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2009年10月4日日曜日

中川昭一氏の死去について

【中川昭一氏死去】 外電も速報(MSNニュース)

 すでに各所で報道されているように、元財務大臣の中川昭一氏が本日死去していた事が分かりました。
 中川氏については私もかつて、「中川元財務相の泥酔会見の裏側」の記事にて書いた通りに、今年二月のG7会合の後に外国人記者を交えた記者会見を酩酊した状態で出席したことから国民から非難を浴びて大臣職を辞任することとなり、前回の衆議院選挙でもこの件が後を引いたのか議員職までも落選することとなりました。

 また自身の選挙のみならず、あの酩酊会見が根強く国民の反感を買った事が自民党の大敗の原因となったと身内の自民党員からも批判されており、選挙直後において悪い意味で最も取り上げらてれた人物でした。こうした中川氏への批判について私自身も同じ意見で、あの中川氏の酩酊会見が仮になければ自民党は後二十人くらいは当選していたのではないかと見ており、言うなれば前回の自民敗戦の最大の戦犯だったと考えております。
 そうした世間の声を中川氏当人ももちろん耳にしていた事でしょう。死因はまだ自殺かどうか断定されておりませんが、自身の落選とこうした世間の批判より受けるストレスが急死することとなった死因の一因となったと見て間違いはないと思います。

 それにしても運命の皮肉というべきか、中川氏の父親の、こちらもまた衆議院議員をしていた中川一郎も自殺しており、親子二代に渡って急死することとなってしまいました。父親の中川一郎の秘書をしていた現新党大地代表の鈴木宗雄氏によると、自殺の原因は遅々として打開のできなかった当時のソ連外交が原因だったのではないかとされております。

 もちろん政治家というのは色々と機微な問題を抱えるために一概に言えることではないのですが、安倍政権時の松岡利勝氏といい、元民主党衆議院議員の永田寿康氏といい、こうした議員や元議員の自殺や急死を見るにつけて政治家に最も求められる能力というのは、政策的なセンスや答弁の技術もさることながら、渡辺淳一氏的に言うならば鈍感力ともいうべき周囲からの批判をものともしない精神的なタフさであると思い知らされます。

 国民や報道機関から常に目を光らされ、ほんの少しの過失でもあれば激しく糾弾されかねないというのが政治家の仕事です。そうした批判やプレッシャーをものともせず、自身の集中するべき内容にだけ集中し続ける事のできるタフさこそが政治家に必要であって、逆にそのような能力が低い、足りないのであれば、たとえ本人が希望していたり、地盤を引き継げる政治家の二世であっても政治家ににはなるべきではないでしょう。たとえなったところで、結局自身を不幸にさせるだけに終わる気がします。

 そういう意味で現国会議員で図抜けたタフさを持っているのは、戦後最長の拘留期間を経て有罪判決を受けながらも見事復活当選を果たした先ほど挙げた鈴木宗雄氏なのですが、その鈴木氏と縁の深い中川氏の急死なだけにいろいろと複雑な気持ちにさせられます。結果論から言えば、中川氏が議員になるべきだったかどうかと言えばなるべきではなかったというのが私の意見です。

 最後に末筆ながら、この場にて中川氏へ深くご冥福をお祈りします。

2009年10月1日木曜日

お休みのお知らせ

 前の記事で書き忘れていましたが、明日より三日間関西を旅行するので、その間このブログをお休みさせてもらいます。もしかしたら前みたいにどっかのネット喫茶で書くかもしれませんけど、さすがに今回の旅行では多分ない……でしょう( ´ー`)

何故戸籍制度はいらないのか

 三回にまで及んだ戸籍制度批判のこの記事もこれで最後です。今日はようやく自分が言いたかった、何故戸籍制度が不必要なのかという理由について解説します。

 まず私の立場から説明しますが、私の戸籍における本籍地は祖父が元々住んでいたことから大阪府の梅田にあります。しかも面倒なことに遺言で変えるなと言われていたためにまだ変えていないのですが、現在私は関東に住んでいて戸籍に関わるいろいろな手続きをするのにこれまで手間がかかっていたため、そうした体験からあまりこの戸籍にいい感情を元から持っていません。とはいえ現在では住基ネットの導入のおかげで大分このような手間が省けるようになったのですが、それを考慮に入れてもまだまだ戸籍の不必要性があるとは思います。

 では戸籍のどのような点が問題なのかですが、私が思い当たる中で一番問題なのは住民票との関係です。戸籍謄本も住民票も日本における個人の身分や存在を証明する証明書として重要なものなのですが、私にはどうしてこれが二つに分かれているのかがよくわかりません。昨日の記事でも書きましたが戸籍を管理しているのは本籍地のある自治体で、住民票を管理しているのは居住地のある自治体です。両者が一致していれば二つとも一つの自治体で管理できますが、これが分かれていると別々の自治体で別々に管理しなければなりません。また同じ自治体に戸籍と住民票があっても、自治体職員の方のホームページとかを見ているとどちらを発行するのかなどでよく混同が起こるため非常に手間だそうそうです。

 仮にもしこの二つの証明書が一つであれば、管理する自治体ももちろん一つになりますし混同も起こらなくなります。たかがそれだけかと思われますがこの戸籍や住民票はそれぞれ日本の人口にあたる一億超もある膨大な記録で、これが二億超から一億超と二分の一になれば作業量は大幅に圧縮でき、またコンピューターのシステムで管理するとしても一億超のほうが言うまでもなく実現化しやすいでしょう。一説によると、戸籍を廃止することによって節約できる管理スタッフの費用はを数十億円にまで上るといわれております。

 とはいえ、戸籍を廃止したら個人の識別や家族の証明などに問題が起きないかと心配される方も少なくないでしょう。ですが知っている方は知っていますが、この戸籍制度があるのは実は東アジアの数カ国だけで、韓国に至ってはちょっと前に廃止しております。
 この戸籍制度の発祥地というのは言うまでもなく古代中国で、日本は奈良時代に遣唐使からもたらされる形で律令制度の元で開始されてなんと現在にまで形を変えつつ伝わっております。では戸籍制度のない国ではどのような方法で個人の証明を行っているのかというと、私が調べた限りだとなんでも出生時に作成される出生証明書のみで管理されているそうです。

 日本の場合は出生時、その両親が生まれた子供を自分たちの子供と認知することで親、というより父親に当たる家父長の戸籍に入れられるように、欧米が個人単位で証明を作るのに対して家族単位で証明を作ります。基本的にその他の戸籍の変動も家父長を中心に行うので女性は結婚を期に主に夫となる男性が作る新たな戸籍に入り、離婚する際はその戸籍から出て行くという形を取ります。この辺は夫婦別姓の議論が今大きくなっているのでこれからいろいろと情報が入ってくることが予想されますが、中国でも家族単位の戸籍ながら夫婦別姓なので女性の改姓は割と日本独自のメンタリティーで戸籍制度の性格ではないでしょう。

 こうした家族単位で作られるという特徴のほかに戸籍制度は、先ほどから何度も挙げている本籍地という特徴があります。この本籍地というのは元々は居住地的な意味合いを持ったデータだったのですが、居住地の移動の激しくなった現代においてはほぼ有名無実化しており、しかもこの本籍地というのは本人の自由で好き勝手なところを設定できるらしく、そんなものをいつまでもデータとして残すことに私は疑問を感じているわけです。

 さっきから断片的な話ばかりになってきたのでそろそろ結論を持ってきますが、私の案は戸籍制度を廃止、というよりかは改正して、家族単位ではなく個人単位で住民票と合体して使う証明にするべきだと思います。その際に居住地との混同を起こしかねず現代において有名無実化している本籍地欄はなくし、近親の家族が分かる欄もこの際だから廃止したいのですが、日本人のメンタリティからそれが難しいのであれば住民票とともに二親等まで書いた「家族原簿」もしくは「家族証明書」を併記して残してもいいと思います。

「戸籍制度」見直すべきだと思う?(live doorニュース)

 最後に戸籍制度の見直しについて上記のサイトにて議論されているのですが、その中の意見にいくつか、戸籍法が変わると中国などから大量に犯罪者がやってくるようになると書いてありますが、ちょっとこの点がどうしてそうなるのかが分かりかねます。国籍を決めるのは戸籍法ではなく国籍法ですし、外国人が日本に入国しやすいかどうかを決めるのは入管法で、戸籍の廃止がどうして犯罪者が入国しやすくなったり犯罪につながるのかがよくわかりません。いくつか考えられる手段として偽装結婚や偽装養子縁組がありますが、やはりそれもそういったことをしようとする日本の犯罪者や、その様な手段で日本に入ろうとする、国籍を得ようとする犯罪者を見逃してしまう入管法が問題なのであって、少なくとも戸籍があるかどうかがそうしたことにつながるかといえばあまり関係はないでしょう。

 あと戸籍がなければ家族の証明がし辛く、遺産の相続時に色々問題が起こるという意見もありましたが、傍から見ている限りは現在においても遺産相続時の騒動は少なくないので、やっぱり生前の遺言を残しとくなり何なりしとかなきゃ戸籍があろうがなかろうが意味がない気がします。
 またこれははっきりと覚えていることですが、四年前にある高齢の資産家の女性の遺産を狙い、勝手に赤の他人が養子縁組を行っていたという事件がありました。ことを知った女性はその事実を後で知って驚き、慌てて縁組を解除したそうなのですが、現状においても戸籍の管理なんてものはこんないい加減なものなんで、家族の証明やらなんやらに過剰な信頼を置くのもどうかと思います。


  参考サイト
★元市民課職員の危ない話★

2009年9月30日水曜日

国民総背番号制の意味

 この記事は以前に書いた「現行年金制度の問題点」の記事の続きです。前回の記事でも書いていますが、私は今後の年金情報の処理やその他の行政上の管理を効率化させるために現行の戸籍制度を廃止し、国民総背番号制を導入するべきだと考えております。

 具体的な話をする前にまず、現在の日本の行政において個人を識別、証明する制度がどれだけあるかを片っ端から挙げてみます。

1、戸籍証(戸籍法-本籍地の自治体)
2、住民票(民法-居住地の自治体)
3、パスポート(旅券法-外務省)
4、年金手帳(年金関連法-厚生省)
5、社会健康保険証(保険関連法-厚生省)
6、自動車運転免許証(道路交通法-居住地の公安委員会)


 ポピュラーなものを挙げていきましたが、ざっと私が思い浮かぶのはこんなものです。括弧の中のハイフンの後は各証明書を管理する行政団体なのですが、見てみれば分かるとおりに縦割り行政よろしく見事にばらばらで、そのためどの証明書も個人を特定して管理するためのものなのですが、たとえ一人の個人がそれらの証明書をすべて持っているとしても、それぞれの管理番号や情報は一切他の証明書と重複しておりません。それは言い換えると、それぞれの行政が全部別々に管理していて情報の共有が全くなされていないということです。

 この各証明書の管理ですが、意外に侮れません。なにせ市単位の地方自治体ともなると数万人の情報を管理することになるのでそれ相応のコストと人員を割かねばならず、しかも最近は住民基本台帳ネットワークの導入によって大分融通が利くようになりましたが、私みたいに関東に住んでいるのに本籍地が大阪の梅田一丁目の人間からすると戸籍の取り寄せが以前は非常に面倒で、パスポートの更新も一苦労でした。

 ここで私が考える国民総背番号制の使い方なのですが、私は現時点で、パスポートに記載されているパスポート番号をそのまま国民番号として流用したらどうかと考えております。パスポートは戸籍と照合されることで作られるので、同姓同名だろうと同じ誕生日であろうとほぼ間違いなく個人が混同されることはありません。そのパスポートに記載されているパスポート番号を現在すでにパスポートを発行されている方には流用し、まだ発行されていない方にはこれから作ることで、そのまま国民番号として使えるのではないかと思います。

 そうして国民すべてを識別する国民番号を作った後、今度はその番号を他の証明書番号にも徐々に統一していきます。それこそ運転免許証番号から社会保険証番号なども元パスポート番号に徐々に更新していき、最終的には番号一つで他の管理団体や証明書をすぐに照合できるような体制に整えられればと考えています。
 もちろんそこまで統一されたら他人の国民番号を利用して不正を働く者や、プライバシーの暴露などといった事件が起こるのではないかと心配に思われる方もいるでしょう。しかしここで私が強調しておきたいのは、国民番号それ自体が個人の証明になるわけではなく、あくまで各証明書の分別、管理に使われるというだけで、あくまで個人や身分を証明するのはそれぞれの証明書であって、この国民番号というのはいわばそれに付随する付箋のような扱い方というのが私の案です。

 ではどのように使うのかというと、例えばパスポートの作成申請においては従来通りに居住自治体から住民票を発行し、パスポート発行事務所に届け出ます。住民票を受け取ったパスポート発行事務所はその住民票に記載されている国民番号から自治体に個人の照合を行い、また照合を受ける自治体も連絡された国民番号からすぐに対応が出来る……という具合になるんじゃないかと、実際の業務に携わったことないから断言できませんけど。
 また社会保険などについては引越しなどによる住民票の移動があっても国民番号で照合が取れるので、以前の住所と異なっているために年金の照合が出来ないというケースはまず防止することが出来ますし、また突然交通事故にあっても運転免許証を携帯していれば社会保険証の番号をすぐに照合でき、病院での業務も効率化できるのではないかと思います。

 という具合に、私は国民番号の導入によって得られるメリットは大きいのではないかと考えております。もっともあくまでこれらは素人の勝手な構想なので実態とはかけ離れていたり、また私の予期していないデメリットも多く存在することが予想されるのでもっと議論は深める必要があると考えており、出来ることなら専門家などからも意見を聞いてみたいところです。
 さてそういうわけであれこれいろんな証明書について語ってきましたが、実はさっきから戸籍についてはあまり語っていません。理由はもちろん私がこの戸籍制度を廃止するべきだと考えているからで、結論を言えば戸籍というものをこの際、住民票と原則セットにするべきだと考えております。またも長くなってしまったので、続きは次回に。

東海村臨界事故について

 わざわざ私が書くまでもないのですがせっかくの機会ですし、あまり事実関係を知らない方もおられるかもしれないので念のために書いておくことにします。

東海村JCO臨界事故(ウィキペディア)

 十年前の今日九月三十日、茨城県の東海村にて核原料のウラン濃縮作業中に放射性物質であるウラン溶液に臨界反応が起こり、世界でも稀に見る形の原子力事故が日本で起こりました。この事件は原子力発電の原料となる濃縮ウラン溶液を製造していた私企業のJCOが呆れるまでに杜撰な管理をしていたことにより起こり、最終的に東海村の発生現場付近で大きな汚染こそ起こらなかったものの、事故発生時に現場で作業していた三人の作業員が被爆し、うち二人の方が亡くなられました。

 この事故については他のサイトでも詳しく解説されているので、もしあまりこの事故について詳細をまだ知らないという方は是非ご自分で調べてみてください。特に私が一番知ってもらいたいのは、亡くなられた二人の被爆者のその後の治療過程です。

東海村で起こった事故は今考えても恐ろしい(Power2ch)

 事故の内容についてそこそこ詳しく議論が行われているのは上記のサイトですが、真面目な話、サイト内に非常に生々しい画像も掲載されているので心臓の弱い方や免疫のない方は見ない方がよいです。
 簡単にその被爆者の方の経過について説明させていただくと、事故発生当時でこそまだ自分で会話できるなど医師も拍子抜けするほどだったのですが、その後徐々に体中の機能が低下していき、二名とも事故発生後一年を待たずに亡くなられてしまいました。またこの過程で医師や看護婦は、激痛に苦しみつつも周囲の医療機器によって生きながらえさせられている患者に対し果たして治療を続けるべきなのかどうか、自分たちの治療行為は正しいのかと何度も自問したそうです。言うなれば、安楽死をさせるべきだったのかという問いをしているのですが、正直な思いを言えば、私はこのケースにおいては安楽死を早くに認めるべきだったのではないかと思わずにはいられません。もっとも、もし自分が治療担当者であれば決断は出来なかったでしょうが。

 原子力発電、核兵器を考える上で、この東海村の事故は最低限持たねばならない知識だと私は考えております。

2009年9月29日火曜日

長崎市長射殺事件の高裁判決について

 最近は少なくなっていた頭痛が今日また再発して現在ひぃひぃ言っている状態なので、またも軽く流せるニュースネタです。本当は今日あたり、はらくくって戸籍廃止について語りたかったのですが。

長崎市長射殺 2審は無期 死刑破棄「金目的でない」 福岡高裁判決(Yahooニュース)

 リンクに貼ったニュースは2007年に起きた、選挙活動中に射殺された元長崎市長の伊藤一長氏の殺害事件の裁判において、一審の死刑判決が福岡高裁にて破棄され改めて犯人に無期懲役刑が判決されたことを報じるニュースです。

 この事件を簡単に解説すると、元暴力団員の犯人である城尾被告は市側に公共事業の発注などの件が思い通りに行かなかったことから市側を恨み、その私怨から2007年に選挙中のため街頭で演説中の伊藤氏を公然の中で殺害したという事件です。もっともこの犯人の殺害動機についてはウィキペディアにも書いてある通りに、あくまで犯人が自供した内容であって必ずしも真実である保障はありません。
 この事件は当初よりその殺害の方法や被害者の役職などから政治テロと見られ真実を究明する場である裁判もかねてより注目されており、第一審ではこうした背景が影響されたかはわかりませんが、殺害人数が一人にも関わらず極刑である死刑が判決されました(死刑判決には複数人の殺害が一つの基準となっている)。

 それが今回、高裁の二審にて一審の死刑判決が破棄されて無期懲役に減刑されたわけですが、私自身は死刑廃立派ではあるものの、今回の判決については率直に言って納得できない点が数多くあります。
 これはNHKの報道内容ですが、松尾裁判長による判決理由によると、

1、殺害数は一人である。
2、政治的目的によるテロではなく、個人の私怨による犯行である。

 といった理由から、極刑は重過ぎるということで無期懲役刑にしたそうです。
 しかしまず一番目の理由についてですが、一人殺せば無期懲役、二人殺せば死刑では、人間の命の重さがなんだかわからなくなるのではと私の友人がよく言っており、私もそんな気がしてきます。

 そして今回私が一番反応した二番目の理由ですが、この松雄裁判長の話を聞くと、何かしらの信条を持った政治的なテロでは重刑も仕方がないが、個人の短絡的な犯行ならそこまで重刑にしなくてもいいという風に私は読み取ったのですが、はっきり言って私はこのような判断は現在の日本において非常に危険なのではないかと咄嗟に考えました。

 こういう風に考えるのも、この前のテレビタックルにて北野たけし氏が政治に期待することとして、教育問題を挙げていたことからでした。北野氏によると、最近は元厚生次官連続殺人事件秋葉原での連続殺傷事件のように、会社や社会で感じた恨みを全然関係ない人に向けて殺害することで発散しようとする事件が続出しており、傍目にもこうした風潮をまずどうにかした方がいいのではないかと話しており、私もなるほどと思わせられたわけです。
 この長崎市長殺害事件も、必ずしも信用できるわけじゃありませんが犯人の供述通りに受け取るのであれば、自治体の長崎市に感じた恨みを直接的に関係のない市長にぶつけるなど、先ほどの例とまるっきり同系統の事件として考えられます。

 私はこのような、世間で感じた恨みを全く関係のない、それも場合によって自分より弱い人間にぶつけようとする風潮は非常に危険で、可能な限り早く根絶する必要があると考えております。そうした意味で、「政治的テロ>私怨による短絡的犯行」という判決理由を出した今回の判決には疑問を感じ、私怨による短絡的犯行もこれからは厳しく裁かれるのだという姿勢こそ世に打ち出すべきだったのではないかと思ったため、この判決に納得いかなかったわけです。

 またこれは補足ですが、政治テロはもちろん許されざる行為だと私は認識していますが、それこそこの前にくたばった瀬島龍三みたいな人間の殺害であれば、その行為は認めないまでもその実行者に対して心情的にはまだ多少の共感を覚えると思います。

2009年9月28日月曜日

現行年金制度の問題点

 個人的に今日一番のニュースは自民党の新総裁が決まったというニュースではなく、私にとってはこれでした。

「つばさ」視聴率は関東で13・8% 朝ドラ史上最低(MSNニュース)

 これまでで最低といっても、13.8%も視聴率あったんだから大したものなのですが、多部ちゃんなだけに私にとってはかなり残念です。といっても、私も平日はほとんど見てなかったのですが(´д`)

 そんな苦しい思いを抱えつつ、書く前からすでにもう胃が痛くなるようなやや面倒な内容を今日は取り上げようと思います。
 現在、日本の国民全体に一体どんなことを政治に期待するかと問えば、まず間違いなく一連の年金問題の解決が第一位に挙がってくるでしょう。前回の衆議院選挙中のどこの調査においてもこの傾向は変わらず、また私自身もこの年金問題は日本の社会保障、官僚利権、財政問題などありとあらゆる傾向の問題を抱えており、現状で最も優先順位の高い内政課題だと考えております。

 そんな年金問題に対して今月発足した民主党政権は、「ミスター年金」こと長妻昭氏を厚生大臣に据えてきました。元はといえばこの年金問題を掘り当て一躍世に知らしめたのはこの長妻氏で、その年金方面の豊富な知識もさることながら公務員のタクシー券問題などを暴いた行動力を考慮すればこの人事は適格この上ないもので、仮にこの長妻氏で年金問題が解決できないのであれば恐らくほかの誰にも解決することはできないだろうと思うほど私も信頼しております。現在の民主党政権がいつまで続くかわかりませんが、私は長妻氏を今回厚生大臣に据えられただけでも前回の選挙で民主党に勝たした価値があると考えております。

 そんな年金問題ですが、具体的にどのような点が問題なのかちょっとその辺を整理してみようと思います。そういうわけで早速リストアップしていきましょう。

   年金問題一覧
1、制度が複雑すぎ、社会労務士しか内容が理解できていない。
2、少子高齢化のため、将来の年金基金破綻が目に見えている。
3、その上若者の加入者が年々減少している。
4、過去の年金記録がめちゃくちゃ。
5、そのため加入者の個人特定ができない。
6、厚生年金と国民年金とで、年金なのに二種類ある。
7、個人事業主が入る国民年金があらゆる点で厚生年金に劣る。
8、年金が受け取れるまでの加入期間が長すぎる。
9、管理する社会保険庁職員の半数以上が以前に不正閲覧をしていた。

 こうして挙げてみると、本当にたくさんあって書いてるこっちが困ってきます。
 このうち割と直接的に問題なのは将来の破綻リスクで、これは言うなれば収入を支出が上回ることで、現在のように年金基金の運用だけではそう遠くない未来に起こることは確実視されています。これについて民主党は年金基金を一旦廃止して一般会計に組み込み、年金の支払いは全額税金から供出する方式を打ち出しております。私としても現状ではそれが一番妥当であると思えるし、今のまま年金基金を社会保険庁に管理させていればわけのわからない年金施設といった箱物の建設などに無駄に使われる恐れがあるのでいい案だと思います。

 この破綻の次に問題性が高いのは、敢えて私が言うなら1、4、5といった、個人の特定に関わるところです。現在の加入者の大半が入っているのは本人と所属する会社が保険料を折半する厚生年金なのですが、これは会社と折半する関係上、事務手続きが非常に複雑となっております。それこそ転職でもしようものなら一旦国民年金になってそれからまた厚生年金に戻したりしなければならず、このややこしい過程で年金の記録が誤入力されたり、下手したら記録そのものが無くなってしまっていたという例が数多く報告されています。
 また転職をせずとも、折半する側の会社側が経営難などから本人に内緒で年金から勝手に離脱させてしまい、本人は払ったつもりだったのに払ってなかったという悲劇までありました。

 それだけにこの個人の特定こそがこの年金問題における最も大きな問題なのですが、100%円満な解決に至らせるには今後どれだけ時間をかけてもまず無理でしょう。また現状の制度に付け焼刃程度の改革を行ったところで今後は歯止めがかかるかというのも疑問で、現に問題が発覚した後の近年でも記録の誤入力例が報告されています。ではどうすればまだマシになるのかといったら、やはり私は国民総背番号制が最も有効な対応策ではないかと考えております。

 この国民総背番号制というのはその名の通りに、国民すべてにその個人を識別する番号を付与して国が管理するシステムで、かつて一度導入が検討されたものの、国の管理が行過ぎるとの国民の反対を受けて流れたことのある制度です。仮にこのシステムがあれば同姓同名、同日の誕生日者であっても識別番号がはっきりと別れることになるので、このシステムで管理されていれば少なくとも年金における個人特定の混乱はこれほどまでに大きくはならなかっただろうと言われています。

 そういうわけで可能ならば私はできる限り早くこのシステムを導入すべきだと考えていますが、導入にあたりひとつの障害があります。障害というほど大きくはないのかもしれませんが、私が睨んでいるそれは戸籍制度です。背番号制度も戸籍制度もどちらも個人の身分、存在を証明する制度です。簡単に言ってしまえば、二つも個人を特定する制度があるとどちらで証明にするか、混乱がおきやしないかということです。
 しかしそれを言ったら住民票、パスポート番号、社会保険番号、運転免許証番号など、どれもサラ金でお金を借りる分には十分すぎるほど個人を証明するものが日本にはあふれています。一体どれを優先すべきなのか、残すべきなのか、はたまた廃止するべきなのか、議論でもしたらいろいろと意見が出てきそうです。

 結論から言えば私は、総背番号制を導入した上で他の身分証明と合わせて一元管理するのが一番望ましいと考えております。例えば国民番号が「AHO110」の人の住民票には、しっかりとその番号が記載されているというような具合で。
 そしてその上で、最早存在価値の低くなった戸籍制度を行政の効率化のために廃止、もしくは改正して住民票と併合するべきではないかと考えています。折りしも現在民主党議員の有志らが戸籍制度の廃止を主張し始め、それについて各所で議論が起きております。

 随分と長い前置きになってしまいましたが、年金における個人特定問題の防止とともに行政効率化のため、何故私が戸籍制度の廃止を主張するかについて次回紹介いたします。