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2025年12月22日月曜日

20年ぶりに読んだ冬目景の「黒鉄」

中国の救急車「前の車どけ!こっちは緊急走行中だ」 →前の車「道を譲るのは気に入らない」(痛いニュース)

 上のリンク先にある動画ですが、こんなの中国だと話題にもならないんじゃないかと思います。というのも自分の周りでは、緊急走行中の救急車に対し逆に追い抜きをかける一般車をよく見ます。

 話は本題ですが今週、ちょっと出費がヤバいです。というのもあちこちで年末セールやってるため電子書籍やらSteamのゲームやらやたら買い込んでます。DMMの電子書籍なんか1週間ごとに1回の購入が1万円以上なら追加割引するので先週と今週でこれを2回やり、日本円のクレジット購入額が前月比で急増しています。
 そうして購入した電子書籍の中には、先日言及した「FX戦士くるみちゃん」と「あいちゃんと山田さん」という萌え系鬱漫画2作品が入っているほか、冬目景氏の「黒鉄・改 KUROGANE-KAI」という漫画も入っていました。

黒鉄(Wikipedia)

 この「黒鉄」という漫画は、恐らくは手塚治虫の「どろろ」のオマージュと思われる冬目景氏の漫画です。簡単にあらすじを説明すると、江戸後期に仇討を果たしたものの半死半生となった主人公の少年に対し得体のしれない医者が改造手術を行い、半機械ともいうべき状態で蘇生させ、その後少年は腕の立つ無宿の渡世人となって北関東を旅していくという内容です。
 基本的に数話ごとに話が終了する短編形式で進む漫画なのですが、元々鉛筆で書いたデッサン画のような描き方をする作者なだけに、時代劇形式を取っているこの作品は画風とのマッチが非常に高く、最初読んだときはかなり感銘を受けました。

 そんな「黒鉄」を私が最初に読んだのは学生時代、古本屋で1冊100円で売っていたのを購入したことからでした。冬目景氏についてはその代表作の「イエスタデイをうたって」はかねてから知っており、こんな漫画も描いていたんだというのが最初の印象でした。
 なお「イエスタデイをうたって」というタイトルを見るたびに「王様はロバ」という漫画で「イエスタデイのトゥモローはトゥデイ」というタイトルの歌が出てくるのを思い出します。

 話を戻すと、最初に「黒鉄」を読んだのはマジで20年以上前で、連載されていた時期に至っては30年以上も前だったりします。そんな昔の作品を何故今回電子書籍で購入したのかというと、この漫画がつい最近になって完結したと聞いていたからです。というのもこの作品、不定期連載で行われていたものの途中で掲載が途絶え、明確な完結を迎えないまま初期シリーズは5巻で打ち止めとなっていました。
 こうしたことはこの作者には非常によくあることで、先のアニメ化もされた「イエスタデイをうたって」も途中で連載が中断して長期間ほったらかしにされていました。こんな具合に冬目景氏は、次々と新連載を立ち上げては途中でほっぽりだす悪い癖があり、この「黒鉄」についてもまさにそんなほっぽり出された作品のひとつでした。

 ただ作者本人もそういう指摘を気にしてたのかこの10年くらいの間は過去作品の幕引きを積極的に図るようになり、この「黒鉄」もタイトルを「黒鉄・改 KUROGANE-KAI」に改め、2017年から定期的な連載が行われ、2020年に無事に完結に至ったそうです。この事実をつい最近まで知らなかったのですがひょんなことからネットの情報で耳にし、完結したのだったらと安心して今回の購入にリストにいれていました。
 なお年末セールがそろそろ行われるという予感はあったので、先月から買ってる漫画に新刊が出てもすぐ購入せず、ずっとストックしておりました。

 それで約20年の時を経て連載再開された「黒鉄」を今回一気に読んだのですが、個人的に驚いたのは20年前の画風がきちんと維持されており、大きな抵抗なく新装版も読むことができました。またその特徴的な画風もさることながら各話のストーリーもつなぎがいいというか先が気になるような展開と終わり方を毎回維持されており、単行本一冊だけ読むつもりが二冊、三冊とどんどん続いていって、こうした読者を引っ張るうまさは熟練したものを感じました。
 また今回は昔と違ってちゃんと完結まで持っていっており、変な消化不良もなく最後まで安心して読めて、読者として長い間待たされた感がありましたが非常に満足いく内容となっていました。

 なお久々に読んで感じたこととしては、今作のヒロインの紅雀の丹というキャラについて、えらく丸顔のキャラだなぁという感想を持ちました。このキャラは男勝りに腕が立つし気が強い少女なのですが、丸顔の上に髪型がおかっぱなのでその丸さがさらに際立つようになっており、少年っぽい少女という造形が強く反映されているように思えました。

 最後に蛇足でしょうが、先に挙げた「イエスタデイをうたって」はアニメ化されましたが、実際中身は見ていないもののそんなに話題になったとは思えず、そもそもアニメ化しようという企画自体間違ってたのではという気がしてなりません。この作者の漫画はアニメにするには非常に相性が悪い画風だし、さらに「イエスタデイをうたって」は90年代の時代間だからこそ評価されるのであって、現代であんなストーリやっても見る奴いるのかよと問いたくなります。
 なおこの漫画、大学時代に単行本を購読していて部屋の中においていたら後輩が「あ、この漫画新巻出てたんですね」というので、

「なんやその新巻出たのかなり前やで。出とるの気づかんかったんか?」
「(後輩の実家がある)島根にはこんな漫画、売ってるところありません。広島までいかないと買えません!」

 と言われ、これ以降、「島根ってヤバい僻地なんやな(´・ω・)」と無駄に島根に対して舐めた感情を持つようになりました。

2025年12月21日日曜日

知らんうちにえらいことになってたタイ経済

副首都、維新案に自民反発 「大阪ありき」協議難航も―首都直下地震(時事通信)

 上の記事見て真っ先に思ったのは「副首都ゆうたら奈良やろ」でした。平城京跡地に建物作っていいし、後醍醐天皇の頃には南朝も開かれてんだし、何大阪がしゃしゃりでてきよってんなどと、無駄に否か自慢したくなりました。


 話は本題ですが、昨夜見た上の動画を見て非常に参考になりました。このところあんまり勉強していない、っていうか日本語媒体だと意外と海外経済の情報って入ってこないし日本語雑誌も手に入らないのでおざなりとなっていましたが、見出しにも掲げている通りになんか知らない内にタイの経済がヤバいことになっていたようです。

 簡単に私の方から解説すると、80年代から90年代にかけてタイは日本などからの生産拠点移転に伴う投資を受け順調に成長し、もはや死語ですが当時なんかはアジアNIESと呼ばれるなど新興経済国として扱われていました。しかし97年のアジア通貨危機をきっかけにこの流れが一旦断たれ、中国の台頭を受けて移転先として価値が弱まっていきました。
 そこへきて10年代からは度々政変が起きて海外の投資家からも不安視され、さらには2016年には一心に尊敬を集めていたプミポン前国王が亡くなり、政情不安に拍車がかかるようにもなります。その上に、上の動画でも詳しく解説されていますが経済成長がある程度発展する前にタイは早くも少子高齢化に入ってしまい、なんと去年の時点で出生率で日本を下回るようになり、今後もさらに下がり続けると予想されているそうです。こうなった背景についても、上の動画で詳しく解説されています。

 前述の通り、個人的にはタイが出生率で日本をすでに下回っているという事実は非常に衝撃を受けました。日本は出生率が低いと言われつつ同じアジアでも中国や韓国を上回っており、なんかこれだと自分が散々批判している日本の少子化対策は効果を出しているように見えてきます。ちょっとマジこの辺の見方は変えようかな(;´・ω・)

 敢えて上の動画にない点を自分の方から付け加えると、中国との絡みでは実は2011年に少し動きがありました。本格的に荒れるのは翌年の日本の尖閣諸島国有化の時なのですが、既にこの時点で多くの日系企業が中国の政治リスクを懸念し人件費も高騰してきていたので、生産拠点を中国からほかの国へ移すことをよく議論していました。でもって、その移転先の第一候補というのもタイでした。
 何故タイが最有力候補として扱われたのかというと、ホンダ系をはじめ既にある程度日系企業が進出しており馴染みがあったことと、中国のように政治問題が加熱することはないという安全性からでした。そのため多くの日系企業がかなりマジで移転を準備していたのですが、2011年のタイ洪水で自然リスクを目の当たりにし、一気に移転熱がしぼんだことがありました。またタイに進出する場合、聞くところ現地のタイ人を一定数雇わないと会社設立が認められないなど、中国以上に進出制限が厳しく、この点でも進出を敬遠する企業が少なくありませんでした。

 そうこうしているうちに中国は市場がデカくなって、現地販売込みならばと生産拠点はそのまま存続されることとなりました。それでもより低コストを目指して動く企業なんかは、私の周りだとやはりベトナムが最有力候補で、次いで経済拡大が著しいインドネシアやフィリピンなどが来て、タイが候補として挙げられるのはほとんど耳にしません。
 またその後は戦術の通りタイでは政変が相次いでいるうえ、今年に入ってからは隣国カンボジアとの紛争も頻発するようになり、恐らく今タイへの進出または追加投資を考える日系企業はほぼないんじゃないかと思います。むしろタイからベトナムなどへ、アジア地域の拠点機能を移そうとする企業の方が多いでしょう。だとすると、タイと日本のかかわりは今後ますます弱まっていくことになるでしょうが、それは日本に限らず、タイ経済の未来はかなり厳しいという懸念がもたげます。

 最後に余談ですが、タイと自分が一番密接だった頃は北京の留学時代で、クラスでいつも隣の席にタイ人女性の生徒がいました。顔合わすのは教室だけでしたがそこそこ仲良く、年下だと思ってたら向こうのが年上だということに最後に気が付いたのを今でもよく覚えています。

2025年12月20日土曜日

漫画化したら売れると思う歴史人物



 今日今まで一度も言ったことなかったため上海植物園(無料)行ったけど、冬だからかめっちゃ寂しい風景しかなく、なんか写真撮っても「寂しい風景選手権」みたいなのしか残りませんでした。あと今日昼過ぎまでめっちゃ暑かったけど、四時過ぎから急に冷え込み始めた(;´・ω・)

 話は本題ですが漫画大国なだけあって日本には多くの歴史人物の伝記漫画が既に存在しています。学習向けもあればエンタメに振った作品も多く、著名な人物なんかほぼ確実に何かしらで作品化されている状態です。ただ中には、凄い面白そうなのにあまり取り上げられず、描いたら売れるのになと思う人物もいるので早速上げていきます。

・福沢諭吉
 学習用の伝記漫画こそあれど商業誌の漫画で福沢諭吉が描かれることはほとんどなく、脇役としても出てくることがほとんどない気がします。自分も知ったのは最近ですが実際の福沢諭吉はかなりファンキーというかユーモアある人物で、咸臨丸で米国に渡ったことばかり有名ですが、その後の遣欧使節の船にもまんまと乗り込み、非常に早期に米国と欧州の両方を見て回るなどキャラ的にかなり面白いです。
 また明治以後は文字通り日本のオピニオンリーダーとなり、彼の脱亜論は明治維新以後における日本の基本方針となったことも考えると、もっといろんな人が漫画化してもいいと思います。けど今のところほとんどなく、慶応の連中は何やってるんだとちょっと持ったりします。

 大分前にもこのブログで取り上げましたが、戦国時代の熊本にあった阿蘇家の重臣である甲斐宗運なんか漫画化したらかなり化ける人物だと思います。というのも、主家のためには実の息子すら手に掛ける日本人にしては珍しい苛烈な忠誠心もさることながら、彼のいた時代の九州は主導権が目まぐるしく移っており、そのほぼ全てに甲斐宗運は外交官としてかかわっています。
 具体的には、大内→大友→龍蔵寺→島津といった具合で主導権が移るのですが、弱小勢力の阿蘇家は主導権が移るたびに同盟相手を変えることで、甲斐宗運の生きていた間は命脈を保ち続けました。彼を描くことで、これまた取り上げられる機会が少ない戦国時代の九州も追えるので、漫画家志望の人なんか彼を描くのをマジおすすめします。

 同じ九州地方、それも南北朝時代も何故だか取り上げられる機会が少ないですが、その渦中においてほぼたった一人で圧倒的逆境から主導権を取り返した今川了俊も、漫画化したら凄い面白いと思う人物です。
 簡単に解説すると、南北朝時代の初めは賢い息子に恵まれた後醍醐天皇の子息の中でも最優秀と名高い懐良親王が勢力を広げ、幕府が九州探題として派遣した人物が九州に入れないくらい席巻してました。そこで東海地方の今川家で家督を継げなかった今川了俊が来るや、山口県の大内氏と連携してあっという間に九州をまくり、南朝勢力を劇的に衰退せしめています。こうした武功面だけでなく文化面でも非常に優れた人物だったと言え、脚色しやすい所もあるだけに、上の甲斐宗運同様に手垢がついていない歴史分野でもあるので描き方によっては売れるという気がします。

・ジョン万次郎
 はっきり言って、めちゃくちゃエピソードが多い。漂流してアメリカ船に拾われただけでも面白いのに、その後ゴールドラッシュのサンフランシスコに行って金を貯めて日本に帰って来たり、米国の知識を買われて土佐藩士になったかと思えば、幕府に引き抜かれ旗本になるも、スパイと疑われて命まで狙われたりと波乱万丈が過ぎます。
 ただ本当に彼については「この時代にいてくれてよかった……」と思うほどの人間で、その功績もあまり評価されていないと思う節があるだけに、有り余るエピソードをうまく消化して面白い漫画にする人が出てきてくれないかなと密かに願っています。マジで彼がいなかったら、日本の歴史はまた違ったのではと思うくらいだし。伝記漫画はあるけど、商業誌の方が彼は映える。

 以上ざっと4人ほど上げましたが、その気になればまだまだ探せるでしょう。逆に漫画化されることが多い人物を挙げるとしたら、多分トップは坂本龍馬で、その理由は知名度と脚色しやすい経歴だからじゃないかと思います。次に来るのは多分信長で、彼に至っては脇役を含めると龍馬よりも多いでしょう。戦国タイムスリップ物ではほぼ確実に登板してくるので、やや登板過多じゃないかという気がしますが。

2025年12月18日木曜日

そもそも、なんで幸せにならなければならないの?


 本題と関係ないというかほんとはこっちを本題にしようとしてました。今日、高市総理は年収の壁こと個人所得税の基礎控除枠を現行の160万円から178万円に引き上げ、尚且つ対象範囲を年収200万円いかから年収665万円以下にまで引き上げることで国民民主と合意しました。この方針は私も大歓迎で、ただでさえ人手不足だけどこの年収の壁が邪魔となって労働時間を増やしづらかった労働者が、この改正によって労働時間を増やしてくれれば労働不足問題も緩和が期待されます。
 それ以上に、この2年くらいの急激な物価高への家系対策としても非常に重要で、歳入の減少は否めないものの政府だけでなく国全体で見たら、この基礎控除引き上げ拡大はメリットの方が大きいと思います。まぁ懸念があるとしたら、公定歩合引き上げによる国債の支払利息が増える点ですが。

 逆を言えば、この基礎控除の引き上げを中途半端にしかやらなかった石破前総理にはマジで嫌悪感を覚えます。自分は何もしなかったくせに高市総理には発足当初からねちねち文句言うのも何様だと思ったし、そもそも公明党離脱は自身が汚職対策やらなかったのが最大の原因だったのに、それを棚に上げて「高市のせいで」と言ったのは見ていてほんと腹が立ちました。鳩山に次いで戦後最低の総理でしょう。

 話は本題に入りますが、いつも聞いてもないのに中国のBL事情についていろいろ教えてくれる中国人の友人からチャットが入り、なんやねんと開いたらある記事のリンクがついてました。その記事は日本を旅行した中国人のブログで、見るからに給与の少なそうな物売りのおばさんを見て「あんな仕事で楽しいのかな」と言ったら、日本の友人が「でも幸せそうじゃん。別に給料とか少なくったって幸せでしょ」と言い返したことに、なんかショックを受けたということが書かれてました。
 その中国人によると、日本人はミニマリストをはじめ慎ましい生活でありながら幸せだという人が多くいる。それに反して中国は如何に「ほかの人より上であるか」を幸福の基準としていて、高い地位や収入なくして何が幸せかという概念が強く、そのようなものがなくても幸せだと言っている連中は負け犬の遠吠え的に扱うところがあります。こうした中国と比較してそのブログの人は、「日本人の幸せの価値観は中国とは違う」という風にしてまとめてました。

 言わんとしていることはわかるのですが、日本人の自分としてはこの点で中国人をあまり笑うことはできません。というのも日本も昔は中国とそんなに差はなく、失われた十年を経て価値観変わって、「幸せは人それぞれ」、「お金なくても幸せはすぐそこに」なんて言う風に価値観変わってったと思ってるからです。なので中国もこれから不景気に入っていくら努力しても成功が得られない状況を体験すれば、日本人の幸福価値観をすぐ理解できるようになると思います。

 といったことを紹介してくれた友人に説明するとともに、「ちなみに日本の水木しげる大先生は、好きに食べれて寝れればそれで幸せと語っていました、これ真理(σ・∀・)σゲッツ!!」と返信しました。
 あと少し脱線しますが、前に見た山田令司氏の動画で日本人の幸福価値観の変化で象徴的なのが安野モヨコ氏が1995年に連載開始した「ハッピーマニア」で、この漫画から恋愛至上主義というか、恋愛を楽しむか否かが幸福を全て左右する価値観が生まれたという指摘があり、なんか興味そそられました。

 話を戻しますが、いわゆる物質的、金銭的理由以外の幸福を日本人が求めるようになったのは上記の通り不況による消極的理由だと私は考えています。これによって日本人の幸福感というか条件は多様化するようになったわけなのですが、この条件の多様化が実は前気になってました。要するに、幸福であることの条件が人それぞれ違うとしたら、幸福に定義なんてあってないようなものじゃないかと思ったわけです。
 例えばAさんは1LDKの家に住んでいると幸せを感じるけど、Bさんは1LDKだと幸せだと思えず、1Kの部屋じゃないと幸福感を覚えないとします。仮にこうだと、幸福の条件は1LDKでも1Kでもなく、なんかすごいあやふやな感じがします。

 次に思ったこととして、そもそもなんで人は幸せを追い求めなければならないのかという点で疑問を覚えました。極端なこと言う人なんか幸福でない人生は無価値だ的に言い放ちますが、前述の通り幸福であることに定義なんてあってないものです。また苦しみながら死ぬとしても、仲間を守って死にゆくとしたらその人は幸福でないのかと言われた私は疑問です。本人としては満足行く死に方だとしても、苦しみながら死んだからそいつは幸福ではなく不幸な人生だったとかいう人いたら、私はその人の人間性に疑問を覚えます。
 また誰にも看取られず、貧困にあえぎながら孤独に死ぬ人がいるとします。これも一見すると不幸かもしれませんが本人としてはもう十分活きたし満足感を持って死んでいたとしたら、これもまた不幸として扱うのかで疑問です。

 ここまで読んで気づく人もいるでしょうが、満足感あればどんな環境や条件でも、多分死にゆく人は幸福感を覚えながら死ぬんじゃないかなと思います。また死に際でなくても、今の状況や状態に満足感あれば、それもまた本人も周りも幸福であると捉えるのではないかと思います。となると、幸福というのは金銭的なものとか名誉的なものではなく、満足感こそが重要だ……って言いたくなるかもしれませんが私はそんなこと毛頭も思っていません。

 いわゆる悲劇的な人生、他人に裏切られ失意のうちに亡くなるとしても、そうした悲劇は観衆の胸を強く打つことがあります。そうした他人を打つような人生が「不幸」と言い切れるのか、。たとえ本人が不幸だと感じていたとしても、苦しみながらも必死にあえいて閉じた人生は「幸福」ではなかったのかという点でも疑問を覚えます。

 などと考えてるうちに、途中で言ったようになんで人間は幸福を追求しなければならないのか、幸福でないと無価値だと切り捨てようとするのかが疑問に思うようになりました。別に幸福でなくても生きていけるし、苦しい状況や体験も人生に価値をもたらす上で重要じゃないかとも思えるのに、なんで幸福じゃないとだめなのという感じになってきました。
 そもそも、この幸福にならなければだめという意識ゆえに、逆に自分を追い込んで不幸とみられる状況に陥る人の方が圧倒的に多い気がします。冒頭の中国人の幸福感なんて、まさにその典型です。さらに言えば、幸福の定義はこれもさっき言ったように非常にあいまいで、なんかわけわからない条件や定義に振り回されて精神おかしくしたり自分追いこんだりするのはある意味滑稽で、それはそれで喜劇です。

 以上のように考えが至ったところで、何となく人間は「幸福にならなければならない」と思い込む病気というか呪いめいたものを背負っているのではと思うようになってきました。敢えて評すれば一種の疎外論で、幸福への意識ゆえに振り回されているように見えます。
 このように考えると、水木しげるの言うとおり最低限生き続けられる条件となる食べて寝れればそれでよしというのが本当に正しいと思えてくるいうか、それ以上に幸福の条件を変に弄ったら逆に損することになる気がします。結論として言えることは、幸福というのは逆に深く考えちゃいけないものではないかというのが自分の意見です。

2025年12月16日火曜日

マスマーケティングはもはや時代遅れ?

 上海は先週土曜は気温下がって室温も13度まで行ったものの、その後再び暖かくなりなんか暮らしていてこんなんじゃないというか冬なのにテンション上がりません。逆に去年はかなり冷えてずっと寒かった気がするのですが、去年が厳冬で今年は暖冬なのだろうか。

 話は本題ですが地味に自分の家系は代々広告屋で、私自身は広告関連企業で働いたことはないですが一時はメディア業界にいて、案外こういうものは続くもんだと思ったことがあります。なお今は広告とは無縁な業界でもう10年近くも同じ会社にいます。
 その広告というかマーケティングですが、大別するとマスマーケティングとダイレクトマーケティングの二種類に分かれます。前者はテレビや新聞広告などで、社会の中で対象を選ばず幅広く商品やブランドを訴える広告です。後者はウェブ広告などが主で、マスとは逆に対象を絞りに絞って関連商品を購入したユーザーなどに「こんなのもありますよ」と同種の商品やサービスを紹介する広告です。

 で結論からいうと、全く無価値になったとまではいわないもののマスマーケティングはかつてと比べその効果は比較にならないほど落ちており、それどころかリスク満載で主要な広告手法とはもはや言えないというのが自分の見解です。

ファッションリーダーが消えた(´・ω:;.:…

 上のリンク先は前に書いた記事ですが、このファッションリーダーが現代においてほとんど存在しないこと一つとっても、マスマーケティングがもはやほとんど通用しないことを示す証左だと思います。端的に書くと、かつてと比べると「あの人が使ってるから自分も使いたい」という消費欲求が起きることがほとんどなくなっており、広告でアイドルに商品やサービスを使わせたところで一般消費者もその通り動くかと言ったらほとんど動かなくなっています。
 こうなった背景は非常に単純で、嗜好の多様化が原因です。チキンカレーが好きな人もいればポークカレーも好きな人がいるなど、人によってその趣味嗜好はバラバラで、かつてのように誰もが巨人を応援したり、バーチャファイターで遊んだりと一つの対象に多くの人が殺到するシーンはもはやほとんどなくなっています。

 そもそも何故嗜好が多様化したのかもう少し掘り下げると、非常に単純化して言えば娯楽が溢れるようになったからでしょう。かつては余った時間に消費する娯楽コンテンツが少なかったため麻雀やテレビ番組をみんな共通して消費したでしょうが、現在はゲーム一つとってもたくさんあり、動画に関してもテレビ番組だけでなくネット動画も溢れ、海外の動画でも字幕つけて見られるくらいです。
 当然ながら一個人がありとあらゆるジャンルのコンテンツを消費しきれるわけなく、それぞれの嗜好に合わせて好きなジャンルのコンテンツを消費するようになり、かつてのように少ないジャンルに多くの人が集中することはなくなりました。この時点で、マスマーケティングの効果は大きく薄れたと言っていいでしょう。

 その上で述べると、かつてと比べるとポリコレなどが厳しくなっており、マスマーケティング一つ打つにしても多方面のリスクに気を配らなくてはなりません。ダイレクトマーケティングなら対象が絞られており、多少きわどい言葉や表現でもその対象の嗜好範囲に合った表現なら誰もとがめることはないものの、「トチ狂ってお友達にでもなりに来たのかい?」なんて某ガンダムのセリフをマスマーケティングとかで打ったりしたらかなり叩かれること間違いないでしょう。
 またマスマーケティングで芸能人を使用した場合、その芸能人が不祥事を起こすリスクも抱えなければなりません。私も去年の今頃なんか家の鍵を締めるたびに「吉沢亮がはいってくるかもしれんしな(´・ω・)」などと常に口にしていました。

 もちろんマスマーケティングが完全に価値をなくしたわけではなく、新興企業が知名度やブランド価値を高めるために有名芸能人を出して社名連呼させるだけのCMなんかは費用対効果的にも割に会うと思います。しかし既存の商品やサービスに関しては、新規消費者層の獲得においては口コミの重要度の方が近年ますます高まってきており、であればダイレクトマーケティングで既存消費者層をより固める方が経営的にも正しい気がしてなりません。

 実際こうした動きを反映してか、昔なら年末のこの時期の年間広告大賞のニュースとかが出て今年一番評価されたテレビCMなんかが紹介されてた気がしますが、この10年くらい広告大賞のニュースなんかほとんど見ませんし、そもそも話題になるCMの噂すら誰もしなくなりました。昔は日清のベルリンの壁崩壊を使ったCMとかいろいろあったのに。
 逆にというか炎上した広告に関する報道は前よりよく見るようになっています。この一点で持っても、マスマーケティングが得られる価値が低いのにリスクはうなぎ登りという悪循環に陥っているように見え、どっちかっていうのならダイレクトマーケティングに注力した方がいいんじゃないのと思えてなりません。

 その上で、変にいい広告を選ぶ広告大賞なんかやるんじゃなくて、今年一番炎上した広告は何かという炎上広告大賞をやる方が盛り上がるような気がします。自分の中では今年一番ヤバいと思ったのは巨人の「父のキゲンは、巨人が決めている。」で、一目見た瞬間に「ああこれ炎上するな」とすぐ直感で感じました。っていうかこの広告を企画した奴、OK出したやつは正直言ってかなりヤバい奴にしか思えてなりません。

 逆に一番印象に残ったのは、東洋水産のジークアクス使った赤いきつねと緑のたぬきのマーケティングです。っていうかこれ見た後、まるでジークアクスはこの商品をプロモーションするために作られたんじゃないかって思うくらいぴったりな配色とキャラだと思え、最初に企画出したやつは上の巨人とは真逆にいい意味でヤバい奴だと思いました。

2025年12月15日月曜日

職業が権威を失っていった平成期

 昨日の記事で少し触れた「みいちゃんと山田さん」という鬱漫画についてこの本を勧めてくれた友人に感想を述べた際、作中で描写のある女子刑務所について昔は弁護士がうるさく、この作品のように表に出すことはできなかっただろうと言われました。自分もそうだと思います。
 そのシーンに限らず自ら進んで体を売ろうとする女性の描写も、いわゆる人権派弁護士が活躍していた頃には「そんな女性なんていない!女性はみんな性搾取の被害者だ!(# ゚Д゚)」と吠えて、攻撃していたことでしょう。しかし現代においてこのような主張をする弁護士はまだ一部存在するものの、その発言力は既に地に堕ち、誰も相手にすることもありません。

 このように人権派弁護士が転落していった背景については触れませんが、そもそも論として弁護士という職業が尊敬や憧れを持たれなくなったというか、平成初期と後期で比較するとその権威は丸ごとなくなっています。現代でも弁護士と言えば「賢い人」と思われるでしょうが、尊敬される対象には必ずしもならないでしょう。
 一方、平成初期なら弁護士と言えばまだ周囲から敬意を持たれ、各地で名士として扱われるなど権威があった気がします。しかし弁護士による詐欺事件や、ロースクール構想をはじめとする司法制度改革の失敗のあおりを受け、その権威は前述のようにかつてと比べ大きく落ちており、ただ弁護士というだけで尊敬される対象ではなくなっています。ただこれは弁護士に限ることじゃありません。大半の職業で、その権威は平成期にかけて大きく低下しています。

 主だったものを挙げるとまず警察で、これなんか大半が神奈川県警と交通取り締まりのせいだと思いますが、お巡りさんのことをすごく頑張っている人と思う人は本当に減った気がします。次にマスコミ、特に新聞記者に至っては昔はかなり権威持っていてその発言も重く扱われていた気がしますが、現代のいては週刊誌記者とそんなに大差ないくらい権威が落ちているように見えます。いや、週刊誌記者を馬鹿にするわけではなく、相対的にかつては上だったのに同列まで落ちたという意味で……。

 これら職業の権威が何故これほど落ちたのかというと、第一義的には各職業従事者の犯罪や不正事件が社会に伝わったことが理由ですが、何故それらが表に出てきたのかというというまでもなくインターネットの発達で、ネットによりそれまで出てこなかった権威ある職業者の事件が表に出るようになり、彼らは権威を落としたと言って間違いないでしょう。実際、私自身も新聞社の関係者が事件起こしたのを、所属する新聞社が全力でもみ消して報道を防いだという例をいくつか見ています。
 しかしインターネットの発達以降、それこそ人権派を名乗る弁護士のあくどい所業などかつて覆い隠されてきた事案も掘り当てられ、丸裸にされる形でこれら職業の社会における権威はみるみる落ちていきました。教師とかもそうですが、その職業にあることから「あの人が言うんだから間違いない」とされることは現代においてもうないでしょう。

 そんな現代においてまだ権威を持つ職業があるのか考えてみましたが、私の中では航空機のパイロットと消防士なんかはまだ権威を保っているというか、自分自身がその職業者に対し敬意を覚えます。逆を言えばそれ以外は敬意なんて覚えず、議員に関してもまだある程度権威を保っているものの、それでもかつてに比べれば大きく落ち、各地の地方議員の不正も相次いでいるから今後さらに落ちると予想しています。

 その逆にというか、かつてはやや蔑視されていた風俗関係者などに対する偏見は逆になくなってきている気がします。AV女優とかでも公共放送に出演したり過去を隠さなくなってくるなど、かつてと比べると後ろめたさはかなりなくなっているように見えます。それこそ平成初期なんかはキャバクラで働いていた前歴すら隠す人が多かった気すらするのに。
 以上を踏まえると、平成期は職業における貴賤観が上下で縮小した期間だったように思えます。これがいいことか悪いことかはちょっと判断し辛いのですが。

 最後にもう一つ付け加えると、この流れは何も日本だけじゃない気がします。欧米でも「そんなことするはずない」とみられもみ消されていた聖職者の性的虐待事件が相次いで明るみになり、遠目で見る限りだとこうした宗教関係者の権威も大きく低下しているように見えます。それもやはりインターネットによる告発が大きな主原因であるように見え、ネット自体が社会的影響力のフラット化で大きな役割を果たしていると言え、そう考えると旧メディアは逆方向にベクトル動かしてたのかなと今更ながら思えてきます。

2025年12月14日日曜日

日本を例にした雇用と効率に対する見解

 DMMが割引セールを始めたので前から目をつけてた本をまとめ買いしましたが、その中に何故か「FX戦士くるみちゃん」と「みいちゃんと山田さん」という鬱漫画二本が入ってて、この土日はくるみちゃんとみいちゃんに費やされた感じがします。なおくるみちゃんの方はほかの人も書いていますが、読んでてマジ胃が痛くなる

 話は本題ですがかねてより私は日本経済はいまかなり好調で、確かに賃金の伸びが物価上昇においついてはいないものの雇用がともかく充足しており、また社会保障費の伸びもひと段落つきつつあると前向きに見ています。また産業に関しても、製造業はだめでも日本は現在もなお伸びしろを持つ観光業をさらに伸ばせば雇用は充足されるし、今後20年くらいはこの路線で走れば問題ないなどということをある友人に話したら、

「でも、製造業と比べると観光業の生産効率(単位労働者当たりの生産高)は低いし、資源のない日本が存続していくためにはやはり製造業が必要では?」

 という風に言われました。高市総理と同じ畝傍高校出身なだけに賢い……。

 この友人の言う通り、製造業と比べると観光業の生産効率は確かに劣るでしょう。わかりやすく言えば100人が1ヶ月働いて製造業なら10万ドル稼ぐのに対し観光業は2万ドルくらいにしかならず、海外からエネルギーや食糧を輸入する外貨を稼ぐうえでは効率は遥かに落ちるでしょう。
 ただ観光業の強みとして外貨を直接稼げる、つまり外貨決済や送金という手間なく、さらには決済期間なしで外国人観光客から直接現金でもらえるという強みがあり、この辺も考慮したら観光業にも追い風が吹きます。具体的にどっちがいいのかマネタリズムは正直苦手で正確に比べることはできませんが、観光業には観光業なりの製造業に対する産業としての強みがあるのではと思います。

 話を戻すと、そもそも日本が平成期において製造業を維持していかなければならなかったのはやはり、その比較的多い人口に対し雇用を維持するためだったと私は考えています。中国やインドと比べるとさすがに負けますが、それでも日本はその規模や国土に比して比較的人口の多い国であり、その人口を養うというか各国民個人が自活できるよう雇用を維持するには、雇用吸収力の高い製造業(売り上げが大きくて利益が低い)が昭和、平成期にかけて必要でした。
 例えば同じ製造業でも鉄鋼製品の生産とAIなどのハイテク産業を比較すると、利益のでかさならハイテク産業の方が絶対的に多いはずです。しかしハイテク産業で必要とする労働者の人数は鉄鋼製品メーカーと比べると遥かに低く、且つその労働者には高い素質が必要です。こうした観点に立つと、雇用吸収力という点でハイテク産業は製造業に大きく劣ります。

 それこそ、人口が100万人くらいの国ならハイテク産業に特化する産業政策をしてもいいでしょう。しかし日本のように1億超の人口を抱える国でハイテク産業に特化しようとしたら、就職にあぶれた失業者も出ることとなり、ハイテク産業で稼いだ利益を失業者の扶養に消費しなくてはなりません。その結果、稼いだ利益はほとんどなくなり、下手すりゃマイナスになります。
 それに対し雇用吸収力の高い製造業を維持すれば、少なくとも失業者の数は減らせ、得られる利益は少ないものの食わせる費用も減り、結果的に収支でプラスを維持できるという計算になります。

 ここで私の推す観光業の特徴を話すと、製造業に近く利益は低いものの雇用吸収力が高くなっています。特に雇用吸収力に関しては製造業以上ともいえ、現場研修などの負担が低くすぐ労働現場に入りやすい点もあるように見えます。もっともその分、冒頭で書いたように生産効率で劣り稼げる利幅はさらに減るでしょうが。

 私個人の考えで話すと、今後日本はさらに人口が減っていくので維持すべき雇用の数はさらに減っていくと思います。なので製造業を投資、維持する価値は今後減り、せっかく盛り上がってきていることだし観光業で雇用を埋めていくという方針をこのまま維持してもいいのではと思います。観光業を盛り上げるついでに、日本の弱みである外国語能力者も増やせばなおいいでしょう。
 その上で外貨を稼ぐうえで、ハイテク産業にも投資する。つまり製造業で働いていた層を、労働能力で見て上はハイテク業、下は観光業へと徐々に比率をシフトさせていくという方針で経済組めばある程度回るんじゃないかと都合よく考えています。もちろん製造業をこのまま維持するのもありでしょうが、何となく現代日本人の気質が製造業から離れているように見えるし、投資に金かかるし、国際競争も激しくなってきているので、観光の方がメリットあるように思っています。

 この辺で矛盾抱えてきているのは中国です。ロボットやAIなどハイテク産業が盛り上がっていますが、これらは前述の通り雇用吸収力が全くない産業です。いまだ膨大な労働者人口を抱える中国からするとハイテク産業が伸びて従来の一般製造業が弱まると失業者が大量に増えることとなり、ハイテク産業を伸ばしつつ製造業の維持に多大な費用をかけなければならない状況にあるとみています。まぁ平成期の日本も、似たようなもんだったのですが。
 その上でまとめで言うと、確かにハイテク産業など稼げる産業がデカくなれば一見して経済が回るように見えますが、失業者が増えていくと結果的にマイナスになるというのが私の基礎理念です。そういう意味で経済、というより景況感というのはGDPをどれだけ稼ぐか、経済効率がどれだけ高いかよりも雇用充足率、つまり失業率がどれだけ高いかの方がもろ影響するのではと思います。言うなれば稼げなくてもみんな自活できるくらい雇用がある状態の方が結果的にはいいという風に考え、雇用を守るという観点から経済政策は組むべきだという立場を取ります。