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2019年5月13日月曜日

伊藤博文と山県有朋の師匠筋

 伊藤博文と山県有朋と言ったら長州閥の大首領ということで誰もがおなじみですが、最近この二人についていろいろ調べていて感じたこととして、どちらも長州出身者ではあるものの明治以降に師事した人物は大久保利通と西郷隆盛という、薩摩出身者であるということに気が付きました。

 伊藤博文が大久保利通を師事したというか付き従っていたのは有名で、明治政府に参画して以降は大久保の手となり足となり、同じ長州閥の木戸孝允が下野した際も大久保の元に残りました。そして大久保が紀尾井坂の変で暗殺された後、実質的に彼の後継者となって官僚制による中央集権体制の確立を目指し、国会開設を除けばほぼ大久保の敷いた路線を実行したと言えるでしょう。

 一方、山縣有朋の方は戊辰戦争の頃より奇兵隊を率い、西郷の指揮下で軍事行動を行っています。もっともこの頃に西郷に最も可愛がられたのは同じ長州出身の山田顕義でしたが、戊辰戦争後に陸軍を引っ張る立場だった大村益次郎の死後、彼が構想した徴兵制の実現を目指した山縣でしたが、徴兵制導入にあたっては内外から異論が相次いだことより、西郷にやってもらうしかないと大久保らとともに鹿児島へ政府入りの説得に赴いています。
 その後、政府入りした西郷とともに山縣は徴兵制導入を主導してこれを実現します。なにげに二人とも岩倉遣欧使節団に加わらず留守政府を任され西郷とともに内政を切り盛りし、この間に徴兵制実現のために実現しなければならないステップこと廃藩置県も実現に持っていっています。

 しかしその後、西郷は征韓論論争に敗れて下野します。実はこのとき山縣は地方巡察中で東京の政府会議には参加していなかったそうですが、西郷との関係もあって木戸や大久保の側には立たずどっちつかずな立場を取っていたそうで、これに激怒した木戸によって若干左遷っぽい憂き目にあっています。逆を言えば、長州閥の木戸に無条件で与しないほど西郷との関係が強かったと言えるでしょう。

 そしてその後西南戦争に及び、山縣は討伐総責任者として出陣することとなります。かつて、「その時歴史が動いた」か、「歴史秘話ヒストリア」でこのときの山縣が取り上げられていたのを見ましたが、西郷とともに作り上げた徴兵制の部隊によって武士の部隊を打ち倒す、まさに時代の分かれ目となる戦争だったと描かれていました。
 もっとも戦闘当初は西郷軍をなかなか打ち破ることができず、元武士の警察官らによって組織した抜刀隊を投入するなどして最終的には勝利することができました。

 なにも西南戦争に限るわけではないですが、山縣は軍人としては非常に慎重で、果断な進軍とかは一切せず一つ勝っては休み、二つ勝っては休むというくらいゆっくり進軍する癖があります。そのせいか長岡藩との戦闘では、一度奪った長岡城を一息ついていたら奪い返されるという憂き目にあいましたが。
 ただこのように戦術レベルでは慎重過ぎるところがあるものの、戦略レベルでは意外としっかりしており、西南戦争勃発の一ヶ月前から不穏な動きを察知して熊本鎮台(熊本城)に周辺から兵や物資を集め、防衛に備えていました。またこの西南戦争でも、戦術面ではやっぱりうまく行かず、最終的には西郷に可愛がられた山田顕義らの別働隊の活躍もあって撃破していますが、この間の補給や兵力増員などは適切で、何より西郷軍を取り囲むかのように軍を移動させて壊滅に追い込んだあたり、戦略的には比較的優秀と思う節があります。まぁ戦術はやや疑問符付きますが。

 そんな山縣ですが城山の決戦にて西郷軍を撃滅し、西郷の死を確認した際は涙したといいます。その後の山縣を見ても、やはり西郷から強い影響を受けたと見られ、大久保の後継者が伊藤だったように、西郷の後継者も山縣であったとこの頃思うようになりました。

2 件のコメント:

サカタ さんのコメント...

確かに伊藤の師匠は大久保で山県の師匠は西郷ですよね。ただ山県は収賄容疑で一度中央政府を追い出されている身で、それ以降長州派閥の勢いが衰えてしまった感はありますよね。

花園祐 さんのコメント...

 実はこの夏恒例の歴史特集で長州閥を特集しようと思って、パイロットとしてこの記事を書きました。実質長州閥=山縣閥で、山縣の一時失脚以降がむしろ天下となりますが、そこからの落ち方がドラマチックなので、今度頑張って書きます。