしましたが終いには「品質では勝ってる。ほっといてもパクリメーカーは潰れる」などと無視する方向に舵を切ります。その一方で自社製品の宣伝には当初より力を入れており、鉄道沿線に宣伝看板を設置するのを始め全国の新聞にも積極的に広告を掲載していきました。
 この間、品質の向上も怠らずに続けており、その甲斐あってか1904年に米国セントルイスで開かれた万国博では花王の石鹸がその品質を評価され名誉銀杯を取得しています。その後もシアトルやロンドンの博覧会でも賞を取り、国内外でその品質への評価は日増しに高まっていきました。

 このように書くと富郎の人生は順風満帆のようにも見えますが途中途中で何度か痛い目にも遭っており、いくつか例を挙げると資金余裕を持って工場の拡張に取り掛かろうとしたところいきなりメインバンクの東西銀行が破綻して多額の出費を迫られ計画を延期しています。ただ最初の米相場の失敗経験から堅実経営は貫いており、この時の出費で会社を致命的な所まで追い込んでいない辺りはさすがというべきでしょう。

 世界各国で石鹸が高く評価され始めた頃に富郎は病にかかり、晩年は割と寝たきりの生活が続いてたと言われます。病床で富郎は自分亡き後の会社について遺言状を下記、当時まだ小学一年生だった三男を後継者に指名した上で弟二人に後見人となるよう指示します。こうした備えを終えてから富郎は1911年、48歳という年齢でこの世を去ります。時代的にちょうど明治期を貫通するような生没年だったりします。

 長瀬富郎に関しては経歴以外はあまり書くネタを持っていないのが実情ですが、特筆すべきはやはりその品質へのこだわりでしょう。当初から高級路線で石鹸の製造を志していたことは間違いなく、それが発売当初から評価され現代に続く日系消費財メーカーの雄として活躍する下地はここにあると言えるでしょう。
 多少国策的なことを言えば、日系企業を応援するという意味ではP&Gよりも私は花王やライオンの消費財を敢えて選ぶようにしています。P&Gが嫌いというわけでもなく品質に疑いを持っているわけではありませんが、一応地元を応援するって意味合いで。

  参考文献
「実録創業者列伝Ⅱ」 学習研究社 2005年発行