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2024年9月26日木曜日

そもそもメンタルはどうやって鍛えるの?

 先週から仕事が忙しくマジで目が回る状態というかふらふらで、なかなかブログも書けませんでした。来週からは国慶節で1週間の休暇が取れるけど、前半はマジで寝たきり雀になるかもしれません。

 話は本題ですが前回記事で私は、昨今の日本の教育や社会環境が現代日本人のメンタルをかつてよりも弱くさせ、ストレスに弱い人間を増殖していると主張しました。その証拠として、精神科に受診する人間は年々増えており、私自身も実際に精神科医をしている友人に確認して裏付けを取っており、意外と無視できないところまで日本のメンタル問題は来ていると認識しています。
 この問題にどう対抗するかですが、単純にメンタルが強くストレスを受けない人間を増やすに尽きます。おそうなれば精神科の負担は減り、精神疾患で生活や労働に支障が出る人も減り、医療費や社会保障費が減るだけでなく労働力や生産高にもプラスでハッピーハッピーなること請け合いなしです。と言ったところで、そもそもどうやればメンタルは強くなるというか鍛えられるのかというのがトピックとなるわけです。

 ある程度想像してはいましたがネットで「メンタル 強くするには」と検索すると、これでもかというくらいそれぞれのメンタル強化方法を主張しているサイトが雨後の筍、戦場のロシア兵の如く出てきました。中には怪しい自己啓発セミナー的なサイトも見受けられ、このトピックに関心持つ人が多いってのと、これをネタに商売している人もたくさんいることがうかがえます。
 その上でこれだけいろんな人が各種様々なメンタル強化方法を主唱しているあたり、現在スタンダードともいうべきある程度一定の人数が認知している固定されたメンタル強化方法はまだないと言えるのではないかと思います。でなければこれほどバラエティに富んだメンタル強化方法を各々が主張するはずはありません。

 以上踏まえて結論から述べると、私個人が考えるメンタル強化方法としては単純に、「どれだけきつい体験を過去にやったかに尽きると思います。

 例えば突然1時間の行軍訓練をやることとなった場合、行軍なんて一度もしたことがない人と、過去に何度か24時間行軍訓練を受けたことのある人を比べた場合、後者の方が圧倒的に1時間の行軍訓練で受けるストレスは小さいでしょう。また同じ種類の経験でなくても、過去に激キツ体験や苦痛、困難を受けたことがあれば少々の課題にぶつかったところで、「あの時に比べりゃ何ともない」という風に受け取り、同じ体験を初めて受ける人と比べれば感じるストレスを小さくすることができると断言できます。

 この辺、日ごろから私が主張しているように人間というのは基本的に比較を通してでしか物事を認知することができず、きついかきつくないかというのは結局のところ、過去の体験や現状と比べてでしか判断できないと思います。教育や伝聞を通しての仮想体験と比較することも可能と言えば可能ですが(「あいつが受けた苦しみに比べれば!」など)、やはり優先されるのは自分の経験と感覚なだけに、結局のところ過去にきっつい体験を受けるなり乗り越えとけばそれ以降に受けるストレス量は、環境などによる継続的に発生するものを除けば基本的に小さくなるでしょう。
 これは言い換えると、メンタル鍛えようってんならとりあえず苦行を体験すりゃいいってことです。

 それこそ私のようにブラック企業やメディア業界を体験した人間ともなると、普通の労働環境にいるだけでも「めっちゃ幸せやん(´・ω・)」と思えて日々に受けるストレスもブラック企業を経験していない人からすれば確実に小さいと断言できます。またメディア業界で慣らされたこともあり、よく「どっちがヤクザかわからない」シリーズこと警察がヤクザ事務所に乗り込む動画見ても、「怒鳴ってるったって凶器持ってないじゃん(´・ω・)」と思えて、ほかの人の反応と比べるとそんな怖いように見えません。
 そういう意味では、場合によっては耐えきれなくなって精神的に破滅するかもしれないし長期的にはマイナスだけど、短期的にブラック企業を経験、それも若いうちにしておく、見ておくのは長い目で見たら決して損じゃないと思います。もちろん、普通の会社とかでも必要に求められる困難や苦境があるのだから、そういう経験で代替できるに越したことはないですが。

 またその苦行の中身というか成否で見ると、成功体験と失敗体験に分かれます。これは私はどっちがいいというわけではなく、成功体験が多すぎると自信過剰となったり失敗を極度に恐れて積極的でなくなる恐れがあるし、逆に失敗体験が多過ぎると意欲を失ったり、モチベーションがなくなったりする可能性があります。強いて言えば成功も失敗もそれぞれ体験的に必要で、偏らせずともかく苦しい体験を経験しておくに越したことがないという風に見ています。
 もっとも個人的には失敗体験の方が教訓意識が強く得られ、その後の行動にも慎重性が出てくるので、配分的には失敗が成功をやや上回るくらいがいいとは思いますが。

 以上を踏まえて言えば、もしメンタルを鍛えたいっていうのであればともかく死なない程度にきつい体験を今すぐやれというのが私からのアドバイスとなります。体力的には山登りとかマラソンとかを選び、「楽して痩せられるフィットネス」なんて以ての外です。精神的に攻めるってんなら断食とか真っ暗で無音な部屋で数日過ごすとか、やり方次第でいくらでも手段はあります。
 なおゲームでこれやろうってんなら、自分としてはファミコンの「アトランチスの謎」をノーコンティニューでクリアを提唱します。

 ここまで来たところで改めてメンタル弱者を増やしている日本の現状を振り返ると、その原因は苦行不足にあるのではないかと思う節があります。でもって、何故メンタルを強くする苦行が日本で不足してきたのかを振り返ると、結構日本の社会変遷というか価値観の転換が大きく作用しているようにも分析され、意外と根の深い問題であると思うようになってきました。
 次回ではその点、端的に言えば「しごき」の合理性と意識変化について書きます。

2024年9月23日月曜日

ストレスに弱い人間を量産する日本の教育と社会

 冷静に振り返ってみると、今の自分の部屋には戦車や戦闘機のプラモがそれぞれ10台以上転がっており、なんか軍事博物館みたいな状態になっていることに気が付きました。最近はもうほとんど1回は作り終えたから2週目も始まりだしたし(;´・ω・)

 話は本題ですがここに書くまでもなく日本では精神疾患者がこの数十年増え続けており、最近だと精神科を受診するまで最低でも1ヶ月は待たなくてはいけないほど溢れており、なんでこいつこっち行くんだろと思ったけど、自分の医者になった友人も精神科いって案外正解だったかもしれません。
 でもそもそも何故日本で精神疾患者が増えているのか。社会のプレッシャーが高まりストレスが増えたというのも確かに事実ですが、それ以上に私は今の日本の教育がストレスに弱い人間を量産しているからではないかとみています。より具体的に述べると、とにかくあらゆることに気を払え、気をつけろとする教育がストレス耐性を下げている気がします。

 片っ端から挙げていくと本当に切りがないのですが、ちょっとしたマナーや言葉遣い、最近だったら体臭とか他人を不快にさせないようあらゆるものに気を付けると、なんかこのところ脅迫的に相手に求める言動が多いような気がします。今はどうか知らないけど15年くらい前はなんか口臭がやたら大きくピックアップされていたような気もしますし、なんかこんな感じで「気にしろ!気にしなきゃ人にあらず!」的に、芸能人でもないのに世の中気を配るよう強要される項目が年々増えている気がします。

 また学校など教育現場では、「相手の気持ちに立ちなさい」という題目が前面に出され、「これが片付いてないと周りはどう思う?」、「言葉遣いが悪いと相手はどう思う?」などと、他人に対する気遣いを強く強制しているように見えます。
 もちろん中にはそうした他人への配慮が必要な点もありますが、中には「本当にそれ必要か?」と思うことまで配慮を強制されている感じがします。具体的には言葉狩りで、キチガイとか死ねとか言ってはならないとか、了解ですは上から目線だから目上に使うなとか、言葉本来の意味から明らかに外れた排除理由に溢れています。

 ともかくこんな感じで、全神経をフルに使って360度24時間常に気を張るように日本の教育や社会は要求しているように見え、結果的にあらゆるものに配慮しようとすることでストレスに弱い人間を増やしているというのが自分の見方です。実際世の中、何もかも無視していいわけじゃないですが大抵のことは無視して気にしないに越したことはないです。
 例えば太陽が50億年後あたりに消滅すると言って、「太陽がなくなったらどうしよう(;´・ω・)」と現代人が気にする必要は全くありません。学者とかがそんな状況をシミュレーションするなら話は別ですが、普通の人が常日頃から太陽の消滅におびえながら暮らしているとしたら可哀想を通り越して逆に滑稽でしょう。けどそんな滑稽ともいえるくらいに不要なものに怯えながら暮らしいてる人間が現代には非常に多く、また怯えるように世の中も若干求めているというか不必要に煽ってきます。

 この手の例だと上がってくるのはまず年金、次に石油枯渇とかで、特に後者は私が子供だった頃は「2000年ごろには枯渇する」などとよく言われてた気がします。この手のものは学者や政治家に任せ、そいつらがうまくやれなかったら引きずりおろせばいいだけです。
 そうそう環境問題もこの手の例に入るでしょう。ただよく言われているように、航空機燃料が出すCO2は1便だけでもポリ袋数千万枚分と言われ、環境問題を個人は完全に無視すべきだとは思いませんが、脅迫的にペットボトルの蓋を集めよなどとすることはもはや本末転倒で意味ありません。それで気に病むくらいなら、環境問題なんてハナから無視した方が精神衛生上にもいいでしょう。

 逆にというか精神疾患を減らしてストレスに強い人間を増やそうというのなら、「余計なことは気にするな」的な教育をもっと広めた方がいいと思います。いわゆる鈍感力に近いもので、真面目に日本はストレスに強いメンタル強者を量産する方向に舵を切った方が国家的にもいいでしょう。
 金がなくても何とかなる、職歴がなくても何とかなる、俺はまだ本気を出していないだけ……とまでいう人間ともなるとさすがにみていて若干不安を覚えますが、ちょっとやそっとじゃへこたれず「またやり返してやるさ!」的な逆境においても前向きな思考を持つ人間をもっと称賛し、世の中に増やす努力を日本はやるべきでしょう。少なくとも、新卒終活にこけたらもう一生終わり的な価値観が強い今の日本社会は、日本人自身は自覚がないもののかなり異常な価値観だということに早く気付くべきでしょう。

 ぶっちゃけ、日本でいい就職できなければ海外行けばいいだけだろうと私も思っています。でも海外怖い、言葉出来ないという人もいるでしょうが、意外と行けばなんとかなるし、私自身もそんなにメンタル強い方だと思ってないけど日本国内にいる時よりも正気保っている自覚があります。

 まぁグダグダ書きましたが、一番日本人が「気にしてはならないもの」というのは実は「周囲の目」で間違いないんですけどね。そういう意味でも他人の目を気にせずに発言や行動を取れ、なおかつそこに一貫性があるのはほんと貴重な人材だと思います。兵庫県知事も他人の目を気にしませんが、あの人は発言が不規則に変わるから逆に一番排除すべきクズですけど。

2024年9月21日土曜日

日本の米不足に関して中国で流れていたデマ

 先日、「今はもう失われてしまったけど自分が大好きな日本語」として、同僚の中国人に「やばたにえん」という単語を教えていました。

 話は本題ですが前回記事でかねてから日本人学校について中国ではスパイ養成機関だというあほらしいデマが流れていることを紹介しましたが、これとは別に先月まで話題沸騰していた日本の米不足についても、実はデマが流れていました。勿体ぶらずに言うと、「日本は戦争準備し始めたから市場で米が不足し始めた」というものです。実際にこれは何人かの中国人にガチで聞かれたりしたデマです。みんな大卒というのが色々言いたくなってきます。

 結論から言うと現在も日本はどことも開戦してないし、市場にも米が普段通りに流通するようになり(価格はインフレしたが)、まともに取り合うような話ではなかったでしょう。そもそも本気で戦争準備するなら、米よりも石油や砲弾の備蓄が優先されるに決まっています。このほか国外にある航空機や船舶も、接収されないよう可能な限り日本に持ってこようとするでしょう。

 普通に考えればすぐデマだとわかるとにこれだから中国人は、と言いたいところですが、日本国内でもこの手の見ていて嫌になるくらいレベルの低いデマが流行することは少なくないため、あまり偉そうなことは言えません。このデマについて、それこそネットで情報を収集して検索すれば裏付けがないことなんてすぐわかるものの、逆にネットの情報に毒されてデマを信じる輩の方が現実には多いと言えるでしょう。

 この辺、学生時代にやろうと思ったけどやらなかった噂のメカニズムが、かつてとは異なるように感じます。ネットのなかった時代の噂は口伝の伝聞の中で生まれていきましたが、今はネット上で情報が拡散されるため、かつてならデマにかかりやすいけどデマ自体に触れなかった人々が、ネットでデマに触れて踊らされるというパターンが増えているように見えます。
 特に普段から人と接する機会が少なく、ネットリテラシーの低さもあってこうした根も葉もないデマを信じ込む高齢者が増えているとも聞きます。コロナの頃に関しても流言飛語があの時は非常に多く、現在も問題となっていますがツイッターがその辺をあまり規制せず野放しにするもんだから余計拡大しました。

 ちなみに自分が一番引っかかったデマと言えばドラクエ5で10ターン以内に倒すとエスタークが仲間になるというデマでした。子供の場合、願望に沿うデマだとつい信じちゃうところがあるなと思えてしまいます。
 また近い時代で言えば今度リメイクが発売されるロマサガ2について、陣形を増やしたり主人公の能力を引き上げるため皇帝になったばかりのキャラを一人でルドン高原に行かせて謀殺する、通称「ルドン送り」は誰に教えられたわけでもないのにやってました。デマとは違うけど、あれはなんかシンクロニシティを感じました。

2024年9月19日木曜日

深圳の日本人学校生徒殺害事件と日本人学校が狙われる背景


 すでに各所で大きく報じられている通り、昨日中国の広東省深圳市で日本人学校に通う男児が暴漢に刺され、治療の甲斐なく亡くなられました。大人の身勝手な行動で殺害された男児自身はもとより、そのご家族のことを思うと自分も不憫でならず、さすがに今朝亡くなられたニュースを見た際は大きく気が落ち込みました。

 中国での日本人学校生徒を狙う事件は今年6月にも江蘇省蘇州市で起きており、当時も事件発生当初に中国メディアは黙殺し、日本の外務省が発表して約1日間経過してから報じる有様でした。今回の事件も同様に、昨夜遅くになってようやく刺傷事件が起きたと報じたものの、FNNの記事にある通り一部のネットメディアを除けば、中国では男児が亡くなったことはまだ報じられていません。報道規制がかかっていると断言してもよく、明日には報じるのかがまた見物でしょう。

 中国側は今回の事件は頭のおかしな人間による通り魔的犯行で、特別な意味はないと主張していますが、ならなんで6月にも蘇州で襲撃事件が起きたのだと誰もが思うでしょう。もっとも蘇州の事件も親子をかばって亡くなられた中国人女性について大きく称賛する報道がなされた後は全く続報がなく、犯人が何故凶行に及んだのか、日本人を狙ったのかについてなどの捜査情報は全く公開されていません。今回の事件も言うまでもなく同じ経過をたどるとみられ、まぁこれでは対策のしようがないというか難しいでしょう。

 私の目から見て。日本の報道では日本人で、弱い子供を狙ったのではないかとか、不況で市中国国内に社会不安が増しているなどの推測が多く出ています。後者に関しては確かにその通りで、リストラされた人間が街中でよく見られるようになり、商業施設では空きテナントが増え、社会の空気が殺伐としてきているのをこのブログで書いている通りはっきり感じます。
 一方、前者に関してはちょっと違うのではという見方を持っています。日本人が狙われるのは反日教育の静だなどと色々報じられ知恵ますが、それが根底にあるのは認めるものの、本質的にはもっと表層の浅い部分のデマによる影響が大きいのではと勝手に見ています。

 実際の犯人の動機はわからないためこれも私の憶測に過ぎないのですが、かねてから中国では中国国内の日本人学校は中国におけるスパイ拠点で、あそこに通う日本人は校内でスパイとしての訓練を受けているというデマがまことしやかに流されています。
 そんな馬鹿々々しいデマをまともに受ける奴なんているのかと言いたいのですが、実際この噂について「これって本当?」って聞いてくる中国人が多くいたりします。感覚的には「嘘っぽいけど案外マジかもしれない」くらいな感覚ですが、中にはガチで信じ込んでいる人も一定数いると断言できます。

 っていうか「子供があんな整然と列を作って並べたりできるはずがない」というのがスパイ学校である主張として使われたりもするのですが、比較対象が悪すぎるでしょう。

 もっともこれに関しては日本の孔子学院がスパイ拠点だと主要する日本人も多くいるため、どっちもどっちという風に思っていますが。私個人の見方を述べれば、少なくともスパイとして捜査機関に摘発される、確たる証拠がない限りは結論を出すべきじゃないといったところです。でもって怪しいと思うなら、人に頼らず自分で調べろよと言いたいです。

 話を戻すと、あくまで憶測ですが日本人学校が狙われるのは上記のデマも影響しているのではという懸念が少しあります。仮にその通りであれば、中国政府がお得意の言論弾圧でこのデマを封じ込めればいいだけの話なのですが、福島の処理水に関して中国政府自体がデマを流している現状からすると望むのは難しいでしょう。そもそもこの処理水で中国政府が喧伝するデマも、ヘイト感情を高めており、こっちの方が原因としてでかいかもしれません。

 6月の蘇州の事件が起きた時、私はこういう襲撃事件は今後も相次ぐと思いました。ただ襲撃対象は絶対数で多い日本人成人になると思っていたものの、わずか3ヶ月後に再び小学生が襲われるとは予想せず、その間隔の短さもあってさすがにショックを覚えました。
 その上で、中国政府自身が社会でヘイトを高めるデマをまき散らしていることもあり、今後も日本人を含む外国人の襲撃事件は増えていきますが、行き着く際は中国人高富裕層へのヘイトになるとも見ています。実際、そうした高富裕層への不満がなんか爆発する直前のような雰囲気を感じており、前回といい今回の事件の中国政府の消極的な態度を見るにつけ、多分鎮めることはできない気がします。

2024年9月18日水曜日

「小悪魔教師サイコ」裁判の和解に触れて

売上7億円超の人気漫画『小悪魔教師サイコ』作画家・合田蛍冬氏が出版社を提訴した訴訟が和解 同一原作の後発漫画が出版されトラブルに 出版社は謝罪(ねとらぼ)

 本日、「小悪魔教師サイコ」という漫画の作画家と出版社、原作管理会社間の裁判が和解したとの上記報道が出ました。この漫画ですが実は自分は2週間前に購入して読んだばかりで、読むきっかけとなったのもこの裁判でした。

 2週間前、何故かふと「セクシー田中さん」事件のことを思い出し、この件ではドラマを制作してトラブルを引き起こした日テレがやり玉に挙がっていましたが、本来なら仲立ちを果たさなければならない出版社(出版社)も騒動を収めないどころか放置しており大概だったなと考えたところ、「そういえば、『小悪魔教師サイコ』でも漫画家と出版社でも揉めていたな」と思い出しました。せっかくだからこの騒動も追ってみるついでにと、件の漫画を手に取るに至ったわけです。

 その「小悪魔教師サイコ」という漫画作品ですが、一読して「ああこれは人気出て売れるわけだな」と感じました。動きのあるシーンのコマ割りとセンスのない表紙デザインはややどうかと思うものの、話のテンポはよくキャラクターの描き分けもできており、内容には惹かれるものがあって既刊3冊をすべて購入して読みました。
 個人的には、普段無表情で張り付いた笑顔しか見せないサイコパスの主人公が、脈絡なくスコップで思いきり他人の頭をぶん殴ったものの相手がまだ死んでなくて、「やべ、仕留めそこなったΣ(゚Д゚;≡;゚д゚)」という表情を浮かべるシーンが強く印象に残っています。

 話を戻しますがこの「小悪魔教師サイコ」の漫画はウェブコミックとして人気を得て売り上げもよかったそうですが、何故か原作者側は別の出版社とも漫画化契約を結び、同じ内容の漫画が同時期に連載されることとなりました。しかし後から始まった方は先行していた、今回裁判を起こした作画担当の合田蛍冬氏が描いた漫画のコマ割りをはじめ、原作にはなく独自に追加したシーンまでも模倣していました。
 これに対し合田氏は抗議するとともに、監修としてクレジットに名前を入れることなどを求めましたが却下され、それどころか原作者側が逆に合田氏に対して騒動を起こしたとして謝罪を求めるなどこじれていきました。

 そうした成り行きから合田氏の連載は休載に追い込まれることとなったのですが、間に立つべき出版社側は何故か原作者側に立ち、裁判を示唆するなどあることないことを合田氏に吹聴して余計に揉めさせるだけでした。また告知なく休載した件について合田氏が自身のブログで経緯を説明すると、出版社は自分たちが休載を告知していなかったにもかかわらず、合田氏にブログでの休載説明を削除した上で謝罪するようよう要求してきたそうです。

 こうした諸々の経緯もあって合田氏は出版社や原作者側へ騒動に関して謝罪し、この問題に真摯に対応するよう求めるため、賠償金がなんとわずか3円という裁判を起こすこととなりました。
 個人的な見方から言えば、この形式的な3円という賠償要求額といい、裁判経緯をしっかりブログで説明、公開しているあたり、合田氏は非常にしっかりしていて責任感もある人物であるという印象を受けます。なおその裁判経緯によると、出版社側はすぐわかる虚偽発言を繰り返した挙句、矛盾を指摘されるや嘘に嘘を重ねる始末だったそうで、少なくとも出版社の人間は無能だというのがこの裁判からはっきりわかりました。

 今回の報道によると、詳細は明らかにされていないものの、最終的に出版社、原作者は合田氏に対し謝罪することが決まったそうで、合田氏もこの結果に一定の納得感を得ていると述べています。私としても合田氏の肩を持っていたし、前述の「セクシー田中さん」の件で出版社側にもかねてから作家に対する問題行動が見受けられていただけに、こうした合田氏の行動がほかの理不尽を強いられている作家の励みになるのではないかと期待しており、今回の結果はいいものになったのではと思ってみています。

 そもそもの話、いくら原作を持っているからと言ってせっかく漫画版が人気出ているのにそれとは別に漫画作品を同時期に立ち上げるという道理が全く理解できません。「ひぐらしのなく頃に」や「うみねこのなく頃に」のように、独立しているエピソードごとに別の作画家を立てて漫画を同時連載するなら理解できますが、同じ原作で同時期に別の漫画が連載されるとあれば、もし自分が同じ立場だとあまりいい気分はしないでしょう。
 なおこのような同時並行連載形式だと人気な「薬屋のひとりごと」がありますが、あっちはあっちで片方の作画家が脱税で摘発されて、「脱税版」、「納税版」と区別されるようになって、これはこれで面白かったです。

 それらを踏まえると、初めに「ほかに漫画作品を立ち上げない」という条項を原作者との契約で盛り込んでいたにもかかわらずその契約権利を行使しなかった出版社が、無駄に自分のところの人気作品を失うというあほな行為をしたというのがこの裁判の帰結だと思います。本当にぶんか社はなにがしたかったのだろうか?

 その上で、自分もいた時に感じましたがメディア、コンテンツ業界はこの辺の契約や法務に関してザルもいいところで、こうしたトラブルは見えないところで無数にあると断言できます。日本がコンテンツ産業をもっと強化したいというのであれば、こうした業界の意識の低い契約習慣を改めさせる、または作家らを公的に法務面でサポートすることが強化につながるとすら考えています。
 幸い、この辺は漫画家組合がそれなりにサポートしているようですが、そうした動きをもっと広げることこそが、日本のコンテンツ業界では重要な気がします。一番よくないのは米国のように出版社が原作権利を強く持つことで、やはり作家ファーストで日本は行ってもらいたいものです。

2024年9月17日火曜日

ちょっと珍しい中国のFC-1のプラモ


 また自作プラモの話で申し訳ないのですが、ちょっと珍しいと思う機体なので紹介を兼ねてこうして記事化しようと思います。そのプラモというのも、FC(Fighter China)-1という、中国製でありながら中国では運用されていない戦闘機です。


 この戦闘機は中国とパキスタンの共同開発機で、現在はパキスタンで主に運用されています。みヤンマー国軍も買ったそうですが、あんまり稼働はしていないそうです。


 中国側は開発ベースは中国のJ(殲)-7で中国独自のオリジナル機体だと主張していますが、実際にはパキスタンがアフガニスタン戦争の後に米国からもらったF-16がベースだと言われています。実際、こうしてプラモで作ってみたところ、エアインテークの位置こそ胴体下部から脇に移っていますが、全体サイズといい主翼や尾翼の形状を見る限りだと、完全にF-16と共通しています。

パキスタンでは「Thander 04」とも呼ばれてるらしい

尾翼付け根に切り込みが入っているのはF-16そのまんま

 作ってみた感想としては、メーカーの小号手(トランぺッター)は伝統的に戦闘機脚部の設計が弱く脚が明らかに折れ曲がりやすいのですが、このキットはそういうこともなく、固定が成れてないとてこずりますが逆にきちんと接着出来たらゆるぎない強脚を見せてくれます。
 またエアインテークの組み立ては非常に面白く、胴体下部と上部の間にコックピットを含む胴体全部を差し込むような構造をしており、やや寸法合わせが難しかったですがこの辺の組み立ては本当に楽しかったです。機体そのものがF-16同様にベーシックな形状をしているので、作ってて楽しいキットでした。

 もっともコックピット周りは「こんな細かくする必要あんの?(;´・ω・)」と思うくらいやたら細かい部品が多く、組立も面倒で、ここにやたら時間がかかって嫌でした。コックピットなんて組み立てたらほとんど見ない箇所だから、もっと適当でもいいと思うのに。ここを乗り越えた後は基本スムーズでしたが、最後のデカールがやたら皺ができやすいデカールで、貼り付けるのに苦労しました。

 なおこの機体、中国も当初は導入を検討したものの、すでに運用していたJ-10の方が武装も多く運用実績もあるため、結局このFC-1は見送ったそうです。この判断は確かに懸命だと言えるのですが、FC-1を入れずとも中国は運用戦闘機種類が非常に多いです。
 具体的には、前述のJ-10とロシアのフランカーシリーズ(Su-27、Su-33、Su-35)が主ですが、このほかにも自称ステルス機のJ-20、J-35が入り、整備とか大丈夫なのと他人事ながら心配になってきます。

 なお日本は戦闘機ならF-15、F-35とF-2の3種類だけで、面白みはないけど現実的です。ぶっちゃけ新しい機体を英国と共同で開発するのもいいけど、F-15の最新版に取り換える方がもっと現実的なんじゃないのという気もしますが。F-15の最大の武器は拡張性だし、取り換えた機体もさらなるアップグレードで使いまわせる気がするし。

中国では中秋、日本では秋分

 今日は中国は中秋節なため祝日で、朝から「龍が如く7」をやり続けようと思ったら仕事入ってきたので怒りの休日残業となりました。てか連休明けにミーティングとか入れるなよ。

 話を戻すと、この中秋というのは日本でも「中秋の名月」という言葉で一般的に使われています。中国でもこの時期の月は名月とされ、月餅など丸いものを食べながら月を眺めるという文化があります。

 そんな中秋についてよく通っていて顔なじみになっているコンビニの店長に「日本でも中秋節は祝日なの?」と聞かれました。この時に改めて考えたのですが、日本では秋分の日を祝日としていますが、実質的に中秋も秋分も16番目の二十四節気を表す言葉で、意味的にも内容的にも同じです。なのになぜ日本と中国でこうも使い分けているのか、若干腑に落ちない気持ちを覚えました。

 あくまで好みの問題ですが、私としては中秋節の方が月を眺める文化習慣を表す言葉にもなっていることから、こっちの方がいいんじゃないかという気がします。何となく秋分だと春分の兄弟格で「昼と夜の時間が一緒な日」のようにしか受け取れず、何より「秋分の名月」とは誰も言わないことからも、文化的な習慣と結びつくうえでこの際「中秋の日」に名前を変えたっていいじゃんとかすら思います。

 なお今日はその件のコンビニで月餅買ってさっき食べましたが、これとは別に中秋の名月に見立て中国に売り込み、マジでかなり定着させることに成功した日本の秋月梨もお昼におやつ代わりに食べました。個人的に話はマッドシティ名産の幸水または豊水を好みますが、秋月梨もでかいだけあって食べ応えがあり、この時期に食べるのが割と楽しみでよく買ってたりします。