昨日書いた「
昨今の表現規制」にてコメントをもらったので、
「監獄学園」の最終巻には大幅加筆すると本誌で予告されていたのに実際ほとんど加筆はありませんでしたが、先の記事に関して私は加筆をしようかと思います。
つうか「監獄学園」の件はページ飛びもあるし真面目に詐欺もいいところな気がする。俺も金返してもらおうかな。
早速書いていきますが私は先の記事にて「血液を赤く描いてはならない」とするゲームにおける表現規制を例に取り、現実には赤いのにそれを否定する行為はもはや現実を否定する行為に等しいしこうした表現規制はむしろおかしいという主張を行いました。その上で現実は直視するべきものであり、現実をありのままに描こうとすることを否定もしくは妨害する行為はあってはならないし、この面での表現の自由は何人たりとも犯してはならないし、自分もこの件に関しては全力で抵抗するということを書きました。
この記事について知人から、実際にこうした表現規制を行う人間の特徴として以下のようなコメントを受けました。
「規制したがる人たちは、自分達はキレイな世界に生きていると思いたいから、実際には存在しているが、汚いものを私たちに見せて、私たちの世界観を壊してほしくないという考えで、そういう考えを持っている人たちのエゴなのではないでしょうか?」
基本的にこの知人の意見に関しては私も同意するのですが敢えてもう少し掘り下げると、表現規制する人(=現実を歪める人)はその特徴で分けると3タイプに分類できるのではないかと考えています。というわけで早速、実質的に私と敵対する立場の「現実を歪める人」の3タイプを順に説明してきます。
タイプ1、過度に反応、忖度して表現規制を強化、増加する人たち
このタイプは主にマイノリティらに関する表現規制を作る人で、古いものだと「ちびくろサンボ」を廃刊に追い込んだ連中や、最近だと何故か
「お父さん」、「お母さん」という言葉を使ってはならないと言い出した千葉市が当てはまります。
この手の連中は規制する言葉や表現が差別につながると主張して使用を禁じようとしますが、むしろ彼らがそう主張するから差別用語とかになっているとしか思えません。それどころかこうした主張を援用するならより多くの言葉や表現が規制されかねず、いわば限度のない議論へと発展しかねないリスクもはらんでいます。そもそも、こうした連中が規制する言葉や表現が差別的かと言われればそうとは思えないものばかりです。
ある意味、最初に挙げた赤い血液を描いてはならないとする連中もこのタイプに属すでしょう。この手のタイプはその表現が差別的だとか問題があるかを真剣に考える前に、「とりあえず当たり障りないよう批判が来そうなものは全部排除」的に過度に反応して決めていることが多いように見えます。私に言わせれば、現実を否定すること以上の差別はないとは思うのですが。
タイプ2、現実を直視したくない、対策を取りたくない人たち
表現というよりかはこちらは実務面に近い話となります。でもって、知人が指摘した特徴はこのタイプに属すでしょう。
まず大前提として、現実というのは基本的に見るに堪えないもので、直視すればするほど苦痛を催す物象であります(例:「アイドルはおしっこをしないわけがない」)。また厳しい現実を突きつけられ、その状況から脱するためには現実に即した対策を取る必要がありますが、基本的にそうした対策というのも身を切らざるを得ないものばかり、というかものしかなく、対策の実施によって失うものも少なくありません(例:リストラ、口封じ)。
そうした厳しい現実と迫られる対策から逃れるためにはどうすればいいかとなると、現実から目をそらし、夢想の世界へ逃げることこそが一番安直な道であることに間違いありません。私が見るに日本人はこの手の現実逃避が非常に得意で、高齢化問題を初め厳しい現実があっても目をそらし、やるべき必要な対策もはっきりわかっていながら実行するのは大変だからと、簡単即座にすぐできるやってもやらなくてもいいようなどうでもいい対策を打って、「対策打ったからこれでもう大丈夫!」と精神の安定を図ります。
最も偉そうに言う私もそうした思考や行動がないわけではなく、また日本人でなくても人類すべてが「現実から目をそらす」という行為を多かれ少なかれやってしまうものだと思います。日本の場合、エリートまでもがそれやってしまうのは問題だとは思いますが。
以上の2つのタイプはどちらもその言動によって現実をゆがめる可能性のある人の特徴を説明していますが、はっきり言えばこの2つは現実を歪めるのは消極的な動機からなのでまだ救いがあります。
特にタイプ2は人類の現実に対する弱さ的なもので、旧日本軍指導者のような集団を束ねるエリートがやってしまうのは大問題ですが、近くにいたらはっきり言って迷惑であるものの個々人でこうした言動を取ってしまうのはある程度仕方のないところがあります。第一、冷たい性格した人の表現として「現実的(リアリスト)な性格」というのですから、現実を追えば必然的に孤高となるのでしょう。
一方、以下のタイプ3については別問題です。
タイプ3、自己利益拡大のためにわかっていながらわざと現実を歪める
具体例としては出所不明の新ルールを作って流布するマナー教室、同様に明らかに合理性のない説明で何かを貶める記事を流布するメディアです。マナー教室については先にも書いた「了解という言葉は不敬」だとか、「ハンコは斜めになるよう押印する」、「訪問先で出されたコーヒーを飲んではならない」などと、コミュニケーションを阻害するようなそれまでになかった新ルールを出す連中で、後者のメディアは最近だとオフィス北野社員を偽装した上でその発言を報じたフジテレビです。あれも恐らく劇団員だろうな。
このタイプ3は完全に自己利益の拡大のために敢えて現実とは一致しない情報を流布したり、表現規制を作ったりすることで注目を浴びようとするタイプです。このタイプは紛れもない悪であり、その言動のみならず存在自体が社会にとって有害であり、たとえどのような手段を取ってでも排除すべき対象だと私はみなしています。彼らがいることでそれまで誰も気にしなかった行動や発言がある日突然人を不愉快にさせる者になったり、もしくは誤った情報で批判される必要のない無辜の人や団体を批判に晒したりと、現実を歪める行為の結果として歪な事態を招きます。
ここだけの話、最近私が係っている中国関連報道などもいい例でしょう。仮に私がそれこそ中国について見下す、馬鹿にする、あげつらう記事をなるべく理不尽且つ不合理な理由をつけて量産していたら、今頃は「中国報道の第一人者」と言われるくらいに売れっ子ライターになっていたかもしれません。まぁでっかく出ると「派遣マージン率の第一人者」であるという自覚は内心あるけど。
しかし言うまでもなく、私はそうした報道を行えば収入も社会地位的も向上することが分かっていながら、そうした行為に手を染めてきたことはありません。何故なら理由のない批判や現実に即していない報道は巡り巡って自分にとってマイナスとなることが分かっているから、などと大層な理由を付けずとも、普通にそんなことする奴は頭がおかしいでしょう。けど現実のところ、「中国は崩壊する」とノストラダムスのように毎年本出しているライターがいて、売れっ子となっているのは事実です。
しかしそれこそ前述の通りに自らの精神安定のために現実を歪めて見ているだけに過ぎません。第一、敵を侮らせるほどの利敵行為はなく、現実から遠ざかれば遠ざかるほど単純に弱くなります。そうした概念もあってか、私がJBpressで書く記事は「如何に現実を見せるか」に重点を置いていつも書いています。
多少脱線しましたが、自己利益のために現実を歪める、ましてや表現を規制するような輩はたとえどのような理由があろうとも私の敵以外ほかならず、決して同じ天は戴けないと考えています。そしてあくまで私の立場から言えば、こうした連中は本当にどうしようもなく足を引っ張る存在であり、なるべくなら社会から排除した上で見せしめもかねて徹底的に攻撃するべき対象でもあると主張させてもらいます。
その上で、これも先に書きましたが現実を直視するということは基本、苦痛を伴います。見なければ済む現実であれば正直、見ないに越したことはありません。しかし「見なければならない現実」に関しては、たとえどれだけ苦痛を感じようとも見る必要があります。というのも、目をそらしても一瞬だけ苦痛から逃れるだけで、あとでもっと大きな苦痛に襲われることになるだけだからです。
さらに書くと、現実というのは見ようと思ってもなかなか見れるものではなく、死ぬ気で追いかけて初めてその一端が見れるものだと私は思っています。自分はライターという立場……っていうか本業記者じゃないですが、芸術家などはやはりそうした現実をどれだけ直視したかが作品に現れるようにも感じ、自分も可能な限り自分が見た現実を文章に反映させようとする立場を取っています。