2026年8月2日日曜日

日米の円買い介入について

 すでに報じられている通り、先週金曜の日本での取引終了後辺りから日米が市場への共同介入を行い、円高方向へ誘導する円買い介入を行ったとみられています。それまでの1米ドル160円超は確かに異常な水準で、また以前に日本政府が単独で介入しても157円くらいまでしか上がらず、その後また戻ったことを考えると今回の共同介入は自分としても歓迎したいものです。
 内心、米国も共同で介入してくれるとは思っていたなかったのでうれしい誤算のようなものを感じています。やはり米国側も米ドル高が続くことを望んでいなかったようで、仮にそうだとしたらこの共同介入は日米双方にメリットのあるもので波風も立たず、またこれにより日銀の利上げにも追い風となり、このまま利上げを実施して不動産をはじめとする物価高騰に歯止めがかかることを期待しています。

 という風に優等生めいたコメントはいれましたが、個人的に一番気になるのは明日の列車です。なんか電車に飛び込むFXトレーダーが続出しそうで、フルリモートなので自分は影響ないですがもし通勤する立場ならいつもより早く出勤していた気がします。
 このほか個人的に思うこととして、かなり市場に影響を与える市場介入にもかかわらずネットの報道を見ているとあんまり解説なり分析する記事が出ておらず、なんじゃこりゃとかなり疑問を持ちました。もしかしたら自分が見ていない日経新聞なんかではいろいろ解説していたのかもしれませんが、これだけのインパクトあるニュースをどこも積極的に解説しないというのは日本の知性にかなり疑問を持つレベルであり、今後こうした議論を深めるような人がもっと出てほしいと願っています。

2026年7月31日金曜日

中国の対倭寇戦闘マニュアル

 最近ずっとブログに仕事の愚痴ばかり書いていますが、逆を言えばそれまでの仕事はかなり恵まれていたんだろうなとこのところ思います。まぁ日本の仕事もようやく要領分かって自分のペースで進められるようになってマシにはなってきてますが。

 それで話は本題ですが、数年前より個人的にまとめようと倭寇について密かに研究を続けています。その倭寇ですが知ってる人には早いですが室町時代前半の前期倭寇と、後半の後期倭寇でその系統や成り立ち、活動内容は大きく変わってきます。日本人が歴史の教科書で習うのは基本的に前期倭寇ですが、中国側の歴史で語られる倭寇としては後期倭寇の方が存在感が大きく、今でも後期倭寇との戦いをテーマにしたドラマとかも作られるくらいです。

 基本的に後期倭寇は中国人が主体だったと言われますが、頭目に関しては間違いなくそうです。ただ構成員に関しては中国沿岸部や日本の長崎県出身者などかなり混在していたのではないかと思え、具体的にどの国の人だったかと断定すること自体が間違っていると思っています。よく言われる境界人という言葉が一番合っているように思え、中国と九州の海の民の一部というくらいがいいと思います。
 ただ国籍は断定できないものの、その戦闘方法はほぼ日本式だったそうです。具体的には槍よりも刀をメインウェポンに使用し、特に日本刀は中国でも倭刀と呼ばれ、その切れ味の鋭さから戦闘の際には非常に警戒されたと言われています。
 なおちょっとここで突っ込んでおくと、明代でも中国は日本のことを倭と呼ぶ習慣が残っていたと倭刀という表現から伺えます。

 話を戻すとこの倭寇対策の責任者として中国で一番有名なのは威継光という将軍で、彼は中国沿岸部を荒らしまわっていた倭寇の討伐で大きく功績をあげ、今でも倭寇退治の英雄として中国でも知られています。といっても、多分歴史好きの間だけでしょうが。
 その威継光なのですが、彼が倭寇討伐で名を挙げたのは自らが訓練した部隊が活躍したため、その訓練では倭寇相手の戦闘対策がなされていたと言われています。具体的には狼筅という、枝葉が付いたままの竹を柄にした槍を集団で用い、倭刀で切りかかられないよう接近戦を避ける戦術を採用しています。この狼筅を使った陣形を「鴛鴦陣」と称して、大きな戦果を叩き出したと言われています。

 このエピソードからみても、当時の中国にとって日本刀はかなり脅威となる武器だったようです。もっとも日本国内での戦闘で日本刀はほとんど使われず、合戦のメインウェポンはやはり弓矢だったという声もあるので日本刀の凄さに関しては若干尾ひれがついているのではと思う節があるのですが、外国の目から見てこのような話があることもある程度考慮が必要でしょう。

2026年7月29日水曜日

今回あまり広がらなかった自粛ムード

 昨日夕方の熊本の地震、またその後のイオンの爆発事故で今日のニュースはほぼそれ一色でした。実際に視聴者も気になり注目するだけにメディアが関連ニュースの報道に集中することは問題なく、炎天下で避難を余儀なくされる被災者への支援を広げる意味でも集中的な災害報道は今後しばらくは続ける必要があるでしょう。

 ただ今回の報道や世論を見ていて思ったこととして、過去の大地震と比べると自粛を口にする人を全く見なかったし、自粛ムードも広がっていないような気がしました。以前は誰が言うまでもなくイベント事は中止や縮小され、またそうした自粛を暗に求めるような世論も大きかった気がします。
 ただ以前からも被災地はともかくその他の地域でも必要以上に自粛を行うべきかという逆批判も起こり、経済的にも心理的にもかえってほかの地域は日常を維持することこそが被災地のためにもなるという意見も出ていました。私自身もこの意見に賛成で、被災者に寄り添う気持ちは大事であるものの、予定されていたイベント事を中止にするなど必要以上な自粛は誰のためにもならない不要な自己満足に過ぎないと考えていました。

 それだけにプロ野球のオールスターをはじめ、大規模イベントに対して「自粛しろ」みたいな声がほとんど聞かれず、また勤務など勤めて日常を維持しようとする人が多いことは非常にプラスで、過去と比べると大きく前進しているような気すらします。むしろスポーツイベントなどで被災地への応援メッセージなどを発信する方が重要であるし、特に今回は熊本出身であるホワイトソックスの村上選手にはさらなる活躍を見せてぜひ勇気づけてもらいたいものです。
 何気に現地ホワイトソックスの実況が今回の熊本の地震に言及してくれたのは私としてもうれしく感じました。

 そんなわけで必要以上な自粛は避けるべきといった過去の主張というか反省が、しっかりと現在において実現していると感じた次第です。なお311の時に私は上海にいましたが、やはりあの時の上海の日本社会でも自粛ムードが広がって居酒屋とか人が少なくなっていたのを思い出します。ちょうど自分は311に杭州のくそみたいなハーネス工場やめて次の週から上海の新聞社に移ったからよく覚えていますが、無理に明るく振る舞う必要はなくても必要以上に暗くなるのはやはりよくないなと思います。

2026年7月27日月曜日

中国で好かれた東野圭吾作品

 既に各所で報じられていますが、日本の推理小説の第一人者である東野圭吾が亡くなられたそうです。その訃報は日本国内だけでなく中国でも速報で報じられ、実際ネットで見ると日本の作家の訃報に対するものとしては非常に多いと感じるほど多くの関連記事が出されています。

 その東野圭吾作品について、映像作品を含め実は私はあまり触れたことがないのですが、唯一強く印象に残っているものとして映画の「天空の蜂」があります。これは原発事故に関連する作品なのですが、昔見た解説によると原作は1995年に出され、その後の東日本大震災の福島原発の事故を見るに非常に先見の明のあった作品であったと評されていました。実際に映画が公開されたのは東日本大震災の後なのですが、よくこんな内容を90年代に出していたものだと強く感心させられた覚えがあります。

 話は戻りますが自分の友人の中国人も東野圭吾をよく讃えており、「ああしたミステリー作品は中国人には作れない」と感銘しっぱなしでした。東野圭吾に限らずコナンを含め日本のミステリー作品は中国で高く評価されているのですが、その要因はやはり中国人の手によるああしたロジカルなミステリー作品が少なく、需要に対し国内からの供給が圧倒的に不足しているためと断言できます。
 ネット小説なんかは中国でも多いのですが、ことミステリーとなるとトリックを作るのが苦手なのか、すぐ心霊に逃げてしまうためなのか日本のミステリー作家ほどの人気を得る人はまだあまり見ない気がします。

 そんな日本のミステリー作家の中でも東野圭吾は特に人気で、理由としてはやはり比較的多作であること、映像化も多くされてとっつきやすかったことが大きいような気がします。先ほどにも書いた通り私自身はあまり東野作品に触れていないためその内容の分析ができないのでありますが、何かしら中国人読者の琴線に触れるような内容的特徴ももしかしたらあるかもしれません。

 一方で近年、大ヒットと呼べるようなミステリー作品がやや減ってきている気がします。ただでさえ出版不況もあるのですが人気作家がやや出づらくなっていて余計悪循環となっている節があり、そこへきて東野圭吾が亡くなられたことでちょっとこの先の日本ミステリー業界への不安がややもたげます。
 なお既に潰れた分野としてはジャパンホラーことホラー小説業界が挙げられます。90年代から00年代初頭までは今年亡くなられた鈴木光司のリングをはじめ、多くの日本ホラー小説を原作とした映画が欧米などでヒットを飛ばしましたが、それももはや過去の話です。これら作品を輩出してきた角川ホラー文庫も往時ほどの勢いはなく、こっちの分野も前から色々と心配しています。

 何か盛り返すため、「魔の集う街、松戸」をキャッチフレーズに松戸を舞台にしたホラー小説でも書こうかな。延々と上りきることのできない松戸の坂とかリアルさあって怖い気がするし。

2026年7月25日土曜日

風水に対する疑念

 先日から書いていますが今中国から派遣されて日本で仕事していますが、この日本の仕事がともかくつまらなくてガチで転職を検討するようになりました。せっかくだからやってみたい仕事をこの際チャレンジしてみようかと思い、松戸戦士から松戸風水師へのジョブチェンジを図るべく、この前風水の通信講座を受けてみました。
 風水は自分よりも中学時代にクーロンズゲートにはまってた松戸フレンズの方が興味持っていたのですが、その彼から話を聞く傍らで自分も興味を持つようになり、大分前に中国の風水師事情についてわざわざ記事化しています。その後も興味を持ち続け、自分なら中国語もわかるしガチ中華な風水師として日本で風水師になってみるのも悪くないかもと思ったわけです。

 そんなわけで受けてみた風水師の通信講座(初級)でしたが、結論から言うと若干疑念を持つようになりました。講座自体はそこそこ楽しく学べはしたのですが、日本の風水でかなり重きをなす方位の概念に関して強い疑問を持ちました。
 風水は宋代に現代の骨格が出来上がったのですが、何故この時期にスタンダードが定まったのかというと羅針盤ことコンパスが発明されたからです。風水はこの羅針盤、もとい羅盤で方位を測定して吉凶を占うことが多いというかメインの業務とするのですが、中には枕を向ける方向なんかも生年ごとに振り分けています。

 はっきり言って、どっちの枕を向けるかどうかで吉凶が変わるという主張は受け入れられませんでした。中には家のつくり的に枕の向きが変えづらい人もいるであろうし、そもそも旅行先のビジネスホテルなんかだと変えようがありません。しかしそれで何か変わると言ったらまず変わることがないと思え、こんな生活の細かいところまでいちいち方角気にしてたらやってらんないだろうし、気にする方がかえって損であるように思えました。
 またそれ以外にも、いわゆる鬼門(北東)、裏鬼門(南西)などの方向に関しても中国では日本ほどには気にしません。中国の方の風水はまだ本格的に学んでいないのでわかりかねますが、日本の風水は果たしてそこまで気にしなければいけないほど方位を気にしなければいけないのかという点で、深い疑念を持つようになったわけです。


 そうした自分の疑問に関して、一番参考になったというか得心を得たのが上の動画の解説でした。見てもらえば早いですが私の方から解説すると、鬼門、裏鬼門というのは通常の風の通り道ではないため湿気がたまりやすく細菌が繁殖しやすかったため、日本で風水の理論が固まってきた江戸時代においては台所やトイレなどの水物の配置を避けるというのは理に適っていたそうです。
 しかし現代の住宅においては換気扇などの設備もあれば通風対策もなされており、こうした鬼門に避けるべき配置はもはや気にする必要はなく、そのほかの張りや欠けといった家の出っ張り部分も、現代住宅においては構造的にも問題にはなりません。

 要するに、江戸時代の住宅における管理維持面で日本の風水の学論、特に方位に関する対策はプラスであったものの、現代においては無視できるものとなっているということです。またそもそも論でいうと、方位磁針が指す磁北は現在地から北極点に結ぶ方角(真北)からは自転の影響で少しずれており、また磁北は毎年少しずつ移動するという特徴があります。そのような不均一な磁北を基準とした方位に普遍的価値はあるのかという点でも動画では疑問が呈されており、私も全く同感でした。

 さらに言えば現代日本において風水は私が見ている限り、どちらかといえば「この家は風水的に良くない」などと、ネガティブな方向に使用されることの方が多い気がします。風水的にプラスだなんていう人を見たことはあまりなく、むしろ他人の家や建物にケチをつける道具として使われるのを見る方が圧倒的に多いです。
 いわば概念が独り歩きして人を不幸にする道具として使われているようにもみえ、果たして風水を学び、運用することは単純にプラスなのかという点で疑問を持ちました。もちろんそんなに学んでいない立場で物言うのもよくないし、また本場中国の方では日本の風水とはかなり異なる学論となっているそうなので一緒ではないかもしれませんが、少なくとも前より風水に対する信頼は少し学んだことで逆に落ちています。

 そういうわけでFF5でもふうすいしはあんま強くなかったし、自分はやっぱりこのまま松戸戦士として戦い続けるべきかと再考しつつあります。ほかにジョブチェンジできそうな職業となると松戸竜騎士かなぁ、なったら毎週ジャンプを買わなきゃいけないのだろうか。

2026年7月24日金曜日

岡本公三の死

「狂信者」「人生台無しに」 イスラエル、空港乱射の犠牲者家族―岡本容疑者死亡(時事通信)

 既に数年前から意識混濁状態にあると聞いていたのでさしたる驚きではなかったですが、ようやく死んだのかというのが真っ先に覚えた感想です。彼の経歴についてはわざわざ説明しなくてもネットで見た方が早いので省略しますが、かつて日本はテロリスト輸出国であったことを示す承認みたいな人間で、半世紀くらい前の事件ですが今の若い世代もテルアビブ銃乱射事件については知っておいてもらいたいです。
 まぁ自分の年代からしても知っている人少ないんだけど。

 その岡本公三が参加していた日本赤軍は重信房子によって既に解散が発表されています。ただ日本赤軍に加入していたメンバーでダッカハイジャック事件により超法規的に国外逃亡が認められた人物は何人かまだ生存しているとされ、個人的に気になるのはやはりあさま山荘に立てこもった坂東国男です。死亡報道がないということは恐らくまだ生きていると思われますが、もし可能なら出てきてあさま山荘事件、山岳ベース事件の内幕についてその視点から語ってほしいというのが本音だったりします。

 このほか取り立てて書くようなことは残ってないのですが紙幅が余っているのでもう少し付け足すと、テロリストの概念も911からイラク戦争の間くらいの頃と比べると、現代においてはなんかイメージが変わってきた気がします。当時はイスラムテロリスト全盛期でしたが、現代においてはイスラエルによるパレスチナ侵攻、ロシアによるウクライナ侵攻、果てには米国によるイラク攻撃など国家軍隊による戦争が相次いで勃発し、テロリストによるテロ活動が目立たないというか911の時のような脅威とはあまりみなされなくなってきている気がします。

 もしかしたら実際にはいろんなテロ活動が計画されてはいたものの未然に鎮圧されているだけかもしれませんが、ガチな戦争が起きている中でテロリストたちもそういう活動をしている場合じゃないような気がします。そういう意味ではテロ活動というのは案外平和な時代にだからこそ起きて、注目されるようなものなのかもしれません。
 日本も赤軍派、そしてオウム真理教などの団体によるテロ活動が活発だったころと比べると最近はめっきりそういう事件も起きなくなっています。まぁこれは日本が物騒になってきたというよりは、世直しという概念そのものが変わってきたためじゃないかと思いますが。ああなんかラッキーマンに出てきた世直しマン思い出した。

2026年7月23日木曜日

最近、文豪は自殺しなくなった

 最近あまり自殺関連記事を書いてないけど、学生時代は社会学の一分野として結構自殺を調べていたこともあり、このブログの開設当初も自殺関連記事をよく書いていました。そんな密かな自殺マニアな自分にとって最近のホットトピックは、自殺する文豪がめっきりいなくなったという衝撃的事実です。

 かつて自殺は文豪のお家芸とばかりに、自殺が連想するワードには文豪もしっかり入っていたと思います。この文豪と自殺の組み合わせを強く印象付けたのはやはり芥川龍之介だと思いますが、浅薄な知識で語ると文豪の自殺は明治時代にまでさかのぼる気がします。
 というのも明治の頃に平塚雷鳥をはじめ文壇関係者の心中騒動が幾度か世間の関心を引き、この頃に心中という行為をやや持ち上げるような風潮があったように見えます。その後、芥川の前に有島武郎が心中で自殺していますが、何となくこれが芥川にも影響したように見えるほど当時は大騒ぎとなり、文豪の自殺がやたら箔をつけるようになっていったのではないかと疑っています。やや極端なことを言うと、文豪の自殺は当時としてはやたら持ち上げられる行為となりつつあったとみています。

 なお太宰治に関しては、周辺関係者の証言などを聞くに自殺ではなく心中未遂で終えるつもりが本当に死んでしまった事故死だと私は考えており、今回の文豪の自殺の範囲には入れません。同様に三島由紀夫の割腹自殺も国体思想が強く影響していてほかの文豪の自殺とは一線を画すと考えて、今回は別枠としています。

 話を戻すとそうした文豪の自殺も超大物級だと川端康成あたりが最後で、平成以降で純文学作家の自殺なんてほぼ全くなかったのではないかと思います。こうなったのは先に書いたように昭和期にかけて一種ステイタスと化していた文豪の自殺行為がそれほどステイタスとみられなくなったこと、そして文豪と呼ばれるほど作家が社会的権威を持ちづらくなったことが大きく影響している気がします。端的に言えば、以前と比べ純文学作家があまり世間に注目されなかったといったところでしょう。

 その上で更にもう一つ付け加えると、昭和期まで文豪は作家であるとともに思想家的な側面も強く帯びていたように思えます。人はどう生きるかや世界をどう捉えるか、こうした普遍的価値観を自ら持って社会に訴え、広げていくような役割も一部帯びており、その役割の性格上からも一人でどんどんと考え込むことになりやすかったという点も、かつて自殺が相次いだ原因じゃないかと思います。
 言い換えると、現代の純文学作家においては思想家的な側面はもはやほぼない気がします。何かしらの哲学なりを訴えることもないし、かつてはこの手の人の価値観の柱だった反戦、反抗も今では白眼視されるような始末ですし。まぁそもそも、現代において思想家的な人自体がいなくなっているのですが。

 無論、人が自殺しないに越したことはないのですが、現代の目から見ると逆になんで明治から昭和にかけてあれだけ文豪が悉く自殺したのか理解し辛くなっているような気がします。売れない小説家が生活苦から自殺する方がかえって理解しやすいくらいです。
 もちろん各文豪それぞれに自殺理由があったでしょうが、当時と今とで自殺した人数にこれほど差があることは前述の通り、社会における文豪の位置づけが影響していたという風にしか思えず、実際私も高校くらいまで自殺は文豪の専売特許的な見方を持ってました。しかしそうした価値観なり見方が薄れるとこうも自殺する人は減るものだということから、失恋すると自殺する、生活苦になると自殺するというイメージも薄れたらもっと日本で自殺が減るかもしれません。