そんな感想記事をまとめている最中、突然高校時代のある体験を思い出しました。どんな体験かというと、強いて言えば自分の中ではこの「セクシー田中さん」で起きた出来事に最も近い体験だったのではと考えています。
事の起こりは私が高校生だった頃、高校生なのに中二病のまんまで当時私は小説家を目指して、多分今以上に平均で多くの文章を書いていました。書き上げた小説はバインダーに閉じて級友らに回し読みさせていたのですが、ある日ふと毎度毎度単発で書くのではなく、連載形式にしてみたらどうか、定期的な同人誌にして回覧させた方がいいのではないかと思いました。こうすることでほかにも興味を持って小説とかイラスト書く奴がいたら一緒に回覧できるし、自分も定期的な締め切りができてもっと追い立てられて小説書くようになると踏んだからです。
そうして何人かと一緒に準備を進め、確か雑誌名はやっちまった感を出すため「出来心」だったと思いますが、栄えある第1号は無事に出すことができました。確か表紙のイラストとかも自分で描いてました。
それ以前からも回覧させていたとはいえ、こうして同人誌形式にまとめたことで周りの反応は良く、自分も書いてみたいという奴も出てきたのでやる気満々なまま次の第2号も準備し、例によってまた自分が表紙を描いて作ることができました。
ところがこうしてできた第2号を回覧させたところ、級友の一人が何故か「乗っ取った!」と言って、自分の描いた表紙の上に上書きするような形で別のタイトルやイラストを載せてきたのです。その張本人は仲間内の中でややカーストの高い人間だったこともありほかの級友も同調し、「残念だったな、花園」、「早くも編集長を追われたか」などと冗談めかして言ってきました。
ぶっちゃけ、これ書いている現在ですら指が止まるくらい動揺しているのですが、当時の自分のショック感と言ったら甚だしいものでした。向こうが冗談でやっていることはもちろんわかっていたし、本気で雑誌を乗っ取るような意図もなければやる気も創意もないことも承知していました。しかしそれを知っててなお、自分が一から作った創作物をこのような悪ふざけで台無しにしようとする人間がいるものか、またそれを止めようともせず同調する人間しかいなかったという点に、端的に言えば絶望しました。少なくとも、丹精込めて書き上げた表紙イラストは上書きされて完全に台無しにされてましたし。
その後どうしたかというと、回覧が終わって自分の手元にバインダーごと戻って来るや自分はその同人誌第2号を全員の見てる前で全部真っ二つに破きました。なんでこんなことをしたのかというともう自分自身にこれ以上続ける気力がなかったのと、平気で他人の創作物を汚すことのできる人間がいるというあきらめ感から、もう作ることはないだろうというのが正直な気持ちでした。その上で張本人を含むほかの級友らに「乗っ取ったというのだったらせめて自分たちで同じようなものを作ってみろ」と告げてその場を去りましたが、言うまでもなく、その後彼らは何一つ創作物を作ることはありませんでした。
真面目にこの時の絶望感たるや半端じゃなく、誇張ではなく首吊ることすら本気で考えてました。自分の創作物を台無しにされたということよりも、人が頑張って作った創作物をああも汚すような行為を平気でする人間が当たり前のように存在している事実の方が自分にとってはショックで、マジでこの時は数日間、帰宅後は自宅で寝込み、何をする気力も湧かずしばらく無為に過ごしてました。
なお当時級友らは自分が極端な行動を取ったとして謝るどころか自分を批判するようになり、自分も彼らとの交流を一時断ちました。その後、仲介に立つ人間を選んで自分が当時このように考えたと伝えた上で和解に至りましたが、若干自分が無駄に折れたと今は考えており、あくまで孤高を貫くべきだったのではないかという後悔をやや持っています。
以上の経緯はあくまで自分の中二病体験ですが、それでも自分が経験した中では今回の「セクシー田中さん」騒動の原作者立場に最も近い体験だったのではないかと思います。その上でこの事件の当事者である日テレのプロデューサーと脚本家について自分の見方を言えば、どちらもクリエイターではない、だからこそ他人の作品を汚すことに一切の躊躇がない上、汚される側の立場や意識も現在進行形で全く理解できないのではないかという気がします。
私自身がクリエイターであるなどと偉そうに言うつもりは毛頭ありませんが(そもそもジャーナリスト自認だし)、少なくとも上記体験から、自分が一から作った創作物を上書きされたり、無用な改変されたりすることで受けるストレスはとんでもなく大きいことはわかっているし、だからこそ他人の創作物にもそのようなことは決して行ってはならないということは理解しているつもりです。そうした感情が、はっきり言えば両者には全く感じられず、原作者である他人の痛みをわからないからこそああしたひどいことを平気で行えるのだと思います。
また日テレの報告書を見る限りだと、「セクシー田中さん」では「これ意味あんの?」と言いたくなるような不必要で無用な原作改変が繰り返し行われていたようです。これら改変は「ストーリーや撮影の必要性があるから改変する」というより、「改変できそうなどうでもいい箇所があったら自分の爪痕を残すために必ず改変する」というような、自分が手を加えた証拠とばかりに改変を繰り返していたように見えます。
もし自分が原作者の立場だったなら、多分こういう改変されたら言うまでもなくショックだし、作品をひたすら一方的に汚されているという風に受け取った気がします。なので原作者が改変に度々待ったをかけたり、ラスト2話の脚本を自ら手掛けたというのも当然の帰結のように思えます。
なお自分が同じ立場だったら八墓村スタイルで突撃していた……と言いたいのですが、多分復讐心よりも絶望感の方が大きく、実際には何も行動できずに寝込むこととなっていたでしょう。そう考えると、自分の作品を守るためにあのような状況で脚本をチェックしたり、自ら脚本を書こうとした原作者に対しては、今更ながらそのバイタリティとプロ意識に強い尊敬心を覚えます。
その上で、あくまで自分の勝手な憶測として述べると、原作者が自殺に至ったのは日テレや脚本家との対立に疲れたとか、世間の反発を感じたからとかそういうのではなく、過去のドラマ化で何度か経験していたにもかかわらず、また今回も結果的に自らの作品を汚されることとなった点について、自分の作品を守ることができなかったという絶望感が最大の動機だったのではないかという気がします。特定の誰かを恨んだりとかそういうのではなく、作品が汚されることが見えていながら、対策はしたつもりでも結局また繰り返してしまった自分への不甲斐なさからくる絶望じゃないのかと、いま改めて思います。
最後にこの作品を汚される痛みについて、私自身も上記エピソードを思い出すまでいまいち実感がなかったのですが、もしかしたら経験しないとわからないものなのかもしれません。でもって「作品を汚す」という行為ですが、アニメや漫画の二次創作とかそういうのは当てはまらず、「作者の影を消そうとする行為」がこれに当たるような気がします。自分自身も作品を上書きされて駄目にされたこと自体よりも、軽い気持ちでああした行為を行おうとする悪意が一番理解できなかったし、気持ち悪いと感じましたし。