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2009年10月5日月曜日

中高一貫教育の報道に思う事

 以前に新聞社に勤めている方から、こんな話を聞かされました。

「今どこの新聞社も、大学に足を向けて寝る事はできない」

 この発言の意味というのは、新聞社の収入の中で大きな比重を占める広告費が不況のために企業からの受注が年々減り続ける中、大学を始めとした学校からのものは逆に一貫して伸び続けていて、広告費全体に占める割合も大きく広がっているという事からでした。その方によると、今時二面カラーの全面広告を打ってくれるのは有名私立大学くらいなものだそうで、実際に私も新聞を見ていてそのような気がしますし、電車内の広告ともなると私立の大学のものが近年随分と目に付くようになってきました。

 それにしてもこれほどまでにあちこちで貼られている大学などの広告を見るに付け私が思うのは、政府からの教育助成金が削減されているために教育の質が落ちていると各所で言う割に、学生募集を謳う広告費を出すだけのお金は潤沢にあるんだなという皮肉ににた感慨ばかりです。こちらは今度は広告代理店に勤めている方から聞いた話ですが、今の大学は確かに経営的には非常に追い詰められているものの下手な企業よりは現金が豊富にあり、本人らも生き残りをかけて学生の獲得に励んでいるそうなのですが、そうやって広告で学生を集めるより、もっと自分らの研究、指導実績で健全に学生を集めるべきだと私は思います。

 ただそうした広告にお金をかけるという経営判断を下すのはほかならぬ大学自身なので、そんなところまで一個人である私がとやかく言うのもなんなのでこれまで気にせずに取り上げてこなかったのですが、この前ふとしたことから、もしかしたこの状況がある方向に報道を固定しているのではないかという疑念が湧き、こうして記事にまとめる事にしたわけです。その疑念というのも題にある通り、中高一貫教育に対する報道についてです。

 受験者募集を広告に謳うのはなにも私大だけでなく、最近は受験者数の増加に伴って私立中学、高校も新聞や車内広告を多く打つようになってきました。そうした広告が果たして受験者数の増加にどれほど貢献しているかは分かりませんが、各学校法人が以前より広告にお金をかけるようになったのは間違いないと見ております。
 そんな学校法人から受注を受ける新聞社ですが、新聞社の方は折からの部数減少に加えて企業からの広告受注の減少によって今はどこも赤字経営が続いていて、最初の新聞社勤務の方の言われるとおりにもはや学校法人なしには経営が成り立たないとほかのところからもよく聞きます。

 これは何も新聞に限らずテレビなどのどのメディアでもそうですが、お金を出してくれるスポンサーという関係上、広告主を怒らせて広告を引き上げられては大変なので、たとえ広告主の不正や問題が発覚したとしてもメディアは率先してその事実を報道しようとしない言われております。私はその時代に生きているわけじゃありませんが、公害問題が全国各地で起きていた際にもその公害を引き起こした大企業をスポンサーに持っているメディアは報道を控えていたらしく、水俣病も今でこそ代表的な公害事件として認知されておりますが、引き起こしたのが大企業のチッソであったことから発生当初、大新聞はほとんど取り上げなかったそうです。
 それがため雑誌の「週間金曜日」などは広告費を一切受け取らずに購読料のみで運営されていますが、このようにメディアにおける広告というのはある程度報道を偏向させるきらいがあると言われています。

 こうした広告における前提を踏まえてみると、どうもこのところの中高一貫教育に対する報道はもしかしたら偏向があるのではないかと、一昨日に突然閃いたわけです。本当に何度も書いてある通りに私も私立の中高一貫校に中学から進学しましたがお世辞にも面白い学校というわけでなく、また自分の学力の向上につながったかといえばそれも非常に疑問でした。なにせ、中学高校時代もずっと予備校に通っていたわけですし。
 また私と同じく別の中高一貫校に行った友人もあまり母校を評価しておらず、確かに私立中高に行って良かったと思う人も少なくないかもしれませんが、中には私らのように良い思いをしなかった人間もそこそこいると思うのです。実際に私の小学校の頃の友人は、私立中高に進学したものの登校拒否になってしまいましたし。

 それに対して近年の新聞、テレビといったメディアの中高一貫教育への報道は、はっきり言って肯定的な報道以外ありえないと断言してもいいくらいに良い面しか報じておりません。もしかしたら私らのような否定派の意見が本当に極少数であるのかもしれませんが、中高一貫教育のデメリットに対する報道がこれほどまでに全くないというのはさすがにやりすぎなのではないかという気すらするほど徹底されております。
 そこへきて最初の広告の話です。先にも言ったとおり、今の新聞社の広告収入ははっきり言って学校頼みです。そんな状況下で、スポンサーである私立中高に真っ向から対峙する事になる中高一貫教育を批判することができるのでしょうか。それよりもむしろ、スポンサーの意向に沿う形で中高一貫教育の有効性を訴える報道をするというのが自然な流れに見えます。

 これまで広告費における弊害は大企業との癒着ばかりに目が行っていましたが、こうした教育問題全般に対してももう少し目を光らせておくべきではないかと、感じた次第です。

技術の発達による怪談の締め出し

 日本の怪談話と来ると現代においても代表作でもある「番町皿屋敷」をはじめ、主な舞台は江戸時代であることが非常に多いです。しかしそのために江戸時代にあって現代にないもの、それこそ宿場町や渡世人、賭場といった概念は現代人には理解しづらく、年浅い子供たちにとっては怪談話を楽しむ上で大きな妨げとなってしまいます。

 しかしこうした生活環境、文化の変化によって印象が変わってしまう怪談話は何も江戸時代のものに限らず、水木しげるの漫画に出てくるような妖怪たちも今に至っては随分と居場所をなくしてしまったとこのごろ思います。その中でも一番代表的なのは河童で、まず河童が潜むとされる池自体が以前ほど身近なものでなくなった上に、トイレに忍んで腰をかがめた人間の尻から尻子玉を抜こうにもまず汲み取り式便所がなくなり、その上和式便器も次々と洋式便器に取って代わられいるため、なんとなくこう河童が潜める隙間というか、「もしかしたら中にいるのでは?」と思わせられるようなシチュエーションはほとんど見なくなりました。

 しかしそのような河童も昭和の妖怪で、平成という時代から見るならもう随分と古くなってしまったと見てもいいかもしれません。では平成の妖怪、というより現代の怪談やホラーの登場人物たちはどうなのかというとこちらもまた技術革新の煽りを受け、その存在のリアリティが薄れつつある傾向にあります。そのように私が思わせられたのも、ある新商品の告知からでした。その商品というのも、プロジェクター型テレビです。
 なんでもこの前、映画館で映像を見るように家庭内でも映写機みたいな機械を使って壁やスクリーンに映してテレビを見られる商品が発売されたそうです。この商品のついてネットの掲示板であれこれ意見が交わされていたのですがその中に、

「これだと、貞子はでてこれないじゃないか」

 という、面白い事を言っている人がいました。
 貞子というのは私くらいの年なら知らない人はまずいない、鈴木光司氏原作の「リング」、「らせん」に出てくる元超能力者の怨霊で、正式な名前は山村貞子です。ちなみに生前の貞子を演じた事で一気にスターダムに上ったのが、多分今一番CMのギャラが女性芸能人で高いであろう仲間由紀恵氏です。

 この貞子は日本人全体に浸透している怨霊、妖怪の類では、恐らく最も新しく世に出てきたキャラクターといってもいいでしょう。そんな貞子が何故それほどまでに知られるようになったのかというと、初登場作の「リング」において砂嵐のテレビ画面から白装束姿にて突然這い出るように現れ、長く垂れ下がった髪の下から恐ろしい目つきで崇り殺す人物を見下ろすワンシーンが非常に怖いと評判になったからでした。そのため一時期はこの貞子の登場シーンがお笑い番組などでよくオマージュされ、また週間少年ジャンプの読者投稿コーナーでも何故か磯野家のテレビから出てきたりと、関連するイラスト投稿が大量に続出したほどでした。

 しかしこれが先ほどのプロジェクター型テレビだと、果たして貞子は出てこられるのかということになってしまいます。劇中ではブラウン管から抜け出るように現れましたが、プロジェクターを映すスクリーンや壁からそんな都合よく出てこられるものか、しかもスクリーンが高い位置から垂れ下がっていたら、出てくるなりいきなり地面に落下する恐れがあります。
 そんなことをこの前友人に話してみたところ、その友人はプロジェクター以前に、すでにもう大分普及しているワンセグテレビの方が問題だと指摘してきました。

 ワンセグというのはわざわざ説明するまでもありませんが、携帯電話やPSPなどで見る画面が小さなアレです。仮に貞子に祟られたとしても、普段からワンセグを見ていれば貞子も出てこようにも出てこれないのでは、出てきたとしてもちっちゃい体で出てくるのではと、その日の晩の遅くまでお互いに深い懸念を出し合いました。

 それこそこれからまた十年も経ったりすると、こうしたテレビ画面を見るという生活習慣が現在からかけ離れたものになっていたり、もしくは全くなくなっているかもしれません。最初の河童の例もそうですが、時代の移り変わりとともに彼らが現れる媒介は変化を余儀なくされず、それゆえに怪談やホラーに感じる恐怖のリアリティの度合いは時間の経過とともに薄まっていきます。逆を言えば「リング」は当時にまだ真新しかったビデオデッキを題材にとって世に出た事がブレイクの要因だったように、妖怪たちは時代時代にそのような媒介を新しいものに移しながら存在しているのかもしれません。

2009年10月4日日曜日

中川昭一氏の死去について

【中川昭一氏死去】 外電も速報(MSNニュース)

 すでに各所で報道されているように、元財務大臣の中川昭一氏が本日死去していた事が分かりました。
 中川氏については私もかつて、「中川元財務相の泥酔会見の裏側」の記事にて書いた通りに、今年二月のG7会合の後に外国人記者を交えた記者会見を酩酊した状態で出席したことから国民から非難を浴びて大臣職を辞任することとなり、前回の衆議院選挙でもこの件が後を引いたのか議員職までも落選することとなりました。

 また自身の選挙のみならず、あの酩酊会見が根強く国民の反感を買った事が自民党の大敗の原因となったと身内の自民党員からも批判されており、選挙直後において悪い意味で最も取り上げらてれた人物でした。こうした中川氏への批判について私自身も同じ意見で、あの中川氏の酩酊会見が仮になければ自民党は後二十人くらいは当選していたのではないかと見ており、言うなれば前回の自民敗戦の最大の戦犯だったと考えております。
 そうした世間の声を中川氏当人ももちろん耳にしていた事でしょう。死因はまだ自殺かどうか断定されておりませんが、自身の落選とこうした世間の批判より受けるストレスが急死することとなった死因の一因となったと見て間違いはないと思います。

 それにしても運命の皮肉というべきか、中川氏の父親の、こちらもまた衆議院議員をしていた中川一郎も自殺しており、親子二代に渡って急死することとなってしまいました。父親の中川一郎の秘書をしていた現新党大地代表の鈴木宗雄氏によると、自殺の原因は遅々として打開のできなかった当時のソ連外交が原因だったのではないかとされております。

 もちろん政治家というのは色々と機微な問題を抱えるために一概に言えることではないのですが、安倍政権時の松岡利勝氏といい、元民主党衆議院議員の永田寿康氏といい、こうした議員や元議員の自殺や急死を見るにつけて政治家に最も求められる能力というのは、政策的なセンスや答弁の技術もさることながら、渡辺淳一氏的に言うならば鈍感力ともいうべき周囲からの批判をものともしない精神的なタフさであると思い知らされます。

 国民や報道機関から常に目を光らされ、ほんの少しの過失でもあれば激しく糾弾されかねないというのが政治家の仕事です。そうした批判やプレッシャーをものともせず、自身の集中するべき内容にだけ集中し続ける事のできるタフさこそが政治家に必要であって、逆にそのような能力が低い、足りないのであれば、たとえ本人が希望していたり、地盤を引き継げる政治家の二世であっても政治家ににはなるべきではないでしょう。たとえなったところで、結局自身を不幸にさせるだけに終わる気がします。

 そういう意味で現国会議員で図抜けたタフさを持っているのは、戦後最長の拘留期間を経て有罪判決を受けながらも見事復活当選を果たした先ほど挙げた鈴木宗雄氏なのですが、その鈴木氏と縁の深い中川氏の急死なだけにいろいろと複雑な気持ちにさせられます。結果論から言えば、中川氏が議員になるべきだったかどうかと言えばなるべきではなかったというのが私の意見です。

 最後に末筆ながら、この場にて中川氏へ深くご冥福をお祈りします。

2009年10月1日木曜日

お休みのお知らせ

 前の記事で書き忘れていましたが、明日より三日間関西を旅行するので、その間このブログをお休みさせてもらいます。もしかしたら前みたいにどっかのネット喫茶で書くかもしれませんけど、さすがに今回の旅行では多分ない……でしょう( ´ー`)

何故戸籍制度はいらないのか

 三回にまで及んだ戸籍制度批判のこの記事もこれで最後です。今日はようやく自分が言いたかった、何故戸籍制度が不必要なのかという理由について解説します。

 まず私の立場から説明しますが、私の戸籍における本籍地は祖父が元々住んでいたことから大阪府の梅田にあります。しかも面倒なことに遺言で変えるなと言われていたためにまだ変えていないのですが、現在私は関東に住んでいて戸籍に関わるいろいろな手続きをするのにこれまで手間がかかっていたため、そうした体験からあまりこの戸籍にいい感情を元から持っていません。とはいえ現在では住基ネットの導入のおかげで大分このような手間が省けるようになったのですが、それを考慮に入れてもまだまだ戸籍の不必要性があるとは思います。

 では戸籍のどのような点が問題なのかですが、私が思い当たる中で一番問題なのは住民票との関係です。戸籍謄本も住民票も日本における個人の身分や存在を証明する証明書として重要なものなのですが、私にはどうしてこれが二つに分かれているのかがよくわかりません。昨日の記事でも書きましたが戸籍を管理しているのは本籍地のある自治体で、住民票を管理しているのは居住地のある自治体です。両者が一致していれば二つとも一つの自治体で管理できますが、これが分かれていると別々の自治体で別々に管理しなければなりません。また同じ自治体に戸籍と住民票があっても、自治体職員の方のホームページとかを見ているとどちらを発行するのかなどでよく混同が起こるため非常に手間だそうそうです。

 仮にもしこの二つの証明書が一つであれば、管理する自治体ももちろん一つになりますし混同も起こらなくなります。たかがそれだけかと思われますがこの戸籍や住民票はそれぞれ日本の人口にあたる一億超もある膨大な記録で、これが二億超から一億超と二分の一になれば作業量は大幅に圧縮でき、またコンピューターのシステムで管理するとしても一億超のほうが言うまでもなく実現化しやすいでしょう。一説によると、戸籍を廃止することによって節約できる管理スタッフの費用はを数十億円にまで上るといわれております。

 とはいえ、戸籍を廃止したら個人の識別や家族の証明などに問題が起きないかと心配される方も少なくないでしょう。ですが知っている方は知っていますが、この戸籍制度があるのは実は東アジアの数カ国だけで、韓国に至ってはちょっと前に廃止しております。
 この戸籍制度の発祥地というのは言うまでもなく古代中国で、日本は奈良時代に遣唐使からもたらされる形で律令制度の元で開始されてなんと現在にまで形を変えつつ伝わっております。では戸籍制度のない国ではどのような方法で個人の証明を行っているのかというと、私が調べた限りだとなんでも出生時に作成される出生証明書のみで管理されているそうです。

 日本の場合は出生時、その両親が生まれた子供を自分たちの子供と認知することで親、というより父親に当たる家父長の戸籍に入れられるように、欧米が個人単位で証明を作るのに対して家族単位で証明を作ります。基本的にその他の戸籍の変動も家父長を中心に行うので女性は結婚を期に主に夫となる男性が作る新たな戸籍に入り、離婚する際はその戸籍から出て行くという形を取ります。この辺は夫婦別姓の議論が今大きくなっているのでこれからいろいろと情報が入ってくることが予想されますが、中国でも家族単位の戸籍ながら夫婦別姓なので女性の改姓は割と日本独自のメンタリティーで戸籍制度の性格ではないでしょう。

 こうした家族単位で作られるという特徴のほかに戸籍制度は、先ほどから何度も挙げている本籍地という特徴があります。この本籍地というのは元々は居住地的な意味合いを持ったデータだったのですが、居住地の移動の激しくなった現代においてはほぼ有名無実化しており、しかもこの本籍地というのは本人の自由で好き勝手なところを設定できるらしく、そんなものをいつまでもデータとして残すことに私は疑問を感じているわけです。

 さっきから断片的な話ばかりになってきたのでそろそろ結論を持ってきますが、私の案は戸籍制度を廃止、というよりかは改正して、家族単位ではなく個人単位で住民票と合体して使う証明にするべきだと思います。その際に居住地との混同を起こしかねず現代において有名無実化している本籍地欄はなくし、近親の家族が分かる欄もこの際だから廃止したいのですが、日本人のメンタリティからそれが難しいのであれば住民票とともに二親等まで書いた「家族原簿」もしくは「家族証明書」を併記して残してもいいと思います。

「戸籍制度」見直すべきだと思う?(live doorニュース)

 最後に戸籍制度の見直しについて上記のサイトにて議論されているのですが、その中の意見にいくつか、戸籍法が変わると中国などから大量に犯罪者がやってくるようになると書いてありますが、ちょっとこの点がどうしてそうなるのかが分かりかねます。国籍を決めるのは戸籍法ではなく国籍法ですし、外国人が日本に入国しやすいかどうかを決めるのは入管法で、戸籍の廃止がどうして犯罪者が入国しやすくなったり犯罪につながるのかがよくわかりません。いくつか考えられる手段として偽装結婚や偽装養子縁組がありますが、やはりそれもそういったことをしようとする日本の犯罪者や、その様な手段で日本に入ろうとする、国籍を得ようとする犯罪者を見逃してしまう入管法が問題なのであって、少なくとも戸籍があるかどうかがそうしたことにつながるかといえばあまり関係はないでしょう。

 あと戸籍がなければ家族の証明がし辛く、遺産の相続時に色々問題が起こるという意見もありましたが、傍から見ている限りは現在においても遺産相続時の騒動は少なくないので、やっぱり生前の遺言を残しとくなり何なりしとかなきゃ戸籍があろうがなかろうが意味がない気がします。
 またこれははっきりと覚えていることですが、四年前にある高齢の資産家の女性の遺産を狙い、勝手に赤の他人が養子縁組を行っていたという事件がありました。ことを知った女性はその事実を後で知って驚き、慌てて縁組を解除したそうなのですが、現状においても戸籍の管理なんてものはこんないい加減なものなんで、家族の証明やらなんやらに過剰な信頼を置くのもどうかと思います。


  参考サイト
★元市民課職員の危ない話★

2009年9月30日水曜日

国民総背番号制の意味

 この記事は以前に書いた「現行年金制度の問題点」の記事の続きです。前回の記事でも書いていますが、私は今後の年金情報の処理やその他の行政上の管理を効率化させるために現行の戸籍制度を廃止し、国民総背番号制を導入するべきだと考えております。

 具体的な話をする前にまず、現在の日本の行政において個人を識別、証明する制度がどれだけあるかを片っ端から挙げてみます。

1、戸籍証(戸籍法-本籍地の自治体)
2、住民票(民法-居住地の自治体)
3、パスポート(旅券法-外務省)
4、年金手帳(年金関連法-厚生省)
5、社会健康保険証(保険関連法-厚生省)
6、自動車運転免許証(道路交通法-居住地の公安委員会)


 ポピュラーなものを挙げていきましたが、ざっと私が思い浮かぶのはこんなものです。括弧の中のハイフンの後は各証明書を管理する行政団体なのですが、見てみれば分かるとおりに縦割り行政よろしく見事にばらばらで、そのためどの証明書も個人を特定して管理するためのものなのですが、たとえ一人の個人がそれらの証明書をすべて持っているとしても、それぞれの管理番号や情報は一切他の証明書と重複しておりません。それは言い換えると、それぞれの行政が全部別々に管理していて情報の共有が全くなされていないということです。

 この各証明書の管理ですが、意外に侮れません。なにせ市単位の地方自治体ともなると数万人の情報を管理することになるのでそれ相応のコストと人員を割かねばならず、しかも最近は住民基本台帳ネットワークの導入によって大分融通が利くようになりましたが、私みたいに関東に住んでいるのに本籍地が大阪の梅田一丁目の人間からすると戸籍の取り寄せが以前は非常に面倒で、パスポートの更新も一苦労でした。

 ここで私が考える国民総背番号制の使い方なのですが、私は現時点で、パスポートに記載されているパスポート番号をそのまま国民番号として流用したらどうかと考えております。パスポートは戸籍と照合されることで作られるので、同姓同名だろうと同じ誕生日であろうとほぼ間違いなく個人が混同されることはありません。そのパスポートに記載されているパスポート番号を現在すでにパスポートを発行されている方には流用し、まだ発行されていない方にはこれから作ることで、そのまま国民番号として使えるのではないかと思います。

 そうして国民すべてを識別する国民番号を作った後、今度はその番号を他の証明書番号にも徐々に統一していきます。それこそ運転免許証番号から社会保険証番号なども元パスポート番号に徐々に更新していき、最終的には番号一つで他の管理団体や証明書をすぐに照合できるような体制に整えられればと考えています。
 もちろんそこまで統一されたら他人の国民番号を利用して不正を働く者や、プライバシーの暴露などといった事件が起こるのではないかと心配に思われる方もいるでしょう。しかしここで私が強調しておきたいのは、国民番号それ自体が個人の証明になるわけではなく、あくまで各証明書の分別、管理に使われるというだけで、あくまで個人や身分を証明するのはそれぞれの証明書であって、この国民番号というのはいわばそれに付随する付箋のような扱い方というのが私の案です。

 ではどのように使うのかというと、例えばパスポートの作成申請においては従来通りに居住自治体から住民票を発行し、パスポート発行事務所に届け出ます。住民票を受け取ったパスポート発行事務所はその住民票に記載されている国民番号から自治体に個人の照合を行い、また照合を受ける自治体も連絡された国民番号からすぐに対応が出来る……という具合になるんじゃないかと、実際の業務に携わったことないから断言できませんけど。
 また社会保険などについては引越しなどによる住民票の移動があっても国民番号で照合が取れるので、以前の住所と異なっているために年金の照合が出来ないというケースはまず防止することが出来ますし、また突然交通事故にあっても運転免許証を携帯していれば社会保険証の番号をすぐに照合でき、病院での業務も効率化できるのではないかと思います。

 という具合に、私は国民番号の導入によって得られるメリットは大きいのではないかと考えております。もっともあくまでこれらは素人の勝手な構想なので実態とはかけ離れていたり、また私の予期していないデメリットも多く存在することが予想されるのでもっと議論は深める必要があると考えており、出来ることなら専門家などからも意見を聞いてみたいところです。
 さてそういうわけであれこれいろんな証明書について語ってきましたが、実はさっきから戸籍についてはあまり語っていません。理由はもちろん私がこの戸籍制度を廃止するべきだと考えているからで、結論を言えば戸籍というものをこの際、住民票と原則セットにするべきだと考えております。またも長くなってしまったので、続きは次回に。

東海村臨界事故について

 わざわざ私が書くまでもないのですがせっかくの機会ですし、あまり事実関係を知らない方もおられるかもしれないので念のために書いておくことにします。

東海村JCO臨界事故(ウィキペディア)

 十年前の今日九月三十日、茨城県の東海村にて核原料のウラン濃縮作業中に放射性物質であるウラン溶液に臨界反応が起こり、世界でも稀に見る形の原子力事故が日本で起こりました。この事件は原子力発電の原料となる濃縮ウラン溶液を製造していた私企業のJCOが呆れるまでに杜撰な管理をしていたことにより起こり、最終的に東海村の発生現場付近で大きな汚染こそ起こらなかったものの、事故発生時に現場で作業していた三人の作業員が被爆し、うち二人の方が亡くなられました。

 この事故については他のサイトでも詳しく解説されているので、もしあまりこの事故について詳細をまだ知らないという方は是非ご自分で調べてみてください。特に私が一番知ってもらいたいのは、亡くなられた二人の被爆者のその後の治療過程です。

東海村で起こった事故は今考えても恐ろしい(Power2ch)

 事故の内容についてそこそこ詳しく議論が行われているのは上記のサイトですが、真面目な話、サイト内に非常に生々しい画像も掲載されているので心臓の弱い方や免疫のない方は見ない方がよいです。
 簡単にその被爆者の方の経過について説明させていただくと、事故発生当時でこそまだ自分で会話できるなど医師も拍子抜けするほどだったのですが、その後徐々に体中の機能が低下していき、二名とも事故発生後一年を待たずに亡くなられてしまいました。またこの過程で医師や看護婦は、激痛に苦しみつつも周囲の医療機器によって生きながらえさせられている患者に対し果たして治療を続けるべきなのかどうか、自分たちの治療行為は正しいのかと何度も自問したそうです。言うなれば、安楽死をさせるべきだったのかという問いをしているのですが、正直な思いを言えば、私はこのケースにおいては安楽死を早くに認めるべきだったのではないかと思わずにはいられません。もっとも、もし自分が治療担当者であれば決断は出来なかったでしょうが。

 原子力発電、核兵器を考える上で、この東海村の事故は最低限持たねばならない知識だと私は考えております。