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2018年2月25日日曜日

山形有朋と社会学

 このブログでも散々語っている通り、よく中国語を専攻していたと勘違いされますが私の学部での専攻は社会学です。ついでに言えば歴史については専門的に学んだことはなく、あくまで趣味の一部でしかありません。

 その社会学ですが正式な設立時期については諸説あるものの、一番根強い説としてはこの分野の大家に当たるマックス・ヴェーバーとエミール・デュルケイムが活躍した、産業革命期後半に当たる19世紀後半だと言われています。日本でもこの時期に社会学の講義が始まっており、仮にこの説に則るならば、かなり早い時期から日本でも社会学は始まっていたと言えるかもしれません。

 その社会学ですが、実は日本での始まりにおいて山縣有朋が少しかかわってきます。なんでも、東大で社会学講義を置こうとしたら、名前を見て勘違いしたのか「そんな社会主義者を増やすような学問なんて認めん!(゚Д゚)」とストップをかけようとしたそうです。しかしその後、講義担当者が建部遯吾だと教えられるや、「なんだ建部か。ならいいや(´・ω・`)」とすぐにOKを出しなおしたそうです。
 仮にこの時に山縣に止められていれば、日本の社会学は今ほど広く講義されていなかったかもしれません。逆に言えばこの事件は、当時の日本の大学教育は政府の意向が強く反映されていた証左ともいえる内容で、現在も日本ではそれほど大学の自治が強いとは言えませんが、官製学問というものがどれほどだったのかを示す好例でもあるかなと勝手に考えています。

 なお私の進学先は正式には社会学部ではなく、文学部社会学科でした。このようになっていたのは進学先の大学は早期から社会学講義を置いていたことに由来するためだったそうですが、現在は学部として既に独立を果たしています。ただ私個人としては社会学は学部として独立できるほど体系だった学問であるかと言われれば疑問で、元々幅広いジャンルを取り扱う学問でもあるのだし、やはり文学部の枠の中に敢えて納めておくべきだったのじゃないかなと思うところがあります。就活では「文学部卒」になるから苦しくなるだろうけど。

2018年2月23日金曜日

働き方改革の裁量労働制に関する論点

 どうでもいいですが「この野郎、ぶっ殺してやるー!」と悪党が叫ぶようないかにも木曜洋画劇場的な映画って最近減ったなという気が、この前「エクスペンダブルズ」って映画を見ながら思いました。やっぱ世の中、単純じゃないとだめだなって気もします。

 話は本題に入りますが、今国会では働き方改革関連法案において裁量制労働をどう取り扱うかが議論となっています。安倍首相率いる政府としては適用枠を拡大しようとしているのですが、既に報じられている通り「裁量制なら今の定時制より残業時間が減る!」という主張の根拠に用いたデータがとんでもなくいい加減なものだったことから、攻勢一転、逆に守勢へと追い込まれています。
 それにしても何がすごいかってこのデータ、質問方法の違いから明らかに性質の異なるデータ同士を比較している上、同じ調査対象の1週間の残業時間が1ヶ月の残業時間を超えるなど、見るからに穴だらけのすごいデータだってことです。気づかずに国会で公開した首相サイドもさることながら、しれっとこんなデータを根拠に出してきた厚生労働省も、安倍首相を追い落とすためにわざとやったのではと疑いたくなるくらいの杜撰さです。

 基本、この手のいい加減なデータ出るということは主張通りのデータが取れなかったということの証左で、まず間違いなく裁量制労働者の残業時間は定時制労働者の残業時間を平均で上回っていることでしょう。そのように考えると、そもそも何故この法案をこれほどまでに安倍首相が推すのかが疑問でなりません。

 そもそも他の誰も言いませんけど、これって第一次安倍政権が提唱して見事政権崩壊のきっかけにもなった、ホワイトカラーエグゼンプションの焼き直し以外の何物でもないでしょう。何故十年近く立った現在になってまた同じ内容の、しかも政権崩壊の一打となった政策をまた性懲りもなく出してくるのか意味不明ですが、どんだけ経団連に弱味握られてるんだと言いたくなるくらいの執心ぶりですが、ある意味安倍首相の経済感覚のなさを露呈しているともいえます。

大胆提言!日本企業は今の半分に減るべきだ
アトキンソン氏「日本人は人口減を舐めてる」(東洋経済)

 最近、本当に日本のためになる意見を提言しているのはデービッド・アトキンソン氏だけなのではないかと本気で思えてきました。基本的に私の主張や考え方はアトキンソン氏と共通しているのですが、上記記事をはじめ他のコラムやインタビューでも同氏が繰り返し述べているように、世界的に怠け者と言われるイタリア人以下、国家破綻したギリシャ人をわずかに上回る程度しかないほど極端に低い日本人の生産性こそが日本経済における喫緊の課題なはずです。
 この観点に立つならば実質ほぼ確定といってもいい、裁量労働制拡大による残業時間の増大は余計にこの問題を深める一手にしかならず、また安倍首相が声高に主張している働き方改革の方針に対し真逆ともいえるような案です。あれだけ電通のこと社員自殺の際に叩いたくせになんやねんって感じすら私にはします。

 それにこの議論についてはかつてこのブログでも述べましたが、はっきり言って法案化自体無意味です。というのも多くの企業で本来は裁量労働制を適用してはならない職種に対して実質的に適用しているという例はあまりあり、今更法案化してもブラック企業にお墨付きをさらに与えるだけで、社会に何もインパクトを生まないと予想するからです。わけわからんデータ出して自滅もしてるんだし、さっさとあきらめればいいのですがそれができないあたりはやはり経済感覚がまるでない人だと、言わざるを得ません。

 ついでに書くと、この生産性の低さとともにもうどうにもならない問題と言えるのは日銀です。何かをきっかけに株価が1万円台中盤に落ち込んだ際、まぁえらいことになるのではと予想しています。また断言しますがこれから大手企業を中心に会計不正が急増することも予想されます。理由はごくごく簡単で、中国が国有企業に対して政府が持分を減らして民間資本の参加を増やしている一方、日本の大手企業は日銀と年金機構の持分がどんどん増えており、実質的に中国とは真逆に国有化が進んできているからです。中国ですら国有企業には不正が多いということから民間資本参加を増やしているのだから、多分東芝なんて目じゃないような不正も再来年あたり出てくるのではないかというのが、ここだけの私の予想です。

 ここまで20分。やはり政治記事は書きあがるのが非常に早いです。

2018年2月22日木曜日

下手な文章の特徴

 以前友人が、「こんなオファーメールが来たんだけど」とある事業に関して提携をオファーするメールを見せてくれましたが、一読するなり私は、「この文章を書いた奴は馬鹿だからこの話は受けるな」と言ってのけました。その後、オファー相手に会ってきた友人は、「確かに馬鹿そうだった……」という感想を私にくれました。

 案外というか、自由に文章を書かせてみるとその人の特徴なり判断力、思考力というのは透けて見えます。冗長な表現を多用する人間は結論を出さないタイプだとか、適切な言葉を継げない人は気遣いができない人だとか、敬語の使い方でリテラシー意識の程度が図れたりとかいろいろ見るポイントはあります。ただ細々とそうした点を見るより一読してみて、「何が言いたいのか」が分かるかわからないか、この点だけに注意すれば案外人となりというのは見えてきます。
 そういった、ちょっと相手に疑問を感じるような文章の特徴というのは何なのか、言い換えれば下手な文章の特徴はどこにあるのか、あまりありそうでないポイントだけを、なんか夜になって急にブログ書きたくなったこともあるのでご紹介します。

1、文章を区切らない
 文章を区切らず、延々と「○○が何々で、△△して、××な……」という具合にずっと書き続けるタイプのことを指します。基本的には主語+述語で一文節が構成されるため、1~2文節くらいで「。」を打って区切る必要があり、どんなに長くても3文節を超えてはならないというのが私の考えです。

2、段落分けをしない
 短い文章ならともかくある程度長い文章になる場合は段落を区切って、「ここで内容変わりまーす」ということを示す必要があります。しかしこれを全くせずに改行こそするものの、そのまま延々と描き続けるタイプも読み手には負担が重く、下手な文章の特徴と言えます。
 なおこのブログで使っている段落分けの仕方は私オリジナルの非常に独特なもので、2~3文で一旦改行した後、また2~3文を書いて1段落とさせています。何故こんなことしているのかというとリズム感的に、文字数的にこの形態が一番読みやすく、またこっちも書きやすいからです。

3、接続詞を使わない
 主語+述語の組み合わせが1つだけの文は短文で、「。」が付くまでに主語+述語の組み合わせた2つ以上入る文を複文と言います。複文を構成する上では間に接続詞を入れるのがベターなのですが、この接続詞を入れずに複文を書く、もしくは文章を区切った後に接続詞を入れないのもあまりよくない書き方です。
 実際のところ、文章の上手い下手は接続詞の使い方を見れば大体把握できます。接続詞のレパートリーが多ければ多いほど文章は見栄えが良くなるため、使い慣れていない人は敢えて使い分けるよう心掛けるといいでしょう。

4、主語を省きすぎる
 日本語というのは英語や中国語と比べると主語がはっきりしないという特徴があり、前の文と主語が同じだった場合、次の分では省略される使い方がされています。しかし省略しすぎて意味が分からなくなったり、前の文と主語が異なるにもかかわらずそれを明示せずに省略するとこれまた読み手に負担がかかり、下手な文章と相成るわけです。
 なまじっかそういった主語の省略に自信がないなら、ややくどいと思っても毎回主語を最初に明示する書き方をした方がずっといい文章になります。意外とこの主語を明示するという書き方が疎かになる人が、メールを受けたりしていると多いように感じます。

5、横文字を多用する
 外来語を全く使わないとなるともはや日本語としては成立しないくらい横文字が氾濫しているのが現代日本語ですが、かといって横文字を多用すると一気に文章の質は落ちます。専門用語ならまだしも、もっと浸透している漢字用語を差し置いて横文字を多用すると読んでる方もなんとなく変な感じがしやすいので、無駄に多く使う方も私的にはNGです。

2018年2月21日水曜日

花園祐は中国人か?

 早いもので今年の春節休暇も今日までで明日からはまた出勤の日々に戻ります。今年の春節は何故か曇天、雨天が多く、晴れの日は一日しかなく家にこもってばかりでしたが、これだけ雨の多い春節というのも私にとっては初めてです。
 そんなラスト休日ということもあってブログに力を入れた記事を書けるのも今日に限られると考えたため、前から準備していたネタを放出することにします。

 知ってる人には早いですが、私がJBpressで書いた記事には私への批判としてよくヤフコメなどで、「こいつ絶対中国人だろ!」という批判が枚挙に暇がないほど書かれます。これはごく最近のことではなく2016年末の大江戸温泉の記事を書いた頃から続いており、個人的に興味深かったのはわざわざこのブログを少し閲覧した上で、「いや、日本育ちの中国人かもしれない」などと真面目に言っている輩もいたことです。冗談なら笑ってあげたいところですが、前後の文面からして大真面目に書いているので逆に笑えます。
 第一、外国人でありながらほぼ毎日こんな駄々長いブログを書いている奴がいるかと私は思うし、中国人でありながらこれほど日本語でブログを綴り続ける奴がいたら逆に脅威を感じます。しかしそうしたことはさておき、具体的には「中国を誉める」、「日本を貶める」発言をしたら日本人ではないと決めつけ、考えるだけならまだしもわざわざ文字にして残す人間が一定層いるということに間違いはないでしょう。

 なお書くまでもないでしょうが、少なくとも私の知る限り半島や大陸出身の親類はいません。そもそも中国で暮らしているのも私だけで、代々広告業に就いてきた一族出身でありながら、同じメディア業とはいえ執筆方面を生業にした点で私は一族の中でも異端に属します。

在日認定(Wikipedia)
在日認定(ニコニコ大百科)

 認定先が中国人か韓国人かで異なりますが、プロセスとしては共通しているため敢えて上記二つのリンク先をつけます。一言で在日認定と言っても韓国ネット界による在日認定と、日本ネット界による在日認定と二つありますが、今回私が取り上げているのはもちろん後者です。上のリンク先ではどちらかというとニコニコ大百科の方が後者を中心に取り上げています。

 まず実際に在日認定ならぬ中国人認定を受けている私の感想を申すと、恐らく逆に受け取られるかもしれないし何をどう言っても反論されるでしょうが、正直あまり気にしていません。以前の記事でも書きましたが普通に面と向かって人間扱いどころか精神障碍者だとしつこく罵られた経験もあるし、何より刃物ちらつかせて直接脅されてるわけでもないので反応のしようがないので本音といったところです。そもそも歴とした根拠もなく論理が明らかに破綻した意見であり、私自身としては別事実や反論を構成するきちんとした根拠を突かれる方がハートに来ます。
 それよりも気になることとして、「一体何故彼らは私を中国人だと主張するのか」という点に興味を覚えました。論理的に明らかに破綻した意見で見ようによっては論理能力がなく、自らの至らなさをわざわざ晒すような意見をどうしてまた文字にしてまでネットに残すのか、そこへ至るまでの過程というか動機とは何なのか、やはり社会学出身だからかこうした動機面での行動原理解析の方向に考えが向かいがちです。

 では一体何故、中国人、韓国人をひっくるめて外国人認定を声高に主張しようとするのか。まず真っ先に浮かんだ仮説としては「願望」で、試しにこの点について話してみた友人らもほぼ異口同音にこの言葉を挙げてきました。
 何故願望だと思ったのかというと、なんとなく懇願や祈りに近いというか、「そうであってくれ!」と言っているような主張の仕方でコメントする人間が多いからです。そしてなにより、願望であれば根拠は全く必要ありません、願望なのですから。

 しかし願望であれば一体何故彼らは祈るのかという、こちらへの動機説明がさらに必要となってきます。この動機については私自身も考えあぐねて、単純に自分の意見と異なる人間が自分とは属性面で異なっているはずだという動機(←同期性、内と外の論理)、海外事情への無知や無関心がもたらす動機(←閉鎖性の論理、洞窟のイドラ)などの筋でしばらく考えましたがいまいちしっくりこず、先にこの方面で誰か分析していないかなと調べたところ、割とすとんと落ちてきたのが以下の意見です。

ネトウヨは、卒業することを知らない
湯浅誠×やまもといちろう リベラル対談(前編)(東洋経済)

 こちらの対談記事の2ページ目にあるやまもと氏の発言にこんなものがあります。

「例えば『あなたは何が誇れますか?』と聞かれたとき、職歴が誇れない、学歴が誇れない、家系が誇れない。日本人であることしか誇れない人たちが結構いっぱいいます。本当は、高いところに自分の理想があっても現実の自分はそこにまったく手が届かない。だから、彼らなりの合理的な選択として右翼的な発言をするコミュニティや、ある種の反原発運動のような極端な思想と活動をしているネットのねぐらに居場所を見つけようとします。とりわけ、右翼的な発言をする彼らのアイデンティティは、実は日本人であること以外ない。そうなると民族主義的な発言をしやすくなるということです。」

 これを読んで初めてすとんと納得しました。敢えて補足を付けたすと、「他に反論できる根拠や意見がなく、『優秀な民族』である日本人という国籍の違いでしか相手の上に立てない」という理論、というより願望を源泉として、反感を持つ相手に外国人認定をせざるを得ないというのがああいったコメントが出る動機だと思います。もちろん前提として、「日本人は韓国人や中国人より絶対的に優れた民族である」という差別意識があることは言うまでもありません。
 先にも書いた通り、大江戸温泉の記事ではわざわざこのブログを読んだ上で「日本育ちの中国人に違いない」と書くのは私は非常に不自然に感じました。最初から論理が破綻しているのだからただ中国人認定だけしてればいいのに、わざわざ「日本育ちかも」と書いたのは、恐らくこのブログの存在が論理破綻を増させるため、それに対して何らか少しでもいいから反論をしようとしたもかもしれませんが、先にも書いた通りその必死さは滑稽でしかないでしょう。ですがこうした行動や主張は願望であると考えれば、必死にもなるのでしょう。

 簡単にまとめると要するに、「反感を持つ相手を中国人や韓国人だと信じることで、日本人である自分は相手より上の立場にある」と信じるための行動が、外国人認定の行動の源泉だと私には思います。この結論に至った時に私が最初に感じたのは魯迅の「阿Q正伝」と、こう言っては何ですが、韓国ネット上の過激意見論者に似ているなということでした。多分お互い嫌悪し合っているでしょうが、実体は同族嫌悪でしょう。
 なので先にも書いている通り私としては気になる批判でもなんでもないのですが、私が気にするかどうかなんて二の次と言えるでしょう。というのも外国人認定は相手への批判というよりは、自己を慰めることが主眼の主張だからです。逆を言えば、まともな反論手段を持たないと宣言しているようにも見えます。

 ここだけの話、私がJBpressで書く記事にはほぼ毎回必ず1個か2個の論理の穴を敢えて用意しています。読解力のある人はきちんとその点を把握して人によっては突いてきますが私の実感だと、コメントを残さないだけなのかもしれませんが、あまりきちんとこの点を突く人は見られません。
 私としては自分の意見の賛同者より、より鋭い指摘によって私を追い詰めるような人の方を求めています。そうした人間の厳しい指摘を受けた方が自分としてもより高みへ登れるし、また単純にそうした高い見識の方々と付き合いたいというのも本音です。そういう意味で私を中国人認定する方に対して、「つまらないことをいちいち言わず、もっと誰もがため息をつくような鋭い反論で自分を刺し殺して見せろ」と言いたいです。まぁ単純に、もっと面白いこと言って見せろよということです。

 その上ではっきり言うと、外国人認定するということは自分に他に何もないということを宣言するようなものでしかありません。しょうもない低次元の批判に終始するくらいならもっと上をみた方がいいというのが私個人の考え方です。

2018年2月19日月曜日

忘れていた感情 後編

 昨日の記事で私は平松伸二氏の「そして僕は外道マンになる」を読んでその感想を述べるとともに、自分がある感情を忘れていたことに気が付かされたということを書きました。その忘れていた感情は何なのかですが、はっきり言えば「怒り」です。

 自分でいうのもなんですが、ここ数年の自分は非常に恵まれて過ぎてきます。それ以前のスチール棒で殴られて流血してるのに病院にも連れて行かれないどころか逆に糾弾されるようなブラック企業にいた頃と比べると、非常に安定した職に移れたし、またこのブログがきっかけ(「火付盗賊改方 中山勘解由」を読んだらしい)でJBpressでこうしてコラムを連載出来て、個人コラムとしてはかなり例外的なYahooトップ掲載も果たし、2ちゃんねるにもスレが立つ記事にもなると最近はもう数えていません。
 このほか職場の同僚にも恵まれ、残業代は未だに人生で一度も受け取ったことはなく周囲からは「やや普通な環境になっただけじゃないの?」と言われることもありますが、今までが明らかに普通じゃない環境に身を置いてきただけに、単純にこれまでと比べてあらゆる生活面で楽になってきています。

 しかしそれゆえというべきか、単純に社会に対して怒り覚えることがなくなりました。普段の生活でも怒鳴って声枯らすこともこのところほぼ全くないし、日中の社会問題や不条理に対して「ふざけんなこのカス死ねっ!」ということもほぼなくなりました。最近の過激発言といえば、「Black Box」を読んだ感想として、「拉致ってケツ掘って『合意の上だった』と言えば済む話ではないか?」と友人に言ったくらいですが、これでもかつての自分と比べると大人しくなったように感じます。

 まどろっこしいいい方せずに言うと、生活の安定ぶりが返って自分の感性を鈍らせているという実感を、「外道マン」を読んではっきり感じました。というのも「外道マン」では少年ジャンプ編集部の理不尽な要求によって作者の平松氏が何度も悔しい思いをさせられ、その悔しさや苦しさを作品に昇華させていたと思わせられる描写が何度もあるからです。ちょうど今連載中の回がまさにその点を突いたところらしく、マシリトに「楽して描いてない?だからつまらないんだよ」と指摘されるところだそうですが、恐らくこの指摘と私の分析は正しいでしょう。

作品に宿る「負のオーラ」

 上の記事は3年前に私が書いた記事ですが、この記事で書いているように鬱屈した負の感情というものほど作品を高める原動力はありません。逆を言えばクリエイター、表現者にとって、逆境以上の好材料はないのです。断言しますが仮にゴッホが生前から評価されて収入も安定していれば、彼自身の人生としては幸福なものになったかもしれませんが、現在ほどの名声を得られるほどの作品を生み出すことはなかったでしょう。
 もちろん、安定した生活を維持しつつ立派な作品も残せれば言うことなしなのですが。

 自分が怒りを覚えなくなった、特に社会問題に対するものを感じなくなったのは単純に血気盛んな年代を過ぎて年齢的に落ち着いたからとも解釈できますが、だったらなおさら対策が必要なのではないかって話になります。現実に日本の様々な政治、経済、社会問題についてはかつてのように、単純にあきらめるようになってきたのもありますが、あれこれ現状分析や対策を行うことがめっきりなくなりました。まぁ政治に関しては明らかに議論がないだけで私が悪いわけではありませんが。

 特に自分がかつての自分との差を感じた点として、このところ自分の記事につくヤフコメの論理の成り立たない批判に対する反応で、現在は「相手にする価値もない」とあまり気にすることがありませんが、かつてであればコメントを書いた人間の情報を調べ上げた上でリストアップし、保存した上で何かしらネタにしようとするくらいの怒り狂っていたことでしょう。やらないとは言いませんが。
 これに限らなくても政治家や著名人の汚職、犯罪者に対してどこか他人事というか、冷めた感情を持つようになりました。心身の健康、あと公共性においては今の方がいいのでしょうが、表現者としてみたら本当にこのままでいいのだろうかと不安を感じます。

 なんとなくオチをまとめ辛いのですが、やはり自分はもっと怒るべき人間だと思います。先の「負のオーラ」の記事にも書いていますが、「ジョジョの奇妙な冒険」(最近はあまりの詰まらなさに読まなくなった)の第7部のセリフにある通り、「飢えなきゃ勝てない」というのは絶対的な真実です。如何に生活が安定しようと、頭のおかしい人間が近くにいないとしても、それで気持ちまで安定させては表現者としては失格であり、もっと自分を追い込む必要があるでしょう。

 そういう目で見ればやや傲岸とも取られるかもしれませんが、やはり現在の執筆活動に関してはまだ十分に評価されていないという実感があります。JBpressの編集からも、「どうしてうち以外からもっと依頼が来ないの?」と聞かれたことがありますが、これだけ毎日ブログ記事を量産できる人間ともなれば、原稿料にも寄りますがもっと声がかかっても私自身おかしくない気がします。なおJBpressは最初に声をかけてきてくれたという恩もあるので、破格的な原稿料でいつも書いています。
 傲岸と言われようとも、現在の自分の環境を分析してまだ平和的にフラストレーションを溜められる箇所となればやはりこの一点ではないかと思うので、意識的にこの点を留意して、もっと飢えるように心がけたいと思います。あとこのブログの記事も、最近自分でも大人しいと感じるきらいがあるため、もっとオフエンシブな感じに持っていくつもりです。

  おまけ
 年齢について先日同僚から、隠しているわけでもないのに、社内で年齢不詳と噂されていると教えられました。この「年齢不詳」というキーワードは前の職場でもよく言われました。
 うどん屋の奥さんからは、「実年齢からしたら見た目が若い」と言われたので、多分見かけに比して口にする内容が古いのが原因じゃないかと分析しています。

忘れていた感情 前編


 上の画像は大分前にネットで話題になった漫画のワンシーンですが、廻し蹴りで何故か放射能値が下がるという破天荒な場面が描かれています。この漫画を描いたのは平松伸二氏という漫画家で、私もつい最近にネットで話題になっていたことから、「そして僕は外道マンになる」という平松氏の自伝漫画を購入して読んでみました。もっとも自伝とは言いつつも、本宮ひろ志氏が学ラン着ながらダンビラ振り回すなど、多方面で大幅な脚色がなされてますが。

 私は平松伸二氏については世代がやや異なっているということもあってその作品をあまり読んだことはなかったのですが、破天荒な設定と頭身の高いリアルな画風の持ち主として名前は知っていました。そのため今回この漫画で平松氏の経歴について初めて知ることが多かったのですが、一言で言えばとんでもない漫画エリートともいえる人物だったようです。
 というのも若干16歳で少年ジャンプに読み切りデビューを果たし、短期間のアシスタント生活を経て19歳で「ドーベルマン刑事」で連載デビュー。しかも新人の初連載作品としては史上初めてアンケート1位を取り、その後も人気上位を維持し続け看板作家として君臨したそうです。

 それ以上に目を見張ったのが、当時の少年ジャンプで毎年行われていた主要作家陣による読み切り作品企画での話です。当時、ジャンプでは漫画家10人に読み切り作品を1作ずつ描かせ、それを読者に人気投票させて競わせるという企画があったそうですが、手塚治虫、赤塚不二夫、本宮ひろ志氏、永井豪氏、池沢さとし氏、そして平松氏の師匠に当たる「アストロ球団」の中島徳博氏らというレジェンド級の面々に対し、20歳にして初参加の平松氏は投票で第2位となる人気を得たそうです。
 これほどまでに若く、且つデビュー時から高い人気を得たという漫画家ともなると、私の中では「キン肉マン」のゆでたまご氏と、こちらはややデビューがもうすこし遅かったですが「進撃の巨人」の諌山創氏くらいしか浮かばず、「漫画エリート」という意味では平松氏は屈指の存在であったということに間違いはないでしょう。

 そんな平松氏の自伝ということからきらびやかな活躍が書かれているかと思ったらさにあらず、この本の中身は実質、八割方怒りと怨念で描かれてあります。
 先ほどの読み切り作品企画では、上位2名の漫画家はヨーロッパ旅行に行けるということになっていたそうですが、平松氏は2位であったにもかかわらず実績がまだ足りていないとの判断から行かせてもらえませんでした。もっとも連載中の漫画で多忙であったことから「行かずに済んだ」ということでホッとした半面、どれだけ苦労しながら全く報われない状況に平松氏も思うところがあったそうです。

 特に平松氏の場合はデビューが異常に早かったせいもあって雇ったアシスタントは全員年上で、待遇面での諍いから途中で辞めてしまう人も出るなど、マネジメント上での苦労話もよく描かれています。何より当時部数が急上昇中の少年ジャンプ編集部からはむちゃくちゃな要求も度々出され、「人気あるけどいまいち物足りない。来週から、毎週10P追加だ!」と、限界ギリギリの作業をしているのに増ページを命じられることもあれば、高い人気を維持しているのに担当編集者から「原作付きで書いているくせに一人前とは認めねぇ!」と言われたりなど、理不尽に振り回される過程も生々しく描かれています。
 そのせいもあって作中で平松氏は度々悔し涙を流すのですが、そこへ至るまでの壮絶な過程が非常に臨場感高く描かれていることもあって、当時に平松氏がどれだけ悔しい思いをしながら漫画を描いていたのかが変に共感でき、平松氏の作品をしっかり読むのはこれが初めてですがやはりすごい漫画家であると深く納得させられました。

 それだけにと言っては何ですが、Amazonの方のレビューにも書きましたが、この「外道マン」はとにもかくにも涙が美しい漫画だと思います。特に連載1年を経て自身初めての単行本を初めて手にした際、声を挙げずに嬉し涙をボロボロと流すシーンは非常に心が打たれました。

 以上が「外道マン」の内容に対する感想ですが、実はこの漫画を読んだ後に自分は強いショックを覚えました。それは何故かというと、自分がここ数年、ある感情を完全に忘れ切っていたということに気が付かされたからです。その感情とは何か、後半へ続く……。


  

2018年2月16日金曜日

自分が聞いたことのある入試ミス

<大阪大>また入試ミス AO入試合格者、サイトで不合格(毎日新聞)

 先日の兄弟の入試ミス騒動以降この手の報道が相次いでいますが、こういった入試ミスは今に始まるわけではなく昔からあったことで、最近になって注目されて報道されるようになっただけでしょう。

 現実に私も以前に予備校でそういう話を聞いたことがあるのですが、なんでも願書を出していながらやる気がなくなったとかそんなで結局入試を受けずにそのままスルーしてしまった受験生が痛そうです。そして後日、入試を受けてもないのに合格通知が届いたとかで、ラッキーとばかりに結局そのままその学校へ進学したそうです。確かこのケースは早稲田大学とのことでした。

 まず間違いなくこのスルーヤーの代わりに誰か一人が不合格となっているはずですが、もちろんニュースになるわけでもなく歴史の闇に埋もれていきました。もっともそんなこと言ったら自分も一応ちゃんと試験は受けたものの、入試判定は常にE判定だったところに合格して進学したので、もしかしたら何らかのミスがあった可能性は否めません。ただ最終的には170単位くらい取って卒業したので、授業についていけるだけの学力は持っていたのだろうとは思いますが。