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2022年10月7日金曜日

フィルムを持ち歩いていた時代

戦場写真はどうやって撮影、メディアに配信されているのか?(JBpress)

 自分の主戦場ことJBpressで、どういう伝手かわからないけど戦場カメラマンの渡部陽一氏が寄稿していました。内容は主にフィルムカメラからデジタルカメラへの移行期である2000年前後について触れており、デジカメに移行する前は常に大量のフィルムを持ち抱えて戦場に入らなければならず、時には密輸業者に間違えられたことなどが書かれています。

 自分まだ子供だった頃はフィルムカメラを実際手に取っていた世代であり、またデジカメへの移行も目の当たりにしています。そんな自分からすると渡部氏の苦労話はまだ肌実感のある話なのですが、男百個ともいうフィルムを抱えて戦場を走り回っていたというのを聞くとなかなかにその苦労が偲ばれます。
 実際渡部氏もデジカメが普及し始めた頃、これは便利なものだと思ってアメリカ人にならって自分もすぐ調達しようとしたそうです。しかし調達しようにも高解像度のデジカメは当時まだ高く、仕方なくフィルムカメラをしばらく使っていたということも書かれています。

 そのデジカメですが、この2022年においてはとうとうレンズすらなく、全部半導体で処理するミラーレスカメラが大勢を占めるようになり、ニコンやキヤノンも確か去年は一眼レフカメラの新製品を一つも出していなかったと思います。カメラ屋の最後の牙城たる一眼レフカメラすらも今やその存在は危ういのですが、そのデジカメ自体もスマホに搭載されているカメラの性能向上に伴い、市場は長年縮小を続けています。
 かくいう私も10年前に買った富士フイルムのコンデジはここ数年全く手に取っておらず、さっき久々に開けてみたらシャッター部分が多分手の脂のせいかやたらべたべたするようになっていました。洗えば何とかなりそうだけど、それ以前に電池がもうへたっててほとんど充電できない。

 実際私自身も、記事に使う写真やブログに挙げるプラモの写真はこのところ全部スマホで撮影しており、あんまデジカメを使う機会がないです。ただそうは言うものの、このところプラモの写真を撮り続けてようやく気が付きましたが、やはり接写だとスマホのカメラはやや弱いというか、輪郭部などがぶれやすく、また光の加減に対する調整もデジカメと比べると顕著に弱く、拡大に至っては比較できないほどの差があります。
 そういうわけでコンデジでもスマホよりはもっといい写真撮れるので買いなおして使ってみようかなと思い、さっきAmazonを除いだところ、もはやコンデジはほとんど商品が流通しておらず、品目数が極端に少なくなっていることに今更ながら気が付きました。

 仕方ないので富士フイルムの交換用電池を調達するか、中古の製品で新たに仕入れなおすか、そんな好きじゃないけどソニーのカメラにするかで少しお悩み中です。さすがに一眼レフだと持ち運び大変だし。

2022年10月6日木曜日

曹操はいつ簒奪を考えるようになったのか

 例によって中国史の再復習している最中、曹操はいつから漢朝に対する簒奪心を覚えるようになったのかが気になってきました。

 お話の三国志演義の中だと曹操は登場シーンからして野心満々な人物に描かれ、その後の行動や発言にもブレなく、本来主である献帝に対しても不遜な態度を取りまくります。しかし実際の史実で見ると、少なくとも若年時は尊王の志も高く、朝廷に対する意識も周囲より高いと伺える行動が見られます。
 具体的には、一番最初の反董卓連合結成時の行動です。董卓を叩くため各地の諸侯が結託するも、みんな自分の兵を失いたくないから率先して戦おうとしない中、自ら進み出て董卓軍と戦ったのは孫堅と曹操だけだったそうです。もっとも曹操はすぐ負けたのに対し、孫堅は呂布相手にも打ち勝って、董卓が長安に逃亡するきっかけになるほどの大活躍を見せましたが。

 少なくとも上記の時点では、もしかしたら打算あってのものかもしれませんが、朝廷に対する深い忠誠心を持っていたと思える節があります。実際そうした姿勢を見せたからこそ、漢朝復興を目指す荀彧などの名士が曹操の陣営に参加するようになったとも言え、実際に曹操配下の人材は曹操を助けるというより、曹操を通して漢室を復興させることが目的だった人物が少なくありません。

 しかしその後の歴史を見ると、曹操は皇帝である献帝の皇后を、彼女の父親が生前に曹操の暗殺を目論んでいたという理由で処刑し、また荀彧との決裂の原因にもなった「魏王」という爵位を受けるなど、漢朝に対する露骨な簒奪プレイを見せるようになります。最終的に彼は「周の文王でやめとくよ(´・ω・`)」といって、自分自身は止めの簒奪はやらずに最後の一手は息子の曹丕に任せていますが、上記発言が出る辺りは確実に簒奪の意思を持っていたと言っていいでしょう。

 仮に曹操が反董卓連合時点ではまだ忠節を残していたとしたら、一体いつから彼は漢室に見切りをつけるようになったのか。考えられるポイントはいくつかあります。

・董卓軍に敗北した際
 前述の通りに曹操は孫堅とともに果敢に董卓軍に挑むも惨敗し、その後連合から離脱して勢力の充実化を図るため引きこもっています。この間に戦ったのは自分(と孫堅)だけだったことや、こんなに頑張っているのに報われない等の思いから、漢室への忠誠をなくした可能性が考えられます。

・献帝保護時
 董卓が死んで李確らが支配するようになった長安から逃亡した献帝は曹操によって保護され、これ以降は曹操が朝廷の権威を思うがままに使えるようになります。この段階で漢室を再興させるよりも、好きなだけ利用して天下取ったろ的に野心を拡大させた可能性もあるでしょう。
 ただ、保護当初から献帝は早々によってないがしろにされていたことを自覚していたようで、「敬う気がないならとっとと退位させてくれ」と献帝自身が早々に述べたと伝えられています。これ以降、曹操は献帝に会うのを控えるようになったとされ、状況から考えると献帝保護以前から既に忠誠心を失っていたと考えるべきでしょう。

・暗殺事件発覚時
 曹操には二度の暗殺計画が企図されており、一つは董承によるもの、もう一つは伏冠によるもので、どちらも献帝の指示によるものされています。どちらの事件も発覚時に関係者は妊婦を含む一族もろとも処刑されていて曹操の怒りぶりは傍目にも相当なものだったと伝えられていますが、恐らく曹操もその指示役が献帝だということを知っていたとされ、担いだ神輿の上から殴られそうになったという思いから、この辺で愛想が尽きたというか忠誠を失った可能性もあるでしょう。
 まぁそれ以前からかなりやりたい放題だったからこそ、暗殺が企図されたわけなのですが。

 自分の見方だと最初の董卓軍敗北時が可能性としては高い気がしますが、人情的には暗殺事件がきっかけという可能性も捨てきれません。それ以前に、曹操はハナから漢室簒奪の意思を持っていたという従来の見方も否定できないわけですが、この辺は曹操本人に聞くよりほかがありません。

2022年10月5日水曜日

その差はふすまにあり

 8月までと違い9月は比較的仕事が落ち着き、会社でもゆったり過ごす時間が増えたのですが、翌手が空いた時にライフルホームズで奈良市とマッドシティこと松戸市の物件情報を見ていて、会社用PCにもブックマークしています。なんでこんなことしているのかというと家賃相場とかが動いている用を見るのが単純に楽しいのと、間取りを見て、自分ならどんな風に内装を整えるかを考えるのが楽しみだからです。

 もっぱら見る間取りとしては2DKまたは2Kで、これだとリビング二つあるから片方を生活・仕事用、もう片方を趣味用(半客間)として内装を整えられるからです。2LDKでもいいっちゃいいのですが、2LDKだと二つある部屋のうち片方が広く、もう片方が狭いというパターンが多く、上記の様に部屋の用途を分けるなら2DKで探す方がいい感じの物件をみつけやすいです。

 このほかの検索条件としてはやはり歴史好きとあって和室は外せない、っていうか寝るときは常に畳の上で寝たいという個人的嗜好から、和室のない部屋はその時点で除外しています。まぁやろうと思えば、フロア畳を敷き詰めて無理やり和室を作れないこともないのですが。
 ちなみに中国には床の上に布団を敷く文化なぞなく、いつもベッドの上で寝ています。別に悪いわけじゃないのですが、やはりベッドがあると寝るとき以外も部屋の面積を大きく占有されるので、布団をたたんで敷いて押し入れに入れるまたは半ソファ代わりにする方が利便性がいい気がします。

 話を戻すと、やはり奈良市と松戸市(具体的には松戸駅周辺)で比べると同ランクの部屋でも松戸市の方が家賃が高くなります。マッドシティの分際で生意気だと思うほか、松戸市のぶっけんひゃ家賃が高い割には魅力的な部屋は実は少なく、室内写真を見ても「ああどんな家具を置こうか」などというワクワク感があんまり昂じてこない部屋が多いです。
 その点、奈良市は県警の質がガチ低いけど家賃も安い上、室内写真を見ていても趣を感じるというか、ああこの部屋とか住んでみたいと感じる部屋が多かったりします。特に上記に挙げた和室の質感で言えば圧倒的にマッドシティを上回っており、一体なんでこれほど奈良市の和室の方がいいと感じるのだろうと前から自分でも不思議でした。

 いろいろ分析した結果を述べると、一つは窓の配置が大きい気がします。松戸の物件の場合はそのままベランダに出られる開口の広い窓が多く、採光性とかレイアウトを完全に無視しているケースが多いです。反対に奈良市の和室は採光重視な開口の小さい窓が割といい感じな箇所に取り付けられていることが多く、この窓配置一つでもマッドシティの文化度の低さが見て取れます。

 そしてもう一つの要因が、見出しに掲げたふすまです。和室の入口、または別の部屋との仕切りにふすまが使われているのはどちらも同じですが、松戸の場合はほぼ100%といっていいくらいふすまに何の模様もありません。基本白かアイボリー一色、若干変哲のない戸板にも見えなくもないです。
 それに対し奈良の部屋は、白一色のふすまもないわけではないものの、ほとんどの物件の室内写真に出てくるふすまには稲穂や山景など何らかの模様が入っていることが多く、このふすまの模様一つでも雰囲気が全然変わるというか、落ち着きさがまるで違います。

 我ながら細かいと感じる点ですが、やはりふすまの模様一つあるかないかで言えばある方が和室の趣は大きく変わってくる気がし、絶対あった方がいい気がします。恐らく奈良のオーナーはその辺をちゃんとわかっているのか、ふすまも含め和室の最低限の部屋作りをあらかじめ行っているのではないかと思います。
 それに対しやはり歴史的な重みの違いが大きいと思いますが、文化度で劣る松戸のオーナーは恐らくふすまにはコスパしか考えず、何のへったくれもない無地白一色を選んでいるのではないかと思います。ふすまは閉じている時は壁の一部となるだけに、目立ちすぎる色や模様はさすがに控えた方がいいと思うものの、薄い模様は和室そのものを映えさせるだけに入れない手はないと思います。

 このような目線で改めて両市の物件を比較すると、やっぱり松戸の物件は所々コスパ重視で手抜きと感じる点が少なくなく、それほど多くはないものの物件写真の撮影の仕方一つとってももっとまじめにやれと思う物件もあります。写真の撮影角度や網羅性は結構重要な気がします。

 はっきり言えば、やはり文化度で言えば自分は関東より関西の人の方が高いと感じており、部屋に関しては細かい点で多少コストがかかっても必要な措置を取り、安易な作りにはしない気がします。関東の人は逆に、機能性を重視するので部屋の間取りの有効利用面では強いものの、やはり無味乾燥とした部屋にしてくるなと思います。

 かつて学生時代に自分は住んでいた部屋に、ともかく物を置かず、座った状態で目線より高い位置に何か視界に入らないように努めていました。その部屋は割と友人らからは好評で、自分の部屋よりも落ち着くといった友人までいましたが、割と部屋の内装はその管理主の文化度が如実に出る空間だと思います。
 そういう意味では、やはり将来はマッドシティよりも奈良市に隠遁すべきかと思いつつ、マッドシティの物件も「大改造をするなら」というコンセプトで未だに眺めています。

久々に龍華寺


 次のJBpress用の原稿も書き終えて時間があり、封鎖期間と繁忙期に失った体力を取り戻すため、また川沿いとかをサイクリングしながら、気がついたら上海市内にある龍華寺についていました。
 連休中とあって人の数は多く、寺側もBGM付きでお経を境内で流し続けるなど行楽モードでした。


 この寺は入場料はいりませんがさすがに悪いと思って線香を買ったのですが、見ての通りお線香もスマホ決済が徹底されています。さすがにお賽銭箱はまだ残っていましたが、これからATM同様になくなり、スマホ決済でお賽銭入れる形になるかもしれません。

お線香の臭い嗅いで塔を見ると落ち着く

境内の端っこの方で猫がいたので撮影

ぶっちゃけかなりでかい


 首をかいているかわいい姿を撮ろうとしたらなんか妙な表情で撮影してしまった。でも実際にふてぶてしいというか偉そうな雰囲気を出している猫で、一通り周囲の人に撮影させたら「はいおしまい」的に入場客が入れない場所に帰っていきました。

2022年10月4日火曜日

成人後に捕まった犯人への少年法適用は必要か?

遺族「私たちは今も事件の中に」 神戸市高2刺殺事件から12年(毎日新聞)

 最近あんま馬鹿にしなくなった毎日新聞の記事ですが、この記事見て前々から感じていたことが自分の中で具体化してきました。

 記事中でも書かれているように、かつて私が「一番真相を知りたい未解決事件」として挙げた神戸高2殺害事件はその事件発生から約10年後、急転直下的に犯人が逮捕されました。捕まったきっかけは犯人が愚かにも自分がこの事件の犯人だったと周囲にほのめかしていたことを警察を掴み、証拠固めを経た上で見事逮捕に至りました。
 ただこの事件、記事中にもあるように犯人は犯行時に未成年であったことから、裁判には少年法が適用される見込みとなっています。この点について遺族の方も不満を呈しており、実際犯行時から10年超経過して成人となった後も逃げていたことを挙げ、その少年法適用に疑問を投げかけています。この遺族の気持ちについては私も強く同感する思いで、少年法の存在理由から考えてみてもやはりおかしいという気がします。

 そもそも少年法というのは、法律の専門家ではないのであんま偉そうなことは言えないものの、精神的に未熟で犯罪を犯しやすい未成年に対し、より更正に重きを置いて刑罰に一定の制限を設けるという趣旨で設置されているものだと考えています。然るに今回の事件を始め一部事件の犯人は時間の経過によって逮捕、裁判時には成人となっており、仮に裁判で少年法を適用して同じ犯罪に対する刑罰に比べ刑罰程度が抑えられた場合、成人に対し少年法を適用するというおかしな構図ができてしまいます。
 また成人に対し少年法を適用するにしても、果たしてそれで彼らが更正するかといったらぶっちゃけしないでしょう。それなら他の成人と同じように通常の刑罰を課す方が、また更正の可能性を広げる気がします。

 そもそも今回の事件の様に、成人後もその犯罪行為を隠し続けていた人間に対し、刑罰を緩和する必要が生があるかといったら私はそうは思わないし、例え犯行時が未熟な未成年だったとしても、成人後もその罪を悔いずに隠していたのなら、一言で言って「狡賢い」人間としか思えず、更正よりも制裁を優先するべきじゃないかと思います。

 以上を踏まえて敢えて提言をすると、少年法の適用はあくまで逮捕時に未成年だった場合に限定するというのはどうかと考えています。具体的には17歳で犯行を犯して19歳で捕まった場合は少年法は一切適用せず、他の成人と同様にその罪に見合った刑罰を課すというイメージです。
 逆を言えば、17歳で犯行を犯した場合、18歳になるまでに逮捕されるか出頭した場合は、少年法によって保護適用されることとなります。こうすることによって、「少しでも刑罰が軽くなるのなら」という心理を働かせて、成人になる前に出頭を促すという効果も得られるのではないかとも思います。

 ついでに書くと、犯行時未成年だったからという理由で実名を報道しないメディアが多いですが、軽犯罪ならともかく殺人や傷害などの重大犯罪得あれば、犯人が成人になっていたら実名報道にしてもいいと自分は考えています。理由は上記と同じで、少年法の保護を適用するに値しないし、その罪を成人として償うべきだからだと思うからです。

2022年10月3日月曜日

取材に対し報酬を支払うべきか?

 大分前ですがある有名な漫画家がメディアからインタビュー依頼が来たことについて、無報酬であることが無礼であるとツイッターかなんかで言及していました。その漫画家からすれば一方的に時間が採られるだけなのに、作品の宣伝になるからといって無報酬でインタビューさせろというのは虫のいい話だとして批判してましたが、自分の意見はこれとは異なり、メディア側の「無報酬」を要求する姿勢の方が正しいと思います。

 初めに書いておくと、この漫画家の主張も全く分からないわけではないし、報酬をよこせと言いたくなる気持ちも理解できます。しかし仮に報酬を要求して出してくるメディアがあったとしたら、確実にそのメディアは腐ったメディアに属すことになります。
 この辺、自分も新聞社時代に厳しく言われたのですが、取材する側が取材相手に報酬を出してしまったら、取材する側にとって都合のいい発言が得やすくなってしまいます。はっきりと要求しないまでも、金銭を受け取った側が無意識に迎合してくる可能性も高く、メディアに求められる中立的な立場が根底から覆る可能性が圧倒的に高いです。そのためにメディアは、例え横柄だろうとケチだろうと叩かれようとも、取材行為に際しては一切の取材料などを提供してはならないということが大前提となっています。

 もっとも、妥協点がないわけでもありません。具体的には一緒に食事をとることはまだ認められており、取材と称して高いレストランに招いて経費で落とすことはよくあります。この行為であれば同じものを取材する側もされる側も一緒に消費するため、自分もまだありなのではないかと考えています。
 ただ食事を奢るにしても、一番望ましいのは取材後の方がいいです。無報酬で取材した後、取材のお礼として食事に連れて行く方がより適切であり、自分は基本こういう手段を取ります。

 以上のような理由から、基本的に取材料を報酬として渡すことはNGであり、取材する側としてはやはり「宣伝になるから」を錦の御旗にするよりほかありません。まぁ不正とかの取材だったら、悪い意味の宣伝になるから攻撃的に要求するよりほかないですが。

 それにしても今日また企業に電話取材かけましたが、どこの広報も理解を超えるレベルの低い対応ばかりで、なんか10年前と比べて企業広報の質がこのところ劇的に落ちてきているのではないかという気がします。基本、広報というのはその場で確実に回答しなければならないというのに、まともに回答できないばかりか回頭時期を引き延ばしたりするなど、本当に専業なのかといろいろ疑いたくなります。

2022年10月2日日曜日

丸くて小さくてかわいい(M41戦車)

 日本も明日以降真夏日予想が出ていますが、上海も先週までの秋めいた空気はどこへやら、ここ3日間くらい夏のぶり返しみたいに蒸し暑い日々が続いています。なのに折角の連休なのだからと今朝は朝早くから自転車に乗って佘山まで往復約50㎞をサイクリングしてきました。
 先月まで仕事の忙しさとその前の上海の封鎖もあってここ数ヶ月はずっと長距離を走れていなかったのですが、上記の蒸し暑さも加わって約3時間しか走ってないにもかかわらず割と疲れ、昼寝したらやたら熟睡出来ました。


 そんで本題ですが連休初日の昨日はあらかじめ買っておいた米国のM41戦車のプラモをまた組み立てていました。


 この戦車は大戦後にロールアウトした戦車で、朝鮮戦争末期に投入されたほかベトナム戦争でも使われています。また日本の自衛隊にも供与されていたことから、デカールには見ての通り自衛隊バージョンも入ってました。
 そのデカールに関しては折角だからと自衛隊仕様にして貼りつけましたが、米軍の五芒星マークの方がかっこいいのかなと思っていたものの、実際つけてみたら上の写真の様に日章旗がモスグリーンの機体の上でかなり映え、予想以上にいい感じになってくれました。


 やはり大戦中の戦車と比べて大戦後の戦車はあんま人気がないのか、このキットも約半世紀前の1970年代に発売されたもので、パーツの精度がやや低かったほかマニュアルも少し見づらいものがありました。とはいっても部品点数自体は非常に少ないこともあって組立自体は容易であり、自分も2時間くらいで組み上げるに至っています。


 前回、ドイツのパンターを組み上げた際に自分は、戦車は小さくて丸い形の方が好きなのではないかという自覚を持ち、丸い形状からJS-1またはJS-2(スターリン戦車)を作ってみようかと当初企図したものの、実際にはこのサイズ見たらめちゃでかくて置き場所に困りそうだから断念しました。


 なら他に丸い洗車はない物かと物色したところ、近くの(家から約10㎞くらい)プラモ屋でこのM41が転がっているのを見つけ、他のキットと一緒に通販で買おうと思って帰宅後にそのプラモ屋が運営する通販サイトを検索したところ何故かアップロードされておらず、仕方なくまたそのプラモ屋に行って買いに行きました。
 そうした妙な段階踏んで買った代物ですが、当初の期待通りに組み上げた際の満足度は非常に高く、これこそ自分が求めていた戦車だとごちては自宅で眺めまわしています。やはり自分は前回の見立て通りに戦車は丸くて小さくてかわいい、具体的には軽戦車の方が好きなんだということを再確認しました。

 それにしてもこの年で自分の新たな嗜好を発見するというのもまた奇縁なものです。もっとも「戦車は丸くて小さい方が好き」という嗜好を自覚したところで、残りの人生で何の役に立つのか全く意味不明ですが。