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2020年12月20日日曜日

菅政権は来年で終わり

ハンパない「間の悪さ」、もうメッキ剥がれた菅内閣(JBpress)

 上のリンクは私の主戦場であるJBpressで舛添要一氏が書いた記事ですが、その内容と時期の良さからランキングでも上位に入っています。真面目にこの舛添氏と元韓国大使の武藤氏がJBpressで記事出すようになってから執筆陣がどんどん豪華になり、JBpressの格も跳ね上がって、私もアクセスランキングでトップ取れなくなっていきました。たまに本気で、「こいつさえいなければ(´・ω・)」と思うときがあります。

 話は本題ですが、上の記事で書いてある通りに世間の批判を受けてGoToキャンペーンを中止した菅内閣ですが、年末年始の移動を控えたこの時期にわざわざ中止するなど混乱に輪をかけた上、自分たちは多人数で会食するなどして無駄に反感を買っています。そのおかげもあって支持率はウナギ下がりで、あっさり支持不支持分岐点を割ってのけて見せました。
 私はこのブログで菅政権発足当初、やろうと思えばすぐできる省庁業務改革とコロナ対策だけやっていれば、経済成長を果たさなくても国民は許してくれるというイージーモードで発足した政権だと評しました。前者はともかくとして後者はご覧の有様だよ的な結果に終わり、恐らくこれから冬が深まるにつれ、あと年末年始で移動が起こるのに合わせて、本格的な混乱が始まってくることでしょう。あと誰も言及してないけど高校や大学入試とかどうすんだろう。

 前述の通り、菅政権はコロナ対策だけ真面目にやっていれば国民からの支持を確実に得られました。しかし無駄に業界団体の権益を優先した結果、業界団体が利益を貪った一方で医療現場をはじめとする多くの分野に多大の負債を負わせたといってもよく、こんなんで支持など得られるわけなぞありません。さらに言えば、何故これほど政権運営が楽な状態からこんな大ミスをできるものだと呆れます。
 それこそGoToの中止意見が各自治体から出た際には、「国に決めさせるな、自治体で決めろ」と一時突き放していました。これは国が中止すると業界団体から批判が来るのを恐れた責任回避以外の何物でもなかったものの、結局止めないとどうしようもなくなったので最終的に決断しましたが、私は今こそあの時のセリフを菅政権に突きつけるべきだと思うのですが、この辺野党とかマスコミはまだ甘いなという気がします。

 あとちょっと本題から外れるけど、去年の三月あたりに中国で工場とか稼働させたら、「中国はコロナ対策と経済の二兎を追っている。でもって失敗するだろう」と散々日本のマスコミは書いていましたが、他国より自国にもっと言ってやった方が良かったのではと皮肉っぽく思っています。この辺の話はJBpressでまた書いてもいいですが、中国相手だったら根拠なく批判したり馬鹿にできるという暗黙の了解がやはり日本のマスメディアにはあるでしょう。

 話を戻すと、舛添氏も書いている通りにこのあまりにもお粗末なバタバタ具合から自民党内でも支持を失いつつあるという意見に私も同感です。元々、長期政権になるのか微妙な立ち位置でありましたが、現状からすると菅政権はそんな長く持たず、もって余命一年未満といったところでしょう。
 どうでもいいですが医者になると青魔法の「しのせんこく」が使えるようになるのかもと、何故か上海地下鉄内で無駄にこの前考え込んだことがあります。「くさいいき」と「ゴブリンパンチ」は誰でも使えるけど。

 再び話を戻すと、そういう背景を踏まえるともう自民党内で後継レースは始まっていると言っても過言じゃないでしょう。恐らく次辺りで河野太郎氏も立候補するでしょうが、順当に行くなら岸田氏、あとある意味菅政権が追い風となっているのが石破氏なので、まだ結果は読めません。ただ早ければ初夏六月くらいには総裁選やるかもしれません。ああでもオリンピックは無理やり開催するだろうから、その辺のスケジュールとの噛み合いで秋までは持つかも。

 それにしてもここまで菅総理が決断力ないとは思っていませんでした。発生した問題の切りかわしは上手かったけれども、何かを決めるっていうのは絶望的だったようです。あのまま総理にあらず官房長官で終わっておけば、そんな見方もされるかもしれません。

2020年12月18日金曜日

令和にあっても昭和的?

 今日Yahooトップページのニュース見出しに「パラサイト 1月地上波初放送」と書かれているのを見て、「えっ、あのパラサイトを放送するの?」と胸が高まるのを感じました。ちなみにその1998年公開の「パラサイト」の方は、「B級映画の中のB級映画」ともいうべき素晴らしきB級映画で、この手の無理やりな展開やいかにも大げさな演技やセットが好きな方にはたまらない映画だったりします。何気に俳優は、ロードオブザリングのイライジャ・ウッド、ブラックホークダウンのジョシュ・ハートネット、ワイルドスピードのジョーダナ・ブリュースターなど、その後出世する人がやたら多いのも逆に笑える。

 それで話は本題ですがこれまた上記ニュース見出しを読んで、「令和の時代に『昭和的』?(。´・ω・)」という風に思いました。言葉の使い方が間違っているわけでなく、慣用的に「力ごなし」、「効率無視」、「時代錯誤」などのような意味合いで「昭和的」という言葉は確かに使われていますが、平成も終わったというのにまだこうして使われるものかという疑問が一瞬もたげました・

 何故未だに使われるのかというと、やはり昭和という時代がそれだけ日本にとってインパクトが強かった、並びに年数的にも長かったことが影響しているとみて間違いないでしょう。ただ平成も一応約30年続いたのだから、「平成的」という言葉があってもいい気がするものの、そんな風に使っている文章は一度も見たことがないです。仮に使われているとしても、何を以って「平成的」と例えているのか一見してわかりません。

 ならば昭和の前の「大正的」とは何ぞやとなると「浪漫的」な性格になるのか、「明治的」だったら「文明開化的」な性格なのか、「天正的」なら何でも武力解決しようとするのか、「大化的」だったら母ちゃんの目の前でおっさん刺殺してクーデター起こしそうな性格なのかなど、変に「時代+的」のバリエーションを考え始めました。まぁ見ての通り、どれもしっくりこないというか「昭和的」ほどの納得感が得られません。

 ただそれにしても昭和が終わって30年以上も経つのにオフィスワークに関して「昭和的」という言葉が使われるというのも、なんだか考えものです。日本の初任給のように、日本語もこの30年間で全く変化がないのかなともちょっと思いますし、新しい言葉が多けりゃいいってもんではないですが、折角令和になったんだからこの辺の言葉で新しいのはもう少し出てきてほしいものです。

 最後に今ぱっと思いついたけど、「ローマ的」と書けば古臭さを感じないことに気が付きました。なんとなく顔の濃い人に使われそうな言葉ですが。

2020年12月16日水曜日

未だビジョンなき日本

 昨夜この動画を見て、最初に出てくる豆腐の声によく似た後輩のことを思い出してました。っていうかカプコンはわざわざ声を新録するために退社した従業員を改めて呼びつけたあたり、よくわかってる気がします。マジあの音声は唯一無二。

 話は本題ですが、年末年始に編集部困らせるのもなんだし、自分も楽に過ごしたいから、猶予はまだ2週間あるけどまた今週末にJBpress用の記事書こうかと準備しています。いくつかあるネタの中で会えて今まで書いたことない日本の政治ネタでもやろうかなとも考えており、もしやるとしたらで浮かんだのは「日本の平成期の政治は全て『バブルを如何に取り戻すか』に立っていた」という自分のかねてからの主張でした。ごく当たり前の事実だけど、はっきりと言葉にしている人はいないのでこの言葉はそこそこ受けるのではないかと考えたからです。

 わざわざ言うまでもないですが、はっきり言って平成期は冒頭に起きたバブル景気を、如何にしてまた日本に来させるかという考えでみんな政治を行い、結果的に帰ってきませんでした。帰ってこなかった理由は非常に明確で、バブル景気自体が日本の内的要因ではなく冷戦構造、そしてそれの崩壊という外的要因によってもたらされた要素が大きく、そうした外的要因もなく日本だけが努力したところでまた来るわけないです。というよりも、絶対に戻ってくるはずのないものを取り戻すために多大な費用を投じたけど、残ったのはただ借金だけで、非常に滑稽です。

 さすがに令和になってもうバブルは来ない、というより現状維持も難しいという価値観が一般化したように思えますが、今度は逆に今後の日本のビジョンを誰も持たなくなりました。平成期は前述の通り、「バブルを取り戻せ!」というのがある意味国是であり、政治家と国民で共通した国家ビジョンでした。だからこそバブルを取り戻すためならある程度の犠牲は仕方ないとばかりに、リストラとか昇給なしとかも我慢していましたが、まぁ全部それは無駄に終わったのですけど。

 例えば中国なんかは、「米国を追い越せ、いつか倒す!」的な国家ビジョンがあって、国民もみんながみんなこの価値観ってわけじゃないけど、少なくとも国家指導者レベルはこの方針に従って動いています。しかし日本はそうしたビジョンがなく、一応短期的にはコロナからの脱出がビジョン化していますが、去年までなんか「何のために借金しているのかわからない」状態に案外なってた気がします。平成であれば「バブルを取り戻すための借金」ということでしたが、今はもはやそれすらなく、「使う方針もないけどお金がないからとりあえず借金」みたいに国債を増やし続けています。
 っていうかようやく一般ニュースでも報じられるようになったけど、日銀が上場強全体で最大の株主ってどこの統制国家だよって思います。っていうかあのニュースは年金機構についても触れろよという気がします。

 周りくどいこと言わずにもうチョイ結論を絞ると、今後日本をどんな方向に持って行くか、そうした概念がないので今後もさらに迷走を続けるでしょう。どんな方向ったって現状維持でいいじゃんという人もいるでしょうが、十中八九現状維持は今の日本だとできません。敢えて言えばズルズルと落ちていくことは可能で、国会議員と高年齢層はそうした未来をはっきり望んでいます。

 自分はどうかというと、まぁもう関わりたくないというのが案外本音です。以前知り合った人に、ブログで非常に鋭い見解持っているので期待していたが、日本の未来に対してどうしてそこまで冷淡なのかと残念がられましたが、私自身は日本とその社会に何かしてもらったという覚えは正直ありません。むしろ自分の異能さゆえにしなくてもいい多大な苦労と、軽い迫害を受けたという勝手な被害者意識すら抱いています。
 幸いにして今はこうして中国で安定した立場に就き、20代の頃の苦労と比べると恵まれすぎているという実感をはっきり持っていますが、それ故に逆に20代の頃はどうしてこれだけ有り余る実力に将来を見通す力があったのに、誰も使おうとしなかったのだろうかという疑問が激しくもたげてきています。逆説的に言うならば、周り全てがビジョンを持たなかった中、自分が唯一一人でビジョンを持っていたからこそ煙たがられていたのだろうとも思います。このままでいいと思っている人間に、このままじゃ良くないと言う人間というのは鬱陶しい存在以外の何物でもないでしょう。

 極端なこと言うと、この際日本はできるだけ早く落ちるところまで落ちた方が、最終的に死ぬ人間は少なくなっていいだろうと本気で考えています。落ちるところまで落ちて初めて現実がわかるでしょうし、そこから頑張ればこれから生まれてくる子供たちはまだ余計な苦労せずに済むかもしれないという風に考えています。
 また私個人にとっても、手持ち資産の大半は人民元資産なので、円安してくれた方が日本で買い物とかする上では単純に有利です。適当に安くなったところで奈良に家買って早く引退したいのが本音です。

2020年12月14日月曜日

漫画の文学性に関する評価の少なさ

 さっき家帰ってGmailつけようとしたら例のGoogleの障害でつながらずちょい焦りました。何かトラブルあると中国からだとアクセス制限あるのでいろいろ手間取るから嫌です。

 話は本題ですがこのブログでも何度も取り上げている「チェンソーマン」がアニメ化するニュースが出ましたが、正直何も驚きありません。単行本の8巻と9巻の刊行ペースが普段より遅かったため予感あったのと、これだけの作品だからアニメ化しないわけないとみていたので、何を今更的な感すらあります。ちょうど「進撃の巨人」がもうすぐ最終回を迎えるタイミングとあって、漫画界の主役転換の時期にあるのでしょう。

 さてそのチェンソーマンは「この漫画が凄い」という賞でトップ取ったそうですが、「次に来る漫画」とか「男がはまる漫画」とかそういった漫画ランキングが毎年どこかしらで行われていますが、この手のランキングってどれ見ても基準が面白いか否かで、男女のどの年齢向けかで分けられているに過ぎません。逆を言えばプロ野球みたく分野別の評価は全く行われておらず、はっきり言ってしまえば売れるかどうかの浅い評価で決まっている感があります。
 もちろん売れることが漫画にとっては至上命題であり、梶原一騎の「俺の本はノーベル取った川端康成より売れてるぞ」という、多分悔しいから言ったセリフはまさに真理だと思います。どんなに批判評価が多くても、売れたものが一番偉いというのがこの手の世界の原理です。

 ただ、ランキングなり評価というのは埋もれているけど実はすごい作品を引き上げるという役割もあります。芥川賞も当初はそうした目的で、あくまで新進作家の奨励賞的だったのですが最近は「如何にして作品を売り込むか」という目的で売れそうな「キャラ」な作家を選ぶ賞に成り下がり、日本の小説から文学性というものがどんどん薄れていくことなりました。ぶっちゃけ、あと20年は盛り返すことはないでしょう。

 それで話を戻すと、ふと考えると文学性を評価する漫画賞とかないなと気づいた次第です。そもそも文学性とは何かですが私の定義は以前書いたこの記事のように、物語とを推しての追体験、疑似体験の深さや汎用性、そして究極的な選択問いがあるかだと考えており、この定義に照らすなら文学性を盛った漫画はあってしかるべきです。

 文学性を盛った漫画の議論となるまず出てくるのは「寄生獣」で、私自身もこの作品は「捕食者と非捕食者の逆転」というテーマで、現代を舞台にした世界で疑似体験性も高く、下手な文学小説よりもずっと文学性を備えていると私も見ています。そのほかの文学性を持った作品というと、世界的名著を漫画化した作品が挙げられることがありますが、そうしたものよりテーマ性で見るならあんまこの手の議論で見ないけど手塚治虫の「火の鳥」とか来るかもしれません。もっとも私は断片的に読んだ限りであまりこの作品にのめり込めなかったですが。
 なおソ連人民の敵であるうちの親父は火の鳥の初版本かなんか持ってたらしいですけど、小銭欲しさにあっさり古本屋に売って、あとで後悔していました。

 このほかシュルレアリスム的な漫画であればつげ義春の作品がそれにあたり、あと歴史大作で言えば原作付とはいえ横山光輝の「三国志」などは十分な文学性を備えた傑作と言えるでしょう。歴史系の作品であれば他にも注目すべき作品はあり、贔屓も入りますが詫び寂びの概念と当時の文化的転換を描いた「へうげもの」などは、独自解釈も含まれており20年後も読まれ続けるのではと思う傑作と考えています。

 翻って先ほど言った疑似体験性の面から見て文学性の高い作品を他にあげるとしたら、地味にジャンプで連載していた「暗殺教室」はもっと評価されていいと思います。一見エンタメ作品に見えますが私が考えるこの作品のテーマは「後悔」であり、「あの時ああすればよかった」、「なんでああしなかったんだ」、「だからこそ、二度と同じ過ちを犯してはならない」というテーマを、名門校の落ちこぼれ生徒たちを軸にして描いているように思え、少年少女向け作品としてみれば稀に見る傑作であったと密かに評価しています。

 このように、文学性に着目した漫画賞というのはまずこの世にないでしょう。一部の漫画評論家はこうした文学性に着目した批評を寄せていますが、それでも世間の漫画の文学性に対する目はまだまだ少ないでしょう。もっとも漫画自体をそんな文学性とかなんちゃらで高尚化していいものかという葛藤は私にもありますが、本来文学性というのはそんな高尚なものではないはずで、作品を面白く読めるとっかかりになるメリットもあると思うので、もうちょいこっちに目を向けてもいいのではというのが私の意見です。

 なお芸術性に関して私は、「どれだけ長く愛されるか」がバロメーターだと述べ、10年、20年先まで読まれるかが非常に重要と以前から書いています。先ほどの「へうげもの」はそうした意味で芸術性が高いと考えているのですが、ひょっとしたら意外に芸術性が高いのではと思うもので、「彼岸島」があります。
 最近に至っても「今のパーティが最強だよな」とか「糞みてぇな旗がまた出てきやがった」など関連掲示板で激しく盛り上がっていますが、なんていうかあの不条理さと意味不明なセリフ、でもって全体ストーリーは遅々として進まないのに無駄にスピーディに進む展開は、意外と100年後くらいに「21世紀漫画における奇書」として評価されるのではと思うようになってきました。最近も建物の中で「行くぞ」と言った次のコマで「ザブ・・・ザブ」とイカダで漕ぎ出す場面になるなど、言葉で言い表せない「え、そんなんありなの?」な展開は逆に凄いような気がしてきました。

 その彼岸島で個人的に残念だと思うのは、オンラインゲームが存在しないことです。それこそ「彼岸島オンライン」みたいなタイトルで彼岸島の中を人間と吸血鬼に分かれて互いに殺し合うゲームにすれば、原作のセリフを連呼するファンですぐ溢れかえるんじゃないかと思います。戦闘も、そこらへんから日本刀とか丸太が生えてきて拾えるようにしても「原作再現!」と逆に評価されるだろうし、適当なゲーム設定であっても彼岸島の世界なら許されるでしょう。なんで誰も作らないんだろうか。

2020年12月13日日曜日

不思議な活況



 上から午後2時、午後3時ごろの写真ですが、先週金曜からスモッグが出て久々にこんな感じの濁った空になってます。久々と書きましたがリアルにこんな天気みるの超久しぶりで、かつては毎日がこんな天気だったことを考えると、上海の空気は見違えるくらいきれいになっている気がします。

 話は本題ですが、どちらの写真も上海高島屋近くの写真で、今日は特にやることなかったので貴司山やでコーヒー飲んできました。その際にちょっと驚いたというか、以前と比べて明らかに人の入りが多く、傍目には繁盛しているように見えました。
 上海高島屋については去年八月に一時閉店を発表したものの、その後地元政府などの要請や支援発表を受けて営業を続けることとなりました。とはいえ一時は清算に向けて準備していたし、またその後の今年一月からはコロナの影響を受けて内心素直に閉店しておけばよかったのではと思っていたのですが、今日見た限りでは割と好調そうに見え、また店員の表情も心なしか明るそうに見えました。

 実は先週金曜の夜も因縁のとんかつ屋(かつ蔵)に行っているのですが、この時も金曜とは言え平日夜にもかかわらず割と客が来ており、地下スーパーも割と賑わっていました。年末だしそうしたものなのかなと思っていましたが、今日午後も相変わらず人が入ってて、なんていうか不思議さを感じる好調ぶりです。
 今日入った喫茶店(青山珈琲店)も、広くはない店内ですが客席は全部埋まっており、自分もカウンターに腰を下ろしました。その後も出る客がいると入る客がいるという好循環を維持し、比較的高めの値段設定(コーヒー一杯48元=約570円)であることを考慮すると、繁盛していると言っていい水準でしょう。

 背景理由について推測すると、単純に中国での消費熱が高まっているせいではないかと思います。やはり中国人から話聞いていると、「海外旅行に行けないのがつらい」と話す人がかなり多く、海外旅行で使えないお金が国内消費に回っている印象があります。上海高島屋みたいな比較的高級品を扱うお店からしたら、消費者の消費ゾーンが引き上がったことによって上手いこと取扱商品とマッチするようになってきているのかもしれません。

 なお今日はコーヒー飲んだ後にそのまま地下スーパーで買い物しましたが、自分も熱気にあてられてかなんか無駄に高いお茶とかカシューナッツ買ってしまいました。地下スーパーも割と活況で、特に生鮮品売場なんか店員がやる気満々でいちごとか売り込み、レジの人も前と比べるとなんかモチベーションが高いと感じました。あくまで印象論でJBpressの配信記事とかにはこういうこと書けませんが、そういうの書けるってのもある意味ブログの強みだと最近思います。

2020年12月12日土曜日

やや不遇だったトヨタのWRカー


 というわけで今日作ったのは、頭文字Dでもやられメカとして出てくるセリカGT Four(T200型)です。なんで作ったかのかというと、お店で見かけた以外の何物でもありません。



 アップロードする段階で気づいたけど、ボンネットがちゃんと閉まり切っていません。その理由はこの後の写真で。



 このキットはボンネットが開閉できる仕様になっており、また内部のエンジンもきちんと再現されています。明けた後、妙なバリがあってちゃんと力入れないと閉じてくれません。


 こっちがボンネットきちんと閉じた状態です。

 このセリカですが、実は写真撮るのにめちゃ苦労しています。ボディが真っ黒で、尚且つデカールもそんな多くなかったしヘッドライト部分もかなり奥まっているため、強く光を得てて撮影しました。最後の写真のみ、橙色の照明のある部屋で明かりをつけ、その逆行をつけるような感じで撮影しています。

 車自体の解説に写ると、今年はトヨタはヤリスを使ってWRCで勝ちまくりましたが、ヤリス以前のトヨタのWRカーというとこのセリカシリーズが使われていました。中でも今回のT200方のひとつ前であるT180型は日本勢として初めてマニュファクチャラーズチャンピオンに輝くなど、日本のWRC三選をけん引した名車でした。
 しかしこのT200型はレースカー開発が遅れた上、ようやく参戦したかと思ったらレギュレーション違反となる改造がしていたのがばれて、1年間の出場停止が科せられ、処分が終わった後に豊田はセリカ使わずカローラをWRCに使うに至っています。

 単純にレースカーとしての性能が足りてなかっただけかもしれませんが、やはり先代までのセリカと比べると極端に印象の薄い車です。車としての人気もそれほどあったようには思えず、地味に90年代スポーツカーのリバイバルブームが起きている現代にすら、このセリカの名前を見ることは一度としてありません。
 なぜ人気がなかったのかというと、上述のようにレースであまり活躍できなかったこともさることながら、やはり同時代にランエボ、インプレッサという性能的にも価格的にも今考えるとかなりオーパーツなビッグなライバルがいて、埋もれてしまったからじゃないかと個人的に思います。真面目に90年代の時点であれだけの性能盛った4WD車が今のカローラの最上級グレードの価格で買えるとか、いろんな意味であり得ないです。

 それでも今回このT200型セリカを手に取ったのは、その特徴的な4つの丸目ライトによる超オラオラ系のフロントマスクが気になってたからです。普段のトヨタは対応する顧客ゾーンを広くとるためにいい意味で手堅い、悪い意味で地味なデザインを取りがちなのですが、時たま「わかったよ、オラオラ系作りゃいいんだろ作りゃよ―!」と、逆ギレしたかのようにやたらいかついオラオラ系デザインを出してくることがあります。このセリカなんてまさにその典型で、トヨタらしくないトヨタ車という点で、一回じっくり見てみたい欲求がありました。

 ただ今回こうして作ってみて、やっぱり車のプラモは作り方がほぼすべて同じっていう点で段々飽きを感じてきました。まだ戦闘機の方が形も機種によって大きく異なっているだけに、何度作ってもまだ楽しめますが、車、特にスポーツカーはもうそろそろいいかなという気がしてきました。まだワゴン車とかコンパクトカーとかなら面白そうだけど、ぶっちゃけスポーツカーはデカールとフロントしか変わらないことが多い(;´Д`)

2020年12月11日金曜日

政治論点がなにも見当たらない

 このブログは当初、歴史と並んで私が大好きな政治議論を好き勝手に解説するために作ったものですが、最近自分で書いときながら、政治カテゴリの記事がほとんどないような気がしてなりません。大体今年に入った辺りからその辺気にするようになって意識して政治記事を書こうと努力し始めたものの、今のところその努力はてんで実っていません。

 あと関係ないけど今、部屋の湿気が気になるので窓全開にしています。外気温は9度だからまだそんなに寒くないし。

 話を戻すと、政治気が少なくなっている理由について昨日コメントをぼーっと見ていて気が付きましたが、そもそも政治議論の種となる政治論点が直近1年くらいはほぼ何もありませんでした。それこそ昔は財政立て直しか景気対策優先か、格差是正はどうするか、消えた年金はどうするか、原発再稼働をどうするかとか社会が一定の関心を持つ政治論点がありましたが、マジで最近は翼賛会かよと思うくらい政治に関する議論がなにも生まれず、私も政治記事を取り上げることがなくなりました。

 一体何故こうなったのかというと理屈は非常に単純で、野党が与党政治家のスキャンダルしか国会で追及しなくなったのと、政府や省庁が出した政策に対して代案を出さないどころか、批判すらしなくなったせいで間違いないでしょう。かつては「代案を出さずに政府の政策をただ批判するだけ」と野党は揶揄されていましたが、最近に至っては私が見る限り、批判すらせずに「うん、そーだね(´・ω・`)」的になんか素通りさせることが多いです。っていうかぶっちゃけ、政府政策の内容自体把握していないのではないかという気すらします。

 一応、敢えて現代で論点を挙げるとしたら、「GoToを続けるか否か」ってのが唯一挙がってきますが、本当ならこうした議論以前に、「経済か、コロナ対策か」が来なきゃいけないのですが、こっちは今の日本では争点にできないでしょう。それこそブチャラティみたく、「経済も回す、コロナも抑える。どっちもやらなきゃいけないのが、幹部のツレーところだ」的に、相反する方針を同時に回して二兎を追うしかできないし、どちらかを優先するという概念や考えは全く見られません。故に争点にもなりません。

 一応政策的には省庁の効率化、ハンコ廃止などがありますが、これについては野党もダンマリというかさすがに世間で必要とされていることから批判する素振りはみられません。しかし、私にいわせりゃもっと優先すべき課題なり議論する話なりあるだろうって気がするのですが、なんかそういうのは全く出てこないし、あと一時話題、っていうか民主制以降の永遠の論点でもあるはずの格差議論すら最近見ません。

 割とマジで大丈夫なのかと日本の正気を疑っているのですが、コロナの影響で非正規雇用がめったくそ切られる一方、正規雇用は未だ増加し続けています(男はようやく減少に転じた)。言ってしまえば派遣をはじめとする非正規雇用者が鉄砲玉、というより弾避け代わりに使われているにもかかわらず、野党を含め誰も言及しないし、派遣切り対策なり切られた人の補償問題も出てきません。
 あと関係ないけど株式会社ニートはなんか内輪もめとかでやっぱりうまくいってないようです。

 この辺、再来週月曜に出る記事で少し触れていますが、雇用が不安定で首切に遭うリスクが高い非正規雇用の方が、何故だか正規雇用より切られた時の補償が少ないというのは、ふつう逆じゃないのとかちょっと思います。そうした議論や国際比較すら今の日本では全く行われず、それどころかその他を含め政治論点が全く出てこない今の状態は、コロナの影響抜きにしてもさすがに見ていて不安に感じます。

 さて、そろそろ窓閉めよ。