選挙選挙と言われながらも、とうとう今年も年を明けそうです。福田前首相は起死回生の策として自分が辞任することによって新たに自民党代表選を行い、その熱が冷めないうちに選挙に持ち込み選挙を制すという手段を取ったのですが、そうして登場した現麻生内閣は当初でこそすぐに解散総選挙に持ち込むと言いながらもずるずると状況を引っ張って支持率も激減し、かえって福田内閣末期異常に事態が悪化しております。
ここで一つの疑問ですが、何故麻生首相は選挙を先延ばしにしたのでしょうか。この件については様々な評論家がそれぞれの意見を述べ合っていますが、まず共通した意見として発足した当初は確かにすぐ解散を行う意思があったようで、わざわざ文芸春秋上でも「即、選挙だ」と麻生首相も自ら述べていたので私もこれを支持します。
では何故、それが心変わりしたのでしょうか。一部の人などは「まさに君子豹変す」と評しましたがこれについてはいくつか意見があり、まず麻生首相が自分で言っているようにリーマンショックを受けて急激な不景気が到来したためという意見や、自民党選挙対策本部の調査で当時に選挙に出てもあまり勝算が見えなかったからだとかいろいろあります。
こうした意見の中で私が最も支持するのは、確かこれは赤坂太郎氏の意見ですが、選挙前に何かしら一つ成果の見える政策を実行して支持を集めた上で解散に打って出ようとしたところ、政策を打ち出す傍から空振りが続き、また打ち出した政策に民主党が反対姿勢を見せたところで「民主党は政策より政局を優先する」
という論拠も得ようとしていたたところ、思っていた以上に民主党が政策議論に協力的だったためにこちらも空振り、そうこうしている内に中山元国交相の失言から麻生首相自身の失言が重なり選挙に打って出ようにももはや立ち直れないくらいの事態に陥ってしまったというのが真実でしょう。
そういう意味で、今年後半の民主党の対応は見事だったと言わざるを得ません。前述した通りに麻生政権発足当初は非常に議会での議論に協力的で、その甲斐あって異様な速さで経済対策としてまだ有効であった一次補正予算案も通過しました。更にその後も「解散を約束していたからこそ議論に協力したのに、解散がないのではもはや協力できない」として給付金問題で混乱しはじめた時期から今度は一部で審議拒否を行うようになりましたが、これについても世論からあまり批判が起こらず、むしろわけのわからない政策を出しては引っ込め、給付金の配布に必要な二次補正案もなかなか出さすにいた麻生首相の迷走振りから逆に自民党へと批判が増えていきました。これまで民主党が審議拒否をすると民主党が叩かれていたのを考えるとこれはかなり異例な事態で、裏返すとそれだけ麻生内閣の管理が悪かったという意味ですが。
更に先月、当日になって急遽小沢民主党代表の要請によって行われた党首会談もまた絶妙(中国では絶妙のことをたまにクイズ形式で「黄絹少女」と言う)でした。この党首会談にて小沢代表は二次補正予算案を本当に出すのか出さないのかを問いただし、それに対して麻生首相は話をはぐらかして明言を避け、結果的に麻生内閣が政権の存続理由としていた不景気に対して緊急対策を行うという(恐らく、適当に言っていただけだろうが)土台を根本から揺るがし、これ以降自民党内でも急激に麻生内閣を批判する声が増えていきました。
私はこれまで同世代の中では誰よりも口汚く民主党を罵って来た人間だと自負していますが、さすがにこれほどまでの迷走振りを見せられると民主党に肩入れせざるを得ません。またこれまで民主党は批判だけで独自の政策を持っていないと言われてきていましたが、官僚キラーの長妻昭氏を筆頭に実行力はまだ未知数ですがそこそこ見栄えもよく理屈も通った政策案を去年から今年にかけて多く提唱するようになり、三宅久之氏が指摘したように現在ではかつてとは逆に自民党が民主党の政策のいいとこを自分の政策にしてしまうというクリンチ作戦を取るようになってきており、民主党には独自の政策がないという批判はもう当てはまらないと考えています。
という具合の現段階の政局ですが、この状態が今後続くかどうかはわからないまでにしろ次に解散選挙が行われるとどうなるか、予想される事態を議席をベンチマークにしていくつか予想を書いて見ます。
想定1、自民党が大勝し、三分の二議席を維持する
まぁ現段階ではありえない想定ですが、もしこうなった場合は現麻生政権がそのまま続くことになり、相変わらず参議院では野党の議席が上回ったままでねじれ国会は続きますが少なくとも世論の支持を得ることによって自民党がイニシアチブを握り、現状よりはずっとマシに国会運営が行えるようになるでしょう。
想定2、自民党が大敗し、民主党が単独過半数議席を得る
こうなってしまえば完全に政権交代で、文字通り民主党の天下になります。ただこの場合、参議院で民主党は単独過半数を得ていないので他の野党と連立を組む可能性があります。その場合、前回選挙時にもいろいろ取り沙汰されていましたが国民新党や社民党が少ない議席ながらも大きな影響力を持つことが予想され、自民党内でも造反者が出て民主党に合流するということも大いに考えられます。なお共産党は現段階ではっきりと連立は組まないと主張しているので、この連立に入ってくる可能性は非常に低いでしょう。
想定3、自民党が単独過半数議席を確保するも、三分の二議席を失う
はっきり言いますがこれが最悪のケースです。現在の自民党が十議席を失うことでこの三分の二を割ることになるので最悪ながらもなかなか可能性の高いケースなのですが、こうなると自民党が法律案を出しても参議院で民主党が反対することによって簡単に否決されるのはこれまで通りですが、否決された場合にこれまでは衆議院での三分の二の大多数可決によってどんどんと通していったのですが、このケースになるとこの三分の二可決が使えなくなるのでねじれ国会の弊害がますます進み、ただでさえ滞りがちな国会がさらに滞るので日本にとって悪影響が強まる可能性が非常に高いでしょう。
想定4、自民、民主共に単独過半数に届かない
こちらもなかなか可能性の高いケースですが、これだと自民党、民主党のどちらが内閣を作ったところでまともな国会運営も出来ず、一見すると「想定3」以上に深刻な事態に陥るように見えますが、恐らくこうなった場合は民主党を中心にして非自民連立政権が作られるか、自民党内で造反者や新党が結成されて政界再編が一挙に起こる、というより再編が起こるのにおあつらえ向きな状況だといえます。恐らく現在の衆議院議員の多くはこの状況を想定しており、その際にどうするか、誰やどこにつけば上手く乗り切れるかを必死で分析している最中でしょう。
私としても閉塞した今の状況を打開し、官僚の問題などを解決するにはこの政界再編が必要だと感じており、多少リスクはあれどもこのような事態になるのを最も望んでいます。
と、いくつか今後起こりうる事態を四つにまとめて挙げましたが、やはり現時点で私は自民党が今のような状態で勝つことは考えづらく、政界再編を含めて次の選挙で大きく山が動くと考えています。だが敢えて自民党が次の選挙で勝つにはどうすればいいかと問われるならば、いろいろ取り沙汰され始めてきた現民主党国対委員長の山岡賢次氏とマルチ商法会社との癒着問題を今はじっと黙って見過ごし、選挙直前に証拠やら糾弾を強く行って取り上げる方法を選びます。前の記事で私も書きましたが、この問題は現在の民主党にとって最大のアキレス腱です。逆を言えば今の段階でこの山岡氏を前に切られた前田氏の様に切れば、民主党は完全に死角をなくし、次の選挙での勝利を確信してもよいと思っています。まぁ、出来ないと思いますが。
ここは日々のニュースや事件に対して、解説なり私の意見を紹介するブログです。主に扱うのは政治ニュースや社会問題などで、私の意見に対して思うことがあれば、コメント欄にそれを残していただければ幸いです。
2008年12月18日木曜日
2008年12月17日水曜日
労働の意義
以前にローマ史作家の塩野七生氏が大分以前に書いた話ですが、王室に対して強い忠誠心を持っているあるイギリス人男性が選挙のたびに毎回労働党に投票していると聞いて、王室に忠誠心があるのなら何故保守党に投票しないのかと尋ねたところ、こんな答えが返ってきたそうです。
「人間は労働を通して初めて人としての尊厳を得られる。だから私は雇用や労働を第一に考える労働党に投票するのであって、この点に王室は関係ない」
言われてみると確かに、人間は労働をして初めて尊厳というか、自分に対して誇りを得られるような気がします。敢えて自分流に解釈すると、労働をして社会に対して何らかの働きかけを行うことで人間は自分は社会の一員であり、また社会を担う存在だと自覚できるようになるように思えます。逆を言えば、もし労働を行わなければ自分に対して自信が持てないばかりか、社会に対して疎外感を強く覚えるのではないかとも思います。そうした意味で人間にはただ安楽にパンだけを与えても意味がなく、生活が保障された上で労働こそが最も必要なもので、雇用というものを広くわけ隔てなく国民に与えるということは政府にとって非常に重要な仕事だということになります。
今日は非常に文章のノリが悪く、これ以上書く自信がありません。はっきり言ってこの段階だけでもこのブログ始まって以来の最低最悪のクソくだらない駄文でこのままモニターごと叩き潰してやりたいのが本音ですが、将来の自分への戒めとして敢えてこのままアップすることにしました。お見苦しいものをお見せして、誠に申し訳ありません。
「人間は労働を通して初めて人としての尊厳を得られる。だから私は雇用や労働を第一に考える労働党に投票するのであって、この点に王室は関係ない」
言われてみると確かに、人間は労働をして初めて尊厳というか、自分に対して誇りを得られるような気がします。敢えて自分流に解釈すると、労働をして社会に対して何らかの働きかけを行うことで人間は自分は社会の一員であり、また社会を担う存在だと自覚できるようになるように思えます。逆を言えば、もし労働を行わなければ自分に対して自信が持てないばかりか、社会に対して疎外感を強く覚えるのではないかとも思います。そうした意味で人間にはただ安楽にパンだけを与えても意味がなく、生活が保障された上で労働こそが最も必要なもので、雇用というものを広くわけ隔てなく国民に与えるということは政府にとって非常に重要な仕事だということになります。
今日は非常に文章のノリが悪く、これ以上書く自信がありません。はっきり言ってこの段階だけでもこのブログ始まって以来の最低最悪のクソくだらない駄文でこのままモニターごと叩き潰してやりたいのが本音ですが、将来の自分への戒めとして敢えてこのままアップすることにしました。お見苦しいものをお見せして、誠に申し訳ありません。
2008年12月16日火曜日
アンバランスな日本の消費構造
前回に書いたレイオフの記事にて、仮にこの制度が使われたとしても仕事もせずに一家の主が家でぶらぶらしていると日本では後ろ指が差されてしまうのではというコメントを受けましたが、まさにその指摘の通りなのです。
詳しくは元の記事を読んでもらいたいのですが、私としてはこの制度をきちんと運用しさえすれば労働者側にも雇用側にもプラスに働く要素があると思うのですが、実施する以前に日本の社会事情からやりづらいということもあり、実現することは現段階では私も不可能だと思っています。
ですがそれでも私はこのレイオフ制度が実現するとしたら、日本全体に利益をもたらすと信じています。この制度のどこに私が一番期待しているかですが、
1、将来復職する見込み(可能性)がある
2、そこそこ貯金がある
3、今までゆとりがもてなかった
この三つの条件を兼ね備えた消費者が生まれることです。この前も友人と議論しましたが、日本は働いてお金を得るようになっても、仕事が忙しくてそれを使う時間もなければ気力もないので消費をテレビCMなどでいくらかき立てようとしても実際の消費行動に結びつかない現状があります。
これは何も私が言うまでもなくバブル期以前にアメリカから何度も内需拡大を行えと言われていた時代から続いていることで、日本一国の経済で見ると生産力が限りなく無限に近い一方、それを経済として循環するのに必要な消費力は逆に非常に低いままです。
先ほどのレイオフがもし仮に理想的に実行されることにより、将来復職できるというある程度の見込みがあれば溜め込んだお金も無駄に貯金として貯めておかず、むしろ充電期間として消費行動に移る可能性があります。実際にうちの親父などは今年は正月休みが長いから、温泉に行きたいと今駄々をこねています。年末年始くらいおとなしくしてりゃいいのに。
さてこんな内容なら以前にも何度か書いているのであまり珍しくないのですが、ここで一つある質問を投げかけてみます。先ほどにも言った通りに日本では給料がもらえる勤労者は忙しく、もらった給料が消費にはなかなか回らずにいるという現状ですが、では一体どんな人が主な消費を行っているのでしょうか。
これは恐らくみんなもうすうす感づいてはいるでしょうが誰もが口を閉ざしたままの話で、私が知る限り唯一はっきりと言明したのは「カーニヴァル化する社会」の作者の鈴木謙介氏くらいですが、要するにニートやフリーターといった方たちが今の日本の消費を支えているのです。
こんなことを言うと、ニートやフリーターの人は持っているお金がほとんどないから日本の消費に貢献しているはずないと言われるかもしれませんが、全体で見るならともかく、私は今の日本のIT産業を初めとした新興産業においてはもはやこの手の層なしでは成り立たないくらい、これらの層に消費を依存しているのではと考えています。
この傾向が顕著なのはいわゆるアニメやマンガといったコンテンツ産業で、私などは元々けちな性格で前から全然お金を使わないのですが、このニートやフリーター層のコンテンツ産業への消費意欲は傍目から見て恐ろしいものがあり、それこそ「借金してでも買う」と言わんばかりに消費が行われます。
こうした現状に対して鈴木謙介氏は、現代のニートやフリーター層の若者は現存する社会からは単なるお客様でいることが求められ、彼らもその求めに応じて消費者として食い物にされ続けているというような主張を先ほどの本の中でしており、私の見方もその通りです。これがどのように問題なのかというと、本来消費というのは現金を持っている層が行うものなのですが、ニートやフリーター層は職業的にも不安定で、お世辞にもあまり現金収入の少ない層です。本来使うべき層が消費せずに使うべきでない層が消費し続ける、これをアンバランスと言わずしてなんというかで、こうした現状がもしこのまま続くとしたら後々に大きな問題になると私は考えています。
どのような問題が起きるのかというと、一つはニートやフリーター層を支える両親などの庇護者が年と共にいなくなっていくと、ただでさえ低い日本の消費力がまた更に減少します。そして彼らの生活を支えるために消費をしないがお金を稼ぐ層から税金が取られ、またニートやフリーター層にばら撒かれるという、なんだか書いててよくわからない事態だって起こるかもしれません。
ちょっと自分でも考えがまとまっていないので脈絡のない文章になりましたが、要約するとこうなります。
・今の日本の消費を支えているのはニートやフリーター層だ
・なので彼らがいなくなると、真面目に働いている人がいる会社も共倒れになる可能性もある。
・お金を稼ぐ層がもっと消費しやすいよう、もうすこし労働環境を改善するべきだ
というのが私の主張です。特に三番目を実現するには先ほどのレイオフ制度が公にも認められるような、日本全体で「働かない人間は無価値だ」という価値観を少し緩める必要があります。書いててなんだか壮大だな。
詳しくは元の記事を読んでもらいたいのですが、私としてはこの制度をきちんと運用しさえすれば労働者側にも雇用側にもプラスに働く要素があると思うのですが、実施する以前に日本の社会事情からやりづらいということもあり、実現することは現段階では私も不可能だと思っています。
ですがそれでも私はこのレイオフ制度が実現するとしたら、日本全体に利益をもたらすと信じています。この制度のどこに私が一番期待しているかですが、
1、将来復職する見込み(可能性)がある
2、そこそこ貯金がある
3、今までゆとりがもてなかった
この三つの条件を兼ね備えた消費者が生まれることです。この前も友人と議論しましたが、日本は働いてお金を得るようになっても、仕事が忙しくてそれを使う時間もなければ気力もないので消費をテレビCMなどでいくらかき立てようとしても実際の消費行動に結びつかない現状があります。
これは何も私が言うまでもなくバブル期以前にアメリカから何度も内需拡大を行えと言われていた時代から続いていることで、日本一国の経済で見ると生産力が限りなく無限に近い一方、それを経済として循環するのに必要な消費力は逆に非常に低いままです。
先ほどのレイオフがもし仮に理想的に実行されることにより、将来復職できるというある程度の見込みがあれば溜め込んだお金も無駄に貯金として貯めておかず、むしろ充電期間として消費行動に移る可能性があります。実際にうちの親父などは今年は正月休みが長いから、温泉に行きたいと今駄々をこねています。年末年始くらいおとなしくしてりゃいいのに。
さてこんな内容なら以前にも何度か書いているのであまり珍しくないのですが、ここで一つある質問を投げかけてみます。先ほどにも言った通りに日本では給料がもらえる勤労者は忙しく、もらった給料が消費にはなかなか回らずにいるという現状ですが、では一体どんな人が主な消費を行っているのでしょうか。
これは恐らくみんなもうすうす感づいてはいるでしょうが誰もが口を閉ざしたままの話で、私が知る限り唯一はっきりと言明したのは「カーニヴァル化する社会」の作者の鈴木謙介氏くらいですが、要するにニートやフリーターといった方たちが今の日本の消費を支えているのです。
こんなことを言うと、ニートやフリーターの人は持っているお金がほとんどないから日本の消費に貢献しているはずないと言われるかもしれませんが、全体で見るならともかく、私は今の日本のIT産業を初めとした新興産業においてはもはやこの手の層なしでは成り立たないくらい、これらの層に消費を依存しているのではと考えています。
この傾向が顕著なのはいわゆるアニメやマンガといったコンテンツ産業で、私などは元々けちな性格で前から全然お金を使わないのですが、このニートやフリーター層のコンテンツ産業への消費意欲は傍目から見て恐ろしいものがあり、それこそ「借金してでも買う」と言わんばかりに消費が行われます。
こうした現状に対して鈴木謙介氏は、現代のニートやフリーター層の若者は現存する社会からは単なるお客様でいることが求められ、彼らもその求めに応じて消費者として食い物にされ続けているというような主張を先ほどの本の中でしており、私の見方もその通りです。これがどのように問題なのかというと、本来消費というのは現金を持っている層が行うものなのですが、ニートやフリーター層は職業的にも不安定で、お世辞にもあまり現金収入の少ない層です。本来使うべき層が消費せずに使うべきでない層が消費し続ける、これをアンバランスと言わずしてなんというかで、こうした現状がもしこのまま続くとしたら後々に大きな問題になると私は考えています。
どのような問題が起きるのかというと、一つはニートやフリーター層を支える両親などの庇護者が年と共にいなくなっていくと、ただでさえ低い日本の消費力がまた更に減少します。そして彼らの生活を支えるために消費をしないがお金を稼ぐ層から税金が取られ、またニートやフリーター層にばら撒かれるという、なんだか書いててよくわからない事態だって起こるかもしれません。
ちょっと自分でも考えがまとまっていないので脈絡のない文章になりましたが、要約するとこうなります。
・今の日本の消費を支えているのはニートやフリーター層だ
・なので彼らがいなくなると、真面目に働いている人がいる会社も共倒れになる可能性もある。
・お金を稼ぐ層がもっと消費しやすいよう、もうすこし労働環境を改善するべきだ
というのが私の主張です。特に三番目を実現するには先ほどのレイオフ制度が公にも認められるような、日本全体で「働かない人間は無価値だ」という価値観を少し緩める必要があります。書いててなんだか壮大だな。
2008年12月15日月曜日
「まず隗より始めよ」について
今日の朝日新聞夕刊のコラム、「素粒子」にてこんな記述がありました。
「私は隗になりたい」
派遣切り避けたいと賞与返上一番に申し出た役員の物語。隗より始めよ、今時皆無の涙の感動作。
恐らくこのコラムは昨日のトヨタの役員賞与返上発表を受けてのものでしょうが、なんていうか新聞紙がやるとトヨタへの広告費ヨイショのように見えてしまいます。
それはともかく、ここで使われている「まず隗より始めよ」というのは私も好きな言葉です。これも中国の史記から出てきた言葉で、時は戦国時代の燕の国のエピソードで出てきます。
当時の燕は隣国の斉に騙されて一時国を占領されてしまったのですが、苦労の末に皇太子が即位して新たな燕王となり、なんとか斉に復讐してやろうと賢者の郭隗にどうすればいいのかとたずねたところ、
「それならまず隗より、つまり私より始めればよいのです」
と答えました。
それはどういう意味かと燕王が尋ねると郭隗は、自分のような人材に対しても燕王がもし厚遇してくれれば、世の数多の人材は燕王を優秀な人間を大事にしてくれると思って自然と集まってくることでしょうと郭隗は続けました。
その郭隗の話を聞いてその通りだと考えた燕王はその日から、郭隗のために屋敷を立てた上に師の様にあがめて礼を尽くしたそうです。するとその評判を聞いた優秀な人材は果たして次々と燕にやってきて、見る見るうちに燕の国力は増加していったそうです。
なおその際に集まった人材の中でも最大級とも呼べるのが、あの諸葛亮孔明すらも菅仲と並んで人生の手本とした楽毅でした。楽毅はその後燕王の期待に答え、実に六カ国連合軍を見事にまとめ上げて燕王の悲願であった斉を完璧なまで打ち倒しました。
ただなんというか、この楽毅も史記の人物なだけに最後は生前に失脚してしまいます。その際のエピソードがまた面白いので、この辺をまた今度に解説します。
「私は隗になりたい」
派遣切り避けたいと賞与返上一番に申し出た役員の物語。隗より始めよ、今時皆無の涙の感動作。
恐らくこのコラムは昨日のトヨタの役員賞与返上発表を受けてのものでしょうが、なんていうか新聞紙がやるとトヨタへの広告費ヨイショのように見えてしまいます。
それはともかく、ここで使われている「まず隗より始めよ」というのは私も好きな言葉です。これも中国の史記から出てきた言葉で、時は戦国時代の燕の国のエピソードで出てきます。
当時の燕は隣国の斉に騙されて一時国を占領されてしまったのですが、苦労の末に皇太子が即位して新たな燕王となり、なんとか斉に復讐してやろうと賢者の郭隗にどうすればいいのかとたずねたところ、
「それならまず隗より、つまり私より始めればよいのです」
と答えました。
それはどういう意味かと燕王が尋ねると郭隗は、自分のような人材に対しても燕王がもし厚遇してくれれば、世の数多の人材は燕王を優秀な人間を大事にしてくれると思って自然と集まってくることでしょうと郭隗は続けました。
その郭隗の話を聞いてその通りだと考えた燕王はその日から、郭隗のために屋敷を立てた上に師の様にあがめて礼を尽くしたそうです。するとその評判を聞いた優秀な人材は果たして次々と燕にやってきて、見る見るうちに燕の国力は増加していったそうです。
なおその際に集まった人材の中でも最大級とも呼べるのが、あの諸葛亮孔明すらも菅仲と並んで人生の手本とした楽毅でした。楽毅はその後燕王の期待に答え、実に六カ国連合軍を見事にまとめ上げて燕王の悲願であった斉を完璧なまで打ち倒しました。
ただなんというか、この楽毅も史記の人物なだけに最後は生前に失脚してしまいます。その際のエピソードがまた面白いので、この辺をまた今度に解説します。
ゲームの「ヴァンパイアシリーズ」について
前友人と会った時に、
「あれほしいんだけど、なかなか決心がつかないんだよなぁ」
といったその翌日に、とうとう買ってしまいました。
・ヴァンパイア ダークストーカーズコレクション(カプコン)
これはPS2のゲームで、これまでに発売されたヴァンパイアシリーズという対戦格闘ゲームのシリーズを一本にまとめておまけをつけた愛蔵版ですが、この中に入っている「ヴァンパイアハンター」は恐らく私が最も時間をかけてプレイした対戦格闘ゲームです。
改めてやってみると、ブランクがあるから相当下手になっているかと思ったらそうでもなく、そこそこ戦えました。これですっかり自信をつけて、じゃあ最初の「ヴァンパイア」からローラー作戦でクリアしてこうと思ったら、なぜか「ハンター」と「セイバー」では余裕だったのに、最初の「ヴァンパイア」では全然勝てませんでした。
やっぱりやってみて、最初の「ヴァンパイア」ではゲーム速度も遅いだけではなく、一撃のダメージが滅茶苦茶大きいです。でもってゲームバランスもまだ出始めた頃というのもあり、相性が悪いキャラだと延々と同じことの繰り返しで負け続けます。そう考えてみると、後半になるにしたがって初心者でも上級者とそこそこ渡り合えるシステムに変えていったのだと思いました。
まぁなんにしても懐かしいゲームで、しばらくはこれとパワプロで時間が潰せそうです。
「あれほしいんだけど、なかなか決心がつかないんだよなぁ」
といったその翌日に、とうとう買ってしまいました。
・ヴァンパイア ダークストーカーズコレクション(カプコン)
これはPS2のゲームで、これまでに発売されたヴァンパイアシリーズという対戦格闘ゲームのシリーズを一本にまとめておまけをつけた愛蔵版ですが、この中に入っている「ヴァンパイアハンター」は恐らく私が最も時間をかけてプレイした対戦格闘ゲームです。
改めてやってみると、ブランクがあるから相当下手になっているかと思ったらそうでもなく、そこそこ戦えました。これですっかり自信をつけて、じゃあ最初の「ヴァンパイア」からローラー作戦でクリアしてこうと思ったら、なぜか「ハンター」と「セイバー」では余裕だったのに、最初の「ヴァンパイア」では全然勝てませんでした。
やっぱりやってみて、最初の「ヴァンパイア」ではゲーム速度も遅いだけではなく、一撃のダメージが滅茶苦茶大きいです。でもってゲームバランスもまだ出始めた頃というのもあり、相性が悪いキャラだと延々と同じことの繰り返しで負け続けます。そう考えてみると、後半になるにしたがって初心者でも上級者とそこそこ渡り合えるシステムに変えていったのだと思いました。
まぁなんにしても懐かしいゲームで、しばらくはこれとパワプロで時間が潰せそうです。
2008年12月14日日曜日
失われた十年とは~その十三、言葉狩り~
まず最初に、私のある体験からお話します。
これは私が小学校一、二年生の頃の話ですが、ある日先生が、「馬鹿を馬鹿といってはいけません」と言い出しました。なんかこう文章にすると一休さんのとんち話のようにも見えますが、当時の私はというとこれを結構真に受けたりし、友達同士で悪口の言い合いになると、
「馬鹿って言う人が馬鹿なんですぅ」
「馬鹿を馬鹿と言っちゃいけないんだぞ」
などとお互いに言い合ったりしてました。
これはちょっと解説をすると、当時に流行った言葉狩りの一端だったと今では思います。
当時、馬鹿という言葉が知能障害者への差別に当たるとして、当時の文部省だかが通達を出したのか、ほぼ全国的にこのようなわけのわからない、まるで言葉遊びのような妙な教育というか言葉狩りが行われていました。なおうちの親父の世代だと、親父が関西地方出身だからかもしれませんが「四つ」というのがタブーワードとして使うなと言われていたそうです。
さてこうした言葉狩りが使われた背景には、この失われた十年におけるフェミニズムの勃興があると私は考えています。ふと気がついてみるとこのフェミニズムという言葉自体、現代ではあまり聞かなくなった(どうも「左翼」という言葉に含められている気がする)のですが、失われた十年にはこのフェミニズムを冠する、掲げる集団が非常に大きな力を持っていました。
このフェミニズムが私の記憶する限り初めて社会に大きな影響を与えた言葉狩り事件というと、「ちび黒サンボ事件」だと思います。この事件は少年サンボが知恵を使ってトラを退治する「ちび黒サンボ」という童話に対しある団体が、「ちび黒」という表現は黒人への侮蔑に当たると批判し、なんとその批判を受けて1988年にはこの本自体が絶版してしまった事件です。
そもそもこの童話はインドの話で、少年サンボをアフリカ系黒人と勘違いしている時点からかなり駄目駄目な問題なのですが、当時はこのように何かの表現が誰かへの侮蔑に当たると言われると複数の団体がものすごい批判が集まり、批判を受ける側としても要求を飲むケースが非常に多く、この「ちび黒サンボ」も「ちび黒さんぽ」という、サンボのかわりにさんぽという犬(しかも色は白)の話に取り替えられ再出版するという、まるでギャグのような結末になってしまいました。どうせなら「ちび黒コマンドサンボ」にすりゃいいのに。
こうした例を筆頭に、この時期に数多くの日本語表現がまるで魔女狩りのように槍玉に挙げられては無理やり変えられていきました。特にこのフェミニズムと言うだけあって、女性が関係する言葉は片っ端から変更が加えられ、代表的なものだと「スチュワーデス」が「キャビンアテンダント」、「看護婦」が「看護士」といったように変更され、その他数多くの言葉も現在までに定着こそしなかったものの、代替語が一時は用意されていきました。
最も、最近だとこういうような「侮蔑に当たる」として表現差し止めを要求する行為が行われればネット上で激しい逆批判が起こり、またメディア側もこの時期みたいにそういった要求を行う団体に肩入れした報道を行わなくなったので、現在だとめっきりこのような事件は目にしなくなりました。
私が記憶する中でも2005年末に、当時人気絶頂だったレイザーラモンHGをもじり、テレビ番組の企画で「黒ひげ、危機一髪」ならぬ「黒ひゲイ、危機一髪」という名前の玩具をおもちゃメーカーが発売したところ、
「同性愛者をナイフで刺して遊ぶ、差別感情を増長させる玩具だ」
として、ある人権団体が抗議したのを最後に確認して以来は全く見なくなりました。それにしても、同性愛者の偏見といったらレイザーラモンHGの存在の方がよっぽど妙な誤解を生むような気がするのですが。
では一体何故このようにフェミニズムが失われた十年に台頭したかですが、これは完全に私の推論ですが、高度経済成長を終えて男女差別論が欧米から輸入されてきたのを受けての現象だったと見ています。そのため必然的にこの言葉狩りは女性論とも密接に結びつき、本流のジェンダー論ともいろいろない交ぜになってわけのわからない事態を生んでしまったのだと思います。
この辺は次回の、フェミニズムについての解説にて詳しく行います。
これは私が小学校一、二年生の頃の話ですが、ある日先生が、「馬鹿を馬鹿といってはいけません」と言い出しました。なんかこう文章にすると一休さんのとんち話のようにも見えますが、当時の私はというとこれを結構真に受けたりし、友達同士で悪口の言い合いになると、
「馬鹿って言う人が馬鹿なんですぅ」
「馬鹿を馬鹿と言っちゃいけないんだぞ」
などとお互いに言い合ったりしてました。
これはちょっと解説をすると、当時に流行った言葉狩りの一端だったと今では思います。
当時、馬鹿という言葉が知能障害者への差別に当たるとして、当時の文部省だかが通達を出したのか、ほぼ全国的にこのようなわけのわからない、まるで言葉遊びのような妙な教育というか言葉狩りが行われていました。なおうちの親父の世代だと、親父が関西地方出身だからかもしれませんが「四つ」というのがタブーワードとして使うなと言われていたそうです。
さてこうした言葉狩りが使われた背景には、この失われた十年におけるフェミニズムの勃興があると私は考えています。ふと気がついてみるとこのフェミニズムという言葉自体、現代ではあまり聞かなくなった(どうも「左翼」という言葉に含められている気がする)のですが、失われた十年にはこのフェミニズムを冠する、掲げる集団が非常に大きな力を持っていました。
このフェミニズムが私の記憶する限り初めて社会に大きな影響を与えた言葉狩り事件というと、「ちび黒サンボ事件」だと思います。この事件は少年サンボが知恵を使ってトラを退治する「ちび黒サンボ」という童話に対しある団体が、「ちび黒」という表現は黒人への侮蔑に当たると批判し、なんとその批判を受けて1988年にはこの本自体が絶版してしまった事件です。
そもそもこの童話はインドの話で、少年サンボをアフリカ系黒人と勘違いしている時点からかなり駄目駄目な問題なのですが、当時はこのように何かの表現が誰かへの侮蔑に当たると言われると複数の団体がものすごい批判が集まり、批判を受ける側としても要求を飲むケースが非常に多く、この「ちび黒サンボ」も「ちび黒さんぽ」という、サンボのかわりにさんぽという犬(しかも色は白)の話に取り替えられ再出版するという、まるでギャグのような結末になってしまいました。どうせなら「ちび黒コマンドサンボ」にすりゃいいのに。
こうした例を筆頭に、この時期に数多くの日本語表現がまるで魔女狩りのように槍玉に挙げられては無理やり変えられていきました。特にこのフェミニズムと言うだけあって、女性が関係する言葉は片っ端から変更が加えられ、代表的なものだと「スチュワーデス」が「キャビンアテンダント」、「看護婦」が「看護士」といったように変更され、その他数多くの言葉も現在までに定着こそしなかったものの、代替語が一時は用意されていきました。
最も、最近だとこういうような「侮蔑に当たる」として表現差し止めを要求する行為が行われればネット上で激しい逆批判が起こり、またメディア側もこの時期みたいにそういった要求を行う団体に肩入れした報道を行わなくなったので、現在だとめっきりこのような事件は目にしなくなりました。
私が記憶する中でも2005年末に、当時人気絶頂だったレイザーラモンHGをもじり、テレビ番組の企画で「黒ひげ、危機一髪」ならぬ「黒ひゲイ、危機一髪」という名前の玩具をおもちゃメーカーが発売したところ、
「同性愛者をナイフで刺して遊ぶ、差別感情を増長させる玩具だ」
として、ある人権団体が抗議したのを最後に確認して以来は全く見なくなりました。それにしても、同性愛者の偏見といったらレイザーラモンHGの存在の方がよっぽど妙な誤解を生むような気がするのですが。
では一体何故このようにフェミニズムが失われた十年に台頭したかですが、これは完全に私の推論ですが、高度経済成長を終えて男女差別論が欧米から輸入されてきたのを受けての現象だったと見ています。そのため必然的にこの言葉狩りは女性論とも密接に結びつき、本流のジェンダー論ともいろいろない交ぜになってわけのわからない事態を生んでしまったのだと思います。
この辺は次回の、フェミニズムについての解説にて詳しく行います。
失われた十年とは コラム一、中内功
昨日友人と会ったら、ダイエー創業者の中内功氏と満州帝国について今調べていると言っていたので、ちょうどこの失われた十年の草稿でコラムを書いていたので、大分連載がのびのびになっているのあるのでここで一気に放出します。
このコラム自体は二年前に執筆したもので、他の草稿については参考にすることはあっても、草稿の文体が常体であるため書き直しであるのだが、敢えてこのコラムについてはそのままカット&ペーストにして紹介してみようと思います。一部見苦しい表現がありますが、気にせずに読んでください。
今となっては産業再生機構からイオンに売却される(提携と言ってあげるべきか)ダイエーだが、かつては小売業界一の売上を誇り、かつて日本の小売形態をすべてひっくり返した企業であった。その先導役となったのが、創業者の中内功である。
彼の企業形態の基本は安売りである。ほかよりも安く、ほかよりも多くという薄利多売方式でこれが高度経済成長時代にはぴったりと当てはまった。また土地本位制ともいう、駅前に店舗を構え、周辺地域の開発が進む事によって跳ね上がる地価を担保に金を借り、また新たな店舗を拡大するという形態で、このやり方によって全国制覇も成し遂げた。しかしこれはほとんどの解説でも触れられているが、消費者の嗜好が量より質へと変化していく事に対応できず、いわゆる「ダイエーには何でもあるが、欲しいものはない」という言葉にまとめられる客層へのニーズ対応の鈍さが最終的に彼の命取りになった。また土地本位制においても、恒久的に地価が上がるなどとというありえない前提の上で行わってきたため、何度も本解説において出てくる不良債権となるのは目に見えていた。
こうした経緯もあり、中内功は80年頃に一時経営を引き下がる事になった。彼が引いた後、かわりに社長になった平山敞によってダイエーは見事なV字回復を遂げ、「失われた十年」の直前のバブル期においてもダイエーは小売業界の王様であった。当時の私は幼稚園くらいだったが、私もこの時期に買い物とくれば親に近くのダイエーによく連れて来られ、それこそ土曜日ともなると家族全員でダイエーに行き、コージーコーナーでアイスを食べ、私と姉がおもちゃ売り場をうろちょろしている間に両親は買い物というパターンまで出来上がってたくらいである。
ここで終わっていれば中内功もそれなりの評価で終わったかもしれない。しかし残念というべきか、彼は自分の息子に社長を継がせようと考え、その後再び自ら社長に就任。そして前社長の取り巻きを追い払い、自らの周りをイエスマンで固めてしまった。その結果、「失われた十年」の間にダイエーは再び失墜する事になる。またこれは後述するが、95年には阪神大震災も起こり、関西拠点のダイエーは大きな痛手を受ける事になった。
こうして2001年、中内功は全面的にダイエーから退任する事となった。しかしウィキペディアの項目上でも「時既に遅し」と書かれているように、傾いたダイエーは再び栄光を取り戻すことなく、後に国家機関の産業再生機構の管理課に入ることになる。余談だが、この産業再生機構自体がダイエーの借金を抱えると国家財政が傾くという危機感から2003年に生まれた機関であり、ある意味本願成就した形となった。
なおこの産業再生機構入りする際も一悶着あり、再生機構はホークス球団の売却を迫ったのだが、当時もオーナーは続けていた中内功は球団保持を最後の最後まで拘泥し、当時はそれほど野球に興味が少なかった私ですらこれには幻滅した。結局、ソフトバンクが買収する事になったのだが、こうしたこだわりが晩節を汚したとしかいいようがない。
そうした球団の売却が行われた翌年の2005年9月、中内功は自宅で死亡する。かつての栄光むなしく、私の目からするとその死の報道は非常に小さな扱いであった気がする。もっとも、この時私は中国に留学中で、北京でNHKしか見ていないからそう思うだけなのかもしれないが、その際に感じた無常観を愚作ながら俳句にしたためて手帳に残してある。
秋風(しゅうふう) 見果てぬ先の 大栄華
その一つ前の日には「中国人はポルノが少ないから過熱しやすいんだと思う」と手帳に書いてある。全然脈絡がないな。
私自身の評価として、やはり後年に経営感覚が時代の変化に合わせられなかった事に尽きる。彼自身、「最近、客が何を欲しがるのかがわからなくなった」と洩らしており自覚していたようではあるが、それならばなおの事引き際をわきまえるべきだった。それにしても、どうにも彼の生涯を見るにつけて筑前守を重ねずにはいられない。
といったところでしょうか。この中内氏に限らず草稿では藤田田氏についても書いており、これなんか私の自慢の愛弟子と話題になるたびに盛り上がる人物なので、こちらもタイミングを狙ってまた紹介します。
このコラム自体は二年前に執筆したもので、他の草稿については参考にすることはあっても、草稿の文体が常体であるため書き直しであるのだが、敢えてこのコラムについてはそのままカット&ペーストにして紹介してみようと思います。一部見苦しい表現がありますが、気にせずに読んでください。
今となっては産業再生機構からイオンに売却される(提携と言ってあげるべきか)ダイエーだが、かつては小売業界一の売上を誇り、かつて日本の小売形態をすべてひっくり返した企業であった。その先導役となったのが、創業者の中内功である。
彼の企業形態の基本は安売りである。ほかよりも安く、ほかよりも多くという薄利多売方式でこれが高度経済成長時代にはぴったりと当てはまった。また土地本位制ともいう、駅前に店舗を構え、周辺地域の開発が進む事によって跳ね上がる地価を担保に金を借り、また新たな店舗を拡大するという形態で、このやり方によって全国制覇も成し遂げた。しかしこれはほとんどの解説でも触れられているが、消費者の嗜好が量より質へと変化していく事に対応できず、いわゆる「ダイエーには何でもあるが、欲しいものはない」という言葉にまとめられる客層へのニーズ対応の鈍さが最終的に彼の命取りになった。また土地本位制においても、恒久的に地価が上がるなどとというありえない前提の上で行わってきたため、何度も本解説において出てくる不良債権となるのは目に見えていた。
こうした経緯もあり、中内功は80年頃に一時経営を引き下がる事になった。彼が引いた後、かわりに社長になった平山敞によってダイエーは見事なV字回復を遂げ、「失われた十年」の直前のバブル期においてもダイエーは小売業界の王様であった。当時の私は幼稚園くらいだったが、私もこの時期に買い物とくれば親に近くのダイエーによく連れて来られ、それこそ土曜日ともなると家族全員でダイエーに行き、コージーコーナーでアイスを食べ、私と姉がおもちゃ売り場をうろちょろしている間に両親は買い物というパターンまで出来上がってたくらいである。
ここで終わっていれば中内功もそれなりの評価で終わったかもしれない。しかし残念というべきか、彼は自分の息子に社長を継がせようと考え、その後再び自ら社長に就任。そして前社長の取り巻きを追い払い、自らの周りをイエスマンで固めてしまった。その結果、「失われた十年」の間にダイエーは再び失墜する事になる。またこれは後述するが、95年には阪神大震災も起こり、関西拠点のダイエーは大きな痛手を受ける事になった。
こうして2001年、中内功は全面的にダイエーから退任する事となった。しかしウィキペディアの項目上でも「時既に遅し」と書かれているように、傾いたダイエーは再び栄光を取り戻すことなく、後に国家機関の産業再生機構の管理課に入ることになる。余談だが、この産業再生機構自体がダイエーの借金を抱えると国家財政が傾くという危機感から2003年に生まれた機関であり、ある意味本願成就した形となった。
なおこの産業再生機構入りする際も一悶着あり、再生機構はホークス球団の売却を迫ったのだが、当時もオーナーは続けていた中内功は球団保持を最後の最後まで拘泥し、当時はそれほど野球に興味が少なかった私ですらこれには幻滅した。結局、ソフトバンクが買収する事になったのだが、こうしたこだわりが晩節を汚したとしかいいようがない。
そうした球団の売却が行われた翌年の2005年9月、中内功は自宅で死亡する。かつての栄光むなしく、私の目からするとその死の報道は非常に小さな扱いであった気がする。もっとも、この時私は中国に留学中で、北京でNHKしか見ていないからそう思うだけなのかもしれないが、その際に感じた無常観を愚作ながら俳句にしたためて手帳に残してある。
秋風(しゅうふう) 見果てぬ先の 大栄華
その一つ前の日には「中国人はポルノが少ないから過熱しやすいんだと思う」と手帳に書いてある。全然脈絡がないな。
私自身の評価として、やはり後年に経営感覚が時代の変化に合わせられなかった事に尽きる。彼自身、「最近、客が何を欲しがるのかがわからなくなった」と洩らしており自覚していたようではあるが、それならばなおの事引き際をわきまえるべきだった。それにしても、どうにも彼の生涯を見るにつけて筑前守を重ねずにはいられない。
といったところでしょうか。この中内氏に限らず草稿では藤田田氏についても書いており、これなんか私の自慢の愛弟子と話題になるたびに盛り上がる人物なので、こちらもタイミングを狙ってまた紹介します。
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