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2015年5月13日水曜日

近距離間国家連合の先行き

 もうずっと専門とする国際政治の話を書いてない、っていうかただ単に勉強してないだけですが、久々に好き勝手な推論でもいいから何か書こうと思います。まぁ勉強しなくなった言い訳をすると、日系メディアだと国際報道がちょっと少ないんだよなぁ特に最近。

 先日英国で総選挙が行われ、選挙前の予想報道とは大きく結果が異なり与党保守党が大勝する結果になったそうです。一方で野党の労働党は議席を減らすこととなり、この選挙結果について東洋経済の記事では英国は今後ますますEUとの距離を置くだろうとの見方を示しており、私も基本的に同感です。
 もともと英国は大陸嫌いというかフランスやドイツといったヨーロッパ諸国とは距離を置きたがる傾向があり、特にその傾向が激しい保守党が買ったことが何よりも大きいです。ただそれ以上にEU自身が目下、結束を保てるかどうか怪しい状態が続いていて果たしてこの距離的に近い国同士の国家連合はどうなってゆくのか今試されているでしょう。

 EUの結束が何故ゆるんでいるのか一言で言えば欧州の問題事故とギリシャの負債問題からです。この負債をどう処理するか、言ってしまえば国家破産か他国からの資金援助の二つに一つしかないのはわかりきっているものの、前者ならEUは身内を助けないと結束にひびが入り、後者なら資金を負担する国民が納得いかないということになるため、EU賛成派にとってはなかなか頭が痛い所でしょう。また資金を融通する国にとっても、ドイツなんかはまだ金があるらしいですがイタリアやスペインも案外ギリシャを笑えない財政状況だと聞きますし、地味にフランスも日本じゃ報道されてないだけでかなり問題を抱えているといううわさを聞きます。

 何故EU諸国でこのような状態が続いているのかというと単純に不況だからという理由のほかに、EUは域内通貨をユーロに統合しているため、国別に財政は異なっているのに為替が変動しないため市場での為替価格の自動調整、言うなれば「神の見えざる手」が機能し辛いことが指摘されています。簡単に説明すると、市場競争力のない国は普通なら自然と為替価格が下がって人件費が落ち、輸出競争力が増していくのですが、ユーロの場合は通貨が共通するためそうしたことが起こらず国別で弱者と強者の差がどんどん広がりやすいそうです。この辺はマネタリストがもうちょっとわかりやすく説明してくれたら助かるのですが。

 元々EUはヨーロッパ大陸で市場を統一化して大きな経済力を持とうという目的で発足しましたが、皮肉なことに同じ市場の中で強者が弱者を食うような事態が今起こっています。EU参加国はヨーロッパの文明を共通していることはもとより、距離的に近距離にある国同士がくっついたという背景がありますが、こうした地政学的価値観に基づく連合国家はやっぱりうまくいかないのではと現時点で私は思えます。

 仮に日中韓の東アジア三カ国でEUのような組織が出来たら、共通通貨がもたれたらどうなるかですが、政治的な衝突が起こらないという前提であってもやっぱりうまくいかないのではないかと思います。何故うまくいかないのかというとやっぱりギリシャみたいにサボった方が得だと考え動き出す国が出てきそうだからです。

 このように考えると世界はまだしばらくは国民国家制度を維持するのが無難ではないかとも思えてきます。EUの思想は一種、経済を媒介とした連合ですがこれだとやっぱり金の切れ目が縁の切れ目で、ちょっとしたことで分裂なりが起こりかねません。じゃあ世界政府ならどうなのか、よっぽど喧嘩と悪の強い皇帝みたいなのが出てくるなら話は別ですが、世界政府となると民主主義はまず成立しないでしょう。

 本当にまとまりのない内容ですが、「国家を越えた枠組み」の1バリエーションとして実現したEUの行く末は非常に大きな試金石です。ただ私自身もあまり期待はしておらず、今後どのようになっていく過程にだけ注目する必要があるというのが今日の私の意見です。

2015年5月11日月曜日

創業家列伝~井植歳男(三洋電機)

 昨日は三洋電機破綻後の三洋電機元社員を追った「会社が消えた日 三洋電機10万人のそれから」の書評記事を書いたので、折角だから今日はその三洋電機を創業した井植歳男の評伝を書くことにします。別に計算していたわけではなく、なんとなく今日は記事執筆に当たって余裕あるから創業家列伝と思ってネタ捜してたらこうなりました。

井植歳男(Wikipedia)

 三洋電機を創業することとなる井植歳男は1902年に淡路島で生まれます。生家は自作農で比較的裕福だったのですが、歳男の父は船乗りを目指し、田畑を売って船を購入すると回船業を営み始めました。ただその父は歳男が13歳の時に急死し、後を継いだ歳男は乗組員が四人だけの船を回すこととなったのですが、船乗りの仕事は今も大変ですが昔はもっと大変だったらしく、歳男自身も当時を過酷な時代として後年に振り返っております。
 しかしそうして家族を養っていた歳男に災難が降り掛かります。港近くで火事になった倉庫の火が燃え移り、仕事で使っていた船があっさりと燃えてしまったのです。生業の手段を失ってしまった歳男ですが、ここで思わぬところから大きな転機が生まれます。

 この辺の話は有名なので皆さんも知っているかと思いますが、歳男の姉は松下電器創業者の松下幸之助に嫁いでおり、1917年に大阪で独立した幸之助は親類縁者ということもあって歳男を従業員に誘い、これに歳男も応じます。当初でこそ工場作業を手伝うなどしておりましたが次第に営業方面の仕事が多くなり、まだ十代であった歳男のセールストークは営業先でも、「この人の話方はとてもうまいからみんな見習いなさい」と他の従業員の前でわざわざ披露させられたというエピソードまであります。ただこの時の営業先は何も買ってくれなかったそうですが。
 その後も歳男は文字通り幸之助の片腕となって八面六臂の活躍で創業時の松下電器を支え続けます。歳男が松下電器に在籍した期間は30年にもおよび、実は三洋電機の在籍期間の22年よりも長かったほどで、32歳時には松下電器の専務職に就任しています。

 時代が戦時色を深めるようになった1930年代にもなると歳男は軍需産業への進出を目指しグループ会社の松下造船を設立すると、木造船を八段階の工程に分けて同じレールの上で作業するという、いわば造船の流れ作業を考案して戦時中には100隻を越える船を造船したと言われます。元々船乗りだったこともあり船には造詣が深く、また本人も単純に好きだったためか後年にも淡路島と本州をつなぐフェリー会社も設立してたりします。

 このように幸之助の元で商売の才能を発揮し続けた歳男でしたが、戦後になると松下電器はGHQから財閥指定を受け、旧役員は一人を残して全員追放されることとなり、義理の兄である幸之助だけが残る形で歳男らほかの役員が去ることとなりました。歳男はこの時、戦前に軍需系企業の株(戦後はもちろん無価値に)の購入費用として借りた350万円の借金を抱えていたため文字通り途方にくれていましたが、住友銀行で後に頭取となる鈴木剛という人物は歳男の人物を買って、新たに50万円の融資を自ら持ちかけてきました。これに応じる形で歳男が設立したのが、三洋電機でした。

 独立に当たって義兄の幸之助からは自転車用発電ランプの製造特許を譲渡され、このランプを作るためまずは兵庫県加西市の北条工場で生産に乗り出します。続けて生産拡大を図り今度は大阪府の守口市に工場を設立しますが、ちょうどこの時に製品に欠陥がでて回収・修理(リコール)をする事となった上、設立したばかりの守口工場も漏電が原因の火災で完全に焼失してしまいます。
 このように順風満帆のスタートではなかったものの立ち直り方は早く、火災から一ヶ月後には工場再建を果たし、創業二年目で三洋電機は発電ランプの国内シェア6割を獲得するにまで至ります。その後も生産品目を増やし、後に三洋の代名詞ともなる「噴流式洗濯機」を国内で始めて製造するなどして会社は拡大を続けました。
 なお三洋電器は洗濯機にはやっぱりこだわりがあったらしく、ドラム式洗濯機も国内で初めて作ってます。

 歳男は66歳でこの世を去りますが、三洋電機自体は歳男の創業時の精神を強く持っていたようで、破綻に至るするまで「主婦のための家電」を合言葉に新機能を追加した洗濯機や冷蔵庫、また末期のヒット商品であった「ゴパン」など新奇性に富んだ家電を生み続けました。

 昨日の記事でいくらか書きそびれたことをここで書くと、パナソニックは三洋電機を買収してからすぐ、「SANYO」ブランドの使用をやめると発表し、それを実行に移しました。しかし私見ながら申すとこの決断は実にもったいなかったと思え、というのも「SANYO」ブランドは日本国内では「ナショナル」や「SONY」と比べるとブランドイメージがやや弱かったものの、東南アジアなど新興国市場ででは早くから進出していたこともあってその認知度や評価は高かったと聞きます。現在の世界市場は新興国市場が中心といっても過言ではなく、国内の使用をやめるだけならともかく、新興国では引き続き利用しておけばよかったのではないかとつくづく思えてきます。
 もっともそれ言ったら、ソニーの「Aiwa」ブランドも全く同じこと言えますが……。

  おまけ
 ちょっと記憶があやふやな所もありますが、確かうちの実家の洗濯機も90年代後半は三洋製だったような気がします。それ以外だと三洋製の家電はあんま使ったことはなく、テープレコーダーにAiwa製、MDウォークマンにパイオニア製を私は使っていました。当時はソニー全盛期だったから、「ソニー製じゃねぇ、だっせぇ」と言われながらもテレコで磁気テープで音楽聞いてました。

  参考文献
「実録創業者列伝Ⅱ」 学習研究社 2005年発行

2015年5月10日日曜日

千葉のマッドシティ~東葛飾旅券事務所


 千葉県松戸市ことマッドシティネタでリアル松戸市民の友人に材料となる写真を要求した所、今回紹介する東葛飾旅券事務所の写真を意気揚々と送られてきました。
 この東葛飾旅券事務所とは読んでその名の如く、パスポートの申請、交付手続きを受け付ける事務所です。この事務所が申請手続きを受け付ける住民のエリアは比較的広く、隣の市に住んでた私も自転車で近くの伊勢丹に着けて、ここの事務所で手続きを行って交付してもらいました。

 と、正直なところこれくらいしかこの事務所について書くこと出来ないのでちょっとどうでもいいネタを明かすと現在私が持っているパスポートは2008年に発行してもらったのですが、その発行日はなんと2月29日、そううるう日だったりします。
 別に狙ってこの日に申請して取ったわけではなかったのですがたまたまこの日の発行となってしまったため、十年後の更新日は2018年2月28日という風に発行日の日付とずれてしまっております。そりゃうるう年じゃないんだから当たり前ですが、我ながら奇妙なパスポートを持ってしまったとやや反省しています。

書評「会社が消えた日 三洋電機10万人のそれから」

 以前に書いた林原の倒産記事が読者からそこそこ好評だったと友人に伝えたところ、「次は三洋だ!」と言って、紹介されたのがこの「会社が消えた日 三洋電機10万人のそれから」という本でした。

 この本はかねてから家電メーカー大手、三洋電機を長期間取材してきた日経記者の大西康之氏による、三洋電機がパナソニックに買収されてからの各関係者の状況を取材してまとめた本です。出版された直後から好調な売り上げだったようで私の周りでも既に読んでいる人間が多かったのですが、私も読んでみた感想としては確かに面白く、文章のリズム感の良さはもとより丹念に取材して書かれているということが読んでてよくわかります。
 中身はどういったことが書かれているのかというと、冒頭では三洋の創業者である井植歳男の息子であり三洋電機の社長、会長職も務めた井植敏氏へのインタビューに始まり、パナソニックによる買収前後の社内状況についての説明を経て、直接取材した元三洋社員たちの現況を紹介しております。

 この点は友人と意見が分かれたのですが、この本で一番面白かったのは冒頭の井植敏氏への取材でした。アポなし取材だったらしくインターホン越しに最初は「話すことなんてない」と断っておきながら家に上げると聞いてもないのに、「最近淡路の玉ねぎ栽培事業に関わってんねん」などと言ったり、部屋にホリエモンの書いた本が転がっていたり(はまって読んでたらしい)と饒舌に話し続けたそうで、読んでていかにもな関西人の姿が目に浮かびました。ただ三洋電機が買収されることとなった経緯に対する質問については一貫して口が重く、著者が何度も質問を繰り返すものの、自らを含めた経営陣の責任だとしか頑として述べずに沈黙を守り続けていました。
 この井植敏氏の態度はどうやら現在も続いているようで、さきほど軽く検索を書けて出てきたインタビュー記事でも、「銀行にだまされたって言わせたいんやろ。だまされていないし、だまされたとしても、だまされた方が悪い」と述べ、やはり自らに経営責任があるという主張を続けています。

 そのインタビュー記事に出ている、「銀行に騙された」という下りですが、これはこの本の主題ともいうべき内容で、著者は三洋電機が買収されるに至る経緯で最も核心的な役割、言い換えるなら経営破綻へと至らせる引き金を引いたのは、2006年の経営改革時にスポンサーとなった大和証券SMBC、ゴールドマン・サックス証券、三井住友銀行の金融三社であるという主張をはっきりと名指しで展開しております。著者がそのように述べる詳しい論拠は是非この本を手に取って確かめてもらいたいのですが、大まかに述べるとパナソニックが不振が続く家電部門に変わる新たな成長部門として目をつけたのが三洋電機のお家芸だった電池部門で、この部門を獲得するために一旦金融三社が入って下ごしらえした上で三洋電機を買収し、ほかの余計な部門は一切切り捨てたという推理がされています。言ってしまえば、パナソニックが三洋電機の電池部門を買収するため仕組まれた破綻劇だったというような話しです。

 この著者の主張に対する私の意見を述べると、さすがにはっきりとした証拠はないので断定こそできませんが、有り得なくはない話だしそのように考えると確かに筋が通るなという風に思います。ただ一つ苦言というかこの本読んで感じたこととして、著者はこの本全体を通して徹頭徹尾にパナソニックを悪者として描いており、ちょっとその書き方が中立を外れてやや感情的に書かれているのではと思う部分もありました。実を言うと私も昔からパナソニックは誉められるような会社ではないと思っててあんまり評価してないのですが、その私の目からしてもちょっと書き過ぎではと思うくらいにパナソニックへの批判が続いており、その後の元三洋電機社員らの現況についても、「パナソニックから出ていって良かった」という話しか載っていません。

 もちろん買収後に三洋電機を出て行った後、元社員らは何をやっているのかという話はどれも面白いのですが、三洋電機を出ていって幸せな感じの人ばかりで、逆にパナからリストラされて非常に苦しいって立場の人が一人も出てこないのは「あれぇ?」って具合で、期待してただけに少し残念でした。ちょっと穿った見方をすると、パナソニックを悪役にするためわざとそのような人ばかり選んだんじゃないかなという気もしないでもありません。
 ただその出て行った社員の話はどれも起伏に富んでおり、異業種の西松屋チェーンに転職して幼児用バギーを設計するようになった下りとか、リストラを手掛けた人事部社員が「人を切るノウハウ」を買われてあちこちからオファーがきたりとか、どれも読んでて引き込まれる話が多いです。

 最後にこの本の中で特に面白いと感じた部分を紹介すると、冒頭の井植敏氏が語る内容の中に日本の一族経営の問題点がなるほどと思わせられました。井植敏氏曰く、日本は相続税率が高いために会社を興して成功した創業一家は自己の財産を所有し続けるため経営能力が無くても会社を経営し続けなければならなくなるとのことで、米国の様にオーナーが会社を所有し、プロの経営者を雇って会社を経営させるという方法が採れないと指摘しています。言うなれば所有と経営が分離せず、そのため非常にいい要素を持つ会社でも無能な創業一家の経営によってむざむざ破綻してしまうこともあると、自戒を込めたような言い方でしんみり語っているところが一番私の胸に刺さりました。

 ちょうど最近、大塚家具の騒動といい一族経営による企業が話題に上がることが増えている気がします。既に記事を書いている林原もそうでしたが、これを日本式経営ととるべきかどうとるべきか、その上で今後どうやっていくべきなのかは案外今考えるべき時期なのかもしれません。


2015年5月9日土曜日

今日の衝突事故

 今日は朝から友人の「ネットでこういうの作れば儲かるんじゃね」という提案に対して、「どうやってアフィリエイトを投稿者に分配すんだよアホ(# ゚Д゚)」というやり取りを終えた後、昼食を取るため自転車に颯爽と乗って毎週通っている日本食屋に向かいました。距離は大体3キロ程度の道のりでいつものように自転車レーンを走っていたら、電動三輪自転車が逆走してきて見事に正面から激突しました。

 激突直前にブレーキをかけ速度は大分落としたもののロードレーサーということもあり急な方向転換が出来ず(つま先が前輪にぶつかったりしてこける可能性大)、ちょうど前輪タイヤと向こうのバンパーがぶつかる感じで当たりました。幸いというかこけるほどの衝撃はなく、自分の体よりも「フレームは!?(;゚ Д゚)」という具合に自転車本体の方が心配でした。でもって逆走してきた相手に対しては、「大丈夫、問題ない?」と聞いたところ、「いや、そっちこそ(;´Д`)」とちょっと不思議そうな感じで聞き返してきました。
 正直な所、「なんで逆走してくるんだよ」と問い詰めたかったものの道の真ん中であーだこーだ言ってもしょうがないし、自転車のフレームも曲がっておらず目に見える亀裂や傷もなかったので、「おっけおっけ、いっていって」と言ってそのまま別れました。結構大きな音だったもんだから、周りの視線は全部自分に向けられてたけど。

 その後日本食屋についたのですが、ぶつかった衝撃で外れたチェーンを付け直したため両手は油で汚れており、お手拭で拭いていたところ右手小指関節付近の皮膚が切れて血がダラダラと流れてました。見かねた店員がバンドエイドくれたので老なく止血できましたが、電動三輪自転車とぶつかっていながらこの程度で済ませる当たり、つくづく我ながら無駄にタフだなぁとちょっと呆れます。
 昼食を終えて帰ろうとしたところ右足膝付近が打ち身のせいか痛みだし、重いギアだとペダルを踏むのがやや辛かったですが、帰途は特に誰とも衝突することなく安全に帰って、その後はダラダラと過ごして右ひざの痛みも時間と共に解消されました。

 最後に一つ教訓ですが、海外で生活するに当たって何が重要かって言ったら語学や見識ではなく、一に現金で二に体力だと断言できます。現金は言わずもがなの生命線でカードでキャッシングできるよう準備しておくのがベターですが、体力に関しては精神的な面でも、多少交通事故とかに遭っても這いながら自宅や知り合いの家にたどり着けるくらいはあった方が良いです。
 それと同時に私の様に、勤務先に問題があって現地ですぐに再就職先を捜して行動できるような体力も必要です。決して身体面で恵まれているわけではありませんが、なんかこの方面で最近後輩からはやたらと、「花園さんの体力ってパネェっす」と褒められてます。実際、中国来てから病気らしい病気一度もしてないしなぁ……。

2015年5月8日金曜日

クローズアップ現代のやらせ問題について

 今日は特に書くこともないので適当に時事ネタでかわそうとニュースを検索したら、先日番組でやらせがあったと報道されていたNHKの「クローズアップ現代」がBPOで審議入りするというニュースが出ていました。別に無視してもいいっちゃいいのですが、そろそろ時効だしこのクローズアップ現代のやらせ体質について実体験者でもある私の口から一つの事実を明かそうと思います。

 何人かの友人には明かしておりますが、実は私はかつてこのクローズアップ現代の取材を受けたことがあります。どういう経緯での取材を受けたのかというと、2010年に初めて中国への転職を試みた際、当時使っていた人材派遣会社の方から「中国に転職しにいく若者を取り上げたいとNHKから要請があったので紹介しても構わないか」という連絡が来て、別にかまわないと返事したことから正式に取材を受けることとなりました。
 受けた取材の回数は合計二回で、一回目は渋谷前で待ち合わせNHKの記者と喫茶店でどうして中国で仕事を探すのか、将来をどう考えているのかなどを話し、その後上海に渡って転職活動をしている最中にスカイプで二回目の取材を受けました。一回目と二回目の取材で聞かれた内容にはそれほど大きな差はなく、担当記者が途中で変わったこともあって一から説明するような感じで二回目の取材は行われています。

 二回目の取材を終えた後にNHK側からは、中国で転職を果たすこと(既に現地日系企業の内定を得ていた)について私とこのところ頻出な私の親父で自由に話し合ってもらいその場面をカメラに撮って番組で使いたいという要請があり、撮影日もとんとん拍子で決まりました。過去に梅田駅前でMBSの該当取材を受けた際にテレビデビューは果たしておりますが、NHKの番組でるのはこれが初めてだなと内心ワクワクして撮影日を待っていたところ、当時日本で開かれていたAPECの取材で急遽カメラマンが足りなくなったので撮影日を延期する、また別日程を追って通知するとNHK側から連絡ありました。
 少し残念な気持ちと共に次の撮影日を待っていたところNHK側から今度は、「大変申し訳ありませんが花園様の取材は今回の番組では使用しないことを決定いたしました」という、妙なお祈りメールが送られてきました。一体何故私に対する取材部分を使わなくなった理由はというと、

「花園様は日本で正社員として勤務され、また過去に中国留学をして中国語も始めから話せる状態で今回中国での転職を行っています。番組としては今回、中国語が全く使えないにもかかわらず中国での仕事を求める別の方を取材して番組に使うことを決定しました」

 暗にですが、私の代わりに番組で使われた方は恐らく正社員ではなく派遣やフリーターの立場だったのではないかと思います。要は、日本でまともな仕事が見つからないので中国語もわからないが仕方なく中国に仕事を求めにいくという、如何にも社会に抑圧されているようなステレオタイプな人物を番組に求めたというか使用したかったのでしょう。その点では私の経歴はむしろ順風満帆過ぎて、一言で言えば絵にならないと判断されたのだと思います。

 まぁ向こうのやることなんだから私がどうこう言うのは筋ではないと思うものの、NHKは中国に転職しにいく人間の実態よりも「絵」を取るのかと、皮肉っぽく思ったもんです。周りの反応も似たようなもんで、案外民放と変わらないじゃないかなどという意見が多かったと記憶しています。

 こうした実体験があったので今回のクローズアップ現代のやらせ問題を見て、私はそれほど驚きを感じず、むしろ報道されていないだけでこの手の小細工はほかにもいっぱいあるんじゃないかとも考えています。それにしてもNHKは取材の着眼点がやっぱり違うんじゃないかと今現在になって思えます。そんな中国での就職を希望する若者なんかより現地採用勤務者の実態とか、中国留学経験者がほとんど中国語を使わない仕事についている実態とかの方が私の中ではもっとニュースです。

 最後に紙幅が余ったので余計なことを書くと、NHKのグループ会社で人材派遣業務を行っている「NHKビジネスクリエイト」は派遣のマージン率をインターネット上で公開しておりません。事業所ごとのマージン率公開が義務付けられたもののほとんどの派遣会社が公開に対して消極的であるということを報じるためにも、NHKは身近にいい例があるんだからもっと取材に力を入れるべきではないかとこの分野の第一人者であると自負する私からアドバイスしておきます。

2015年5月7日木曜日

旧日本陸軍四天王

 本題とは関係ありませんが一昨日、自宅内でパソコン使って作業していたら以前に日本語を教えていた中国人労働者が中国版LINEこと微信で連絡してきてそのままチャットへと発展しました。作業中ですが片手間で返信する位ならどうってことないとそのまま続けていたら、今度は大学の後輩がSkypeでチャットしてきて、二人同時にチャットする位ならまぁなんとかなると思ってたら、今度は大学の先輩がSkypeでアニメの「シュタインズゲート」がどれだけ素晴らしいか力説してきて、さすがに三人同時に文字チャットで対応するのは難儀でした。チャットしながらブログ書くってのはよくあるんだけどね。

 そういうわけで本題に入りますが、よく二次大戦中の旧日本陸軍で誰が指揮官として最も強かったのかが議論となります。正直なところどの指揮官も戦った場所や条件が異なるため厳密には誰が最強だったのかを比べるとなると難しいのですが、少なくともトップ4ならばほぼこの人たちで間違いないと確定しているように思えるので、私の目から見て「旧日本陸軍四天王」とも言うべき指揮官四人を今日紹介しようと思います。

1、宮崎繁三郎
 歴史家などからは彼こそが野戦最強の指揮官だと言われる宮崎重三郎はノモンハン事件、インパール作戦など日本軍が大敗した戦いに従軍し、圧倒的に不利で過酷な条件の中で驚嘆するほどの善戦ぶりを見せています。ノモンハン事件では日本軍部隊の中で唯一の局地戦勝利を遂げており、実質全く補給のなかったインパール作戦では敵軍から食料を奪いながら進軍し続けコヒマという地を占領し、撤退となった際も見事な戦術で友軍の撤退を助けています。特筆すべきはこのインパール作戦でどれだけ苦しい戦いにおいても部下の兵士を見捨てず、自ら背負って撤退したという人格者ぶりは後世にまで語り継がれております。

2、山下奉文
 通称「マレーの虎」。太平洋戦争序盤のマレー作戦では文字通りに連戦連勝を傘ね、驚異的な進軍速度でイギリス軍をマレー半島から追い払っております。その後もフィリピンでの防衛戦で善戦するなど戦上手ぶりを発揮し続けましたが二・二六事件での対応を巡って昭和天皇からは強く嫌われていた節があり、戦時中はその功績に比べやや報われない扱いを受けることとなりました。

3、今村均
 太平洋戦争の激戦地の一つであるラバウルを守備していた今村均は、早くからこの地域が米英軍によって孤立させられると読み、戦地で兵士に畑を耕させるなどして持久戦に備えました。その読み通りにラバウルはあらゆる補給船から断絶させられるものの今村の対策もあって陥落はせず、ついには終戦まで持ちこたえることに成功しました。
 こうした戦略眼の卓越ぶりはもとより占領地域で抜群の治政ぶりをみせたほか、わざわざ東京の監獄から部下たちが収監されていた環境の悪いマヌス島の監獄へと移送するよう志願するなど、万事において人格者たらん行動を実行に移している点も見逃せません。

4、栗林忠道
 二次大戦も終盤に入った硫黄島の戦いにおいて、補給も支援も全くないにもかかわらず米軍を最も苦しめた戦いぶりは桁違いもいい所でしょう。それ以前の戦闘での経験、そして硫黄島の地勢を鑑みて地下要塞を作り、徹底したゲリラ戦を敷いて米軍に日本軍を上回る戦傷者数を出させたという点をみるにつけ戦略、戦術共に頭抜けた実力者の持ち主以外の何物でもありません。
 その激しい戦いぶりに隠れていますが、戦地から家族へ宛てた手紙や辞世の句として有名なあの「散るぞ悲しき」など、もとよりジャーナリスト志望だったという文才も見逃すことはできません。

 あくまで私個人の目線ですが、旧日本陸軍の中で最も優れた指揮官としては上記の四人が確実に上がってくるのではないかと思います。四人のうち、宮崎繁三郎今村均に関してはこのブログを始めた当初に「猛将列伝」の連載記事で取り上げていますが、いま読み返すと非常に拙い文章で「もっと修行しろアホ!」と昔の自分に言いたくなります。
 逆に、山下奉文と栗林忠道の二人について私はまだ評伝を書いていないのですが、栗林に関してはほかの人がたくさん書いているので私から書く必要はないかなと考え、山下に関してはあんまりマレー作戦については知識がなく勉強不足なので書いてないだけで、別に嫌っているというわけではありません。

 むしろこの四人の中で最も凄まじさを感じるのは栗林で、あの絶望的な戦況においてよくぞあれだけ戦い抜いたと尊敬を通り越して畏怖すら覚えます。宮崎繁三郎も同様にその強さには恐れを感じるほどですが、山下に関しては開戦序盤でなおかつ比較的装備や補給の整った状態でマレー作戦を指揮しているため、他の三人と比べると条件面でやや異なっているのではとも考えています。

 あまり他では言われていないことを書くと、この四人のうち山下を除く三人が陸軍幼年学校を卒業しておらず、陸軍士官学校からその軍歴を開始しております。幼年学校を出ずに陸軍幹部となる人物は当時としては非常に少なく、その少ない人物の中からこれだけ多くの名将を輩出していることを考えると、幼少から少年期までとはいえ外の世界を知っているか否かというのは案外大きな要素だったのではないかと思え、歴史家の半藤一利氏や保坂正康氏もその点を指摘しております。
 また四人とも戦地で大きな戦果を挙げていたにもかかわらず何故か中央本部での勤務に付されることはなく、むしろ使い捨てにされるかの如く激しい戦地から戦地へ何度も送られ、逆に失敗を繰り返す将軍ほど中央本部に回されておりました。山下に関しては昭和天皇に嫌われていたことが大きいと思われますが、ほかの三人は幼年学校を出ていなかったためではないかと思える節もあり、昔も今も日本の人事は妙な倫理がまかり通るとつくづく呆れるばかりです。