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2018年4月16日月曜日

でかっ

 前の記事で「骨が腐るまで」という漫画について「死体とおっぱいがいっぱい漫画」だと紹介しましたが、読んでみた友人からは「死体はともかくおっぱいはいっぱいではない」という返事が返ってきました。私と彼の間では認識に隔たりがあるようですが、それはどのような隔たりなのか、現国の問題に使えそうな問いです。
 

 そんなわけで昨日は中国の「J-20」こと「殲20」というステルス戦闘機のプラモ作ってました。なんで急に作ったのかというと例の上海人に「次は殲20」作ってと、一昨日言われたからです。言われたその日にすぐプラモやに買いに行って、翌日には作ったので上海人は驚いてましたが、 やると決めた行動が早いのは自分の長所だと真面目に思います。
 またある意味今の自分は戦闘機プラモ作りブームの真っ最中で、自分の中でブームが終わる前にできる限り作っておくほうが後々の自分のためだという自覚もあります。非常にお手軽な軍事研究でもあるし、くれぐれも暇だったというわけではありません。




 作ってみて今回感じたのは見出しにも書いた通りに「でかっ」っていう点でした。ステルス戦闘機とは言いながらもサイズ的には爆撃機みたくでかく、これまでに作っていた他の戦闘機と比べても一際サイズが大きいです。
 このようなサイズになった理由としては噂で聞く限り、姿形がよく似ている米国のF-22ラプターの情報を盗んで設計したけど、細かい部分が再現しきれずどんどんでかくなっていったそうです。あと今回作っていて初めて気が付きましたが翼の数も異様に多く、前翼(カナード)、主翼、X字尾翼で計8枚にも上ります。前翼があるのであれば水平尾翼はステルス上でも不利なのでいらないのではと思うのですが、逆を言うとそれだけ流体力学面で中国は熟成されてないのかもしれません。

左からタイフーン、J-20、F-16、MiG-29

 サイズの比較としてこれまで作ったどれも同じ1/72モデルの機体を並べましたが、タイフーンですら作った時はでっかいなぁと思ったものの、それを遥かに超えるでかさです。
 なお日本において「72」という数字には特別な意味があるようです。

 ミグと並べたらその差は歴然

 なんとなくですが、このでかさとステルス性、そして異様に多い翼の枚数などから考えて、J-20は正式戦闘機というよりも実験機に近いものではないかという気がします。あくまで私個人の印象ですが。
 ちなみに昨日、6時間ぶっ通しで作ってて終わった時には腕がしびれていたかったです。メーカーはタミヤのコピー作って喧嘩してるトランペッターですが、表面の仕上げは非常にいいものの、図面がやや見づらいのと、一部の接合でやや疑問に感じる箇所があり、ハード一流、ソフト二流って感じします。まぁキット自体の質は悪くないので、実力あるメーカーであることには間違いありませんが。

2018年4月14日土曜日

中国人が花見を好む理由

  今1巻と2巻がKindleで無料だったので読んでみたらそこそこ面白く、下記の「骨が腐るまで」という漫画を一気に全巻買い集めました。軽く書評を書くと一見して映画の「ラストサマー」と同じ構成だと思いましたが、変に間延びせず話の展開がよく、7巻と少ない冊数でまとめられているので、総じて完成度の高い作品だと覚えます。
 なお友人に勧めた際、「死体とおっぱいがいっぱい漫画」と紹介したら、友人は何も答えてくれませんでした。何故彼は何も答えなかったのか、現国の問題にも使えそうな深い問いであるような気がしてなりません。



 話は本題に入ると既にピークは過ぎたと思いますが今年もやってきた花見シーズンにおいて、あちこちの花見の名所で中国人の姿が見られたのではないかと思います。単純に中国人は日本の花見文化を非常に気に入っており、この花見を体験するためだけに訪日旅行ツアーに申し込む人も少なくありません。
 こうした中国人の花見ブームについて日系メディアもその理由や背景についていろいろ報じており私も読んでいますが、決して的外れだとは思わないものの、私の考えている理由を挙げている人はまだ見当たりません。結論から書くとそれは、「中国には自然を愛でる文化が極端に少ない」殻ではないかと睨んでいます。

 中国で鑑賞する代表的な花と言えば梅の花で、梅を愛でる文化こそあるものの日本の花見のように定型化されたようなイベントはありません。また花に限らず自然を鑑賞し、愛でる文化やイベントごとが自分から見ても不思議なくらいに少なく、言い方を変えるとアウトドア文化が日本と比べると極端にありません。
 アウトドアスポーツについていうと、登るような山が少ないということから登山はほとんど行われません。当然、スキーなども中国ではごく一部を除いて行われません。また海水浴に至っては、中国は泳げない人の方が圧倒的多数です。

 自然を愛でる文化としては中国にも月見文化は存在しており、日本なんかより十五夜への熱意は高いように感じます。その一方で花や海、山、なんかこういった自然物と絡むイベントごとや鑑賞文化はあまり見られず、ましてや「自然を眺めながら野外で宴会」なんていうのはほぼ全くないから、だからこそ花見が新鮮にも映り興味を持ったのではないかと分析しています。詳しく検証したわけではありませんが。

 蛇足かもしれませんが、こうした中国人の行動思考の分析とか評論記事を見ていて、民俗学的アプローチがやや少ない気がします。自分の分析が民俗学的かどうかについてもはっきり言って疑問ですが、この手の分野ではプロである彼らの視点や言及が生かされないというのはどうなのかなという点でも疑問です。

歴史記事を書くポイント

 今週水曜にJBpressで出された私の記事は二次大戦中のフィンランドの話ですが、これはこのブログを長く見ている人ならお気づきかもしれませんが、2015年頃に書いたこのブログの記事の焼き直しです。というのも先月と今月は忙しくて本来なら記事出しは月一本の予定でしたが、取材なしで尚且つ原稿もある程度揃っていることから、ブログ過去記事の焼き直しでよければと穴埋めにどうかと提案したところ編集部も「是非」ということで今回使いました。

 この記事のヤフコメを見ていると恐らく私以上に冬戦争について詳しいと思われる方々がたくさんコメントをしており、それを見ていてだからこそ自分のような人間がこうして歴史記事書く余地があるなと内心感じました。というのも究極的に言えば、歴史マニアは歴史解説記事を書くに当たって致命的な欠陥を抱えていると私は考えており、あまりこの点は他では言及されてないのでこの際紹介します。

 結論から言うと、歴史マニアが何かしら解説をしようとすると非常にディープな点ばかり取り上げたり、専門用語を読み手が初めから知っているのを当たり前であるかのようにバンバン使い、あまり詳しくない人からすれば理解しづらい文章になりがちです。なんでこうなるのかっていうと単純に、あまり人のこと言えませんが自分が他の人にはない知識を持っていることを誇りたいからで、歴史マニア同士の会話なんか見ていても相手の持ってない隅を突くかのような知識の言い合いになりがちです。
 自分もこうした傾向を持っていることは重々承知しており、歴史記事を書く際は敢えて細かい用語や人物名、紛らわしそうな事件名などは細かく区別するように注意して書いています。

 基本的には「不要かと思うくらいしつこくいちいち説明し続ける」スタンスで歴史記事は書いていけばいいのですが、このやり方だと読み手には優しくなる一方、文章のテンポはほぼ完全にスポイルされます。どうでもいいですがスポイルという単語を見るとスポイトとの違いについて思いを馳せます。
 日本語のリズムは基本、五・七・五形態の中膨れ三拍子が一番心地良いと私は考えていますが、歴史記事だとこのリズムを維持するのは非常に困難です。説明文が続くとどうしてもくどい文章になりがちで、ましてや文字数の制限があれば紹介できる箇所もどんどん削られていくことになります。

 こうした問題への対処として、またいい歴史記事を書くポイントとしては第一に、「焦点を定める」という作業が最も効果的です。紹介、解説する箇所を絞り、余計な箇所には一切触れないということです。
 現実に去年書いた戦国初期の関東の記事ではこの手法を強く意識して書いており、近畿地方の政変や応仁の乱などについては一切触れず、尚且つ関東の情勢もそれぞれ主人公格の人物を定めてその人物を中心にして語るという方法を取りました。今回のフィンランドの記事もあくまで主役は戦争であり、その勃発理由と経過、そして戦後についてを中心に置き、前回の冬戦争についてはクリストファー・リーが義勇軍として参加していた事実などは省きました。シモ・ヘイヘについては外せませんでしたが。

 次回の継続戦争についてもう予言しますが、恐らく「リュティ大統領についての言及が少ない!」というコメントで荒れることでしょう。しかし言い訳とみられるでしょうがこっちとしては大まじめに言うと、もしソ連との講和に至る過程でリュティ大統領の行動を細かく取り上げていたら、文字数が食われるばかりか戦争内容よりもリュティ大統領が主役の記事になって焦点がぼやける可能性が高く、こればっかりに関しては「外すのが正解」だと私は考えます。その上で最初に戻ると、歴史解説は詳しければ詳しいほどいいというわけではなく、読み物としては歴史に詳しくない人間でも理解できるような内容に仕立て上げることこそが第一です。まぁアクセス稼げなければ意味ないですが。

 なお、逆と言っては何ですが政治や経済記事なんかに関しては最近私も敢えて小難しい専門用語使ったり、詳細な解説を省くことが増えています。理由は浅はかな人には絶対理解できない内容、もしくは誤解させ、狙い通りの批判させ、反論して一気に黙らせる方が楽になってきたからです。必ずしも何でもかんでもそうだとは言いませんが、歴史や経済に関する記事はやはりある程度は基礎知識を持って読んでもらいたいと思え、また書く側の負担もあるのである程度の切り捨てもやむを得ないスタンスを取るようになっています。
 もっとも、解説した用語や仕組みがどうしてもわからない、教えてほしいという声に関しては今後もできる限り対応するつもりです。私が敵視しているのは考えたり調べたりすればすぐわかることなのに、わざとかと思うくらい浅薄な知識にもかかわらず挑発的且つ感情的に批判してくる輩です。記事に関する疑問や、丁寧な姿勢での批判であればむしろ大歓迎で、強敵を常に求めています。

2018年4月12日木曜日

電波系のキャラは書けるのか?

 最近くそ真面目なことばかり書いておりふざけたことを書きたくなってきたので、電波系なキャラについて思うことを書こうと思います。

グランディアスⅢ(ゲームカタログ)

 つい最近知りましたが上記の「グランディアⅢ」というゲームはクソゲーだったようです。何故クソなのかというと出てくる登場キャラクターみんなが電波系というか、プレイヤー置いてけぼりな支離滅裂な言動ばかり繰り返す人間ばかりで、全く意味が分からないまま進行していくからだそうです。
 具体的にどれだけ電波なのかというという例として、以下のやり取りが上記ページで紹介されています。

  • (ヒロインが)寂しげな少女と出会った次のシーン、唐突に「あの子、手が冷たかった! 連れて帰れば良かった! あの子の手を温めてあげたい! どうすれば良いの!?」などと泣き出す。
  • しかもこの後、主人公の「飛ぼう…。飛べばきっと答えが見つかる!」という、電波を電波で返す香ばしい台詞が。

 このやり取りだけでも確かにやばそうなゲームだというのがなんとなくわかります。なお並み居る電波系の登場キャラの中でもとりわけその程度が激しく、周りをあらぬ方向へガンガン牽引するヒロインについては「電波塔」と表現されており、なかなか見事だと思うので自分もこれからこの「電波塔」という表現を取り入れていこうと思います。

 話は戻りますが、こうした「電波系」という表現は日本独特の表現で、その語源は深川通り魔殺人事件のヤク中の犯人が動機について、「電波を受けたから」と証言したことに始まると言われています。具体的に電波系がどういう性格かについては諸説ありますが基本的には、「支離滅裂、意味不明な言動を繰り返し、周囲の言葉をまるで理解しない精神異常者っぽいキャラ」と言えば大体当てはまるでしょう。
 それで今回、上記の「グランディアⅢ」の紹介を見ながら思ったこととして、「果たして俺にこういう電波系のキャラって書けるのだろうか?」ということでした。高校時代以降は全く小説書かないでいたら上海の中心でフィンランドについて紹介する日本人ライターになってしまいましたが、かつての小説を書いていた杵柄で述べると、気が狂ったキャラって案外書きづらいもんです。

 これは実際に下手な小説家の作品に出てくる気狂いキャラを見てもらえばわかりやすいですが、読者の共感を得られる狂人キャラっていうのはなかなか描きづらく、ただ暴れさせたり変なセリフを言わせてもなんとなく中二病っぽいキャラクターで終わってしまいがちで、書いてる作者はともかく、読んでる側からすると「作者はこれで狂ってるとか思ってんだろうな(笑)」みたいに思われてしまうことすらあります。現実に身の回りに頭のおかしい人なんてそうそうたくさんいるわけではなくモデル数は乏しく、かといって想像で書いてしまうと描写が過剰になったり過少になったりして、いまいちリアル感のないキャラが出来上がりがちです。作者本人が気違いなら書きやすいかもしれませんが、果たして気違い状態で小説が書けるかとなるとそれもまた微妙でしょう。
 なお私が本気で狂ってると思う人物像は、漫画家の岡本倫氏ただ一人です。作品のストーリー展開からセリフ回し、作者のプライベートの発言など、装っているのではなく完全に真性で他の人と違うと思ってます。

 なおオウムの麻原彰晃が拘禁症状で発狂しているという意見に対して、「ウンコ食ってないらしいからまだ狂ってるとは言わない」とする意見が結構よくみられます。ウンコを食うか否かがなんか狂ってるかどうかの一つの基準になっているのかもしれませんが、なんとなくそんな気はします。

 話は戻りますが気違いキャラ、それも電波系を描くのはモデルの圧倒的少なさ、尚且つ読者になめられないような水準で描写するとなったら私個人にとっては非常に難しい作業になると考えています。まさかウンコ食う描写入れるわけにもいかないし。
 そう考えると先ほどの「グランディアⅢ」は「こいつら、全員悪人」ならぬ「こいつら、全員電波系」ともいうべきカオスな世界を作っているとのことで、ある意味そりゃすげーなとキャラ作りの点で変に感心しました。

 その上で先の記事を見ていて、もしそういう電波系のキャラを作ろうというのなら、「否定→肯定→また否定……」のやり取りを見せるのが一番効果的かなという法則性を見出しました。具体的には、

  • (ヒロインが)先の少女に「真実が聞きたいんです」と自分から申し出ておきながら、兄が世界を混乱に陥れたことを聞かされると「やめて! もう聞きたくない!」と即逆ギレ。

 上の文章を読んでて、「ああこれなら電波系だと相手に一発で認識させられる」と思うと同時に、散々否定する説明しながら反論一つで、「そうだね、君の言う通りだ」とすぐ納得する反応を見せると、簡単に相手を狼狽させられるということを思い出しました。基本、人間というのは反論を呈す時には相手からさらに反論が来ることを戦々恐々と待ち受けており、一転しての肯定反応を見せられると「えっ!?なにそれ!?」と軽く電気がショートした感じで戸惑い始めます。それを見越して自分もたまに使うこともあり、実際にこれやるとかなり効果を発揮します。

 最後に小説のキャラクター作りについて持論を述べると、自己投影すると確かにリアル感のあるキャラは作れますが、底が見透かされやすいです。むしろ作者からして、「こんなやつおるかいな」という非現実っぽさを感じるキャラクターの方が程よい距離感になるというか、他者からの共感が得られやすいキャラになる気がします。総じていえば、作者の思い入れが強ければ強いほどキャラクターとしては面白みがなくなりやすく、創作するキャラクターともどれだけ適度な距離感を保てるかが魅力的なキャラづくりにおいて重要だと考えてます。まぁもう小説は書くことないだろうけど。

2018年4月11日水曜日

証人喚問に意味はあるのか?

 

 この前、MiG-29を作ったばっかですが、Su-27フランカーも作ろうか悩んでます。中国のJ-20とかの方が記事ネタにもなっていいんですが。

 話は本題に入りますが、例の加計学園問題について柳瀬唯夫・元首相秘書官の証人喚問が決まったそうです。恐らく台本が出来上がったからだと思え、また丸川珠代議員の忖度質問+「ありがとうございます」が聞けると思うとマルクス主義的(=無意味に、空虚な)なワクワク感を覚えずにはいられません。
 パトラッシュ的になんかもう眠いのでとっとと書き上げますが、前の記事でも少しふれましたがこのところの証人喚問を見ていて、果たしてそもそもこうした行為に意味があるのかと疑問に感じずにはいられません。かつてロッキード事件で喚問された児玉誉士夫などは田中角栄との関係について「刎頚之友」と言ったりするなどドラマはありましたが、このところ連続して行われている証人喚問はどれも、「都合の悪いことは言えません。前に言った通りです」しか聞けず、こんなん時間撮ってやることかと見ていて面白くありません。

 また豊洲移転問題について行われた東京都の百条委員会でも、他の証言者と明らかに内容が食い違っており、はっきり言って偽証しているとしか思えない浜渦氏についても結局不起訴となり、誰があの問題を起こしたのかは結局闇に消え、誰も責任を取らずに終わりました。

 今回の問題は前にも書いた通りに本格的に動くは6月以降だと思われますが、どうせ関係者を証人喚問してもまた忖度質問と証言拒否の連発で何も得るものはないでしょう。そう考えると証人喚問という制度自体、完全に役割のないものとしか思えず、実際にそうなっています。
 敢えて言うなら、もっと厳しいものにしなければ意味がありません。証言拒否は絶対に認めず、発言に偽証があれば一点につき懲役一年ずつ加算するなど、捜査権としてもっと厳格にする必要があると思います。一応、捜査権としては特捜以上に高度なものとして認められているのだし、めったなことでいちいち行われるものでもないことから、これくらい厳しくしてもいいと思えるし、またそうあるべきだと思います。

 昨日も書きましたが、疑惑の多さではもはやあの鈴木宗男氏を安倍総理は超えているように思え、それでも政権を保てるというのは野党の怠慢の賜物でしょう。恐らく今年中に安倍政権は退陣になると思いますが、第一次安倍政権も選挙直後の組閣を終えた直後にいきなり辞職となるなど、割と引き際がよろしくない傾向があるので、逮捕されずに済んだ人間もいたのかなという結末になる気がします。
 今予想すべきは次は誰かですが、順当なら岸田前外務大臣、次点で石破議員、思わぬ追い風があれば河野外務大臣とかかなと見ています。

2018年4月10日火曜日

加計学園の首相案件メモについて

 今日もたくさんニュースが出ましたが、個人的に一番衝撃を受けたのは以下のニュースです。

白鵬悲痛、尊敬する父の死「親を超える子はいない」(日刊スポーツ)

 かねてからこの偉大な横綱にして偉大な父親だと感じさせられていた白鵬関の父親が亡くなられたこのニュースが、決して冗談ではなく今日一番衝撃を受けました。白鵬関はモンゴルで看取ることはできなかったようですが、これほどの孝行息子を持ってジジド・ムンフバト氏はさぞ幸福だったでしょう。

 それで本題に移るともうあっちこっちで報道に火がついていますが、かねてから疑惑が追及されていながらこのところは森友学園の方に話題が取られていた加計学園の問題ですが、またも朝日の特大スクープによって再び帰ってきました。

愛媛県知事のひと刺しで安倍官邸に激震 始まりは週刊朝日特報(AELA dot.)
「首相案件」面会メモ 愛媛知事が認めた加計文書内容(朝日新聞)

 詳細については一般の報道に譲りますが愛媛知事も最後の最後で裏切ってきたというか、「正式文書ではないけど備忘録」と言って、この文書内容を事実上肯定してきました。この一言はアエラの言う通りに「ひと刺し」そのもので、恐らく年内でいろいろ終了でしょう。そして明日にはもう立候補者たちも動き出すことでしょう。
 それにしても「備忘録」とはいうものの、朝日が公開した備忘録全文(会員じゃないから冒頭だけしか見てないが)を見る限り、愛媛県は備忘録程度にもこれほど体裁の整った文書を作るのだなとなかなか感心します。会談時間が正確に記入されていることはもとより冒頭に至っては「報告・伺」と書いた上、「地域政策課」という作成部署名までしっかり入っています。自分なんかこんな体裁、会議議事録じゃないとまず使わいませんが、文書管理や保存はくっそいい加減なくせに作成だけはつくづく愛媛県は手が込んでいるようです。

 つうか今更裏切った分際に言うのもなんだが、隠蔽に加担していたことがある意味この文書によって証明されたことになるわけで、なるべくならあなたも自発的に早く辞めるべきだと知事には言いたいです。

 文書内容については他には通り一辺倒なことしか書けませんが敢えて一点だけ書くと、やはり獣医学部設置については不適格な申請理由、内容、準備から何度も審査に落ちていたものの、加計学園の鶴の一声で一気に設置認可が動き出したことがメモから推察されます。問題はそれが何故加計学園だったってことで、前にも書きましたが加計学園の系列大学の学部は全国どこでもほぼすべてFランクで、普通に考えれば大学法人として絶対に新設を認めてはならない運営者なはずです。それを考えると、認可の審査は歪この上なく、、普通に考えれば裏があると思わない方がおかしいでしょう。

 このほか敢えて違った目線で今回の報道について私の思ったことを書いてくと、恐らく朝日新聞は大分以前に当該文書を入手していたのではないかと思います。何故発表が今日になったのかというと、恐らくすでに認可を得て開学が決まっていた加計学園獣医学部に対し、最悪の混乱を避けるため無事に入学式を済ませた後にしようという配慮からだったのではないかと思います。だとすれば意外とやさしいとこあんじゃんってことになりますが、過程はどうあれ入学者のことを考えれば私もこの判断を支持します。
 もう一つ敢えてタイミングについて推論を述べると、他のメディアも同じ文書を手に入れていた、もしくは手に入れつつあったから先んじてこのタイミングになったのではないかとも見ています。第一報こそ朝日新聞でしたがメディアの反応を見ていると森友学園問題の改竄決裁書の時と比べると文書内容に触れる他のメディアの報道は早く、週刊文春に至っては、「明後日にはこの件でもっと詳しく報じる」と今日リリースを出してきました。まぁ文春はただの追っかけかもしれませんが。

 その上で、タイミングを考えると朝日新聞はまだもう一つ、大きなネタを持っているのではないかという気もします。こう考える理由としてはやはりというか愛媛県知事の反応で、昨年における最初の疑惑報道と比べるとこの文書に対する反応や態度が違うように見え、そしてなにより報道のあったその日にすぐ会見して内容を認めた点からです。動画は見ていませんが写真から見ても激しく動揺しているように見え、言ってしまえばこの文書に関しても「眉唾だ」と言い切って知らないふりする道もなくはないと思えるのに何故かあっさり、それもできるだけギリギリ直撃を交わすかのように「備忘録」として認めたのかがやや不自然に感じるからです。
 例えば、もっとクリティカルな証拠が握られていると考えれば、こういう態度にもなるかなと、はっきり言って勘ですが直感的に感じました。まぁだからこそ官邸も今回は、「怪文書」とは言わないんだと思うけど。

ワーストレディ・安倍昭恵は稀代の悪女か(プレジデント)

 続いてこっちは森友問題ですが、まぁ見事な見出しのつけ方です。プレジデントも普段批判してばっかですがこちらの記事は見出しだけでなく中身も面白くて文句のつけようがない記事です。

 少し真面目な話に戻ると、かつてこれほどまでに疑惑案件に満ち溢れた首相は少なくとも私は見たことがありません。田中角栄なんかはもっとあったのかもしれませんが、90年代以降で言えば間違いなくく安倍首相がトップです。しかもどの疑惑も「そんなの嘘だ、根拠なんてない、文書なんてない」と言っては後から証拠がボロボロ出てくる有様で、必死で調査しているという言い訳がさもしいにもほどがあります。
 中でも自衛隊の日報問題は座視できない問題で、この件は文民統制を現場がないがしろにした以外の何物でもない案件でしょう。誇張ではなく、この日報隠蔽に関わった自衛隊関係者は理由の如何を問わず全員追放するくらいの断固たる措置が絶対に必要だと私には思えますが、今の安倍政権からはそうした処分に臨もうという姿勢は全く感じられません。まぁ、自分のことで手一杯過ぎるのでしょうが。

 ある意味、今の安倍首相の疑惑の多さは、かつて「疑惑の総合商社」と呼ばれた鈴木宗男氏を超えているとすら覚えます。そして先にも書いた通りに何一つ疑惑が無実だということを安倍政権は否定できず、むしろ決裁文書の改竄など疑惑を隠すために余計に新たな疑惑を自ら再生産しだす始末で、「信なくば立たず」と言いますが、歴史にはこちらも主旨には賛同するものの今回の件でその運用に疑問を持たざるを得ない機密情報保護法案と合わせて「安部隠蔽内閣」と総括されるやもしれません。

2018年4月8日日曜日

現実を歪める人の3タイプ

 昨日書いた「昨今の表現規制」にてコメントをもらったので、「監獄学園」の最終巻には大幅加筆すると本誌で予告されていたのに実際ほとんど加筆はありませんでしたが、先の記事に関して私は加筆をしようかと思います。
 つうか「監獄学園」の件はページ飛びもあるし真面目に詐欺もいいところな気がする。俺も金返してもらおうかな。

 早速書いていきますが私は先の記事にて「血液を赤く描いてはならない」とするゲームにおける表現規制を例に取り、現実には赤いのにそれを否定する行為はもはや現実を否定する行為に等しいしこうした表現規制はむしろおかしいという主張を行いました。その上で現実は直視するべきものであり、現実をありのままに描こうとすることを否定もしくは妨害する行為はあってはならないし、この面での表現の自由は何人たりとも犯してはならないし、自分もこの件に関しては全力で抵抗するということを書きました。
 この記事について知人から、実際にこうした表現規制を行う人間の特徴として以下のようなコメントを受けました。

「規制したがる人たちは、自分達はキレイな世界に生きていると思いたいから、実際には存在しているが、汚いものを私たちに見せて、私たちの世界観を壊してほしくないという考えで、そういう考えを持っている人たちのエゴなのではないでしょうか?」

 基本的にこの知人の意見に関しては私も同意するのですが敢えてもう少し掘り下げると、表現規制する人(=現実を歪める人)はその特徴で分けると3タイプに分類できるのではないかと考えています。というわけで早速、実質的に私と敵対する立場の「現実を歪める人」の3タイプを順に説明してきます。

タイプ1、過度に反応、忖度して表現規制を強化、増加する人たち
 このタイプは主にマイノリティらに関する表現規制を作る人で、古いものだと「ちびくろサンボ」を廃刊に追い込んだ連中や、最近だと何故か「お父さん」、「お母さん」という言葉を使ってはならないと言い出した千葉市が当てはまります。
 この手の連中は規制する言葉や表現が差別につながると主張して使用を禁じようとしますが、むしろ彼らがそう主張するから差別用語とかになっているとしか思えません。それどころかこうした主張を援用するならより多くの言葉や表現が規制されかねず、いわば限度のない議論へと発展しかねないリスクもはらんでいます。そもそも、こうした連中が規制する言葉や表現が差別的かと言われればそうとは思えないものばかりです。

 ある意味、最初に挙げた赤い血液を描いてはならないとする連中もこのタイプに属すでしょう。この手のタイプはその表現が差別的だとか問題があるかを真剣に考える前に、「とりあえず当たり障りないよう批判が来そうなものは全部排除」的に過度に反応して決めていることが多いように見えます。私に言わせれば、現実を否定すること以上の差別はないとは思うのですが。

タイプ2、現実を直視したくない、対策を取りたくない人たち
 表現というよりかはこちらは実務面に近い話となります。でもって、知人が指摘した特徴はこのタイプに属すでしょう。
 まず大前提として、現実というのは基本的に見るに堪えないもので、直視すればするほど苦痛を催す物象であります(例:「アイドルはおしっこをしないわけがない」)。また厳しい現実を突きつけられ、その状況から脱するためには現実に即した対策を取る必要がありますが、基本的にそうした対策というのも身を切らざるを得ないものばかり、というかものしかなく、対策の実施によって失うものも少なくありません(例:リストラ、口封じ)。

 そうした厳しい現実と迫られる対策から逃れるためにはどうすればいいかとなると、現実から目をそらし、夢想の世界へ逃げることこそが一番安直な道であることに間違いありません。私が見るに日本人はこの手の現実逃避が非常に得意で、高齢化問題を初め厳しい現実があっても目をそらし、やるべき必要な対策もはっきりわかっていながら実行するのは大変だからと、簡単即座にすぐできるやってもやらなくてもいいようなどうでもいい対策を打って、「対策打ったからこれでもう大丈夫!」と精神の安定を図ります。
 最も偉そうに言う私もそうした思考や行動がないわけではなく、また日本人でなくても人類すべてが「現実から目をそらす」という行為を多かれ少なかれやってしまうものだと思います。日本の場合、エリートまでもがそれやってしまうのは問題だとは思いますが。

 以上の2つのタイプはどちらもその言動によって現実をゆがめる可能性のある人の特徴を説明していますが、はっきり言えばこの2つは現実を歪めるのは消極的な動機からなのでまだ救いがあります。
 特にタイプ2は人類の現実に対する弱さ的なもので、旧日本軍指導者のような集団を束ねるエリートがやってしまうのは大問題ですが、近くにいたらはっきり言って迷惑であるものの個々人でこうした言動を取ってしまうのはある程度仕方のないところがあります。第一、冷たい性格した人の表現として「現実的(リアリスト)な性格」というのですから、現実を追えば必然的に孤高となるのでしょう。

 一方、以下のタイプ3については別問題です。

タイプ3、自己利益拡大のためにわかっていながらわざと現実を歪める
 具体例としては出所不明の新ルールを作って流布するマナー教室、同様に明らかに合理性のない説明で何かを貶める記事を流布するメディアです。マナー教室については先にも書いた「了解という言葉は不敬」だとか、「ハンコは斜めになるよう押印する」、「訪問先で出されたコーヒーを飲んではならない」などと、コミュニケーションを阻害するようなそれまでになかった新ルールを出す連中で、後者のメディアは最近だとオフィス北野社員を偽装した上でその発言を報じたフジテレビです。あれも恐らく劇団員だろうな。

 このタイプ3は完全に自己利益の拡大のために敢えて現実とは一致しない情報を流布したり、表現規制を作ったりすることで注目を浴びようとするタイプです。このタイプは紛れもない悪であり、その言動のみならず存在自体が社会にとって有害であり、たとえどのような手段を取ってでも排除すべき対象だと私はみなしています。彼らがいることでそれまで誰も気にしなかった行動や発言がある日突然人を不愉快にさせる者になったり、もしくは誤った情報で批判される必要のない無辜の人や団体を批判に晒したりと、現実を歪める行為の結果として歪な事態を招きます。

 ここだけの話、最近私が係っている中国関連報道などもいい例でしょう。仮に私がそれこそ中国について見下す、馬鹿にする、あげつらう記事をなるべく理不尽且つ不合理な理由をつけて量産していたら、今頃は「中国報道の第一人者」と言われるくらいに売れっ子ライターになっていたかもしれません。まぁでっかく出ると「派遣マージン率の第一人者」であるという自覚は内心あるけど。
 しかし言うまでもなく、私はそうした報道を行えば収入も社会地位的も向上することが分かっていながら、そうした行為に手を染めてきたことはありません。何故なら理由のない批判や現実に即していない報道は巡り巡って自分にとってマイナスとなることが分かっているから、などと大層な理由を付けずとも、普通にそんなことする奴は頭がおかしいでしょう。けど現実のところ、「中国は崩壊する」とノストラダムスのように毎年本出しているライターがいて、売れっ子となっているのは事実です。

 しかしそれこそ前述の通りに自らの精神安定のために現実を歪めて見ているだけに過ぎません。第一、敵を侮らせるほどの利敵行為はなく、現実から遠ざかれば遠ざかるほど単純に弱くなります。そうした概念もあってか、私がJBpressで書く記事は「如何に現実を見せるか」に重点を置いていつも書いています。

 多少脱線しましたが、自己利益のために現実を歪める、ましてや表現を規制するような輩はたとえどのような理由があろうとも私の敵以外ほかならず、決して同じ天は戴けないと考えています。そしてあくまで私の立場から言えば、こうした連中は本当にどうしようもなく足を引っ張る存在であり、なるべくなら社会から排除した上で見せしめもかねて徹底的に攻撃するべき対象でもあると主張させてもらいます。
 その上で、これも先に書きましたが現実を直視するということは基本、苦痛を伴います。見なければ済む現実であれば正直、見ないに越したことはありません。しかし「見なければならない現実」に関しては、たとえどれだけ苦痛を感じようとも見る必要があります。というのも、目をそらしても一瞬だけ苦痛から逃れるだけで、あとでもっと大きな苦痛に襲われることになるだけだからです。

 さらに書くと、現実というのは見ようと思ってもなかなか見れるものではなく、死ぬ気で追いかけて初めてその一端が見れるものだと私は思っています。自分はライターという立場……っていうか本業記者じゃないですが、芸術家などはやはりそうした現実をどれだけ直視したかが作品に現れるようにも感じ、自分も可能な限り自分が見た現実を文章に反映させようとする立場を取っています。