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2011年10月27日木曜日

忘れられない二つの寓話 前編

 私は中学受験をした関係から小学校四年生から塾通いを始めましたが、この過程で得た大きな経験として当時に大量の評論文を読んだことが挙げられます。基本的に塾での国語の時間は現代文を読んで問題解答に取り組むのがオーソドックスですが、題材に使われる評論はそれこそ授業ごとに変われば毎週行われるテスト時にはまた別の評論が出てくるなど、真面目な話であれだけ多種多様な評論をまとめて読むというのは成人や大学生でもほとんどいないんじゃないかと思います。
 そんなたくさん読んだ評論(小説もあるが)の中で、未だに折に触れては思い返し、自分に強い影響を与えた話が二つあります。最近スランプを克服してきているのもあり、ちょっと前後編に分けてその二つの評論こと寓話を紹介しようと思います。

 本日紹介するのは評論というか昔話ですが、以下にざらっとあらすじを書きます。

 時代は江戸時代頃で、ある日武士が鍛練として外で弓を打ち込んでいると、商人らしき男が近くに座りその様子を眺め始めました。武士はその商人の前で的のど真ん中に何本も矢を的中させ「どうだ俺の腕前は( ゚∀゚)」と商人に尋ねましたが、武士の問いに対し商人は「手馴れてますね」と、大して感動する素振りも見せず答えました。
 商人の答えにむっとした武士は、「これだけ正確に的中させているのに手馴れているはないだろ。達人級の技だぞ俺の弓は(゚Д゚#)」と言い返しました。すると商人は財布から穴の開いた貨幣を取り出すや瓢箪に詰めた油を上から注ぎ、こともなげに油をひっかけることなくその貨幣の穴に通してみせました。
 妙技を見せた商人は「毎日その作業に携わっていれば自然と腕は熟達します。達人などと自分の腕を誇るまでもないでしょう」と語り、武士もその言葉を受け商人に非礼を詫びたとのことです。

 何故だか知りませんが、この寓話だけは今の今までずっと忘れずによく思い返しております。
 この話の中の商人の言う通り、私は大抵の行動というか作業での上手い下手というのはその作業にどれだけ慣れているかの違いでしかなく、才能とかそういったものが作用する要素というのはごくごく微量だと考えています。そのためたとえどれだけ自分がほかの人より優れた技術、それこそタッチタイピングの早さとか文章量の多さなどで勝っているとしても、それらはただ自分がそうしたものに触れる時間が長かっただけでほかの人も時間をかければ同じ水準に達することができるので威張れるようなことじゃないと肝に銘じてます。もっともこれとは逆ベクトルの考え方もあって、自分よりゲームが上手い人とか見ると、「俺だって同じくらい練習すればすぐに並べるんだよ」などと妙な負けん気を持ったりしますが。

 ここで少し話が飛びますがよく他人を指導していて思うこととして、人間には鍛えられる部分とそうでない部分ではっきり分かれる気がします。これまたたとえを出すと文章を書く技術なんかはまさに前者で、指導する際はどれだけ文字量を多く文章を書かせるかにかかってきて、相手が書く気を起こすようなテーマを出すことが重要になってきます。逆に後者こと鍛えられない部分、センスとでも言うべきものは全く以って成長させることができないわけじゃないものの、ただ時間をかければ伸びるわけでは決してありません。もっともこういうのは非常に少ないですが。
 オチらしいオチに乏しいですが今回が私が言いたかったことというのは、大抵の技術というのは時間さえかければ上達速度に差こそあれども誰でも習得できる可能性が高いということで、「出来る、出来ない」ではなく「やるか、やらないか」ではないかということです。

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