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2017年7月28日金曜日

被害者証言に偏る報道

 またちょっとブログデザインをいろいろ弄って背景を変えました。これまではデフォルトでブログソフト側が用意した背景を使ってましたが、今回新たに自分で探した画像を使って、なるべく和風系で探してみましたが、背景的には文字が見やすくなり案外悪くない気がします。と言っても明日もまた探していろいろ付け替えを試してみるつもりですが。

教師「今すぐ窓から飛び降りろ」「このクラスは34人だが明日から33人だ」 小4児童に暴言や暴行
【埼玉】 「飛び降りろ」発言教諭の「処分見送りを」 保護者や卒業生ら署名活動
(どちらも「痛いニュース」より)

 少し日が経ったニュースの紹介ですが、上記はどちらも今月中旬に報じられた内容です。知ってる方には早いですが第一報は7月16日に出され、埼玉県所沢市の小学校教師がクラスの児童に対し「窓から飛び降りろ」、「明日からクラスの人数は34人から33人だ」というようなことを口にしたと報じられました。一見して私はこの報道に奇妙さを感じたのですがそれは後述するとして、案の定というか最初の報道からわずか数日後の7月22日には、最初の報道内容を否定する報道が出てきました。

 後発の報道によると、暴言を吐かれたとされる児童は問題行動が多い問題児で、新聞を破るという行動について「やれと言われたからやった」と言い訳したのに対し教師が、「飛び降りろと言われたら飛び降りるのか?」と諭しただけで、またクラス人数についても問題行動をやめないとクラスの一員にはなれないという意味で言ったとされており、実際周りの人間もわかってるから担任を擁護するための署名活動が行われているそうです。
 そして現在、この件に関する続報はピタリと止まっており、恐らく後発の報道が真実だったのではないかと私は考えます。そもそも初報の時点で何かおかしな報道だと感じていただけに、予想が当たってやったラッキーってとこです。

 なぜ初報の段階で私がおかしいと感じたのかというと、一つは暴言の内容が断片的で後発報道でも指摘されている通り、「どういう前後関係でこうした発言が出たのか」について全く触れられていなかったからです。次に、取り上げられた二つの暴言内容に脈絡がないというか関連性がなく、同じ人間が言ったとは思えなかったからです。
 最初の「今すぐ飛び降りろ」は直接的な暴言で、私だったら次に言うなら、「飛び降りないなら今すぐ首つって死ねボケが来ます。それに対しもう一つの「クラスの人数が33人になります」はどちらかというと間接的且つ陰険な暴言で、これに続くとしたら、「なんでまだ学校に来ているの?」とか、どっちかっていうとネチネチ系の発言があるはずだと思えました。はっきり言って推察の域を出ない予想でしたが、直接的と間接的の二つの暴言が混ざってて、ほんまかいなと疑ったわけです。

 では、そもそも何故実態とは異なる最初の報道が出てしまったのか。言うまでもなく理由は暴言を言われたとされる児童側の関係者が被害者の立場で一方的にしゃべり、それをほかの周辺関係者に確認しないままメディアが報じたためでしょう。それが分かっているから後続の報道がピタリと止まってしまったのです。
 この構造ですが、先月私も書評で取り上げた福田ますみ氏による「でっちあげ」、「モンスターマザー」の本で紹介された事例と全く同じです。というかこれらの本を読んでいたから、私も初報を見ておかしいと感じたのでしょうが

 被害者、と主張する側の意見が何故こうも一方的に報じらえるのか。実際に「埼玉 教師 飛び降り」と検索したらこの事件の初報のニュースばかりがヒットし、この教師の名前を晒せなどと激しい言葉が並ぶサイトが上位に来ます。というより、初報を出したメディアはまだ記事を引っ込めておらず、言い方は悪いですが未だ絶賛拡散中であります。
 いろいろほかにも言いたいことはありますが、こういう例でよく思うこととしては大学時代の倫理の授業で言われた、「被害者と加害者は対立項目ではなく、むしろ似た属性を持つ」という言葉です。一例を挙げるなら、911テロの被害者である米国はイラクに対する加害者でもあり、また「被害を受けたから」という理由は加害を行う理由となりうるということです。何が言いたいのかというと、被害者加害者の観点や構造を下手に当てはめようとすると事実が歪む可能性があり、一体その場で何があったのかというその事実だけを追うという姿勢こそが報道に必要じゃないのかなと言いたいわけです。清水潔氏も、ある意味こうした立場で南京事件を追っているからこの人は本物だと思うのだし。

2017年7月27日木曜日

経済記事の神髄

 最近上海では気温が30度を切るようになって涼しくなってきました、つっても最低気温の話ですが。なお最高気温も昨日今日は40度を切ったので、なんとはなくピークは乗り越えたかなって気がします。
 それだけに、日本で最高気温35度前後で大騒ぎしているのが見ていてちょっと腹立たしいです。

 話は本題ですが、この前JBpressの次回記事用の取材をしてきましたがその後で記事を編集している最中、撮影してきた写真の映りがやけによくて自分でビビりました。っていうか私は写真の良し悪しは八割方カメラの性能で決まると考えていますが、自慢の富士フイルム製デジカメではなく携帯カメラで撮ったというのにここまできれいに撮れるものかと呆れ半分感心半分でした。
 あまり知らない方も多いのではないかと思いますが、報道写真というのは専属のカメラマンではなく案外記者が自分で撮影していることが多いです。なので私の記事に使われる写真も、特に撮影する内容がないものは冒頭に適当な画像をはっつけてもらっていますが、基本的にはすべて自分で撮影しています。それどころか、写真だけでなくグラフもまた全部自分で作っています。

 私は元々は社会部系の報道記者になりたかったのですが生憎新卒時ではどこからも門前払いを受け、仕方なく商社に勤務した後で中国にわたり経済系の新聞社に入社しました。今思うと社会や政治部系の報道だったら思想信条で社とぶつかる可能性が私にはあり、そうした思想とは関係なく「仕事だから」と割り切れる経済記事をメインで書く新聞社というのは案外相性が良かったと今更ながら思います。もっとも思想や信条と関係ないと言いつつも経済系の内容は学生時代から不得手ではなく、分析や知識なら当時から経済学部の学生を遥かに凌駕する水準は持っていましたが。

 そんなかんだで経済紙記者として一時期を過ごした私に、経済記事とはどのように書くのか、どうあるべきかという問いに答えるとしたら、突き詰めれば文字こと地の文はいらないと考えています。一番理想的なのは参考に足るグラフだけを見せて、あとの内容は読者に判断させるというのが経済記事としてあるべき姿だと思います。それだけにグラフのない経済記事というのはこの一点をとっても価値は低くなり、もちろんすべての経済記事にグラフつけるのは骨なので無理でしょうが、なるべくグラフは多くつけるべきだというのが私の考えです。

 経済記事というのは突き詰めれば数字データがすべてベースになっており、売上なり経済指標なり、それらの数値がどれだけ且つどのように変動したのかを通して社会の変動を分析します。新規投資の話も投資額や建設する工場の敷地面積や予想生産量、稼働率などの数字が何よりも物を言い、なおかつほかの事例の投資と比べて何が違うのかを図表にまとめて比較すればなおよいでしょう。
 無論、実際にはそのようなグラフだけの経済記事など存在せず文章も付け加えられますが、基本的にそうした文章は発表された数字の紹介、そして変動を解説するものです。前者はグラフをつけない場合に使うもの(企業の業績発表データ)でとやかく言いませんが、後者については基本的に記者自身やコメンテーターの視点を通した分析で、少なくない主観が入っており必ずしも毎回事実を表すものではありません。

 一例を書くと、前期と比べ増益減収し、その理由が市場に問題があるのか単純に当該企業の経営に問題があるのかといった一言コメントなどがそれに当たります。もちろん読者からしたらどっちが理由なのかを推察でもいいので付け加えてくれた方が詠んでて楽しいでしょうが、私としてはやはりデータだけ見せてそれらも含めて読者が考えるような記事が一番いいのではないかと思います。というのも、百人いれば百通りの答えがあるのだし、現実は非常に寛容で、どのような解釈も自己責任であれば許されると思うからです。

 もっとも本気でそんな記事書いたら、例えば私が先週出した日銀の金融緩和に関する記事で暦年の設備投資額と対外投資額データグラフだけ出して見せて、「これが答えだ!」と言っても、記事としては成立しないでしょう。逆を言えば、見るだけで記者が言いたいこと、主張したいことが誰にでもわかるようなグラフを用意できるのであれば、それこそが経済記事の完成形と言えるでしょう。
 実際にそのようなグラフを作るのは非常に困難であるものの、そうしたグラフを作ろうとする心意気こそが経済記事を書く上で最も重要で、どれだけ価値ある数字の比較グラフを作れるか、経済記者としての腕はここにかかってくると考えているわけです。

 それだけに、最近ブログでは経済記事はあまり書かなくなっていますが、JBpressで経済記事を書く場合はとにもかくにもたくさんグラフを作ろうと意識して取り組んでいます。もっともこう言いながら、「このデータはよほど勘のいい人じゃなければ価値が分からない」と判断したら容赦なく見せないということもやったりするのですが。
 まとめとして何が言いたいのかというと、経済記事、もしくはそのようなレポートを書こうというのならまず第一にどのようなグラフを作るかについて考え、その上でグラフの意味を解説する文章を考えるのがベターだということです。また解説文については短ければ短いほどよく、説明が要らないほどはっきりわかるグラフを心がければモアベター(この言葉は80年代産?)というわけです。

2017年7月24日月曜日

足利尊氏は躁鬱なのか?

 時期にすれば大体2000年代後半あたりからだったと思いますが、室町幕府の開祖に当たる足利尊氏について、躁鬱症を持っていておかしな判断を繰り返していたというような主張が見えるようになりました。無論、14世紀に躁鬱かどうか判断するカウンセラーなぞ存在するわけではなく彼の事績や記録などからこういう風に言われ始めたわけですが、根拠としているのは急に突拍子もない行動を取ったりしたというだけで、これだけで躁鬱だと判断するのはやや早計な気が私にはします。それこそ愛人に死なれたショックで出家した天皇もいますが、これも躁鬱かと言ったらやはり違うでしょう。
 私自身は尊氏は躁鬱かと言われればそれはやはり違うように思え、どちらかと言えば責任感が非常に強い性格だったからああした行動になってしまったのではないかと考えています。その辺について久々にオリジナルな歴史コラムとして書いていきますが、こういうのを普通に夜中書いてて、最近何が本業なのかよくわからなくなってきました。

 具体的に尊氏が躁鬱だと言われる根拠としてよく挙げられるのは、以下のような行動です。

・鎌倉幕府を裏切り、救援先の六波羅探題を逆に攻撃した。
・後醍醐天皇の指図を聞かず弟の直義を助けるために関東へ出陣した。
・後醍醐天皇から討伐軍が差し向けられたのに、本人は戦準備もせず出家しようとした。
・後醍醐天皇軍に直義が負けてると聞いて出陣し、打ち破る。
・そうまでして助けた直義を、観応の擾乱の時には全力で殺しにかかる。
・おまけに直義を討伐するため、北朝を差し出して何故か南朝に降る。

 大体ざっと上記のような行動が躁鬱だと言われる具体的な事例じゃないかと思います。特に三番目の、敵軍が差し迫る中にも拘わらず出家しようとするなど、何故か緊急事態に追い込まれると逃げ出そうというか出家しようとする癖は何度か記録されており、これが躁鬱だと言われる一番の根拠でしょう。
 しかし私の見方は違います。尊氏の人生全体を見ていて思うこととして、その性格は以下のような特徴であったのではと考えています。

・鎌倉幕府(=北条家)に対する忠誠心はかねてから薄かった。
・後醍醐天皇に対しては非常に強い尊敬心を持っていた。
・一方で武家の棟梁として武士の立場や権利を守らなければという意識も強かった。
・足利幕府を主導するという式はやや薄かった。
・後醍醐天皇のいない天皇家に対する意識は低く、守る気もそんなになかった。

 最初の鎌倉幕府に対する忠誠心ですが、そもそも尊氏の爺さんが「子孫が天下取れますように」といって自殺したくらいの一家であり、源氏一族なのに北条家に敷かれるという立場に対してかねてから不満が高かったように思えます。次の後醍醐天皇関連ですが、これが一番のキーポイントであり彼の不自然な行動はこれによって説明できるでしょう。
 後醍醐天皇への尊氏の意識は崇拝に近いです。反乱を起こす前も起こした後も全く変わらず、後醍醐天皇を京都で一時軟禁しておきながら、京都を脱出して吉野へ逃れた際も特に追手を出すこともなくみすみす見逃し、結果的に南北朝の戦乱を招いたほどです。さらにその後醍醐天皇が吉野で崩御した際も嘆き悲しみ、怨念対策もあるでしょうがわざわざ元(当時の中国)と交易してまでして後醍醐天皇を弔う天龍寺を建立しています。

 なら何故尊氏は後醍醐天皇に歯向かったのか。理由はその次の武家の棟梁としての立場を優先したからでしょう。
 周りからの支持もさることながら本人自身もこの方面の意識が強く、恐らく尊氏本人は武家の棟梁として後醍醐天皇を守る皇室の藩屏みたいな存在になりたがっていたように見えますが、建武新政下では武家は徹底的にこき下ろされ、実質的に天皇・公家側との共存はできなくなりました。尊氏自身は建武新政下でも厚遇されてはいたものの、彼以外の武士が弾圧されるのを見て放っておくことはできず、後醍醐天皇への忠誠と板挟みになりながら武家の棟梁としての立場を取ったのが反乱の背景じゃないかと思えます。

 それだけに後醍醐天皇が崩御した後の尊氏はやや方向軸がなくなったように見えます。幕府自体は弟の直義が主導して実質的に組織や体制を整えたのは彼ですが、その直義が執事の高師直と対立するや尊氏は仲裁を仕切れず、結果的に両者の血で血を争う争いに自らも介入して、最終的には諸説あるものの直義を毒殺するに至りました。
 なお直義との争いは観応の擾乱と言われ、後醍醐天皇が亡くなって存亡の危機にあった南朝はこの混乱に乗じて勢力を盛り返し、その後も南北朝の戦乱が長く続くこととなりました。それだけに尊氏と直義の争いを「日本史上最大の兄弟喧嘩」という人もいますが、私もこの説を支持し、壬申の乱なんて目じゃない規模だったと考えています。

 話は戻りこの観応の擾乱の際、直義は南朝側について尊氏征討の綸旨を得ましたが、これに対して尊氏は自分も南朝に降伏して、南朝側から直義追討の綸旨を得て争うなど、全力で弟を殺しにかかってきています。この尊氏というか足利幕府の一時的とはいえ南朝に降伏した際、降伏条件として「北朝の三種の神器を譲渡」、「天皇家は南朝側が継いでいく」などと、これまで味方していた北朝の天皇家を投げ捨てるかのような条件を飲んでしまっています。この尊氏の降伏を受け、実際に南朝の天皇家は一時京都に戻ってきました。戦乱にあってまたすぐ吉野に戻ってきましたが。
 なお先ほどの降伏条件のうち三種の神器の譲渡という条件は、明治維新後の南朝北朝正当論争の中で南朝側が正当とする有力な根拠にもなっています。

 何故尊氏はこのような無茶苦茶ともみえる行動をとったのかですが、やはり彼にとっては後醍醐天皇がいる天皇家こそ守るべき存在で、いなくなった後の天皇家はただ単に幕府が利用する権威組織としか思っていなかったのかもしれません。その上で筋を通して世の中の安定を図るより、目前の敵を倒すために敵の権威を支える存在を引き込もうとしたのかもしれません。

 総じていえば、尊氏は後醍醐天皇の崇拝者であり、武家の棟梁であり、この二つのアイデンティティで揺れていたからこそ躁鬱だなんだと言われることになったのだと思います。ただ私はこの二つのアイデンティティに照らせば決して不自然な行動を取っているとは思えず、まぁ変に責任感が強いからこそ妙な戦乱の人生送ったんだろうなというふうに考えています。

 最後に、尊氏は責任感が強かったとは書いていますがそれは立場としての話で、家庭内では全く別です。というのも、尊氏をその人生の中で最も苦しめたのは誰かとなるならば、一人は上記にも上がっている弟の直義で、もう一人は若い頃ヤンチャして作った隠し子の足利直冬でしょう。
 この直冬は尊氏の長男である義詮よりも年上とみられていますが成人後も尊氏にはなかなか認知してもらえず、一門の頭数が足りないくらい忙しい時期になってようやく認知してもらえたものの、家督から外れるようにわざわざ当時は子供のいなかった弟・直義の養子にさせています。

 ただ尊氏の息子の中で、軍事的才能に最も秀でていたのはほかならぬこの直冬でした。尊氏と直義が争いだすや直義側についた直冬は各所で尊氏側の軍を打ち破り、特に九州・中国の西国では獅子奮迅の働きで何度も尊氏側を追い詰めています。尊氏としては何が何でも直冬が嫌いだったようで終生和解することはありませんでしたが、結果的に最大の敵を自ら、しかもヤンチャして作ってしまった辺りは皮肉な結果であり、若い頃のヤンチャは良くないものだという教訓になります。

2017年7月22日土曜日

ブログデザインの小幅変更

 前々から変えようかなと思っていたのですが、このブログのデザインを少しだけ弄りました。当初はもっと激しい変更を考えて最初なんか真っ青ブルースカイな背景を使ってみたりもしましたが、やはり発色が強く明るい背景だと目が疲れるというか文字が読みづらい印象を覚え、結局前とほとんど変わらず閲覧済みリンクテキストの色を少し変えたりした程度に留まりました。

 以前はそれほど意識しませんでしたが、きゆづきさとこ氏の漫画「GA 芸術科アートデザインクラス」では高校の芸術科クラスを舞台に様々な色の効果や印象について紹介しているのを読んでからというもの、前よりはこの方面に対して概念めいたものができてきました。さきほどの拝啓だとビビッドカラーは遠目にははっきり映るものの至近距離だとややきつく、またテキストを読む作業との相性も悪いため、比較的落ち着いた色を意識して選択しました。
 落ち着いた色としては茶色が割とベターですが、自分はやや錆がかったような朱色も悪くないと思え、これらの色に近い背景をまず選びました。この背景はあらかじめBloggerで用意されたものですが、なんていうかもっといいのなかったのかなという気がします。

 その後でテキストも、と言ってもこっちは基本的に以前のをほぼ踏襲する形で使ってますが、閲覧済みリンクが前だとやや区別しづらかったので、色をオレンジにすることでよりはっきりわかるようにしています。
 あとは地味に投稿記事部分、サイドバーの幅をほんのちょっと広げていますが、これはパソコンのモニター解像度が年々横に広がっているのに合わせただけで特に思想はありません。サイドバーはもうチョイ広げようかと思いましたが、実際広げてみると投稿記事部分を食うように目立ってしまったので結局わずかながらの広がりに留まりました。

 それにしても今日はほとんど家の中で過ごしましたが、リアルに最近の上海は外出るのが危険です。日中は40度にも達してますし、数年ぶりに猛暑というか夏らしい夏になっています。

2017年7月21日金曜日

求人倍率上昇に対する違和感

日銀の金融政策が景気拡大につながらなかった理由 企業マインドは国内投資より海外投資へ(NEWS PICKS)

 二度にわたって自分の記事の論評をやるのもどうかと思いますが、少し気になるというか激しい違和感が感じる点があるため語らざるを得ないでしょう。

 上のNEWS PICKSではなんかえらそうな先生方が私の記事についてあれこれ論評していますが、一見して私が感じたこととしてはなんか論点がずれたことを言う人が多いということでした。そもそも私は元の記事でアベノミクスについては一切触れておらず、あくまで金融緩和による投資促進効果はほとんどなく、むしろ資金の海外流出を招いている要素があるとだけ指摘したつもりでしたが、なんか記事を批判する方々は、「こいつはアベノミクスが失敗だと言っている!」という論調が多く、設備投資については何で触れないのかなというのが不思議に感じました。
 っていうか、真面目に全部読んでないのでは?「金融緩和」、「失敗」という見出しの単語だけ見て文句言われてるような気がしてなりません。

 その上で、現行の日銀政策とアベノミクスが成功していると主張する方々はその根拠をいろいろ挙げている中、強く違和感を感じたのは「アベノミクスで求人倍率は上昇し続けている」という意見でした。前々からこの求人倍率についてはどうして誰も指摘しないのか不思議でしたが、誇張ではなく本気で真面目に、この数字が上昇しているという意味について誰も違和感を感じないのでしょうか。自分だけがおかしいのか、日本にはまともな分析人材がいないのか、あまりうれしくない二者択一な気すらします。

求人倍率 バブル期超え 4月1.48倍、43年ぶり水準 (日経新聞)

 上のJBpressでは丁寧に書いたから上記のような反応が来たのかもしれず、中途半端に相手するのが良くないのかと思うので必要最低限で書くと、求人倍率がバブル期越えだというがなら何故バブル期並みに賃金は上昇しないのかと考えないのはおかしくないかと言いたいわけです。理由は言うのも馬鹿馬鹿しいですがで事業拡大に当たって人が足りないのではなく、今ある現状を維持するのにすら人(労働力)が足りていないからで、今の状態は景気がいいというより崖っぷちで労働力不足が経済の足を引っ張っていることを示すデータでしょう。
 もちろん失業者が世の中にあぶれるよりかは社会的にはいいでしょうが、この状態が続いても景気や経済や賃金は良くならず、むしろ求人倍率は今後も高まり続けて結構笑える事態になると予言します。多分その頃には、「雇用のミスマッチ」という単語で現状が糊塗されていることでしょう。このデータを見て経済が良くなっているとみるのは、まぁあれというか危険じゃないかってことです。

 皮肉な言い方をすると、狂人は一人でいいでしょう。今の日本が日本なら、自分はそれで構いません。

2017年7月19日水曜日

金融緩和記事に関するコメントについて

日銀の金融政策が景気拡大につながらなかった理由(JBpress)

 前回は面倒くさくてやらなかった、また自分が書いた記事へのコメントです。この記事は以前にもこのブログで理論だけ紹介した日銀の金融緩和は海外への資金流出を招いている恐れがあるという内容について、国内投資と海外投資を比較して具体的な論証を行った記事です。友人からも、「金融の記事だからアクセスは上がらないよ」と言われていた通りあんまアクセス数がよくなければ、Yahoo記事へのコメントもそんなに伸びていません。こっちもわかっていたことなので特に問題ありませんが、そこまで難しい内容を書いているわけではないのにちょっとハードルを挙げるとこうなる世間ってのが問題な気が。

 そんでもって恒例のYahoo記事へのコメントについてですが、結論から言えば読者とのずれを感じました。全体的にきちんと内容読んでないなと思う印象を覚え、金融政策、次いで現金についてメインで語っているにもかかわらずやたらと景気の話に触れるコメントが多く、特に違和感を覚えたのは「労働分配が悪いから景気が悪い」というような主張でした。
 全体的に一般従業員の賃金上昇が起こらない、ないから景気が悪いままという風に述べているのですが、私個人の率直な意見を申し上げると何故賃金が上がると景気が良くなるのかが結びつきません。私はこの記事で特に強調したのは国内投資、特に新産業への投資で、既存の従業員の給与上昇ではなく新規雇用こと雇用の拡大の重要性を訴えたつもりです。もちろん雇用拡大が後々賃金上昇につながるのですが、どうも普通の日本人と私とで投資に対する意味合いが違うのではないかという奇妙な違和感を感じました。なんていうか、日本人は「消費」でしか金の流れ、経済を見れないのかなと思いました。

 とはいえ内容が内容だけにとんちんかんなコメントは今回少なかったのは事実です。そんななか、目についたコメントは以下のものでした・

「要約すると、結論は、観光業以外先行きがない、何をやっても日本の経済はダメだ、もちろん金融緩和も、という記事。」

 この記事の結論は日銀の金融緩和は景気拡大にはつながらないであり、観光業についてではありません。観光業については末尾に書いていますがこれは結論ではなく補足で、また何やっても日本経済はダメだなんてことは一言も言っていません。知ったふりして記事を要約しているようですが、まともに文章を読めてないというのを露呈しているだけのコメントに見えます。
 ちなみにこのコメントで触れられている「観光業」という言葉ですが、これは末尾にて文字数が余ったのと、この言葉に触れた人間を一撃で殺すためのキラーワードとして敢えて入れました。どういう意味かというと、何故金融緩和や投資の話で観光業を持ち出したのか、その関連性に気付けるかどうかです。

 私はこの記事で日本には投資先がなく、また日系企業は海外投資を優先するが海外で得た投資リターンが日本になかなか還元されないという事態を指摘しています。その上で観光業くらいしか期待できるものはないと書いているのですが、この意味はというと観光業への投資は海外に一切漏れないからです。
 想像してみてください。日本の観光業を盛り立てる、成長させるための投資は一体どんなものになるかというと、国内の宿泊施設や土産物、飲食店など、すべて日本国内で完結する投資です。海外旅行客へのPRのためパンプレットなどを作るというのもある意味投資ですが、どちらかと言えばこれらは販促費であって、純粋な投資という意味では資金はすべて日本国内で流通します。

 またこうして行った日本観光業への投資によって海外旅行客が来た場合、基本的には日本国内で現金が消費され、とりっぱぐれなく日本に現金が落ちてきます。つまり観光業は投資からリターンに至るまで全部日本国内にお金が回り、なおかつ落ちてくるお金は外国の現金という地味に珍しい産業であり、意外とおいしい面が大きい産業だったりします。うまくいけばの話ですが。
 だからこそ海外流出の恐れがない投資先として観光業を挙げたのですが、ここまで読み込めている人は果たしているのか、ハードルを上げ過ぎているのか期待しすぎなのかいろいろと考えがこみ上げてきます。

2017年7月18日火曜日

日野原重明氏の逝去について

 既に各所で報じられているように、聖路加国際病院名誉院長である日野原重明氏が御年105歳に手逝去されたとのことです。
 「生涯現役」をリアルで貫き、90歳を超えて医療の現場で常に立ってこられるなど有言実行の徒であるだけでなく、ユニークな人生観の持ち主であったことから、大往生とはいえその逝去には私も一抹の寂しさを感じさせられます。私の中でタフな人とくれば水木しげるとこの日野原氏でしたが、いつか来るとは言え両名ともがこの世を去る時代に至ったことにはいろんな思いが浮かんできます。

 日野原氏についてはこれまでもこのブログで何度も取り上げており、特に文字通り魂を込めて書いた「地下鉄サリン事件、医療現場の奮闘」の記事(今見たらものすごいアクセスが上がってきてます)では、老人の心配性だと揶揄されつつも治療したくともできなかった戦時中の体験から、チャペル内にすら酸素吸入器を導入するなど聖路加国際病院内のあちこちに医療用設備を配備していたことが功を奏し、地下鉄サリン事件で出た大量の急患を受け入れた話を紹介しています。
 世の中、いざって時の対応がなかったり、していてもあまり役に立たなかったという例も少なくありませんが、この日野原氏と聖路加国際病院の取り組みはまさにいざって時に備え、いざって時に機能を見事果たした例だったと言え、このような事態を想定していた日野原氏はまさに慧眼の持ち主だったと言えるでしょう。

 日野原氏を語る上でもう一つ忘れちゃならないのがよど号ハイジャック事件です。今回の訃報と合わせてこの時のことについても取り上げている記事がありますが、それら記事でも報じられている通りに日野原氏はこの事件に遭遇し、犯人らが乗客へ暇潰し用に本の貸し出しを行ったところ怖がって誰も求めない中、日野原氏だけが「カラマーゾフの兄弟」を借りて読んで「面白かった」という感想を後に述べるなど往時から面白いエピソードに溢れています。

 このよど号ハイジャック事件について私の方からやや特別な内容を書くと、本当に昔ですが文芸春秋でこの時の体験について自ら語っていたことがありました。その記事によると、ハイジャック犯の中には東大医学部に通っていた小西隆裕がおり、日野原氏は当時東大医学部で講義を持っていたことから、「なんか見たことあるな」と思って本人に、「東大にいなかったっけ?」と実際聞いたりしたそうです。小西の方でも、「うわ、日野原先生じゃん」とわかってたそうで、本人に聞かれても、「いや、初対面っすよ」とごまかしていたと書かれてありました。

 またメンバーの中に関西弁を使う人間がいたことから、「なにお前、同志社なの?」と、こちらも本人に聞いたそうです。何故関西弁を使うから同志社だと判断したのか不思議ですが、不思議に感じる一方で当時からそうだったのかなと妙に納得する面もあります。実際、よど号メンバーにいる若林盛亮が同志社の学生でしたが、日野原氏が尋ねた相手は若林ではなく確か大阪市大出身の赤木志郎だったようなことが書かれていました。

 日野原氏については他にも紹介するべき内容に溢れているものの、恐らく他の執筆者も書くであろうから、敢えて自分にしかなかなか紹介できないように限ると上記の通りとなります。その価値観、実績、生き方のどれをとっても模範となるべき人間で、亡くなったことは非常に惜しく感じるとともに余計な延命治療をせず大往生を遂げられたことはまさに有言実行であったと称えるべき人生でしょう。改めて、この場にてご冥福をお祈り申し上げます。